1945年(昭和20年)9月1日、戦時下の電波管制が解除され日本放送協会BCJの各放送局は、ほぼ戦前と同じ個別の周波数に戻り、また東京・大阪・名古屋では夜間のみですが第二放送が復活しました。
しかし米太平洋陸軍US AFPACの求めにより、日本放送協会BCJは第二放送をAFRSプログラムに提供し、日本放送協会BCJは新たに日本語第三放送(これは旧第二放送のこと)を始める方針を固めました。周波数の空き状態から第三放送(旧第二放送)は主に1260kHz以上に配置することとし、高い周波数帯を再編成することになりました。
そして1945年9月23日、米太平洋陸軍US AFPACの民間情報教育局 Civil Information and Education Section(I&EまたはCIEと表記される)のもと、日本放送協会BCJが使っていた周波数590kHzをキー局とする日本エリアのAFRS放送が正式にスタートしました。しかし9月23日に東京・大阪・名古屋・広島・熊本・仙台・札幌の7局が同時開局したかは、謎が残るところでしょう。この話題を紹介します。
戦前の本土4島および沖縄では、53の地域で日本放送協会BCJがラジオ放送を行うほか、東京・大阪・名古屋の3つの中央放送局では通常放送とは別の周波数チャンネルを使って第二放送(都市放送)も行われたが、太平洋戦争の開戦と共に中止されていた。
さらに第一放送(通常放送)は「各放送局の個別周波数」をやめて、広域エリア単位の放送局群が同じ周波数を使う「同一周波数放送」を実施していた。これは敵機B29が日本のラジオ電波を傍受して、自機の飛行位置の特定に利用されるのを防ぐためである。
終戦の時点では「同一周波数放送」体制により、中波放送用の周波数チャンネルの多くが空いたままになっており、逓信院BOCの網島課長は放送用の周波数をこんなガラ空き状態にしておくと、占領軍に周波数を没収されるに違いないと危惧したのである。
そして網島電波課長は我国が降伏文書に調印する前に、放送用電波に関しては、エリア単位の「同一周波数放送」をやめて「各放送局の個別周波数」に戻すこと、そして東京・大阪・名古屋の第二放送(都市放送)を復活させるだけでなく、新たに札幌・仙台・広島・熊本の各中央局でも第二放送を開始し、日本人のために周波数を確保することにした。少しでも多くの周波数の既得権を主張したかったのだ。
またGHQ/SCAP CCS でも紹介した通り、放送用電波を除くと、日本に割当てられた周波数の大部分を握っているのは帝国海軍と帝国陸軍の無線である。敗戦で日本の軍隊は解体させられ、その周波数を占領軍に召し上げられることが危惧された。
そこで逓信院BOCの網島電波課長は日本の海軍と陸軍の電波を、警察無線用として分配してしまう秘密作戦を展開していた。降伏文書調印式は1945年(昭和21年)9月2日で、残された時間はほとんどなかった。
1945年(昭和21年)9月1日、逓信院BOCは戦時電波管制を解除して、日本放送協会BCJ(Broadcasting Corporation of Japan)の各放送局を戦前の個別周波数に戻した。降伏文書の調印式の前日だった。
さらに東京・大阪・名古屋ではこの日の18時より第二放送を復活させたほかに、新たに仙台・熊本でも第二放送が始まった(札幌は9月3日、広島は9月10日)。
"復活する第二放送" (『朝日新聞』, 東京版, 1945年9月1日, p2)
"第二放送 けふから復活" ( 『読売新聞』, 東京版, 1945年9月1日, p2)
"高級な娯楽を 第二放送再生" (『毎日新聞』, 東京版, 1945年9月1日, p2)
(東京・大阪・名古屋地区の1945年9月1日の放送周波数)
『放送五十年史』(日本放送協会編, 1977, pp201-202)には1945年9月1日の電波管制解除を次のように記されている。
『当時逓信院電波課長であった網島毅によれば、それは、「とにかく人心は停滞しているし、食べるものもロクにないという状態なので、放送だけでも復活できるものは復活して国民に活気を与えようじゃないかというので、放送協会とも相談してやった」ものであり、その裏にはまた、占領軍の管理下に入ろうとする電波(周波数)を少しでも多く日本側に確保するというねらいもあったのである。』
東京湾の戦艦ミズーリ号で重光外相が降伏文書に調印するのが1945年9月2日で、逓信院BOCは放送用周波数の既得権確保を急いだのだった。
そして網島氏の懸念は的中し、9月2日および3日に日本の(放送局を含む)全無線局の現状固定命令が連合国から発令された(ただし建設中や修復中のものは継続作業が認められた)。まさに9月1日の電波管制解除は綱渡りの作業だった。
1945年(昭和20年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号で重光外相が降伏文書に調印する際、米太平洋陸軍US AFPACはその様子を米国民へ届けるため、短波放送設備の提供を求めた。次のような記事が見られるので引用しておく。
『アメリカ進駐軍の要求により、逓信院では海外放送の送信設備を提供。1日から連合国軍による海外放送が開始された。なお大日本放送協会の国際放送は右とは別個に平常通り行われている。』("進駐軍海外放送開始", 『朝日新聞』 東京版, 1945年9月2日, p2)
『 【ストックホルム三一日発 同盟】 ワシントン来電=ホワイト・ハウス当局は三一日次の通り発表した。米船間ミズーリの艦上で行はれる降伏調印式の模様は直接ミズーリから放送され、その後でトルーマン大統領は九分間ラジオを通じて演説を行ふ。・・・略・・・』("実況 ミズーリから放送", 『朝日新聞』 東京版, 1945年9月2日, p1)
戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式の実況中継は、第二次世界大戦の終結という世界的儀式であり、配信の失敗は絶対に許されないため、放送機材の扱いに熟練しているAFRS要員により実施されたものと想像する。AFRS要員は招集前は米国の各放送局で働いていた技術者やアナウンサー、プロデューサが多いからだ。
なお調印式の模様は日本放送協会BCJには配信されず、逓信院より提供された国際電気通信株式会社ITC(International Telecommunications Company)の短波送信施設から米国本土へ送られた。
世界的には第二次世界大戦の終結日は1945年9月2日らしいが、我々日本人には玉音放送のあった8月15日が終戦の日という想いが強いのではないだろうか。子供の頃を振り返ると、高校野球中継では8月15日の正午に黙祷があったが、新学期が始まった9月2日に先生から「今日は終戦の日ですよ」と聞いた覚えは全くない。ただ調印式の様子を記録した白黒の報道フィルムは、夏のテレビの終戦記念番組などで利用されていたので知っていた。
1945年9月2日午前9時2分、戦艦ミズーリ号の甲板で、マッカーサー元帥が開会の挨拶を述べて調印式が始まった。まず9時3分から日本側全権団として重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が、そして連合国軍を代表しマッカーサー元帥が9時8分に調印した。その後、アメリカ、中華民国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド各国の代表の署名が終わったのが9時18分だった。最後にマッカーサー元帥が神への短い祈りを述べ式典終了を宣言した。全体で23分間ほどの式典だったが、終了予定時刻に合わせてB29の大編隊が頭上に姿を見せ皆を驚かせた。
午前7時半、横浜から各国の新聞記者とカメラマンを乗せた駆逐艦2隻が戦艦ミズーリ号に到着した。ここには日本の新聞記者と映画ニュースのカメラマンも含まれる。また日本放送協会の報道記者もいたと想像するが、番組中継は許されていない。
実際、新聞各社の「ラジオ番組欄(9月2日)」を調査してみた。この時期、まだラジオの終日放送は実施されておらず、朝日新聞のラジオ番組欄によると、放送開始は昼12時15分からの『管弦楽・歌劇「ポルティーチの唖娘」序曲ほか』である。ただし読売新聞と毎日新聞のラジオ番組欄には、午前中の5時、6時、7時、11時50分の4回(おそらく1分間ほどの)天気予報が載っている。つまり朝日新聞では天気予報を「番組」として扱わなかったのだろう。
さらに読売新聞のラジオ番組欄には、午前10時「官公署の時間」とある。『ラジオ年鑑』によれば、これは空襲で各都市間の有線回線網が寸断されているため、中央と地方の官庁間の業務連絡を電波で送信する時間のようだ。
『官公署の時間 昭和二十年五月に新設され、中央官廰より各地官廰への傳送事項を放送した。之は内容の性質上書き取らせるやうに放送した。然し本種目は終戦後即ち二十一年一月に廃止された。』(日本放送協会編, "官公署の時間", 『ラジオ年鑑 昭和22年』, pp52-53, 日本放送出版協会, 1947)
伝達事項がある時に限って日本放送協会の電波を利用したのだろう。これは私達がイメージする「放送」ではなく、不通になっている有線電話の代用みたいなものである。
すなわち9月2日の午前中は、短い「天気予報」が4回と、(この日に実施されたかは不明だが)10時の「官公署の時間」だけである。私の想像だが、ミズーリ号での取材を終えた日本放送協会の記者が、横浜港から取材原稿を伝書鳩に託したとして、12時15分にスタートする「音楽番組」に先立ち、「臨時ニュース速報」として調印式の様子が伝えられたという程度ではないだろうか?
つまり降伏調印式の様子は、少なくとも我々日本人にはリアルタイムで伝えられていないのだろう。一方で9月3日の新聞各社は、降伏文書調印式の様子を写真入りで大々的に報じている。8月15日の玉音放送は日本放送協会が大活躍したが、9月2日の調印式典報道は新聞メディアが主体となり大きく報じている。
調印式の現場である日本ではラジオ中継されなかったとして、米国ではどうだったのだろうか。まず時間関係を確認すると日本時間の9月2日午前9時は、米西海岸ロサンゼルスで9月1日午後5時、ワシントンD.C. や東海岸ニューヨークだと9月1日午後8時である。
以下のような記述が散見される。
『同盟通信社記者を含め連合国特派員など315名が取材、調印式の模様は通信艦船アンコン号から全世界に放送。』(NHK放送文化調査研究所放送情報調査部, 『GHQ文書による占領期放送史年表』, 1987.3, p13)これについての典拠文献はNew York Times紙(Sep.2, 3, 5)とのことだ。私はこれはアンコン号で取材したという意味で、ここからライブ放送していないと思っている。
調印式は9月2日午前9時(日本時間)から始まった。米本土のホワイト・ハウスの時刻は9月1日午後8時(東部戦時時間EWT)である。ホワイトハウスの放送室からトルーマン大統領の勝利の演説を中継したのはCBSネットワークだった。
米国でのトルーマン大統領による終戦特別番組は、東京湾の調印式よりおよそ2時間後の(米東部戦時時間の)9月1日午後9時56分からの約9分間、放送されたようだ。Truman Library Institute(トルーマン図書館研究所)のWEBサイトには以下の記述が見られる。
『Listen to President Truman’s radio address to the American people after the signing of the terms of unconditional surrender. His message was broadcast by CBS at 9:56 p.m. on September 2, 1945. 』(注:9月1日の誤記と想像する)
ラジオを通じて米大統領がVJデイ(Victory over Japan Day )を宣言したという。
『トルーマン大統領二日朝ミズーリ艦上の降伏調印式の直後ラジオ演説を行ひ、日本が正式に降伏した九月二日を「対日戦勝利の日」(VJデー)と宣言し、次の通り述べた。
VJデイは未だ戦争の終結乃至は戦闘の停止を正式に宣言した日とはならないが、われわれが汚名の日(真珠湾の日)を記憶するやうに、この日を「返報の日」として記憶するであらう。この日からわれわれは安全の新時代を迎へる。・・・以下略・・・』(辻清明編, "日本降伏についての米大統領声明", 『資料・戦後二十年史 第一』, 1966, 日本評論社, p629)
調印式が始まったのは米西海岸時間では午後5時だったため、みんなが聴取しやすいように2時間遅れで大統領の演説を放送したと想像する。
さらに翌9月2日の(米東部戦時時間)午後9時19分からの5分間ほど調印式でのマッカーサー元帥の閉幕演説がラジオ放送されている。
『今日、大砲は沈黙している。大悲劇は終わった。大いなる勝利が得られた。空はもはや死を降らせない。・・・後略・・・』(ウィリアム・マンチェスター著, 鈴木主税/高山圭訳, 『ダグラス・マッカーサー・下』, 1985, 河出書房新社, p101)
我国の対米国際電話の短波回線の再開は1945年12月8日より試験が始まり、正式開通は1946年1月11日である。したがってこの時点ではまだ音声素材を短波で米国へ送れなかったはずだ。式典当日プレス関係者のために用意された艦船アンコン号の短波送信設備で、伝搬状態の良い時間帯を気長に待ちながら米国へ送信したのかも知れないが、そんな不確実な手段ではなく、降伏式典音声の録音盤をただちに米国へ空輸し、翌9月2日夜のラジオ番組でオンエアーしたと考えるほうが現実的ではないだろうか。
あと国際放送中継回線PTS(Program Transmission Service)の前身である渉外局PRO(Public Relation Office)の連絡回線を用いて、名崎送信所から米国へ送信された可能性もあるだろう。一般の対米国際電話の再開より5ヶ月も早い8月30日には、サンフランシスコへ音声短波回線(電話回線)が特別に開かれていたからだ。
『PTS(Program Transmission Service)の前身であるPRO(Public Relation Office)の開始されたのは前述の電信連絡(8/30に再開された小山送信所の対米電信回線のこと)と同日の(昭和)20年8月30日で、横浜のマッカーサー司令部(GHQ/US AFPAC)よりサンフランシスコ(RCA会社)へ向けて放送(送信所は名崎)されたのが初めてである。以後司令部の東京移転(GHQ/SCAP)と共に東京に移り、(昭和)22年1月3日より新たにPTSと呼ばれ、(昭和)24年9月19日には(RCAから)ATT会社に引き継がれ、現在に及んでいる。』(郵政省電波監理局編, ”国際無線回線”, 『電波時報』, 1954年6月号, 電波振興会, p66)
PTS(PRO)とは報道記者専用の短波音声中継業務(国際電気通信株式会社の名崎送信所)で、進駐先遣隊の口頭司令で、8月30日より運用が始まった。この回線を経由して、9月2日の式典記録音声を送ったかもしれない。
『放送会社等が、日本または外国において放送する事項を国際電話回線を通じてその機関相互間で送る場合、この中継業務を国際放送中継業務、通称PTS(Program Transmission Service)という。この業務は太平洋戦争の集結に当たり、占領軍とともに入国してきた放送会社特派員が本国へニュースを送るため、連合国軍総司令部の口頭指令により昭和20年8月30日、・・・略・・・名崎送信所を通して米国サンフランシスコ(RCA)向けにPTS専用回線を開設したのが初めである。』(日本電信電話公社電信電話事業史編集委員会編, 『電信電話事業史 第6巻』, 1959, 電気通信協会. p664)
『(PTSとは)終戦後、連合軍の命令で開設された特殊業務で、日本駐在アメリカ放送会社の取材記者がものしたニュースを、桑港(サンフランシスコ)中継で米国内に放送する業務であって、利用者はCBS・NBC・ABCの三大放送会社である。』(電気通信省国際通信省, ”朝鮮動乱と国際通信:目覚し!国際報道陣の活躍”, 『国際電気通信』, 1950年7月号, 東京海外通信懇話会, p14 )
日本放送協会BCJの役務提供を受けての進駐軍放送AFRSが開局したのは1945年(昭和20年)9月23日である。しかしこれとは別にフィリピン方面からの上陸部隊が「Mobile Unit(送信機と放送機材を揃えた移動式放送トラック)でAFRS放送が行われていた」という元兵士達の回想記録が(20年ぐらい前までは)WEB上で散見された。
いまや進駐軍関係者のほとんどが亡くなられ、そういうWEBページは壊滅状態だが、現在もアクセス可能なサイトを2つ紹介する。
サイト1「Old Tokyo」
『Mobile AFRS detachments from Manila followed quickly on the heels of SCAP General Douglas MacArthur’s arrival in Japan at Atsugi on August 30, 1945 to begin the first radio broadcasts from Occupied Japan (1945-1952) beginning September 1 from locations in Fukuoka and Kure. 』
1945年(昭和20年)8月30日にマッカーサー元帥が厚木に到着した直後に、"Mobile AFRS detachments"(AFRS移動放送分遣隊)も日本にやって来て、9月1日に占領下の日本で最初のAFRS放送を福岡と小倉で実施したとある。
つまりAFRS移動放送分遣隊は8月30日(または31日)に日本に到着し、8月31日に日本放送協会BCJの放送設備を役務提供せよと口頭命令して、9月2日の東京湾上の戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印式の模様を米国本土へ送信するのが任務だったと考えれば、辻褄は非常によく合う。前ページ(AFRS 1945年8月)参照
なお一説によれば、9月2日に横浜港からAFRS移動放送分遣隊が、AFRS放送したとも伝えられるが、私には確証が得られていない。
また8月30日(または31日)に(たぶん横浜港に)来たAFRS移動放送分遣隊が、9月1日に福岡や小倉で放送活動するのは無理である(これが事実ならAFRSの別部隊の活動か)。それに米軍の九州への初上陸は、次に紹介する9月4日の鹿児島県金谷(金野海岸)なので、もし9月1日に福岡や小倉での放送があったのなら、それは沖合いの米艦船からの放送であろう。
サイト2「Radio Heritage Foundation」
『When Japan formally surrendered in 1945, several mobile units of the AFRS were reportedly already on Kyushu. These were the same mobile units that had previously broadcast throughout the island hopping campaign from as far south as the Solomon Islands and New Guinea, had then served in the Philippines, and were now on mainland Japan. 』
米軍は終戦でフィリピンと沖縄にいる部隊と機材を東京方面へ運ぶ際の中間給油地として、鹿児島県にある(神風特攻隊の出撃地としても知られる)海軍金谷基地を欲していた。
1945年(昭和20年)9月3日、鹿児島県金谷の金浜海岸沖に接収部隊が終結し、翌9月4日より約2,500名の米兵が上陸を開始した。また9月10日には第5海兵師団(5th Marine Division)の先遣隊が長崎県の佐世保に上陸している。
こういった地域で(9月23日のBCJ施設を使ったAFRS放送が始まる前のホンの一時期)野戦放送用のトラックを用いて、ごく小エリアでアンオフィシャルな放送があった可能性は否定できないが、それを裏付ける資料が発掘できてないのが実情である。
日本でAFRSが始まったことは直ちにアメリカでも業界誌Broadcasting("American Troops Hearing Broadcast From Mobile Units", 9月24日号, p34)で報じられた。
Broadcasting誌は週刊なので、この号ではまだ「BCJによるAFRS放送」が始まったことは報じられていない。それ以前の記事だ。そういう意味ではごく初期の日本のAFRSを扱った非常に貴重な報道だが、その内容にはやや疑問が残る。 記事では日本では東京、長崎、大阪、青森、京城(ソウル)の5カ所で防音を施したスタジオ装備の移動放送車両によるAFRS放送が行われており、最終的に17局を計画していると報じている
『American occupation troops in Japan are already hearing AFRS broadcasts from five mobile stations activated in Tokyo, Nagasaki, Osaka, Aomori, and Keijo (Korea). Stations, mounted in trucks originally used for Ordnance Repair, were resonstructed with sound-proof studios, specially fitted controls and carry their own generating equipment. With installation of permanent facilities, the "air-on-wheels" studios will be taken to other areas. Scheduled for Japan are 17 AFRS stations. 』
しかしこの5カ所で移動車によるAFRS放送が先行していたといわれても、にわかに信じ難い。
この5カ所は、前ページ(AFRS 1945年8月)で紹介したAFRSの当初計画のPhase1そのもので、なおさらそう感じるのだ。
番組は空軍による録音盤の空輸およびサンフランシスコのAFRS本部の短波放送局から送信されるものを無線中継する。
『Supplied with two months entertainment, backlogged, of transcribed programs from AFRS Los Angeles, permanent stations will soon be placed on regular circuits flown by the Air Transport Command. Two AFRS San Francisco shortwave transmitters are beaming news, special events, and sports programs to the mobile stations for rebroadcast. 』
特に目新しい情報は無いが、記事の最後に興味を引かれる記述がある。この移動放送車はUS AFPACのダイク大佐(Col. Dyke)やベップル少佐(Maj. Boepple)らが、敵地へ上陸後30分間以内に放送を開始できるよう考案したものだという。
『Concept of mobile stations was blue-printed several months ago by Col. Ken Dyke, Lt. Col. Ted Sherdeman, Maj. Graf Boepple and Capt. Harmon Nelson. Original homeland invasion plans called for mobile stations to be landed between D-Day and D plus 15, and were scheduled to go into operation on beachheads within 30 minutes after landing. Station personnel including one officer and six enlisted men for each station unit, were also trained as Infantry troops. 』
敵地上陸後30分以内に開局するのがAFRSの本来的な役割であるならば、上陸直後の8月末か9月上旬には各上陸地点で移動放送車による放送があったとしても、何ら不思議なことではないだろう。
しかし進駐初期(8月末~9月上旬)において、移動放送車を使ったAFRS放送活動が本当に実施されたかの調査は、80年近く経過した今となっては極め困難である。本サイトでは(そういう放送が行われた可能性を否定しないが)これ以上扱わないことにした。
9月6日より1週間、AFRS部隊が日本放送協会BCJの電波を使用しメッセージを放送した。
『9. 6(木) GHQ,日本各地の連合軍捕虜に対して「しばらく収容所内にとどまって救出を待て」との司令をNHK第7スタジオから英語で放送。その後1週間毎日横浜のAFRSから放送(12:30~13:30)。』(NHK放送文化調査研究所放送情報調査部, 『GHQ文書による占領期放送史年表』, 1987.3, p14)
1945年(昭和20年)9月8日、帝都東京への米太平洋陸軍US AFPACの進駐が始まった。9月8日に第一騎兵師団(1st Cavalry Division)が東京都東半分(含む埼玉県南東部)を、9月10日にアメリカル師団(Americal Division)が東京都西半分(含む神奈川県東部および埼玉県南西部)を占領した。両師団の上位部隊はUS AFPACの第八軍だ。
米太平洋陸軍US AFPAC, OC SigOの計画運用課P&O(Planning and Operation Division)は日本に進駐する部隊員向けの放送サービスの実現検討に入るとともに、日本放送協会BCJの放送会館の事務室やスタジオ施設などの接収が段階的に進められた。
1945年9月13日にP&Oは内幸町の放送会館で、逓信院BOCと日本放送協会BCJから戦災による各地の放送施設のダメージなどの説明を受け、国際電気通信株式会社ITCの名崎・八俣・多摩・足柄送信所からの放送中継(短波)が可能であることを確認した。そのほか川内(鹿児島県)・高知・姫路・津・水戸・釜石中継局は戦災で運用停止中。名古屋と広島の中央放送局はスタジオ施設が被災していたが、特に広島放送局で予定している第二放送設備は音声周りが被災し使えない状況であると報告された。
US AFPAC計画運用課P&Oは翌14日に、この会議録"Japanese Broadcasting Facilities" をまとめた(下図)。日本側の出席者としては、宝田、宇田、柴橋(白橋?)、yukihi?o、杉山、桃塚、近藤、そして通訳の三浦氏らの名前が見える。
以下に日本放送協会BCJから提出された電波管制解除直後の放送局リストを掲げる。
【注1】左図の5行目では盛岡を(弘前の)840とミスタイプし、Moriokaの上からHirosakiを重ねているが、戦前通り盛岡は1040kc、弘前は840kcだと推定する。
また下から3~8行目の大館Odate・若松Wakamatsu・平Taira・鶴岡Turuoka・宮古Miyako(建設中)・八戸Hachinoheは、同時期のBCJよりAFPACへの提出資料 "Coverage Map of the Broadcasting Corporation of Japan" からもRelay Stationが正解であることを確認。
【注2】左図の下から5行目の高松がRelay Station(中継局)ではなく、Station(放送局)と記されている。高松局の昇格は9月7日なので、本資料は1945年9月7日~9月13日頃の状況をBCJ, BOCがUS AFPAC, P&Oへ報告したものと考えらる。
東京・大阪・名古屋以外の第二放送は札幌・仙台でいち早く立ち上がったが、広島は電波(キャリア)は出せるが音声施設の被災で放送出来ない状況、熊本はまだ放送準備中だった。
高知放送局(JORK, 720kc)、姫路中継局(1190kc)はこのリストにはあるが戦災により停波中で、同じく停止波中の川内(鹿児島)・津・桐生・宇部の各中継局はリストからも除かれた(川内中継局はのちに復活)。
under construction と記されたのは被災した上野・宇和島・水戸・長岡と、新設される益田・舞鶴・佐世保・中村・宮古・延岡の計10中継局だが(尾鷲もそうかも知れない)、まだ終戦から1ヶ月の時点であることから計画だけで着手していないものも含まれると想像する。なにぶんSCAPから9月2, 3日に発せられた全無線局の現状固定命令があるため、「建設中」(現状固定の発令前から着手済み)ということにしなければならない事情もあったからだ。
このリストの制作者は日本放送協会BCJ(または逓信院BOC)、受領者は米太平洋陸軍US AFPAC、9月13日の会議のために用意されたものだと、素性がはっきりしている。そのうえ戦後の電波管制解除(9月1日)直後における、我国の放送電波の現況を示す唯一の公式資料かもしれない。
参考までに見やすいように私が書き直してみた(下記)。
バックカラー黄:中央局、緑:第二放送、青:地方局、茶:中継局、白:建設中
Remarks欄の(ex・・・)は筆者による戦前の外地局を参考までに追記したもの
Station名が赤文字は開戦前の周波数への復帰ではないと思われるものに私が付けた
1945年(昭和20年)9月17日に米太平洋陸軍US AFPAC総司令部が横浜から東京へ移った。9月20日、US AFPACの計画運用課P&Oは日本と南朝鮮エリアにおけるAFRSサービスについて、日本の現状説明と共に実現可能なプランを示した。
このドキュメントではAFRSの究極の目的は駐留している全ての軍人に毎日18時間の放送を提供することにあるとしながらも、BCJの放送施設では真空管などの保守部品の確保にも事欠くという現実を考慮し、当面は必要最小限に抑えた現実路線をとる必要があるとした。
日本の事情を考慮した最初の「AFRS計画案」なので、読みやすいように下に書き出した。
GENERAL HEADQUARTERS
UNITED STATES ARMY FORCES, PACIFIC
Office of the Chief Signal Officer
Planning & Operations Division
ADVANCE ECHELON
APO 500
20 September 45
SUBJECT: Employment of Japanese Domestic Broadcast Stations for Armed Force Radio Service Programs.
MEMO TO: Colonel Guest.
SUMMARY:
There is a need for a radio broadcast service to the occupation troops. The Japanese Broadcasting system provides a nation wide service supplemented by a secondary network with stations in major metropolitan areas. The immediate needs of the Armed Forces Radio Service are analyzed in this memorandum. It is concluded that no substantial interference to the dissemination of information to the Japanese people by the initial use and establishment of the following facilities: Employment of the No.2 stations in Tokyo, Osaka, Kumamoto, Sendai, Sapporo, and Keijo supplemented by AFRS Stations in Sasebo, Aomori, and Yawata. All stations will carry a common program service originated in Tokyo. An initial minimum schedule of 6:30-8:30, A.M., 11:00 A.M.-2:00 P.M. and 4:30-11:00 P.M. over the outlying stations is proposed, (Total: 11.5 hours/day), and an 18 hour/day schedule over JOAK No.2 in Tokyo.
1. There is an immediate requirement for radio broadcast service to the occupation troops now in the Japanese Islands and Korea. However, this requirement should not conflict with the prime requirement for broadcasting of information to the Japanese People in order to further the aims of occupation.
2. The prime objective of the Japanese domestic broadcasting service is to provide one service to all of the population (See attached list of stations). A dual broadcast service is provided in the following areas:
a. Tokyo
b. Sapporo
c. Sendai
d. Nagoya
e. Osaka
f. Hiroshima
g. kumamoto
h. Keijo (Korea)
All of these stations are operating with 10 KW power. Programs for these stations may be originated in Tokyo and distributed by landline and H.F. radio. At the present time these stations carry musical programs and duplicate the primary network for important programs from 6 to 10 P.M.
3. The Japanese Broadcasting Corporation facilities on the whole are intact. The following minor stations are not in operation at the present time: Sendai (Kyushu), Kochi, Himeji, Tsu, Kamaishi, and the studios of the Hiroshima and Nagoya stations (transmitters carry Tokyo programs).
4. The Japanese have a substantial problem insofar as trained operating personnel and operating spares, especially tubes, and all of the equipment suffers from lack of maintenance. In view of this any U.S. Army needs should be scaled down to minimum initial requirements until Japanese stockpiles and manufacturing possibilities are thoroughly investigated.
5. The ultimate objective of the Armed Force Radio Service is to provide 18 hour per day services to all of the occupation troops. The first phase requirement is to provide broadcast service in the following areas.
Sixth Army
Sasebo-Nagasaki, Base: Yawata
Osaka-Kyoto-Kobe, Base: Osaka
Eighth Army
Kanto Plain (Tokyo), Base: Yokohama
Aomori-Ominato, Base: Ominato
24the Corps
Keijo (Korea), Base: Jinsen
6. The 10KW secondary stations will provide the signal strengths of the order indicated at the localities listed in paragraph 5. (For satisfactory service 0.5 mv/m is required in rural areas and 2.0mv/m in urban areas).
Sasebo – 0.2 mv/m (marginal) from Kumamoto
Nagasaki 0.5 mv/m from Kumamoto
Yawata – no useful signal from any secondary network station
Tokyo – Yokohama – good service from JOAK No.2
Aomori – Ominato – negligible signal from Sendai
7. The Armed Forces Radio Service has equipment and program and technical crews in Japan for five stations. Four of these stations have a power of 300 watts (BC-610) and one of 50 watts power.
8. It is feasible to initiate an AFRS program service by the following:
a. Initiate AFRS program service from Radio Tokyo by means of recorded program material supplemented by U.S. News Broadcasts received through the Komuro receiving station.
b. In order to conserve personnel and materials, initiate a minimum service for the following periods:
6:30 – 8:30 A.M., 11:00-2:00 P.M., 4:30-11:00 P.M. with 18 hours/day operation in Tokyo. (This schedule has been agreed upon by representatives of the AFRS (Major Boepple) as a compromise arrangement).
c. Carry AFRS Tokyo – originated programs over the No.2 stations in Tokyo, Osaka, Sendai, and Kumamoto, Sapporo and Keijo, (Nagoya, Hiroshima, Sapporo to be added to the network when troops arrive in these areas).
d. In the areas where coverage is not obtained from the secondary Japanese stations install AFRS equipment as follows:
Sasebo
Yawata
Aomori (will also serve Ominato)
These stations will obtain programs from Tokyo by H.F. radio or wirelines.
e. After plans of initial operation are put into effect, plans can be made for more complete AFRS coverage as the occupation is completed.
9. It is recommended that a meeting be held with representatives of Japanese Ministry of Communications and the Broadcasting Corporation of Japan to determine the following:
a. Present and projected Japanese use of Secondary Network.
b. Availability of personnel, facilities and operating spares for AFRS Operating Schedules.
c. Any conflicts, resulting from AFRS operation, with the broadcast service for Japanese people.
Prepared by:
WILLIAM C. BOESE
Major, Signal Corps
1 Incl: Station List
(in dup)
Concurred in by:
Grat A. BOEPPLE
Major, QMC
Armed Forces Radio Service
冒頭パラグラフ1、2において、日本および朝鮮での早急なAFRS放送の開始が望まれるが、日本の放送の第一の目的はすべての人に番組を届けることであって、AFRS放送がそれと競合すべきではないとの基本方針を示すことから始まった。そして主要8都市では放送が二重化され、東京キー局から有線中継または短波中継でされて10kWで放送しているとした。
パラグラフ3では大半のBCJ施設は無傷だが、川内・高知・姫路・津・釜石の中継局は被災し停波中で、広島と名古屋はスタジオが被災していると現状を記した。パラグラフ4では運用要員の訓練や、施設の保守部品(特に真空管)が足りず、そのメンテナンスにとても苦労していると述べ、今後これらの保守部品の保有量や調達能力が見極められるまでは、AFRSの当初計画は必要最低限のものへ縮小すべきだとした。
パラグラフ5が当初策定されたPhase 1 の放送プランで、パラグラフ6ではそのエリアにおける最寄のBCJ中央局からの電界強度で、実用性に難があることを示した。パラグラフ7ではAFRSは50W送信機1台と、BC-610型送信機(300W)4台と、その運用要員を擁していると述べた。
そしてパラグラフ8が修正された現実的な実行計画である。
a) 小室短波受信所(埼玉, 現日本薬科大)でアメリカからの素材を受取り、それを放送する。
b) 人材や資材低減を考慮し、06:30-08:30, 11:00-14:00, 16:30-23:00 でAFRSを運用する(東京だけは18時間/日)。
c) 東京・大阪・熊本・仙台・札幌・京城の第二放送施設で開局する。戦災の影響が甚大な名古屋・広島・(札幌?)は進駐時に開設する(つまりBCJの日本語第二放送を中止させ、AFRS英語放送へ提供させることにした)。
d) 佐世保・八幡・青森(大湊)ではAFRSの自前放送施設を設置し、有線中継線を敷設させるか短波帯中継回線を用意させる。
e) このあとで本来やりたかったAFRS網について考える。
最後のパラグラフ9では早急に逓信院BOCや日本放送協会BCJと協議することとして結んだ。(最後に添付書類 "Station List" とあるものは、9月13日の合同会議で入手したBCJの放送局リストを基にしたもの。)
【参考ページ】JO Callsigns (壊滅状態の有線中継線と短波帯中継線の話題)
9月22日には太平洋陸軍US AFPAC一般命令第183号が発せられ、太平洋陸軍総司令部GHQ/US AFPAC内に民間情報教育局CIE(Civil Information and Education Section)が設置された。CIE設置の目的は放送・新聞・出版・映画演劇・教育・宗教・その他の社会学的問題に関する日本の占領施策をSCAP(マッカーサー元帥)に助言することである。
もともと太平洋陸軍US AFPAC内には情報教育局I&Eがあったが、これは軍内を対象とする組織として残し、今回は日本人を対象とする組織を新設した。"Civil(民間)" の文字を冠し、CIEとした。そのためC向け(民間向け)のI&Eで「CI&E」と表記することもある。その場合には対比上、T向け(Troop:軍隊向け)のI&Eで「TI&E」と表される。
日本放送協会BCJはCIE(CI&E)の指揮下に置かれたが、AFRS放送はI&E(TI&E)指揮下の組織である。なおこれまでの習慣上からCIEをI&Eと表記されることも多い。
なお後述するがCIEは10月2日に連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPの設置にともない、太平洋陸軍総司令部GHQ/US AFPAC からGHQ/SCAPへ移管された。
戦前に東京(JOAK, 870kc, 10kW)・大阪(JOBK, 940kc, 10kW)・名古屋(JOCK, 990kc, 3kW)で「都市放送」は「第二放送」という名で再開したほか、札幌(JOIK, 1200kc, 10kW)・仙台(JOHK, 1140kc, 10kW)でも「第二放送」が始まった。
さらに熊本(JOGK, 1170kc, 10kW)と被災修復中の広島(JOFK, 1230kW, 10kW)でも「第二放送」を開始せんと鋭意作業が進められていた。
そこへUS AFPAC, AFRSより「第二放送」の施設と、その「中継網」の提供を求められ日本放送協会BCJは、日本語の第二放送を「第三放送」と改名し建設検討に入った。
一番の問題はその周波数の捻出である。先日1100kc以上の周波数を全国の放送中継局に分配したばかりだったが、さっそく見直しが行われた。
左図は電波管制解除後の1100kc以上の周波数と放送局だ(9月13日会議資料)。左側の赤字がAFRSから提供を求められた電波(仙台第二・札幌第二・広島第二)で、青字が今回新設しようとしているBCJ第三放送の周波数である。
【注】バックカラー黄:中央局、緑:第二放送、青:地方局、茶:中継局、白:建設中
たとえば1260kcを東京第三放送に割り当てるには、現在1260kcを使っている新宮中継局をどこかへ移さなければならない。同様に1310kcを大阪第三放送に割り当てるには、1310kcを使用中の鴨川中継局と建設中の宇和島中継局を移動させる必要があった。
この図以外にも、佐世保・八幡・青森にはAFRSが自前設備で放送を開始すると通告されているので、それに対する専用周波数の確保と、東京のAFRS番組を現地まで運ぶ中継網をBCJが整備する必要があった。さらに今後、進駐エリアが拡大するともっと多くの周波数を要求されるため、小電力のBCJ中継局3~4局でひとつの周波数を共用することが検討された。
米太平洋陸軍US AFPACは日本放送協会BCJ中央局の第二放送ネットワーク(放送中継網)を用いてAFRSネットワーク(放送中継網)を立ち上げようとした。
しかしBCJとしては日本語番組を拡充するために、第二放送的なものをあきらめたくなかった。そこで1945年9月22日、新たな日本語第三放送を始める事を決めた。翌23日の大手紙はこれを報じた。
"「第三放送」 を開設"(『朝日新聞』東京版, 1945年9月23日,p2)から引用する。
『大日本放送協会では二十三日から第二放送が連合軍将兵向放送として連合軍独自のプログラムで放送されることとなったので従来の第二放送に当たる第三放送を設けることになった。これは当分東京、大阪、名古屋の三局のみで東京は一二六〇キロサイクル、大阪は一三一〇キロサイクル、名古屋は一三四〇キロサイクルである。』
第二放送をAFRSに取られてしまうので、BCJは周波数1260kc(東京), 1310kc(大阪), 1340kc(名古屋)で日本語番組を行い、この日本語放送のことを「第三放送」(従来のBCJ第二放送)と呼ぶことにした。つまり第一がBCJ日本語放送で、第二がAFRS英語放送になり、第三を設けてBCJの日本語別番組を放送するということだ。なお札幌と仙台は予備施設による第三放送へ切り替えるために一旦(従来のBCJ第二)放送を終了したようだ。
再び引用する。
『進駐軍将兵向放送は従来の第二放送と同じ波長で、朝六時半より夜十一時迄・・・(略)・・・、地方では午前八時半から十一時、午後二時から四時、八時から十一時にこれが聞こえることになる。』
"ラジオ 第三放送 を開始 第二放送は進駐軍慰安に提供" ( 『読売新聞』東京版, 1945年9月23日,p2)からも引用する。
『・・・目下第一、第二放送に分けて音楽演奏等を放送しつつあるが、米進駐軍の拡充とともに進駐軍慰安放送が当然望まれることを考慮し、・・・(略)・・・近く第二放送の電波を進駐軍慰安のために提供する。これに伴ひ従来の第一放送の終了時間を卅分乃至一時間延長して一般向番組を強化する一方、第二放送に代わるに第三放送を設置して、今まで第二放送聴取不能の地方にもこの第三放送が聴取出来るやうな施設方針なりいよいよ廿三日より「第三放送時代」が出現する。第三放送のサイクルは東京一二六〇、大阪一三一〇、名古屋一三四〇キロである。』
"第二放送は米軍向け" (『毎日新聞』東京版, 1945年9月23日, p2)から引用する。
『マッカーサー総司令部では駐屯軍将兵慰安のため・・・(略)・・・日本放送協会では従来の第二放送の波長をこれにゆづって新しく第三放送を設けることになった。第三放送の波長は東京一二六〇キロサイクル、大阪一三一〇キロサイクル、名古屋一三四〇キロサイクルで、その他の局は逐次実施する。』
日本語「第二放送」の中止対策として、第一放送の終了時間の延長と、日本語「第三放送」の設置が決まった。
ところで従来の日本語「第二放送」を「第三放送」とわざわざ呼び換えずに、AFRSの方を「第三放送」と呼べば済むことだが、US AFPACが「第二放送」をよこせと言ってるので、BCJ側が同調して日本語第二放送を「第三放送」を名乗るしかなかったのだろう。
(1945年9月22日にBCJで決定した、東京・大阪・名古屋地区の放送)
BCJの日本語「第三放送」の実施が決まった1945年9月22日、太平洋陸軍US AFPAC総司令部は配下の第八軍(東日本担当)と第六軍(西日本担当)にAFRSの放送開始の許可を出した。
まず東日本の占領を担当した第8軍への電文(ZAX-5861)から見てみよう。太平洋陸軍の前方部隊(日本)から第8軍指揮官CGへの司令であり、マニラに残る太平洋陸軍へも情報が共有されている。
電報文は読みづらい。誤読防止のために全て大文字で、アラビア数字は用いずにアルファベットで綴られるし、さらにカンマやピリオドをCMA, PDと略表記したり、ThroughをTHRUとする略語が頻出するからだ。
本文中央部分を分かりやすく小文字も使いながら書き改めてみた。(CLM単語が私には意味不明。とりあえずカラム=改行?として書き出した。)
GENERAL HEADQUARTERS
UNITED STATESARMY FORCES, PACIFIC
OUTGOING MESSAGE
22 SEPTEMBER 1945
FROM : CINC AFPAC ADVANCE ECHELON
TO : CG EIGHTH ARMY .... ACTION .... PRIORITY
CINC AFPAC MANILA .... INFO .... PRIORITY
PAREN pass to I & E officer PAREN (ZAX-5861) Aemed Force Radio will imaugurats service to Eighth Army troops in following areas Sunday 23 September
Tokyo ー Yokohama on 590kc from 0630 through 2300 hours, Sendai ー Sapporo on 1140kc from 0630 through 0830 hours, 1100 through 1400 hours and 1630 through 2300 hours
Official:
Approved by:
B. M. Fitch
Edvin D. Dodd
Brlgadier General, U.S. Army
Captain, QMC
Adjutant General
I & E section
Copy to:
I & E comeback
US AFPAC総司令部は大阪と名古屋では第二放送の周波数を指示したが、東京は第一放送の周波数590kcを指定している。
次に西日本の占領を担当した第6軍への9月22日付けの電文(ZAX-5863)を紹介する。
これも見やすいよう、書き改めようとしたが、後半の佐世保、八幡、福岡に関する部分は読み取れず、意味が分からなかった。なお最後は来週、AFRS部隊のベップル大佐らが第6軍司令部を訪問すると伝えているようだ。
GENERAL HEADQUARTERS
UNITED STATESARMY FORCES, PACIFIC
OUTGOING MESSAGE
22 SEPTEMBER 1945
FROM : CINC AFPAC ADVANCE ECHELON
TO : CG EIGHTH ARMY .... ACTION .... PRIORITY
CINC AFPAC MANILA .... INFO .... PRIORITY
PAREN pass to I & E officer PAREN (ZAX-5863) Aemed Force Radio will imaugurats service to Sixth Army troops in following areas Sunday 23 September
Nagasaki through JOGK Kumamoto on 1170kc, Osaka, Kyoto, Kobe through JOBK Osaka on 940kc, Hiroshima ー Kure through JOFK Hiroshima on 1230kc and Nagoya on JOCK 990kc. Broadcast hours 0630 through 0830, 1100 through 1400, 1630 through 2300.
Su〇〇 Ludwig locate Sasebo, Smithers locate Yawata, Lemond locate Fukuoka. Kendall and Boepple will meet you next week sixth army HQs
Official:
Approved by:
B. M. Fitch
Edvin D. Dodd
Brlgadier General, U.S. Army
Captain, QMC
Adjutant General
I & E section
Copy to:
I & E comeback
(赤文字が1945年9月22日にUS AFPAC総司令部から出されたAFRSの周波数)
熊本はまだ第二放送を実施していなかったが、準備中の1230kc の接収を指示している。これは9月13日のBOC, BCJとのミーティングで、熊本第二の予定周波数の情報を得たからだ。
Sep. 23, 1945 ・・・ 突然の「第三放送」中止
しかし翌9月24日の朝日新聞で、以下の様な報道がなされた。
◆"「第三放送」 取止め" ( 朝日新聞,東京版, Sep.24,1945,p2)
以下引用する。
『大日本放送協会では二十三日から第二放送を連合軍将兵向放送とするため第三放送を設けることに二十二日決定したが、その後連合軍将兵向には第一放送の波長をそのまま提供し、従来の第二放送は波長を変更してそのまま存続することとした。したがって第三放送なる名称の使用は取止めとなった。』
BCJはJOAK第二放送の870kc をAFRSへ空け渡すよう言われていたのに、米太平洋軍US AFPAC総司令部が第八軍Eighthへ出した指令(ZAX-5861)は「JOAKの第一放送の590kcをAFRSに使え」だった。US AFPACの総司令官はマッカーサー元帥であり、またSCAP(連合国最高司令官)を兼務している。当然BCJや逓信院BOCにこれを拒否する権限などなく、1945年9月23日午前6時30分にAFRSの東京キー局は周波数590kcにて開局したのである。
居場所がなくなったのがBCJの第一放送だった。9月1日にやっと古巣の590kcに戻ってこれたのに、わずか23日目にしてこの周波数を追い出されてしまった。結局『従来の第二放送は波長を変更し・・・』と朝日新聞の記事にあるように、第二放送を(今回第三放送用に確保した)1260kcへ周波数変更して、870kcには第一放送が引っ越してきた。なおこの記事では第三放送という名称を使うのは取り止めになったとしているが、大阪などの地方については一切触れていない。 また朝日新聞大阪版ではこの件をまったく扱っていない。
Sep. 23, 1945 ・・・進駐軍放送AFRSが開始
左図はUS AFPACの情報教育局I&E(Information and Education Section)の9月23日付けの書類である(クリックで拡大)。
『Armed Forces Radio inaugurated service to troops in the Tokyo-Yokohama area Sunday, 23 September at 0630 hours on a frequency of 590 Kilocycles. The Tokyo station will be on the air daily from 0630 hours to 2100 hours.』
この書類には東京-横浜エリアにおいて、9月23日の朝6時30分より周波数590kcにてAFRS放送を開始したと記されている。しかしこれには宛名も件名もないので、プレス発表用か局内の広報用に使ったものだったのだろうか?
【感想】何やら宛先を消した跡のように見える部分も気になるが・・・
1945年9月24日付けNew York Times紙(アメリカ)は、9月23日東京発UP伝として、朝06:30より日本の主要7都市でAFRS放送が始まった。順次開局し17局まで増やすと報道した。
東京(WVTR)から地方への番組報道は、戦災により有線通信回線の信頼性が著しく低下していたため、この日から国際電気通信ITCの多摩送信所(JLG4, 7552.5kHz, 20kW)と、名崎送信所(JLP, 9605kHz, 20kW)の短波中継回線が役務提供された。なおこの資料では放送は毎朝6時30分から夜21時00分までとあり、WVTRの開局当初は23時までの放送ではなかったようだ。
1945年10月4日、US AFPAC I&E から第六軍への電報(ZAX-6513)には『・・・ Friday 5 October, Broadcast hours on the Armed Forces Radio Network will be from 0630 to 2300 hours with transmitter rest, from 1600 to 1630 hours・・・』とあるので、10月5日より朝6時半から夜23時(停波中断:16時から16時半)までに延長されたようだ。
1945年9月23日のAFRS本放送開始以後は、AFRS日本支部(本部ロサンゼルス)はUS AFPAC総司令部の情報教育局I&Eの統括下で活動するようになったが、部分接収された東京内幸町の放送会館の玄関を入った正面には、のちに「Armed Forces Radio Service WVTR Key Network Station, WVTR is operated by the I&E Section HQ 8th Army serving the occupation forces in Jpapan」という色鮮やかな看板が掲げられた。
すなわち時期は不明だがGHQ/US AFPAC(米太平洋陸軍総司令部)のI&Eから、HQ 8th Army(第八軍総司令部)のI&EへとAFRS運用の担当部署が移管されている。
Sep. 25, 1945 ・・・ US AFPAC 渉外局の発表 (毎日新聞による報道)
1945年9月25日の毎日新聞がUS AFPAC 渉外局(Liaison Section?)の発表を報じている。日刊紙の記事なので、US AFPACの発表は前日9月24日だったと想像される。
◆"廿五市に進駐軍への放送" (毎日新聞, 東京版, Sep.25, 1945, p2)
◆"人気者の録音直輸入 進駐軍の放送十九局から" ( 毎日新聞, 大阪版, Sep.25, 1945,p2)
東京版・大阪版で99%同じ内容だが、大阪版より以下引用する。
『 【太平洋米軍司令部司令部渉外局 発表】
進駐米軍将兵に対する放送は廿三日六時半から開始されたが、今後は廿五都市に聞こえるやう十九の放送局から同様の放送を行ふ。廿三日から開始されたのは東京のほか熊本、広島、大阪、名古屋、仙台および札幌で、この放送範囲に入る進駐軍地域は横浜、京都、呉である。』 US AFPACの発表はもちろん英語なので、ぜひ原文を読んでみたいところだが、23日よりBCJの全7局から開始されたというのは、渉外局で事前準備されていた原稿を(未確認のまま)発表したのではないだろうか。東京・大阪・名古屋は放送が始まったとして、残る4局(熊本、広島、仙台、札幌)はまだ準備中か、あるいは放送したとしても、試験的に一部の英語番組を流した時間枠もあったという程度ではないだろうか?あくまで私の想像だが。
『このほか「移動」放送局を設置して、佐世保、八幡、福岡、青森、新潟、大泊、朝鮮では京城、元山で放送を開始あるひは近く開始する運びである。下関の進駐軍は八幡から、大湊部隊は青森からの放送を聴収するほか固定放送局として高知、岡山、敦賀および朝鮮の釜山が予定されている。』 US AFPAC渉外局は、今後のAFRS拡張計画を新聞を通じて日本の民衆へ公表した。
(今後のAFRS置局計画, GHQ/US AFPAC, Sep.24,1945)
『第二放送を進駐軍の放送に使ふことは進駐軍当局と放送協会当事業者間における取極めで第一放送は従来通り国内放送を続けるつもりだ。従来第二、第三のあった放送局のみ使用し、第一放送しかない局には触れない。』 さらに固定放送の進駐軍放送はBCJ第一しかない地域では行わない(つまり唯一の日本人向け放送を奪うことはない)とした。第二放送を実施中の東京・大阪・名古屋と第二放送の拡充を準備中の放送局でのみ接収する計画を明かし、日本の民衆の不安を取除こうとしたのだろうか。
『マッカーサー軍の将兵用放送はIとEに分かれベップル少佐が担当、主任はケン・ダイク大佐である。・・・(略)・・・』 渉外局の発表はAFRS放送の組織にも言及している。記事の「IとE」とは日本語訳が適切ではないが、US AFPACの情報教育局I&E(Information and Education)のことだ。日本のAFRSの長はI&Eのベップル少佐(Maj. Graf Boepple)で、ダイク大佐(Col. Ken Dyke)は9月22日に設置された(日本人を担当する)民間情報教育局CIE(Civil Information and Education Section)の長になり、日本のBCJを監督下においた。
このあと放送番組内容に関する説明があり、そして最後に移動放送と部隊に配給した受信機について触れて記事は締めくくられた。
『移動放送は上陸作戦終了後前線で行われたものである。なほ受信機は五千人に二個の割で配給されている。』
これは日本本土におけるAFRASの真の活動開始が、9月23日よりも先に自前の移動用放送機器で行われたことを公式に裏付ける、(私が入手できた)唯一の資料である。発表はUS AFPAC渉外局によりなされ、毎日新聞が日本語で報じたものだ。
だが8月28日の上陸開始から、9月23日のWVTR開局までの1ヶ月間に行われたAFRSの移動放送については、各上陸部隊による詳細な放送裏付け資料が見つからないため、本サイトではこれ以上扱わない事とした。いつか貴重な資料等が発掘される日を待ちたい。
◆ 本国のAFRS本部への電文
この渉外部発表と同様に7局でスタートしたとする記録がもうひとつ残っている。日本のUS AFPAC からアメリカLos Angeles にあるAFRS本部へ宛てられた、9月23日の電文ZAX5939には以下のように書かれている。
"Effective at 0630 Sunday, 23 September, Armed Forces Radio Began broadcasting to occupation troops in the Tokyo Yokohama Nagasaki Osaka Kyoto Kobe Nagoya Hirishima Kure Sapporo and Sendai areas over the seven station secondary network of Radio Tokyo. (以下略)"
US AFPAC がいうRadio Tokyo とはJOAK東京放送局のことだが、9月23日06時30分よりJOAKの第二放送ネットワーク経由で、「東京/横浜」、「長崎」、「大阪/京都/神戸」、「名古屋」、「広島/呉」、「札幌/仙台」の各進駐エリアの7局へ配信されたと伝えた。
しかしこれは9月22日のZAX-5861, ZAX-5863 とほぼ同じ内容だ。戦災で有線通信網がまだ満足に機能していない時期だけに、正確な事実確認を済ませていない「見切り発射の報告」の可能性がある。
ここで日本の中波放送バンドの始まりについて紹介しておく。
我国では1923年(大正12年)に放送用私設無線電話規則(1923年12月20日逓信省令第98号, 即日施行)を制定し、その第五條第三項で長距離用が波長360-385m(779-833kc)、短距離用が波長215-235m(1277-1395kc)を定めたのが始まりだ。
その5年後の1927年(昭和2年)には波長200-400m(750-1500kc)へ改正(1927年3月7日逓信省令第4号, 即日施行)されている。
日本では1927年(昭和2年)3月に放送バンドが750-1500kcに拡大されたが、同年10月4日から11月25日まで、米国ワシントンに世界80ヶ国の代表が集まり、第三回国際無線電信会議(ワシントン会議)が開催された。
(放送を含む)急速な無線通信の発展と、短波通信の有効性が見出されたことで、各種無線局(含む放送局)を定義し、周波数を世界的に分配することになり、バンド区分550-1300kc帯(545-230m)を放送専用帯としたが、結局foot note 4 が付いて「放送に混信を与えない」という条件のもとに移動業務に使っても良いことになった。
さらにバンド区分1300-1500kc帯(230-200m)では1365kc(200m)波をMarine mobile service とし、長いアンテナが張れない小型船舶(漁船)にも配慮した割当てである(1365kcは特別に安価な火花電波の使用が許容された)。放送も1300-1500kc帯を共用できることになったが、優先権は1365kcの火花電波の船舶波の方にあった。以上の取り決めは1929年(昭和4年)1月1日に発効した。
【参考】このほか長波に共用バンド(160-194kc、欧州は160-224kc)、短波に専用バンド(6.0-6.15, 9.5-9.6, 11.7-11.9, 15.1-15.35, 17.75-17.8, 21.45-21.55Mc)が承認された。
1930年(昭和5年)1月1日、我国でもこれに準拠し『放送用施設無線電話規則』を改正(1929年12月5日逓信省令第55号, 1930年1月1日施行)して、550-1500kcを放送バンドにあてたが、実際には(後述するように)550-1100kc を放送に使った。
1932年に開催された第三回国際無線電信会議(マドリッド会議)でバンド区分は550-1500kcに一本化された。しかし再びfoot note 9 が付いて550-1300kcの周波数内では放送に混信を与えないという条件で移動業務の使用が認められた(特に日本の放送バンドの改正はなかった)。
またMarine Mobile用1365kcの表記が1364kcへ修正されたのと同時に、Marineの文字がとれてMobile Service用になり、使用電波型式がA電波(持続波)のA1, A2と、B電波(火花波)であると明記された。ただしfoot note 10で1364kcのB電波の使用時間帯の制限や、北アメリカ地域ではA1だけが認められる(火花不可)こととなった。
参考4) カイロ会議 1932年
第二次世界大戦の勃発で最後の周波数分配会議となった1938年(昭和13年)もカイロ会議では、低い周波数においては「欧州地域」と「その他の地域」でそれぞれ業務別に周波数が分配された。この分配表が戦後もしばらく使用された。
バンド区分550-1500kc帯は変更がなかった。 バンド区分1500-1600kc帯の中の1500-1560kcが「欧州地域」の放送業務(専用)に追加された。また「その他の地域」には1500-1600kcが固定業務や移動業務と共用で放送にも使えるようになったが、アメリカでは高音質放送など特別な用途限定したため一般的ではなかった。
日本では1500-1600kcへ放送帯の共用ベースでの拡張は行わず、むしろ1364kcの小型船舶の通信波を保護する意味や、家庭用受信機の性能が良くないため、高い周波数での放送は控えて1100kc以下を使っていた。
そのため(前述したとおり)逓信院BOCでは敗戦で連合国軍が進駐してくる前に、空いている1100-1500kcを地方の放送中継局へ分配し、既得権を得ておこうと考えた。
カイロ会議で採択された業務別周波数帯分配表の550-1500kc帯および1500-1600kc帯の抜粋を示す(下表)。
foot note 15で550-1300kcで移動業務への使用が継続された。
foot note 16で1364kcでのB電波(火花電波)の禁止が協議されたが、日本が反対し日本の小型船舶に限り、出力300W未満のB電波が認められた。
敗戦直後の1947年(昭和22年)のアトランティックシティ会議で中波放送バンドが535-1605kc(535-1560kcはfoot noteなしの完全な放送専用帯)に拡張されるまでは、中波ラジオ受信機でモールス信号が聞こえてくる事もあったようだ。
1945年(昭和20年)秋の逓信院BOCの資料をもとにGHQ/SCAPの民間通信局CCSがまとめた "放送局を除くコールサイン-周波数表" をご覧いただきたい。これには600kc(JQB)、905kc(JTS)、1364kc(JHX, JHZ, JKN, JIX, JKQ, JOE, JOF, JOG, JOH, JOJ, JOL, JOM, JON, JOO, JOP, JOQ, JOU, JOV, JOW, JOX, JOY, JOZ, JPV, JPW, JPZ, JZT, JZW, JZX)の「海岸局」が掲載されている。これら「海岸局」の通信の相手方となる「船舶局」は除かれており中波放送バンドを使う無線局数はさらに多い(なおこの周波数表では放送局も除かれており570kcにJODGだけが代表で掲載さている)。