マルコーニ 補足Topics

船舶無線、国際マルコーニ・デー、小学校文庫等

パラボラ式無線機の実験

短波から中波へ

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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補足トピックス 目次

補足1) マルコーニの海上無線実験を振返る

なぜかWEB上では、『1899年12月エレットラ号(英国)に船舶無線電信装置が初めて設置された。』という記述が散見されます。しかしエレットラ号は第一世界大戦で英国海軍が接収していた同船を、(終戦後の)1919年にマルコーニ氏が購入したもので、20年も時間が食い違っており完全に誤りです。

それでは船舶で無線が使われた歴史を振り返っておきましょう。無線機をはじめて艦船に搭載し通信試験を行ったのはマルコーニ氏ではなく、ロシア海軍水雷士官学校の教官ポポフだといわれています。

1897年(明治30年)春、ロシア海軍の巡洋艦「ロシア」と「アフリカ」にポポフの無線機を設置し、ロシアの首都ペテルブルク(現:サンクトペテルブルク)の沖合い、フィンランド湾に浮かぶ島にあるクロンシュタット軍港内において、700mほどの通信試験に成功しました。しだいに距離を伸ばし、軍港を出てフィンランド湾内で実験するようになります。送信機は輸送艦「イェフロパ」に設置されました。同年12月にポポフは "無線電信について" と題した講義を海軍首脳に行いました。

1-1) マルコーニのイタリア海軍への無線デモ (1897年7月)

1897年7月11-18日の8日間にわたって、マルコーニ氏はイタリア政府およびイタリア海軍へ無線電信のデモンストレーションを行ないました。

ジェノバから南東80kmに位置するラ・スペツィア(La Spezia)の軍港近くに送信機を設置し、3.6km離れた地点と「陸-陸」通信デモを3日間行ったあと、7月14日からは海軍タグボート第8号に受信機を設置して「陸-船」通信デモを始めました。さらに7月17日には受信機を装甲艦サン・マルチーノ(San Martino)へ移設し、受信アンテナを更に高くしました。

左図[左]の地図で示されるように、ラ・スペツィア軍港の南にあるパルマリア島(Island of La Palmaria)の沖合い10数kmまで離れたりして試験しています。「船-船」試験も行ったとする文献もありますが、私にはよく分かりませんでした。最終的には通信距離18kmを記録しています。

図[右上]がラ・スペツィアの東岸、バルトロメオの海軍施設でデモをしているマルコーニ氏(中央)です。また左図[右下]は海軍タグボート第8号で受信機の調整をしているマルコーニ氏(中央)です。無線が海上通信に有効であることを実感したイタリア海軍は、これを採用する方向で検討に入りました。

1-2) マルコーニのニードルス海岸局との海上試験(1897年11月)

同じ年(1897年)マルコーニ氏は英国南岸のワイト島西端のニードルス(Needles)に送信所を建設し11月より海上試験を始めました。

まだ営業施設ではありませんが、これが世界初の海岸局だといえます。受信機をタグボートに積込み周辺海域で受信測定を繰り返したところ好成績が得られました。

そこで対岸のボーンマス(Bournemouth、ニードルスから22km)とスワネジ(Swanege、ニードルスから30km)間を毎日運航している蒸気船に受信機を搭載して、ニードルスからの無線電報が届く様子を乗客にデモンストレーションしました。

そして1898年(明治31年)1月にはボーンマスに2局目となる海岸局を建設し、ニードルス・ボーンマス間の実験回線を常設しました。

【参考】ちなみに我国でもマルコーニ氏のイタリアでのデモに遅れること僅か5ヶ月の時期に、海上実験が実施されています。1897年12月24-25日に電気試験所の松代松之助氏らが、月島-金杉沖(1.8km)間においてパラボラ送信機とパラボラ受信機による通信実験に成功したことを、時事新報(1898年1月1日)が"無線電信の話"という記事で報じています。

1-3) マルコーニの商業活動としての船の無線(18987月)

(以上はデモや実験用ですが)商業活動として無線機が船で使われたという意味だと、1898年(明治31年)7月20-21日にアイルランドのキングスタウンで開催されたヨットレースの無線中継をダブリン・デイリー・エクスプレス社(Dublin Daily Express)から受注したものが最初になるでしょう。

このレースの決勝が沖合30数km点で行われるため、陸上の観客が勝敗を知るのは、既に勝負がついて、ヨットが港に戻ってからになるため、無線を使って速報しようとする試みでした。蒸気船フライング・ハントレス 号(Flying Huntress)号に送信機を設置し、各帆船の順位を浜辺の仮設受信所で受けました。メッセージは700通を超えたといいます。受信所からは有線電話でデイリーエクスプレス社へ逐次報告され、その一部は観客に速報として伝えられました。

ヨットがスタートを切ってしまえば、たちまちもう望遠鏡でもわからないレースの有様が、刻々告知板で観衆に知らされた。観衆はレースの勝敗以上に、無線の威力に熱狂した。当時の新聞は、無線の威力を讃えて、次のような意味のことを書いている。「- 先頭を切って矢のように走るヨットより少し遅れて汽船フライイング・ハントレス号が走って行く。その上で新聞社(Dublin Daily Express)の係員がレースの有様を小さな紙片に走り書きしては、マルコーニ氏に渡す。すると氏の右手が、エボナイトの電鍵のつまみの上で軽妙に踊る。係員の書いた文字をモールス符号で送っているのだ。短点の時には青い火花が金属球の間からチラッと飛ぶ。長点の時にはやや長く大きく飛ぶ。それと同時に符号は電波となって、風も霧もものかは一秒間に地球を七周半するという驚くべきスピードで、空間を縫って海岸の受信所に飛んで行く・・・云々 (大西薫, 『無線物語』, 1943, 歌と歌謡の社, pp84-85)

 なおこのレース中継はマルコーニ氏らが創業した無線電信通信会社の初受注(初めて収入を得た仕事)だったため、良く知られるところです。

1-4) マルコーニの無線をつけた王室ヨット「オズボーン号」(1898年8月)

 ちょうどその頃、英国皇太子(のちのエドワード七世)が宮殿正面の大階段で転んで膝を脱臼し、母ビクトリア女王よりワイト島のオズボーン・ハウス(王室別荘)で療養するよう言われました。しかし皇太子は母の"世話焼き"を嫌って(?)、医者とともに王室ヨットのオズボーン号図:The Royal Yacht "Osbourne")で洋上療養生活に入りました。

息子の様子が心配でならない母はフライング・ハントレス号がヨットレースを無線中継したという新聞記事を読み、さっそくマルコーニ氏を呼び寄せました。そしてオズボーン号に無線電信機を付けさせて、1898年8月3日より16日間で計150回の通信をオズボーン・ハウスと行った話は有名です。

この王室ヨット「オズボーン号」の無線の話が、後にマルコーニ氏が購入したヨット「エレットラ号」と混同され、WEB上で伝言ゲームのように広まったのでしょうか?ただしオズボーン号に無線を積んだのは1898年8月ですから、WEBで言われるところの「1899年12月」とは1年半もの時間差があります。この1899年12月が何を指しているのかは私には判りませんでした。

このほか、1898年にはドナルド・キュリー(Donald Currie steamship line)社所属のキャリスブルック・キャッスル号(the Carisbrooke Castle)の処女航海の際に送信機を設置し、ボーンマス局への試験が行われています。また1898年12月にはドーバー海峡のサウス・フォアランド灯台とその沖合いのイースト・グッドウィン灯台船(East Goodwin lightship)に無線を装備し連絡通信を開始しています。

1899年(明治32年)4月28日、イースト・グッドウィン灯台船は濃霧の中、航海していたR.F.マシューズ号に追突され、無線でサウス・フォアランド灯台無線局へ救助を要請しました。これが無線電信による初の救援信号です(3月17日に同灯台船が座礁したドイツの貨物船を発見し救援通報したとする記事もありますが、私はまだその事実確認ができていません)。なお灯台船とは同じ場所に停泊したままで、灯台の役目を果たすものなので、これを船舶無線と呼ぶには不適切かもしれません。

1-5) マルコーニ 英国海軍へデモ(1899年7月)

1899年7月29日、マルコーニ氏は英国海軍の巡洋艦ジュノーアレクサンドラヨーロッパ(HMS Juno, HMS Alexandra, HMS Europa)に無線機を仮設し通信デモンストレーションを行いました。左図は巡洋艦ジュノです。

このデモでは、最大到達距離が85マイル(=137km)まで伸び、艦隊内の連絡通信用として英国海軍幹部の注目を集めることに成功しました。なお発射された推定周波数は、172フィート(=52m)の垂直アンテナを用いましたので、およそ1.5MHzでしょうか。

1-6) マルコーニ アメリカでヨットレース中継(1899年10月)

1899年秋、マルコーニ氏はNew York Herald新聞社からヨットレース(America's Cup)の模様を無線中継して欲しいと依頼され、無線機器一式を持って訪米しました。

そして1899年10月3日より蒸気船ポンス号(Ponce)からレースの模様の中継を開始しました。図[左]イラストはポンス号ですSan Francisco Call 紙, Oct.4,1899, p2)

金属板を吊り下げたアンテナから電波が放射されていますが、これは誇張された図かもしれません。なおレース後半になるとグラン・デューケイス(Grande Duchesse)から無線中継しています。

マルコーニ氏はヨットレースのあと、米海軍の戦艦ニューヨーク(USS New York)と戦艦マサチューセッツ(USS Massachusetts)に無線機を取り付けてデモンストレーションしました。21マイル(=34km)では大変良好、最大で29マイル(=47km)届くことが確認されましたが、料金面で折り合いが付かず、売り込みは失敗でした。

1-7) 大西洋航路の定期船セントポール号で実験(1899年11月)

1899年11月8日、マルコーニ氏は英国に帰国するために乗船した蒸気船セントポール 号(Saint Paul)に無線機を仮設させてもらい、アメリカを出港しました。そして11月15日に英仏海峡のワイト島ニードルズ局の沖合いで通信試験に成功したと、The Sum 紙(1899年11月26日)第1面の記事"Got News While at Sea"が報じています(上図[右])。

連絡が付いたのはニードルズ局から66海里(122km)の地点で午後4時45分でした。これは(一般乗客の電報を扱ったものではなく)マルコーニ社内部の通信試験でしたが定期航路船からの無線としてはこれが最初です。またワイト島ニードルズ局が南アフリカ戦争の状況を知らせてきたため、船長の発案により、これを船内新聞にして1ドルで販売しました。これが無線を使った船内新聞の第一号にもなりました。

1-8) 大西洋航路の定期船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローゼ号に恒久施設(19002月)

しかしセントポール号がこのあとの航海でも公衆無線電報を取扱ったという記事や記録を私は発見できていません。これ限りの臨時的なものだった可能性が強いです。もしそうならば、公衆無線電報を扱う船舶無線の"恒久施設"としては、1900年(明治33年)2月にマルコーニ社が北独ロイド汽船所属のカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ 号(SS Kaiser Wilhelm der Große)、およびボルクム・リフ灯台船(Borkum Riff Lightship)とボルクム島灯台局(海岸局)マルコーニ局を設置し、1900年5月15日より公式に電報の取扱業務をスタートさせていますので、この大西洋航路の定期船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号が最初になると思います。

補足) 国際マルコーニ・デー

1931年(昭和6年)12月12日国際マルコーニ・デーとして地球規模のイベントが催されました。ちょうど大西洋横断通信成功(1901年12月12日)より30周年の節目にあたるため、米国の呼び掛けで世界15ヶ国・地域(日、米、加、英、仏、独、伊、ベルギー、ポーランド、ブラジル、スペイン、ベネズエラ、アルゼンチン、フィリピン、ハワイ)が無線中継網を駆使し、自国の無線通信界代表者によるマルコーニ氏への記念祝辞とその国を代表する音楽を交換し合ったのです(マルコーニ記念国際放送)。

マルコーニ氏と助手のケンプ氏はロンドンBBCのスタジオにいました。そして世界へ向けて以下のように語りました。

この日、無線の父五十七歳のグリエルモ・マルコーニは、英京ロンドンのBBC放送局の一室にあって、マイクロホンを前に、地球をとりまく国々のラジオ聴取者に次のような挨拶を送った。

三〇年前、私はニュー・ファウンドランドの丘の上のがらんとした建物の一室で、三〇〇〇キロ隔てた大西洋の彼方ポルデュ無線局から送られてくるはずのS字符号を、果たして受信できるかどうかあやぶみながら不安な気持で待っていました。そして、かすかながらこの耳に聞き取ることができたのであります。それから三〇年、ラジオはかくも立派に成長し、海を越え大陸をまたいで地球をつつむまでになりました。今、この三〇年の進歩を省みますと、まことに感慨無量なものがあります。三〇年の昔、私とともにあのS字符号を受信した私の助手のケンプ氏が、あの時と同様に、私のそばに今立っておりまして、私が世界中の皆様にお送りしている御挨拶を聞いております。私はケンプ氏とともに、皆様に心からの感謝をささげる次第であります。最後に本日の祭典の記念として、あのときに私たちが受信したS字符号を、皆様の耳にお伝えいたしますが、これはケンプ氏が電鍵を握って発信するのでございます。そのおつもりでお聞き下さるようにお願いします。

言葉が終わると、トン、トン、トンと三つの短信が電波に乗って送り出された。これはたちまちのうちに全世界幾億の聴取者の耳にとどき、深い深い感動をよび起こした。(早野彦八郎, 『電波ものがたり』, 1959, 法政大出版局, p164)

時差の都合で日本からの送信の番は13日早朝06:00-08:30でした。逓信省の稲田工務局長の英語スピーチが検見川送信所J1AAの13.080MHzで送り出され、米西海岸にあるRCA社のポイントレー受信所で受け、ボリナス送信所KKWから13.705MHzでハワイとフィリピンへ戻す一方、陸線で全米へ配信し各局で放送されると同時に、ニューヨークから長波で南米のブラジル, アルゼンチン, ベネズエラと、欧州のスペイン、英国へ送られました。そして英国から海底ケーブルと陸線で(スペインを除く)欧州大陸の参加国に送られ再放送されました。

また日本が受信の時はボリナスKKWの13.705MHz波を岩槻受信所が受けて、陸線で東京中央電話局を経由し愛宕山の日本放送協会に送り、そこから各局へ配信されました。スペインだけが空中状態が悪く中継できず、やむなくニューヨークからスペイン音楽を送ったのが残念ですが、国際マルコーニ・デー全体としては大成功でした。

なお前述しましたが、この2年後の1933年(昭和8年)のシカゴ万博では10月2日を「マルコーニ・デー」として記念行事が行われました。また今ではマルコーニ氏の誕生日4月25日の前後の週末にアマチュア無線家による記念イベントが催されるようになりました

補足) 小学校の学級文庫に登場するマルコーニの超短波

戦後に出版された小学生向けの伝記本からマルコーニ氏について書かれたものをいくつか紹介します。今(=2022年)65歳以上の方々が少年時代にお読みになられた本でしょう。

◎ 中正夫『マルコーニ』1958年 日本書房

1958年(昭和33年)、東京の日本書房が学級文庫(小学4・5年生向けシリーズ)の一巻として出版した「マルコーニ(中正夫)という本があります。もしかすると「あっ。この本なら覚えがあるぞ」という方もいらっしゃるかもしれませんね。昭和33年に小学4-5年生(10-11歳)だとすれば、生まれが昭和22-23年で、いわゆる団塊世代をターゲットにした本でした

マルコーニ夫妻が1933年(昭和8年)に観光で来日された話の中で、ほんの少しですが超短波に触れる部分がありますので、参考までに引用します。

なお文中のミリ波はセンチ波(50cm=600MHz)で、また超短波とあるのは短波のように思います

『 (来日した)マルコーニは、髪も白くなり、侯爵マルコーニとして、堂々の貫禄をそなえた老紳士であった。それでも元気は、はちきれるように、海軍の制服をつけ、しゃんとして、少しも衰えをみせない。「今でも先生は、やはり研究をつづけていらっしゃいますか。

会見にきた記者が問うと、「もちろんです。死ぬまで研究はやめません。ただいまは、ミリ波の研究をしています。 【注】ミリ波ではなくセンチ波です

ミリ波といいますと。」「極超短波です。わずかな電力で、どんなところへも通信できます。」と。たゆまぬ研究心のほどをみせていた。マルコーニは、日本で、講演会をしたり、技術指導をしたり、また宮中に召されて、勲章も授けられたが、「わたくしの祖国イタリアと、お国のニッポンとは、ともに古い歴史をもち、山水も美しく熱情をもつ国民が住み、たいへんよく似ています。その日本に、わたくしが発明するとすぐに(電気試験所の松代松之助技師が)立派な無線実験を行ったということは、ほんとうにうれしいことです。」と、くりかえしていった。

そして奈良や京都を見物し、日本には「日光を見ないで結構だというな」という、ことわざのあることをきくと、「おお、わたしの国でも、ナポリを見ずに美しいというな、ということばがあります。」とよろこび、もういちど日本へゆっくりと見物に来たいと、あわただしい旅を終って日本を去ったが、それから五年で、この巨人が世を去るとは、だれも思いがけなかったであろう。

さて話は、もとにもどって、第一次世界大戦中には、マルコーニは、もっぱら超短波の研究に努力していた。 【注】第一次世界大戦のときに研究に着手したのは超短波ではなく、短波です

・・・(略)・・・日本から帰ると「さ、いよいよ、いそがしくなるぞ。」と、古い友人のケンプとともに、ローマ郊外に設けたマルコーニ無線研究所にひきこもって、極超短波の研究に熱中していた。

六十三歳と見えぬ若々しい情熱は、いつも新しい未知のものへの追求にそそがれ、助手たちが健康を気づかって、「少しおやすみになったら---」とすすめても、「わしはこうやって研究しているのが、いちばんの健康法だよ。」と元気に語っていた。しかし、そのころから、マルコーニは、なんとなく疲れやすいのを感じるようになり、時々、手をやすめて、ぼんやりと窓から空をながめている時がある。四十年間の長い生涯であった。(中正夫, 『マルコーニ』, 1958, 日本書房, pp213-215, pp232-233)

三石巌『ノーベル賞物語』1957年 偕成社

1957年(昭和32年)偕成社から出された「ノーベル賞物語(三石巌著)はマルコーニを単独で扱った本ではありませんが、彼が研究していたUHF波を殺人光線として噂された1935年ごろの事件に触れています。

マルコーニ氏、無線殺人光線を発明

- 飛行機や自動車をたちどころにとめてしまう光線 - 

ある朝、こんな見だしの新聞記事が、イタリア市民のきもをひやしました。イタリアがエチオピアに攻めこんでいったころなので、一部の人たちには、このニュースは大もてでした。しかし、テレビ(の開発)にむちゅうだったマルコーニは、根も葉もないこのうわさを、たいへん悲しく思いました。

私は無線が戦争で使われるより、何か人の命をすくうことに使われるのを願っています。」無線の発明いらい、マルコーニの変わらない気持はこれなのでした。

平和な一九三七年の夏、夫人と七つになる娘マリアが避暑地にむかうのを見送って、マルコーニは汽車の窓をのぞきこんでいました。「パパもいっしょだといいのに」「そうだね元気だと行けたのにね」「あら、パパ泣いてるの? 」「目にごみが入ったのさ。気をつけて行っておいで

駅から帰りの自動車の中で、マルコーニは、おさえていたなみだを遠慮なく流しました。その日の午後、暑さのためか急に気分が悪くなって、あくる日のあけ方、この大発明家は、しずかにしずかにいきをひきとりました。 (三石巌, "無線電信の創始者マルコーニ", 『ノーベル賞物語』, 1957, 偕成社, p212)

日本児童文芸家協会編『見えない光をとらえた』1962年 東西文明社

また1962年(昭和37年)「少年少女のための世界ノーベル賞文庫」第五巻として出版された『見えない光をとらえた』に収録されている "無電王マルコーニ" は、昭和27年(1952年)生まれ以降の方々が学校の図書室でお読みになられたものと想像します。

マルコーニ夫妻の日本訪問の話からはじまる異色本です。冒頭部から引用します。

無電王 マルコーニ

あこがれの日本へ

私は長いあいだのゆめであった、あこがれの日本に、ただいま、やってまいりました。そのときにあたり、このようなさかんなかんげいをうけて、うれしくてなりません。私は日本がはじめてです。しかし、私には日本のみなさまが、みな、なつかしい友だちとおもわれてなりません。

なぜならば、イギリスの私の工場でつくった放送機が、日本の各地で、みなさまにラジオの電波をおくっているからであります。うつくしい、火山のある日本。ことにうつくしい富士山のある日本、そして、私のふるさとイタリアの国情ににている日本にくるよろこびは、かぎりないものがあります。

昭和八年(一九三三年)十一月十六日、世界一周旅行のとちゅう日本にたちよった無電王マルコーニは、横浜のはとばをうずめつくしたイタリア大使、電気通信にかんけいある有名な学者、正負のお役人をはじめ、放送局の人たちなど、たくさんのでむかえの人たちをまえに、このようなあいさつをしました。そこには、まだ、はれきらないきりのなかに、太平洋の荒波をこえてきた秩父丸が、おおきな船体をよこたえています。

わあっ!」 「マルコーニ ばんざい!

日の丸とイタリアの旗がおおきくゆれうごきました。こんのせびろに灰色の中折、実業家とも学者ともつかず、みるからに人のよい、おとなしそうなマルコーニは、おくられたみごとな花たばをむねにだいたまま、目をしばたたいています。となりには、黒のドレスに、はでな白黒のがいとうをはおった、うつくしいおくさんが、ニコニコしています。

やがてマルコーニ夫妻は、沿道のでむかえの人たちにこたえながら、車で帝国ホテルにつきました。ところがついてみると、マルコーニは、こんどは電報にでむかえにまたおどろいてしまいました。

「ブジ ニホン トウチャクオ シュクス」 マルコーニの到着をいわった電報が、日本の各地、ヨーロッパの各地、イタリアの会社、友だちなどからどしどしおくられてきて、マルコーニのへやは、みるまに電報に山になってしまったからです。マルコーニは、ニコニコわらいながら、さっそく、タイピストをやとって、返事の電報を、ひとつひとつうたせました。この電報が、いかにたくさんだったかは、タイピストが毎日うちづつけて、たっぷり三日もかかったということでおわかりでしょう。「さすが、無電王ともなると、ちがったものだなあ。」 ホテルの人たちは、かおをみあわせて、はなしあうのでした。

あくる日、マルコーニには、勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)という、最高のくんしょうがおくられ、かんげい会のもようは、ラジオから全国すみずみまで放送されました。

このように、マルコーニはどこへいっても、たいへんなかんげいをうけました。それは、無線電信の発明者であり、ラジオのうみのおやにたいする、人々のかんしゃのきもちのあらわれからでありましょう。それでは、近代文明の恩人マルコーニとは、いったいどんなひとだったのでしょうか。

幸福なおいたち

ググリエルモ・マルコーニは、一八七四年四月二十五日、いまから八十二年まえ、イタリアのポロニアというところでうまれました。 ・・・(略)・・・ 』 (日本児童文芸家協会編, “無電王マルコーニ”, 『見えない光をとらえた』, 1962, 東西文明社, pp95-97 )

マルコーニ氏の短波の開拓や超短波のトピックスは、65歳以上の方々にはたぶん知ってたかも知れないけど、忘れていた。

そして65歳に満たない方々には「そういったマルコーニの記事に触れる機会がなかった。知らんがなぁ~」というような分類ができるのかもしれませんね。

補足4) マルコーニにTYK式無線電話をデモしに渡英した日本人青年

我国のTYK式無線電話をマルコーニにデモするために渡英した日本人青年の話題を引用します。

TYK式無線電話が日本に発明され、実用に供せられつつあるという報道が世界に伝わると、各国とも非常にこれに注意を払い、ロンドンのマルコニ会社などは、その実験をぜひ見せてもらいたいと言ってきた。もちろん装置の詳細を知るとともに、自国にとって有利であるように何とか利用しようという肚(はら)であった事はいうまでもない。電気試験所では鳥潟博士が熟考したのち、当時わずかに二十一歳であった一人の紅顔の青年に装置を英国まで携行させた。この大役を引受けた勇敢な青年は、大正三年二月、如月の風肌を刺す頃 単身出発。雪のシベリアを経由して送受信機、電動発電機など一切を携行し、二週間そこそこでロンドンに到着した。

 ロンドンに着いてからは汽車でチェルムスフォードのマルコニ会社の工場に伴われ、そこと四、五町(1町=109m)ばかり離れたブルームフィールドにある会社の受信所との間で実験した。この実験には、マルコニ自身も立会った。その成績は、当時いささか行詰っていたマルコニ会社の技師一同をして、少なからず驚きの目をみはらせ、我が国無線技術のため大いに気を吐いたのである。

 そして、青年は約三箇月滞在したのち、意気揚々として日本郵船会社の伊予丸で無事帰着した。単身ロンドンまで出向いて、立派にその役目を果たして帰った紅顔の青年 - これは現 新郷放送所長 土岐重助氏だった。 (平塚七六郎, 我がラヂオの父:立志修養, 1935年, ラヂオ科学社, pp56-57)

 電気試験所の土岐氏が100年も前にTYK式無線電話機を携え単身で渡英した1914年(大正3年)はまだ火花電波全盛期で日本のTYK式無線電話は画期的な発明であることは間違いありません。しかし当時のマルコーニ社では開発途上にあった「真空管式無線電話」の完成が目前に迫っていました。そこで日本が完成させた(連続火花式の)TYK式無線電話とこっそりと比較してみたいと思ったのではないでしょうか。

鳥潟右一氏によると土岐氏の訪問の直後(ひと月ほど後)にマルコーニ社は真空管式無線電話を完成させたそうです。電気学会で発表しています。

マルコニー会社は大正三年春、伊太利(イタリア)海軍に於て巡洋艦に真空管式無線電話機を装置し、空中線電流約〇・六アムペアを得て五十キロメートルの通話に成功せりとの発表あり。 (鳥潟右一, "無線電話の同時送受話に就て", 『電気学会雑誌』, Vol.37 No.349, 1917, 電気学会, p653)

【参考】土岐重助氏

ちなみに土岐氏は1924年(大正13年)11月22日にカリフォルニアのラジオ局KGO(中波312m)からの日本向け特別試験放送(第二回)を電気試験所第四部(東京大崎)で受信に成功させた方です。ノイズの多い都市部では無理だと言われていた中での快挙でした。

この第二回のKGOの試験にはちょっと「裏話し」がありますのでご紹介します。

1924年8月30日に行われた最初のKGO受信試験では平磯出張所だけが受信に成功し、大崎の電気試験所(第四部)や磐城無線電信局JAAでは受かりませんでした。そのため学会筋でも「本当に平磯は受信できたのか?」と疑う人がいました。

ぜひリベンジしたいと願う、磐城無線電信局JAAの米村嘉一郎局長および大崎の電気試験所の横山第四部長が、「本当に聞こえたのか?」との疑いを晴らしたいと願っていた平磯出張所の丸毛技師らと意見が一致し、米国GE社に再試験を申し込んでみました。すると米国GE社より快諾が得られ、第二回KGO受信試験が行われることになりました。

その際には長岡半太郎博士を委員長とする文部省学術研究会議の電波委員を平磯に招いて、その放送を聞かせ・・・(略)・・・』 (米村嘉一郎, "KGOの特別放送を聴くの記"、無線と実験, 1925.1, 無線と実験社, p369) と証人を立てることにしました。2回目の試験では磐城無線電信局と第四部も受信でき、もちろん平磯でも大成功で学術研究会議の先生達は大納得で帰ったそうです。

超短波の実用化

戦後の日本で流行ったある評価ほか