マルコーニ 1915-1922

短波開拓の成果を学会発表

パラボラ式無線機の実験

短波から中波

海上公衆通信の商用化

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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1915~1922年 目次

1) 軍事通信用として短波ビームに注目(1915年) [Marconi編]

1913年(大正3年)7月28日、第一次世界大戦が勃発しました。当初、イタリアは中央同盟国側であるドイツ、オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結んでいたため、中立の立場をとっていましたが、1915年春になって連合国側につきました。

1915年(大正4年)、マルコーニ氏は志願し入隊するために母国イタリアに戻りました(左図)。

そして軍事上の秘密通信の必要から"指向性通信"の研究を始めました。

敵国(ピンク色)と自国(みどり色)が対峙する戦場の最前線において、自国のある孤立部隊が敵国の3部隊との戦いに苦戦しているとします(左図)。

そこで少し離れた地点にいる味方部隊に援軍を要請しようとすると、電波は四方八方に伝播するため、その救援通信を敵部隊に察知されてしまいます。

この「電波の大きな欠点を解消するのが指向性通信法だとマルコーニ氏は考えていました

父はイタリア参戦と同時(1915年)に軍隊に志願し、工兵隊士官として前線にいる無線士の遊軍の監督に当たった。・・・(略)・・・無線通信の機密保持の重要性はかつてないほどに高まり、父はその頃から、短波や無線方位測定器の特性についても調査を始めていた。(デーニャ・マルコーニ・パレーシュ, 御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大学出版局, pp252-253)

第一次世界大戦に伊太利が参戦するや、マルコーニは従軍して、無線通信隊の指揮官となった。大戦中、彼は秘密通信を探求する為に少年時代の実験に再び戻って短波通信を研究した。すなわち彼は指向性電波の発射組織を考案し、これに依って電波を節約し、電波が敵側に放射されるのを防いだ。彼はまた、方向探知機を考案して、敵の送信局の所在を探知し、同時にこの方向探知機を伊太利軍艦に設置して海岸局からの無線通信に依って軍艦がその位置を知るのに大いに役立った。(岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p467)

一九一四年、ヨーロッパに第一次世界大戦がはじまり、あくる年(1915年)イタリアも連合国の側にたって戦いに加わりました。愛国心にもえるマルコーニは、専門の無線電信でいくらかでも国のお役にたちたいと考えました。今までの無電は、戦場の通信にたいへん役立ちますが、電波を四方八方へ送り出しますので、盗み聞きするのは簡単ですし、敵の電波で妨害を受けやすいのです。マルコーニは、敵に盗み聞きされないような新しい無電の方法を実用化したいと思いました。それには、波長の短い電波、つまり短波を使うのが一番です。短波は、ヘルツの実験でも証明されたように、光線みたいに真っ直ぐに進みますし、金属板を使って反射させたり、一点に集めたりすることもできます。(市場泰男, 『通信の開拓者たち』さ・え・ら伝記ライブラリー13, 1966, さ・え・ら書房, pp207-208)

マルコーニ氏は1896年(明治29年)9月2日、英国のソールズベリー平原で試していた反射器実験のことを思い出し、その経験から今回の「短波ビームの研究」が始まりました。そういう視点で考えれば、ソールズベリー平原での反射器実験は短波発展史の中でも、とても重要なトピックスだと私は思います。 

1937年(昭和12年)、マルコーニ氏が逝去された際の、朝日新聞に掲載された東京帝国大の隈部一雄氏の追悼記事から引用します。

短波については彼の研究の初期、一八九六年に、既に放物形の反射面を使って指向性を与え得ることを示しているが、世界大戦中、軍用の目的の為に、指向性を持った近距離通信を行う為、短波の研究を始めた。その結果は意外にも昼夜を問わず、地球の対焦点とさえも通話することが出来るという結果を生んだ。(隅部一雄, "故マルコール候[下]", 『朝日新聞』, 1937.7.25)

戦争が技術を進化させたとはよく言われますが、短波通信の "真の開拓" といえるものは第一次世界大戦の軍事上の要請でスタートしました。

2) マルコーニの短波通信の試験が始まる(1916年3月) [Marconi編]

1947年(昭和22年)に出された "ラジオ発達史" から引用します。

『 (マルコーニは)・・・無線電信の発明に示した天才を、短波の研究においても示したのであります。マルコーニが短波の研究に手を染めたのは、短波が世界の関心を集めるようになった第一次欧州大戦さなかの、一九一六年頃からです。すなわち彼は、電波の反射作用に着目し、空中線から発射する電波が四方に伝播せず、一方向にだけ伝播するような反射装置を考案したのであります。彼の考案した反射装置は、一列の格子状の鉄鋼マストで出来たものでした。それはちょうどサーチライトの反射板のような働きをするもので、しかも電気エネルギーを集中して一定の方向に発射し得るものでした。従って、あらゆる方向に電波を送出する放送でない限り、この方法によって秘密を確保し得ることになったのであります。例えば、米国から英国へ電波を送信する場合、イタリーがこのビームの範囲内に入っていなければ、いかにして通信を傍聴しようと思っても、それは出来ない相談になったのです。このビーム式送信は(初期の)二米から(完成期の)二六米の間の短波長で発射されたのですが、それは短波の将来性に大きな進路を与えたものでした。(栄谷平八郎, 『ラジオ発達史』, 1947, 通信教育振興会)

【参考】 第一次世界大戦末期(1918年頃)には米国海軍が試作した短波の小電力無線機で、艦隊内における船間連絡の試験を行なったといわれています。短波だと敵艦に傍受される恐れが少ないからでしょう。ただし実験にとどまり、米海軍での本格的な短波試験は1923年(大正12年)に海軍研究所で始まりました。

1916年(大正5年)3月、マルコーニ氏はジェノバ(Genoa, Italy)で最初の短波ビーム通信試験を行いイタリア海軍へ報告書を提出しました。艦隊内での連絡通信を敵に傍受されないようにする研究で、数ヵ月後には海軍より正式に研究要請がありました。

Marconi's first experiments on this type of transmission and reception were made in Genoa, in 1916, during the World War. ("King Present at Marconi's Talk", Radio World, Dec.11,1926, Hennessy Radio Publications Corporation, p24)

In March 1916 he made the first tests in a laboratory in Genoa and then presented his conclusions in a report to the Italian Navy, that put at his disposal a motorboat in Leghorn. (Giancarlo Morolli, Giuliano Nanni, “The Experiments with the Italian Navy”,  Guglielmo Marconi, Space Explorer, 2004, Advanced Broadcasting Electronics, p137)

My first experiments along these lines in Genoa and later in Livorno in 1916, showed me that good directional working could always be obtained with properly constructed reflectors, and with the apparatus then available a range of six miles was attained. (Guglielmo Marconi, Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, pp325)

3) 英国からフランクリン技師を呼び寄せ100-150MHzパラボラ試験 [Marconi編]

そしてイタリア軍人でもあるマルコーニ氏は実験ばかりに専念できないため、英国より部下のフランクリン技師(C.S. Franklin)を呼び寄せました。そしてイタリアのピサの斜塔近くにある港町、リヴォルノ(Livorno, Italy)で短波ビームの研究をさせたのです。 

マルコーニは、イタリアで自分の研究をすすめる一方、イギリスにいる研究所の技師チャールズ・フランクリンに命じて、短波を使った通信の技術を研究させました。若いフランクリンは、一九一六年からこの研究をはじめ、・・・(略)・・・短波通信の実験に成功しました。(市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13『通信の開拓者たち』, 1966, さ・え・ら書房, p208)

短波通信の開発については、1916年、マルコーニは、短波の用途を探求するようにイギリスのフランクリンに依頼して、研究させている。(運輸省航海訓練所 運航技術研究会編, 『船舶通信実務』, 1965, 海文堂, p4)

1916年8月1日から10月22日の間、フランクリン技師はリヴォルノでパラボラ反射器付きのアンテナを改良しては、そのビーム波をボートに乗って測定することを繰り返していました左図)。

『・・・(略)・・・to collaborate with Charles Franklin, who was in Livorno from August 1 to October 22, 1916, ・・・(略)・・・』( Marc Raboy, Marconi: The Man Who Networked the World, 2016, Oxford University Press, p412)

左図はリヴォルノでパラボラ・アンテナの横に立ち、試験中のフランクリン技師です。

その昔、ヘルツ氏やマルコーニ氏が作ったパラボラ反射器は金属板を湾曲させたものでした。しかし今回は、「面」ではなく導線をたくさん並べたスダレが反射鏡の役割を果すことを実験で示しました。これはパラボラ・アンテナの大きな進化といえるでしょう

またマルコーニ氏は水平偏波(上下方向へ曲面をとったパラボラ)のビームを試しましたが、フランクリン技師は垂直偏波(左右方向へ曲面をとったパラボラ)を採用しました。フランクリン技師は、まるでヘルツの実験の時代に戻ったような、この研究を(6年後の1922年に)次のように振り返っています。

The investigation was commenced by Senator Marconi in Italy in 1916, with the idea of developing the use of very short waves, combined with reflectors, for certain war purposes. The author assisted him there, and it was very interesting work, as it was like being back in the very early days of wireless when one had a perfectly clear field. The waves used were 2 metres and 3 metres. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p220)

この実験の為に新たに開発した火花送信機(compressed air spark transmitter)には圧搾空気による冷却器を付けました。放物反射器(Parabolic reflectors)のメッシュに使用するエレメントの長さおよびその配置間隔パラボラ開口長の最適化発振波長を変えた場合のビームパターンの変化などを測定しました。

こうして初期のマルコーニ・ビーム(短波パラボラ)アンテナの基礎を確立させました。マルコーニ氏はこれによる通信システムをイタリア語で "a fascio"(ビーム)と名付けました。

マルコーニ氏とフランクリン技師は波長2m(150MHz)と波長3m(100MHz)で、最終的に海上で6マイル(10km)の通達距離を観測しました(受信機は鉱石式で反射器なしです)。

In his first tests in 1916 Marconi used a coupled spark transmitter and a crystal receiver. The reflectors employed were made of a number of wires, tuned to the wave used, and arranged on a cylindrical parabolic curve with the aerial in the focal line. Reflectors with apertures up to 3 1/2 wavelengths were tested, and the measured polar curves agreed with the calculated values. With this apparatus, using a wavelength of three metres, good communication was obtained up to a distance of six miles. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p79)

一九一六年(大正七年)にマルコーニは火花送信機と鉱石受信機と反射器を使用して実験を行い、その結果、六哩(6マイル=10km)の距離に於いて三米(100MHz)の波長をもって良好な通信成績を得た。(岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)

一九一六年にマルコニー氏は既に、短波長の通信実験をしており、送信装置は火花間隙とし、かつ圧搾空気中で放電せしめかなりの勢力を得ることができ、・・・(略)・・・伊太利(イタリア)において、使用波長に相当する反射器を採用する時には、指向式性質を充分に挙げる事ができ、また最高通信距離も、海上ではかなりに減衰はしたものの、六哩(マイル)に及んだという。 (福田庚子郎, "短波長指向式無線電話", 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p24)

 元郵政省電波研究所の所長若井登氏が監修された『無線百話』からも引用します。

超短波から始まった電波の歴史は、長波長化の道をたどった後、再び短い波長へと回帰しようとしていた。1916年、マルコーニはイタリア海軍の依頼を受けて、艦隊間の通信に便利な、短距離で指向性を持った通信方式の開発を部下のフランクリンと一緒に手がけていた。波長2mの電波を使えば、可視距離外の敵に知られる恐れはないし、反射器により指向性を鋭くすれば、電力は少なくて済み、その上通信の機密性は保たれる。しかし当時はまだ超短波を発振できる真空管はなかったから、フランクリンは高圧空気の中で火花を飛ばす送信機を考案した。再びヘルツの時代に戻ったようであるが、結果は上々であった。 (無線百話出版委員会編, 『無線百話』, 1997, クリエイト・クールズ, p180)

副産物もありました。短い波長では長波のような空電ノイズは全くありませんでしたが、その代わりに自動車やモーターボートのエンジンからの激しいノイズを観測(波長0-40mに分布)し、エンジンにシールドを施すか、あるいは将来、エンジンも無線局のひとつとして許可する必要になるだろうと予感したそうです。

永年、短波通信を生業としてきた国際電信電話株式会社(KDD)の 『総研 R&A誌』(1995年9月号, p5)より引用します。

マルコーニは、1916年に初めて短波による遠距離無線通信に成功し、近代無線通信の基礎を築いた。このように、マルコーニは、無線通信の黎明期以来一貫してその事業化および無線技術の向上に大変大きな貢献をしてきた。個人による卓抜した大発明は19世紀末のマルコーニによる無線電信をもって終わり、20世紀になってからの優秀な大発明は多数の研究者を擁する研究所の業績に帰せられると言われている。その点においても、マルコーニの偉大さが偲ばれる。

4) 金属面によるパラボラから 「すだれ型」パラボラへ [Marconi編]

欧州大戦(第一次世界大戦)中、マルコーニはイタリー軍付きの将校として勤務した。最近においてはヘビーサイド層を利用して短波長無線電信および電話が実用化されつつあるが、マルコーニはこの方面においても先鞭をつけ、既に一八九九年の(電気学会の)講演において短波による通信の可能性を予言していたが、一九一六年には、いわゆるビーム式通信研究の端緒をひらき、発信装置を放物線型枠に取付けられた反射体の焦点に置く方式をとった。(岡忠雄, 『科学者の道』, 1948, 三笠書房, p266)

ここでいう「放物線型枠に取り付けられた反射体」とは、放物線を描く「木枠」に複数の導線を並べた反射器のことです。

下図はマルコーニ氏が1916年(大正5年)3月27日にイタリアに出願した"Improvements in Wireless Telegraphy and Telephony"の明細書にある図面です。翌年3月26日には英国にも出願されましたが、結局特許にはなりませんでした。

それまで「面」でなければならないと考えられていた電波反射器は、金属導線をすだれ状に並べても同様の効果があることが、フランクリン技師によるヴォルノの実験(1916年8月1日~10月22日)で確かめられました。

しかしこの特許は1916年3月27日にイタリアでマルコーニ氏により出願されています。リヴォルノの実験よりも4か月も早いです。1916年3月といえば、前述のとおり、入隊したマルコーニ氏がジェノバで指向性通信の実験を行い、イタリア海軍に実験報告書を提出した時期に符合します。このことから「すだれ型」の基礎的な実験が行われ、指向性が得られる確証を得たマルコーニ氏がまず特許出願しておき、その科学的な裏付けについては(英国の数学者であり、会社の部下でもある)フランクリン技師に依頼したようです。

出願の図面[Fig.1]では、輻射部は接地式垂直アンテナになっています。そしてヘルツが試した金属板パラボラを、マルコーニ氏は接地式の"すだれ型"パラボラにして囲むことを考案しました。1895年のイタリア時代の接地式垂直アンテナを輻射部とし、それを考案した接地式"すだれ型"反射器の焦点に置くというものです。

図[Fig.2] は7本のマストで地面に立体的に建設されたパラボラ・アンテナですが、その各マストは途中で接ぎ木して延長されているのが見て取れます。つまり図[Fig.2]は「かなり巨大」なパラボラ・アンテナを想定していることが分かります。この出願図面から、1915-16年頃のマルコーニ氏が、すでに低い周波数(短波)でのビーム通信を考えていた可能性が伺えます。

5) 英カーナボンでの 100MHz ビーム試験 (1917年) [Marconi編]

1917年(大正6年)、戦争でマルコーニ氏が不在の間は、英国のカーナボン(Carnarvon:現Caernarfon)の湾岸地帯でC.S. フランクリン技師が波長3m(100MHz)でビーム通信の実験を続けました。

火花送信機(波長3m, 周波数100MHz)とビーム空中線による実験結果ですが、海抜600フィート(180m)に置き、7マイル(11km)離れた水上での受信強度よりも、距離20マイル(32km)離れた海抜300フィート(90m)で受信した方がずっと強く、さらに送受共に海面の高さに置くと到達距離はわずか4マイル(6km)になってしまったのです。

In 1917, using a wavelength of 3 metres a range of 20 miles was obtained from Carnavon, with reflector at the transmitting end only. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p79)

マルコーニはフランクリン(C. S. Franklin)に委嘱して短波の伝播性を研究せしめた。一九一七年(大正八年)にカーナヴォン局から二〇哩(20マイル=32km)の距離に於いて三米(100MHz)の波長をもって、反射器は送信所においてのみ使用して通信が出来た。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)

『 (1916年にイタリアで試験したあと)1917年には英国のCarnarvon で続いて試験したが、送信機器は改良した圧搾空気火花発信機を用い、三米(100MHz)の電波長で反射器の高さ電波長の一倍半Apertureは、電波長の二倍として20哩(32km)の距離まで達することが出来た。 (荒川大太郎, "無線電信の新しき用途", 『無線』, 1923.2, 逓信省倶楽部, p8)

一九一七年に英国カナボンで実験された波長は、火花間隙送信装置を、改良して三米とし、また二波長の開きを有する送信反射器を、地上一・五倍波長の高さに据えて、二十哩(マイル)の距離で受信反射器なしで聞き得た。この実験の結果、通信距離は、送信反射器の地上の高さによって大いに影響ある事を認め、距離は高さに比例して増加する事が確かめられ・・・(略)・・・』 (福田庚子郎, "短波長指向式無線電話", 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p24)

今では高い場所が有利なのは良く知られる所ですが、長波による遠距離通信が全盛のこの時代に、波長に対する空中線の高さと、電界強度の関係式を見出したのです。マルコーニ氏も1890年代の実験でアンテナを高くすると到達距離が伸びることに気付きましたが、C.S. フランクリン技師により、さらに科学的に検証されました。

例えば長波1000m(300kHz)で10波長相当分(10km)の地上高でテストしようとするとエベレスト山(8848m)を超えてしまい不可能ですが、使用波長が3mなら10波長分でも30mです。高い周波数だからこその実験でした。

Tests were made at different levels on a hill situated at this point, and it was found that signals steadily increased in strength with height. Accurate measurements were not possible with the portable receiver, but the increase of strength of the field at a height of 10 wavelengths was estimated to be 6 or 7 times. Further tests on this effect have shown that the increase of strength with height is not always uniform. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p220)

6) 三種類のすだれ型パラボラ反射器を出願 (1917年8月29日) [Marconi編]

1917年(大正6年)8月29日、フランクリン技師は、これまでのパラボラ・アンテナの研究成果をまとめて、3種類のパラボラ反射器の英国特許"Improvements in Reflectors for use in Wireless Telegraphy and Telephony"を出願しました。そして1919年(大正8年)7月3日に英国特許No.128,665として登録されています。

また米国へは1919年2月26日にマルコーニ氏と連名にして出願し、1919年4月22日に米国特許No.1,301,473 "Reflector for use in Wireless Telegraphy and Telephony"として登録されました。 

それを紹介する記事"Marconi and Franklin's Directive Radio System(マルコーニとフランクリンの指向性無線システム)"が無線月刊誌Wireless Age(1919年9月号, p20)に載りました(左図)。

下図が出願明細書にあるパラボラの図です。下図[左]で示される垂直偏波用リフレクター(Fig1,2,3)と、下図[中]で示される水平偏波用リフレクター(Fig4,5,6)を基本とし、下図[右]にその応用型が(Fig7,8,9)示されています。機械製図の第三角法により書かれています。

なにしろ第一次世界大戦(1914-1918)で "海底ケーブルは、いとも簡単に敵国に切断され、通信が杜絶する。" ことを経験し、(ケーブル偏重が見直されて)長波が脚光を浴びるようになった時代ですから、読者には「マルコーニもフランクリンも変わったことに熱を上げているなあ・・・」としか伝わらなかったようです。

C.S.フランクリン技師はこのカーナボンでの100MHzビーム試験の後(1918年頃?)、ポーツマスでも試験していたことが知られていますが、詳細は不明です。下記は1924年7月2日にRoyal Society of Artsでマルコーニ氏がポルドゥー2YTの巨大ビームによる短波実験結果を発表した際の質疑応答の記録です。

Mr. C.S. Franklins said he had worked with and for Senator Marconi on the subject of short waves for some eight years, first of all in Italy, than at Carnarvon, then at Portsmouth, then again at Carnarvon, and after that at Inchkeith, Hendon, Birmingham, and finally Poldhu.  He had published, in 1922, a paper before the Institution of Electrical Engineers which described some of results which had been obtained. ("Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system  (Discussion)”, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, Royal Society of Arts [London UK], July 25, 1924)

7) 真空管式 20MHz 無線電話送信機完成 (1919年) [Marconi編]

短波は飛びが悪いと信じられ、いまさら短波に戻ろうとする者は現れませんでしたが、逓信省電務局の竹林嘉一郎氏は著書の中で、短波に回帰しなかったもう一つの理由として、「短波で持続電波を作るすべがなかった」ことを挙げています。長波では電弧式やアレクサンダーソンらが発明した高周波発電機により持続電波(CW:Continuous Wave)を発生できるようになりましたが、この方式では短波を作ることができなかったからです。短波の持続電波は高い周波数でも安定して動作する真空管の改良を待つしかありませんでした。

その後電弧式、発電式等の発明があり、長波長持続電波を利用される傾向になった。・・・(略)・・・発電式とか電弧式はその構造上短波長振動の発生が不可能であったので、長距離通信用としては益々短波長電波は顧みられなくなってしまったのである。(竹林嘉一郎, "第六編短波長", 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, p410)

三極真空管の登場で中波帯まで簡単に持続電波を作れるようになり、無線界では持続波に音声を乗せる「無線電話」の試みがぼちぼちと行なわれるようになっていました。マルコーニ社では1913年(大正2年)より、三極管の製造研究に手掛け、1914年(大正3年)には真空管式無線電話を開発しました。

1918年(大正7年)11月に第一次世界大戦が終結する、C.S. フランクリン技師は真空管式短波無線電話の開発に着手しました。いきなり短波の20MHzで、それも無線電話を開発しようというのですから、とてつもなく困難なプロジェクトだった思います。フランクリン技師らによる短波用大電力真空管の開発に関する記事を引用します。

一九一九年に同じくカナボンで、送信装置として真空球を用い、波長十五米として実験し、一個の送信球は、二百ワットで・・・(略)・・・このごとき短波長は普通の真空球で容易に出す事が出来るが、ただその非常に高周波なる為に大なる電流がグリッドやプレートに流れ込むため、その封じめなどを大きくせなければならぬ。また確かな真空球の製作や、同様の性質の真空球を数多作る事は困難な事であり使用された真空球の能率も六〇乃至五パーセント位のものもある様になり、従って不良な真空球にも同様な大なるパワーを加えるため、その不良の真空球の硝子(ガラス)は溶けてしまう様な種々なる困難を感じた。(福田庚子郎, "短波長指向式無線電話", 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p25)

フランクリン氏はこの困難な開発を成功させることができたのは、R. H. White氏、E. Green氏、A. W. Hall氏の協力のおかげであり、特にカーナボンで使用した短波20MHzでも長時間安定動作する真空管への改良にはE. Green氏の貢献が大きかったとしています。

1919年(大正8年)、数々の試行錯誤の末、波長15m(20MHz)入力200Wの単球短波送信機が完成しました。波長が15mと長くなったので反射器は使いませんでしたが、いくつもの技術的課題を乗り越えて、カーナボンから20マイル(32km)離れたホーリーヘッド(Holyhead)で明瞭に受話できました。

このとき途中に障害物があっても、その真後ろでない限り、受信強度に大きな影響がないことを知ったC. S. フランクリン技師は短波でも地平線の下(向こう)まで届くのだろうかという疑問を持ちました

After some trials a single valve transmitter was arrived at talking about 200 watts with a 15 metre wave, and giving 1 ampere in the centre of a half wave aerials. A heterodyne receiver with supersonic beat note was employed. After gaining some experience, and solving many small practical difficulties, very strong speech was obtained at Holyhead, 20 miles away. The strength was such that shadows produced by small hills and buildings were hardly noticeable, unless the stations were close behind them. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p221)

8) 20MHz アイリッシュ湾横断試験 (1920年6月) [Marconi編]

1920年(大正9年)6月、「イギリス-アイルランド」間の郵便船(The Dublin Steam Packet Company's boat)に受信機を設置して、カーナボンの電波がどこまで聞こえるかを試すチャンスがやって来ました。

ホーリーヘッド港を出発した船は、対岸アイルランドにあるキングスタウン港(Kingstown Harbour, 現Dun Laoghaire Harbour)に向かいました。そしてカーナボンから発する20MHzの無線電話は70海里(130km)離れたキングスタウンに入港するまで聞こえ続けました。

すなわち船(受信)から見て、カーナボン送信所が水平線の下に入っても短波の強度は急減しないことが確認されたのです。

The next point was to test the maximum range, and particularly to find whether such waves would carry over the horizon, and whether there would then be a rapid falling off of strength. Permission was kindly given for a test to be made on the Dublin Steam Packet Company's boats running from Holyhead to Kingston, and this was done in June, 1920.  During this test speech was received right into Kingston Harbor, 70 nautical miles from Carnarvon, and the point was proved that there was no rapid diminution of strength after passing the horizon line from Carnarvon. (C.S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy - The radio Lighthouse of the Future", Radio News, Nov. 1922, p906)

 『 During further tests and utilizing a wavelength of 15 metres, clear and strong speech was received at Kingston Harbour, 78 miles from Carnarvon. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p79)

フランクリンは更に研究の結果、一五米(20MHz)の波長を使用して明澄(めいちょう)な強い演説をカーナヴォンから七八哩(正しくは海里)のキングストン・ハーバーに於いて聴取することが出来た。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)

なお英蘭間の郵便船で試験した結果、Carnarvonから78浬離れたKingstown港でも聞くことが出来た。(荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省倶楽部, p8)

この結果を受けて内陸地でも同様の実験を行う事を決め、ロンドン市内北部のヘンドン(Hendon)に20MHz実験施設の建設がはじまりましたその話題に入る前に、フランクリン技師が同じ1920年に立ち上げた、通信用とは別の短波プロジェクトを紹介しておきます。

9) 新用途開拓 75MHz 電波灯台の試験 (1920年11月17日) [Marconi編]

1920年(大正9年)、マルコーニ氏とC.S. フランクリン技師は短波ビームアンテナの用途として、電波灯台への応用を具体化しました。これはマルコーニ氏が1899年3月の電気学会で発表していたものです。

英国北東、スコットランドのエディンバラに面するフォース湾(Firth of Forth)に浮かぶ、インチケイス(Inchkeith)島に、灯台設計施工会社 "D & C Stevenson" 社と北部灯台委員のご厚意のもと、電波灯台(回転ビームアンテナ)を建設することになりました(左図)

Through the courtesy of Messrs. D. & C. Stevenson, Consulting Engineers to the Northern Lights and the Commissioners of the Northern Lights, trials are being made with a revolving reflector erected on InchKeith Island. Credit is due to the author's assistant, Mr. N. Wells, who has been superintending this work on the island - very often under strenuous conditions. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers, Vol.60-No.312, Aug. 1922, p933)

左図がその1920年に建設された電波灯台の初代(シングル)ビームで、灯台の隣にありました。パラボラ・ビームは転車台のようなものに載せられています。これで方向を変えながら75MHzの標識電波を超短波火花送信機から送信しようと考えました(75MHz用真空管はまだ実用化できていない)。

そしてフォース湾内を航行する船舶に受信機を設置して、この電波灯台のサービスエリアを確認するフィールドテストを計画しました。

1920年(大正9年)11月17日、汽船ファロス号(Pharos)に波長4m(75MHz)受信機を設置し、フォース湾内を航行しながらインチケイス電波灯台から発する75MHz波の海上伝搬性能を検証しました。図は汽船Pharos号の航路を示す地図です。実験の概要をRadio News誌の1922年10月号より要約します。

11月17日午後2時に、オックスカーズ灯台の北沖(フォース湾の中央付近)を出発して、船を西(地図上の左)へ進めました。午後2時24分にインチケイス島から7海里(13km)の地点に来ましたが、ここが実用限界距離であることがわかりましたので、進路を東(地図上の右)へ反転させました。インチケイス島の南東に来たのが午後3時10分でした。そこからインチケイス島の周囲をくるりと周りました。

すると不思議なことにファロス号が島に近づくほど、島からの電波が弱くなることに気付きました。「灯台もと暗し」。フランクリン技師は送信ビーム局の標高をもっと低くしなければならないと感じました(Radio News, Nov.1922, p910)。

受信アンテナは当時めずらしい垂直ダイポールアンテナ(75MHz)です。汽船ファロス号上の見晴らしの効く左右2箇所に取付けられてました。これは船体の影響を受けて垂直ダイポールに指向性が生じてしまうためで、受信機を2セット用意しました。受信機は単球式のものです。

10) 20MHz ビームアンテナと移動受信試験 (1921年2月) [Marconi編]

これまでマルコーニ社の短波試験は海岸や海上で行なわれて来ました。短波は光の性質に近いと推測されるものの、1920年のカーナボンとキングスタウン港間の海上移動試験では、船が水平線の下に入っても急激には弱まらないことから、光とは振る舞いが違うと認識されました。そこでマルコーニ社は内陸地における障害物の影響について研究することになり、合わせて20MHz用パラボラ・ビーム・アンテナを設計・建設し、その性能試験をおこないました。

1921年(大正10年)ヘンドン(Hendon, ロンドン市内北部)に三本のタワーを建てて、パラボラ反射器を吊り下げました。ビームは北西(バーミンガムの方角)に向けられ、波長15m(20MHz)の送信機はさらに改良されて入力700W(終段陽極4000V, 175mA)になりました。

1922年2月、自動車に搭載したポータブル短波受信機で各所へ移動して、ヘンドンからの20MHz波の受信試験を繰り返しました。その結果、いろんな障害物のある内陸地においても最大で66マイル(106km)の距離まで観測されたのです。

地上短波長反射式の通達距離測定の為に発電所(発信所)をヘンドンに設置し反射器と送信装置をバーミングハムに向けて設け、一九二一年二月に受信装置を自動車上に置き実験したるに、六十六哩(マイル)に到るも充分に通話が出来、バーミングハムの附近でも立派に通話し得た。(福田庚子郎, "短波長指向式無線電話", 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p24)

A site was chosen at Hendon, and a reflector and transmitter for 15 metre waves erected with the reflector pointing towards Birmingham. Tests were commenced in February, 1921, from Hendon to a portable receiver on a motorcar. Very good speech was received up to 66 miles, and fair speech in the neighborhood of Birmingham. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p221)

マルコーニ氏のビーム・アンテナは150MHz(1916年)→75MHz(1920年)→20MHz(1921年)といった具合に、より低い周波数を目指していました。

11) 海底ケーブルで「音声」を伝送する技術がなかった(無線電話に注目) [Marconi編]

1800年代後半より、大西洋をはじめとする海を挟んだ陸地間には既に海底ケーブルが敷設され公衆通信(モールス符号による電報)が盛んに行われていました。ですのでマルコーニ氏は、「マルコーニ国際海洋通信会社」を分社させ、ケーブルが引けない船舶との公衆通信に無線の活路を見出しました。

その次にマルコーニ氏が注目したのは無線電話でした。なぜならば1920年の時点では、まだ海底ケーブルで音声を送る技術が完成していなかったからです。英国を本拠とするマルコーニ社は、島国の英国と欧州大陸を短波無線による電話で結ぼうと考えていました。

そこで無線電話有線電話を相互接続するために、マルコーニ社のチェルムスフォード研究所では「同時通話式」の短波無線電話の研究を始めました。

まず事前テストとして1920年に、チェルムスフォード研究所のH.J. ラウンド氏が波長100m(3MHz)付近の二波を使い、研究所から南へ10数km離れたサウスエンドとの間で同時通話試験をおこない良好でした。マルコーニ氏記事によると、この試験は1921年まで継続的に行われたようです。

Then, in 1921, following the successful tests of telephony on 100-meter waves between Chelmsford and Southend, stations were erected using only 1 kilowatt of energy in the aerial circuit. (Guglielmo Marconi, "Thirty-Seven Years of Radio Progress", Radio News, Jan 1932, Teck Publishing Corporation, p608)

この成功を受けて、次に北海を横断する国際同時通話(duplex telephony)試験を計画しました。

In 1920 experiments were carried out by Captain H. J. Round with duplex telephony on a 100 metre wave between Chelmsford and Southend, and the experiments were so successful that early in 1921 two stations which had been erected at Southwold and Zandvoort on the Dutch coast were put into commission experimentally, Southwold Station utilising about one kilowatt to the aerial. (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], pp125-126)

12) 3MHz 北海横断無線電話試験 (1921年5月11日) [Marconi編]

北海を横断する国際同時通話(duplex telephony)試験の準備を整えたマルコーニ社は、世界最古の日刊紙である英国のThe Timesと共同で公開実験を行うことにしました。

1921年(大正10年)5月11日、英国サウスウォールド(Southwold)と対岸オランダのザンドヴォールト(Zandvoort)に完成した無線電話実験局に、The Times紙の特派員を招き、無線電話のデモンストレーションを行なったのです。距離はおよそ200kmで、この波長100m(3MHz)を使ったため反射器は用いませんでした。

北海を挟んだ両実験局間での短波無線電話は非常にクリアに聞こえ、現地で立ち会った記者は興奮気味に以下の見出しで2日間記事を書きました。

上図[左]:The Times, 1921.5.12, p10(Talking by Wireless A North Sea TelephoneSuccessful Test by "The Times" (from our Special Correspondent)Circling of The World)

上図[中]:The Times, 1921.5.13, p10(Wonders of Talk by WirelessNew Business Link with Europe Secrecy Secured Shorter WavesCabinet by Wireless)

上図[右]:『朝日新聞』1921年5月17日に、タイムズ紙の記事が掲載。以下引用します。

長距離無線電話成功 五十分間の通話 十二日タイムス社発

タイムス編集局員の一団はサフォーク郡サウスワルド、和蘭ザンドヴールト間、百二十五哩の長距離を五十分間無線電話にて交話して成功せり・・・(略)・・・』 ("長距離無線電話成功", 『朝日新聞』, 1921年5月17日, 朝刊p6)

・・・ですが朝日新聞の記事にはマルコーニ社が使用した波長が書かれていないのです。実はタイムズ紙の記事は5月12日と13日の2回に分けて書かれましたが、使用波長は13日の記事にありました。朝日新聞は12日のタイムズ紙をもとにすぐに記事にしたため、使用波長には触れられていません。多くの日本人がこの朝日新聞の記事を読んだと思われますが、日本では短波を使ったとは認識されなかったことになります。

【参考】 もちろん13日のタイムズ紙には波長100m(3MHz)とあります。

The wave lengths employed in the transmission of speech between Southwold and Holland were a hundred meters, ・・・(略)・・・』 ("Shorter Waves", The Times, 1921.5.13, p10)

13) 長波の時代が到来 ワシントン予備会議 (1920年10月) [Marconi編]

ここで一年ほど時計の針を戻します。

第一次世界大戦で連合国に次々と海底ケーブルを切断されたドイツは、長波の大電力無線を駆使し遠距離連絡通信を確保し続けました。(実際の被害は少なかったのですが)連合国側も、ドイツの潜水艦に自国の海底ケーブルを切断される恐れがあるため、各国は大電力長波局の建設に奔走しました。技術面においても既に電弧式やアレクサンダーソンの発電機式が発明されており、(長波であれば)持続電波が得られるようになっていたことも好都合でした。マルコーニ氏により無線通信が拓かれてからおよそ20年が経ちましたが、今ようやく長波の黄金時代がやってきたのです

しかし長波帯は帯域が広くないため、限られた通信チャンネル数(通信用個別波の数)にしか分割できません。さらに公衆通信を扱う固定局(Point to Point)は時間当たりの通信量を増やすために、1回線につき2波を使った送受同時通信が採用されるに至り、長波チャンネルの不足が懸念されるようになりました。

世界大戦(1914-1918)が終るや、スイスのベルン総理局には各国の電波主管庁より「この未登録チャンネルを我々が使いたい」と、次々登録申請が行なわれ、ついにチャンネルの奪い合いに発展しました。1920年(大正9年)10月8日-12月15日、日本を含む戦勝五大国だけでワシントン予備会議を開いて、長波チャンネルの(自分たちの)分配比率を協定しました。いわゆる五大国の「談合」です。このとき積み残した技術仕様面の協議は、再度パリで専門会議を開くことになりました。

14) パリ準備技術委員会 談合破棄 実績重視へ (1921年6月) [Marconi編]

1921年(大正10年)6月21日より、再び五大国が集まり開かれたパリ準備技術委員会では、一転して各国の長波局の稼動実績数および建設計画数を重視してチャンネル分配することになりました。つまり前年の「談合」の破棄です。この方針変更に日本政府委員は慌てました。

もともと我国の公衆通信(電報)を扱う国際長波局は1915年(大正4年)に開所した海軍船橋無線電信所(千葉)の設備を逓信省が時間借りし、船橋無線電信局JJC1916年(大正5年)11月16日に開業しただけでした。それが(このパリ会議の3ヶ月前の)1921年(大正10年)3月36日にようやく逓信省自前の岩城無線電信局JAA(福島)が開業したのですが、このように稼動実績数を問われるのは日本にとって非常に不利でした。幸い建設計画中のものもカウントに入れて良いことになり、日本委員は帰国するや、電波三省(海軍省, 陸軍省, 逓信省)の関係者を集めて対策会議を開き、長波大電力局の建設整備計画が練られました(このときに建設が決まったのが対外地(植民地)局の検見川無線や、対欧局の依佐美無線です)。

【注】 すでに銚子無線JCS落石無線JOCなどの「海岸局」も長波を装備する時代に入っていましたが、海岸局-船舶局間の海上公衆通信には国際波長として300m(1000kHz)、600m(500kHz)、1800m(167kHz)の3波が指定されており、どれだけ混雑しようがこの3波を世界で共用するルールで、ここでいう「長波チャンネル分捕り合戦」とは関係しません。無線の歴史書をお読みになる際には、船橋無線JJC, 岩城無線JAAの「固定局」(Point to Point通信)の話題と、銚子無線JCS, 落石無線JOC等の「海岸局」の話題は意識的に区別しておかれるとよろしいかと思います。またアマチュア無線で使う「固定局(場所を変えない局)」「移動局(場所が変わる局)」という対義語的な用法とは異なる点にも要注意ですね。

さてパリ準備技術委員会(1921年6月21日-8月22日)はマルコーニ社の短波(3MHz)による北海横断通信成功の直後で、短波の利用についても話合いましたが、委員達の興味はあくまで長波チャンネルの獲得にあったので、国際的な業務別波長分配表案は1500kHz(波長200m)までが作られ、「1500kHz以上の周波数は各国電波主管庁の自由」と決議して終りました。この時代、マルコーニ氏以外に短波に興味を示す人や組織はなかったようです。

【参考】 1,500kHz未満の「電波の質」については推奨事項が決められましたが、1,500kHz以上は各国の電波主管庁の自由でした。しかし非同調式のスパークギャップにアンテナとアースを直結するのは不可とし、非同調式火花送信機の使用は終焉を迎えました。

パリ準備技術委員会の終了間際になり、日本委員の逓信省組に欧米の無線事情を視察して帰国するよう指示がきました。長波チャンネル争奪戦を日本に有利に展開するために、欧米先進国の大電力長波局の建設状況を確かめておこうという作戦でした。逓信省稲田工務課長の随員として参加した工務課穴沢忠平氏の記事を引用します。穴沢氏は後に稲田課長の命を受けて河原猛夫技手とともに岩槻J1AAを運用された方です。

パリ会議の終了は8月末であったが、その直前に(逓信組の)稲田委員長、佐伯技師、長井氏および私には、3か月間欧州の無線事情視察のための出張命令が発令されたので、直ちに帰朝する者がなく、パリで報告書の作成、印刷(そのころパリではあまり使用していないコンニャック版の道具を苦心して探し出し、ホテルのガルソンまで動員)して日本に郵送し、それが済んでから私は佐伯技師のお供をして、英国、オランダ、ドイツ、イタリアの旅行を続けマルコーニ社、フィリップ社、テレフンケン社およびSFR社の大電力送信施設の視察をした。(郵政省電波監理局編, 穴沢忠平, "国際会議回想", 1970.6, 『電波時報』, 電波振興会, p21)

15) 逓信省 佐伯技師ら マルコーニの短波を視察 (1921年秋) [Marconi編]

1921年(大正10年)秋、いろんな大電力長波局を訪問する中で、佐伯技師らは話題になっていたサウスウォールドでテスト中の北海横断無線電話試験も見学しました。左図が逓信省の一行が訪れた当時のサウスウォールド局(短波実験施設)です。

左図[左]が送信所の全景で、左図[中]が建屋の横に建てられた送信アンテナの絶縁基部です。また左図[右]が少し離れた場所に建設された受信局です。佐伯技師らは短波による無線電話の実用化試験を、つぶさに視察した最初の日本人でしょう。

このとき佐伯技師にお供した穴沢氏は次のように感想を述べています。

この旅行で特に印象の深かったのはマルコーニ社が当時行っていた英国海岸局とアムステルダム間の短波(90m)実験と大西洋横断の無線電話実験であった。(穴沢忠平, "国際会議回想", 1970.6, 『電波時報』, 電波振興会, p21)

マルコーニ氏の短波の無線電話実験が穴沢氏にはとても印象的だったようです。J1AAのコールサインで有名な埼玉県の岩槻受信所の工事現場に仮設された逓信省工務課の短波実験局が運用開始したのは、1925年(大正14年)春ですから、それよりも3年半も前の出来事です。

【参考】なおJ1AAのオペレーターだった河原猛夫氏は穴沢氏と同じ逓信官吏練習所を卒業されて、逓信省工務課では穴沢先輩の指導を受けていました。

帰国後、佐伯技師が電信電話学会でマルコーニ氏の北海横断無線電話について報告しています。

英蘭間無線電話試験

マルコニ会社は倫敦(ロンドン)アムステルダム間を有線無線電話連絡に付、試験中でありましたが、同時通話の英国側海岸局 Southwold を視察致しました。通話対手はアムステルダム附近の海岸Zandvoortにあります。送信用空中線としては高さ八十呎(80フィート = 約24mで使用する波長の1/4に相当)の鉄柱を基礎およびステーと絶縁して建設したものでありまして、柱をそのまま空中線として使用しております。接地は地上約二呎(60cm)位の高さに二十本のカウンターポイズを張りまして大地は使用しておりません。送信用バルブはレクチファイアー2個、コントロール用レクチファイアー2個、サブコントロール、コントロール、及パワー用各一個を使用しまして、空中線電流は普通四、五アムペアを出しておりますが八アムペアまでは出し得ます。送信室より約五十間(91m)距りたる所に接続室がありまして倫敦(ロンドン)から来る陸線と無線電話送受話機とを接続しております。第二十二図はその接続を示すものでありまして・・・(略)・・・

送受両空中線の距離は約半哩(0.5マイル = 800m)ありまして、使用波長百米突(100m = 3MHz)に対して数米突の差があれば、同時送受に差支えが無いと云うております。また百米突の様な短波長でも昼夜の影響は少しも無いそうでありますが通信距離の短いせいでありましょう。また将来は十五米突(15m = 20MHz)位の短波長を使用して反射作用を利用する見込だと云うておりました。

受話装置は高周波増幅器九段(かくのごとく段数は余り効果なしという)にて増幅したるものをSeparate heterodyne によって三十万サイクル(300kHz)にモヂュレートします。その理由は百米突の様な短波長では増幅を行う事が困難なためでありまして、モヂュレートしたためspeech modulation にdistortion を与える様な事は無いそうです。なお使用バルブは何れもラウンド氏特許の小型バルブでありまして、このバルブでないとバルブのCapacity が多すぎて、かくのごとく小電波長には有効に使えないと申しておりました。(ラウンド氏バルブはCapacity 二センチメートル、フレンチバルブは八センチメートル)これのモヂュレートされた三十万サイクルを更に六段の)高周波増幅器によって拡大し、更に三段の低周波増幅器でSpeech modulation を拡大します。通話試験を実際やってみましたが中々よく出来ておりました。(佐伯美津留, "演説 欧米無線電信視察談(予稿)", 『電信電話学会雑誌』,  第33号 1922.8, pp326-328)

佐伯氏も穴沢氏と同じようにマルコーニの短波無線電話を高く評価していますので、その完成度はかなり高かったと想像します。

16) ヘンドン-バーミンガム 20MHz 無線電話回線完成 (1921年8月) [Marconi編]

一旦ヘンドン・ビームの話題に戻します。

マルコーニ社はヘンドンから97マイル(156km)離れたバーミンガム(Birmingham)のフランクレイ(Flankley)にも同様のビーム局を建設しました。バーミンガムのビームは南東のヘンドンに向けられました。

図は使われた20MHz, 入力700Wの同時無線電話送信機と受信機です。1921年(大正10年)8月、両局がビームアンテナを向け合ったため驚くほど強力に通話できて大成功でした。

またパラボラを使わない時との比較試験も行なわれ、ビーム通信の絶大なる効果が確認されたのです。

内陸地における短波の固定局間通信としては、これが最初のものです。

20MHz付近の2波による同時通話方式です。

この20MHzビーム試験に関しては逓信省の荒川大太郎氏の記事を引用しておきます。マルコーニ社の真空管製造技術者達のたゆまぬ改良努力により、同社は波長12m(25MHz)でkWクラスの三極管を製造できるまでに力を付けていました。

今日においてはHendon(London) Birmingham 97哩(マイル)間の通話が、両方に反射器を置いた結果、強く、明瞭に行なわれているのである。その設備は、バルブの入力は約700ワットで、空中線は電波長の半分よりやや長く、そのRadiation Resistanceははなはだ高い。全体の能率は50ないし60%で、300ワットほど放射される。

受信は随分強くハッキリと来るので、60オームの受話器に1/2オームの分路をいれても聞こえる程である。 しかるに反射器なしでは受話器の分路の抵抗をとってもほとんど聞こえぬ位で、Franklin氏の測定した結果によると、反射器を用いれば約200倍の強さで到達させることが出来る。

第二図(注:ここでは左図 波長14.8m/20.3MHzにて測定)はHendon局のPolar Diagramを実測した結果であるが、局の周囲を廻って測定するときは、時や樹木等の関係で相対的ではない。ゆえに回転的の反射器を作って試験する必要が起こってきた。それを用いた結果によればPolar Diagramは距離に無関係に、いつも同一の結果を得る事が証明できた。

送信のバルブは今日、12米以上の波長で数キロの物が作られ、それらを並列に使用することが出来る。そしてCarnavonで試験中、送信空中線を送信に使用中にもかかわらず、受信も同時に行なった結果、現今、これをHendon - Birmingham回線にも使用しているが、数多の開閉器を省略することができた。

反射器を使用する事は方向的に有効であり、エネルギーの経済からいっても必要なことであるが、全く予期されなかった結果のひとつとして、非方向性の物に比較し、(無線電話の)言葉が少しも崩れないという利点がある。また今日、Broadcasting の流行につれ通信の秘密を保つ上において、この新しき方式を取ることも急務のひとつであろう。 (荒川大太郎, "無線電信の新しき用途", 『無線』, 1923.2, 逓信省無線倶楽部, p8)


17) 無線が海底ケーブルに勝てる余地が残されれていた音声通話分野 [Marconi編]

マルコーニ氏は無線電話の開発にはとても注力していました。真空管の登場で持続電波が作れるようになってからは、無線電信にはまったく興味を示さなかったように見えます。

19世紀より海底ケーブルは世界中の海に敷設されてきましたが電信(電報)専用で、1891年に英仏海峡に敷設された電話用ケーブルがあるぐらいでした。大西洋を挟んだ欧州-米国間では海底ケーブルで電報は送れますが、音声用の長距離海底ケーブルにはまだ多くの研究課題が残っており、電話回線は実現できませんでした。つまり無線が海底ケーブルに勝てる余地が残されていたのが音声通話だったので

そして無線電話を導入するには、同時無線通話方式と、真空管式有線無線接続装置のちにいうボーダス装置)を完成させる必要もありました。

彼らがひとつの空中線で同時送受信が可能であることを発見したのは、カーナボンでの実験中でした。その知見が今回のヘンドン-バーミンガム回線に採用され、送信しながら受信することが実現しました。ただし一部送信波の廻り込みなど実用面のトラブルもあり苦労したようです。

During the continuous wave tests at Carnavon it was found that reception was quite possible on the transmitting aerial while the transmitter was operating. This has been used successfully for duplexing between Hendon and Birmingham, and eliminates all switching. The heterodyne may be either the transmitter, or an independent small heterodyne in the receiver. Both the transmission and the reception utilize the same aerial and reflector, and the transmitter is left going and can be operated while receiving. There is no reduction in strength while the transmitter is on, but a practical trouble has appeared. Owing to the comparatively large power, strong currents are induced in all conducting structures and circuits close to the reflector and transmitter, such as the supporting towers and buildings, and every variable contact produces a noise. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p223)

【参考1】世界初の有線無線接続装置は1917年(大正6年)に、電気試験所の丸毛登技手(無線担当)と堀江貞治郎技手(有線担当)が開発したもので、同年10月にプレスへデモンストレーションし、翌月には東京湾上の大成丸と東京市内加入者線間の相互接続試験に成功しました。その後も改良を加えながら1920年(大正9年)2-7月には神戸港で実用化試験を行ないました。これらの実験波長は不明ですが現代でいう長・中波だと推察します。

【参考2】 ちなみに1914年(大正3年)12月に三重県鳥羽に開設されたTYK式無線電話の場合は、「鳥羽灯台」局が波長850m(353kHz)、「神島灯台」局が波長1,200m(250kHz)、「答志村役場」局が波長1,080m(278kHz)を使いました(鳥潟右一, 伊勢湾無線電話に就て, 『電気学会雑誌』 Vol.35 No.319, 1915, 電気学会, pp143-144)。国際的に公衆通信用(無線電信)に指定されている波長600m(500kHz)や300m(1,000kHz)へ、電話の混信を与えないよう、これらを避けたようです。

18) 3MHz ロンドン-アムス 有線無線 国際電話の試験 (1921年12月18日) [Marconi編]

さて先に述べた北海横断短波同時無線電話(送信機1kw)設備を、英国とオランダそれぞれの有線電話回線へ接続する試験が1921年8月より始まりました。ロンドン[有線]→サウスウォールド←[無線]→ザンドヴォールト←[有線]→アムステルダムで結ぼうとするものです。

While carrying out some duplex telephony tests across the North Sea between Southwold and Zandvoort in August, 1921, employing a 100 metres wavelength with about 1 kw to the aerial, ・・・(略)・・・』 ("A chapter in the history of the marconi beam", Marconi Review, Oct.1928, p5)

1921年(大正10年)12月18日午後、英国ロンドンと欧州大陸アムステルダム間の北海横断部分を短波で補う有線-無線」電話試験が行われ大成功を収めました。このマルコーニ社の快挙は12月19日ロンドンThe Times発として世界各国で報じられました。米国のThe New York Times紙も同日付けで伝えています。

この時代から無線電話と有線電話の連絡が真空球式継電機(=有線無線接続装置)の完成によって出来るようになった。一九二一年十二月にマルコニー会社はこの問題の解決に成功した複式無線電話をサウスウールドとサツフォルク及びザンドボート(和蘭)との間に英国とオランダ郵便局との共同によって、倫敦(ロンドン)とアムステルダムとの間を有線無線連絡通信に成功した。この場合、倫敦およびアムステルダムにおいては普通の電話器を用い英国と和蘭(オランダ)との海上一一五哩(マイル)の間は無線電話を使用した。 (伊藤賢治, 『無線の知識』, 1924, 無線実験社, p99)

1922年12月18日のロンドン・アムステルダム回線(有線無線式国際電話)の試験成功の知らせは、国土が島々から成る我国逓信省の有線電話関係者に大きな興味と期待を与え、逓信省が1940年(昭和15年)に編纂した逓信事業史にも記録されました。

一九二一年マルコニ会社はロンドン-アムステルダム間を有線無線連絡を行なうため、わずか一〇〇メートルの短波を使用し、北海横断無線電話を実験して良好なる成績を得た。(逓信省編, "世界に於ける無線電話発達の概況", 『逓信事業史』第四巻, 1940, 逓信協会, p712)

Wireless World(1922年1月7日号, pp626-628)は有線電話と短波無線電話を相互接続についてマルコーニ社を取材し"Duplex Wireless Telephony with Holland" を書きました。

イギリスのサフォークのサウスウォールド(Southwold)側は送信に波長98m(3.06MHz)を、受信に波長94m(3.19MHz)を使いました。また対岸のオランダのザンドヴォールト(Zandvoort)側はその逆で送信が波長94m、受信が波長98mになります。

送信機から空中線に送り込まれた電力は500Wで、電話用ですので同時通話が求められ、干渉を避けるために両地点の送信所と受信所はそれぞれ700ヤード(640m)離されました。同じ時期に試験していたヘンドン-バーミンガム回線では、ひとつのアンテナで20MHzを同時に送受信する方式だったので、それとは異なる開発チームによるものと想像します。

1921年12月および1922年1月、J.A. フレミング氏はロンドンの王立科学研究所(the Royal Institution)で無線電話技術について("Christmas Lectures on Electric Waves and Wireless Telephony" )発表しました。その内容を再構成した記事が雑誌に連載掲載されていますので引用します。

【参考】フレミングの左手の法則・右手の法則や二極真空管の発明で高名な John. A. フレミング氏は王立協会フェローFRS(Fellow of the Royal Society)であり、またマルコーニ社の技術顧問でもありました。

This was done in the case of the wireless telephone demonstrations across the North Sea conducted by Marconi's Wireless Telegraph Company between Southwold on the east coast of England and Zandvoort, near Haarlem, in Holland, in 1921. The distance between these places is 112miles (注:112海里). At each place a transmitting and receiving station was established about 700 yards apart. Let us call these stations T1 and R1 in England, and T2 and R2 in Holland. The station T1 telephones to station R2 with a wave of 98 meters wave -length, and the station T2 transmits to R1 with a wave 94 meters wavelength. This difference of wavelength (4 meters) was found to be sufficient to prevent the transmitter "jamming" the near-by receiver on the same side. At each transmitting station there was a valve transmitter made as above described, and a transmitting aerial 18 meters high, in which was created an aerial current of 5 - 8 amperes, which was modulated by an ordinary telephone exchange microphone. (Dr. J.A. Fleming, "Electrons, Electric Waves and Wireless Telephony", Wireless World, 1923.2.10, p626)

19) マルコーニの短波の無線電話がノルウェイで受信される [Marconi編]

波長98m(3.06MHz)と波長94m(3.19MHz)の二波を用いたた同時通話式の無線電話試験にはパラボラ反射鏡を使いませんでしたが、結果は大成功で、オランダのザンドヴォールトからの電波はバーミンガムとヘンドンの短波受信機にも感応しただけでなく、遠く離れたノルウェイ(オスロ)でも受信されたのです。これは全くの予想外でした。もしビームアンテナを使っていたなら、方角が違うのでオスロで受信されることはなかったでしょう。

Marconi Wireless Telegraph Co., のA.W. Ladner氏とC.R. Stoner氏が書かれた Short Wave Wireless Communication と、その日本語翻訳本『短波無線通信』からも引用しておきます。

Later in the same year a telephone circuit was set up between Southwold (Suffolk) and Zandvoort (Holland), using 100 metres without reflectors.  The tests were very successful, and it was particularly noticed that on most nights and on some days good signals could be obtained at Oslo, Norway – a quite unexpected result at the time.(A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1933, John Wiley & Sons Inc., p12)

同年これに遅れて、Southwold(Suffolk)とZandvoort(和蘭)の間に100米の電波を用い反射器なしの電話回路(回線)が開かれた。この試験は非常な成功であったが、なお諾威(ノルウェイ)Osloで夜間はほとんど確実に、また昼間でも時々充分に受信出来たという事は特に注目に値する。こんな事はそれまで夢想だも出来ない事であったのである。 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦翻訳, 『短波無線通信』, 1933, コロナ社, p12)

オスロでは夜間のみ受かりましたが、ノルウェイの南端クリスティアンサン(Kristiansand [Christiansund], Norway)では夜だけでなく昼間も受信できることがありました。


Experiments were carried out, transmitting from these two stations to Norway in August, 1921, and at Christiansund day and night telephony was easily received from both stations. At Christiania, about 700 English miles, very loud and constant signals were received during the hours of darkness and in the daytime on certain days, apparently when the barometer was low. (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p126)

また20MHzでヘンドン(ロンドン郊外)局とパラボラ・アンテナの試験を行っていたバーミンガム局が、別のアンテナでこの3MHzサウスウォールド-ザンドヴォールトの無線電話を傍受してみたところ、とても不思議な現象に遭遇しました。

バーミンガムでは240km離れたサウスウォールド電波よりも、440km離れたザンドヴォールト電波の方が、強く観測されるがありました。

特にバーミンガム、サウスウォールド、ザンドヴォールトの3局はほぼ一直線の位置関係にあったため、これはまったく不可解な現象でした。まるでザンドヴォールトからの電波がサウスウォールドの上空を飛び越えてくるようでした。これは短波もヘビサイド層(電離層)に反射されることを予感させましたが、バーミンガム局にはヘンドン局(ロンドン郊外)との20MHzパラボラ・アンテナの試験がありましたので、この件は追究されないままとなりました。

20) フランクリンが短波開拓の成果を公表 (1922年5月3日) [Marconi編]

これまでマルコーニ社の短波研究は非公開でした。しかし昨年5月の3MHzを使った北海横断無線電話試験や、12月のロンドン-アムステルダム間の有線・無線電話成功を公表したところ大きな反響があり、マルコーニ社は1922年(大正11年)春より研究成果を次々とオープンにするようになりました。

1922年5月3日、ロンドンの英国電気学会IEE(Institution of Electrical Engineers)、22nd Meeting of The Wireless Section において、C.S. フランクリン技師はカーナボン、ヘンドンビーム、インチケイス電波灯台で行ってきた試験について報告し、その結果得られたパラボラ反射器の開口長、使用周波数そしてビームパターンの関係について発表しました(図)。

JIEE誌("Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers, Vol.60-No.312, Aug. 1922, Institution of Electrical Engineers [London UK], pp930-934)

これが短波史の世界では有名な"Flanklin's Paper"と呼ばれるもので、1916年から1921年に行われたマルコーニ氏とフランクリン技師による短波開拓が明らかにされました。このフランクリン技師の歴史的論文は英国のThe Electrician誌(5月19日号)Wireless World誌(5月20日号)、それに米国のRadio News誌(11月号)を通じて、一般無線愛好家へも伝えられました(下図)。三誌は何れも原論文と同じタイトルでほぼ同じ内容ですが、Wireless World誌は原論文中には無かった写真をいくつか追加しています。

また地元の英国では週刊無線雑誌Popular Wireless(6月3日号[創刊号 Vol.1-No.1], "Wireless Lighthouses", p14)が伝えたほか、ちょっと毛色が異なりますが、同国の科学雑誌Nature(Vol.110-No.2754, 1922年8月12日号, pp220-223)がフランクリン技師の論文を取り上げました(下図)。

もちろん日本でも紹介されています。

甚だしき短波長をもって一方向に送信する無線電信方に関し、英国において重要なる研究行なわれつつあるが、五月三日、倫敦(ロンドン)電気工師会において、マルコニ無線会社試験技師C.S. Franklin氏は講演をなし、従来発表せられざる事項を公表せり。僅かに十五メートルの電波長を使用し、倫敦(ロンドン)-バーミンガム間に二重無線電話行なわれ、試験に関係せる特殊装置局においてのみこれを聞く事を得たり。(米村嘉一郎, "欧米電波事情 指向式短波無線電話", 『無線』, 1922.11, 逓信省無線倶楽部)

21) ニューヨークで300MHzビームをデモ (1922年6月20日) [Marconi編]

米国のGE社との会議のために渡米したマルコーニ氏は、1922年6月20日に無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)と米国電気学会AIEE(American Institute of Electrical Engineers)の共催の講演会において、1896年にイギリスで行ったパラボラ・アンテナの試験の話にはじまり、1916年にイタリアで着手した短波のビーム実験とこれまでの成果について発表しました。

ニューヨークの放送技術者協会の講堂で拍手の音が鳴り響いた。一九二二年六月十一日(注:6月20日の誤記です)のことである。奇妙な骨組の機械がステージの両側に据えられ、小型無線機でお望みの方向へラジオを送る実験が始まろうとしているのだ。ステージに立った発明者はちょうど本物の魔術師のように見えた。聴衆は超満員で、教会の入口にまで溢れていた。 ”無線の主”として紹介されたマルコーニは、小型送信機で二十フィートの距離で波長一メートルの指向性電波を放射してアメリカの技術者達を驚かした。(Orrin E. Dunlap著/森道雄訳, 『マルコーニ』[原題"Marconi, The man and his wireless"], 1941, 誠文堂新光社, p261)

【注】 ここには6月11日とありますが、正しくは6月20日です。ダンロップ氏の原書の方を見たところ、原書(p270)の段階で "June 11"と誤っていました。また上記引用にある”無線の主”とは、”王”の誤植ではないかと私は疑ったのですが、原文を見ると "the master of wireless" でした。

図[左]がスダレ式パラボラ反射鏡付き300MHzの送信セットです。その基台部はターン・テーブルになっていいます。現地の新聞、ニューヨーク・タイムズ紙は「ベビー・セット(四方が柵になっている赤ちゃん用ベッド)」と呼びました。

図[中]のようにスタッフが左右にビームを振って、まるでサーチライトのように機能するところをデモしています。また上図[右]はパラボラの焦点に置かれた輻射部の拡大です。

ステージの片隅の反射器から、反対側の水平の金属桿(かん:「操縦かん」と同じ字)にその電波が輻射されると、受信機から明快な音が響いて出た。ちょうど球を半分に切ったような枠型に電線を張った半円型の反射器が、その口を受信機の方へ正しく向けると、音は一層強く明瞭になった。そして半球の開いた方を他の方向に向けると、音は殆ど聞えなくなるので、反射器がちょうどサーチライトの役目をしていることが解った。 (Orrin E. Dunlap著/森道雄訳, 『マルコーニ』[原題"Marconi, The man and his wireless"], 1941, 誠文堂新光社, p261)

図[左]が会場に用意された300MHzの受信セットです。受けた電波の強さに応じて、音量が増減するようになっています。

図[中]は300MHzの受信アンテナを右手に持ち講演中のマルコーニ氏です。次に説明する送信パラボラがマルコーニ氏に向けられた時だけ感応しました。この写真向かって左側でお手伝いをしている人物は、ニューヨーク市立大学のAlfred N. Goldsmith教授です。

図[右]はテーブルに置かれた受信アンテナの横に立つスタッフが、受信アンテナと同じ長さの金属エレメントを近づけたとき、干渉して急激に受信感度が低減する位置があることを説明しているところです。

これは誰もが、電波に指向性を持たせている事を納得できる、素晴らしいデモンストレーションでした。

また(来場者がパラボラ反射器に大きな興味を抱いたことは言うまでもないのですが)もう一点付け加えるならば、このアンテナ単体部も注目されました。現代の私達からすれば見慣れた垂直ダイポールです。しかし中波・長波のアンテナは(受信用ループアンテナを別とし)接地式アンテナが全盛の時代でしたので、来場者には非接地式の垂直ダイポールがとても斬新なものとして映ったようです。

22) 短波の有効性を熱弁するマルコーニ (1922年6月20日) [Marconi編]

このマルコーニ氏の6月20日の講演会は定員1,000名の会場(下図:マンハッタンのThe United Engineering Societies Building)に1,160名が入り、少なくとも500名は入場できなかったほどの盛況ぶりでした。

ここでマルコーニ氏は短波について熱弁をふるったのです。

 マルコーニはちょっと原稿に目をやって、ラジオの革命について語り出した。

このステージで用いたような、非常に短い電波は、あの高価な、厄介な交流機(=長波用高周波発電式の送信機のこと)や、(長波用アンテナのための)高い柱や、長い電線をもった大電力局が必要でないことを説明した。続いて、もし一九〇〇年から一九二〇年までの間、短波を用いていたらどんなに費用が節約できたか解らないと述べ、当時は真空管がなく、鉱石検波器や火花や、長波等の有り合わせの材料で太平洋横断通信をするより仕方がなかったことも説明した。 (Orrin E. Dunlap著/森道雄訳, 『マルコーニ』[原題"Marconi, The man and his wireless"], 1941, 誠文堂新光社, pp261-262)

【参考】もともとマルコーニ国際海洋通信会社は、1900年の開業より短波を使っていましたが、1906年のベルリン国際無線会議で船舶通信の通常波を1,000kHzだとすることが決まり、それが1909年7月に発効したあとは、短波から徐々に中波(1,000kHz)、そして長波(500kHz)へと低い方へ変更してきました。

さらにマルコーニ氏はこれまで積み上げてきた「短波の開拓」について発表しました。

  惜しいことに短波は指向性無線や、無線電話の方向では疎かにされているのです。大戦中にも私は反射器を用いて、短波の特質を研究し、光線の反射の法則によって種々実験したのです。ところが(第一次世界大戦で海底ケーブルの脆弱性が露わになると、終戦後は)長波の研究が急激に進展し、又その使用が容易であったので、短波研究に対する注意が外れてしまったのです。短波によって、いや、短波にでなければ解決できない問題が山積しているのに、これは遺憾なことだと私は思いました。

一八九六年九月に、サー・ウィリアム・プリースが、英国科学振興会で、また翌年六月四日にロンドンの王立科学普及学院で、私の初期の実験について講演をしましたが、私自身も一八九九年三月三日、ロンドンの電気技術者協会で詳細に説明しました。

二十年以前のこの実験以来、私の知るかぎりでは、短波に関する研究ないし実験は取立てていうほどのものはなかったようです。第一に使用が困難ですし、効果のほども解らなかったためでしょう。反射器にはわずか数メートルの波長のものしか用いられませんが、この短波を放射することは困難ですし、その利用範囲も狭かったのです。一九一六年に、私はある軍事上の目的で、英国マルコーニ会社のC・S・フランクリン氏の協力の下に、再び短波の研究を取上げましたが、この実験は初期の無線研究同様その視野の広い点において非常に興味深いものでした。

十五メートルの波長(周波数20MHz)を用いた試験が好結果でしたので、ヘンドン ― バーミンガム間九十七マイルの距離で実験をしました。両地点に反射器を使用しましたが、通信は非常に明瞭でした。(アイルランドの)キングスタウン港沖のある船は七十八マイル離れた(英国側の)カーナーヴォンからのビームを聴取したそうですが、船が水平線に没した後も、信号の強さは減じなかったという重要な事実も解りました。(Orrin E. Dunlap著/森道雄訳, 『マルコーニ』[原題"Marconi, The man and his wireless"], 1941, 誠文堂新光社, p262)

マルコーニ氏の娘デーニャも自身の著書で、この日の "父の短波愛" を紹介しています。

短波の研究は、これまでの無線の歴史のなかで不幸にして無視されてきたとはいえ、今後想像以上に多方面での発展と新分野の研究成果が期待できると、私は確信しています。故に、特にこの点にご注目いただきたいのです。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p276)

 講演論文はIRE誌("Radio Telegraphy", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.10-No.4, Aug.1922, pp215-238)と、AIEE誌("Radio Telegraphy", Journal of the American Institute of Electrical Engineers, Vol.41-No.8, Aug.1922, pp561-570)に掲載されました(内容は両同じ)。これらは短波史の研究者の間では、(1922年の)"Marconi's Paper" と呼ばれ、良く知られているものです。

(IRE誌, Aug.1922)

(AIEE誌, Aug.1922) 

【参考】 このIREとAIEEが1963年(昭和38年)に合併してできたのがIEEE(アイ・トリプル・イー)です。

23) この講演でマルコーニがレーダーのアイデアを披露 (1922年6月20日) [Marconi編]

またこの講演で、マルコーニ氏はレーダーにつながるようなアイデアも披露し、短波ビームが海難事故の防止に役立つ可能性を示唆しました。

講演の終わりに電波のもう一つ別の利用の可能性 - 実現の暁には航海者にとって計り知れない価値を持つでしょう - を指摘しておきます。

ヘルツが最初に証明したように、電波は導体によって完全に反射できます。私のいくつかの実験でも電波の反射効果および数マイルも離れた場所の金属物質によって電波が屈折することに注目しました。船にビームをどの方向にでも放射、あるいは照射できるような装置を船に作ることは、私は可能だと思っております。このビームが例えば船のような金属製の障害物に遭遇した場合、受信機にその障害物が投影されるでしょう。これにより、船にたとえ無線装置が配備されていない場合でも、霧や悪天候下で直ちに他船の存在、位置がわかるのです。

これはすでに、レーダーの概念だった。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大学出版局, p277)

逓信省の荒川大太郎技師もこの話を以下のように翻訳し、日本で紹介しています。

なお電波が金属に当たって反射することから、丁度ヘルツの実験のように、濃霧の際に一つの船から電波を発射し、もしそれが反射し戻ってきたならば附近にいる船とその方向が知れて便利である。電波の反射はその距離が一マイルもあって充分作用することが実験されているから適当な設計さえすれば、実用になること明らかである。これはまた特に附近の船が無線を持っていない時に用いて有効のものである。(Guglielmo Marconi/荒川大太郎要約, "Radio Telegraphy", Proceedings of the IRE Vol.10-No.4, pp215-238, Institute of Radio Engineers, Aug.1923) 

これら1922年に発表された"Franklin's Paper"(5月)と"Marconi's Paper"(6月)は、今もなお多くの雑誌・書籍の短波史解説に繰り返し引用され続けています。

24) 新聞やアマチュア無線家らの反応 [Marconi編]

このように長波が注目されていた当時の "無線界の常識" に反して、世界で最初に 「短波には想像以上の有効性がある」 と説いたのがマルコーニ氏でした。昭和40年代以降の日本で、こういったマルコーニ氏の短波への功績が、忘れ去られてしまったのが不思議でなりません。

さっそく翌日のThe New York Times紙はそれについて以下の見出しを付け、大きく報じました。記者の目には300MHzのパラボラ・アンテナがまるで赤ん坊のベッドにある転落防止の柵のように見えたようです。

さらに当時のメジャーな無線雑誌であるElectrical World(6月24日号)Wireless Age(7月号)Radio World(7月29日)Radio Age(7/8月合併号)Radio News(8月号)Radio Broadcast(8月号)Radio Magazine(8月号)Radio(8月号)などにもその要旨が掲載され、マルコーニ氏の短波研究が無線ファンに知られるところとなりました。

またアマチュア団体ARRLの機関誌QST誌(9月号)にも載りました。

しかし米国では同年3月に開催された第一回国内無線会議において、アマチュアの周波数を現行の1,500kHz(波長200m)から、低い方へ1,091kHz(波長275m)まで拡張したうえで、新たに1,091-2,000kHzをアマチュアバンドとして創設する勧告案が決議された直後でした。そのためアマチュア無線家は "飛ばないとわれる短波" にはまったくの無関心でした。

長年の夢である低い周波数(1091-1500kHz)が使えるかもしれないと、おおいに期待が高まっていた事、そしてこの勧告案ではアマチュアバンドが1,091-2,000kHzに制定されるため、今後は2MHz以上の高い周波数(短波)が使えなくなる事から、マルコーニ氏がいくら短波の可能性を説いても、もはやアマチュア無線家の心に "短波" は響かなかったようです。

25) 忘れられていたパラボラ反射器に再び脚光 (1922年) [Marconi編]

歴史を振り返ってみます。

1899年3月2日、ロンドンの電気学会(Institution of Electrical Engineers)でマルコーニ氏は「1896年にパラボラを使って1-3/4マイル(2.8km)の通信に成功したが、結局、垂直ワイヤーアンテナに切り換えた」と語っています。接地型のワイヤーアンテナをより高くあげることで電波がさらに遠方に届くことが分かると、実験には不便なパラボラ・アンテナを使わなくなりました。

『It was by means of reflectors I obtained the results over 1-3/4 miles mentioned by Mr. Preece at the British Association meeting of 1896. I have, however, dedicated more time to the other system ie., the vertical wire system. (G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899, pp283)

そして接地式ワイヤーアンテナと同調回路の発明で、使用周波数が超短波→短波→中波→長波と低い方へシフトして行き、いつしか人々はパラボラ・アンテナの事を忘れていました。

 

1922年(大正11年)5月3日、マルコーニ社のフランクリン技師が英国電気学会(IEE)1916年からの短波開拓およびパラボラ反射器について発表しました。その質疑応答・ディスカッションの場にいたマルコーニ氏は次のように発言しています。

短い電波は最も初期の頃に私が一番に実験したものです。26年前に英国に来た私が故プリース技師長に示せた1-3/4マイル届いた短い波は反射器を使ったもので、ワイヤー式のものだと半マイルだったことを思い出します。

Senatore G. Marconi: ・・・(略)・・・ Short electric waves were the first with which I experimented in the very earliest stages of radio-telegraphy, and I might recall the fact that when, 26 years ago, I came to England, I was able to show the late Sir William Preece, then Engineer-in-Chief of the Post Office, the transmission of intelligible signals over distances of 1-3/4miles utilizing short waves with reflectors, and only about half a mile by means of the elevated wire system. ("Short-Wave Directional Wireless Telegraphy - Discussion before the Wireless Section, 3 May, 1922", Journal of the Institution of Electrical Engineers, Vol.60-No.312, Aug. 1922, p934)

1922年6月20日、今度はマルコーニ氏が無線技術者学会(IRE)と米国電気学会(AIEE)の共催の講演会にて短波ビームの研究発表を行った際にも、26年前(1896年)のパラボラ・アンテナの実験のことに触れ、回路図を示しました。これらにより、「・・・そういえばマルコーニの最初の特許にパラボラがあったな」と、みんなの記憶が呼び覚ましたのでした。

その6月20日の講演論文が掲載された学会誌("Radio Telegraphy", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.10-No.4, Aug.1922, pp215-238)からパラボラに関する部分を引用します。

Fig3がパラポラ付き送信機の回路図、Fig2がパラポラ付き受信機の回路図です(左図: p226)。

1923年(大正12年)、この論文を読まれた荒川大太郎逓信技師が、逓信省無線倶楽部の機関誌「無線」でマルコーニ氏の初期のパラボラ試験を紹介されています。

かのHertzもその実験に短い電波を使用し、反射等の法則を研究した。Marconi氏も26年前、当時英国政府の技師長であった故Preece氏の下に行なった実験において、反射器を使用した短波長通信が13/4 (1-3/4マイル=2.8km)も成功したにも拘わらず、高い(注:高く上に伸ばした)空中線を使用した結果は半哩も達しなかったのである。(荒川大太郎, "無線電信の新しき用途", 『無線』, 1923.2, 逓信省無線倶楽部, p6)

6月20日の学会発表がきっかけで、初期のパラボラ実験の話題が、再び取上げられるようになりました。たとえば無線月刊誌Wireless Ageの1924年(大正13年)12月号にある記事"The Beam System"です。

Over 28 years ago, Marconi transmitted and received intelligible signals over a distance of 1-3/4 miles, using a beam system employing short waves and reflectors and showed how it was possible to project the waves in a beam, in one direction only, instead of allowing them to spread out from the transmitter in all directions. (K. M. MacILVAIN, "The Beam System", Wireless Age, 1924.12, p44)

マルコーニ氏が逝去される直前の1937年(昭和12年)春に出版された書籍 Marconi, The Man and His Wireless(図)でも、ソールズベリー平原で1896年に行われたパラボラによるビーム試験の事を紹介しています。

Surprisingly, Marconi was able to send the messages at Salisbury in a more or less definite direction. By aiming aerial reflectors he projected beam-like waves. The Hertzian energy was concentrated by a parabolic cooper reflector or bowl, two or three feet in diameter, thereby shaping the waves into narrow strips, in much the same way that a searchlight stabs a streak through the darkness. (Orrin E. Dunlap Jr., Marconi, the man and his wireless, 1937, The Macmillan Company, p55)

26) 二代目電波灯台の完成 (1922年春) [Marconi編]

C.S.フランクリン技師はインチケイス島に建設した(初代の)電波灯台(75MHz)について、ロンドンの英国電気学会IEE(1922年5月3日)で発表しました。

初代電波灯台は1920年(大正9年)にインチケイス灯台の隣に建設されました。そして1920年(大正9年)11月17日、ファロス号に受信機を積んで75MHz波の海上伝播測定を行いました。

この時の実験で、インチケイス島の近くではかえって電波が弱いことが明らかとなり、ビーム・アンテナをもっと標高の低い位置に移設することになりました。そしてこの移設を契機としてパラボラをワイヤー式にして軽量化したメリーゴーランド型(デュアル)ビームアンテナが開発されました。

1922年(大正11年)春に完成した新しい電波灯台の(デュアル)ビームアンテナが完成しました。Radio News誌(1922年11月号)に解説記事が書かれ、その号の表紙になっています(図)。まるでメリーゴーランドですね。

雑誌表紙の下の写真は多くの書籍で使われている二代目インチケイス電波灯台のとても有名なものです。写真の右後方に小さく見えている灯台に着目ください灯台よりもかなり低い場所にアンテナを移したことがお分かり頂けるでしょう。

1922年5月3日のフランクリン技師の学会発表ではまだインチケイスの二代目ビームの件には触れていませんが、マルコーニ氏の学会発表(1922年6月20日)では二代目ビームの写真とその試験が始まっていることを紹介しています。ということは5月末か6月上旬頃に完成したのでしょうか?

At a later date a new reflector was designed and erected and is now being tested. ("Radio Telegraphy", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.10-No.4, Aug.1922, p234)

27) 二代目電波灯台の試験運用 (1922-3年) [Marconi編]

二代目電波灯台の船舶を使った本格的な実用化試験のスタートは(明確な時期は特定できていませんが、無線雑誌Wireless World(1923年3月31日号pp859-860)で紹介されたことから想像すると、1922年後半あるいは1923年初頭だと思われます。

協力したのは地元エジンバラとロンドン間の汽船を運航していたLondon and Edinburgh Shipping Co., Ltd.で、同社のロイヤル・スコット号(Royal Scot)に受信アンテナと受信機が取り付けられて、濃霧時の船の安全航行に有効であることが確かめられました。この試験はおよそ1年間続けられました。

図イラストにも灯台から離れた、すこし低い場所に回転ビームが描かれています。

そして左図[左]がロイヤル・スコット号に装備された波長4m(75MHz)の超短波受信機です。4つの押しボタンのようなものが見えますが詳細は不明です。

左図[右]は更に改良された1924年頃の新型受信機の内部構造です

なおこのロイヤル・スコット号による1年間にわたる実用化試験には波長6m(50MHz)が用いられたとする文献もあります。

In the following year a rotating parabolic 6-metre beam was fitted at Inchkeith, firth of Forth, and run for 12 months, testing with the Royal Scot, a Leith to London coasting steamer. (A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1932, John Wiley & Sons, p11) 

左図は雑誌Popular Science(1924年12月号)の解説イラストです。実はこのビームアンテナは放物反射器をちょうど背中合わせした構造で、ゆっくり回転しながら左右へ2つの電波を放射します(火花送信機も左右それぞれにある)。

使用波長を四米とし、火花間隙送信となし、反射器の開きは八米で、一個の受信真空球で受信距離は七海里(13km)に及んでいる。反射器は二分毎に一回転をなし、二分の一点毎に信号を発射し、これによって船舶は、その方向を四分の一点、すなわち二度八分以内の正確さで知る事が出来るという。(福田庚子郎, "短波長指向式無線電話", 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p26) 

図の外周に書かれた点はモールス符号で、64方位ごとに送信する符号を定めてあります。

北:M(--)、北北東:Z(--・・)、北東:K(-・-)、東北東:F(・・-・)、東:G(--・)、東南東:P(・--・)、南東:V(・・・-)、南南東:U(・・-)、南:O(---)、南南西:D(-・・)、南西:B(-・・・)、西南西:X(-・・-)、西:W(・--)、西北西:L(・-・・)、北西:R(・-・)、北北西:C(-・-・)。さらにその間を2点ごとにI(・・)、4点ごとにT(-)が回転しながら自動送信され

パラボラを背中合わせにした理由回転台のバランスをとるためと、ある方角に対して半周(180度)ごとに発射の順番がくるので、回転速度を半分にできるからです。2分間で1回転させており、船側では1分間に一度、受信できる計算です。ビームには幅がありますから徐々に聞こえ始め、そして消えて行きます。もしそれが T→I→B→I→T と聞こえたら、真ん中のB(南西)になります。 

【参考】米国海軍省水路部の1930年版 資料(US Navy Hydrographic Office, Radio Aids to Navigation, 1930, US GPO, p59)によると、インチケイス島の回転式電波灯台は、その後も波長4.5m(66.667MHz)と波長6m(50MHz)の二波を使って試験的に運用されていたが、1928年(昭和3年)より停止している。

28) フランクリン技師 "短波ビームの研究"でモーリス・リーブマン記念賞を受賞 (1922年) [Marconi編]

無線技術者学会IREはフランクリン技師がなした、これまでの短波ビーム研究の学術的な貢献を認め、『For his investigations of short wave directional transmission and reception』として、1922年(大正11年)度のモーリス・リーブマン記念賞(Morris Liebmann Memorial Prize)を贈ることを決めました。

ちなみに1925年(大正14年)度にはアメリカのコンラッド氏も短波開拓の功績『For his research work in the short wave transmitting and receiving field』で受賞されました。マルコーニ社のフランクリン氏とウェスティングハウス社のコンラッド氏は "短波開拓史上で忘れてはならない技術者" です。 コンラッドのページ参照。

【参考】 日本人としては1961年(昭和36年)に江崎玲於奈氏が初受賞されました。この賞は1964年(昭和39年)からIEEEに引き継がれ、"Morris N. Liebmann Memorial Award" として2000年まで続きました。

その一方でマルコーニ氏は「短波開拓の功績」に関しては、国際的な学術賞を受けていません。しかし1918年に第一次世界大戦が終結して以来、世界は敵国に海底ケーブルを切断される恐れのない長波帯大電力無線局の建設に奔走していたこの時期に、波長的に真逆の短波帯に着目したマルコーニ氏の眼力には驚かされます。彼は周囲の冷ややかな目を気にも留めず、ひたすら短波の可能性を信じて、短波ビームによる公衆通信実現の夢を追いかけ続けました。そしてマルコーニ氏の予言どおり1930年代初頭になると、せっかく大金を掛けて建設してきた各国の大型長波局は短波へ転換を余儀なくされました。

逓信省電務局の竹林嘉一郎氏の言葉を引用します。

挙世長波へ長波へと向かう内にあって、マルコニーは深くこの指向式送信法の利点に想を致し、その実現を期すべく努力したのである。(竹林嘉一郎, "第六編短波長", 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, p411)

また、逓信省の松前重義氏と西崎太郎氏も、1938年(昭和13年)に同様の考えを述べておられます。

かくして商用通信としては、まさに長波の独断場を呈したのであるが ・・・(略)・・・ 一方マルコニーは、つとにかかる情勢に着目し、長波全盛のまっただ中にあって敢然として進路を転向し黙々として短波の研究、特に指向性空中線の研究に没頭していたのである。(松前重義/西崎太郎, 『電気通信概論』, 1938, コロナ社, p18)

29) 電気学会でも話題になったマルコーニの短波 (1922年11月30日) [Marconi編]

マルコーニ氏とフランクリン技師の短波研究が公にされたことは日本にも直ぐに伝わり、彼が再び短波に向おうとするその真意を測りかねていました。

1922年(大正11年)11月30日、電気学会東京支部で欧米諸国を2年間(1920.3-1922.3)視察して帰国された東京高等工業学校(現:東京工業大学)の山本勇氏が欧米における無線電信電話の概況について講演されました(その予稿は電気学会雑誌大正11年11月号に掲載)。

ここでマルコーニの短波研究についても報告されています。『電気学会雑誌』大正12年4月号に掲載された講演録から引用します。

私は去る大正九年の三月から大正十一年の三月まで欧米諸国に滞在して居りまして其間、研究の余暇に無線電信電話の方面を視察いたしました。なお其後雑誌其他の印刷物等によりて発表せられたる事項を参考に致しまして今夕皆様の前に欧米に於ける現時の無線電信の概況について御話しすることになりました。・・・(略)・・・

(e) Short Wave Wireless Telephony(短波無線電話):

Marconi会社が近頃になって熱心に此Short Wave Radio Telephonyを研究していることは注目すべきことであります。Short Waveを使用すれば下の如き利益がある

(i) 他のWaveとのInterferenceを減少すること

(ii) 無断聴取を実際上禁止し得ること

(iii) Reflectorを使用してDirective transmission(指向性送信)を行ひ得ること

などで、Reflectorを発信受信両側に使用すればEnergyの経済なることは勿論でMarconi会社の或る実例に徴しても、之れがためにReceiving Powerが200倍に増加しています。併(しか)し現今Marconi会社でShort Wave Radio Telephony を研究していることはPowerの経済ということよりも寧ろ無線電話の秘密漏洩を防ぐ目的でやっているように見える。

近頃無線電話は技術的には殆んど実用に供せらるる程度に達したのであるが、Broadcastingは別問題として、個人間の通話の場合には其通話の秘密を保持すべき方法が無いために英国などでは無線電話の実用的価値をあまり重大視しないような傾きがあり、現に英国のSub Committee on Radio Telephony of Radio Research Board の最近に発表した報告書でも、無線電話は其秘密漏洩防止の問題が解決せざる限り一般化することは甚だ困難であると結論してあります。・・・(略)・・・200哩(注:200mの誤記かも?)程の無線電話は実用に供せらるべき可能性を有するも併(しか)し乍(なが)ら普通の無線電話に於ては秘密漏洩防止が出来ないから之れを有線電話の代用としてRecommendすることは出来ないということを述べ、唯此際(このさい)に将来望み多いものは所謂(いわゆる)短波長無線電話であるという議論になっています。

つまり10meterとか15meterとの甚だ短い波長を使用すると普通のAmateurなどのReceiverでは之れに同調せしむることが出来ないから甚だしく其無断聴取者の数を減ずることが出来、なお又、Sending StationでReflectorを使用すればSignaling Waveは一方的にしか行きませんから之れによってなお無断聴取者の範囲を或一地にのみ限ることが出来ることになります。

Marconi会社では現に100meterの波長を用いてAmsterdamと無線電話を行っているそうで其成績も宜しいとのことです。そして将来は15meterとか20meterとか短波長にするらしく思われます。波長が斯ように短くなると下の如き点で困難が起ります。

(i) 地表面海面等のAbsorptionが多いこと

(ii) 送信側に於てOscillationを起すことが容易でないこと

(iii) 受信側に於てElectron Tube其自身のinternal capacityのためにAmplificationが困難なること

Marconi会社では(iii)の問題を解決するために極めて小型なTubeを用いるということであります。

Short Waveを最初に、Marconiが伊太利(イタリア)で実験したのは余程古い話で、其時には2米、3米の短波長を使用していた。其後Carnavon1917年3米の波長で火花式発振器で実験していましたが大なる進歩もなかったのでありましたが、1919年にはHendonとBirmingham間97哩の距離を15meterの波長、300 watts outputで行って成功しています。此場合に発信受信両側にReflectorを設けてやりました。それからMarconi会社では4meter程度の波長を使用してRadio lighthouse(電波灯台)の試験を行い、己にEdinburghの近くのInchkeith島に備付けてWave beamが二分間毎に一回転する具合になって居り、その近辺を運行する船舶は直ちにlighthouseの位置を認知し得るのであります。(山本勇, "現時欧米(英仏独米)に於ける無線電信電話概況", 『電気学会雑誌』, Vol.42-No.417, 1923.4, 電気学会, pp345-347)

山本氏はマルコーニ氏の短波研究の目的は無線電話の秘密保護(アマチュア無線家の受信機では聞けない高い周波数を使い、かつビーム送信すれば傍受者が大幅に少なくなる)が目的ではないかと報告されました。

海上公衆通信の商用化

短波の電離層反射を確信