ルコーニ 1931-1932

超短波の湾曲性を発見

パラボラ式無線機の実験

短波から中波

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

マルコーニの超短波開拓

超短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

(当サイト内 別ページへ)

1931~1932年 目次

1) 短波でローマ教皇の声を全世界へ バチカン放送の建設 [Marconi編]

1931年(昭和6年)2月11日、バチカン放送が開局しました。

左図[左]はマルコーニ氏が書いた記事(Guglielmo Marconi, "HVJ" ROME-ITALY Heard Around the World, Short Wave Craft, 1931年4・5月合併号, p425)です。記事中でご自身が短波放送機を調整している写真(左図[右])を使っています。

まず開局に至るまでの経緯を紹介しておきます。

18世紀にイタリア政府が教皇領地を強制接収したことを発端に、教皇庁とイタリア政府は深く対立していました。しかし1929年(昭和4年)2月11日にローマ教皇ピウス11世とムッソリーニ首相が和解し、教皇庁がかつての教皇領地を放棄することを条件に、バチカンとして独立し、さらにその外に位置するラテラーノ大聖堂や教皇別荘ガンドルフォ城などを自由に使えるイタリアの治外法権地域としました。これはラテラノ条約と呼ばれ、1929年6月7日に批准寄託書がイタリア政府と教皇庁で交換され成立しました。そしてバチカン市国の基本的法律およびその他の5つの法律がこの6月7日に公布されました。

ラテラノ条約ではバチカンの通信の自由も保障されており、短波放送で全世界の教徒と結ぶことが計画され、教皇ピウス11世はマルコーニ氏に協力を要請しました。敬虔なカトリック教徒であるマルコーニ氏は喜んでこの仕事を受けました。さっそくマルコーニ社が発行するThe Marconi Review 誌(1929年7月号が建設を受注したことを報じています。

The Marconi Company to supply the Vatican Wireless Station.

The order for the wireless station which is to be erected in the Vatican City for the use of His Holiness the Pope and the Vatican State, has been placed with Marconi's Wireless Telegraph Company, Limited. The manufacture of the apparatus for this station and the plans for its installation have already been put in hand, and will be carried out with the greatest possible expedition.

The station will embody the latest improvements in wireless design and construction, and it is receiving the personal supervision of the Marchese Marconi.

Communication will be carried out both by telegraphy and by telephony on the short wave-broadcast principle, and the range of the station will be world-wide. ("The Marconi Company to supply the Vatican Wireless Station", The Marconi Review, July 1927, Marconi Wireless Telegraph Company, p28)

バチカン放送の呼出符号は"Holy See, Vatican, Jesus"からHVJ、周波数は5.970MHz(夜間波)/15.120MHz(昼間波)の2波を使い分けました。マルコーニ社の送信機ですが、音声放送の無変調搬送波電力はおよそ8-10kWで、この他に機械キーイングの高速電信に対応していて、その場合は搬送波出力15-13kWで使用しました。

送信空中線には高さ61mの鉄塔を90m離して2塔建設し、そこに二波(昼間波・夜間波)両用式のマルコーニ・ビーム(左図)を吊るし、銅製の同軸管で給電されました。これとは別に無指向性の垂直アンテナも用意されたようです。

2) 開局式でマルコーニとローマ教皇がメッセージ [Marconi編]

さて全世界のカトリック教徒がこの国際放送計画に大きな期待を寄せていましたが、まだ短波放送の試みが始まったばかりの時期で、(アマチュア無線家を別として)短波受信機は一般家庭にはほとんど普及していませんでした。そのため米国の放送界では、バチカンHVJを短波で受けながら、自社の中波放送局で再送信することにしました。

HVJが放送を開始することは日本でも報じられています図[左]:『東京朝日』, 1931.2.12, 朝p7)。開局式は1931年2月11日16時30分(バチカン時間)から行ました。米国東部時間で2月12日の朝10時30分です。[右]写真の中央が教皇ピウス11世。向かって左から二人目がマルコーニ氏です。

時は一九三一年二月十二日、所はヴァチカン市国で二人の人がまさにラジオで全世界に呼びかけようと待ち構えていた。・・・(略)・・・法王ピウスの招請に応じて、マルコーニは今彼らが放送しようとしている強力な(短波)放送局をつくった。その建設のため、マルコーニは彼の盛大なマルコーニ無線電信会社の全資源を動員したのである。(ヘレン・C・カリファー, "善意の人マルコーニ", 『カトリックダイジェスト日本版』, 1948年7月号, 小峰書店, p14)

16時40分(米国東部時間10時40分)、まずマルコーニ氏がマイクの前に進み出ました。

やがて彼の口からイタリア語がもれた。「約二十世紀の間、ローマ・カトリック教会の長(おさ)は彼の聖務の言葉を世界のあらゆる部分に聞かせて参りました。しかし、その声咳(けいがい)に全世界の人々が同時に接することができるのは、今が初めてであります。神秘きわまりない自然力の多くを人間の思うがままにゆだね給う神の御助力によって、私は法王の御声を耳にするという喜びを全世界の教徒に得させるところの、この機械(短波放送機)の準備をすることができました。」 こう言った後、彼は直接法王に向かって 「それでは聖下(ローマ教皇に対する敬称)の尊き御声を全世界の人々にお聞かせ下さいますようお願い致します」と付け加えた。 (ヘレン・C・カリファー, 前掲書, p14)

16時49分(米国東部時間10時49分)、続いてピウス11世がマイクに向かいました。

ピウス十一世は「最高(いとたか)き所には神に光栄、地には御好意の人々に平安。」 と星の光に輝くベトレヘムの野に天使の大軍がはじめて述べたお告げを含んだ十二分間の講演をラテン語でなした。

数百万の人々(放送リスナー)は科学が神に仕え、そのお役に立った奇跡に驚き、また常に聞き慣れていながら、常に新しいこの昔の聖言の感動的な挑戦にすっかり感動してしまった。(ヘレン・C・カリファー, 前掲書, pp14-15)

ニューヨーク地区WABC, WCDA, WEAF, WJZ, WNYC, WORをはじめとする、全米150のラジオ局が中波で再送信したと2月13日のNew York Timesが報じています(米国以外の国の事は分かりません)。

3) ITT/MT研のドーバー海峡横断デモ (1.67GHz) [Marconi編]

マルコーニ氏がフランクリン技師とイタリアで短波ビームの研究を開始(1916年)してから、およそ7年後(1923年)にアメリカのコンラッド氏により短波中継放送が実用化され、さらにその3年後(1926年)にはマルコーニ氏による短波単独での公衆通信が実用化されました。ここに来るまで10年の歳月を要しています。

しかし無線技術の進化の速度は想像を遥かに超えていました。1930年代に入るや、いきなり「ギガヘルツ」の通信試験へ飛び込んだのです。

1931年(昭和6年)3月31日英国ヘンドンのITT(International Telephone and Telegraph Corporation)研究所と、仏国パリのMT(Le Matériel Téléphonique)研究所はドーバー海峡を挟んだドーバー(Dover, 英)とカレー(Calais、仏)間の40km弱を波長18cm(1.67GHz)の双方向無線電話で結ぶ共同デモンストレーションに成功しました。

地元英国の新聞The Timesが翌1日に"Radio Transmission:Experiment with Short Wave-Length" (Apr.1, 1931, p7)と題してこの快挙を報じました(左図)。

このデモを指揮したのはITT研究所のナッシュ(G.H. Nash)副社長でした。デモのあと、ナッシュ副社長は、英国郵政庁GPOをはじめとする各方面からの招待客との昼食会で超短波の実用化の可能性について講演しました。

英国の無線雑誌Wireless World の記者も招待されており、まず1931年4月8日号のCurrent Topicsで、"18-Centimetre Telephony" (p377)と題した速報記事を載せたました(図[左])。さらに翌週4月15日号でデモとその技術について特集されました図[右]:"Telephony on 18 Centimetres" , pp392-394)

下図は英国ドーバー近くのセントマーガレット・ベイ(St. Margaret's Bay)の崖の上に設置されたデモ装置です。直径3mのパラボラ反射器は風で揺さぶられないように三方および天井を板で囲まれました。

同時通話を行なうために送信パラボラ(手前)と受信パラボラ(右奥)があります。送信用パラボラからの電波が受信用パラボラに回り込まないように、写真のように受信用パラボラは送信用パラボラの背後へ80ヤード(73m)離して設置されました。

そしてフランスのカレー近くのブラン・ネ(Blanc Nez)岬にも同様のものが用意されました。

【参考】仏側の実験地をブラン・ネ岬より南西10kmほどにあるグリ・ネ(Gris Nez)岬とする記事(The Times紙)もありますが、これは海峡沿いの広いエリアを「グリ・ネ岬」と総称したもので、狭域的にはブラン・ネ岬だろうと私は考えます。

送信用パラボラを横から見たものが左側(a)で受信用パラボラは右側(b)になります。

両者ともに(主反射鏡とは別に)楕円面凹型の副反射器を利用しています。いわゆるグレゴリアン型と呼ばれているパラボラ・アンテナで、電波を(副反射器と主反射器で)2回反射させるものです。

小型発振器とダブレット(Doublet)から出た電波は、凹型の副反射器(Hemispherical Reflector)に反射され、対向するように置かれた中華鍋型の主反射器(Paraboloidal Reflector)で跳ね返されます。輻射されたパワーは0.5W相当だったそうです。

主反射鏡の拡大写真をご覧ください。送信用パラボラ反射器の中央に穴が開いているのが見えます。この穴の向う側には波長計(Wave Meter)が置かれていて、輻射される送信波長が18cmになるように較正しました。

電波を輻射しない受信用のパラボラ反射器にはこの穴はありません(図bも参照)。

招待客には対岸側と無線電話を実体験できる時間が与えられました。フェージングもなく電波状態は非常に安定しており、デモは大成功だったようです。

The two-way radio telephony circuit shows no sign of fading, and the quality is remarkably good. ("Telephony on 18 centimetres", Wireless World, Apr.15, 1931, p392)

4) 中華鍋型パラボラ・アンテナが雑誌の表紙に [Marconi編]

英国: 翌月には英国の無線雑誌Experimental Wireless & The Wireless Engineer(1931年5月号, p249)も記事"Telephony on 18 Centimetres" が掲載されました。偶然だとは思いますが、前述のWireless World 誌(4月15日号)と同じタイトルですね。

やはり英国ですが無線雑誌Mordern Wireleee(1931年5月号, p497)にも写真入りで"Cross Channel on An 18 Centimetre Wave" という短い記事があります

米国: 米国ではRadio News 誌(1931年8月号, pp107-109)がこのデモを報じました("Searchlight Radio with the New 7-inch Waves")。表紙にも使われ、中華鍋型パラボラ・アンテナが広く認知されるようになりました(左図[左])。さらに米国の無線週刊誌Radio World 誌は、1931年4月18日号"Sending on Micro-Rays"(p11)と4月25日号"The Micro Ray System: Transmission on 18 Centimeres Wavelenght Between Dover and Calais"(pp4-15)の2回に分けて特集しました。

日本:我国では無線月刊誌『ラヂオの日本』(1931年9月号)が超短波特集を組み、表紙にはITT/MT研の受信用パラボラ・アンテナの中央部を拡大したイラストを用いました(左図[右])。

この他、"フランスで行われた十八センチ短波長の実験"(『発明』, 1931.6, 帝国発明協会, p26)や、"ドーヴァー海峡の短波長通信"(『軍務と技術』, 1931.7, 陸軍技術本部, p72)がこのニュースが取上げました。

こうして日本でもにわかに超短波が注目されたため、科学青少年をターゲットとする月刊誌『科学画報』(1931年10月号)にも"革命的超短波無線通信"という記事が書かれました。

『・・・(略)・・・ところが最近、英国海峡を横断して英国と仏蘭西(フランス)との間に、超短波による無線通話を行う事に成功した。しかも使用される電力は驚くなかれ、たった半ワット、すなわち懐中電灯一個を点灯する程の小電力に過ぎない。しかも用いた(輻射部の)アンテナの長さは四分の三吋(インチ)だというから全く想像外なる。(武田元敏, "革命的超短波無線通信", 『科学画報』, 1931.1-, 誠文堂新光社, p522)

さらに東京工業大学でBK(バルクハウゼンとクルツ)振動管による通信試験をされていた森田清氏が、1933年(昭和8年)に執筆された専門書『ラヂオの応用知識』の中でこの装置について解説されています。

英仏海峡を波長一八・五糎(cm)、(入力数ワットの小真空管により発生)を以って、通信連絡に成功した話は有名でありますが、その送受信所カレー、ドーヴァーは、それぞれ海面上一四五米(145m)、および一〇〇米(100m)の高さにあり、両地点は海面の上を超えて直視可能であり、かつ送受信共に電波に対して鋭い指向性を与えることによって、あの成績がえられたのであります。(O)が発振真空管、(A)が第一次反射器たる半球面で直径五六糎(cm)、(B)は第二次放物線型回転体の形をしたアルミニューム製反射鏡で直径三米(3m)であります。(森田清, "極超短波による通信", 『ラヂオの応用知識』, 1933, 日本ラヂオ通信学校, pp59-60)

この実験の立役者であるクラビール(Andre G. Clavier)氏は早くよりBK振動管の研究に着手し、1930年には米国ニュージャージーで10フィート(3m)のパラボラ・アンテナで実験を行っていました(J.H. Vogelman, "Microwave Communications", Proc. IRE, May 1962, p907) 。そして小型発振器(BK振動管)を "Micro Radion" と呼びました。

フランスのA・クラビールのグループは一九二九年にマイクロ波の研究に着手し、一九三〇年にはアメリカで直径三メートルの放物面鏡を用いて通信実験を行った。一九三一年には一七・一センチメートル波を発生し、放物面鏡を利用してフランスからイギリスへ四〇キロメートルのドーバー海峡通信に成功している。ドーバー横断実用回線は一九三三年に完成していた。このときクラビールはマイクロレイヨン(Micro Radion)の語をつかった。これがマイクロウェーブの語源である(徳丸仁, 『電波技術への招待』[ブルーバックスB-350], 1978, 講談社, p211)

5) マルコーニの超短波実験スタッフ達 [Marconi編]

その頃、マルコーニ氏はというと・・・1929年頃よりイタリア半島フィウミチーノとサルデーニャ島ゴルフォ・アランチ間を結ぶ商用無線電話回線の建設を計画し、1930年5月から波長9.5m(31.6MHz)で実験を行っていました。イタリアの雑誌Radiocorriere(1933年3月26日号, p19)の記事"Microonde e 100% di Modulazione"によると、1.5kW送信機、スーパーヘテロダイン受信機にフランクリンの平面ビームアンテナを使ったようです。そこへ突然、ITT/MT研グループが18cm波による海峡横断試験を成功させわけです。しかも、自分のお膝下のイギリスで(それもお家芸である)ビームアンテナを試験されたのですから、マルコーニ氏の心はけして穏やかではなかったでしょう。

本ページのテーマ「短波開拓史」を少々拡張し、ここからはマルコーニ氏による高い周波数(UHF)への取組みについても触れておきます。もともと1930-31年頃には、マルコーニ社の真空管部門でUHFで発振するB-K振動管の製造ノウハウが積みあがってきており、そろそろ通信実験を行おうと考えていた時期でした。

◎G.A. マチュー氏(Gaston A. Mathieu)

マルコーニ氏が超短波の実験を行った数々の送信機、受信機、指向性アンテナを実際に設計したのは、マルコーニ社製短波受信機の設計チーフだったベルギー人技術者マチュー氏(Gaston A. Mathieu)です。 マチュー氏は必ずといって良い程、超短波報道に関する重要な局面で、マルコーニ氏と共にいます。このあとの本ページのトピックスに何度も登場します(前述しましたが、日本の四日市受信所が購入した短波受信機RC-24L型や改良機RC-24V型はマチュー氏の設計によるものです)。

◎G.A.イステッド氏(Gerald A. Isted)

そして英国人のイステッド氏(Gerald A. Isted)が超短波に関する数々の機材の組立・調整などでマルコーニ氏の実験を補佐しました。 イステッド氏は(1904年生まれ)1923年入社、チェルムスフォード工場を振出しに各地を転々としたあと、1929年(25歳)にマルコーニ氏と共にイタリアへ移住し、エレットラ号やバチカンの超短波実験の補佐を勤めました。超短波実験が落着いた1935年(31歳)に英国に帰国し、後年は英国のマルコーニ社で各地のテレビジョン局の立上げに尽力されています。 まだ新米技術者だったイステッド氏が表舞台に出る事はそう多くなかったように思いますが、マルコーニ氏の超短波実験の裏に彼の支えがあった事をここに記しておきます。

マルコーニ氏はまだUHF研究半ばだった1932年の時点で、Marconi Review 誌(マルコーニ社発行)に、手伝ってくれたこの二人と、支援を受けたイタリア政府への感謝の言葉を記しています。 ここにはマチュー氏は自分の"個人的なアシスタント"で、イステッド氏は"マルコーニ社の社員"だったとあります。マルコーニ氏は1927年に再婚すると、マルコーニ社(英国)の社長でありながら、1929年より妻とイタリアで暮らし始めました。イタリアで始めた「社長の超短波研究」は、どのような位置付けだったのでしょうか。

I also decided to resume these researches in Italy where, as President of the National Research Council, I enjoyed special facilities. I may also add that I was afforded every possible assistance and encouragement by the Italian Government.

Most of the research necessary for the construction of the new apparatus employed on these tests has been carried out by my personal assistant, Mr. G. A. Mathieu. His work, aided by suggestions and observations of my own, has resulted in the possibility of generating and radiating very short waves of greater power than hitherto, and in the elaboration and construction of practical and easily adjustable receivers. I am also indebted to Mr. G. A. Isted, of the Marconi Company, for much valuable work. (G.Marconi, "Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves", The Marconi Review, Marconi Company, Nov-Dec. 1932, p2)

1972年にマルコーニ社のW.J. Baker氏が書いた A History of the Marconi Company(マルコーニ社の歴史)に、二人が紹介されている部分を引用しておきます(偶然ですが二人とも名前の略字がG.A.ですね)。「設計したマチュー氏、それを作り上げたイステッド氏」という事でしょうか。

Valves capable of operating at this frequency having been developed, the experimental transmitter and receiver were designed by G.A. Mathieu and constructed by G.A. Isted. (W.J. Baker, A History of the Marconi Company, 1972, St. Martin's Press Inc.[New York], pp.291-292)

6) マルコーニが超短波を語る [Marconi編]

1931年4月8日付のThe New York Timesが記事"Marconi Seeks Use of Ultra-Short Wave: Wireless Inventor Attemts to Overcome Obstacles to Messages on Narrower Beams"(p8)を掲載しました(下図[左])。

マルコーニ氏は4月7日のインタビューで「長距離用として開発された短波のビームシステムの重要性はもちろんだが、もっと短い波長を使いビームを狭くすれば、より排他的で秘密性が得られる利点がある。」と語りました。

The beam system that has been developed over great distances is an indication of the importance of short-wave transmission, but if we can use still shorter waves the beam will be narrower and therefore more exclusive and secret, with all the advantages that implies.

そして「しかし波長が6m以下になると視界圏内に限られ水平線を越えることができないし、大きな丘や障害物が邪魔になる。超短波は回り込まない。いかにこれらのデメリットを克服するかが、私の現在の問題である。」と述べました。

Unfortunately, when you work on less than six meters the signal travels only a limited distance, which does not extend beyond the horizon and maybe less. The signals are restricted to places practically in sigh of one another, and if a big hill or obstacle is in the way there is trouble. The signal cannot get around. ・・・(略)・・・ How to over-come this disadvantage is the problem I am at present studying. ("Marconi Seek Use of Ultra-Short Wave", The New York Times, Apr.8,1931, p8)

このマルコーニ氏の談話は簡単ではありますが、我国では『東京朝日新聞』(4月9日付け朝刊)が、18cm波による3月31日のドーバー海峡横断試験のニュースと合わせて報じました(上図[右])。

【ロンドン特派員八日発】 最近における無電の発達は驚くべきものだが、中でも各国が競って研究している短波長無電については最近ドーバー海峡を隔てて英仏間に、僅か半ワットの電力で十八センチメートルの波長をもって送話の試験が行われ好成績を収めたところから斯界にセンセイションを起し早くも超短波時代の到来が叫ばれるに至った。右の試験はイギリスのインターナショナル・テレフォンテレグラフ研究所と、フランスのマテリエル・テレフォニックとの協力の下に行われたものであるが、これに対抗して目下ロンドンに滞在中の無電翁マルコニ氏も超短波無電につき同界をアッといわせるような設備を研究中だと伝えられ、非常に興味を引いている。 ・・・(略)・・・ただこの超短波の欠点は一直線でなけれ伝達されぬ点で、地球が昔の人のごとく平たければ問題はないが円形であるため限られた距離しか伝達出来ず、また途中に山等の障害があっても妨げられるので ・・・(略)・・・』 ("『超短波時代』来る:成功すれば秘密談も出来る", 『東京朝日新聞』, 1931.4.9, 朝刊p7)

【注】 なお当時のCCIR(国際無線通信諮問委員会、1927年創設)は30MHz以上の電波をまとめて「超短波」と定義しましたので、本ページでは現代でいうUHF(300MHz-3GHz)も超短波と呼ぶことにさせて頂きます。30MHz以上をVHF、UHF、SHF・・・などと細かく分けて定義したのは、第二次世界大戦後のアトランティック・シティ会議(1949年1月1日発効)です。

7) マルコーニの超短波(UHF)開拓 [Marconi編]

1931年(昭和6年)5月、マルコーニ氏はジェノバ近郊の海岸町サンタ・マルゲリータ・リーグレ(Santa Margherita Ligure)で、沖合(ティグッリオ湾)にいるヨット・エレットラ号を相手に超短波の試験を始めました。これはITT/MT研グループの超短波の公開実験から2カ月ほど遅れたスタートでした。

左図がその頃、マルコーニ氏が実験していた「初期型」UHF装置です。パラボラ反射器の背後にある箱が超短波無線機です。

【注】この写真は(後述しますが)、一見、浜辺にアンテナを置いているようにも見えますが、1931年11月、レバントの別荘のバルコニーに設置された受信機です。

上図[右]は中央部分の拡大図です。よく見ると、この反射器が上半分と下半分の間に切れ目があることから、上下別々の反射器だと分かります。その上下別々の反射器を、三脚が付いた二本の支柱で一体化して、地面から支えています。

無線機(背後の箱)は反射器と完全に独立して別の架台に乗せられています。無線機から飛び出しているカタツムリのツノのようなアンテナを、上下の反射器の隙間から突き出せるように、無線機を乗せる架台の高さを、うまく調整しているようです。

このマルコーニ式シリンドリカル反射器(Marconi's cylindrical parabolic reflector)は、ヘリンボーン・リフレクタ―(Herring-bone Reflector)とも呼ばれました。

日本では「鯡骨形反射器」と呼びました(左図:日本ラジオ協会編, 『標準ラヂオ大辞典』, 1935, p292)。

ちなみにこのヘリンボーン・リフレクター(鯡骨形反射器)を考案したマチュー氏(G.A. Mathieu)は、1924年2月にセドリック号で短波による大西洋横断試験を行った技師です。

このあとヘリンボーン(鯡骨形)反射器を使った超短波ビームの実験がおよそ2年間も繰り返されました。

8) イタリア政府への超短波(UHF)無線電話のデモ [Marconi編]

マルコーニ氏は超短波(UHF)の無線電話送信機、無線電話受信機、そしてヘリンボーン・リフレクターの基本的な試験を繰り返していました。

マルコーニ氏とその部下マチュー氏は、2球式のB-K発振器からそれぞれ輻射部を付き出させ、それを挟むようにヘリンボーン・リフレクターa,bを両サイドに配置することで良好な性能が出せることを見付けました。図のように、2級式でリフレクター(R1a, R1b, R2a, R2b)は4列です。

これにより利得と指向性向上、超短波実用化の可能性が高まりました。

そしてこれをイタリア政府へデモンストレーションすることを決め、サンタ・マルゲリータ・リーグレ(Santa Margherita Ligure)にある、別荘Villa Repelliniのバルコニー(海抜50m)にB-K発振器を独自に改良した送信機(an enhancement of the Barkhausen-Kurz electronic oscillator)を設置しました。送信機には変調回路が付けられており、音声の送話ができます。

一方、超短波受信機を11マイル(=18km)離れたセストリ・レバンテの信号塔(海抜50m)に設置しました。送信点(サンタ・マルゲリータ・リーグレ)とは海を隔てた位置関係にあたります。この超短波受信機に検波器と低周波増幅器が付けられ、音声信号を聞くことができます。

  • [左]:完成した4列ヘリンボーン・アンテナ。

  • [中]:4列ヘリンボーン・アンテナ(送信機なし)を別荘 Villa Repellini のバルコーニに設置。

  • [右]:4列ヘリンボーン・アンテナの背後に送信機の箱をセット。(識別しにくいのですが、カメラを少し左に振って撮影したため遠景に隣家が写り込み、無線機と重なっています)。

1931年(昭和6年)10月上旬、イタリア郵政庁の関係者らを招いて波長50cm(600MHz)のデモンストレーションを行いました。

  • [左]:Villa Repellini(送信所)のバルコニーでゲストを待つマルコーニ氏(右)とマチュー氏(左)

  • [中]:集まったゲストをもてなすマルコーニ氏(中央)とマチュー氏(手前に写っている横顔の黒服)

  • [右]:超短波無線電話システムを政府関係者に説明するマルコーニ氏(中央遠方の帽子姿)

  • [左]:展示した発振回路と輻射部を見せながら政府関係者に説明するマルコーニ氏(中央左の帽子姿)

  • [中・右]:アンテナから輻射される電界強度を測定しているマルコーニ氏。

【参考】上図[右]は『通信の開拓者』(市場泰男, さ・ら・え書房, 昭和41年)でも使われ、日本でも良く知られた写真ですね。

少し時間が経ってからですが、米国の短波ラヂオ製作ファン向け月刊誌Short Wave Craft(1933年4月号)にマルコーニ氏本人が、これら超短波の開発記を書いています。

【参考】実はこの記事は前述したマルコーニ出版The Marconi Review 誌(1932年11, 12月合併号と1933年1, 2月合併号)に自分が書いた "Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves" を一般の無線ファンに向け簡潔に要約したものです。

Numerous distance test, and a few official demonstrations, have been given from time to time, and each has gone to prove the availability and practicability of these very short waves for the purposes of radio communication.

The first demonstration was given to representatives of the Italian Ministry of Communications early October, 1931, between Santa Margherita and Sestri Livante, near Genoa, a distance of 11 miles over sea.

The Transmitter, consisting of two radiating units working into four reflectore units, was installed at Santa Margherita on the balcony of a private villa at height of 50 metres (164 ft.) above sea-level.

The receiver, which was of our first type, without plate or inner filament tuning and without supsonic variable plate bias, was installed on the top of a small signal-station tower at Sestri Levante at height of 70 metres (230 ft,) above sea-level. (Guglielmo Marconi, "Radio on the Ultra Short Waves", Short Wave Craft, Apr.1933, Popular Book Corporation, p765)

このイタリアでのマルコーニ氏のUHF無線電話デモンストレーションの成功は、米国ワシントンD.C.の日刊紙Evening Star(左図[左]:"MARCONI FINDS SECRET OF SHORT-WAVE RADIO(マルコーニが超短波の秘密を発見)", 1931年10月27日, p-A2)が取り上げ、マルコーニ氏の波長50cm波と新型反射器が新たな機能を提供するだろうと記事を結んでいます。

Senator William Marconi is expected to announce soon development of apparatus making possible commercial radio-telephone transmission on extremely short waves. ・・・(略)・・・ His secret is said to consist of transmitting on waves of only 50 centimeters, or a little more than a foot and a half. The transmitter and reflector are said to embody entirely new features. ("MARCONI FINDS SECRET OF SHORT-WAVE RADIO : Italian is Expected to Announce Development of Apparatus for Telephonic Use.", Evening Star, Oct.27.1931, page A2)

またオーストラリアの日刊紙The Daily News(左図[右]:"MARCONI'S LATEST LILLIPUTIAN RADIO WAVES AMAZING RECORD(マルコーニが最新の超短波で夢のような記録)", 1931年10月28日, p4)でもサンタ・マルゲリータ・リーグレで行われたデモンストレーションの記録を驚きをもって伝えています。

9) 超短波(UHF)無線電話の距離が二倍に [Marconi編]

1931年10月29日、同じくサンタ・マルゲリータ・リーグレとセレストリ・レバンテ間の11マイル(=18km)で第二回目の無線電話デモンストレーションを行いました。このデモでは受信機を改良型に交換して、非常に良好な通信品位が得られたため、マルコーニ氏はさらなる遠距離試験を計画しました。

On October 29, 1931, a second demonstration was given to the same experts and between the same places with an improved receiver, fitted with variable supersonic palate bias. (Guglielmo Marconi, "Radio on the Ultra Short Waves", Short Wave Craft, Apr.1933, Popular Book Corporation, p765)

1931年11月19-20日に政府関係者を招き、第三回目の超短波無線電話のデモンストレーションを行いました。

受信拠点を約2倍離れたレバント(Levanto)にあるマゾラ男爵の別荘のバルコニー(海抜110m)に移したところ、22マイル(=35km)離れたサンタ・マルゲリータからの無線電話が受信できました。

The third demonstration took place on November 19, 1931, between the same experimental transmitting station at Santa Margherita and Levanto, a distance this time of 22 miles, mostly over sea.

The receiver at Levanto was installed on the balcony of a private villa, at a height abouve sea-level of 110 metres. The sum of the heights of the two stations was 160 metres, which is sufficient for direct vision over 27.5 statute miles, or 20 per cent in excess of the distance covered. (Guglielmo Marconi, "Radio on the Ultra Short Waves", 前傾書, p765)

送信点は前回のデモと同じ別荘Villa Repelliniです。そして今回の受信点として、レバントにあるマゾラ男爵の別荘を借りたことが、(マルコーニ氏が超短波実験に成功したことを報じた)英国の新聞The Time(11月23日)の記事でわかります(図)。

The receiving station had been placed in the courtyard of the villa of Baron Mazzola at Levanto. ("Successful Experiments by Senator Marconi", The Times, Nov.23,1931, p11)

下図[左]はレバント受信拠点のマゾラ男爵の別荘のバルコニーの様子です。ゲストらと待機している写真中央の帽子姿の紳士がマルコーニ氏です。マルコーニ氏の後方には一列ヘリンボーン反射器と、架台に乗せられた受信機が写っていますが、よく見るとそのビームは左手前の方角へ向いているのが分かります。

下図[右]はマルコーニ社が出版していた隔月刊The Marconi Review 誌(1932年1-2月合併号)でデモ成功の快挙を伝えました。

の二つの写真は随分と印象が違いますが、それは撮影の向きによるもので、どちらもマゾラ男爵の別荘のバルコニーに設置され受信機を撮ったものです。

11月19日にイタリアのサンタ・マルゲリータ・リーグレとレバント間(距離25マイル)で政府代表が参加して、新マルコーニ準光学式超短波無線電話の公式デモンストレーション行われました。使用電波長はわずか50cmで(前回、サンタ・マルゲリータ・リーグレとセストリ・リバンテ間の11マイルで行われたデモと同じもので)周波数でいえば600MHzに相当します。距離が11マイルから25マイルに伸びたが、さらに遠距離が狙える余裕があり、このデモは大成功だった。

In the presence of representatives of the Italian Government, an official demonstration took place on November 19th in Italy, between Santa Margherita Ligure and Levanto - a distance of 25 miles - of the new Marconi quasi-optical, ultra-short wave radio-telephone system. The wavelength used was only 50 centimetres (the same as that employed in the previous demonstration carried out between Santa Margherita Ligure and Sestri Levante over a distance of 11 miles), corresponding to the enormous frequency of six hundred million cycles per second. The success of the demonstration was all the more complete because, although the range had been increased from 11 to 25 miles, the margin in the signal strength was such as clearly to indicate to all present that the apparatus used was capable of covering a considerably greater distance. ("Ultra Short Wave Wireless Telephony", The Marconi Review, Jan.-Feb.,1932, Marconi Wireless Telegraph Company[UK], p30)

【参考】 上記The Marconi Review誌と、月刊Wireless World誌は、サンタ・マルゲリータ・リーグレとレバンテ間を25マイル(40km)としています。  On November 20th telephony from the former point was successfully received at Levanti - twenty five miles distant - with an ample margin of strength. ("Half-Metre Telephony", Wireless World, Dec.2, 1931, p634)

10) ついにUHF双方向無線電話に成功! [Marconi編]

マルコーニ氏らは超短波無線機およびアンテナのさらなる改良に取り組んでいました。

そして1932年(昭和7年)4月6日、サンタ・マルゲリータ・リーグレと8マイル(13km)離れた地点の実験チーム(注:私見ですが、これはマルコーニ部下のソラーリ氏が率いるチームだろうと思います。)間にて、波長52cm(周波数577MHz)を使った同時送受話の "双方向無線電話" に成功しました。昨年までの超短波デモは片通話の無線電話でした。

イタリアの週刊誌Radiocorriere(1932年4月16-23日号, p18)の記事"La Radiotelefona e le onde ultracorte: Le realizzazioni di Guglielmo Marconi"が伝えるところでは、今回は無線技術関係者を中心に招待したそうです。左図はゲストをもてなしているマルコーニ氏です。昨年のデモの時は、みんながコート姿でしたが、今回は春なので暖かかそうですね。

イタリア郵政庁よりゴリオ技官(Gorio)、海軍無線電信研究所よりニッキアルディ提督(Nicchiardi)とルエル伯爵(Ruelle)、陸軍軍事通信の重鎮であるサッコ大佐(Sacco)、航空省からはゾンタ大佐(Zonta)とマリノ少佐(Marino)、軍用無線学会のヴァンニ教授(Vanni)イタリア無線協会のGnesutta技師らの技術者がサンタ・マルゲリータ・リーグレにある別荘Villa Repelliniのバルコニー(海抜50m)に集まりました。

  • [左]:別荘Villa Repelliniにて、無線機の背後脚立に登り、ゲストらに装置を説明しているマチュー

  • [中]:別荘Villa Repelliniのバルコーニで会話している、マチュー氏とマルコーニ氏

  • [右]:別荘Villa Repelliniに同行した夫人と休憩しているマルコーニ氏(再婚4年10ヵ月目でした。)

4月7日のThe Washington Post 紙(下図[左]:”Short-Wave Radio Telephone Tested: Marconi Develops Successful Set Capable of Connecting with Any Circuit”, The Washington Post, Apr.7, 1932, p3)や、The New York Times 紙(下図[右]:”Marconi Converses Over Ultra-Short Eaves; New Radiophone Can Tune In to House Phone”, The New York Times, Apr.7, 1932, p1)等がこれを報じました。大変強力かつ明瞭で、この実験に同席したレバント市長は、通常の有線電話に接続できる品位だったと感想を述べています。

半年前(1931年秋)のデモンストレーションは "一方通行" の無線電話でした。この "同時通話式" 双方向通信の成功で、有線電話回線の無線電話回線への接続がにわかに現実味を帯びました。そしてローマ市内のバチカン宮殿とその南東20kmに位置するアルバノ湖(Lago Albano)のほとりのガンドルフォ城(Castel Gandolfo, 教皇の夏季避暑宮殿)間を結ぶ、同時送受話式の無線電話回線にマルコーニ氏のUHFの採用が検討されました

11) 「バチカン宮殿-ガンドルフォ城」回線(UHF)の事前テスト [Marconi編]

ローマ教皇の無線電話(バチカン宮殿―ガンドルフォ城)として、マルコーニ氏の超短波を採用するにあたり、以下2つの事が懸念されました。

  • これまでのデモンストレーションは送受信点間が海だったが、陸上でも同様の性能がでるのか?

  • バチカン宮殿から見てガンドルフォ城の方角には「ジャニコロの丘」があるので通信が可能か?

1932年4月20日、まず最初の陸上通話試験を、バチカン宮殿からモンテ・ポルツィオ・カトーネ(Monte Porzio Catone)のモンドラゴーネ寺院(Villa Mondragone)にあるカトリック・カレッジとの間で行いました(下図)。

バチカン宮殿ではサン・ピエトロ大聖堂の隣の建物の屋根に反射器が一列の送信機を設置しました。カトリック・カレッジまでの距離は20kmです。

翌4月21日のThe New York Times 紙(左図:"Test Papal Radiophone: Marconi Plans Link Between Pope's Summer Home and Vatican", The New York Times, Apr.21, 1932, p24)この陸上超短波試験の成功を報じています。

ヘリンボーン・アンテナはシンプルな反射器が1列のものを使いましたが、バチカン宮殿のアンテナは海抜50m、カトリック・カレッジに仮設したアンテナは海抜451mもありました。そして視界的にも両地点は見透せる位置関係だったため、試験成績は大変良好でした。

しかし本来の対手局となるガンドルフォ城はカトリック・カレッジの南西へ9kmほど離れていますので、そのあとガンドルフォ城でも試験を行いました。ガンドルフォ城のアンテナは海抜293mでカトリック・カレッジの時の2/3しかなかった事と、バチカンからは「ジャニコロの丘」に邪魔されて見透しが効かないため(距離は同じ20kmほどですが)電波はあまり強くは受かりませんでした。

12) 教皇に「バチカン宮殿-ガンドルフォ城」回線(UHF)をデモ [Marconi編]

1932年4月26日、バチカン宮殿においてローマ教皇ピウス11世(Pope Pius XI)の前でUHF無線電話システムの公式デモンストレーションを行ないました。

On the 26th of April, 1932, a demonstration of the apparatus was given to His Holiness the Pope.(G.Marconi, "Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves", The Marconi Review, Marconi Company, Jan-Feb. 1933, p7)

  • [左]:屋根とほぼ同じ高さのテラスに仮設されたUHFビームアンテナ(1列ヘリンボーン・リフレクター)の前に関係者一同が集まっている様子。白服の人物がピウス11世です。この写真の右後方には有名なサン・ピエトロ大聖堂が見えています。

  • [右]:そのテラスでヘッドフォンを付けたマルコーニ社の助手が検出用ダイポール・アンテナをUHFビームアンテナの前にかざして調整しているところです。また右端の白服の人物がローマ教皇ピウス11世で、その左隣の黒い帽子に黒服姿がマルコーニ氏です。今回の一連のUHF実験についてピウス11世に説明しています。

  • [右]ローマ教皇ピウス11世がヘッドフォンを付けています。ちょうど黒帽子のマルコーニ氏の影になり良く見えませんが、教皇の前に立つ助手が検出用ダイポール・アンテナをかざしています。

  • 【左】:ガンドルフォ城の裏庭(?)の階段の下にUHF受信機と1列へリンボーン・リフレクターを設置し、調整しているマチュー氏

  • 【中】:右手で無線機を指差し、説明しているマルコーニ氏。中央の後方の白服姿で手を後ろに組んでいるのがローマ教皇ピウス11世

  • 【右】:5名で記念撮影。中央がピウス11世。向かってその左がマルコーニ氏。右端がマチュー氏。マチュー氏の後ろに受信機が見えます。

『・・・(略)・・・彼の実験の成績がよかったので、ヴァチカン市では、市とローマから約15マイル離れたカステル・ガンドルフォの法皇の離宮へ波長六十センチ(周波数500MHz)の無線電話を開設することに決定した。(O.E.ダンラップ著/森道雄訳, 『マルコーニ』, 1941, 誠文堂新光社, pp313)

13) 遠距離用実験機(反射器5列式)の開発と設置 [Marconi編]

マルコーニ氏はUHFに強い興味を示すところとなり、教皇より受注したUHF回線(バチカン宮殿-ガンドルフォ城)の建設を進めるのと同時に、(それとは全く別に)独自のUHF長距離伝搬試験を計画しました。いったいUHF波がどこまで届くのかを、試してみたくなったのでしょう。

そこで遠距離実験用として、反射器が5列もある大型ヘリンボーン・アンテナと4球式発振回路からなる無線電話の送信機を開発しました。

左図[左]の様に輻射部が4つあるので、まるで4波を出しているかに見えます。

しかし上図[右]は送信機の内部構造を裏面から見たものですが、4つの発振管(4 unit)をもって一つの発振回路を成し、UHFの526MHz(単波)を輻射します。マルコーニ氏はこの送信装置を "Four Unit Experimental Transmitter with Five Unit Reflector" と呼びました。

固定地点間でどこまで届くかを試すには場所を変えながら、その都度、無線機材をセッティングしなければならず、かなり大変です。そこで「遠距離実験用」送信機をサンタマルゲリータ・リーグレの別荘 Villa Repellini のバルコニーに設置し、発射した電波を海上のエレットラ号が遠ざかりながら受信測定することにしました。

1932年(昭和7年)7月上旬、別荘 Villa Repelliniに5列ヘリンボーン・アンテナの据付けられました。いよいよ遠距離通信の実験の開始です(左図[左])。

左図[右]は、別荘Villa Repelliniのバルコニーで、マルコーニ氏とマチュー氏が記念撮影したものです。後方には遠距離用5列ヘリンボーンが見えます。

これまでのUHF実験は海沿いの街セレストリ・レバンテやレバントで受かるように海岸沿い(南東方向)にビームを向けていましたが、今回は海上のエレットラ号で受信するため、発射する方角を少し南寄りに変えました。

マチュー氏(G.A. Mathieu)はヘリンボーン・アンテナの発明者であり、また1923年にポルドゥー2YTの巨大パラボラの性能試験の際に、エレットラ号に搭載された3MHz帯の短波受信機を設計した技術者でもありました。この実験ではアンテナを少しだけ上方へ傾けると到達距離が伸びることが分かりました。

14) エレットラ号でUHF遠距離受信試験の準備 [Marconi編]

さて次はエレットラ号にUHFの受信機とアンテナを設置しなければなりません。受信用にはかねてよりテストしていた直径2mほどの中華鍋型反射鏡のパラボラ・アンテナ採用することとな、エレットラ号に運び込まれました(下図【左】)。

そしてメインデッキの最後尾に中華鍋型パラボラ反射器と受信機UHF受信機を据付けました(図[右])。

これがマルコーニ社として最初の中華鍋型パラボラ・アンテナです。船の後方へ向けてパラボラを取り付けたのは、送信点から徐々に遠ざかりながら受信試験するのには後ろに向けておくのが都合が良いからです。

パラボラ反射鏡の背部には受信フロントエンド部が入った小さな箱が置かれ、パラボラ中央の小穴からカタツムリのような角のアンテナを突き出すのにちょうど良い高さに調整されています。

15) マルコーニもびっくり!光学限界距離を超えても受かり続けたUHF [Marconi編]

エレットラ号はサンタ・マルゲリータ・リーグレのUHF波(526MHz)を受けつつ、海岸から遠ざかって行きました。

サンタ・マルゲリータの送信アンテナからの光学的な視覚限界は14.6海里(=27km)ですが、実際にエレットラ号で南へ向うと、11海里(=20km)離れた地点から著しく強度が低下しましたが、なんと視界外の28海里(=52km)まで聞くことができました。

これはUHF波が地球の曲面に沿って曲がって、光学的視界限界の2倍近くまで進んだことになります。

These tests demonstrated that although the optical distance corresponding to the small height of the Santa Margherita station and the Elettra was only 14.6 nautical miles, the signals were still perceivable at a distance of 28 miles, well beyond the optical range and notwithstanding the intervening curvature of the earth.

These signals began to lose strength noticeably at about 11 miles from Santa Margherita, that is, before reaching the optical limit, but after passing that position they were observed to decrease in strength only gradually, until no longer perceptible. (Guglielmo Marconi, "Radio on the Ultra Short Waves", Short Wave Craft, Apr.1933, Popular Book Corporation, p765)【参考】記事中の11milesと28mileは、文の流れよりいわゆる「陸上マイル(1mile = 1.609km)」ではなく、nautical miles、すなわち海里(1nauticak mailes = 1.852km)だと考えられます。


このエレットラ号による「陸-海」伝搬試験マルコーニ氏は光の様に直進するはずの526MHz波が、丸い地球の水平線の向こう側まで届くことを知ってしまいまし教皇から受注したバチカン-ガンドルフォ宮殿間のUHF無線電話回線の建設工事に注力しないといけない時期でしたが、居ても立ってもいられなくなり、さらなる遠距離UHF伝搬実験のプランを練り始めたのです。

長距離陸-海」伝搬試験が行えて、さらに光学見透し外の陸-陸」伝搬試験も行うにはどこが良いか?答えはすぐに見つかりました。イタリア半島と海を挟んんだサルディーニャ島(Sardegna)です。

【参考】マルコーニ氏は1930年よりイタリア半島とサルディーニャ島間で30MHz帯無線電話回線の試験を行っていたため、30MHzの伝播特性については既に知見がありました。

16) ロッカ・ディ・パーパ(海抜750m)に実験拠点を仮設 [Marconi編]

さて実験拠点を選定しなければなりません。サルディーニャ島側の拠点についてはカポ・フィガリ(Capo Figari)にある30MHz実験場を利用することにしました。そしてイタリア半島側の拠点にはできる限り海抜の高い場所にしたいと考え、ローマの南東12マイル(=20km)のロッカ・ディ・パーパ(Rocca di Papa、海抜750m)にある古い地震観測所を借りました。ここはガンドルフォ教皇宮殿のすぐ東側にあたります。

図[左]は実験拠点地震観測所)を見上げた写真。

[右]は実験拠点から街並みを見下ろした写真。

1932年7月末、サンタ・マルゲリータ・リーグレの別荘Villa Repelliniから、送信機とアンテナ等の機材をロッカ・ディ・パーパまで運び上げて、試験の準備を整えました。今回の実験ではロッカ・ディ・パーパをUHF波の送信所としました。

ちなみにエレットラ号は波長26.7m(周波数11.230MHz)で実用局IBDKと実験局1BXXの2つのコールサインを用途によって使い分けていたようです。下図[左]:IBDKRadio Craft , 1930年11月号, p284)、下図[右]:1BXXWireless Magazine 誌, 1932年3月号, p206)

◎ ヘリンボーン反射器とパラボラ反射器が並んだ珍しい写真(詳細不明)

左図ヘリンボーン反射器は5列なので、1932年7月に別荘Villa Repelliniで初めて使ったあと、ロッカ・ディ・パーパへ移設された長遠距離用ですね。ロッカ・ディ・パーパの実験場において、5列ヘリンボーンと中華鍋型パラボラ・アンテナの性能比較を行ったのでしょうか?

左図ヘリンボーン反射器は基本の1列型なので、撮影時期は1932年春頃でしょうか。ビームの方向は両アンテナともに(写真に向かって)右手前に向けられていますね。中華鍋型パラボラのもっとも初期の実験でしょうか?(場所は別荘Villa Repelliniではなく)どこかの別荘またはホテルのバルコニーだと推察します。

17) ロッカ・ディ・パーパとエレットラ号で海上伝搬試験を開始 [Marconi編]

1932年8月6日、招待したイタリア政府の代表らを乗せて、エレットラ号はオスティア港を出帆しました。西方のサルデーニャ島のゴルフォ・アランチ(Golfo Aranci)港を目指し、イタリア半島から遠ざかりつつ試験ます。

実験はエレットラ号がロッカ・ディ・パーパから34マイル(=55km、34海里だと63km)離れた海上から始められました。526MHzと11.470MHzの二波による連絡用同時通話回線はすこぶる良好でした。

エレットラ号は西へ進み、ロッカ・ディ・パーパから58マイル(=93km、もし58海里なら108km)まで離れても大変良好な同時通話ができました。ここで視界限界を6マイルも超えていたといいます。

この58マイル以降では急激に受信状態が悪化し、80マイル(=129km、もし80海里なら148km)では深くゆったりしたフェージングに悩まされました。ところが87マイル(=140km、もし87海里なら161km)まで来たところで電界強度が急回復しました。それは46マイルの頃の強さと同じでした。100マイル(=161km、もし100海里なら185km)まで良好な状態が続いたあと、再び悪化しましたが最終的には110マイル(=177km、もし110海里なら204km)まで感知されました。

On August 6, the yacht with representatives of the Italian Government on board, moved on to the line Rocca di Papa - Golfo Aranci, Sardinia, for the purpose of carrying out a long distance investigation on the propagation of these waves. The tests started when the yacht was 34 miles from Rocca di Papa with excellent duplex telephonic communication, very strong signals being heard at both ends of the circuit. At 58 miles good duplex communication was still possible; that is to say, already 6 miles in excess of the optical range; but shortly afterwards the signals lost their strength rapidly, became erratic and suffered from slow and very deep fading until, at a distance of 80 miles, they could only be perceived at times. Listening, of course, continued, in spite of these poor conditions, when on reaching 87 miles, the average strength of the signal suddenly increased and soon reached practically the same strength as was observed at 46 miles. This return to good signal strength conditions lasted until the distance of 100 miles was reached, when the signals faded away again very rapidly, assuming a slow and deep fading characteristic. They were finally perceived for the last time at a distance of 110 miles. (Marconi, "Radio Communication by Means of Very Short Electric Waves", Proceedings of the Royal Institute of Great Britain, vol.22, 1933, p539)【注】 ロッカ・ディ・パーパからの超短波試験では文献によって通信距離の記述に結構な差がみられます。距離の単位を統一されないまま、Km、マイル、海里(ノーティカル・マイル)が使われれた1932年12月2日の論文が、引用元になっているためかもしれません。

非常に不思議な経験でしたのでエレットラ号は一旦引き返して、1932年8月10日より再現試験を実施しました。

すると最初の70マイルまでは同じ結果が得られましたが、そこからは差異がありました。72マイル点で急速に衰え、そのまま110マイルまでほぼ一定でした。

最終的にはロッカ・ディ・パーパから125海里(=232km)という距離を記録して、その日の夜、エレットラ号はサルデーニャ島のゴルフォ・アランチ港に到着しました。

18) カポ・フィガリとロッカ・ディ・パーパ 269km陸-陸試験に成功(光学的視界限界の2倍以上) [Marconi編]

マルコーニ氏はゴルフォ・アランチ(Golfo Aranci)港に着くと、明日から予定されている「陸-陸」通信(ロッカ・ディ・パーパとカポ・フィガリ間での実験)の準備に入りました。

ゴルフォ・アランチ港から東へ3kmほど離れた見晴らしの良いカポ・フィガリ(Capo Figari)には、1890年に建てられたイタリア海軍の信号所がありま

マルコーニ氏はイタリア海軍よりその信号所の一部を借りて、1930年春より30MHz無線電話でイタリア本土と結ぶ超短波実験場を置いていました。今回のUHF試験はこのカポ・フィガリの実験場を利用しました。

1932年8月11日の朝、ゴルフォ・アランチ港から海抜340mの位置にあるカポ・フィガリの実験場までUHF受信機とアンテナを運び上げる作業が開始されました。そしてイタリア本土のロッカ・ディ・パーパの方角に向けてパラボラ・アンテナを設置しました。

1932年8月11日の夕方16時よりロッカ・ディ・パーパからの超短波の送信が始まりました。その電波はカポ・フィガリで驚くほど強力に受かりました。

伝搬試験は深夜まで行われ、日没後は日中より少し電界強度が低くなることや、反射器を上下へ角度を変えてみたところ、(電離層反射のように上空からではなくて)ほぼ水平方向から電波が飛んで来ていることが確認できました。

ロッカ・ディ・パーパ送信局からカポ・フィガリ受信局までの距離は168マイル(=269km)ですが、送受信点の高度を考慮した視界限界は72マイル(=116km)でした。すなわち526MHzの電波が光学的な視界限界距離の2.3倍まで、地球の曲面にまわり込むように飛んだことになります。

On August 10, this important long distance test was repeated. Over the first 70 miles the results repeated themselves very well, but from that distance onwards they varied in regard to the following points. First, the signals instead of fading away rapidly to nearly complete inaudibility, at the distance of 72 miles assumed a character of very slow and deep fading but maintained an average intensity of signals nearly constant up to 110 miles from Rocca di Papa. Secondly, at that distance, instead of losing the signals altogether, they kept that slow, deep, fading characteristic with a progressive decrease of average strength until they became inaudible from time to time and were heard for the last time at a distance of 125 nautical miles from Rocca di Papa.

The yacht arrived the same night at Golfo Aranci, Sardinia, and next morning the receiving apparatus was disembarked and installed on the tower of the signal station of Cape Figari, 340 metres above sea level. Rocca di Papa station had been requested to start transmission again at 4 p.m., and we had the great satisfaction of being able to pick up its signals almost immediately. The tests lasted until midnight, the signals, however, assuming the same slow, deep fading already observed on the yacht, excellent 100 per cent intelligible speech being received during the strong periods of the signals, but reaching practically inaudibility during the weak periods. The average signal strength appeared also better before sunset than after. The distance between Rocca di Papa and Cape Figari is 168 statute miles whilst the optical distance taking account of the height of the two place is only 72 statute miles.

It is interesting to add that at Cape Figari the angle of reception was investigated several times by tilting the reflector and it was found that the waves from the distant station reached the receiving experimental station from a horizontal direction. (Marconi, "Radio Communication by Means of Very Short Electric Waves", Proceedings of the Royal Institute of Great Britain, vol.22, 1933, pp539-543)

左図は現在も残るカポ・フィガリの信号所跡の建物です。1932年8月11日、マルコーニ氏らは、ここにUHF機材を設置し、269km離れたイタリア本土(ロッカ・ディ・パーパ)と通信試験を行いました。

いまも時折イタリアのアマチュア無線家らによる記念運用がここで行われたりしますが、建物は老朽化による部分的な崩壊が進行しているそうです。

なお地元ではマルコーニ氏が、この地で超短波の湾曲性を世界に示した事を讃えて、島内から陸路でゴルフォ・アランチの港町に通じる大通りに対し、「G.マルコーニ通り」と命名しています

19) マルコーニ 「超短波が曲がった」とプレス発表(1932年8月13日) [Marconi編]

超短波が曲がるという、不思議な現象は1932年8月13日、ローマ発の大ニュースとして、ただちに米国にも伝わり、『ニューヨーク・タイムス』紙(8月14日の第1面)が速報しています(下図[左])。マルコーニの超短波利用:これまで伝送の障害だった地球の湾曲を越えて "曲がる"  画期的な進化がみられる:無線界の大発見に値する偉業かもと米無線学者は語る」見出しはこんな感じでしょうか。

MARCONI HARNESSES ULTRA-SHORT WAVES : ‘Bending’ of Currents Surmounts Earth’s Curvature, Formerly Bar to Such Transmission.EPOCHAL ADVANCE IS SEEN: American Radio Scientists Says Achievement May Rank With Discovery of Wireless. New York Times, Aug.14,1932, p1)

ワシントン・ポスト』紙(左図:8月14日の第9面)も「マルコーニ氏 "ショート・ウェーブが曲がる" と発表。無線の新たな可能性を開く大発見。」と速報しました。『MARCONI ANNOUNCES SHORTWAVE BENDING:Discovery Opens Up Many New Possibilities in Radio Communication. Washington Post, Aug.14,1932, p9

またワシントンD.C.のEvening Star紙(左図:8月13日の第1面)も、マルコーニ氏の57cm波無線電話が光学的見透し距離を越えて、ロッカ・ディ・パーパから270kmも離れたサルディーニャ島に届いたと大々的に取り上げています。

Marconi "BENDS" Ultra Short Waves, Perfecting New Radio:Succeeds in Overcoming Curvature of Earth - May Revolutionize Present Industry.Evening Star, Aug.13,1932, p1)

20) さらに無線雑誌を通じて超短波の湾曲性発見の報が広まる [Marconi編]

米国無線週刊誌Radio World(8月27日号, pp10-11)は「ULTRA WAVES: Follow Earth's Curvature! (超短波が地球の湾曲に沿って曲がる!):Marconi Sends 167 Miles with own Device」という記事に2ページも割きました。

ざっくりこんな感じでしょうか。

マルコーニはイタリアのロッカ・ディ・パーパとカーポ・フィガリ間167マイルを57cm超短波の電信と電話通信に成功し、超短波が「曲がること」を発表した。

・・・(略)・・・(その技術詳細はまだ分からないが)NBCラジオの技術者ホーン(Charles W. Horn)氏と、CBSラジオのチーフ・エンジニアのチェンバレン(A.B. Chamberlain)氏は、「もしそれが報道の通りなら、マルコーニは我国の科学者がまだ知らない新しい原理を発見した可能性がある。」、「超短波の "屈曲" が実用面で明らかにされるなら、それは無線開発の画期的なステップとなる。」と述べている。」以下原文を引用します。

Guglielmo Marconi, inventor of practical wireless telegraphy, has announced the "bending" of ultra-short radio waves and the use of 57-centimeter waves in communicating, both by telephony and telegraphy, over a distance of 167 miles. The transmission took place from Rocca di Papa to Capo Figari in Sardinia. ・・・(略)・・・ "If the press reports correctly interpret Signor Marconi's achievement," says Charles W. Horn, general engineer of the National Broadcasting Company, " the inventor has done a wonderful thing, something not believed possible heretofore, and an achievement that will rank with his original development of wireless. It is also possible that he has developed some new principle unknown to radio engineers in this country." A.B. Chamberlain, chief engineer of the Columbia Broadcasting System, says that if the discovery of "bending" ultra-short waves proves of practical utility, it will be an epoch-making step in the development of radio. ・・・(略)・・・』 ("ULTRA WAVES: Follow Earth's Curvature! Marconi Sends 167 Miles with own Device", Radio World, 1932年8月27日号, pp10-11)

米国の放送業界雑誌Broadcasting(9月1日号, p10)は放送業界の立場から「Experiment by Marconi, On Ultra -Short Waves, Interests U.S. Engineers (マルコーニの超短波実験に米国の技術者達が興味を示す)」と発信しました(左図)。

これもざっくり訳すとこんな感じでしょうか。

アメリカの技術者達は、マルコーニが直進性する超短波を「曲げる」ことに成功し、見通し通信限界の距離を克服したというローマからのレポートに強い関心を示しています。ただし彼らは最終結論を出す前に、マルコーニが行った実験の技術的な詳細を望みました。・・・(略)・・・通常なら非常に短い波長の電波は地球の湾曲により、地平線よりも遠くへは届きません。また山や丘や建物によって吸収されます。超短波が地球の湾曲に沿って曲がるのが、繰り返し確かめられ、それが実証されるのなら、このマルコーニの発見はテレビ放送の問題の解決と同時に、放送用として新たな超短波バンドをオープンさせる可能性を秘めています。 ("Experiment by Marconi, On Ultra-Short Waves, Interests U.S. Engineers", Broadcasting, Sep.1, 1932, p10)

図[左]は英国の無線週刊誌Wireless World 誌(1932年8月26日号)で、「Ultra short wave Feat」という記事でマルコーニ氏のUHF試験を伝えました。【注】この写真はサンタ・マルゲリータ・リーグレの別荘Villa Repelliniで撮影した写真です。ロッカ・ディ・パーパやカーポ・フィガリではありません。

図[右]は米国の月刊Short Wave Craft 1932年10月号)です。編集長のHugo Gernsback氏がエディターページに「"Bent (曲がった) " Short Waves」と題する論評を書いています。

21) 英国王立研究所で 「超短波が曲がった」と報告(1932年12月2日) [Marconi編]

1932年12月2日、ついにマルコーニ氏は超短波が視界限界を超えた場所まで届くことを英国の王立研究所で報告しました。

図:Marconi, "Radio Communication by Means of Very Short Electric Waves", Proceedings of the Royal Institute of Great Britain, vol.22, 1933, pp509-544)

すぐさま地元英国の科学雑誌『ネイチャー』(左図)がこの発表を取り上げています。

超短波がなぜか地球の湾曲に沿って曲がるという、理屈では説明が付かない実験結果に、ネイチャー編集部は大いに興味をそそられたようです(上図:"Ultra-Short-Wave Wireless Communication", Nature, No.3293 Vol.130, Dec.10, Macmillan & Co., Ltd.[London],1932, p877)

英連邦のオーストラリアの週刊無線雑誌Wireless Weekly("Ultra Short Waves Marconi's Success on 57 Centimetres", 1932年12月16日号, p7)でも取上げています

57cmの超短波で、ローマ近郊のロッカ・ディ・パパとサルディーニャ島のカポ・フィガリ間168マイル(270km)の通信に成功したことを報じるとともに『マルコーニ候の最新研究は超短波が光学的距離を越えて利用できることを示しています。』というオーストラリアの無線通信会社AWAのフィクス取締役のコメントを載せました。

米国ではニュース週刊Time(1932年12月5日号, p31)が「Marconi's Parabola」という記事を書きました(左図)。

『・・・(略)・・・理論的には、光に近づく電波は、光の挙動と同じく直進するはずです。そしてまた理論的には、そのような電波は地球の円周に沿って曲がることができず、それ故にメッセージを長距離へ運ぶことができません。しかし、発明家マルコーニは180マイル圏で通信しているのです。そして彼は次のように述べています。「...何らかの理由により...電波の進行は曲げられて、理論値よりもっと遠くまで進みます。」と。("Marconi's Parabola", Time, Dec.5, 1932, p31)

1932年末の時点では、マルコーニ氏はこの不思議な現象について、まだ控えめな表現で報告していました。すでに光など「波動」には回折作用があることが知られており、マルコーニ氏もそれが超短波で起こり得ることを予想していました。しかし想像以上に超短波が曲がるという現実を前にして、戸惑っているようにも見えます。きっと『曲がり過ぎた』のでしょう。

マルコーニ氏の娘は次のように記しています。

1932年12月2日、大英帝国 王立研究所での講演で父は次のように話している。

「波長1メートル以下の電磁波を用いた場合、通信は送信機と受信機が互いに視界内にある時のみ可能であり、この制限のために電磁波の利用性が低くなると一般的に捉えられています。しかしながら、長い間の経験で、純粋に理論的あるいは計算上の考察にのみ基づいた<限界>を信じてはならないことを、私は学んだのです。実際、未知の要素に関する不十分な知識に基づいて理論や計算がなされることがしばしばあります。私個人としては、初めはたとえどんなに見込みが薄くても新しい方法を探るべきだと確信しています」

これは父独特の言い回しである。彼の全生涯は、反対の予測や忠告、推論に対する新しい道を求めての探求の連続だった。この演説の最後を締めくくったのは、決定的結論を下すのは将来に託したいという実験者としての言葉だった。

マイクロ波伝搬の限界に関しては、まだ結論が出たわけではないのです。地球の曲線の一部を超えられることはすでに明らかにされており、理論上の予想を上回る距離に達しています。さらに1901年に私が初めて電波が大西洋を越えて送受信できることを証明した際、著名な科学者たちは、電波を使っての通信は165海里(約300キロメートル)以上離れたところでは不可能と主張してきたことを、今でも忘れておりません。

マイクロ波は、この距離の三分の二をすでに越えていた。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp317-318)

またマルコーニ氏は反射器を1列から5列まで変えたときの利得(1列で3dB、2列で5.15dB、3列で7.6dB、4列で9dB、5列で10.25dB)と、そのビームパターンを発表しています。これはマルコーニ社のThe Marconi Reviw(1933年1-2月号)や、イタリアの科学雑誌Alta Frequenza(下図:1933年3月号)にも掲載されました。

一列の時は、前述のとおり輻射器を中心に上半分と下半分の反射器に分けていましたが、2列以上のときは上下一体型の反射器で、隣り合う反射器と反射器の間から輻射器を突き出す方式にしました。

平面ビームで短波通信網

超短波の実用化