1950

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我国では大正時代に Citizens Radio を「衆立無線」(苫米地貢氏)や「大衆無線」(安藤博氏)と訳されたが、1949年(昭和24年)12月号の「電波日本」誌や、1950年(昭和25年)3月の「ラジオ・アンド・テレビジョン・ニュース日本語版」では、これを「市民無線」と直訳されました。

1949年10月31日に54MHz以上の特定12 bandの電波行政権が日本に返還されたため、1950年は一気に実験局が増えました。1950年春、電波庁RRAは日本版Citizens Radioの実験局(実用化試験局)として、返還された12 band のひとつ54-68MHz帯内で早稲田大学の山岳部に JJ2AK, JJ2AL に免許を与えています。

そして電波監理委員会RRCは1950年6月30日、アメリカのCitizens Radio Service にならい460-470MHz帯にSimple Radio Service(日本語名:簡易無線業務)を作りました。簡易無線制度の制定により、当時の雑誌記事から読売新聞社と朝日新聞社にも465Mcの実用化試験局(JJ2AS, JJ2AT, JJ2AW, JJ2AX, JJ2AY, JJ2AZのいずれか?)が免許されたと推察されますが、確認できず歴史の闇に埋もれてしまいました。

SUMMARY この年の出来事

March 1, 1950 - "Radio & TV News 日本語版"でAl Gross のWalkie-Talkie が日本に伝えられた。

April? 1950 - 早稲田大学(山岳部)に日本版Citizens Radio実験局 JJ2AK, JJ2AL が許可された。

May 1950 - "初歩のラジオ"の表紙にAl Gross のWalkie-Talkie のイラストが使われた。

June 30, 1950 - Simple Radio Service(日本語名:簡易無線業務)が創設・施行された。

June 30, 1950 - Citizens Radio Station(CRS)が335局になった。

Oct.24, 1950 - Class B CRS の周波数許容偏差を0.5%にする提案(FCC Docket No.9818)が作られた。

November 1950 - ラジオコントロール用CRSの検定第一号の広告がModel Airplane News に登場。

Dec.27, 1950 - FCC Docket No.9818 が成立。施行は1951年2月5日より。

  • February 1950 (150MHz帯移動無線の幕開け・・・日本)

1949年10月31日に54MHz以上の特定12 band の電波行政権が日本へ返還され、そのひとつである150MHz帯(148-157MHz)に注目が集まった。30MHz帯と違って、もうCCSや第八軍に頭を下げることなく、電波庁RRAの独自判断で周波数を割当てて、無線局を許可することができるからだ。1949年の暮れには各方面から無線局開設の相談や申請が寄せられたようである。シチズンス・ラジオの実験局もこの頃、話が持ち上がったものと想像する。

その先陣を切って本免許されたのが新聞社の基地局とラジオカー(取材用移動無線車)である。1950年2月13日に免許された。

局種こそは実験局だったが、その実態はアメリカでいうところのClass 2 Experimental(純粋な科学研究の実験ではなく、実用局へ移行する前提の"お試し運用の無線局")で、次々と免許を発行していった。そこでRRAではClass 2 Experimental のことを、我国では「実用化試験局」という名称で定義する方向で検討に入った。そして6月には実際にそうなった。

  • Mar. 1, 1950 (Al GrossのWalkie Talkie が日本でも紹介された・・・日本)

日本の主要都市にCIEが開設した図書館へ行けば、アメリカでCitizens Radio Service がスタートしたという英語記事を読むことができただろう。しかしCIE図書館に通えない日本人の方が大多数だし、英語という語学の壁もあった。そういう意味でいえば、日本人の誰もが読める形で、Al Gross のWalkie-Talkie を伝えたのは誠文堂新光社である。

誠文堂新光社はアメリカの最新技術を日本に紹介するために、ジフ・デヴィス出版社(Ziff Davis Pub.)のRadio and Television News 誌の日本語版を創刊しようとしていた。「ラジオ・アンド・テレビジョン 日本語版」の編集顧問として、東京大学の星合博士、森脇博士、BCJ(日本放送協会)の根岸技術調査課長、電気通信省MOTCの黒川施設部無線課長の協力を取付け、1950年(昭和25年)3月1日に創刊号が発行された。

その創刊号(3月号)に「市民無線のトランシーバー」という紹介記事でAl Gross のWalkie-Talkie が取り上げられたのだ。事実上アメリカの占領下にあったため両国の関係は非常に深く、それゆえに市民ラジオの情報がこんなに早く日本へ伝わっていたといえるだろう。おそらく当事国のアメリカを除けば、世界でもっともCitizens Radio Service 創成期の情報が多かったのは占領下の日本か(アメリカの隣の)カナダではないだろうか。では記事の一部を引用する。

これら無線機を製作したのは東通電気(株)である。9月号の記事なので、原稿が書かれたのは7月頃だと考えられるが、文中に『当局に申請中』とあり、(前述した通り)7月25日に免許されているので、この原稿はその直前に書かれたのだろう。

だがこの記事に使われた写真と時期が微妙にズレている。第11図の説明文には『ウォーキー・トーキーを用いJJ2AHを中継して本社と連絡』とあり、すでに465MHzの電波を発射しているようなので、写真の説明文の方は免許された7月25日以降ということだろうか。

  • September 1950 (青少年向け科学雑誌で電波監理総局が啓蒙活動・・・日本)

電波監理総局の新川浩氏が初歩のラジオ(9月号)にて「市民ラジオとは?」という記事を青少年向けに書いた。前述の逓信協会雑誌5月号ではアメリカのCitizens Radio を「市民無線」としていたが、今回は「市民ラジオ」にあらためた。電波監理委員会およびその下部組織では、アメリカの制度を「市民ラジオ」、日本の制度を「簡易無線」と呼び分ける方針だった。では記事を引用する。

『 「オーイ、どうだい君のところはよく釣れるかい?」「ウン、もう3匹も釣ったよ。君のところはどうだい?」「こっちはだめだよ。まだ一つも釣れやしない。」遠く離れた場所で釣りをしている友達と無線電話でこんな話をしながら一日を楽しむことができたら、どのように愉快なことでしょう。これは決して夢のような話ではありません。アメリカではすでにおこなわれ、日本でもやがておこなわれようとしている市民ラジオ(Citizen Radio)というのがそれです。・・・(略)・・・もっともアメリカでも、まだ開始されたばかりのことで、戦時中の軍事通信機を改造したものも多く使われています。さて、この市民ラジオは我国でも近いうちに電波法の実施されるにしたがってアメリカとだいたい同様のものが簡易無線業務という名称で許可されることになります。』

ところでCitizens Radio はアマチュア無線と同様に通信の相手方を限定しないが、その意味するところはアマチュア無線とはかなり異なる。この記事にもあるとおり釣り仲間と会話するなど、我々の日常生活は常に不特定多数の人(あるいは組織)との接触で成り立っている。そもそも快適な個人生活の実現を目指したCitizens Radio や簡易無線において、通信相手を限定するのはナンセンスなのである。けしてアマチュア無線業務のような意味からそうなったのではない。

日本ではのちに463MHzを通信の相手方を限定しない個人用、467MHzを通信の相手方を限定した法人・団体用の簡易無線を想定したが、この分類方法は研究不足だったと私は思う。なぜならば登山者(個人)と山小屋(団体)や、患者(個人)と病院・医院(法人等)のような、私たちの個人生活を豊かにする個人的用務の通信には、「個人」と「組織」間の通信が必要不可欠だからだ。

もう一点、重要なことだが釣り仲間同士のおしゃべりが簡易無線業務に該当するなら、そういう通信はアマチュア無線ではできない。なぜなら日本では「アマチュア業務に該当しないのが簡易無線業務」という定義なので、「良く釣れるかい」が簡易無線業務ならば、これはアマチュア業務ではないからだ。

アメリカでは1960年代にこの問題でFCCとCB無線団体が激しく衝突したが、これはCB史上もっとも重要な視点でもある。

  • Sep. 18, 1950 (簡易無線に関する第二回懇談会)

電気通信工業会連合の無線通信工業会では、RRCが創設した(主として個人用を意図した)465MHz, 3Wの簡易無線制度に、(法人向けを意図した大電力の)アメリカのA級局相当のものを追加するよう関係方面に働きかけていた。そして当面の間、本来的には簡易無線業務に該当しない用途であってもこの範疇で免許して、日本の産業復興へ役立てるべきと主張していた。

1950年(昭和25年)9月18日、電波当局と無線機製造会社による簡易無線に関する第二回懇談会が開催され、「無線と実験」誌12月号がその内容を報じているので引用する。

『 簡易無線業務用無線局に対する業界の要望

1.周波数に関する問題

現行の周波数を次の通り拡張すること

460-462Mc A級局、

462-468Mc A級局及びB級局(但し465Mc)、

468-470Mc A級局

但し許容偏差は

A級局・・・0.02%

B級局・・・0.5%(現行 0.4%) 理由=0.5%としても 462, 468Mc帯以内にある。

2.使用目的の範囲

簡易無線業務用無線局は字句の通り簡易なる無線機による業務用全般に適用されるものと解釈し、いわゆる、アメリカのようなシティズン・ラジオ(市民ラジオ)の範囲に局限されぬものとして取り扱われたい

理由=無線利用の面では未開発の現状にある日本においては大幅に寛らかなる処置が必要であり、まず、できるかぎり国民に自由に電波を利用せしめ、無線科学の向上発展に貢献せしめる要があり、それにはこの簡易無線業務用無線局をおいて他に求められない。したがって、利用面が活発となり電波行政上、統制の必要が生ずるまではFCCで規定している周波数の業務区分内に含まれている業務のある種のものも当分の間日本では簡易無線業務用無線局に許可せられたくその範囲の一例を挙げれば次の通りである。

いわゆるアメリカの市民ラジオの範囲で有線業務など・・・ 』

戦前の電波行政では考えられなかったことだが、民主的な新時代の電波行政を託されていた電波監理委員会としては、この無線工業会の意見にも可能な限り応えようとしたようだ。特に敗戦で疲弊しきった産業の復興は日本国民全ての目標でもあったからだ。そこで「個人的ないし市民生活的な無線利用」が本筋ではあることは重々承知のうえ、それとは別に戦後復興策として「企業、団体向けの無線利用」を取込むことを決意した。それがバンド分割策である。

460-470MHz帯を二つに分割し、460-465MHz帯を本来的な市民バンド、465-470MHz帯を復興バンドとする方向で電波法施行規則の改正案の成案に入った。ただしアメリカのClass B相当を日本では二つの周波数に分割するので、無線工業会が主張する周波数許容偏差偏差の0.5%化は却下された。

  • Oct. 01, 1950 ・・・ <謎> 読売新聞社は朝日新聞社や早稲田大学に先を越されたのか?

前述したように1950年(昭和25年)10月1日には読売新聞朝刊に、山中にいる記者がV字型アンテナの携帯無線機でニュースを刻々と送る姿の写真が載った。ウォーキートーキーの説明箇所を以下引用する。

ウォキー・トーキー

自動車で行けないところには記者がウォキー・トーキーをかついで行く。これは電話機の送信器の凹部に電池、真空管をいれたものにアンテナが立っており、長さ、アンテナとも五十センチ、重量約二キロ。ニュース映画などでよく見られる朝鮮動乱の国連軍兵士が肩からかけている細長い箱がそうだ。スイッチ一つで送受信の切替えが出来る。・・・(後略)・・・』 (ニュースを追って, 読売新聞, 1950.10.1, p3)

7月25日に免許された読売新聞社の465MHzの携帯無線機は、9月11日に施行された委員会規則第12号(無線局開設の根本基準)に基き、465MHzの簡易無線の局として申請されたはずだが、この時に朝日新聞社にJKX20, JKX21が発行され、早稲田大学はJKX22, JKX23に、読売新聞社はJKX22, JKX23になったものと私は想像している。

465MHzのウォーキートーキーをいち早く試作し、実験免許を得たはずの読売新聞社が、朝日新聞社や早稲田大学に先を越されたように見受けられる。その理由を私は次のように考えている。

海軍や陸軍が大得意先だった東洋通信機は、旧軍の巨額の戦時補償関係の債権を有していたにも関わらず、GHQ/SCAPの意向で打ち切られ混乱が生じた。政府は1946年(昭和21年)8月15日、会社経理応急措置法を公布し、東洋通信機は新旧分離勘定が可能な特別経理会社に指定された。10月には企業再建整備法が公布され大幅な人員削減や工場閉鎖計画がはじまった。

1949年(昭和24年)11月12日、東洋通信機株式会社は東通電気株式会社を設立。同年12月、これを継承会社に指定し旧会社の清算に入った。読売新聞社が東通電気に、ラジオカー用無線機(150MHz)や、ウォーキートーキー(460MHz)を発注したのがちょうどこの時期だった。東通電は川崎本社工場(搬送通信装置、漁業無線機、水晶発振子)と、栗橋工場(VHF-FM無線機、高級全波ラジオ受信機)からなり、栗橋工場のVHF無線機は着実に実績積上げていたが、1950年(昭和25年)7月に経営合理化のため工場閉鎖に至った。栗橋工場閉鎖時の従業員269名中、約50名ほどを川崎工場に受入れただけで、大部分は解雇されたのである。

9月11日に無線局開設の根本基準が施行されたが、これに基く申請の準備ができず、そうこうする間に10月27日には簡易無線の周波数を465MHzから463MHz/467MHzへ改正する案が発表された。読売新聞社のウォーキートーキー(465MHz)の周波数の再調整や落成検査対策は東通電気・栗橋工場の閉鎖でその対応が遅れに遅れ、ついに読売新聞社はJKX24, JKX25になってしまったのではないだろうか?私はそう思うのである。

【参考】 1952年(昭和27年)3月の債権者会議の承認を得て、旧東洋通信機の清算業務が完了。これを受けて同年11月、東通電気は再び旧社名の東洋通信機に変更された。

一方、朝日新聞社のラジオカーの場合は日本メーカーには発注せず、さっさと実績のあるモトローラー製の高級VHF-FM無線機を輸入した。ウォーキートーキーは戦前より朝日新聞社と親交があった渡邊泰一氏のグループに発注され、順調に簡易無線局の免許申請に漕ぎ着けたようだ。また早稲田大学の場合は沖電気の一号機(64.430MHz)を経て、二号機(465MHz)の開発を順調に進めていたようだ。

  • Oct. 24, 1950 (Docket No.9818) Proposed

  • Nov. 02, 1950 (連邦官報告示 15FR7369)

シチズンス・ラジオ Class B は低価格のWalkie-Talkie を意図したため自励発振方式が前提となって法制化されたが、なかなか周波数は安定しなかった。当初は達成できると考えられていたFCC Rule and Regulations Sec.19.33 "Frequency Tolerance" で規定されたClass B の周波数許容偏差は0.4%以内が無線機製造上の大きなネックになっていた。

1950年10月24日、FCCはこれを0.4%から0.5%へ規則緩和する案(Docket No.9119)を作り、11月2日に連邦官報で告示(15FR7369)した。私はもしかするとAl GrossのModel 100Bは、この0.4%規則をうまくクリアできなかったか、相当の不良品を出したので、FCCが急遽規則緩和へ動いたのではないかとも思っている。

またこのDocket No.9818 にはSec.19.14(b) "Application for construction permit using equipment not type-equipment" の改正も含まれていた。

我が国初のSimple Radio(簡易無線)は465MHz一波の3Wで、その操作には特殊無線技士乙が必要だと決められた。ただし乙の試験は「操作に必要な国内法令の実際上の知識」(RRC Regulations No.6, Article 7.3)だけで、無線工学の知識は求められなかった。

  • June 30, 1950 (Citizens Radio Station が335局に)

米国議会に提出されたFCCの年次報告書によると、1950年6月30日の時点で、市民ラジオ局は335局(前年比213局増)だった。これがModel 100Bの発売によるものか、あるいはBC-645改造機によるものかはわからない。

【局数統計】

また1950年6月30日までの1年間の申請者数は596件だった。

【申請数統計】

  • July 25, 1950 (読売新聞社に465Mcの免許?・・・日本)

読売新聞10月1日朝刊に、「7月25日に超短波のウォーキートーキーが許可された」というCB史上貴重な記事があるので引用する。

『・・・時代の先端を行く現在の記者でも、へんぴな山奥などでは足のウラに豆を作りながら原稿送りの電話をウロウロ探して汗みどろにならねばならなかったのが、一年前の実情で"も少し取材方法がスピード化されないものか"というのが記者仲間の念願であった。きょうから始まる第三回新聞週間にこの念願がどれ程実現しているか本社の機器から紹介してみよう。』 (ニュースを追って, 読売新聞1950.10.1, 朝刊, p3)

そして読売新聞本社屋上の3本のアンテナ(ラジオカーとの通信用および共同通信社からのラジオテレタイプ受信用)の説明あり、ラジオカーへ話題を渡した。

ラジオ・カー

既にご承知のように自動車に超短波無線送受信機を取付けたもので本社にはJJ2AG、JJ2AH、JJ2BDの三局がある。風水害で有線電話がきれても心配はない。都内で締切真際に重大事件が起ったときも出動して現場からホット・ニュースをたたきこむのにもどうしても必要な報道機である。ことに去る七月二五日超短波による写真の無線電話が許可されたのは大きな強みで、この許可を持つものはいまのところ本社だけである。』 (前掲紙)

その写真だが、まるで探検隊員のように草木が生茂る山中から、記者が左耳にV字型アンテナのウォーキートーキーを押当てて、ニュースを送稿している姿が映っている。1950年(昭和25年)7月25日に読売新聞社にウォーキートーキー実験局の(予備)免許が与えられたようだ。

  • 読売新聞社ウォーキートーキーの呼出符号はJJ2AS, AT, AW, AX, AY, AZのいずれか?

電波監理委員会RRCが毎奇数月1日付けで集計発行する "List of Japanese Temporary Stations"の7月版(7/1現在)に新たに掲載された関東管轄の実験局はJJ2AO-AR, AU-AV, BA-BDだった。つまり JJ2AS, JJ2AT, JJ2AW, JJ2AX, JJ2AY, JJ2AZ の5つのコールサインが飛んでいる。この5局はコールサインは発行(予備免許)されたものの、まだ本免許に移行できていないことを意味する。JJ2BA-BDなどはさっさと本免許になり掲載されているからだ。

読売新聞社のウォーキートーキーの本免許が7月25日だとすると、このリスト7月版(7月1日現在)には掲載されないというのは当然だ。しかしこれら5局(JJ2AS-AT, AW-AZ)は9月版(9月1日現在)以降になっても、ついに掲載されないままだった。

こういう場合には、二つのことが考えられる。ひとつは、工事落成期限までに装置が完成せずコールサインはもらい試験電波は発射できたが、ついに本免許には至らず断念したケース。そしてもうひとつは短期の免許でさっさと廃止したケース。実験局の場合には、1週間だけの免許といったものもあるからだ。7月25日に本免許されても、免許期間が例えば8月31日までの場合、リスト9月版(9/1現在)には掲載されない。

無線局開設の根本基準の聴聞会が8月から予定されていたため、この基準の影響を受ける無線局は、一旦8月末日までの免許としたなら辻褄があう。戦後新たに生まれた簡易無線は当然、この無線局開設の根本基準の決定に大きな影響を受けるからだ。また後述するが朝日新聞社にもこの時期、465MHz実験局の短期免許が与えられたかもしれない。

  • July 18, 1950 (Docket No. 9702) 可決成立

  • July 27, 1950 (連邦官報告示 15FR4848) 即日施行

FCC Regulations Part19(Section19.51)の改正案(FCC Docket No.9702)を7月18日にFCCは可決し、Ctizens Radio Service の手送り電信は第2級通信士以上の資格が必要とされていたものを、「第3級通信士以上の資格」に改めた。これは7月27日の連邦官報で告示(15FR4848)し、即日施行された。

  • Aug. 1, 1950 (放送局を除く、無線局の開設根本基準・・・日本)

1950年8月1日に開かれた電波監理委員会RRCで「無線局(放送局を除く)の開設の根本基準」案が可決承認され、審理官に柴橋国隆氏を指名した。ついに日本初の「聴聞」が執り行われることになった。これは公聴会ではなく委員会の聴聞規則で定められ、独自の職能を有する審理官によって開かれるものであり、聴聞開始にあたり人定尋問(氏名・身分の確認)から宣誓までおこなう。聴聞は裁判の第一審と同等の権限が与えられており、もし不服があれば第二審裁判所に提訴することになっていた。

この「無線局の開設根本基準」について説明する。電波法や委員会規則が施行されたので、申請すれば人々はすぐに無線局や放送局の免許が下りるもの思っていた。電波タイムス社の創業者、阿川秀雄氏の連載「続・私の電波史」(電波タイムス,1991年5月15日)から引用する。

『 (略)・・・というのは一般人は法律の施行があった以上、すぐにでも無線局や放送局の免許が行われるような錯覚をもっていたからである。とくにそのころ全国から出されていた民間放送局の申請件数は七十近くにも達し、これらの人々の "電監詣で" は日夜に別もないほどで、また情報を求めて私のところ(電波タイムス社)に訪れる人も "ひき" も切らなかった。こうした動きに対して電波監理委員会は発足後ただちに「免許の基盤」となるべき委員会規則すなわち「無線局及び放送局開設の根本的基準」を制定する作業にかかり、その基準に基づいて申請を受付ける、という方針を発表した。・・・(略) 』

もちろん可及的速やかに免許を出すべき開局申請には、この時期でも無線局の新規承認は与えられていたが、民間放送局や簡易無線のような新種の無線局の開局申請は「開設の根本的基準」が決まるまで事実上のお預けとなった。

  • Aug. 1950 (日本初のCBマニュアルが発刊・・・日本)

無線と実験 臨時増刊号「これからのラジオ」が発刊された。日本初のCBマニュアルと呼ぶにふさわしく、465MHz帯に関する記事や技術情報が集められている。各記事をよく読むと、これらの原稿は6月30日の電波関係諸規則の施行直前に書かれたものであることが分かる。

◆グラビア・・・編集部が帝国陸軍94式6号無線機をCB無線機に改造実験

この臨時増刊号を発刊するあたり、まず編集部としては当時払下げ品が多く出回っていた旧帝国陸軍の94式6号無線機(VHF)の465MHz帯への改造に挑戦し成功した。

左はグラビアページの「個人通話用トランシーバー」という記事にある写真だ(クリックで拡大)。遠方にビルが見えるが、これは編集部の建物の屋上で撮影されたのだろうか?Al Gross のModel 100B とおなじく、T型の半波長ダイポールアンテナが無線機から突き出している。

この改造94式6号無線機はこの臨時増刊号「これからのラジオ」の表紙にも使われている。アメリカでは検定合格機が発売されるまでの期間、軍放出品のIFFトランシーバーBC-645改造機でCitizens Radio が運用された歴史があるが、日本でも「無線と実験」誌が軍用無線機の転用を試みた点はおもしろい。

【参考】後述するが、94式6号無線機の製造にあたったメーカーひとつである東洋通信機が、我国最初の国産465MHz携帯無線機を試作し読売新聞社に納入した。

左が改造した回路図と高周波部の写真である(クリックで拡大)。その回路構成はModel 100Bと大差ないだろう。回路図左下のVR1が超再生の調整で、SW1が送受切替えスイッチである。フィラメント点灯用(1.5V単一)電池5個と、プレート用(90~135V積層)電池は別に収納されていて、使用時に電源コードで接続される。おなじみのUHF用エーコン管955を用いて0.2~0.3Wの出力が得られ、3~4マイルの実用距離を有するとしている。

我国の27MHz帯で初めて実運用に供されたであろうトランシーバーが、実はこの陸軍94式6号無線機である(これについては別途紹介する)。旧軍のお払い箱入りした25-45.5MHz無線機が、465MHzで復活した姿を見ると、CBファンとしては少々うれしい気持ちになる。

本書は電波の民主化の象徴でもある民放ラジオと簡易無線に関する2部構成である。

◆前半・・・「家庭用受信機の改造対策」特集

記事のトップバッターは電波監理委員会RRCの綱島毅副委員長だった。民放ラジオが認可され受信局数が増えることから、家庭のストレート式受信機の分離性能の改善が必要で、スーパーヘテロダイン方式への改造などの記事が並んだ。

◆後半・・・「個人通話用の市民ラジオ」特集

後半の記事を担当したのは、無線と実験編集部の隣に席を並べていたラジオ&テレビジョンニュース(日本語版)編集部である。同誌はAl GrossのModel 100Bの写真を日本で初めて掲載したり、米国情報を数多く得ていたからであろう。

さて簡易無線特集の本体記事のトップバッターは電波監理局の三上民典氏だった。これには電波監理委員会RRCの綱島副委員長からの口添えがあったのかも知れない。かつてFCCのE. K. JettがSaturday Evening Post誌を通じて、新構想のCitizens' Radiocommunication Service を国民に説明したように、日本のRRCも雑誌等を通して積極的に行政委員会としての自分たちの活動をPRするようになった。これは戦前にはなかった大きな変化である。

下図が三上氏の記事「極超短波の伝播」の書き出しである。アメリカのシチズンス・ラジオに括弧を付けて「市民ラジオ」とした。ラジオ科学1949年10月号で初めて登場した「市民ラジオ」という単語を電波監理委員会が使い始めたのである。

RRCおよびその実行部隊(電波監理総局と電波監理局)では、日本の制度を「簡易無線」、アメリカの制度を「市民ラジオ」と呼称する方針に転じて、以後「市民無線」という言葉を使うのを止めた。

しかしRRCの意図はあまり一般にはうまく伝わらなかった。この年の2月に新聞社各社の「ラジオカー」に150MHz帯が許可され、また警察無線の警ら車両や消防にも30MHz帯の「ラジオカー」が導入された時期であり、(大正時代の放送開始以来)再び「ラジオ」という言葉がおおいに新時代を想起させる言葉にだったこともあって、日本の市民用無線制度を漢字で「簡易無線」と書くよりも、カッコよく「市民ラジオ」としてしまう混同が生じた。

◆W2XQD(John M. Mulligan)の実験データか?

さて「市民ラジオ」という漢字とカタカナの合成語の発祥の話題はこれぐらいにして、三上氏の記事本体に触れてみたい。タイトル「極短波の伝播」にあるように三上氏アメリカの資料を引用し、ニューヨーク州で行われた152MHzと460MHz帯の伝播特性の距離対電界強度の測定実験結果のグラフを紹介しながら丁寧に解説された。

私はこの三上氏が引用したニューヨークでのこの実験に強い興味を覚える。なぜならば1947年のページで書いたようにJohn M. Mulligan(W2XQD)が152MHzと460MHz帯の電波伝播実験を行っているからである。実験局は毎年、FCCへ実験報告書を提出していた。

1949年暮から1950年春に掛けてFCCなどを訪問し、アメリカの無線制度を調査した新川氏が、FCCからMulliganの実験データを入手・帰国し、それを基に三上氏が記事を執筆した可能性がある。また私は460MHz帯と152MHzを同時に比較実験した事例を他に聞かない(発掘できていない)、というのもそう想像する理由のひとつだ。

無線と実験 臨時増刊号「これからのラジオ」はその内容の充実度から日本初のCBマニュアルとして位置づけられるだろう。

  • Aug. 18, 1950 (初の聴聞を実施・・・日本)

  • Sep. 11, 1950 (無線局開設の根本基準を施行・・・日本)

8月18日、ついに日本初の聴聞が開かれた。FCCではNPRM(Notice Propose and Rule Making)という成案趣旨と、その成案文、そして関係者のコメント募集期間を連邦官報で告示する方法をとっていたが、電波監理委員会RRCでも同様の手順を踏んだ。この聴聞会には全国水産無線協会、時事通信社、無線通信工業会、国警本部などから利害関係者13人、 電波監理委員会および職員19人、傍聴人83人、参考人2人の出席で行われた。

そしてRRC Regulations No.12 「無線局(放送局を除く)の開設の根本的基準」が1951年(昭和25年)9月11日施行された。簡易無線業務無線局の開設の根本的基準も決まったので、これに反しない限り開局申請は受理され、工事設計書等に問題がなければ、予備免許(Construction Permit)でコールサインが指定されることになった。

「無線と実験」誌(1950年10月号, p9)「携帯! 2球 トランシーバーセットの製作について」という記事に、(おそらく編集部が付けたと思われる)『465Mcバンド・使用許可!! 』という文字が躍った。さらに『去る9月11日付官報によつて無線局開設の根本基準が電波監理委員会規則第12号として公布された。待望久しき電波発射が許されたのである!』と、(たぶん編集部により)付け加えられている。

後述するが私は9月11日に定められたこの基準により、朝日新聞社(JKX20, JKX21)、早稲田大学(JKX22, JKX23)、読売新聞社(JKX24, JKX25)に旧規則の465MHz簡易無線の予備免許が出されのではないかと考えている。

この記事を執筆したのは山水電気株式会社技術部の林哲也氏で、同社は明星電気と共にSimple Radio(簡易無線)の無線機を商品化するのではないかと見られていた。

  • September 1950 (国産の465MHzウォーキー・トーキーの交信姿を発表・・・日本)

読売新聞社のウォーキートーキーが1950年(昭和25年)7月25日に、JJ2AS, AT, AW, AX, AY, AZ のいずれかで本免許されたと想像されるが、電波日本(昭和25年9月号)の新聞各社のラジオカー特集に注目すべき記事がある。読売新聞社のV字型アンテナのウォーキー・トーキー試作品の写真が掲載された。筆者は読売新聞社機報部の小出祥夫氏で、JJ2AG(本社8F無線室)、JJ2AH(自動車)、JJ2BD(自動車)の説明のあと、ウォーキートーキーに触れる部分があるので引用する。

『またこれらの移動局を中継するか、あるいは単独にウォーキートーキの使用も計画中であるが、これは460~470Mc帯を用い、ラジオカーの行動不可能な地点、または近距離の報道連絡に使用されるもので、既に試作機も完成し目下施設許可方を当局に申請中である(第10図, 第11図)。』 (小出祥夫, 読売超短波無線装置について, 電波日本, 1950.9, 日本電波協会, pp121-122)

少々気になるのは写真で見るアンテナが長いことだ。もしや早稲田大学と同じように61.430MHzではないかとも思うのだが、この文章からは460-470MHzの試作機(写真)が完成し申請中とのことである。

この7名の電波監理委員会が、実際に電波監理事務を預かる実務部隊(電波監理総局や地方電波監理局など)の職員3,340名(発足時)を動かすことになった。

富安委員長ら7名は午前10時から首相官邸で任命式と宣誓を済ませ、午前11時30分より港区青山の旧電波庁舎で行われる発足を祝う記念式典会場へ急いだ。富安委員長は全職員を前に「電波行政を委員会制度で運用することになった。しかし全国民注視の的であるから、全職員が一体となって職務にあたり、我々は決然として委員会の面目を守り、委員会行政の模範となるように心掛けたい。」と述べた。

  • June 20, 1950 (Docket No. 9702) Proposed

  • June 30, 1950 (連邦官報告示 15FR4201)

6月20日、FCCはFCC Regulations Part 19 のSec. 19.51 Operation of citizens radio stations のサブパラグラフ(b)にある、手送り電信の操作の場合に限り必要となる無線通信士資格に関する改正案をまとめた。そして6月30日に連邦官報で告示された(15FR4201)。

  • June 26, 1950 RRC Regulations No.3 - 8 委員会可決 (日本)

  • June 30, 1950 告示・即日施行 (日本)

電波監理委員会RRCは無線に関する諸規則の審査を重ねると同時に、19日、21日、22日、23日に民間通信局CCSと協議し、それらの同意を得た。そして6月26日午前の第4回電波監理委員会議で委員会規則第3-8号の6つの規則が可決され、6月30日に電波監理委員会公報で告示し、即日施行された。

これが我国で初めてCitizens Radio Service の日本版を規定した規則で、電波監理委員会RRCが審議し決議したものだが、その草案は電波庁RRAの手により作られたと考えられる。この記念すべき電波監理委員会公報(6月30日)が下記である。(クリックで拡大)

(1950年6月30日号の第1ページ)

またこれは、同日付けのOfficaial Gazette(官報)でも告示されているのでそちらも紹介しておく。

【参考】 戦争に敗れた我が国では、1946年3月15日に対日指令SCAPIN第744-A号 "Translation of the Official Gazette (Kampo)" が発せられ、英語による官報(Official Gazette, English Edition)を同時発行することになった。これはサンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日まで続いた。

6月30日のExtra No.73(号外73号)はRadio Regulatory Commission Regulations No.3(電波監理委員会規則 第3号)ではじまる。そのArticle 3.1(16) (業務の分類及び定義, 第3条の第1項第16号)でSimple Radio Serviceが定義された。

◆(16) Simple radio service: A simple radiocommunication service not coming under the preceding item とされ、日本語では『十六 簡易無線業務 簡易な無線通信であって前号に該当しないものをいう』とされた。前号とはアマチュア業務のことだ。

<無線局種が定義されず、「簡易無線業務の局」とされた>

Article 4(無線局の種類及び定義, 第4条)では我国で初めて23種類の無線局種が定義されたが、そこにはSimple Radio Station(簡易無線局)は含まれなかった。無線局の名称が定義されなかったため、Article 8.2(5)などでは"Station in the simple radio service" (簡易無線業務の局)という表現にとどまった。

これにより英語版の政府刊行物では、簡易無線をSimple Radio と表記することになった。

簡易無線業務に関する主だったRRC規則を以下に列記する。

『465Mcにおける市民無線通話用として製作されたトランシーバーのはしりを紹介する。・・・略・・・頂部には折りたたみ式のアンテナがある。乾電池は小型カメラぐらいの別のケースに入れてある。・・・略・・・このトランシーバーが2台あれば自動車と家庭間に、家庭からオフィスへ、ボートから陸上へ、飛行機から地上へ、該当で人から人へと簡単に通話ができるというもので、いくらかけても"話し中"というどこかの国にはぜひともほしいものである。こういったことまで許されているアメリカが羨ましい。ただし、内緒話はつつ抜けになる心配はあるが・・・・・!

なお、到達距離は約7マイルで、このトランシーバー2台を1組として販売されているとのことである。名称は "Citizens Transceiver" といっており、警察、消防、探検、狩猟、工場方面にも実用されている。』 ("市民無線用のトランシーバー" , Mar.1950, p35)

英語版の同月号Radio and Television News(Mar. 1950)を確認したが、このような記事はなかった。そもそも1949年7月にAl GrossのCitizens Radio Corporation 社は、Stewart-Warner Corporation 社へ売却されている。この日本語記事は、1949年1月前後の過去の記事を、誠文堂新光社の編集部でアレンジしたものではないだろうか。またこの記事には『2台1組で販売されているとのことである』と書かれているが、その情報ソースはわからない。

  • April(?) 1950 (早稲田大学にシチズンス・ラジオの実験局が許可)

1950年(昭和25年)春、電波庁RRAは早稲田大学(山岳部)に日本初のシチズンス・ラジオの実験局 JJ2AK, JJ2AL を許可した。当時、早稲田大学山岳部の現役部員だった飯島貞二氏は導入の動機を次の様に述べられている。

『我々が山登りに無電があったらなと思ったのは久しい以前からのことであった。特に我々が冬山に全力を傾注している関係上各キャンプ間の連絡法として無電を使用すれば人力ではとても連絡のしようがない様な猛吹雪の日でもお互いに暖かいテントの中にいて楽々と連絡がとれるということが行動に大きなプラスになるのである。

キャンプ間の連絡法として今迄はずっと人によってきた。その他に簡単な通信事項であるならば予め打合せの上での手旗、花火などがある。しかしこれらの方法は晴れを前提としているのであって如何なる天候といえども確実に行われるものではない。特に花火、手旗については限られた天候のみしか使用できない。キャンプ間の連絡は悪天候の時にこそより必要なのであって、山の天気が晴ればかりであるならば、無電もそれ程必要ではないし、隊員の徒歩連絡で充分であるし、その方が確実である。この様なわけで我々は無電の実用化に着々と準備をして来た。そして昨年(昭和25年)春 第1号の機械が完成した。』(飯島定二, 登山と電波, p50, 1951年6月号, 電波時報, 電波監理委員会)

『着々と準備して来た。』とさらりと書かれているが、RRAといかなる交渉があり、早稲田大学(山岳部)に日本初のシチズンス・ラジオ実験局の許可が与えられたかについて、CB史研究家の私としては強い興味を覚える。

部報「リュックサック第11」(三、極地法全盛時代, p20, 早稲田大学山岳部編)に以下のような記述がある。

『昭和二十三年五月十二日、部員総会において、まさに戦後の再建が終わったことを暗示するような発表が行われた。部長山内教授の退任と、OB河合亨教授就任である。』 (リュックサック第11)

河合教授が山岳部の部長時代にシチズンス・ラジオの導入が計画され、電波庁RRAより許可を受けたことはこれで明らかだ。しかし河合教授は同大学のフランス文学科を卒業後、母校の教授になられたようで、どうにも無線との接点が浮かび上がってこない。ただRRAの綱島毅電波監理長官が一時期、早稲田大学で無線について教鞭をとられたことがあるとの(私は未確認の)話もあるので、その線の繋がりがあったのだろうか。

また電波時報で飯島氏は『初めての無電を持って我々は嬉々として白馬山腹の神ノ田圃ヒュッテへテストに出かけた。しかし結果は満足出来るものではなく、特に操作に不便を感じた。』と感想を述べられている。私は当初、無線機は早稲田大学の理工学部で内製されたものだと思っていたが、学内での設計なら操作性についても、充分意見が交わされただろうから、この「無電第1号」と称される機械は学外のメーカー(沖電気?)に発注したものではないだろうか。なお1年後の「無電第2号」は沖電気製であることが飯島氏より明らかにされている。

<しかし承認日はわからなかった>

当時は無線局の開設申請に定型フォームはなく、1件ごとに事細かに開設を必要とする理由を書いた承認願いを提出し、CCSの承認を待つという方式だ。無線局にはPermanent Station とTemporary Station という暗黙(?)の大きな括りがあった。

Permanent Station は1月と7月に集計された"List of Japanese Radio Stations" および、春と秋に発行される差分リストの計4回の無線局リストをCCSへ提出し、CCSがそれを対日指令SCAPINで発令する方式を取っていた(従って一部の例外を除き日本の官報には無線局の開設等は告示されない)。

Temporary Station はSCAPINによる発表は行わないが、奇数月の1日付けで "List of Japanese Temporary Stations" をCCSへ提出していた。 1950年3月1日付けのこのリストにはJJ2AJまでが掲載され、5月1日付けのリストではじめて早稲田大学のJJ2AK, JJ2AL が掲載された。従って1950年3月2日から5月1日の間に承認されたことだけは間違いない。下表がその承認内容だ。

はじめ1950年(昭和25年)8月31日までの許可だったが、その後9月1日に変更されている。

本来ならPermanentでもTemporaryでも、RRAからCCSへの承認願いや、折り返してCCSからRRAへの承認書が存在する。これらのドキュメントはGHQが引き揚げる際に本国に持帰り、のちに米国国立公文書館で公開されたため、労力を惜しまなければ発掘できる可能性はある。しかしこのJJ2AK, JJ2ALは1949年10月31日に日本へ電波行政権が返還された12 bandのひとつの54-68MHz帯内で許可された。すなわちRRAからCCSへ承認願いは出ていないし、CCSの承認書も発行されていない。これ以上追跡するのは無理だった。

終戦前の状況や、独立した1952年4月28日以降(返還12 bandでは1949年10月29日以降)の無線局承認に関する日本の書類は、公開されておらず、かつて千代田区の公文書館を尋ねたこともあるが参考になる情報は得られなかった。日本のことを知りたいのに、占領時代なら(米国の公開制度のおかげで)情報がとれて、日本の独立回復後は電波年鑑など一部の刊行物からの情報しか得られないという現実に、何か釈然としないものを感じた。私としてはもう手立てもなく、あとは早稲田大学山岳部の関係者によりJJ2AK, JJ2ALの許可書が発掘され、それが公開される奇跡の日が訪れることを祈りたい。

<無電第1号の納期>

ふたたび前掲書の飯島氏の記事の引用を続ける。

『 ☆ 25年4月某日 白馬にて ☆

無電第1号のテストのため白馬に行く。春山合宿も終わってしごくのんびりした気持ちだ。本当は春山合宿に使用するつもりで造ったこの無電だが遅れて間に合わなかった。・・・(略)・・・』 (電波時報, 1951.6)

部報「リュックサック第11」(p516)によれば、春山合宿の先発隊(2名)は2月22日に東京を出発。飯島氏ら本隊11名は23日に出発とあるので、無線機は2月中旬には完成し免許されることを目指していたようだ。設計・製作・調整の要する時間を考えると1949年10月31日に12 bandが我国へ返還された直後(1949年終盤)にはもうRRAで申請が受理されていて、CP(Construction Permit:予備免許)された周波数にて製作に取掛かったと想像される。

ところでなぜ460-470MHz帯内の指定ではなく、61.430MHzなのだろうか。日本へ返還された12 bandには460-470MHzが含まれていたが、まだ日本ではこの周波数の携帯型無線機の開発実績がなく、(早稲田大が希望する)使用予定日までそんなに日数もないので、とりあえず無電第1号の周波数を実現可能な54-68MHz band内の周波数で申請したのだろうと想像した。またRRAとしても、工業先進国のアメリカでさえ460-470MHzのWalkie-Talkieの完成までに数年を要したことから、このように判断したかも知れない。 あくまで私的な想像だが。

  • 日本初のシチズンス・ラジオの実験局 JJ2AKJJ2AL の初テスト

<無電第1号のフィールドテスト>

『 ☆ 25年4月某日 天狗原テントにて ☆

背中に無電があると思うと履きなれたスキーも何となくぎこちない。・・・(略)・・・早くも天狗原について三人用カマボコテントを張り無電を入れる。アンテナを立てたりケーブルをつないだりなかなか面倒だ。ヒュッテで予め打合せた時間もせまったので発振準備、レシーバーをつけて送話器をもつ。なかなかものものしい姿だ。当人は科学者にでもなったつもりか、いかにもとくいそうである。

時間だ。「JJ2AK」 「JJ2AK」 コールサインが繰り返される。幸いにも向うに入ったらしい。レシーバーをつけた科学者は一生懸命にしゃべる。送信を終わって受信。しばらくの間何も聞こえない。科学者もこうなるとどうしようもない。ただ頭をひねるばかり、傍らでうらやましそうに見ていたのが、それみろといわんばかりにレシーバーを取りあげて自分の頭にのせてしまう。しかしやっぱり聞こえない。ややあって、やっと人間の声らしいもの入る。さかんに頭をひねっている。こちらの受信装置が悪いらしい。

半日やっていたがあまりかんばしくない。自称科学者連もそろそろテントの外の山ばかり気にしてきょろきょろしだす。表は春の陽がサンサンと照ってすばらしい天気。ついに無電をきりあげて荷物を持ってヒュッテに降りる。機械は普段スキーが上手と称する奴に持たせる。持たされた当人は絶対にころべないので形相ものすごく、おかしいほどかたくなってすべってくる。果たしてヒュッテについてお互いに聞いたことをまとめてみるとやはり片方の受信装置が悪いことがわかった。希望をもって山を下る。』 (飯島定二, 登山と電波, p50, 1951年6月号, 電波時報, 電波監理委員会)

<下山直後に書かれた別の記事>

登山関係者の専門雑誌「山」1950年6月号に「超短波無線電話テスト報告 早大山岳部」という記事があるが、電波時報とは内容が少し異なる。こちらの方が下山してまもなくの速報という形で書かれたものである。

日本初のシチズンスラジオの実験局JJ2ALとJJ2AKの第一回フィールドテストは、1950年(昭和25年)4月29日にまず白馬岳山麓にある神の田圃ヒュッテ(標高1800m)で予行練習の通話試験(通信距離50mほど)が行なわれた。翌4月30日に移動無線隊がJJ2ALを持って天狗平(標高2400m)に登り、スキー板をアンテナ支柱にし(上図[右])空中線を縛りつけ、天幕を張って無線室を作り、スタンバイした。天狗平のコールサインはJJ2ALだ。上図[左]には61.430MHzのシチズンスラジオ無線機が写っているが、これを持って登るのは大変だっただろう。

一方、神の田圃ヒュッテに残留組のコールサインはJJ2AKで、約束の15時になりJJ2AL(天狗平)を呼出すと、15時05分にJJ2AL(天狗平)の声がJJ2AK(神の田圃ヒュッテ)に返った。その通信距離はおよそ4kmである。

四月二十八日

晴、信濃森上着午前10時、一行、今村(OB)、鴫原、伊勢木、塚本。雪中露営の装備と用心のための無電の修理用具一式を持っているので荷が重い。汗をしっかりかいて、六時過ぎ、夕日が白馬の影に落ち鹿島槍が茜色に輝く頃、ヒュッテについた。早速無線機械の異常の有無を調べる。

四月二十九日

午前中、電気的に良好なように空中線を立てる位置とか、雪中の設置のとり方について、簡単に部員に説明し、午後よりヒュッテより約20m離れた。高さ約5mの立木に空中線を立て、空中線とヒュッテの間は同軸ケーブルで連結する。窓ぎわに機械を据えつけ、ヒュッテ局用とする。これがJJ2AKである。神の田圃内のヒュッテより約50m離れた場所に長椅子を持出して移動局とする。附近の立木に空中線を立て声で連絡を取りながらテストを始める。声も判然と聞きとれる。電池の消耗が激しいので、テスト約一時間で止める。夕方OB吉阪来る。

四月三十日

晴、雪中露営用具をもって出発したのが九時。神の田圃内のヒュッテ(1800m)の東北の天狗平2400m、距離約4kmの南端、ヒュッテの見通せる所に天幕を張る。スキーを雪面に立て空中線(アンテナ)をしばりつける。天幕内の無電の調整を終り、鴫原・塚本を残し、今村、吉阪両OBと伊勢木はヒュッテ班として下る。天幕のコールサインはJJ2ALである。

午後三時より先ずJJ2AK(ヒュッテ局)より送信を始める。「JJ2AL、JJ2AL、こちらはJJ2AK、JJ2AK、聞こえますか?感度いかが?明瞭度いかが?本日は晴天なり、本日は晴天なり。JJ2AL、JJ2AL、こちらはJJ2AK、JJ2AK、今度はそちらから送って下さい。終り送れ。」

三時五分からはJJ2AL(天幕局)の送信の番である。やがてJJ2AKの受話器から「JJ2AK、JJ2AK、こちらはJJ2AL、JJ2AL、そちらの感度、明瞭度共に良好。こちらの方は聞こえますか。聞こえますか。本日は晴天なり。本日は晴天なり。返事送れ。返事送れ。」と鳴り出したが残念な事に電池が消耗して二〇分で連絡不能となった。三時三〇分テスト終了。大体において所期の目的を達したので鴫原、塚本は天幕を撤収して午後5時頃ヒュッテに着き、互いに状況を報告しあった。先ず第一回のテストは良好な結果とみて良いであろう。・・・(略)・・・以上で第一回のテストは終了したが5月中旬、谷川岳において使用シ、今回の経験を基にして欠点を改良し、より良い成果を上げるべく第二回のテストを行なう予定である。』 (今村正二/鴫原啓佑, 超短波無線電話テスト報告 早大山岳部, 山, 1950.6, 朋文堂, p15)

部報「リュックサック第11」(p517)によれば、春山合宿は3月19日に上高地へ下りて、一旦区切りを付けている。『合宿は全般を通じて良い天候に恵まれ、ほぼ計画通りに遂行できた。期間も予定より大幅に短縮され、相当な食料を上高地へおろしたほどである。』とあるように、元々は4月上旬で終える計画だったかもしれない。無電第1号が完成し施設検査に合格したのは(合宿に間に合わなかったのだから)3月中旬~4月中旬だろう。そして現地残留組のもとへ無電第1号が届けられ、天狗平で第一回フィールドテストが実施されたのではあるまいか。このあと改良型の無電第2号(465MHz)が発注された。

日本のJJ2AK, JJ2ALはアメリカのW2XQDと同じ立場だと考えればよいだろう。つまりアメリカではFCC Rules and Regulations Part 19 "Citizens Radio Service" が作られる(1947年12月1日)以前に活動したのがW2XQD。そして日本では"Simple Radio Service(簡易無線業務)" が作られる(1950年6月30日)以前に活動したのがJJ2AK, JJ2AL だった。

  • もうひとつの61.430MHzの無線局

1950年5月1日付けの "List of Japanese Temporary Stations"(電波庁RRA)には早稲田大学のJJ2AK, JJ2AL と同じ61.430MHzを許可された無線局がもうひとつ初登場している。下表がその承認内容だ。

これは日本貿易産業博覧会(神戸博)の第一会場(神戸市灘区王子公園)で使用された、博覧会の宣伝用ラジオコントロール船を操縦する無線装置(電波型式A2, コールサインなし, 0.15W)で、RRAでは早稲田大学(山岳部)の無電第1号とともにシチズンス・ラジオの実験局として考えていたようだ。そういう意味では61.430MHz こそが我が国の最も初期のシチズンス・ラジオの周波数だといっても良いだろう。

神戸博の会期は1950年3月15日から6月25日までだった。会場内のプール(といっても泳ぐプールではなく、いわゆる人工池)に浮かべられた模型船を無線操縦した。

『プールを隔てて正面が第一生産館の大きな建物、その前の菱形がプロムナード、左方は世界館とその降り口の階段、芝生の色も爽やかに、南国コーヒの香りが流れる。』 (日本貿易産業博覧会"神戸博"会誌1950, p36, 1951,日本貿易産業博覧会事務局)

『プールには無線操縦の"神戸博丸" が浮かび 妙なるメロディの音楽を船内から響かせつつ右へ左へ縦に横にと、サイドに設けられた操縦所からの電鍵のまにまに、遅く速くさざ浪けたてて動き廻った。』 日本貿易産業博覧会"神戸博"会誌1950, p36, 1951,日本貿易産業博覧会事務局)

博覧会終了直後の1950年6月30日、460-470MHz帯にSimple Radio Service(簡易無線業務)が創設されたが、まだまだ小型軽量で安価なラジコン用UHF無線機の実用化は困難だった。

簡易無線が創設された後でも、しばらく61.430MHzはシチズンス・ラジオの代用周波数として指定され続けた。1950年(昭和25年)10月26日の電波監理委員会告示第126号によれば、東京神田の財団法人電機学園(東京電機大学)に1950年10月7-9日の3日間、模型自動車の無線操縦の公開実験を目的とし、61.430MHz(0.5W, A2, コールサインなし)を免許している。さらに同学園は翌年10月6-8日にも、周波数61.430MHzの模型自動車のラジオコントロール装置(0.1W, A3, コールサインなし)の免許を受けている。すなわち460-470MHzが市民用に解放されたものの、その製作コストや技術的な壁から、61.430MHzが我国のシチズンスラジオ周波数として代用された時期が確かに存在したのである。

しかしその後、1953年12月10日に27.120MHzでラジオコントロールの実験局JJ3FGが許可されたように、このような安価な無線利用は27MHzへ移った。ラジオコントロールは当初想定されたシチズンス・ラジオの用途のひとつではあったが、残念ながら日本では460-470MHz帯で実用化(商品化)には至らなかった。

  • Apr. 24, 1950 (米国視察報告会で市民無線を紹介・・・日本)

アメリカ視察から戻った電波庁RRA技術課長の新川浩氏が、4月24日に東京商工会議所で帰国講演を行った。その速記録からおこした記事が「電気通信」誌(アメリカのラジオについて-欧米電気通信講演集-, 1950年 5月号, 電気通信協会)に掲載された。

『私は昨年の暮れに出発いたしまして約3ヶ月アメリカの無線の実情を監察しました。電波監理の技術面と電波伝播の研究、この二つの技術面を調査するように言われて参ったのでありまして、この演題に掲げてありますような「アメリカのラジオについて」という大げさなことを申しますにはあまりに期間も短くどうかと存じますが、見て参りましたところの一端をご紹介させて頂きます。・・・略・・・今日の御報告は主としてこのF.C.C.の無線の分類によりまして、その各々の分野においてアメリカではどのように無線が使われているかということを簡単に申し上げたいと存じます。 ・・・略・・・

最後の Citizens Radio は、一般の市民が自由にラジオを使おうという目的であります。これは460メガの間に下図の決められたものを使うので、どんな目的に使っても構わない。その代り混信を起しても使った人の責任において困るなら困れという使わせ方をしているので、まことに多種多様の用途がございます。例えばアメリカの人はみんな自動車を持っていますが、ドライヴして家へ帰った時に一々自動車から降りて車庫の扉を開けて又閉めるのが厄介だから、自動車の中から無線操縦で開けて又閉めるということもやっておりますし、又子供を置いて両親が隣の家に行っている間に、子供が泣くとそれを遊びに行っている両親に告げるというのや、ハイキングに行く時に持って行って、ヘバッた組とヘバラない組と話合ったり、魚釣りの現場に持って行ってお互に「釣れるか」など話をしたり、日常会話の延長としての無線の利用-新しいサーヴィズが拓けているわけであります。アメリカでもいい機械がまだ出来ておらないので、利用者も昨年は200局位しかいないが、今年にでもいい機械が出来れば急激に増えるだろうと言っております。 』

アメリカにおいてもラジオコントロール用のCitizens Radio Service(CRS)検定機はまだ誕生していないので、報告にある車庫の扉の開け閉めは、Experimental CRS 時代の実験例だと考えられる。また昨年CRSは200局ぐらいだというのは1949年10月31日現在のFCCの局数統計のことだろう。

  • May 1950 (使用が中止された「市民無線」という言葉・・・日本)

RRAの新川浩氏が「逓信協会雑誌」(1950年5月号,pp14-16,逓信協会)に「誰でも無線が使えるアメリカ」という啓蒙記事を書いた。

『放送に次いで国民の生活に直接用いられるものに市民無線というのがあります。これは超短波を用いた小型の移動用の無線電話機でありまして、登山、ハイキング、魚釣りにもついていって少し離れた所で連絡をとることも出来るし、子供を家において外出した両親が子供部屋に置いたこの無線機で子供が目を覚ましたのを知って帰宅するとか、又は自家用自動車の車庫の扉をいちいち車から下りないで無線操縦で開閉したり色々面白い利用面があります。』

内容は帰国講演会のときと較べるとやや薄いが、文中で Citizens Radio をはっきりと「市民無線」と訳して使っている。このように我が国では日本版Citizens Radioの名前を「Simple Radio, 簡易無線」と決定するまでの時期においては、アメリカのCitizens Radio のことを「市民無線」と呼んでいたのである。

それが「簡易無線」という日本名が決まるや、電波監理委員会RRCおよびその実行部隊である電波監理総局は、「簡易無線」と混同しやすい「市民無線」という言葉の使用をやめて、アメリカの制度を「市民ラジオ」、日本の制度を「簡易無線」と呼ぶことにした。今では日本の制度のことも「市民ラジオ」と呼んでいるが、スタート時点では意味するところが違った。

【参考】 ところで「逓信協会雑誌」を発行していた逓信協会の富安謙次会長も、この市民無線の記事を読んでいただろうが、まさか自分が電波監理委員会RRCの委員長として市民無線の規則を決める側になるとは思ってもいなかったようだ。富安会長は東大法科在学中に東大俳句会を興した。1920年(大正9年)に逓信省MOCへ入省し逓信事務次官までのぼったが、1936年(昭和11年)にあっさり官界を引退して俳句の世界へ飛び込んだ。その富安会長を委員長に推挙したのは電波庁RRAの綱島電波監理長官だった。電波タイムス社を創業した阿川秀雄氏は連載「続・私の電波史」(電波タイムス,1991年4月26日)で当時を回想されているので引用する。

『こんな出来ごともあった。それは初代委員長に推された富安さんの 雲がくれである。"今さら役人なんて" と富安さんは世塵を避けるように、俳句の指導といって東京を脱出してしまったのである。困ったのは当の富安さんを推挙した綱島電波局長である。百万手をつくしたが行方は遥同として分からない。ところが幸運なことに網島さんの部下であると同時に、富安さんの高弟である周藤二三男という人物がいた。蛇の道はへびというか、富安さんが愛知県岡崎市方面に出掛けていることが判った。取るものもとりあえず網島長官は、周藤係長を同道し岡崎にに向かったが、すでに富安さんは岡崎を去り、再び行方がわからなくなった。』

偶然、網島長官の部下が富安氏の俳句の高弟(まな弟子)だった。最終的には俳句仲間をたどり、(岡崎から)名古屋市内の旅館へ雲隠れしたとの情報を得て、綱島長官は周藤係長と名古屋へ説得に向かった。阿川氏の記事の引用を続ける。

『その日のことを周藤氏は "あのときぐらい綱島長官のお困りになった顔を見たことがない。また風生先生(富安氏)も、長官が辞を低くして何度も懇願したのに、なかなかウンとおっしゃらない。二日目になってようやく風生先生は 「綱島クンもこのままでは帰られないだろう。そのかわりワシは電波にも行政にも素人だから、キミが全面的に応援してくれなければ」 と言われましてね。あのときは僕も寿命が縮まる思いでしたね。" と淡々述懐している。』

  • May 1950 (Model 100B が青少年科学雑誌の表紙になる・・・日本)

大正時代に衆立無線研究所の苫米地貢が米国でブームになったCitizens Radio を紹介する月刊誌 "無線と実験" を創刊したが、まもなく「子供の科学」を出版していた誠文堂新光社により買収された。同社は終戦後、「初歩のラジオ」(1948年-)を創刊し、青少年の科学教育にも力を注いでいた。

誠文堂新光社はラジオ・アンド・テレビジョン日本語版 3月号(創刊号)で掲載したAl Gross のWalkie-Talkie を参考にして、「初歩のラジオ」1950年(昭和25年)5月号の表紙を作った。

イラスト担当者がRadio & Terevision News の写真をもとに左右逆転させた絵を描いたようだが、細部まで結構緻密に描かれている。Model 100B のマイク部分にはCitizens Radioの頭文字のCとRを重ね合わせたデザインが施されているのだが、それも真似ているようだ。

Model 100B のプッシュトーク・ボタンは Walkie-Talkie に向かって右側にある。Radio and TV News 日本語版3月号の女性は右手の親指でプッシュトーク・ボタンを押しているが、初歩のラジオ5月号のイラストだと左手の中指と薬指で押す形である。 まあどうでもよい視点ではあるが、それにしても米国でCitizens Radio Service の改正案が施行されて1年にも満たないうちに、日本の科学少年たちにも Al Gross の検定第一号機Model 100B の雄姿が伝えられていたのである。

【参考】なおModel 100Bの母体となったスパイ無線機SSTC502を改造したWalkie-Talkie(Ultraphone)は、すでに1948年12月に「僕らの無線学」(菊谷秀雄, 1948, 電子社)にイラストが掲載されている。1948のページを参照されたい。

  • June 1, 1950 (我が国にRadio Regulatory Commissionが誕生・・・日本)

1950年(昭和25年)6月1日、GHQ/SCAPマッカーサー元帥の命令により政府の影響を排除した電波監理委員会RRC(Radio Regulatory Commission)が誕生した。

Sec 19.14 (b)

【Old】

Sec 19.19 (b)

【New】

Application for construction permit authorization for a station in the citizens radio service proposing to employ equipment which is not type-approved by the Commission shall be submitted on FCC Form 505 to the Federal Communications Commission, Washington 25, D.C. Such applications shall be accompanied by complete data in response to item 10 of the application form.

Application for construction permit authorization for a station in the citizens radio service proposing to employ equipment which is not type-approved by the Commission shall be submitted on FCC Form 505 to the Federal Communications Commission, Washington 25, D.C. Such applications shall be accompanied by data describing in detail the design and construction of the transmitter and the methods employed in testing it to determine compliance with the technical requirements set forth elsewhere in the rules in this part.

これはIFFトランスポンダーBC-645 のような非検定機で Class B 市民ラジオ局を開設しようとする場合の申請方法をより詳しく説明したものだった。逆にいえば非検定機での申請が多いことを暗示していはいまいか?

このDocket No.9818に対する意見の受付は11月17日までとした。

  • Oct. 27, 1950 ・・・ 簡易無線の改正案が発表される

1950年(昭和25年)10月27日の官報で「電波監理委員会聴聞開催公告」があり、諸規則の改正案が発表された。簡易無線に関して最も大きな変更は、RRC規則第三号(電波法施行規則)に第十二条の二が追加されアメリカのA級局・B級局的な考え方が盛り込まれた点だろう。

(簡易無線局の条件)

第十二條の二 簡易無線局の周波数及びその空中線電力をそれぞれ左の通り定める。

一 四六三Mc 及び 四六七Mc の周波数 空中線電力三ワット以下

二 簡易無線業務用の周波数帯に属する周波数であって、別に公開する前号以外の周波数 空中線電力三〇ワット以下

アメリカとほぼ同じ、出力30Wまで認めるという改正案を、RRCは良く決断したものである。

  • Nov. 1950 ・・・ <謎> 朝日新聞社に465MHzの簡易無線 JKX20, 21 が予備免許されたのか?

CQ誌11月号は冒頭P1で『市民ラジオ第1号 朝日新聞社に許可か!』と伝えた。

『我が国の465Mcトランシーバーによる市民ラジオ第1号がいよいよ許可される見込となり、今月は特に朝日新聞社の絶大な御好意により本誌12ページにその全貌と作り方を皆様にお贈りします。上は実験中の本機。』 (CQ ham radio, 1950.11, CQ出版社, p1)

【注】この記事でいう「上」というのが左の写真である。また電波監理委員会RRCはアメリカの無線制度を「市民ラジオ」、日本の無線制度を「簡易無線」と呼びわけようとしたが、意に反してRRC関係者以外ではこの記事ように、アメリカ・日本の区別なく「市民ラジオ」という言葉が好んで使われるようになった。

ここで気になる文字がいくつか散見される。『市民ラジオ第1号がいよいよ許可される見込みとなり』とあるが、「第1号の本免許」のことだろう。そして『いよいよ許可される見込みとなり』とまで言い切っているので予備免許は既に得ているのだろう。

9月11日に無線局開設の根本基準が示されたことで、465MHz簡易無線局の開局申請が受け付けられて、朝日新聞社に簡易無線局の第一号コールサインJKX20,JKX21が予備免許で指定されたと想像する。なお簡易無線局のコールサインの組立てについてはCB Callsigns のページをご参照願いたい。

電波監理委員会RRCから、奇数月に発行されていた "List of Japanese Temporary Stations" の9月版(9月1日現在)、11月版(11月1日現在)には朝日新聞社の465MHz実験局はない。もし簡易無線局としての予備免許ならば、このリストには掲載されない。簡易無線はTemporary Stations ではないので、このリストの集録対象ではないからだ。

本文12ページより、この簡易無線用無線機を渡邊泰一氏が「市民ラジオ用 465Mc トランシーバー」というタイトルで発表されているので引用する。

『朝日新聞社に試作を依頼されて、今春465Mcのトランシーバーを製作したので、何かのお役に立てばと思い大要を説明することにした。』 (渡邊泰一, 市民ラジオ用465Mcトランシーバー, CQ ham radio, 1950.11, CQ出版社, p12)

春製作したということで、研究はかなり早い時期からスタートしていたようだ。

【参考】 記事では筆者の経歴等には触れていないが、戦前ハムのJ2JK(exJ1FV)渡邊OTではないだろうか。J2JK渡邊OTはVHF通信のパイオニアで、5m Band(56MHz帯)で神奈川県逗子(J2JK渡邊OT)-東京市麹町区(J2KJ森村OT)間の山越え見通外通信の記録を作った方でもある。なお両OTは東工大の同級生だったという。また国防無線隊員だった渡邊OTは、昭和12年の夏に東京朝日新聞社に56MHzの無線機を持ち込み、屋上にアンテナを貼り、東京湾上の船舶と通信実験を行っているので、朝日新聞社とのつながりもある。

◎ 朝日新聞社にも JJ2AS, JJ2AT, JJ2AW, JJ2AX, JJ2AY, JJ2AZ のいずれかが免許?

実際に電波を発射してのフィールドテストの様子が報告されている。

『465Mc でも、FMで水晶制御とし、高級な受信機を用いれば、優に数十キロメートルは実用となり、また建物の間を走る自動車としても実用があると思われるが、差し当たって作ったものは極く小型軽量のトランシーバーで、もちろん送信は自励のAM、受信は超再生である。結果を先に書くと、実用的通達距離を見通せる間でも約1km、最大2~3kmであって、用途にもよるが、もっと通達距離が大きい事が望ましい。木造家屋、樹木等も相当邪魔となり、場合により著しく通達距離の縮まる事も経験した。出来上がり概観は写真のごとくであるが、数台の試作をしてから組んだ・・・(略)・・・』 (前掲書)

465MHzを幾度もフィールドテストを重ねた様子が伝わってくるが、正々堂々と書かれていることから、無許可電波の発射ではないだろう。この時期、多くの無線雑誌で簡易無線の製作記事が書かれたが、文末にはくれぐれもアンテナをつないで電波を発射しないようとの注釈が添えられていた。このように屋外通信の実験結果が報告されたものは他に例がない。

試験の時期的にはかなり早い(夏頃か?)ようにも思われ、そうなると簡易無線ではなく実用化試験局であろう。読売新聞社の実用化試験局かもしれないとして前述した、JJ2AS, JJ2AT, JJ2AW, JJ2AX, JJ2AY, JJ2AZ の中に朝日新聞社のウォーキートーキーも含まれていたのではないだろうか。

さらにこのCQ誌11月号が発売になった頃には、簡易無線局JKX20, JKX21の予備免許で電波を発射していたかもしれない。それが記事中の『市民ラジオ第一号がいよいよ免許される見込みとなり』という自信につながっているように思えるのである。

記事の後半では、渡邊氏が単独で朝日新聞社から製作・実験を請け負っていたのではないような記述がみられる。

『トランシーバーゆえに実験には少なくとも2台作らねばならぬ。出来上がって、その2台を同じ室内とか2~30メートル位でお互い聞こえる様にはすぐなるが、充分に送受信の調子を出すには相当苦労を要し難しいものと覚悟された方が良い。しかも2台だけでは送信受信のいずれの方が悪いのかなかなか見当がつかず、最良の状態にまで持っていくにはぜひ3台作って研究される事をお薦めする。我々は数台で比較しつつ研究改良したが、それでも初め簡単に考え積層電池を使って実験したため数万円の電池を無駄にしてしまったゆえ最初は大容量の電池かエリミネーターで調子を出した方が良いように思う。』 (前掲書)

真空管にはプレート、グリッド、フィラメントそれぞれに電圧を引加しなければないが、その電圧が異なっていた。フィラメント電源は真空管を熱するのが目的なので低電圧で済むが、プレート電源は熱せられた金属(フィラメント又はカソード)から飛び出した熱電子を吸い寄せるために100V以上の直流のプラス電位を掛ける必要があった。そのため少なくとも低電圧と高電圧の電池が必須となり、その電池が高価だったことも Al Gross の465MHzのWalkie-Talkie が流行らなかった要因のひとつだろう。企業向けならまだしも、個人向けにはこんなに維持費のかかる無線機は普及しなったということだろう。

  • Nov. 1950 ・・・ Al Gross のModel 100B のイラストが

放送技術の1950年(昭和25年)11月号と12月号に「シティズンズ・ラジオ465Mc送信機」という製作記事が連載された。

この連載記事のイラストをよくご覧いただきたい。そう。ここにも Al Gross のModel 100B がさりげなく登場していた。11月号、12月号ともにModel 100B のイラストが使われた。

(高橋友吉, シティズンズ・ラジオ 465Mc 送信機, 電波科学1950年11, 12月号)

  • November 1950 ・・・初のラジコン用FCC検定合格機(Citizen Ship Model CC)の広告

Vernon C. Macnabb は1923年に、ニュージャージー州のスティーブンス工科大学(Stevens Institute of Technology, Hoboken, N.J.)を卒業したあと、当時の米国で最大のラジオ受信機メーカーAtwater Kent manufacturing Company で真空管の研究やラジオ受信機を設計した。 1932年にThe Rudolp Wurlitzer Companyのチーフエンジニア、その後Fairbanks Morseの無線部門のチーフエンジニアを経て、1950年に自分の名前をとった無線機器会社をインディアナ州インディアナポリス(Indianapolis, Ind.)に創業した。彼が開発した465MHz のClass B シチズンス・ラジオ送信機はラジオコントロール用としてはFCC検定合格の第一号だった。そして彼はModel Airplane News 誌1950年11月号に、Vernon C. MacNABB Co.社としてその検定第一号(ラジコン)Model CC の広告を打った。

しかし後述するが、1950年7月の全国模型飛行機競技会でこの装置が使われたので、春から夏ごろには発売されていたかも知れない。またFCC Ruleの周波数安定度を得るのに18ヶ月の研究を要したとのMacnabbの証言から逆算すれば、1948年後期から開発が始まったと想像される。Model CCのFCC検定合格番号はCR-403 だった。Al Grossが取得したCR-401(初代Model 100B)、CR-402(改良版Model 100B)に次ぐ、世界で三番目のシチズンス・ラジオの検定合格機である。

このラジオ・コントロール用として初の検定合格機だがシチズンス・ラジオ界よりも、むしろラジコン界の方で有名だ。しかしModel CC の情報はそう多くない。誠文堂新光社のラジオ・アンド・テレビジョン・ニュース 日本語版 1952年(昭和27年)11,12月合併号に設計者Macnabb 自らが書いた解説記事(Vernon C. Macnabb, 市民ラジオ周波数帯による模型飛行機の無線操縦, Nov.-Dec.,1952, pp1-4)があるので以下引用する(ちなみに本家のアメリカ版ではMar.,1952.pp35-37)

◎市民ラジオの歴史について

『動いている物体や遠方にある物体を無線で操縦するということは、ラジオ自身と同じくらい古くから行われていたものではあるが、普通の市民がこれをやるには、まずラジオ・アマチュアの資格を取得する必要があり、それには電信符号をおぼえ、技術的な試験に合格しなければならないのであるから、ある程度の制限があるといわざるを得ないのである。1949年6月になって、連邦通信委員会は技術的な知識もなく、電信符号を読むこともできない一般市民が送信機を操作できる周波数帯を与えることが必要であると考えて、460ないし470Mcのいわゆる市民ラジオ周波数帯を開設した。』

(写真左:送信機Model CCシャーシ、写真中央:送信機Model CC、写真右:受信機Model CRのエスケープメント)

◎ラジコン検定送信機 Model CC について

『送信機の寸法は22.9 x 10.2 x7.0cmで、電池を自蔵している。重さは電池を含めて1.8kg以下である。受信機の重量は140gで、これに電池の重量260gを加えても1ポンド(450g)よりは軽い。大きさは9.5 x 5.4cmである。・・・略・・・送信機は自励式発振器にアンテナを直接結合したもので、その設計に当たり問題になったのは安定度であった。・・・略・・・くし型のような金物は同調回路とアンテナ回路の間の容量結合を小さくして、連邦通信委員会の安定度の条件を満足させるために入れた静電遮蔽である。同調回路には並列にバイメタルの小容量を入れてあって、温度の変化による周波数変動を小さくするようにしてある。送信機は製作前に連邦通信委員会の認可を得る必要があり、その条件は真空管の加熱中、電池の電圧の低下、温度の変化など種々の原因による周波数の変動が465Mcを中心として0.4%以下であるということである。このような厳重な条件を満足する送信機を実用化するには18ヶ月を必要とした。』 やはり周波数の安定化に苦労したようで、バイメタルを使用したコンデンサーで温度補償を行っている。送信アンテナは写真で判るように、半波長のフォールデット・ダイポールに反射器を付けた2エレメント八木型である。広告の絵にあるように模型飛行機の方向へビームを向けて使用するのだろう。

◎ラジコン受信機 Model CR と、シティズン・シップの評判について

『送信機から出た信号を受けてリレーの接点を閉じるのが受信機の役目である。模型飛行機に乗せるためには、目方をできるだけ軽くする必要があり、使用真空管は1個だけである・・・略・・・受信機が飛行機にのって空中高く飛んでいるときには、大地による反射や吸収がないから、半マイル(約800m)以上の距離まで有効である。人間の腰ぐらいの高さでは、有効距離は約3.3マイル(約500m)である。』

『このセットは "シティズン・シップ無線操縦装置" と命名されているが、その性能がどんなに優秀で安定なものであるかということは、次の事実によってもわかることと思う。すなわち、工場で最初に生産した製品が、1950年7月のテキサス州ダラスで開かれた全国模型飛行機競技会で使用されたのであるが、これを使った人は第一位の栄冠を獲得したのである。もちろん、この人が第一位になったのはラジオだけによるものではないであろうが、絶対的に信頼できる装置によるのでなければ、第一位になるのは不可能であるということはできよう。送信機から電波を出したときに、無線装置が動作しないということは一度もなかった。他の競技者の中には、アマチュア・バンド用の手製の操縦装置を使って、それがうまく動作しないために飛行機を操縦することができなくなり、飛行機が遠方へ飛び去ったために得点を失っただけでなく、落ちたところでこわれてしまったというような例も少なくなかったのである。』 当時はアマチュアバンドの53MHzがラジオコントロールに使用することが許されていた。Vernon C. Macnabb はアマチュア無線家(W9FZT)でもあった。

◎ラジコン用CRS Class B の免許申請について

『 "シティズン・シップ無線操縦装置" を使用するには、試験やモールス符号のテストを受ける必要がないから、事実上許可書は不要であるということができる。送信機には一々連邦の書式を同封してあるから、買った人はこれに書きこんで、もよりの連邦通信委員会の出張所へ郵送すれば、その一部に番号を押して返してくれる。これがこの送信機を使用する人の許可書になるのである。この許可書さえあれば、だれでもこの送信機を使うことができる。ただ18歳未満の者は許可を受けることができないことになっているが、親が許可を持っていれば。18歳未満の者でも送信機を使用できる。』 当時からシチズンス・ラジオを購入すると開局申請書が同梱されていたようだ。文中にある「番号を押して返してくれる」とはコールサインのことだろう。無線電話と同じく「地域番号+W+数字4桁」のコールサインが発行されたが、FCC Rule ではラジオコントロールではコールサインの送出は不要とされているので、事実上コールサインを使うシーンはない。単なる許可番号程度の意味合いでしかない。

Al Gross の世界初の電話用FCC検定合格機Model 100B(のおそらく試作品?)は、ご遺族により地元の州立バージニア工科大学(Virginia Polytechnic Institute and State University)に寄贈され保存されているが、驚くべきことに世界初のラジコン用FCC検定合格機Model CCは、熱心な日本の研究者により完全な姿のまま我国でも保存されている。

【参考】 ご好意により当サイトでの掲載を快諾いただけました。どうぞ皆さんModel CC の勇姿をご覧ください!

【Chitizen Ship, Model CC, CR-403】(所蔵・写真提供:博物電機研究所様, http://www.gem.hi-ho.ne.jp/no-koshobu/index.htm

ラジコンページ:http://www.gem.hi-ho.ne.jp/no-koshobu/cradiocontrol/cradiocontrol.htm

  • CQ Ham Radio 誌の改正簡易無線制度の聴聞会速報

CQ誌12月号は冒頭P1「電波法によってあなたの出せる電波」で、免許を要しない無線局と簡易無線業務の局が解説されているので引用する。

『市民ラジオの規定変更か!

現在施行されている電波監理委員会規則は11月30日で一応効力を失うため、規則改正の聴聞会が開かれているが、市民ラジオ(簡易無線業務)に関して12月1日より次のように改正されるもようである。

従来465Mc の単一周波数で出力も3W以下であったものが、周波数463Mc 及び467Mc 出力3W以下、周波数偏差±0.4%以下(467Mcは主として個人の業務用で広い構内での規則的な使用等)。周波数463~467Mc間の一定の周波数、出力30W以下、周波数偏差±0.02%以下。以上の二本建てになるらしく、之は大体アメリカのFCCによるシティズン・ラジオの規則に準じたものと思われる。

尚、従事者の国家試験も従来は特殊無線技士乙を受ければよかったが、検定済の機器を使用する場合を除いて自作のもの等を使うときは、第2級無線技士(今月号28頁参照)を受けなければならないもようである。』

  • Nov. 30, 1950 (RRC規則が全面改訂される・・・日本)

1950年(昭和25年)11月30日、RRC Regulations(電波監理委員会の諸規則)が聴聞を経て全面改正され、12月1日より施行した。この規則が改正を重ねながら現在もなお生きている。(クリックで拡大)

この「Radio Regulatory Commission Regulations」はGHQ/SCAP 向けに印刷されたもので、No.14 からNo.19 までの6つの規則が収められている。

(RRC Regulations の新旧対照表)

◆三段ロケット方式で打上げた民主的規則

簡単に改正規則の経緯を説明しておこう。4月26日、電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)が国会で成立。5月2日公布し、6月1日より施行された。

さっそく電波法に基づく新しい諸規則を制定しなければならないが、それには電波法第83条で(民主的な)「聴聞」を要するとしていた。しかし聴聞を経て諸規則を制定するには相当の期間を要し、国民の電波利用を阻害しかねない。そこで電波法には、これに対処する附則が付けられていた。

附則第12項

附則第13項

この法律施行の日から1箇月以内は、電波監理委員会は、第八十三條第一項第一号の規定にかかわらず、聴聞を行わないで同條同項同号の電波監理委員会規則を制定することができる。

前項の規定により制定された電波監理委員会規則は、この法律施行の日から六箇月を経過した日にその効力を失う。

◎ まず6月1日の第一回RRC会議では、1ヶ月以内なら「聴聞」を経ないで規則を作れるという電波法附則第12項の規定により、"電波法及び放送法の施行に関する暫定規則"(電波監理委員会規則第2号)を審議・議決し、ただちに即日施行した。その内容は「電波監理委員会規則が制定されるまでは、なお従前の例による」を旨とする「規則の空白期間」を埋めるものだった。RRCとしては新しい諸規則を民主的に審議する時間が必要だからだ。これが第一段ロケットである。

◎ そして大急ぎで審議が始まり、6月30日に電波監理委員会規則第3号から第8号を可決・施行した。465MHzを簡易無線にした記念すべき誕生日だ。(私はこの6月30日の旧規則に基いて、朝日新聞社が465MHzの簡易無線の第一号の予備免許を得たのではないかと思っている。) これが第二段ロケットである。

◎ しかし電波法附則第13項で「聴聞」を経ていない諸規則は電波法施行より半年(すなわち12月1日)で効力を失うとされていた。そこで電波法の定めに従い、8月より聴聞を実施したうえで、11月30日に電波監理委員会規則第14号から第19号を可決した。そして1950年(昭和25年)12月1日より第三段目のロケットが点火され、現在に至るというワケ有りの過程をたどったのである。

<「簡易無線業務の局」から「簡易無線局」に昇格>

RRC Regulations No.14(Radio Law Enforcement Regulations,電波法施行規則)の、Article 4: Classification of Stations and their Definitions(第4條: 無線局の種類及び定義)において、初めて"Simple Radio Station"「簡易無線局」が『簡易無線業務を行う無線局をいう』と定義された。

これは1950年11月30日のOfiicial Gazette(官報)にも掲載された。

(Official Gazette, Nov. 30, 1950)

<Simple Radio(簡易無線)の周波数>

RRC Regulations No.14(電波法施行規則)のArticle 13: Requirements for Simple Radio Station(第13條:簡易無線局の条件)は次のように改正された。これは聴聞では第12條の2だったものである。(左図はOfficial Gazetteより)

(1)周波数463Mc, 467Mc:空中線電力3W以下

(2)簡易無線業務用の周波数帯に属する周波数であって、別に公開する前号以外の周波数:空中線電力30W以下

ほぼ工業会の要望が取り入れられた形での改正だが、アメリカでいうA級局の周波数はRRC Regulations No.14の中には明記されず、別途公開する周波数ということになった。制度的にはいわゆるA級局・B級局的なものが明文化されたが、A級局の周波数が未定なので(A級局の)開局申請はできない状態だった。

  • Dec. 27, 1950 (Docket No.9818) 可決採択

12月27日、FCCはClass B Citizens Radio の周波数許容偏差を0.5%に緩和する案(Docket No.9818)を可決採択した。日本の規則では摂氏10度から35度、および湿度35%から80%という検査条件だが、米国では摂氏マイナス18度からプラス48度、および湿度は摂氏27度下で20%から95%という非常に厳し条件だからだろう。