マルコーニ 1897-1899

短波から中波へ降りてくる

パラボラ式無線機の実験

イーストグッドウイン灯台船

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

(当サイト内 別ページへ)

1897~1899年 目次

1) 「接地式アンテナ」が「パラボラ・アンテナ」を超え始める (低い周波数へ意図せずシフト) [Marconi編]

1896年秋の時点では接地を利用する(イタリア時代の)垂直ワイヤー・アンテナより、(英国に移住してから取り組んだ)パラボラ・アンテナの方が優秀だったのです。 

マルコーニ社のフランクリン技師が1922年5月3日、英国電気学会で短波開拓について発表した際に、その質疑応答の場にいたマルコーニ氏は「26年前(1896年9月2日)の私のデモではパラボラ式なら1 3/4マイル(=2.8km)届いたのに、垂直ワイヤー式だと半マイル(=800m)しか届かなかった。」と語っています。

しかし実験を繰り返すうちに、マルコーニ氏は接地式垂直アンテナのいわゆる "勘どころ" を掴んだようです。1896年末頃には、「接地式垂直アンテナ」の到達距離が「パラボラ・アンテナ」をしのぐようになりました(とはいえ1897年春では、パラボラ・アンテナとの比較試験がまだ継続しています)。

若井氏の"マルコーニの手紙"発掘記事の引用を続けます。

1897年4月1日の(マルコーニからプリースに宛てた)手紙では「3月下旬の一連の実験の結果、間に丘があっても通信できるが、その理由はよく分かりません。アンテナの片側を地球に接続しているせいかと思いましたが、非接地のアンテナを使っても届くのです。」 と書いている。この頃はまだパラボラ反射鏡のついたヘルツダイポールを使って指向性を高める実験も行なっていた事がうかがえるし、直進するはずの電波が見通し外にも届く事に疑問を感じながらも、アンテナの高さをより高く、また頂部により大きな容量負荷をつなぐほど、遠くまで届く事を実験的に確かめていたことが分かる。(若井登, マルコーニの実験レポート(2) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1999.1, 電波産業界, p29)

その後マルコーニ氏はアンテナをより高く、ブリキ箱(キャパシティーハット)をより大きくすることで到達距離をぐんぐん伸ばしていきました。若井氏はアンテナをより(高く)長く伸ばすこと、ブリキ箱(キャパシティーハット)をさらに大きくすることが、計らずしもアンテナ回路の共振周波数を下げ、VHF成分を使った火花実験が、自然とHF成分によるものへ変質していた事にまだマルコーニ本人は気付いてなかったと指摘しています。

接地アンテナとその頂部に容量を載せることはマルコーニ独自の発案であり、今でもほとんど同じ形のものが中波放送の送信用アンテナとして実用されている。ただしマルコーニは、通信距離を延ばすための方策がアンテナ回路の共振周波数を下げる結果になったことに、少なくとも1898年頃までは気付いていないと思う。火花送信機による通信周波数は、実験初期のVHF帯からHF帯、さらに後期のMF帯へと必然的に下がっていった。無線機が売れるにつれ、増える混信を解決するため、マルコーニが周波数を意識し始めたことが、1900年の同調回路の発明へと発展した。(若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, p35)

2) 無線電信信号会社 創業 [Marconi編]

こうして超短波から短波へと、(意図せず)シフトし、到達距離を延ばすことに成功したマルコーニ氏は、従兄から無線会社を作るよう強く迫られました。岩井氏が発掘された"マルコーニの手紙"には次のようにありました。

従兄のデイヴィスが会社設立に動き出した。その辺の事情を(マルコーニは)1897年4月10日のプリース宛の手紙にこう書いている。

私は困っています。従兄が友人達と組んで私の特許を使って電信機を作る会社を設立しようと考えています。しかし私は彼らと一緒にやる気持はありませんし、あなたの助力で行なっている今の実験に区切りが付くまでは、その考えに応えられないといってあります。彼らの提案は、私に現金で15000ポンドと、株式の半分をくれるというものです。そして25000ポンドの運用資金で、船に搭載する装置を作ったり、実験を続けると言っています。私はこの申し出を受けるつもりはありませんし、彼らに力を貸すつもりもない事を申し上げます。

どの伝記や文献を見ても、マルコーニは無線電信機を発明すると直ぐ会社を作り、無線機の市場を独占した大事業家として定着している。しかしこの手紙を読む限りそんなイメージはまるで浮かんでこない。「もっと実験をやって装置を改良しなければならない。取り巻きが自分の意に反して金儲けをたくらんでいるが、自分にとっての大恩人に迷惑をかけるようなことは絶対できない。」と、プリースに義理立てしている純情青年の姿しか見えてこないのである。

あとの手紙にも出てくるが、この態度は、会社が軌道に乗り、次第に政府の通信事業独占を脅かすような状況になっても変わらない。マルコーニは無線電信の改良に明け暮れる生っ粋の技術者であって、その姿勢は生涯少しも変わらなかったように思えるのである。 (若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, pp35-36)

 

最終的にマルコーニ氏は従兄とその友人達に従うことになりましたが、自分の名を冠した「マルコーニ特許電信会社」という社名には断固反対し、1897年(明治30年)7月20日に従兄が社長となり「無線電信信号会社」(Wireless Telegraph and Signal Company)が誕生しました。しかしマルコーニ氏の無線機は最初の1年間、全く売れませんでした。

【参考】 マルコーニ氏は会社設立直後に母国へ戻り、イタリア海軍へ無線機の導入を持ちかけていましたが、採用が固まったのは1998年5月になってのことでした。そして1898年7月のキングスタウン競艇の無線中継をダブリン日報から受注したのが同社の初売り上げで、マスコミを使った絶好のPRとなりました。なお直前の1898年6月3日にマルコーニ氏のワイト島ニードルス実験局を見学したケルビン卿夫妻の頼みで、23km離れた対岸にある同社ボーンマス実験局まで電文を送り、それを(陸線の公衆電報で)グラスゴウ大学とケンブリッジ大学に届けた際に、ケルビン卿が無線の謝礼として強引に1通当たり1シリング置いて帰った。その意味ではワイト島のニードルス実験局とボーンマス実験局が世界初の商業海岸局になります。

1900年(明治33年)2月23日に「マルコーニ無線電信会社」(Marconi's Wireless Telegraph Company)に変わりましたが、この時にもマルコーニ氏は自分の名前を冠することに反対しています。しかし前年に米国法人「アメリカ・マルコーニ会社」を立ち上げた時からの流れなので、止めようがなかったようです。

余談になるが、社業の発展に伴い1900年2月23日に「Marconi's Wireless Telegraph Co. Ltd.」と再度社名が変更されるときにも、重役会の席上マルコーニだけが自分の名前を冠することに反対した。(若井登, 電波に関する単語3兄弟, 『情報通信ジャーナル』, 1999.8,  電気通信振興会, p49)

3) 無線電信信号会社時代(3MHz付近) [Marconi編]

無線電信信号会社のはじめの2年間(1897-1898年)は短波の3MHz付近を使用してマルコーニ式無線電信機(非同調式)を各方面へデモンストレーションしていました。

1897年(明治30年)5月13日のブリストル海峡で行った実験はアンテナ長が30m(最終的には50m長でも試験)でした。同年7月11-18日、イタリア海軍にデモした時は艦船側が15m長、仮設海岸局側が24m長でしたが、最終的に船側を28m長、陸側を34m長までのばしています。さらに同年11月、英国南岸のワイト島(Isle of Wight)の西端ニードルス(Needles)に建設した送信所は36mのマストからアンテナを吊り下げ、受信機を積んだ曳船は高さ18mのマストからアンテナを吊り下げました。

1898年(明治31年)7月20, 21日にキングスタウンで行なわれるヨットレースの無線中継をダブリン・デイリー・エクスプレス社(Dublin Daily Express)から受注しました。無線電信信号会社の初受注です。このとき蒸気船フライング・ハントレス(Flying Huntress)号のマストに22.5mのアンテナを建てて、浜辺に仮設した受信所へ各帆船の順位を無線送信しました。公衆通信は郵政庁の独占事業ですが、これは企業の自家回線ということで許されました。

その直後、ビクトリア女王の要請により、王室ヨットのオズボーン(Osborne)号で洋上療養生活に入った英国皇太子と、ワイト島のオズボーン・ハウス(王室別荘)間に無線回線が設けられて、1898年8月3日より16日間、連絡が取られました。その時のアンテナ長はヨットで25m、陸上のオズボーン・ハウスで30mでした。これも公衆通信ではなく自家回線という位置付けです。

さらに同年、ロイド社からの要請で、アイルランドの東北部にあるラスリン島とバリーキャッスル間でデモンストレーションした時のアンテナ長は24m(最終的には30m)でした。

非同調式の無線機ではアンテナ長の4倍の波長が一番強く輻射されます。マルコーニ氏の無線電信信号社では電波長80-130m付近(3.8-2.3MHz)を用いたと考えられます(ただしマルコーニ氏はアンテナを高くすると周波数が低くなる事に、まだ気付いていなかったようです)。

1898年(明治31年)12月、マルコーニ氏の無線電信信号会社はトリニティハウス社(the Corporation of Trinity House)の依頼を受けて、ドーバー海峡に面するサウスフォアランド(South Foreland)灯台と、その沖合に停泊させている灯台船間で通信試験をはじめました。

灯台船は3隻ありましたが、一番遠く12マイル(=19.3km)離れたイーストグッドウィン灯台船(East Goodwin Lightship)に無線機を取付けました。

そして12月24日のクリスマスイブに行われたとされる「陸-船」間通信試験は大成功でした。

【参考1】 イーストグッドウィン灯台船無線局はマルコーニ通信100周年を記念してバハマの切手(1996年)に採用された。

【参考2】 灯台船は計4隻あったとする記事もある。  

サウスフォアランド灯台(海岸局)の垂直空中線は24mですので、単純計算では4倍の波長100m付近(3MHz)と推定されます。このようにまだ非同調式無線機だった「無線電信信号会社」時代には、低い短波を使って実験していました。

4) 1899年3月3日 マルコーニが電気学会で電波灯台を提案 [Marconi編]

1899年(明治32年)3月3日、マルコーニ氏はこれまでの無線研究の成果をロンドンの電気学会(Institution of Electrical Engineers)で発表しました。(G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899, pp273-297)(下図)。

これがマルコーニ自身による学会デビューでした。まずマルコーニ氏はパラボラ反射器を使って1-3/4マイル(2.8km)の実験をしていた頃を振り返って(前述の1896年のパラボラ通信の到達距離を2.0kmから2.8kmに修正したのも、この発表の中でした)。

電波灯台なるものを建設し、そのサービスエリア内を、パラボラ反射器付き受信機を搭載した船が航行するとき、船のパラボラ反射器を電波灯台に向けたときのみ反応してベルが鳴るシステムを提案しました。つまり短波ビームが電波灯台へ応用できるだろうと語ったのです。

マルコーニ氏は電波ビームの応用分野に対し、生涯を通して強い興味を抱いていましたが、19世紀の終わりにはもうその想いが芽生えていたことが分かります。

In experiments carried out over a distance of 1-3/4 miles, I noticed that only a very small movement of the transmitting reflector was sufficient to stop the signals at the receiving end, which could be only obtained within a latitude of 50ft. to the right or left of what was believed to be the centre of the beam of reflected radiations. There exists a most important case to which the reflector system is applicable, namely to enable ships to be warned by lighthouse, light-vessels, or other ships, not only of their proximity to danger, but also of the direction from which the warning comes.

If we imagine that A is a lighthouse provided with a transmitter of electric waves, constantly giving a series of intermittent impulses or flashes, and B a ship provided with a receiving apparatus placed in the focal line of a reflector, it is plain that when the receiver is within range of the oscillator the bell will be rung only when the reflector is directed towards the transmitter, and will not ring when the reflector is not directed towards it. (G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899, IEE [London UK], pp282-283)

この論文はただちに米国の雑誌に転載されましたので、マルコーニ氏の無線研究や電波灯台の提案はアメリカでも良く知られるものだったようです(週刊電気雑誌ELECTRICITY, 3月29日号, pp180-182、週刊技術誌Engineering News and American Railway Journal, 3月29日号, pp206-208、週刊科学雑誌Scientific America, Supplement No.1213, 1899年4月1日号, pp19452-19454)。

5) 日本でも紹介された電波灯台の提案 [Marconi編]

我国では(24年後に)逓信省の荒川大太郎技師が、このマルコーニ氏のアイデアを紹介しています。

無線電信の創業当時に於ける英国でなされた、Preece氏の1896年および1897年六月四日の講演、ならびにMarconi氏がなした1899年三月三日の講演は、多くの諸君には歴史的の興味より外にはないであろうが、再びこれを繰返す時期が来たのである。

その実験は短波長と反射器を使い、ある一定の方向のみに電波を反射し、数々の受信機が、送信機をその方向に向けた時にのみ動作することに成功した。これは室内のみならず、英国のSalisbury Plain(ソールズベリー平原)でも実験したので、当時これを灯台や灯台船に使用し、濃霧中危険なる点を指示するに利用されるべきを報告したのである。(荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省倶楽部, pp6-7)

 

英仏海峡の東方海域には、英国の西側(大西洋)を流れる暖流の北大西洋海流(メキシコ湾流)からの湿った空気が偏西風で運ばれてきます。そしてこの湿った空気が冷やされて濃霧が発生しやすい地理環境でした。そのためこの海域では昔から濃霧による視界不良で船舶の衝突事故が後を絶たず、マルコーニ氏は非常に早い時期(1898年頃)より、無線ビームを(通信用としてではなく、むしろ)ナビゲーション用として応用できないかと考えていたようです。

(後述しますが)この想いを持ち続けたマルコーニ氏は、フランクリン技師に命じて1920年よりインチケイス島で電波灯台の実験をはじめます。

6) 短波から中波へ進出 英仏海峡横断通信(1.6-1.7MHz付近) [Marconi編]

マルコーニ氏の無線電信信号会社の後半期(1899-1900年)になると、アンテナをさらに高く伸ばし線長が伸びたらめ、結果的に同調周波数が下がり中波の上の方(1.6-1.7MHz)を使うようになりました。

1899年(明治32年)3月上旬、マルコーニ氏がフランス政府に申請していた海峡横断試験に許可が下り、フランスのウィムロー(Wimereux)に実験用無線電信所の建設がはじまりました(下図:オーストラリアの日刊紙The Daring Downs Gazette)。

当時、無線は「電信電報の伝送手段のひとつ」と考えられたため、電信事業を政府独占としていた欧州では、たとえ非営利な電波実験活動であっても(有線の)電信法のもとで政府の許可を要しました。

Wireless Telegraphy - ENGLISH CHANNEL EXPERIMENTS  London, March 3.-”(ロンドン3月3日発)

The French authorities have given their consent to the making of experiments with the new system of wireless telegraphy across the English Channel, between Falkestone原文ママ:Folkestoneのことand Boulogne.The Daring Downs Gazette, Mar.6,1899, p3)

そして1899年3月27日、サウスフォアランド灯台の実験施設を利用して、英仏海峡横断試験のデモンストレーションを行い、みごと成功させました。ロンドンのThe Times紙がフランス側から無線で届いた電文を取上げて、この快挙を報じました。

マルコーニ氏の無線電信が英仏海峡を越えたニュースは直ちに米国でも紹介された(左図:"Words Are Sent Across The Sea Without A Wire", San Francisco Call, Mar.29,1899, p2)ほか、世界中で報じられました。

7) 英仏海峡横断通信の様子 [Marconi編]

成功の様子は『無線電信及無線電話(C.R. Gibson著/関沢三吉訳)が詳しいので引用します。前回の灯台船との通信よりも距離が3倍以上になるため、この実験では(装置は同じままで)垂直アンテナを24mから45mに伸ばしました。輻射された周波数はおよそ1.6-1.7MHzあたりと考えられ、初の英仏国際無線通信試験は中波で行われました。

『 ・・・略・・・次いで試みられしは、サウスフォーアランド灯台より英吉利海峡(ドーバー海峡)を横断して仏国(フランス)西海岸に至らんとするものにして、これは一八九九年三月二十七日に成就せられたり。

三月二十九日、三十日の新聞を見れば、何人も英国灯台に臨場したる仏蘭西(フランス)の代表的名士の多きに驚くならん。これそれの実験が仏蘭西のために行われ、かつマルコニ会社がトゥリニティ・ハウス会社より該灯台の使用許可を得たりしが故なり。仏蘭西海岸の電信所はブローニュの北二哩なるウィムローに置かれたるが、両所の距離は英吉利海峡を挟んで三十二哩(32miles=51.5km)なり。該実験は見事に成功せり、すなわち難なく海峡を横断して英仏間の通信を成し遂げたりき。

ここに当然起こる疑問はイースト・グットウィン灯台船に至るよりも約三倍大なるこの距離を架するに何程の電力を附加すべきかということなるべし。その答えはこれと同一の器具にて更に大なる距離にも不足なしということ是なり。・・・(略)・・・(装置は同じものだが、今回は特に)空中線は高さ百五十呎(150feet=45.7mというように、より高く)なりき・・・(略)・・・

(これまでの)本島とイースト・グッドウィン灯台船間の通信にもち用いたる空中線の高さは八十呎(80feet=24.4m)なりしをもって、その長さは英吉利海峡横断実験のために約二倍にせられたり。(Charles R. Gibson著/関沢三吉翻訳, 『無線電信及無線電話』, 1915, 大日本文明協会, pp86-87)

しかし当時はアンテナを長くすると周波数が下がることにまだ気付いていませんでした。

8) 無線通信に感動したフレミング教授 [Marconi編]

この実験には(右手の法則、左手の法則で有名な)ロンドン大学のフレミング教授も立ち会っていました。そしてマルコーニ氏の無線に深く感銘を受けました。

英仏間に設けられたる装置を見んとて、サウスフォーアランド灯台を訪問したる人々の中に、倫敦(ロンドン)大学電気科教授ジェー・エー・フレミング博士ありき。彼はこの成績に深く感じて一書を「タイムズ」紙に寄せたり(一八九九年四月三日)その中に左の一節あり、いわく

数日以前より、余は、許可を得てマルコニ氏がサウス・フォーアランドとブローニュとの間の驚くべき電信実験に用いたる装置と方法を詳細に調査し、かつ、サウス・フォーアランド灯台において実験をなし、またその所に設けられたる電信所より、エーテル波信号の送受設備あるグッドウィン・サンヅの灯台と仏蘭西(フランス)との両所に通信を送りたり。余の滞在期間を通じて、通信、信号、祝賀、戯言等、海峡の両側に座せる通信手の間に自在に交換せられ、一分間、十二字または十八字の割合にて、普通の紙片に自動的に印附せられたり。一回たりとも些細の故障もしくは発信に対する急返信を受くるに遅滞せしことなかりき。いかにこの事実を熟知するも、単に旗竿の一方に通じる長さ百五十呎(150feet=45.7m)の銅線と連結せられしのみなる一電信器がその通信を空間より抽き出し、しかして三十哩(30miles=48.2km)を横切りて不可思議なるエーテルによりて運ばれし報道を細長き紙片上に点と棒とにて印附するを見れば、一種驚嘆の感なくんばあらず・・・」と。(Charles R. Gibson著/関沢三吉翻訳, 『無線電信及無線電話』, 1915, 大日本文明協会, pp87-88)

45mというのは15階建てマンションほどの高さになりますので、建設にはかなり苦労したのではないでしょうか。

9) 長距離国際通信では有線に勝てないと判断 [Marconi編]

海を挟む陸地間には既に海底ケーブルが敷設されており、マルコーニ氏は早い時期から無線による長距離通信ビジネスへの参入には相当時間が掛かると予感していました。

主として国際通信に依存しているかぎり、会社が長つづきしないことに、マルコーニはやがて気がついた。ただちに開拓できるもっとも有望な分野は、船舶との通信にあるように思われた。(Maclaurin, 山崎俊雄/大河内正陽 訳, 『電子工業史 - 無線の発明と技術革新』, 1962, 白揚社, p68)

 そこで船舶界の巨人であるロイド社との契約に成功したマルコーニ社は、まずドイツで船舶局と海岸局の建設に着手しました。

1900年(明治33年)2月18日、オランダとの国境の島ボルクムに、マルコーニ社のボルクム島灯台(Borkum Island Lighthouse:下図)海岸局が完成しました。

150フィート長(=46m)の垂直空中線ですので周波数は1.6MHz位でしょうか。なおボルクム島からは海底ケーブルで大陸へ結んでいます。欧州大陸側の商用海岸局としてはボルクム海岸局が第一号です。

また同年2月27日には北ドイツ・ロイド社が誇る大西洋航路の大型客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号(Kaiser Wilhelm der Große:左図[右])にマルコーニ局を建設しました。同船には100フィート長(=30m)の垂直空中線を設置しましたので、波長はその4倍の120m(周波数2.5MHz)あたりだと考えられます。

そして(明確な日付は不明ですが)ボルクム島の北西30kmの公海上に停泊しているボルクム・リフ灯台船(Borkum Riff Lightship)にもマルコーニ局を開設しました。

1900年2月28月、無線機を搭載したカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号は独ブレーマーハーフェン(Bremerhaven)を出港し、ボルクム島灯台海岸局およびボルクム・リフ灯台船と第一回目の通信テストを行いつつ、ニューヨークへ向かいました。この通信テストは5月上旬まで繰り返されました。3月8日および4月12日のニューヨークタイムス紙がこの試験を報じています("MESSAGE FROM A VESSEL : Experiments Made by the Kaiser Wilhelm der Grosse : The Signals Carry 50 Miles", The New York Times, Mar.8, 1900, p1)、および"Marconi Test Successful", The New York times, Apr.12, 1900, p9)

10) マルコーニ国際海洋通信会社を創設 [Marconi編]

1900年(明治33年)4月25日(= マルコーニ氏 26歳の誕生日)、ロンドンに「マルコーニ国際海洋通信会社」(Marconi International Marine Communication Company)を設立し、欧州大陸のブリュッセル(ベルギー)にもオフィスを設け、さらにパリ(仏)とローマ(伊)には代理店を置いて、北海と北大西洋航路の船舶局と海岸局の受注拡大を目指すことにしました。これはしばらく収益が見込めそうもない長波無線の「マルコーニ無線電信会社」から、すぐに稼げそうな会社を分けたともいえます。

ボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船、客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号間で行っていた通信試験はこのマルコーニ国際海上通信会社が引き継ぎました。また英国海軍の艦船にマルコーニ式無線電信機が装備され始めたのもこの頃です。

専門誌Marine Engineering(1900年4月号)が、通信圏としては50マイル(=80km)が確保できて、大変良好につき北ドイツ・ロイド社の他の船にも搭載されるだろうと、この通信テストの様子を伝えています。

As the result of experiments with the Marconi system of wireless telegraphy on the North German Lloyd liner Kaiser Wilhelm der Grosse, it is probable that this method of communication will be adopted on all the fast ships of that line.  Signals were exchanged between the liner and a station 50 miles distant.Marine Engineering, Apr.1900, Aldrich & Donaldson [New York], p173)

ボルクム・リフ灯台船がボルクム島灯台海岸局とカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号との間で電報を中継することで、サービスエリアは最終的に60マイル(=97km)になりました。

ちなみに12年後に起きたタイタニック号の沈没事件で、同船の通信士だったフィリップス氏とブライド氏は運航会社であるホワイトスターラインの社員ではなく、(また陸上固定通信のマルコーニ無線電信会社の社員でもなく、)このマルコーニ国際海洋通信会社の社員でした。

Philips an Bride, the Marconi operators on board the Titanic, were employed by the Marconi International Marine Communication Company, not the White Star line.(Sue Vander Hook, Titanic, 2010, ABDO Publishing Company, p54)

パラボラ式無線機の実験

海上公衆通信の商用化