マルコーニ 1900-1914

短波で海上公衆通信サービスを実現

パラボラ式無線機の実験

短波から中波へ

ドイチュラント号

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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1900~1914年 目次

1) 19世紀最後の年 ついに海上公衆通信サービスがスタート(1900年5月15日) [Marconi編]

1900年(明治33年)4月25日、マルコーニ氏マルコーニ国際海洋通信会社」(Marconi International Marine Communication Company)をロンドンに分社・設立しました。無線ビジネスを開花させるチャンスは、(国際通信ではなく)海上移動にあると考えたからです。

1900年(明治33年)5月15日、ドイツの沿岸海域において海上移動の公衆通信サービスが正式にスタートしました。周波数的には前述した通り2.5MHz付近(波長120m)が用いられました。

電波利用はまず高い周波数から低い周波数へ発展し、そのあと再び高い周波数へ回帰しました(長波から始まったのではありません)。

無線電信の恒久施設を定期航路線に建設し、世界初の海上移動の商用公衆通信サービスを開始した豪華客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号は、南米のパラグアイ共和国の記念切手になっています(左図)。

さて世界初の船舶無線電報サービスですから、どれほど利用されたかが気になるところです。

翌年(1901年)5月15日マルコーニ氏はロンドンの技芸協会(the Society of Arts)において「Syntonic Wireless Telegraphy」という題目で講演しそれが協会機関誌Journal of the Society of Arts(May 17, 1901 - No.2530 Vol.XLIX, Society of Arts [London UK], pp505-520)に掲載されました(図)。

海上公衆通信サービスの取扱量について、次のように報告されています(p513)

ドイツ沿岸海域における海上移動の公衆通信サービスは、1900年5月15日の開業から同年10月30日までの5.5箇月で565通の電報を取扱ったとされており、およそ100通/月になります。このうち陸からカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に宛てたものは47通で、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号から陸へ宛てたものは518通(内訳:北ドイツ・ロイド社宛が185通、その他一般宛が333通)でした。

同船は「独-米」間を月に1往復程度の運行なので、無線サービスエリアであるボルクム近海を通過した日数にすれば、とても少ないはずです。そう考えれば、(もの珍ずらしさもあってか?)無線電報は大変よく利用されたといえるでしょう。

また業界誌Marine Engineering誌(左図:1901年7月号)によれば、1900年5月15日の開業から12月31日までの7.5箇月間で、ボルクム・リフ灯台船が655通もの無線電報をボルクム島灯台海岸局との間で中継しました。

その総取扱量は8,040語(1語=5字)でした。

WIRELESS TELEGRAPHY.

The wireless telegraphy installation between Borkum and the Borkum Riff Light-ship on the North Sea, which was put to work on May 15, 1900, transmitted 655 telegrams up to December 31 last — a total of 8,040 words.Marine Engineering, July 1900, Aldrich & Donaldson [New York], p299)

【参考】開業当時の呼出符号は(私には)分かりませんでしたが、1905年4月1日に呼出符号KBM(ボルクム島灯台)、FBR(ボルクム・リフ灯台船)、DKW(カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号)がドイツ帝国政府より指定されています。

このように欧州地区では19世紀最後の1900年には、マルコーニ社によって海上移動体通信が商用化されました。後述しますが、この後の1901年(明治34年)12月12日に、話題性はあっても、全然会社の売上げに繋がらない大西洋横断通信を成功させましたが、その裏では着実な収入源を確保しようと海上移動体通信ビジネスを立ち上げていたわけです。マルコーニ氏の従兄が強引ともいえるスピード感をもって、一気に実用期へと駒を進めさせたのは、アメリカのテスラ氏やロシアのポポフ教授らに先を越されないための戦略だったのでしょう。

 船舶局の場合、あまり大きなアンテナを張れないという制約もあって、マルコーニ社では(同調式無線機の時代になっても)短波を使い続けました。船舶局とそれを相手にする海岸局は総無線局数中の圧倒的多数なのに、海上移動の「短波」に着目する文献はそう多くはありません。一方「長波」国際通信サービスは第一次世界大戦までビジネスとして軌道に乗れず、局数も僅かだったにも関わらず、(昔も今も)無線雑誌や書籍は、長波局の施設がどれほど巨大で、どれほど遠くまで電波が届くようになったかを中心に取り上げてきました(・・・というか、船舶局と海岸局だけでは話題作りが出来ないでしょう)。

それに一般の読者には「長波」「中波」「短波」という見方よりも、「設備規模」「到達距離」「国際性」に興味があったのは事実です。しかしそんな注目されない「短波」のトピックスを拾い集め、御紹介しようというのが本サイトの短波開拓史関連ページの趣旨でもあります。

2) 順調に伸びていった船舶無線(海上公衆通信サービス) [Marconi編]

無線による公衆通信サービス(電報)への事業参入は「陸-陸」遠距離固定通信よりも、「陸-海」「海-海」移動体通信の領域を狙うべきというマルコーニ氏の目論みは的中しました。船がいったん港を出ると、どんなに(陸と)連絡したいことがあっても、それは叶わなかったのに、マルコーニ無線のおかげで船から電報が打てたり、受取ったりできるのです。これは画期的なことでした。また船会社にとってはマルコーニ国際海洋通信会社の無線局を自社船に開設させれば、乗客サービスはもとより、航行の安全性の向上も期待できるというメリットがありました。海上公衆通信サービスの歴史が幕開けました。

1901年(明治34年)春、英国のビーバーライン社(Beaver Line)が所有する客船レイク・チャンプレイン号(左図:SS Lake Champlain)にマルコーニ国際海洋通信会社の無線局が設置されました。大西洋航路の英国船籍の無線装備としては、これが記念すべき第一号です。

そして1901年5月21日、1200名の乗客を乗せてケベック(カナダ)に向けリバプール(英国)を出港した、レイク・チャンプレイン号はリバプールを出港すると、直ちに(リバプールから西へ100kmほど離れた)ホーリーヘッド海岸局(Holyhead、下の地図の⑤)と連絡がつき、公衆通信を交わしました。

そのあと、アイルランドのロスレア海岸局(Rosslare、下の地図の⑦)との通信圏内に入り、いくつか電報が交換されました。

1901年6月末現在のマルコーニ社の(実験局を除く)商用海岸局と灯台船局は次の通りです。有名な大西洋横断通信の成功(1901年12月12日)より先に、欧州沿岸地域で海上電報サービス網が整備されたことが分かります。

左の地図の他に、米国ニューヨークの玄関口であるシアスコンセント海岸局(ナンタケット島)およびナンタケット島灯台船無線局が最終テストのための準備を終えており、またカナダ大西洋岸のベル島海岸局もスタンバイしていました。

Next year, at the end of June 1901, the directors were able to report that Marconi stations had already been erected on various points of the coast of Great Britain and Ireland at Withernsea(上地図①), Caister(上地図②), North Foreland(上地図③), Lizard(上地図④), Holyhead(上地図⑤), Port Stewart(上地図⑥), Rosslare(上地図⑦), Crookhaven(上地図⑧), La Panne(上地図⑨), Belgium, Borkum lighthouse(上地図⑩) and Borkum Riff lightship(上地図⑪), Germany, in addition to which the following stations had been equipped by Marconi’s Wireless Telegraph Company, Limited, and were available for communication: Nantucket lightship and Siasconset, U.S.A.

They were daily expecting to hear that the station at Belle Isle ― was ready for communication.(H.E. Hancock, Wireless At Sea -The First Fifty Years, 1950, Marconi International Marine Communication Company, p26-27)

3) 船客への電報サービスと自社の業務連絡用に試用し大好評だったキュナード社 [Marconi編]

ビーバーライン社に遅れること、およそひと月の1901年6月15日。リバプールからニューヨークに向かうキュナードライン社(Cunard Line)の大型客船ルカーニア号(R.M.S. Lucania、左図[左])に、マルコーニ国際海洋通信会社の無線設備が置かれました。

そして同年9月21日にはその姉妹船であるカンパニア号(R.M.S. Campania、左図[右])にもマルコーニ局を置いて、公衆通信業務(電報サービス)の取扱いを開始しました。

さらにルカーニア号とカンパニア号間で運行状況の相互連絡(社内回線)にも使ってみたところ大変有用であることが分かり、キュナードライン社は全面的にマルコーニ国際海洋通信会社の無線電信を採用することとし、このあと自社の大型客船に次々とマルコーニ局を開設しました。

大手のキュナード社と契約できたことでマルコーニ国際海洋通信会社は無事スタートできました。またこの年、北ドイツ・ロイド社では新造した大型船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号(S.S. Kronprinz Wilhelm)にもさっそくマルコーニ局を設置しました。後述しますが、マルコーニ国際海洋通信会社はこれらの船に波長120m(2.5MHz)を採用しました。海上公衆通信は短波ではじまったといえるでしょう。

 

日本帝国海軍の「三四式無線電信機」を開発した木村駿吉氏の文献から引用します。

マルコニ万国海上通信社は、同年(1901年)五月(21日)においてビーバー線レーキチャンプレイン号に、六月(15日に)キューナード線ルーケニア号、九月(21日に)カンパニア号(、9月28日に)アンブリア号に、十月(12日に)エトリューリア号に、十一月仏国大西洋会社のサヴチア号にこれを装備したり。(木村駿吉, 『世界之無線電信』, 1905, 内田老鶴圃, p132)

【参考】 後述する「1906-7年(明治39-40年)の短波局」に短波船舶局のリストを掲げていますが、その表(1/2)をご覧ください。Cunard Lineのルーケニア(Lucania, 呼出符号LA)、カンパニア(Campania, 呼出符号PA)、アンブリア(Umbria, 呼出符号UA)、エトリューリア(Etruria, 呼出符号EA)が短波を搭載していました。またそのすぐ上にはCie Genaral Transatantiqueのサヴチア(La Savoie, 呼出符号LS)も見えます。

4) 同調式無線機の研究はじまる [Marconi編]

マルコーニ無線電信会社で進められていた同調式無線の研究は、1901年になると、4波の周波数を分離して利用できるレベルにまで達していました。

そして1901年秋よりワイト島(Isle of Wight)のニトン局(Niton)とボーンマス(Bournemouth)近郊のプール局(Poole)間30マイルで同調式の性能試験を開始しています。左図がその頃のマルコーニ氏の同調式無線機です(なおマルコーニ氏の同調式の英国特許第7777号は1900年4月26日に登録されています)。

しかし以下の様な記事も見受けられることから、マルコーニ国際海洋通信社における、実用船への同調式の導入は1902年(明治35年)以降ではないかと推測します。

同年五月(1901年5月15日, Society of Arts)、同調式無線電信と題し、マルコニ氏は技芸協会において演説し(G. Marconi, "Syntonic Wireless Telegraphy", Journal of the Society of Arts' Vol. XLIX., May 17, 1901, Society of Arts [London UK], pp506-515)、同月において下院議会ヘンニカー ヒートン及サージョン レングの二氏の紹介をもって、マルコニ氏及マルコニ会社の重役より成れる一行は、英国海軍大臣セルボーン候に面謁(めんえつ)し、マルコニ氏は同調式について説明し、既に四種の同調を成功し、電気の勢源を増加する時は、益同調の数を増加するを得へき旨を口述し、侯爵はこれに対し、異なる会社にして各々異なる無線電信式を用ゆる時は、互に混信せしむる恐なきかに付、種々の質問を下したりと云へり。

同年(1901年)の英国海軍演習の際、軍艦に装備せるマルコニ式無線電信機の、傍受混信何れも極て完全なる旨報道ありしが、マルコニ無線電信会社の重役ページ氏は、エレクリシャン誌上において、英国軍艦には、マルコニ式の非同調旧式機械備装せられある旨を声明せり。(木村駿吉, 『世界之無線電信』, 1905, 内田老鶴圃, pp444-445)

1902年(明治35年)末時点で、英国海軍32隻、民間商船30隻にマルコーニ式無線が設置さられていました。

またマルコーニ国際海洋通信会社は大西洋航路を中心にその勢力を急拡大させて、同社の海上移動体通信網は1903年には完全に軌道に乗ったようですが、同調式への切替わり時期は不明です。

大西洋上及び英国の港湾に寄航終航する大郵船は、殆んど皆マルコニ万国海上通信会社の勢力下にありて、無線電信を装備せざるはなく、その装備は明治三十四年(1901年, 【注】明治33年[1900年]の誤記?)に始まり、三十六年(1903年)中に於てキュナード線、北独逸ロイヅ線、アラン線、大西洋トランスポート線、亜米利加線、カンパギーアトランチーク線、ベルギーメイルパケット線、レッドスター線、地中海行郵船、東北鉄道会社所有船、アイルヲファン、スチームパケット線、伊国ナビガッションゼネラール会社等、皆船主荷主の利益の為め、あるいはまた乗客の安意の為め、争って無線電信を用い・・・(略)・・・』 (木村駿吉, 前傾書, 1905,  p143)

5) 同調回路の発明でより低い中波へ ・・・ 中820kHzで大西洋横断試験に成功 [Marconi編]

「マルコーニ国際海上通信会社」が順調に業績を伸ばすその一方で、「マルコーニ無線電信会社」は1900年(明治33年)7月、英国コーンウォール州ポルドゥーに太平洋横断通信の試験局の敷地を購入し、1900年10月より建設工事に着工しました。

そして1901年(明治34年)12月12日、英国のポルドゥー局が送信した"S"(・・・, 短点3つ)を3,400km離れたカナダのシグナルヒル(ニューファンドランド・セントジョーンズ郊外)で受信できました。

これが有名な「大西洋横断通信の成功」です使用した周波数は中波の820kHzだと推定されています(よく長波だと誤解されがちですが、まだ中波の時代です。無線通信は「超短波→短波→中波→そして長波」へと発展しました)。

1年半も前(1900年5月)に、「マルコーニ国際海上通信会社」が海上公衆通信サービスをスタートさせ、その後も順調に顧客を獲得していったという無線ビジネスの成功談は、あまりにも有名な大西洋横断通信成功話の影に隠れてしまったようです

どうかするとこの1901―2年頃は、まだ電波実験を繰り返すばかりの原始時代かのように説明されますが、(順序としては)中短波を用いた海上公衆通信サービスの商用化に成功したあとで、巨額の費用を投じた中波の太平洋横断通信試験が行われました。

6) マルコーニ 日光が電波を弱らせると発表(1902年6月10日)[Marconi編]

しかし学会筋には大西洋横断通信の成功を疑う者も多くいたため、マルコーニ氏は証拠が残るようレコーダー式受信機を北米航路のフェラデルフィア号に積んで再試験(1902年1月22日英国出帆、3月1日ニューヨック港到着)を行いました。

このときマルコーニ氏は不思議な現象を経験しています。米国へ向かう途中700マイル(=1,127km)を超えてからは日中にポルドゥー局の820kHz波が聞こえることはなかったのに、夜間だと1,551マイル(=2,496km)まで非常に強力だったことです。結局、最大で2,099マイル(=3,378km)地点(北緯42度01分、西経47度23分)まで記録され、世間の疑いは下火になりました。

At distances of over 700 miles, the signals transmitted during the day failed entirely, while those sent at night remained quite strong up to 1,551 miles, and were clearly decipherable up to a distance of 2,099 miles from Poldhu. (J.A. Fleming, "Hertzian Wave Wireless Telegraphy [VII]", Popular Science, Dec.1903, Bonnier Corp, p158)

同調回路が実用化され電波に「周波数の概念」が導入されたばかりの当時において、フェラデルフィア号で発見した「昼間は電波が弱まる」(現代では「昼間のD層による中波の吸収作用」として知られる)現象について、マルコーニ氏自身を含め、まだ誰も解答を持ち合わせていませんでした。

1902年6月10日、しばらく沈黙していたマルコーニ氏がついに口を開きました。ロンドンにある王立学会(the Royal Society of London)でこの現象に対する見解を発表したのです(下図)。

(Marconi, "A Note on the Effect of Daylight upon the Propagation of Electromagnetic Impulses over Long Distances",  Proceedings of the Royal Society of London,  Vol.70(1902), p137)

その日本語訳を書籍『マルコーニ』(誠文堂新光社, 1941)より引用します。

フェラデルフィア号上で得た貴重な経験は、無線通信は昼間は電波の損失があることで、夜間ならば相当遠距離まで送信できるということでした。」マルコーニは云った。「これは昼間は太陽の光線の影響によって、高圧空中線の帯電力が減って、送信機にエネルギーの損失が起る結果だと私は思います。つまり昼間は紫外線によって影響を受けた空中のガス状微粒子がイオン化して、電波を吸収してしまうのだと思うようになりました。太陽から放射される紫外線は、高層で主として吸収されます故、地球の太陽に面している側は暗黒の側よりもイオンや電子が多く含まれているのです。J・J・トムソン教授の云われるように、この太陽に照らされてイオン化した空気は、電波のエネルギーを幾分吸収するのです。すなわち日光と青空はいくら透明に見えても。強力なヘルツ波には対して霧の役をするのだということになります。(Orrin E. Dunlap(著)/森道雄(訳),『マルコーニ』, 誠文堂新光社, 1941, p62 )

7) ついに長波にも進出(1902年夏) [Marconi編]

1902年(明治35年)春、フェラデルフィア号による大西洋横断通信の再試験を終えたマルコーニ氏は、今度は長波の研究に手を染めました。会社の売上げには一銭たりとも貢献しない "マルコーニ氏の 道楽" のような試験ではありましたが、まあ長い目で見ればマルコーニ無線の宣伝にはなりました。

これまで輻射周波数はアンテナの長さで決まっていましたが、同調回路の発明により、送信機の回路定数で周波数を決定付けることが可能になり、さらにアンテナ回路にはローディングコイルを入れることで、アンテナの長さが電波長の1/4でなくても良くなったからです。

マルコーニ氏は中波ポルドゥー局を長波1,100m(272kHz)にする大改修を行い、その受信対手局としてカナダのノバスコシア州にグレイスベイ局(左図)を建設し、1902年11月19日よりポルドゥーの長波を受けようと試みましたが、かすかに感じるだけでした。

そこでポルドゥー局を波長1,650m(182kHz)にする改修を行い、1902年12月5日になってようやく解読できる程度で受かりました。

さらに実験を繰り返すことで、周波数と距離の関係や、電波伝播に日光が影響することが徐々に明らかになってきましたが、まだまだ試行錯誤の時代だったといえるでしょう。

ところで左図はそのグレイスベイ局の逆ピラミッド型をしたアンテナ(Pyramidal Stub Antenna)で、4隅の塔は木製です。天に向けて広く(大きく)するのは、1890年代のブリキ箱を大きくする実験の経験からなのでしょうか?それにしても、この時代のアンテナは面白い形をしていますね。

8) 実用化に5年も費やしたが、儲からない長波 [Marconi編]

(海底ケーブルの独断場であった)遠距離公衆通信市場へ無線で参入しようとする試み、長波の電波も試されるようになりました。しかしすでに陸地にも、海底にも、多くの通信線が張り巡らされており、無線による新規参入は困難をきわめました。

マルコーニ社の大西洋横断通信ビジネスの計画は、大西洋に海底ケーブルを敷設していたアングロ・アメリカン電信会社から妨害を受けるようになるし、英国でも郵政庁から "国の電報事業を脅かすもの" として敵視されました。

その後もマルコーニ氏は「金食い虫」の長波実験に5年間も費やしました。長波による大西洋横断公衆通信開業にこぎつけられたのは、なんと1907年(明治40年)10月17日になってのことした。

しかし巨額の設備費や維持費に対して売上げがまったく付いてこず、長波は鳴かず飛ばずの足踏みとなりました。英国のマルコーニ社は設立から13年間、赤字続きの非常に苦しい経営状態で、彼がノーベル賞を受賞した1909年(明治42年)では、まだ利益を出せていなかったのです。

【参考】技術的にはより遠くまで届く通信手段ほど優秀でしょうが、ビジネス的にはより安価確実に届く通信手段の方が良いわけです。実は長波が世界中で大きく注目されるようになったのは、第一世界大戦が勃発(1914年)し敵国に海底ケーブルを切断されるリスクが高まってからのことです。無線通信は高い周波数から実用化されて、低い周波数に向いました。

9) 無線が有線に絶対に勝てない根本的な理由 [Marconi編]

マルコーニ氏が電線敷設できない「船舶との公衆通信」(海上公衆通信)の分野に無線の活路を求め、みごとそれが当たりました。でも「そりゃ、海には電線を引けないから当然でしょ」と簡単に片付けないでください。そもそも無線は、ある理由で、根本的に有線に勝てる見込みがなかったのです。

(自由の国、アメリカを例外とし)欧州各国や日本では公衆通信(郵便電報、電話)は国の専業ビジネスでした。そのため各国の郵政庁(日本だと逓信省)が郵便・電報の受付および配達を行う郵便局を全国に配置してその経営にあたりました。

たとえば下図のように英国のロンドンから、仏国のパリに電報を打つには、まったく馬鹿げているほどに「無線電信は不便で時間の掛かるもの」でした。

イギリス・マルコーニ会社は1897年から1910年まで無配当であった。・・・(略)・・・ウィリアム・プリースはマルコーニを大いに激励していたが、郵政大臣のオースティン・チェンバーレンはまったく反対な態度をとった。彼は、マルコーニの会社を政府管理の電信工業の潜在的な敵とみなして、マルコーニの海外業務を郵政庁の電信線に連結することを頑強に拒絶した。もしロンドンのだれかがパリにマルコーニ式電信を送ろうとすれば、その人は地方のマルコーニ事務所にゆかねばならなかった。その上で、事務所が郵便局に使いを送ってドーバァのマルコーニ放送所に(郵政庁の有線で)電信する。つぎに電文はイギリス海峡を(マルコーニ無線で)横断中継され、フランスの電信局をへて最終の行き先に送られる。遅くて高価な手続きであった。それに反して、海峡横断のケーブル会社は郵便局と直接連絡していた。マルコーニは思いきった料金の切り下げによってのみ対抗することができた。しかし、無線はケーブルよりも大気の条件によって妨害にあうことがはるかに多かったので、通信の量はそれでもなお少なかった。(Maclaurin, 山崎俊雄/大河内正陽 訳, 『電子工業史 - 無線の発明と技術革新』, 1962, 白揚社, pp67-68)

郵便と電報国の専業ビジネスですから、マルコーニ社は受取人へ配達するための拠点を持つことはできませんでした。いや、もし仮にそれが許されたとしても、政府に対抗できるような電報サービスの巨大インフラを、私企業が構築し経営するのは並大抵のことではなく、まさかマルコーニ氏がそんなことを望んだとも思えません。

マルコーニ氏は国が経営する公衆通信サービスで用いらてきた有線式伝送路の「一つの代替え手段」として無線を提供しようしたのでしょう

10) 海上公衆通信で「無線の負の部分」が半減 [Marconi編]

つぎに船舶局から陸上の受取人へ電報を送るケース(海→陸)を以下に図示します。

マルコーニ氏の無線システムの最大の弱点は、利用者とのインターフェースとなる「電報受付」と「電報配達」を持っていないことです。依頼者は遠く離れたマルコーニ社の電報窓口まで出向く必要がありました。

ところが海上公衆通信だと、電報依頼者は船内の電報カウンターで申し込むだけです。顧客と窓口が近接しています(上図)。また逆に、陸上の電報依頼者から、船舶の受取人へ電報を送る場合を考えてみましょう。(依頼者はマルコーニ社のオフィスに出向く必要はありますが)受取人は船内の電報カウンターで受領するだけです。

つまり公衆通信サービスの両端にあるべき「電報受付」と「電報配達」を持たない「無線」でしたが、海上公衆通信の場合は(少なくとも)依頼側か受取側かの、いずれかがマルコーニ社だけで完結できるようになりました。

そういう意味でも、マルコーニ無線と「船舶」は相性が良かったといえるでしょう。無線が海上公衆通信にうまくハマったのは、単に「船は電線が引っ張れないから」だけではななく以上のような事情もありました。

【参考1】 日本では有線による公衆通信サービスを行ってきた逓信省が、無線による公衆通信サービスを創業したため、英国のような問題は起きませんでした。有線も無線も、逓信省の専業ビジネスなので、ふたつは極めて連携よく運用されました

【参考2】 平成生まれの方々には少々違和感があるかもしれませんが、日本でも、戦後もなお郵政省が郵便事業を専業としていました(電話と電報ビジネスは電電公社へ譲りました)。そのうえ郵政省が貯金や保険ビジネスも行っていました。明治時代から永く続いてきた郵政ビジネスが全面的に民営化されたのはつい先日、2012年(平成24年)です。

11) 他社とは交信しないマルコーニの海上公衆通信サービス [Marconi編]

海上公衆通信(無線電報)の初期において、マルコーニ氏の母国イタリアはとても協力的でした。

伊国無線電信

同政府はマルコーニ式無線電信事業には、世界各国中、最も熱心に発明者(マルコーニ)を保護し、三十五年(1902年)大西洋上無線電信の開通前(~1902年)、軍艦一隻を貸与し、その実験を為さしめたる事ありしが、・・・(略)・・・併せて今後十四ヶ年間マルコーニ式無線電信のみを使用すべき契約をマルコーニ無線電信会社と結びたり。(亀井忠一, 『地理書教授の最新資料』, 1904, 三省堂, p94)

英国郵政庁とイタリア郵政庁はそれぞれマルコーニ式無線システムのみを使うという契約にサインし、またマルコーニ国際海洋通信会社は他社の無線局とは交信しないことを表明しました。そのため英・伊にある公設海岸局に電文を託したい船舶局は、マルコーニ式無線システムを採用するしか手段がないという排他的ビジネスを展開したのです。

ちなみにこのマルコーニ国際海洋通信会社がとった排他的ビジネスについては現代では賛否両論があります。肯定的な意見を、たとえ話で紹介すれば・・・

ある大手運送会社が全国に営業所を設けて「△宅急便」を創業し、独占的に成功を収めたとします。後発として市場参入した某社は、まだ全国網の整備が出来ていないため、自社だけでは配達できない地区がありました。そこで自社の手が行き届かない地区への荷物は、最大手の「△宅急便」が中継しなければならないという「義務」を負わせようとしました。最大手「△宅急便」は同業他社の助けなどなくても、自社だけで全国へ配達することが出来るのですから、こんな"中継義務"に反対するのは当然だという意見です。

またマルコーニ国際海洋通信会社は無線システムと自社の通信士をセットにして送り込むことで、無線機の仕様はもちろんのこと、運用・保守の手法までも社外秘扱いにしたほか、無線機を貸与契約として中古無線機市場が形成されるのを防ぎました。通信機メーカーとしてではなく、新しい通信サービス業の形を模索しはじめました。

12) ニューヨーク玄関口にマルコーニ局誕生(1901年秋) [Marconi編]

1901年(明治34年)、米国ではニューヨークヘラルド新聞社が、ニューヨークの玄関口にあるナンタケット島(Nantucket Is.)のサンカティー・ヘッド(Sankaty Head)にシアスコンセント海岸局を建設し、さらに沖合に常時碇泊しているナンタケット島灯台船(左図)にもマルコーニ無線局を設置することを決めました。

【参考】同新聞社は1899年10月、ヨットレース(America's Cup)の無線中継をマルコーニ社に発注したことがあり、古くからのマルコーニ社の顧客です。米国マルコーニ社は1899年11月にニュージャージー州に設立されました。

1901年8月16日、実地テストが行われました。英国のリバプールを出帆したキュナードライン社の北大西洋路線ルーカニア号(マルコーニ局LA)がナンタケット島に近づくと、灯台船無線局との間で無線電報を交換し、灯台船無線局はその電文をサンカティーヘッドのシアスコンセント海岸局(ナンタケット島)へ送り、そこから海底ケーブルと陸線を経由してニューヨークと結びました。

結果は大成功で、さっそく本運用を開始することになりました。ニューヨークへ出入港する船からの情報をいち早く新聞記事にするためです。

そのナンタケット島沖で世界の無線界に影響を及ぼすことになる大事件がおきました。

13) ドイツ皇帝の弟がやって来る (1902年2月) [Marconi編]

1902年(明治35年)2月、ドイツ皇帝の弟(ハインリヒ王子Heinrich、[英語名:ヘンリー王子Henry] )が米国のセオドア・ルーズベルト大統領を表敬訪問する際に、ブレーメンより北ドイツ・ロイド社の新しい大型客船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号(S.S. Kronprinz Wilhelm、左図)に乗って出発ました。

 この船にはマルコーニ国際海洋通信会社の無線局が開設されており、出帆するとすぐにボルクム灯台船無線局の通信圏内に入り、3時間ほど電報を交わし、次は英国東端のノースフォアランド海岸局からワイト島のニトン海岸局まで連続して電報を送受できました。そして大西洋への出口(英国西端の)リザード海岸局と連絡を取ろうとしたときに火花送信機のインダクション・コイルが破損し、修理が終わった時には、もうリザードから300マイル(=483km)も離れてしまいました。時を同じく洋上を航海中だったキュナード社のルーカニア号やカンパニア号にもマルコーニ局が開設されていましたので、それらとの通信を試みましたが、これは一方通行(1Way通信)に終わったようです。

そうこうしている間に対岸のニューヨークに近付き、ナンタケット灯台船無線局との通信可能圏に入ったのが2月22日夜です。さっそく皇帝の弟と米国大統領はナンタケット灯台船無線局(マルコーニ局)を介して電報を交換し合い、二人の無線メッセージが新聞で公開されました。「客人の入港前にこんなことが可能になるなんて、無線はなんて便利なんだろう。」多くの米国民がそう思ったでしょう。これは無線史上でも画期的な出来事ですね。そしてドイツ皇帝の弟は、ニューヨーク港に到着するや大歓迎を受けたのです。

14) ドイツ皇帝を怒らせたマルコーニ (1902年3月) [Marconi編]

このように先端技術である "無線電信" を使って、相互にメッセージを交換したことが新聞で全米に報じられ、注目を集めたこともあって、ドイツ皇帝の弟は米国のどこへ行っても大歓迎を受けました。

ドイツ皇帝の弟は米国に三週間ほど滞在しました。

そして帰国には北ドイツ・ロイド汽船会社の商売敵になるハンブルグ―アメリカン・ライン社が誇る大型客船ドイチュラント号(S.S. Deutschland、左図)を選びました。

ところがこのドイチェランド号には(テレフンケン社の前身のひとつ)アルゲマイネ社の「スラビー・アルコ式」の無線局が設置されていたため(すなわちマルコーニ社の船舶無線局ではなかったため)、このあと大事件が起きるのです。

1902年3月11日午後、ドイツ皇帝の弟は、ドイチェラント号に乗ってニューヨークを出港しました。

そしてすぐさま米国大統領へお礼と、ドイツ皇帝へ帰国の電報を打とうとしたところ、ナンタケット灯台船無線局からマルコーニ局ではないとして取扱いを拒否されました。

仕方なく大西洋を渡って英仏海峡の入口、リザード半島付近に来たところで、マルコーニの海岸局から一旦応答があったのに、こちらがマルコーニ局ではないことが知れたとたん、いくら呼んでも無応答になりました。とうとうお礼の電報が打てないままドイツのボルクム島灯台船無線局の近くまで来てしまいましたが、ここもマルコーニ局なので取り合ってもらえなかったのです。

さあ大変です。帰国した弟からその報告を受けたドイツ皇帝は憤激し、"生意気な" マルコーニ社の態度を改めさせようと考えました。

15) ドイツ皇帝が主要海運国を集めて国際無線会議を開催 (1903年8月) [Marconi編]

1903年(明治36年)、ドイツ皇帝の仲裁により特許で争っていたアルゲマイネ社とシーメンス社が国策合併してテレフンケン社が誕生しました。そして独自の無線システムを完成させ、ドイツ海軍の海岸局と主要軍艦には国産のテレフンケン式無線機を取り付けることにしました。

つぎにドイツ皇帝は他社と交信しないマルコーニ社に対して、国際社会から揺さぶりをかける策にでました。「船舶局からの電報には、他社方式の海岸局や船舶局であっても交信義務を課すべき」と主張して、船舶無線に関する国際会議を我がドイツで開こうと、(日本を除く)主要海運18ヶ国に招へい状を送り、うち9ヶ国(独・英・仏・伊・米・露・スペイン・オーストリア・ハンガリー)がこれに応じました。これが1903年夏に開催された「ベルリン無線電信予備会議」(Preliminary Conference on Wireless Telegraphy, Aug.4-30, 1903)と呼ばれるものです。

明治三十五年(1902年)独逸(ドイツ)皇弟ハインリッヒ親王が米国を訪問せられた。帰途皇弟は郵船ドイッチュランド号で米国を発して、紐育(ニューヨーク)港外ナンタッケットのマルコニ会社所属の無線電信所に向かって同船から独帝に宛てた電報を発したけれども、同船の無線電信はマルコニ式でないという理由で応じなかった。去って英国に近づき、リザードのマルコニ無線電信所に向かって再び発信したけれど、また応じなかった。終わりに独逸の沿岸にあるボルクムロイヅ無線電信所に向かって帰朝の報を発したけれども、これまた拒絶せられた。ここにおいて独帝はマルコニ会社の専横を憤激し、各国を促して明治三十六年(1903年)万国無線電信会議を伯林(ベルリン)に開き、無線電信の利用を世界的ならしむると同時に、マルコニ会社の大野心を永遠に葬り去らんとした。(横山英太郎, 『無線電信電話のはなし』, 1916, 電友社, pp49-50)

もちろんドイツの本心は、マルコーニ社の独占下にある英国とイタリア政府にこれを承諾させたかったのです。この二国は大西洋への出入り口に位置する島と、地中海のど真ん中に突き出す半島という交通の要所で、ここで電報送受できないのは致命傷であり、またマルコーニ社の排他的ビジネスに止めを刺すのが狙いでした。

16) 結局、骨抜きになった相互交信の義務(1903年8月) [Marconi編]

会議の結果は次の通りです。

英伊両国は総括的留保をして賛同しなかったが、他の諸国は全部この自由競争主義に賛同した。その結果会議は相互通信について、次の条文を採用した。

「各海岸局は船舶局の備える無線電信の方式の如何に拘わらず、これより発し又はこれに宛てる電報を受信し且つ伝送することを要する。」

前に述べたように、この規定は多数説を採用したもので、この予備会議の議定書の調印については後に述べるところであるが、英伊はこれについて総括的な留保をしているのである。また本条文で注目すべきは船舶局相互間の交信義務を認めていない(求めなかった)ことである。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第五巻, 1951, 電波監理委員会, p39)

ドイツの狙い通り、採択されました。しかし肝心の英・伊の二国が留保したため、骨抜きになったというオチが付きました。

【参考】 そこでドイツ皇帝は翌年に再度、国際会議を招へいしようとしましたが、ロシアが日本と戦争を始めたため、1906年(明治39年)まで延びてしまいました。それが有名な第一回国際無線電信会議(ベルリン, 1906)です。

 そんな状況下ではありましたが、勢いにのるテレフンケン社は1905年(明治38年)にはアメリカに子会社を作り高性能な無線機の販売をはじめました。さらに米国ではアメリカ・ド・フォレスト無線電信会社とその後継社ユナイテッド・ワイヤレスがマルコーニ社より安い価格設定で揺さぶりを掛けてきました。結局、米海軍はマルコーニ式を採用しませんでしたし、米国の民間船会社への売り込みもほぼ完敗でした。もはや船舶無線もマルコーニ社にとって「ライバルのいない世界」ではなくなりました。

17) 短波を採用したマルコーニの海上公衆通信サービス [Marconi編]

1972-1975年(昭和47-50年)に国際電波科学連合URSI(ウルシ:Union Radio-Scientifique Internationale, 1919年創設)会長を務められた英国の物理学者グランビル・ベイノン氏(Sir William John Granville Beynon, 1914-1996)が、マルコーニの無線等についての論文「Marconi, radio waves, and the ionosphere」を、アメリカ地球物理連合AGU(American Geophysical Union)のRadio Science(Vol.10-No.7, July 1975, pp657-664)で発表されました(下図)。

その中にマルコーニ氏の短波海上通信に関する記述がありますので引用します。ベイノン氏は長い波長を使った遠距離通信が注目された頃に、短波が海上公衆通信で活用されていたのを、とても興味深い事象だと指摘しました。

参考までにざっくり意訳してみますが、正しい英文解釈はご自身でお願いします。

短波の伝播 1901-1924年

前節で述べた通り(マルコーニの)1901年の大西洋横断試験のあとは長い波長による通信に関心が集まりました。しかしそんな時代にあって、短波バンドもまた利用されていた事に注目するのは興味深いことです。1924年にマルコーニは次のように、これを語っています。

1901年以降のおよそ8年間、マルコーニ社は波長120mだけの火花送信機システムをかなりの数の船舶局に導入していました。このシステムは小電力で、感度の鈍いテープ式受信機を用いたが、通常的に約1,000マイル(1,600km)の距離の通信が出来ました。

それにも関わらず1900年代初期には、短波での実用遠距離通信の可能性を積極的には追究せず、20年もの間、無線界では短波の伝播特性を把握されないままでした。

以下がその原文です。

SHORT-WAVE PROPAGATION 1901-1924

As indicated in the preceding section, in the years following the 1901 transatlantic experiment the major interest was in wireless communication using long waves. However, it is interesting to note that even at this time the short wave bands were also being used. Thus Marconi, writing in 1924, had this to say:

For a period of about eight years after 1901 the Marconi Company had installed on a considerable number of ships a system of spark transmitters utilizing waves of only 120 m in length. This system, although utilizing a very small amount of energy, was capable of regularly communicating over a distance of about 1000 miles although a comparatively insensitive tape receiver was employed.

Nevertheless, in the early 1900s the possibility of reliable long-distance communication on short waves was not actively pursued and short-wave propagation did not figure prominently on the radio stage for another twenty years. (W.J.G. Beynon, "Marconi, radio waves, and the ionosphere, SHORT-WAVE PROPAGATION 1901-1924", Radio Science Vol-10 No-7, 1975.7, American Geophysical Union, p662)

(マルコーニ氏が上記の様に120mシステムを1924年に語ったとする件は後述します。)


初期の120mシステムは(英語として世界最古の百科辞典である)ブリタニカの1970年代の改訂(The New Encyclopedia Britannica)の際に、以下のように収録されました。

1901年から1909年頃の船舶通信に波長120mが使われ、1600km以上届くことに注目されたが、それは異常現象だと考えられた。」という内容でしょうか。

A short wavelength of 120 metres (2.5 megahertz) had been employed for communicating between ships from 1901 to 1909, and it had been noted that reception over distances of 1,000 miles (1,600 kilometres) or more could be obtained, but this was thought to be caused by freak condition.

18) マルコーニの初期の波長120m システムに言及した書籍など [Marconi編]

一部には1906年(明治39年)にベルリンで開かれた第一回国際無線電信会議の規則(1908年7月1日発効)により、海上公衆通信がスタートしたとの誤解もあるかも知れません。しかし電波先進地域である欧州(および大西洋航路)の海上公衆通信サービスはこの会議よりも6年も前の、1900年(明治33年)5月よりはじまっていました。

そして短波史を語る上で、1906年のベルリン会議で中波の国際統一波(常用波1000kHz)が制定される"" から、短波が利用されたことを忘れてはならないでしょう。


比較的最近(といっても2003年ですが)の書籍HF Communications (Nicholas M Maslin, 2003, CRC Press) にも、無線初期の船舶通信に波長120mが使われていたことが記されています(下図)。内容的にはブリタニカにあるものとほぼ同じです。

1.1.2 Experiments with the Short waveband

A short wavelength transmission of 2.5 MHz (120m) had been employed for communications between ships as 1901. It had been noted that reception over distances of 1600 km or more could be obtained, but this was thought to be caused by freak conditions. 』 ( p2)

また下図は1999年に出版されたOn The Short Waves, 1923-1945 Broadcast Listening in the Pioneer Days of  Radio(Jerome S. Berg, 1999, McFarland & Company) は放送分野から見た短波史の書籍ですが、以下のようにマルコーニ氏の初期の短波に触れています。

マルコーニは1901年頃から火花送信機で短波の実験を始めた。彼は2.5MHz(波長120m)付近で運用していたが、当時は近距離用と考えられており、1920年以降になるまで短波の遠距離到達性には気付かなかった。

Marconi had experimented with shortwave spark transmitters as early as 1901. His transmitters operated around 2.5mc. - considered a high frequency at the time - and were intended only as an alternative means of short-range transmission. The distance potential of the higher shortwave frequencies was not suspected until after 1920. 』 (p47)

マルコーニ氏の短波に触れた文献が極端に少ない我国ではありますが、アンテナ研究者であり、電波発展史の分野でも造詣が深かった慶応義塾大学理工学部の徳丸仁先生が、講談社のブルーバックス『電波技術への招待』でマルコーニの短波帯船舶通信に触れています。

世界の電波発展史がやさしく、網羅的に解説された良書です。多くのアマチュア無線家の方々がお読みになったのではないでしょうか。

長中波に人々の目が向けられていた一九〇二年から一九一〇年ごろにも、船舶通信などの限られた目的にはマルコーニ社では波長一二〇メートルの短波を使っていた。日中は一五〇キロメートル、夜間には一五〇〇キロメートル以上の通信ができたという。(徳丸仁, 『電波技術への招待』[ブルーバックスB-350], 1978, 講談社, pp194-195)

19) 戦前の書籍・雑誌に登場するマルコーニの初期の波長120m システム [Marconi編]

戦前の海外書籍で、マルコーニの初期の波長120mシステムについて触れたものとしては1932年(昭和7年)11月にロンドンで出版されたShort Waves Wireless Communications(下図[左])があります。筆者のA.W. Ladner氏とC.R. Stoner氏はマルコーニ社の方です。

A wavelength of 120 metres (called tune A) was used, however, on ships from 1901 to 1909, and extraordinary night ranges were found possible with very small power, 100 watts; with such waves, distances of 1,000 miles were frequently recorded, and 1,500 miles was recorded on more than one occasion, these ranges begin obtained with a coherer receiver and tape recorder, a most insensitive device reckoned by modern standards. (A.W. Ladner /C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1933, John Wiley & Sons, p11)

この書籍は水橋東作氏と松田泰彦氏により翻訳され、1933年(昭和8年)にコロナ社より日本語版『短波無線通信』が出されました(上図[右])。

しかし120米の電波(tune Aと称する)は1901年から1909年まで船舶無線で使用され、100Wの甚だ小さい電力でも、なおかつ夜間は異常な遠距離に達し得ることが発見された。かかる波によって、コヒーラー受信機とテープレコーダーを用いた今日から見れば最も感度の悪い受信機で、1,000哩の距離でしばしば通信し、1,500哩の長距離でも一再ならず成功したのである。(ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦訳, 『短波無線通信』, 1933, コロナ社, p11)

 なにぶん短波に関する書籍が非常に少ない時代ですから、当時の日本のアマチュア無線家の方々に愛された本だったと想像します。

それから5年後の1937年(昭和12年)に東京逓信局監督課の中島徳二氏が電気雑誌『WATT』に、「無線の今昔」という連載記事を書かれました。

そして9月号の連載最終回にマルコーニ社の船舶通信が波長120mの短波を使っていたことが紹介されていますので引用します。

一八九六年にはマルコニーが極めて短い波を用いて二哩(マイル)の距離でビームの実験に成功している。その後無線界は長波長へと推移したが、一方短距離通信には時々短波が使用され、一九〇一年から一九〇九年まで一二〇米の電波が船舶無線に使用され百ワット程度の小電力でも、なおかつ夜間は異常な遠距離に達し得ることが発見されている。

次いで一九一六年には、マルコニーとフランクリン(C.S. Franklin)が指向性送信の可能性に留意し伊太利(イタリア)において再び短波長の実験をはじめ、その後特殊な火花送信機と放物線反射器を用い二米乃至三米の電波を発射して海上六浬(カイリ)の距離で鉱石検波器による受信に成功す。(中島徳二, "無線の今昔(三)", 『WATT』, 1937年9月号, ワット社, p19)

20) 初期の波長120m システムに関する1924年の資料を発掘 [Marconi編]

前述のとおり、1975年にベイノン氏が指摘された「1924年にマルコーニが以下のように初期の120mシステムについて語っている」という引用元(出典)が、長く私には判りませんでした。今さらではありますが、最近(2017年1月23日)になって発掘できましたので、(特に目新しさはないと思いますが、ソースを明らかにしておくために)ご紹介しておきます。

1924年(大正13年)12月11日、マルコーニ氏はロンドンのRoyal Society of Arts(王立技芸協会)で"Radio Communications"という題目で講演し、船舶無線に短波を使っていたことに触れています。

協会機関誌 Journal of the Royal Society of Arts(Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924)より引用します(左図)。

As a matter of fact, for a period of about eight years from 1901, the Marconi Company had installed on a considerable number of ships a system of spark transmitters utilizing waves of only 120 metres in length, which was commonly referred to as “Tune A.”

This system, although only utilizing a very small amount of energy, was capable of regularly communicating over a distance of about one hundred miles during daytime, but at night the range often exceeded 1000 miles, although a comparatively insensitive tape receiver was employed.  One of the advantages of this system was its comparative freedom from atmospheric disturbances.  (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Royal Society of Arts [London UK], Dec.26, 1924, p123)

この論文中に"Tune A"という言葉が登場しますが、これは同調式無線機が使われるようになったときのマルコーニ社のいわゆる「チャンネルプラン」で、Tune A, Tune B とは、Channel A, Channel B のことです。ちなみに最も初期の同調式はTune Aが波長100m(3MHz)、Tune Bが波長270m(1.1MHz)だとする文献もあります。

21) マルコーニの短波をFCCで証言したデビット・サーノフRCA社長 [Marconi編] 

このTune Aについて、もう少し調査してみました。

1938年(昭和14年)11月14日および翌年5月17日に行われた、放送ネットワーク事業に関する連邦通信委員会FCCの公聴会において、RCA社(Radio Corporation of America)の社長でありNBC(National Broadcasting Company)を設立したデビット・サーノフ氏(David Sarnoff)による、"Tune A"および"Tune B"の説明が発掘できましたので引用します。

まず冒頭、サーノフ氏に対する人定質問が行われたあと、質疑応答を繰り返す中で、p48に次のように記されています(下図)。

【注】 これは連邦通信委員会FCCの公聴会議事録を、RCA社が再掲・出版したものです。

I can remember, as a wireless operator, in the days of Marconi, in 1908 and ’09, I was a wireless operator at a little station called Seagate in Island and at another one, Siasconset on Nantucket Island, and we then had two methods of signaling, one was short-wave called Tune “A” and the other was long-wave called Tune "B". Tune "A" used waves of 100 meters and below, and Tune "B", 350 meters and above. This was ship communication. Everybody had assumed, then, that the Tune "A" waves could communicate at a range of about 50 miles and no longer, because short waves could not travel very far. If you wanted to cover distance, you had to use Tune "B". Principles and practices of network radio broadcasting, RCA Institutes Technical Press[NY], 1939, p48)

1908年から1909年頃、RCAの前身である米国マルコーニ社のシーゲート海岸局(ニューヨーク湾)やナンタケット島(ロングアイランド沖)のシアスコンセント海岸局で働く一通信士だったサーノフ氏は「当時のマルコーニ社の船舶無線は波長100m以下(周波数3MHz以上)の短波 "Tune A" と、波長350m以上(周波数850kHz以下)の中波 "Tune B" の二種類があり、50マイル(=80km)程の近距離通信では "Tune A" を、それ以上の距離では "Tune B" を使っていた。」という趣旨の証言をしています。

サーノフ氏は以上を1908-1909年頃のこととしていますが、別の文献によると1912年のロンドン無線会議以降には、マルコーニ社も国際規格に準じてTune A:波長300m(1MHz)、Tune B:波長600m(500kHz)に変えたとする記述が見受けられます。

また(マルコーニ社のことではありませんが)Manual of Wireless Telegraphy for the use of Naval Electricians(Samuel S. Robinson[U.S. NAVY COMMADER], The United States Naval Institute, 1911, p162)によれば1910-11年の米海軍ではTune A:波長300m(1MHz)、Tune B:波長400m(750kHz)、Tune C:波長600m(500kHz)、Tune D:波長1,000m(300kHz)でしたので、同じ "Tune A" でも無線機メーカーによって実波長(周波数)は違うようです。【注】これらについては調査継続とさせていただきます。

なおマルコーニ社が船舶通信に短波を使っていたことは、マルコーニ氏の論文(1924年)やサーノフ氏のFCC公聴会での証言(1939年)がなくても、米国海軍省が1906年から発行したList of Wireless-Telegraph Stations of the Worldに各局の使用周波数が掲載されており、既に公知でした。

このリストは我国の電気試験所にも届けられており、次にそれを紹介します。

22) 全世界の無線局リストが完成 1906年(明治39年) [Marconi編]

1903年のベルリン国際無線電信予備会議で、各国の海岸局と船舶局の使用波長や通信可能範囲等を公表することを決めたため、米国海軍省が世界各国の電波主管庁へ調査票を送り情報提供を求めました。

そして1906年10月1日、ついに List of Wireless-Telegraph Stations of the World が完成し、関係国に配布されました。これは無線史上で画期的な出来事ですね。

次々と新局が開局しますので、1907年(明治40年)8月1日には改訂第二版が出されました(下図)。逓信職員で構成される通信協会(後の逓信協会)の機関誌にある鳥潟右一氏の記事から、このリストが我国でも利用されていたことが分かります。

『 (このリストは)米国海軍省の調査になり、昨年同省より浅野電気試験所長に送付せられたる、全世界の無線電信方式、局名、使用電力、最大通信距離等記載の一小冊・・・(略)・・・』 (鳥潟右一, 最近無線電信電話の進歩に就て[上], 『通信協会雑誌』, 1908.10, 通信協会, p239)

【参考】 1909年(明治42年)8月からは、(公衆通信を取扱う局に限りますが、)万国電信連合ベルン総理局より無線局名録が出されるようになりました。

たとえば図の赤線で囲んだベルギーの海岸局NPはマルコーニ式無線機を採用し波長72m(4.2MHz)となっています。

その下が、ブルガリア、デンマークの無線局で、最下行からドイツが次のページへと続きます。

この資料を見ればデンマークとドイツの海岸局はテレフンケン式無線機(ドイツ製)で、その波長はデンマークの場合やや高めの波長160-335m(1.9MHz-900kHz)を、ドイツの場合は低めの波長315-365m(950-820kHz)だとわかります。

英国やイタリアの海岸局はマルコーニ社の独占下にあり、その波長はぼかされていますが、マルコーニ社の船舶局は波長100mと220m(3MHzと1,364kHz)でしたから、同社海岸局も同じ帯域だと推察されます。

ロシアはマルコーニ式とテレフンケン式の混在ですが波長は360m(830kHz)1波に統一されています。フランス政府は独自のブランレー式で、当時の海岸局としては珍しく非常に低い600m(500kHz)1波だけを使いました。スペインはフランスのロシュフォール式を採用し高めの160m(1.9MHz)です。アメリカは圧倒的にテレフンケン式とド・フォレスト式が多く、波長は300-450m(1.0MHz-670kHz)で、ちょうど真ん中という感じでしょうか。

これは当時の海岸局と船舶局の現状を知ることができる唯一の公的資料で、無線発展史・設備史などを研究する上で、絶対に欠かせないリストです。

要するに国際的な周波数の取り決めが発効するまでは、みんな好き勝手な周波数でバチバチと火花電波を飛ばしていたということですね。でも、ご注目いただきたいのは "長波ではない" ということです。無線の商用化達成から10数年間ほどは、高い周波数から低い周波数へ向って開拓されました。長波が注目されたのは、第一次世界大戦からのことです

23) 1907年版(明治40年)にある日本の海岸局 [Marconi編]

日本の逓信省が「無線電報ビジネス」を創業したのは1908年(明治41年)創業ですから、この1907年版には海岸局(銚子無線JCS)や船舶局(天洋丸TTY)等の名前はありません(翌年の1908年版から掲載)。

しかし逓信省の佐伯技師が長崎-台湾間で通信試験を行っていた"Nagasaki"(長崎, 九州)局と"Kilung"(基隆, 台湾)局の2つが " In Operation"(運用中)として掲載されています。

米国海軍省からの問合せに対し、電気試験所の浅野所長が「運用中」と回答したようです。ただし詳細データに関しては採用システムが我国独自の「逓信省式」とするのみで、使用波長や通信距離は非公開としています。長崎局と基隆局が運用中(In operation)だと見栄を切ったものの、(本当は運休しており)実際に呼ばれると困るので、コールサインや波長を伏せたのかも知れません。

わが国は世界の一等国入りを目指していました。浅野所長としては、公衆無線電報の取扱いが、日本ではまだ始まっていないと米国海軍省に報告するのが残念でならなかったのでしょう。

それにしても銚子JCSの創業よりも前に、「長崎」と「基隆」が"日本を代表する海岸局" だと、1907年版の無線局リストで、世界の電波主管庁へ公表されていた史実は、日本の国内文献にはない"秘話"であり、非常に興味深いものです。

【参考】日本海軍の無線局の掲載もありません。日露戦争が終ったばかり政府としては情報公開に躊躇があったのでしょうか?

24) 1906-7年(明治39-40年)の短波局 [Marconi編]

1907年版リストから2MHz以上の電波を使う海岸局を抜粋したものが下表ですが、全てマルコーニ式無線システムでした。

なおイギリスとイタリア政府は、自国にある公衆通信(電報)を扱うマルコーニ海岸局の使用波長を、非公開または「可変」と公表していたため、ここには短波局として1局すら集計できていません(なぜかカナダのマルコーニ社だけは波長を開示)。皆さんにご紹介できなかったのが残念です。

次に短波を使う船舶局(民間商船)の抜粋をご覧下さい(下表)。マルコーニ社は波長100mと220m(3MHzと1.36MHz)の組合せを好んだようです。大西洋航路の大型客船はほぼ総て短波を使っていた事が分かります。

 こんなにもたくさんの公衆通信(電報)を扱う短波の船舶局があり、(裏返せば)これらを通信対手とする短波の海岸局がイギリスとイタリアにあったことは疑う余地がないでしょう。

25) ベルギーの72メートル短波局について [Marconi編]

上表の中でも、ベルギーの72m(4.2MHz)が目立っていますのでご紹介します。

1900年(明治33年)4月25日に分社したばかりのマルコーニ国際海洋通信会社(Marconi International Marine Communication Company)は、ベルギー王室ならびに諸大臣の前でデモンストレーションを行いました。そしてベルギーに海岸局を建設する許しを得て、建設に着手しました。

1900年11月3日、マルコーニ国際海洋通信会社はベルギーのニーウポールト(Nieuwpoort、 [ニーウポートNieuport] )近郊にある、ラ・パンヌ(La Pann)に海岸局を建設しました。

同時に英国のドーバー(Dover)とベルギーのオーストエンド(Oostende、 [オステンド:Ostend] )間を運行していたベルギー政府の郵便連絡船 "mail-packet boats"(郵便と乗客を運ぶ船) プリンセス・クレメンタイン号(Princess Clementine)に無線電信機を取付けて試験を始めました。

1901年(明治34年)1月1日、プリンセス・クレメンタイン号は難破したスウェーデン商船を発見し無線で救援通報する手柄を上げましたが、同月19日には濃霧のため自分自身がマリケルクの海岸に乗り上げて、無線で助けを求める事件がありました。この無線通信テストは1901年10月まで行われ、無線が非常時の連絡手段としてきわめて有効であることが確認されました。ベルギー政府はこれを正式採用することを決め、ニーウポールトに官営海岸局NPの建設を開始しました。それが上表にある海岸局です。

1902年(明治35年)6月より(海底ケーブル会社を刺激しないように)まずは連絡用として運用をスタートさせました。そして1904年(明治37年)3月15日に郵便連絡船とニーウポールト官設海岸局NPとの間で公衆通信の取り扱いが正式スタートしました。これがマルコーニ国際海洋通信会社の72m波(4.2MHz)船舶無線システムです。

なおイギリスでは公衆通信は郵政庁の独占事業なので、イギリス領海内からのニーウポールト官設海岸局NPとの電報送受(国際電報)は禁じられています。公海およびベルギー領海を航行している間のみ使用する「ベルギー国内電報」という位置づけでした。

在ロンドン日本領事館の有吉明氏が1903年(明治36年)3月26日付けで外務省へ送った報告書「マルコニー式無線電信事業状況」が、官報(1903年5月19日)で公表されましたが、このベルギーの無線についても触れていますので、参考までに紹介します。

白耳義(ベルギー)

白耳義汽船中、英白(イギリス・ベルギー)両国間を定期の往復を為す汽船は、無線電信器を据え付け、陸上との連絡を為しつつあり。(『官報』, 公使館及領事館報告, 1903.5.19, p17)

26) 1908年(明治41年)7月1日 1,000KHz(中波)が国際的な花形周波数に [Marconi編]

1908年(明治41年)7月1日は海上公衆通信にとって大きな転換点でした。第一回国際無線電信会議(1906年, ベルリン)で一般公衆通信(無線電報)には中波に属する波長600m(500kHz)と波長300m(1MHz)が割当てられ、海岸局は二波のいずれかを、また船舶局は300m(1MHz)を通常電波として使うよう決議され、その規則の発効日だったのです。国際的に合意された最初の無線通信の「通常波」は周波数1,000kHzだったのです。中波です。長波ではありません!

国際規則に準拠するためには公衆通信を行う無線局は少なくとも中波の波長300m(1MHz)を送受信できるようにしなければなりません。もともと他社とは通信しないことを社の方針とするマルコーニ国際海洋通信会社は、他社と「波長統一」する必要などなかったのですが、しぶしぶこの決定に従いました。

そのために空中線も無線機も中波帯に重点を置いた無線システムに変更せざるを得なくなり、マルコーニ社の短波利用は廃れて行くことになります。すなわち第一回国際無線電信会議(ベルリン, 1906年)の決議が短波衰退のひとつの遠因として作用した面もありました。

こうして無線通信は中波が花形周波数となりました。この年の5月16日、日本の逓信省も国際波1000kHzの1波をもって、銚子無線JCSと天洋丸TTYで公衆通信サービスを創業しましたが、電波先進地区の欧州におけるマルコーニ社の短波無線は、国際統一波の時代よりも歴史が古い点は忘れてはならないでしょう。

・・・とはいえマルコーニ国際海洋通信会社は短波を完全に捨てたわけではなく、しばらく国際波300m(1MHz)と併用を続けました。第一回国際無線電信会議(ベルリン, 1906)のドイツ原案では「海(船舶局)-陸(海岸局)」,「海-海」ともに、"他社方式であっても相互通信の義務を課す"ことになっていたため、またもや英国とイタリアが激しく反発し、ドイツと大バトルを繰り広げました。『日本無線史』第五巻ではこの通信義務に関する討議の経過説明に10ページも割いている程です(p56からp65まで)

詳細はそれをご覧いただくとして、元郵政省電波研究所長の若井登氏の記事を引用します。

この事件(前述のドイツ式無線により発せられたドイツ皇帝の弟の電報が、マルコーニ社の海岸局に受信拒否された事件)に端を発して、ドイツが提案した無線電信の予備会議が1903年に開催され、さらに1906年には日本を含む30か国が参加して、第一回国際無線電信会議がベルリンで開かれた。この通称ベルリン会議は使用周波数の割り当てとともに電信料金を定め、装置の方式の如何を問わず相互に通信する義務があること、遭難信号をCQDからSOSに改めることなどを決議した。これによりマルコーニ方式の独占は一応排除されたように見えたが、一定の条件下での除外規定もあり、マルコーニ社は1908年の条約批准(そして発効)後も、人命に関わる緊急信号以外は、他社機との交信をボイコットし続けた。(若井登, もしもマルコーニがタイタニック号に乗っていたら, 『ARIB機関誌』, 1999.5, 電波産業界, p30)

この問題が完全に解決できたのは1912年に開かれた第二回国際無線電信会議(ロンドン)で、それまでの間にマルコーニ国際海洋通信会社は国際波300mと(自社専用回線として)短波110mを使い続けました。

ところで長波はどうなったのでしょう。前述したとおり、1907年(明治40年)10月17日にようやく大西洋を挟んだアイルランドのClifden局とカナダのGlace Bay局間で、波長5000-7000m(周波数60-43kHz), 電力80kWによる国際公衆通信サービスを開業しました。しかし「陸(固定局)-陸(固定局)」の遠距離通信は満足にビジネスとしての収益を上げられませんでした。

「海-陸」,「海-海」の公衆通信が1000, 500kHz(300, 600m)に集約されましたので、500kHz以下の188-500kHz帯は、(無線で収益を上げる必要のない)海軍の海岸局が外洋にいる艦隊との連絡通信として使うようになりました。

27) 1911年(明治44年) 最後の短波海岸局と船舶局 [Marconi編]

中波が無線通信の花形周波数になりましたが、欧州では1911年(明治44年)の時点で、まだマルコーニ国際海洋通信会社の短波無線が散見されますのでそれを紹介しておきましょう。「最期の短波」です。 

1912年(明治45年)1月1日、米国海軍省は "Wireless Telegraph Stations of the World" を発行しました(図)。

1911年の米国無線局情報と万国電信連合ベルン総理局への無線局登録情報から、米国海軍省が世界の無線局をまとめた公的資料です。銚子無線JCSや天洋丸TTYなど1000kHzを使う日本の海岸局と船舶局もすべて収録されています。

各国の海岸局から短波の記載がある局を抜き出してみました(下表)。欧州7ヶ国の22海岸局にまだ短波の登録が残っていました(なお英国のマルコーニ社の短波は相変わらず公開されていませんので集計外です)。

第一回国際無線電信会議(1906年、ベルリン)では公衆通信(一般の電報)を扱う無線局のコールサインを「アルファベット3文字」と決議され、いわゆる「早いもの勝ちルール」により好みのコールサインをベルン総理局へ国際登録することになりました(1908年7月1日発効)。たとえばマルコーニ社の無線局は、頭文字M(Marconi)で始まる3文字コールサインをベルン総理局に届けて、1908年1月1日より切り替えました。

【注1】ただし国際公衆通信を行なわない局には登録義務や3文字という制約はありません。

【注2】アメリカはベルリン会議で最終議定書にサインしたものの、1912年まで電波については無法国家(国内無線法が未制定)だったため、国際ルールには従っておりません。なおコールサインのルールの歴史的な変遷については「国際呼出符字列」のページで詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。

上表でお気づきの通り、明治時代のイタリアは「短波大国」です。 イタリア政府は自国の全海域を海上公衆通信(無線電報)サービスで覆うために、一定間隔で海岸局を建設し(左図:サービスマップ)、中波の波長300m(周波数1.0MHz)と、短波の波長75m(周波数4.0MHz)を併用しました。マルコーニ社がオペレーションを請け負っていたようです(これについては調査中)。

この官設船舶無線システムは「全海域サービス」と呼ばれ、混信を抑えるために、航行する船舶のトン数、通過時刻、方向、速度などによる無線通信ルールを細かく定めています。

またシチリア鉄道では1905年にマルコーニ式の波長50m(周波数6.0MHz)の無線を採用することを決めました。そして(詳細は調べ切れていませんが)1908-9年頃に開局したようです。長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあるレッジョ(Reggio)と、その対岸シチリア島のメッシーナ(Messina)間で列車の運行情報を連絡し合っていたようです(ただし両地点を結ぶ鉄道連絡船には無線は装備していません)。コールサインは1文字のM(メッシーナのM?)とR(レッジョのR?)でした。

 

次に短波を登録していた船舶局を紹介します(下表)。2MHz以上を使う船舶局を抜粋しました。

マルコーニ社は国際通常波長300m(1MHz)と自社専用回線110m(2.7MHz)の組み合わせを好んで用いたようです。これは300m波(1MHz)とその3倍の100m波(3MHz)だと空中線を共用する上で都合が良かったが、3MHzは1MHzの火花電波の高調波による混信が多く、波長110m(2.7Mhz)へ少しずらしたのかな?とも思いましたが本当の所は私には分かりません。

28)  もう1911年には110m波は衰退し、予備設備だったか? [Marconi編]

この1912年1月1日版の"Wireless Telegraph Stations of the World")で分かる通り、ベルン総理局への国際登録上では 、まだ多くの短波船舶局が残っていましたが、1911年(明治44年)頃になると、もっぱら国際通常波の300mを使い、110mは予備だったのではないでしょうか?

というのも1911年6月に就航したホワイト・スター・ライン社の新造船オリンピック号MKC(タイタニック号の姉妹船)に据付けられた無線機は国際波300, 600m(周波数1000, 500kHz)の2波のみです(下図)。つまりこの時期になると、各船には国際波にだけ対応した新型無線機交換中だったと想像します。

ちなみに同社の欄にはmタイタニック号呼出符号MUC登録されています(上図)。このリストは1912年1月1日発行ですので、まだタイタニック号の就航前ですね。

国際波を避けた波長350m(周波数857kHz)で、MUCという暫定的な呼出符号で試験していた可能性が伺えます。そして1912年4月の処女航海(沈没事件の航海)ではオリンピック号と同様の新型(1000, 500kHz)が積まれた、呼出符号を有名なMGYしたものと想像します。

ベルギー政府の郵便連絡船はAntwerp局とのみの通信だったためか、国際通常波長300mがなく短波一本槍(波長120m)でしたが、まもなく中波へ移行したのでしょう(しかし1919年に電報サービスを終了)。

上記リストにある大手 キュナード(Cunard Line)社の代表的な船を紹介します。ルシタニア(Lusitania, 呼出符号MFA)号は1907年に大西洋横断最速の称号であるブルーリボンを受けています。左図は1907年に撮影されたルシタニア号の無線室([]:同調式受信機、[]:同調式火花送信機)です。大きなインダクションコイルの手前に電鍵が二つ並んで置かれているのが見えます。110m(2.7MHz)用と国際波300m(1MHz)用でしょうか。

モーレタニア(Mauretania, 呼出符号MGA)号は同社初の王室スイートを用意した船です。またカルパシア(Carpathia, 呼出符号MPA)号は1912年に沈没したホワイトスター社のタイタニック号MGYの生存者を救助しニューヨークへ帰還したことでも知られる船です。

これら有名な船国際波300mと短波110m装備ていたことが分かります。

29) 消え行くマルコーニの短波(1913年) [Marconi編]

これら短波局がいつ頃まで残っていたかは分かりませんが、せいぜい1913-4年(大正2-3年)までではないでしょうか?

変わったところでは1913年にマルコーニ社がオランダのロッテルダム川警察(Rotterdam River Police)に波長80-100m(3.0-3.8MHz)の短波無線システムを納入しています(左図[上]:Wireless World, 1914.2, pp697-698)。

ロッテルダム川警察署(左図[左])屋上にアンテナ建て、られました。建物の手前に浮かんでいる小型ボートが短波を搭載した小型警察ボートPolitie 1号です。図[右下]はそれより少し大き警察ボートPolitie 2号です。合計3隻に短波無線機が搭載されました。

マルコーニ社は企業内で運用されている小型船舶などの、近距離業務連絡通信に短波を使うことを模索していました。しかしこの条件にうまく符合する引き合いが他に無かったのか、この記事以降で、似たような事例を私は知りません。

30) 海上公衆通信の低周波数化(1913年7月1日) [Marconi編]

1913年(大正2年)7月1日に第二回国際無線電信会議(1912年, ロンドン)の条約と規則が発効しました。これは海上公衆通信にとって2度目の大きな転換点でした。周波数の遷移イメージを下図に大雑把ですが示しておきます。

1901年(明治34年)から第一回のベルリン条約および附属規則が発効した1908年(明治41年)7月1日の前日までが、まだ国際ルールがなく各社の無線機で自由にやっていた商用海上公衆通信の第一期です。その舞台は主として欧州沿岸航路および米国東海岸とを結ぶ大西洋航路で、周波数的にいえば短波から中波の電波が使用されました。日本(逓信省)は無線による公衆通信サービスの開業前ですから、短波が商用通信に用いられた時代を経験していません。


1908年(明治41年)7月から第二回のロンドン条約および付属規則が発効した1913年(大正2年)7月1日の前日までが第二期で、公衆通信の周波波は1MHz(300m)と500kHz(600m)でした。海岸局はそのいずれか1波を、船舶局は1MHz(300m)を通常波とするというベルリン会議での決定に従いました。タイタニック号の沈没事件があった1912年は、船舶局の国際通常波が1MHzの時代だったのです。日本(逓信省)も1MHzの1波のみで銚子無線JCSや落石無線JOCなどを開業して、太平洋航路での無線商用化に貢献しました(日本が海岸局を開業しないと、日本に帰港した外国船は電報が打てない)。


1913年(大正2年)7月1日より第二回ロンドン会議の決定による規則で運用されました。これが第三期です。これまで海岸局は300mか600mのいずれか一波を装備すれば良かったのですが、低い600mを通常波とし、船舶局と海岸局は1MHz, 500kHzの両波を装備することとなりました。日本の海岸局もこの規則の発効に合わせ500kHzの追加を実施しました。またもうひとつ特筆すべきことは海上公衆通信に(規則第35条[2]で規定する例外的なケースで)長波167kHz(1800m)を使うことも許されたことです。通常波は500kHzですから、主流はあくまで中波ですが、全体的にジリジリと低い周波数へシフトしたといえるでしょう。こうして短波は終わりました。

【参考】 ところで他社と交信しない方針だったマルコーニ社ですが、第二回のロンドン会議でついにこの問題は解決しました。そのため自社専用波だった短波の搭載意義が消滅しており、国際波への一本化へ舵を切っていました。

31) 短波にとどめを刺したオースティン・コーエン実験式 [Marconi編]

以上紹介してきたとおり、欧州および大西洋航路では、マルコーニ国際海洋通信会社などが海上公衆通信に短波利用していました。しかしベルリン会議で公衆通信の周波数を中波(500kHzと1000kHz)に定め、それが1908年7月1日に発効したため、無線機メーカー各社は、周波数を中波帯に合わせざるを得なかった。これが短波衰退のきっかけであり、またこれが最大の要因だったと言っても良いのかも知れません。

さらに短波にとどめを刺したのが、1914年(大正3年)の「オースティン・コーエン実験式」でした。これは波長(周波数)と到達距離の関係を明らかにした実験式、これまで経験的に知っていた低い周波数ほど有利との認識が確たるものとなりました。そのため短波を敬遠する風潮高めたのです

こうして短波はその良さを見出されないまま、無線界全体として低い周波数へ向かう中の、ただの 「一通過点の電波」になりました。そして短波には「減衰が多くて飛ばない電波」というレッテルが貼られ、誰も振り向かなくなりました。

しかしこういった状況下にも係わらず、再び短波に注目したのがマルコーニ氏だったのです。

短波から中波に降りてくる

短波開拓の成果を学会発表