マルコーニ 1922-1923

巨大パラボラ完成 短波の電離層反射を確信

パラボラ式無線機の実験

短波から中波

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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1922~1923年 目次

1) 短波が長波を駆逐する 3MHz 巨大ビームアンテナ (1922年) [Marconi編]

1922年にマルコーニ氏と部下のフランクリン技師は、それまで非公開だった短波研究(1916~1921年)の成果を学会を通じてオープンにしました。長波よりも短波の方に有効性があると公言した以上、それを実証しなければなりません。

それには現在、ヘンドンとバーミンガム間でテスト中の20MHz短波無線電話のような近距離通信ではなく、世界中のみんなが「あっと驚くような超遠距離通信」が短波でも可能であることを示すことが効果的だと考えました。

1922年(大正11年)夏、マルコーニ氏は英国の南西端にあるポルドゥー(Poldhu、呼出符号MPD)の公衆通信業務を終了し、その跡地に大型反射器を放物線状に配列した短波ビームアンテナを建設することを決めました。

ポルドゥーMPDは無線史にその名を残す名門中の名門です。というのも1901年(明治34年)12月12日に有名な大西洋横断試験(英国-カナダ間)を成功させた英国側の送信所だからです。公衆無線通信の関係者であればポルドゥーMPDを知らない人はいなかったでしょう。

その名門ポルドゥー長波局MPDが看板を降し、その跡地に短波実験局2YTが建設されることになるのですから、この事件はまさしく「短波が長波を駆逐する」の事始めとなりました。

図[]はポルドゥー長波局MPDを廃止するという、無線雑誌Wireless Age(Aug. 1922)の記事"Clifden Replaces Poldhu"です。ポルデュ―廃局のニュースは翻訳され日本でも報じられていますので、そちらを引用します。

注) MBD(誤)→MPD(正)

英国ウェールス、コーンウオル州の有名たるマルコニ無線局ポルヂューは閉鎖され、十九年の間船舶局員が聴馴れたる呼出符号MPDは最早聞くことを得ずなりぬ。従来ポルヂューを経由せる電報は今や愛蘭(アイルランド)クリフデン局MFTにて取扱うこととなれり、ポルヂュー局はマルコニ氏指導の下に建てられたる最初の強力無線局にして、千九百一年十二月十二日初めて大西洋横断通信をなしたる歴史的なものなるが、この栄光ある局の将来は不明なるも、恐らく実験用に併せらるることとなるべし。(竹越忠雄, "海外無線界の進歩 ポルヂュー無線閉鎖", 『無線』, 1923.2, 逓信省無線倶楽部, p32)

2) 巨大パラボラに周波数3.1MHzが選ばれた訳は? [Marconi編]

マルコーニ氏はこれまでパラボラが小型で済む、高い周波数を使ってきましたが、遠距離通信実験には可能な限り、長めの波長(低めの周波数)のパラボラ・ビームを建設したいと考えていました。当時は波長が短い(周波数が高い)ほど日光の影響を受けて日中の到達距離が短くなると考えられていたからです。

現実的に建設し得るアンテナマストの高さは100m程度だと見積もられたため、実際に建てられたマストは325フィート(=99m)高でした。

そしてマスト間に渡したメッセンッジャー・ワイヤーから吊り下げる反射器や輻射器はタルミ分を考慮すれば少し短めとなり、その結果として、ポルドゥー短波実験局2YTの使用波長97m(周波数3.1MHz)が導かれたと、マルコーニ社が出版していた左図Marconi Review(1928年10月号)で明かされています。

While carrying out some duplex telephony tests across the North Sea between Southwold and Zandvoort in August, 1921, employing a 100 metres wavelength with about 1 kw to the aerial, it was found that good speech could be received every night and sometimes during the day at Oslo, some 450 English miles distant, and in choosing a wavelength for the tests at Poldhu these results carried some weight, particularly as 100 metres wavelength appeared to be about the maximum limit one could use with reflectors of practicable dimensions.

The logical order of testing also was to try out the longest wavelength first, particularly as it was then generally believed that the shorter the wavelength the less was the daylight range.

The height of the Poldhu masts was therefore increased to 325 ft (=99m) and allowing for the sag of the triatics supporting the reflector wires which fixed the maximum height of the reflector, the relation between the length of the reflector wires and the half wave aerial resulted in the wavelength finally used at the start of the tests being 97 metres. ("A chapter in the history of the marconi beam", Marconi Review, Oct.1928, p5)

長波の名門、ポルドゥーMPDが廃局となり、高さ100mもある巨大パラボラの短波実験局2YTにとってかわったのですから、これは短波開拓史、エポック・メイキングな出来事だったといえるでしょう。

3) ポルドゥー短波実験局2YT 完成 (1923年) [Marconi編]

下図は1923年(大正12年)頃に撮影されたポルドゥー(Poldhu)の巨大パラボラ・アンテナです。

この有名な巨大パラボラの写真は(フランクリン技師と短波用真空管を開発した)R.H. White氏が英国の雑誌Wireless World(1925年3月18日号, pp178-180)に書いた記事 "The Wireless Beam: An Explanation of the Theory of the System(ワイヤレス・ビーム:その理論解説)"、およびマルコーニ御本人が米国の雑誌Radio Broadcast(1925年7月号, pp323-331)に書いた記事 " Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?(ビームは無線界に革命をもたらすか?) "で初めて公開されました。

またこの写真は、日本では1933年(昭和8年)にコロナ社から翻訳出版された『短波無線通信 第一巻』 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦翻訳)の p13でも使われました。

昭和8年といえば、我国にはまだ短波通信の工学書が殆どない時代ですので、当時の電気系学生はもちろん、我国アマチュア無線家のあいだでも「マルコーニの短波ビームアンテナ」として良く知られていた写真だと考えられます。

左図は上の写真の一番手前に小さく写っている建屋の拡大です。これと比較して後方3MHzパラボラ・アンテナの巨大さが、ご想像頂けるかと思います。

ポルドゥー2YTのパラボラ・アンテナは99m高の4本の木製マストで支えられていました。ちなみに大阪のシンボルの一つでもある通天閣(左図[下])の高さは108mですが、(実は天辺の避雷針が8mあり、これも含めて108m高なので)塔部のみなら高さ100mだそうです。つまり通天閣の高さの垂直アンテナ(輻射器)があり、さらにそれをグルリと囲むように、同じ高さの反射器が複数並べて立てられていたわけです。

通天閣を取り囲む繁華街エリアは、昔より「新世界」と呼ばれていますが、この「新世界」がスッポリ、ボルドゥー2YTのパラボラ・アンテナになっている姿を想像すると、その巨大さに絶句しますね。

マルコーニ社のヴィヴィアン氏(R.N. Vyvyan)のOver Thirty Yearsと日本語のものを引用します。

Marconi therefore decided to carry out experiments on a larger scale. A short wave transmitter of 12 kilowatts input was erected at Poldhu and a parabolic reflector was built, supported by masts 325 feet high(325フィート=99m), so that wavelengths could be tried from 97 metres downwards. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., pp78-79)

マルコーニはさらに大規模の実験を試みることとなり、まずポルデューに一二キロワットの送信機と放物線的の反射器を三二五呎(325フィート=99m)の木柱によって支えて設置した。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)

4) ポルドゥー短波実験局2YTの送信室 [Marconi編]

図は反射器の焦点に吊り下げられた輻射エレメントの直下にある送信室と、その内部です。

ポルドゥー短波実験局2YTの設計責任者はC.S.フランクリン技師でした。発振機はマルコーニ社のMT2型真空管を8本パラで輻射器へ9kWが供給され、パラボラ反射器により120kW相当になると見積もられました。

The radiation from the aerial was approximately 9 kwatts. The parabolic reflector concentrated the energy towards Cape Verde and gave a strength of field in that direction which would have required a radiation of approximately 120 kwatts. from the aerial without a reflector to produce. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy: more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p611)

【参考1】 このあとフランクリン氏により平面ビームが開発されて、各国も独自方式の平面ビームを開発したため、いつしか巨大パラボラ・アンテナは忘れられてゆきました。平面ビームが真っ盛りの1932年(昭和12年)、マルコーニ社のA.W. Ladner氏とC. R. Stoner氏による書籍 Short Wave Wireless Communication(John Wiley & Sons, Inc, 1932) で上記の全景写真が使用されました。

【参考2】 「アマチュア無線家」のページで紹介しましたが、実はフランスのアマチュア無線家デロイ8AB氏は1923年春に短波受信機を組立てて、まだ建設・試験中だったポルドゥー2YTの100m試験電波をキャッチしたことが「短波にのめり込むきっかけ」だったそうです。そして彼は大西洋横断試験をポルドゥー2YTと同じ100m波で試すことを決断し、1923年11月27日に成就しました。

5) 南南西に向けられた2YTのビーム [Marconi編]

ところでポルドゥー2YTのパラボラビームはどこへ向けられているのでしょうか?

ここポルドゥーは1901年にマルコーニ氏が中波の電波で大西洋横断通信(対カナダ)に成功した場所ですから、当然今回もビームを北西(カナダ方向)にして、短波による大西洋横断試験を目指すのだろうと思ったら、そうではありませんでした

ビームはなんと南南西(南大西洋上)に向けられたのです!

図は雑誌Wireless World(1924年7月9日号, pp441-442)の "Short Wave Directional Wireless Telegraphy" という記事で使われた写真です。視界が広く開けた岬に位置するため、北西方向に向けられなかったのではなく、マルコーニ氏はあえて目指す陸地のない南南西(南大西洋)へ向けたのです。

そしてマルコーニ氏は自己所有のエレットラ号で航海しながらポルドゥー波を移動受信することを計画しました。各地に複数の受信拠点を準備して伝搬状況を観測するよりも、縦横無尽に洋上を移動航海しながら受信観測するほうがビーム性能を見極めるには都合が良いし、低コストで済むからでしょうか?

6) 洋上実験室エレットラ号 [Marconi編]

マルコーニ氏の電波実験といえば、なんといっても「エレットラ」号(700トン)の無線実験室が有名ですね。

マルコーニ氏が1919年に買い取り、その内部に立派な無線実験室を作り上げ、1921年にイタリア国に船籍登録した蒸気エンジン付きの大型ヨットです。マストには帆を張らず、アンテナ用にしたため、ヨットっぽく見えませんね。

エレットラ号は当時、「マルコーニの "洋上実験室" あるいは "浮かぶ実験室(Floating Laboratory)"」などと呼ばれていました。

マルコーニ氏は会社経営よりも、独りこの洋上実験室にこもって無線のことだけに没頭するのを至上の喜びとしていたそうです。

【参考1】下記文献には「1919年に、あるオーストリアの貴族がもっていたエレットラ号という大型ヨットを買い取り・・・」とありますが、正しくはオーストリアのステファン大公が所有していた「ロワンスキー号」です。第一次世界大戦が勃発すると、英国海軍に没収され、北海の掃海艇として使われました。終戦後の1919年にマルコーニ氏へ払い下げられ、そしてマルコーニ氏が「エレットラ号」と名付けています

『(第一次世界)大戦が終わると、フランクリンは、こんどは三極真空管を使い、(パラボラ)反射鏡も改良して、ずっと強力な短波をつくりだしました。いっぽうマルコーニは、一九一九年に、あるオーストリアの貴族がもっていたエレットラ号という大型ヨットを買いとり、これを改造して、海にうかぶ実験室として使うことにしました。エレットラ号は、長さ七十メートルもあるりっぱな帆船で、マルコーニはこれに何か月間も住める快適な設備をととのえ、電波実験用の装置もたっぷりそなえつけました。マルコーニはその後十五年にわたって、毎年のようにこの船で大洋にのりだし、電波を受けたり発射したりして、いろいろな実験をくりかえしました。かれの研究はおもにこの船の上ですすめられたのです。 (市場泰男, 『通信の開拓者たち』さ・え・ら伝記ライブラリー13, 1966, さ・え・ら書房, p209)

【参考2】マルコーニ氏の死後、同氏の手を離れたエレットラ号は、1943年にドイツ海軍に接収され、翌1944年に連合国の攻撃で損傷を受けて、現クロアチアのザダル(Zadar)付近で座礁しました。

戦後十数年経ち、同船の残骸は(当時の)ユーゴスラビア連邦共和国よりイタリアへ返還されましたが、あまりに損傷が激しく、イタリア郵政庁による修復計画はその高コストのために頓挫しました。さらに後年、再びイタリア政府による同船の修復プロジェクトが立ち上げられましたが、年月の経過で修復費がさらにかさむことが明らかとなり、ついに断念することが決まりました。

しかしエレットラ号は、マルコーニ氏が、短波の遠距離伝搬性を確かめ、昼間波の存在を見付け、さらに1930年代にはこの船で超短波の屈曲性を発見した船であることが世界中の電波関係者に知られています。無線史上に記されるべき「洋上実験室」といえます。この名誉ある老船をスクラップとして朽ち果てさせずに済む方策が望まれました。

1977年(昭和52年)4月18日、その輝かしい功績を後世に残こすために、エレットラ号はバラバラに切断され、イタリア各地の博物館や関係組織に配布され、それぞれで保管あるいは一般公開されることになりました。ほんの一例を挙げれば、船首部分はトリエステ(Italy)にあるArea科学公園(Area Science Park)に、船体の一部はラ・スペツィア(Italy)の海軍技術博物館(Museo Tecnico Navale)に、蒸気ダイナモはローマ(Italy)の郵便通信博物館(Museo delle Poste e Telecomunicazioni)に、そしてエンジンルームの一部はヴェネツィア(Italy)のヴェネツィア海洋史博物館(Museo Storico Navale di Venezia)に展示されています。

7) 巨大パラボラ・ビームの威力やいかに? アフリカへ実験航海 [Marconi編]

マルコーニ氏は完成した巨大パラボラ・ビームの腕試しを行うため、1923年(大正12年)4月から6月にアフリカ大陸の西に浮かぶカーボ・ベルデ諸島への実験航海を計画し、以下の三つの実験テーマを掲げました。

  1. それなりの長距離における、100m(3MHz)波の信頼性について、反射鏡が有り・無しの場合で確かめる。

  2. 短波の伝搬を調査し、送信した電力・波長における日中および夜間の実用最大距離を確かめる。

  3. 特に長距離ビーム通信サービスを行う可能性について、放射ビームの角度や広がりを決定しておく。

The principal objectives of these tests were:-

(1) To ascertain the reliability of signals transmitted on approximately a 100 metre wave over considerable distances with or without the use of a transmitting reflector.

(2) To investigate the conditions which affect the propagation of short waves, and to ascertain the maximum reliable ranges obtainable by day and by night in respect to the power and wave length employed at the sending station.

(3) To investigate and determine the angle or spread of the beam of radiation when employing a transmitting reflector, especially with regard to the possibility of establishing long distance directional wireless services. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p610)

エレットラ号に装備された波長97m(3.1MHz)の短波受信装置はマチュー氏(G.A. Mathieu)が設計を担当しました。受信機はスーパーヘテロダイン方式で、空中線はシンプルな垂直型とし、頂部の高さは海面から20mでした。

8) フィニステレ岬を曲がって陰に入る実験 [Marconi編]

1923年(大正12年)4月11日、いくつかの予備試験を終えてエレットラ号はファルマス港(ポルドゥーから北東20km)を出港し、最初の目的地であるスペインのフィニステレ岬(Finisterre)を目指しました。 フィニステレ岬はスペイン・ポルトガルから成るイベリア半島の北西角にあり、ポルドゥー2YTから840kmほどの距離です。 【参考】これは東京―札幌、あるいは東京―北九州ほどの距離です。

さて下図を御覧下さい。

ポルドゥーからイベリア半島の北西角をかすめるようにグレーの線をひいてみました。(図に向かって)グレーの線より右側(欧州大陸側)のポルトガルの海岸線沿いは、ポルドゥー2YTからはイベリア半島の山岳部のになります。

短波は直進性が強く障害物の後ろでは大きな減衰を受けると考えられていました。ほんとうに影エリアに廻り込むと聞こえなくなるのだろうか?最初にそれを試しておきたかったマルコーニ氏は、ポルドゥー2YTの反射鏡を降ろさせて、無指向性にしていました。

そしてエレットラ号はポルドゥー2YTを受けながらフィニステレ岬を曲がりました

・・・さて、どうなったのでしょうか。結局その予想に反して、ポルドゥー2YTの短波に大きな減衰は認められませんでした

After carrying out a few preliminary tests in Falmouth Harbour on the 11th April, the "Elettra" sailed for Cape Finisterre (Spain). A first series of tests was carried out without the transmitting reflector. After rounding Cape Finisterre it was anticipated that the intervening land would have cut off signals during daytime and also would have considerably weakened them during the night. These expectations were not verified. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p611)

9) 山岳地帯の真後ろなのに聞こえ続けた短波 (1923年4月) [Marconi編]

マルコーニ氏を乗せたエレットラ号はイベリア半島の南部(ジブラルタル海峡の北)にあるセヴィーリャ(Seville)を目指して、ポルトガルの海岸線沿いを南下しながら測定を続けました。この付近はイベリア半島の山岳部が障害物となるはずなのにポルドゥー2YTの信号は昼夜ともに聞こえ続けたのです。特に夜間は強力でした。

Signals during the day weakened according to the distance and the altitude of the sun, but were received right up to Seville (780 miles from Poldhu) although practically the whole of Spain, consisting of over 300 miles of high and mountainous land, intervened between the sending and receiving stations. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], pp611-612)

エレットラ号セヴィーリャ(Seville)で休息をとるためグアダルキビル川をのぼりました。図[左]を御覧下さい。

このあたりはスペイン・ポルトガルから成るイベリア半島の山岳地帯が、英国ポルドゥー2YTの方角を完全に覆い隠す位置関係にあり、2YTの電波は聞こえないだろうと予想されていた場所です。

そのうえエレットラ号は川の土手が高く、見通しの利かない(受信には不都合な)場所に係留されました。驚くべきことにそんな不利な条件にも拘わらず、夜になるとファルマス港を出港するときと同じくらい強力にポルドゥー2YTが受かり始めました!短波は障害物の後ろにも届くことが確認されました

セヴィーリャでの受信観測の結果は、短波が空から降ってくるとしか説明が付きませんでした。マルコーニ氏は短波も(中波のように)電離層に反射されることを確信したようです。

【注】まだその存在は証明されていませんでしたが、上空に電波を反射するヘビサイド層(電離層)があるとする学説は、無線界で広く支持され、信じられていました。

We started off from Falmouth, and even when we reached Seville and were anchored in the Gudalquivir River, a very unfavorable position for reception, as the banks of the river were high and covered with trees and buildings, we found that the night signals were almost as strong as they had been in Falmouth Harbor, 12 miles from Poldhu, although at Seville, the whole of Spain, consisting of over 300 miles of high and mountainous land intervened between the sending and receiving stations. (Guglielmo Marconi, "Will “Beam” Stations Revolutionize Radio?", Radio Broadcast, Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, p326)

10) イベリア半島の陰となるジブラルタル、タンジェ、カサブランカでも追試 [Marconi編]

そのあとマルコーニ氏は、欧州・アフリカの両大陸に挟まれたジブラルタル海峡に移動しました。セヴィーリャで2YTが想定以上の強さで受かったため、同じことが再現するかを試すためです。そしてジブラルタル(Gibraltar)、タンジェ(Tangiel)、少し離れたカサブランカ(casablanca)で、2YTの短波がイベリア半島の山岳部を乗り越えてやってくることをマルコーニ氏は確認しました。

【参考】 ポルドゥーからセヴィーリャが1,440kmで中国の上海-大阪間ほどの距離、カサブランカだと1,800kmで上海-東京間に相当。

もうひとつの成果は日中の実用距離は一定ではなく、太陽の高度に連動して変化することに気が付きました。すなわち(単に波長が短いほど減衰が大きくなるとする)有名なオースチン=コーエン実験式は短波には適用できないことを発見しました。

これらの試験はこれで完了として、いよいよ巨大ビームの性能試験の番です。

カサブランカ滞在中に、マルコーニ氏は反射鏡を取り付けるようポルドゥーへ電報を送りました。そしてマルコーニ氏を乗せたエレットラ号は最初のビーム試験場であるポルトガル領マデイラ諸島のフンシャル(Funchal)に向いました。

At Gibraltar (820 miles), notwithstanding the greater distance, a better strength of signals was noticed during the hours of daylight, probably in consequence of the fact that the yacht was anchored in a more open space, and therefore in a more favourable position. Similar results were also obtained at Tangiers (840 miles) and at Casablanca (970 miles).

I find it almost unnecessary to refer to the night signals, as these were always, and in all places throughout the whole of the cruise, extraordinarily strong and capable of being received at all times without using an amplifier, with the aerial out of tune, or disconnected, or without using the heterodyne. At Casablanca I telegraphed instructions to hoist the reflector aerials at Poldhu. (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p612)

11) マデイラのルイボ山の影にも届く、2YTのビーム波 (1923年5月中旬) [Marconi編]

マデイラ諸島ポルドゥーカーボベルデを結ぶ直線上にありました。

そして距離的にもポルドゥー・カーボベルデ間の中間点に近く、マルコーニ氏ら一行はマデイラ最大の都市フンシャル(Funchal)に停泊しました。

【参考】 ポルドゥーからフンシャルまでは約2,200kmで、東京から北京や台湾の台北までが約2,100km。

1923年(大正12年)5月17日、ポルドゥー2YTのアンテナに反射鏡が取り付けられて、試験が始まりました

この島には標高1861mのルイボ山(Ruivo)を中心とする山々があり、ポルドゥー2YT波がやって来る方向を塞いでいるため受信は困難だと考えられていました(図)。

しかし夜間になると2YTの電波が強力に受かり、目の前のルイボ山はまったく邪魔にならないようで、短波が空から降ってくるとしか考えられない受信状態でした。

昼間の伝播測定はエレットラ号で場所を変えて行われ、その結果、ポルドゥーの12kW送信機ならば最大1,250Nautical Miles(= 2,315km)まで昼間通信が可能だと判断されました。ちょうどフンシャルから南海上へ100km付近までの地点でしょうか。

The "Elettra" then proceeded to Madeira, but at Funchal was obliged to anchor in a very unfavourable position for the reception of wireless signals from England, being at the far end of the island and immediately under the mountains of Madeira, some of which rise to heights of over 6,000 feet.

On the 17th of May tests were recommenced between Poldhu and the "Elettra," but although the night signals were, as always, extremely strong, I considered it desirable to carry out daylight tests in positions not so completely screened by the immediate vicinity of mountains. Thus it was ascertained that signals could be received from Poldhu by day up to 1,250 nautical miles when that station was using 12 kw of energy. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p612)

12) 最終目的地セント・ヴィンセント島(カーボベルデ諸島)とは [Marconi編]

1923年5月21日、フィンシャルを出港。マルコーニ氏は最終目的地であるポルトガル領カーボベルデ諸島のひとつ、セント・ビンセント島 (St. Vincent)へ向かいました。

【注】中米カリブ海の独立国「セントビンセント及びグレナディーン諸島(Saint Vincent and the Grenadines)」にある、同名の島ではありませんのでご注意下さい

この島は欧州(ポルトガル)-南米(ブラジル)回線の海底ケーブルの中間陸揚げ地であり、またここからアフリカ大陸方面へも海底ケーブルを分岐させていました。つまりセント・ビンセント島は19世紀(1875年)より大西洋上における「有線通信回線の要所」として通信業界では広く知られている島であり、マルコーニ氏がここを最終目的地としたこはそんなに不自然なことではありません。サン・ヴィセンテ島(São Vicente)とも表記されます。

13) 2YTの短波がカーボベルデ(4,130km)に届く (1923年5-6月) [Marconi編]

カーボベルデ諸島(セント・ビンセント島)に到着した日は定かではありませんが、(フィンシャルの出港日から)5月末だと考えられます。

カーボベルデでは昼間は聞こえなくなりましたが、日没の少し前から聞こえ出しました。夜間は非常にパワフルに入感し、そして夜が明けた後も数時間は2YTが聞こえていました。

これは『夜だけ遠くに届く』という、中波で経験済みの現象に類似しているように思いました。

夜間の2YTは非常に強力で、スーパーヘテロダインのIFアンプをOFFにしても聞こえるほどだったとマルコーニ氏は報告しています。短波受信設備の設計担当マチュー氏はカーボベルデにおける2YTの夜間の電界強度を400から500μV/mだと推定しました。

夜間強度はフンシャルの時と大差ないように感じましたが、フンシャルまでの距離(1,250海里=2,315km)に比べて、カーボベルデまでの距離(2,230海里=4,130km)は二倍近くも伸びているので距離とその強度が体感覚的に反比例していないのはとても不思議なことでした

また英国のリーフィールド(Leafield)郵便局から海底ケーブルでカーボベルデへ届けられる国際電報はしばしば誤字脱字で判別できないことがあったため、マルコーニ氏は自分宛のメッセージはすべて2YTの短波で直接送るように指示しました。それほど2YTの短波が強力かつ信頼できる受信状態だったということです。

On the 21st of May we sailed for St. Vincent, Cape Verde Islands, and although at St. Vincent our anchorage was at a position partly screened by mountains, day-light reception was still possible for a few hours after sunrise and for some time before sunset. The night signals continued to arrive from Poldhu at all times with apparently unabated strength, notwithstanding that our distance had increased to about double what it was at Madeira, that is, to 2,230 nautical miles. At St. Vincent, as at Madeira, the Poldhu signals could always be received with the heterodyne or I.F. amplifier switched off. Mr. Mathieu estimated the strength of the night signals at St. Vincent from 400 to 500 microvolts per metre in the aerial, ・・・(略)・・・

At St. Vincent the signals received from the Post Office at Leafield were weak and often unreadable. I therefore gave instructions that all wireless messages addressed to me should be transmitted by our short wave experimental station at Poldhu. No difficulty was ever experienced in the accurate reception of these messages. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p612)

数日間測定を繰り返し、同一条件下なら常に同じ結果が得られ、一時的な現象ではないと考えられました。このほかに実験では周期の短いフェージングが観測されました。その原因についてマルコーニ氏は2YTの送信機の周波数の不安定さと、波に揺られるエレットラ号のスーパーヘテロダイン受信機の周波数の不安定さに起因するものではないかと考えました。

The signals by night or by day did not appear to be subjected to lengthy fluctuations in strength, nor inclined to give what have been termed freak results. The results obtained could always be repeated over the same distances under similar conditions in respect to the sun's altitude.

Short periodical fluctuations of strength, lasting less than a minute, were constantly observed, but I believe that these variations were mainly caused by slight changes of the wave length determined by imperfections of the arrangements in use at Poldhu, and also by the movements and rolling of the ship at the receiving end. (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p612)

14) 2YTをアマチュア局と同じ入力1kWまで減力してみた [Marconi編]

ポルドゥーからカーボベルデ諸島の南方沖合い海域にいたエレットラ号までの到達距離は2,230Nautical Miles(= 4,130km)で、これはすでに大西洋横断以上の距離にあたります。仕事のスケジュール上で、英国に戻る日程が決まっていたため、残念ながら「短波がどこまで届くか?の測定はできませんでした。もしさらに南下していたなら、もっと凄い遠距離記録を樹立していたことでしょう。

The range at this point was 2,230 nautical miles and quite obviously the signals were reaching to much greater distances. But Marconi's presence was required in London, so the yacht had to turn for home. (W.J. Baker, A History of the Marconi Company, 1972, St. Martin's Press Inc.[New York], p219)

そこでマルコーニ氏はポルドゥー2YTの送信機の電力を序々に減力するように指示しました。すると送信電力を1kWにまで下げても、まだ英国自慢の超大電力(200-300kW)長波局(英国の長波局カーナボンなど)よりも強く受かったのです。

月刊Radio Broadcast(1925年7月号)でマルコーニ氏はカーボベルデでの試験について次のように報告しています。

It is interesting to note that these night signals, received at St. Vincent, even when Poldhu was using only 1 kilowatt, were much stronger than those which could be received from the high-power station at Carnarvon or the British Government at station at Leafield (using 200 to 300 kilowatts) or from any of the other European or American high-power stations. (Guglielmo Marconi, "Will “Beam” Stations Revolutionize Radio?", Radio Broadcast, Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, p326)

マルコーニ社のヴィヴィアン技師も同じ事を述べています。

The signals were far stronger than those received on the long wave from either the Post Office station at Leafield, or the high power long wave station at Carnavon, even when the power of the transmitter at Poldhu was reduced to 1 kilowatt. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., pp80-81)

ここでいう1kWとは"入力"です。マルコーニ社のラドナー氏の文献に、はっきり"入力"とあります。アマチュア局と同じ電力を試しました。

『・・・(略)・・・昼間は夜間に較べれば遥かに弱くはあったが、ほとんど24時間を通じて商業通信に充分使用できる位に受信できた。これらの結果はPoldhuの送信機の入力が僅かに1kWで得られたのである。距離に応じて減衰が変化する模様からみて、夜間はブラジルとの間に確実な商業通信を行うことが出来るであろうという事が推論された。この試験の結論として、100米以下の電波はかなりの長距離通信に使用しても信頼でき、夜間は特に確実である事が分かった。(ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦翻訳, 『短波無線通信』, 1933, コロナ社, p15)

Ladner氏の原書(1933年)のほうも引用しておきます。

『・・・(略)・・・were sufficiently good for commercial traffic purposes during nearly the whole 24 hours, although they were much stronger by night than by day. These results could be obtained with only 1 kW. Input power at Poldhu. From the way in which the attenuation varied with distance it was deduced that a reliable commercial service could have been worked to Brazil during the hours of darkness, and the tests showed conclusively that waves below 100 metres were capable of giving reliable results over considerable distances, especially at night. (A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1933, John Wiley & Sons Inc., p15)

1年前にIRE/AIEE講演会で短波の有効性を公言したマルコーニ氏は、この1923年春にわずか入力が1kWしかない短波が電離層反射で遠距離まで届くことを実証しました。それも "小電力+パラボラ・ビームの短波" が、"大電力の長波" より勝っていたといいます。

15) 逓信省のドキュメントにも記録された巨大短波ビームの威力 [Marconi編]

マルコーニ氏の巨大短波ビームとエレットラ号の実験は、逓信省が1931年(昭和6年)にまとめた『世界の無線電信と米国無線電信政策』にも収録されていますので、その部分を引用します。

一〇〇「メートル」以下の短波長は、それによって送られる信号の受信が不規則なるの故をもって、永らく貧弱で効果なきものと考えられていたが、疑いもなく有用なものなることが判ってきた。

千九百十六年、これらの短波についての実験はその発電機関たる真空管送信機の発明により開始された。・・・(略)・・・距離を延長せしむるものは何でも「マルコニ」の心を惹いた。そしてその間自己の「ヨット」の「エレットラ」号に乗って長い航海をしながら、新現象を探求し専心した。

信号の力を増大させるためには、彼は彼の初期の実験に試みた様なものに(それは実に「ヘルツ」自身が試み完成したものである)逆戻りしようと思った。 ― 彼は空中線の後に一個の電気反射器を装置することにより、信号を一方向に集中させようと思った。・・・彼はこの集中された信号を無線「ビーム」と名付けた。

千九百一年、彼の大西洋横断「S」を送信した無線局の所在地たる「ポルデュ」に彼は千九百二十三年、新短波「ビーム」実験局を建設した。彼は電力十二「キロワット」、九十七「メートル」の波長で同局から送信されるのを、日中は一二五〇哩(1,250海里)、夜間は二三二〇哩(2,320海里、【注】正しくは2,230海里)の距離にて聴取した。空電は長波長の場合に聞こえるよりも遙かに減少された。(逓信省電務局編, 『世界の無線電信と米国無線電信政策』, 1931, pp102-103)

逓信省は夜間2,320哩(マイル)と記録していますが、これは2,230海里の誤記です。でもちょっと気になったので、この件を調査してみたところ、逓信省が利用したネタ本"The Electric Word - The Rise of Radio"(1928年出版)が発掘できました(左図)。

以下に逓信省の記述と対応させて引用しておきます。どうやら既に原書の方誤ってようです。

The short waves, down below 100 meters, which had long been considered poor, inefficient, because of the irregularity with which signals carried by them had been received, had been revealing themselves capable of unsuspected achievements.

Experiments with these waves had been begun in 1916, following the advent of the tube transmitter which made their generation feasible. ・・・(略)・・・ Anything that would increase distance attracted Marconi, and in those years he was hard at work, investigating the new phenomena, taking long cruises in his yacht Elettra.

To increase the strength of the signals, he proposed to go back to something he had tried in his earliest experiments (that, indeed, Hertz himself had tried and accomplished) - he proposed to focus them in one direction by placing an electrical reflector behind his antenna . . . he called this focused signal a radio "beam."

At Poldhu, site of the station which had sent his 1901 trans-Atlantic "S," he erected a new short-wave "beam" experimental station in 1923. He heard signals sent from it on 97 meters at 12 kilowatts power 1250 miles by day, 2320 miles(注:2230海里の誤記) by night . . . static was reduced far below that heard on long waves. (Paul Schubert, The Electric Word : The Rise of Radio, 1928, The Macmillan Company [New York], p270)

正しくは昼間が1,250海里(2,315km)で、夜間が2,230海里(4,130km)です。下記書籍は正解です。

従来の実験によると、短波長による通信距離は昼間は極めて変化しやすく、かつ短距離であり、夜間の通信距離もまた非常に変化しやすいというのが定説であった。しかしながら、エレットラ号上の実験はこの定説が誤りであることを証明した。マルコーニは南大西洋のセント・ヴィンセントまで航行して実験した結果は、昼間試験においてポルデューを去る一、二五〇浬(=2315km, マデイラ付近)の距離で信号を受信し、夜間試験においては二、二三〇浬(=4130km)の距離において驚くべき程の強度をもって受信した。(岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p352)

マルコーニ氏は帰国直後(1923年6月)のプレス発表や、同年12月3日のマルコーニ社の年次ミーティングの席上では例外的に2,250海里」と語っています。文献によって2,230海里のものと、2,250海里のものがあるのはそのためです。

しかし1924年以降のマルコーニ氏は「2,230海里」(4,130km)と発表するようになりましたので本サイトも2,230海里に従っています。

16) 帰国時の発表では省電力・ローコストばかりを強調したマルコーニ社 [Marconi編]

その例外的な「2,250海里」は帰国の際の発言でした。

1923年(大正12年)6月14日、カーボベルデから英国サウスハンプトンに戻ったマルコーニ氏は、ポルドゥー2YTの電波をカーボベルデで受けたことをプレス発表しました。そしてこの長距離通信成功の大ニュースは英国だけでなく全世界へ報じられたのです。

左図は6月16日付けのオーストラリアの日刊紙The Daily Newsです。マルコーニ氏は短波ビームを使用したことには触れておらず、"more efficient production of waves"(効率的な電波の生成)と説明し、長波と比べて小さな電力で済むので通信コストの低減が期待できると強調しました。

マルコーニ氏が2箇月ぶりに実験航海から戻ってきました。大きな前進があり満足いくものだったと、次のように語った。私達は、2250海里の距離まで、従来に比べて、より早く、より低電力でメッセージを送信できました。現在パリ-ロンドン間で使っている電力よりも、小さいパワーをカーボベルデ-ロンドン間で使ったのです。これは電波を効率的に作ることで行われました。

私達の発見は、将来、長距離無線局が低コストで建設されて、現在よりもずっと安価で高速にメッセージが送られることを意味しています。プレスや市民は、最終的に値下げされた料金で恩恵を受ける可能性があります。』と伝えています。

LONDON, June 15.

Signor Marconi has returned after a two months' cruise, in which he carried out a series of important experiments in wireless. He says the results were most satisfactory, and constitute a great forward step.

“We transmitted,” he said, “messages for a distance up to 2,250 miles with a much smaller power and at a faster rate than ever before. We used less power in sending more rapid messages between Cape Verde and London than we are now using between Paris and London. This was done by more efficient production of waves. Our discoveries mean that long-distance wireless stations in the future will be built at reduced cost, and signals sent much cheaper and faster than now. It is possible the Press and public will ultimately benefit by the reduced charges.” (”Wireless Wonders: Marconi’s Latest: Smaller Power, Faster Rate.”,The Daily News , June 16, 1923, p16)

図は英国の無線週刊誌Wireless World(1923年6月23日号)です。

マルコーニ氏がフンシャルカーボベルデでの実験を終え、6月14日にサウスハンプトンに戻ったと伝えています。

Senatore Marconi's Experiments.

On June 14th Senatore Marconi arrived at Southampton on his yacht Electra after two months' experimenting at Funchal and Cape Verde. It is understood that his researches have been devoted to directional wireless telegraphy and the elimination of interference. ("Senatore Marconi's Experiments", Wireless World and Radio Review, June 23, 1923, p388)


米国の無線週刊誌Radio World(1923年6月30日号)の記事ではエレットラ号が廻った地名の中にカナリア諸島だと思われるテネリフェ(Tenerife)が含まれています。

(しかしテネリフェには立寄っていない可能性があります)

During this cruise the yacht "Electra," on which the experiments were conducted, touched at Seville(セヴィーリャ), Gibraltar(ジブラルタル), Tenerifeテネリフェ, Tangier(タンジェ), Casablanca(カサブランカ) and Madeira(マデリア). Thence the yacht went to St. Vincent, Cape Verde Islands(カーボベルデ). 』 ("Marconi Experiments With Directive Radio on New Wave", Radio World, June 30, 1923, p2)

当初、このカーボベルデへの遠距離試験に関して、マルコーニ社は指向性通信と混信除去の実験だとするだけで、使用した波長(周波数)には触れていませんでした。

17) 「短波開拓の栄誉」と引き換えに、家族を失ったマルコーニ [Marconi編]

マルコーニ氏は1916年以来、短波の開拓に全精力を注ぎ、1923年5-6月にはついに電離層反射による低電力遠距離ビーム通信に成功しました。しかし家庭を省みなかったマルコーニ氏は「短波開拓の栄誉」と引き換えに、家族を失いました。

短波ビームに没頭しはじめた1918年家族写真です(左図)。

  • 左端:Denga [長女, 1908 - 1998]

  • 中:Beatrice [妻, 1882 - 1976]

  • その右:Gioia [次女, 1916 - 1996]

  • 右端:Guglielmo Marconi [マルコーニ本人, 1874 - 1937]

  • 後方:Giulio [長男, 1910 - 1971]

カーボベルデでの観測開始の明確な日付は明らかになっていません。

1923年5月17日から21日までマデイラのフィンシャルで実験し、カーボベルデに向っています。カーボベルデではX日間滞在し試験を繰返しました。フィンシャルには5日間いたことから、カーボベルデには同等かそれ以上いたのでしょう。そして6月14日には英国に帰国したことが新聞や雑誌記事ではっきりしています。

またのちに娘デーニャが出版した書籍『父マルコーニ』によれば、マルコーニ氏が妻ベアトリスに送った6月6日付けの手紙には「ケープ・ベルデまでの船旅は素晴らしかった」と過去形で書かれています。カーボ・ベルデでの実験を終えた帰路に、食料や燃料の補給で立ち寄った、どこか・・・(例えば)ジブラルタル等の港町で投函された手紙ではないでしょうか。

その(1922年の)夏、父が私たちと過ごしたのは週末一度だけだった。・・・(略)・・・私が14歳になった時(1922年秋)、父はもう私たちに会いに来なくなり、家族の一員であることをやめたとしか思えなくなった。母は私たちの将来についても父に相談せず、自分一人で決めることにしたのだと、私は理解した。・・・(略)・・・

奇妙なことに父は、自分の妻の感情に気づいていない様子だった。短波実験は続行していて、大規模な開発のためエレットラ号でアフリカ沿岸沖にあるケープ・ベルデ島に向った。現在私の手元に残っている1923年6月6日付の手紙を読むと、その時点でもなお父は、母が献身的に自分の仕事の苦楽を共にしてくれていると、信じきっていたことが窺える。・・・(略)・・・

親愛なる(妻)ベアトリスへ

ケープ・ベルデまでの船旅は素晴らしかった。かけた時間と費用に値する特筆すべき成果(短波の電離層による低電力遠距離ビーム通信)だった。前回の十分の一のエネルギーで2500マイル先まで信号が送れるようになり、一方向のみへの送信も可能になった。 」・・・(略)・・・

1923年、まさにこれら一連の実験を行っている最中、母は父に離婚を求めたのである。ここ数年家族を省みなかったとはいえ、父は離婚など考えてもみなかったに違いない。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp278-281)

以上を勘案すると、1923年5月末から6月初頭に掛けてカーボベルデで観測試験をしていたと想像できます。

18) 年末になってから、短波ビームによる遠距離通信だったと公表 (1923年12月3日) [Marconi編]

1930年(昭和5年)に発行された逓信省の『無線電信無線電話事業ノ沿革及現況』にある"無線電信無線電話年表"の1923年には以下のように記録されています。

大正12年(1923年) マルコニー、短波ビーム式の効果を予言す。 (逓信省編, "無線電信無線電話年表", 『無線電信無線電話事業ノ沿革及現況』, 1930, 逓信省, p13)

6月のカーボベルデより帰国した時点では短波を使ったことは伏せられていました

1923年12月3日、マルコーニ氏はロンドンで開かれた年次ミーティング(Annual Meeting)の席上、5~6月におこなった、カーボベルデへの実験航海は短波ビームシステムによるものだとし、その成果についてあらためて詳しく説明しました。

米国の無線月刊誌Radio News(1925年9月号)にあるA. H. Morse氏の連載記事"History of Radio Inventions"が、マルコーニ社の12月3日の発表を分かりやすくまとめていますので、以下引用します。

CHAPTER VIII

BEAM AND SHORT―WAVE RADIO

In an address to the shareholders of Marconi's Wireless Telegraph Company, Limited, on December 3, 1923, Senator Guglielmo Marconi made the following statement in reference to beam signalling:

"This system is, I believe, destined to bring about somewhat of a revolution in the methods hitherto employed for communicating by wireless with distant countries. According to this system the electric waves which carry the messages are projected and propagated in a beam in any desired direction only, instead of being allowed to spread around in all directions. The advantages of the new method are at least four-fold, because:

"1. Due to the better utilization and concentration of power a much smaller amount of electrical energy need be employed for a given distance, resulting in a substantial economy in capital and working expenses.

"2. Only stations inside a certain restricted angle or sector are enabled to receive, and this increases the privacy and secrecy of communication, besides greatly reducing the possibility of mutual interference with other stations.

"3. Owing to the employment of comparatively short waves, the speed of transmission and reception can be several times greater than what is attainable with existing long-distance systems.

"4. The disturbance caused by the effects of atmospheric electricity are greatly minimized.

"During the tests which I have already referred to, communication was successfully carried out on this system between England and many places abroad, including St. Vincent (Cape Verde Islands), up to a distance of 2,250 nautical miles, by the employment of only a fraction of the electrical energy hitherto found necessary to cover such distances. I am now completing, arrangements which will enable me to give this system a thorough test between England and the United States of America." (A.H.Morse, "History of Radio inventions", Radio News, Sep.1925, Experimenter Publishing Company, pp.296-297)

マルコーニ社が考えるビームシステムの利点とは、こういうことでしょうか。

  1. 輻射電力を集中させれば、より低出力の送信機で事が足りるため、経済効率が高まる。

  2. 対手局へビームを絞るので、通信の秘密性が向上する。また受信においても他からの混信が減る。

  3. 短波だと、従来の長距離間通信に対して、単位時間あたりの通信量の向上が期待できる。

  4. 短波は長波に比べて空電妨害が劇的に減少する。

そして短波による大西洋横断試験を近日中に行うことを匂わせました

私が既に行ったテストでは、英国から2250海里離れたカーボベルデを含む各所において、通常必要な電力に比べて、ビースシステムだとほんの僅かの電力ですみました。そして私は英国とニューヨーク間で徹底的な検証を行う準備が完了しております

19) 短波によるビーム通信が世界に報じられる [Marconi編]

この短波による遠距離ビーム通信成功のニュースは、"12月3日 ロンドン発"として全世界に伝わりました。

特にオーストラリアでは1923年12月4日より「第一回 オーストラリア無線・電気展示会」(The First Wireless and Electrical Exhibition in Australia)がシドニーのタウンホールで開催されていたこともあり、大きな注目を浴びたようです。

左図左から1923年12月5日付けの、オーストラリアの新聞、The Telegraph紙(Page 3)、The Mercury紙(Page 7)、The Daily Telegraph紙(Page 5)ですが、このほか多くのオーストラリアの新聞がマルコーニ氏によるビーム通信の成功を伝えました。

こうして短波ビームを用いることで、1kWというアマチュア並みの小さな電力で、マルコーニ氏が遠距離通信に成功したことは戦前の日本電気通信史話に記されています。

マルコニーは短波の研究に於て、西暦一九二三年(我大正十三年)[注:原文まま。大正12年の誤記]ビーム式空中線即ち電波を一方向に集中発射する空中線および之に用いる短波送信機を考案し、小電力を以て遠距離通信を容易に行うことに成功した。(奥谷留吉, 『日本電気通信史話』, 1943, 葛城書店, p231)

アマチュアによる短波の大西洋横断通信は1923年11月27日ですが、このマルコーニ氏の試験はその半年前である1923年5-6月です。つまりマルコーニ氏の方がアマチュアより先に、短波による小電力遠距離通信を実証しています。

しかしこの遠距離到達性能が「巨大パラボラの力」なのか、「短波の力」なのかを、マルコーニ氏の試験では切り分けできませんでした。それを明らかにしたのは1924年秋~25年(大正13年秋~14年)のアマチュア無線家達の活動です。アマチュア達が「小電力+無指向性アンテナ」で遠距離通信を次々と成功させたからです。

ただし確実性が求められる商業通信の世界では小電力というわけにもいかず、このあと専ら「大電力+ビームアンテナ」の道を進むことになります。

20) カーボベルデ通信を紹介する戦後の書籍 [Marconi編]

  • 『日本無線史』(電波監理委員会, 1951)

ポルドゥー2YTの巨大パラボラによるカーボベルデへの試験について、第二次世界大戦後では、我国の電波正史ともいえる『日本無線史』(第五巻)記録されています。

一九二三年(大正十二年)頃より世界各国は競って短波無線の研究に努め、一九二四年マルコニが一八キロワットの電力を以って英豪(オーストラリア)間短波無線通信に成功したのを始めとして、一九二五年(大正十四年)頃よりは大西洋横断通信に長波の補助として短波が実用されるようになった。

マルコニは探海燈を照らすに用いられたと同種の反射鏡を使用して短波を一定の方向にのみ強力に発射する指向式無線電信に成功した。一九二四年(注:1923年の誤記) マルコニがポルデュ局でケープ・ヴァ-ドとの実験に使用した反射鏡はこの型であった。

この実験の結果、同年夏、郵政庁とマルコニ会社との間に契約を締結し英国に於いて短波指向式無線局(ビーム式無線局)を同会社の手で建設し、同じく会社によってカナダ、豪州、南阿(南アフリカ)、印度(インド)に建設される同様の無線局との間の通信にも使用する契約が成立した。・・・(略)・・・

長波時代に於いては長距離通信上有効な波長帯は僅かに一五〇を出でず、世界各国をして波長の先取争奪のために猛烈な競争を行わしめることとなったのであるが、短波の実用化によって、世界の長距離通信は大なる相互混信を惹起することなく、通信事業経営上にも負担の軽減をきした。(電波監理委員会編, 『日本無線史』 第五巻, 1951, p280)

【注】 これにある「ケープ・ヴアード」とは、我国における、Cape Verde(カーボベルデ)の昔の読み方です。

  • 『通信の開拓者たち』(市場泰男, 1966)

サイエンスライター/翻訳家として著名な市場泰男氏が1966年(昭和41年)に出版された『通信の開拓者たち』は、"有線電信のモールス"、"有線電話のベル"、"無線電信のマルコーニ"、"無線電話のド・フォレスト"の4名にスポットライトを当てた伝記本です。日本のマルコーニ氏の伝記本がどれもノーベル賞を取る(1909年)までの話で終ってしまう中にあって、マルコーニ氏の短波開拓まで話題が続く、異色の一冊です

図[右]の写真は1931年10月にイタリア政府へUHF無線回線のデモンストレーションするためにサンタ・マルゲリータ・リーグレの別荘Villa Repelliniのバルコニーに建設した4列ヘリンボーン反射器の前に立ち電界強度を測定しているマルコーニ氏です。ただし本文の中では1930年代のUHF開拓には触れていません。

『(第一次世界大戦にイタリアも参戦し)愛国心にもえるマルコーニは、専門の無線電信でいくらかでも国のお役にたちたいと考えました。今までの無電は、戦場の通信にたいへん役立ちますが、電波を四方八方へ送り出しますので、ぬすみ聞きするのは簡単ですし、敵の電波で妨害を受けやすいのです。マルコーニは、敵にぬすみ聞きされないような新しい無電の方法を実用化したいと思いました。・・・(略)・・・

マルコーニは、イタリアで自分の研究をすすめるいっぽう、イギリスにいる研究所の技師チャールズ・フランクリンに命じて、短波を使った通信の技術を研究させました。若いフランクリンは、一九一六年からこの研究をはじめ、はやくもあくる年には、ロンドンとバーミンガムのあいだで、短波通信の実験に成功しました。・・・(略)・・・

マルコーニとフランクリンの努力のおかげで、一九二三年春には、イギリスのポルジューから出た波長九十七メートルの短波が、電離層に反射して、四千キロもはなれた西アフリカのダカール沖、(カーボベルデの)サンビセンテ島にいたエレットラ号までとどきました。このとき発信局(ポルドゥー2YT)の電力は、わずか十六馬力でした。あくる年の五月には、ポルジューから出た短波はオーストラリアのシドニーや、南アメリカのブエノスアイレス、リオデジャネイロまでとどきました。その十月には、波長三十二メートルの短波を使い。ポルジューとブエノスアイレス、ニューヨーク、モントリオール、シドニーのあいだで、昼間も自由に通信をつづけることができました。このときの電力はたった十二馬力でしたが、もしも長波でおなじ通信をしたら、その一万倍以上の電力が必要だったろうといわれます。

この成功で、短波を使った長距離通信は、費用の点でも確実さの点でも、海底電線を使う電信よりずっとすぐれていることが、はっきり証明されました。(市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13『通信の開拓者たち』, 1966, さ・え・ら書房, pp209-210)

  • 『兵どもの夢の跡』(田丸直吉, 1979)

海軍鑑政本部の技術少佐だった田丸直吉氏が、海軍無線の開発の歴史を明治・大正・昭和の三期に分けてまとめたもので、海軍無線史研究者の間では有名な1979年(昭和54年)に出版された書です。ごく一部ですがマルコーニ氏の短波にも触れています。

大正時代の後半に真空管が実用期に入った。この真空管というものが出来てから色々な周波数の発振が容易に得られるようになり、当然の帰結として電磁波の広範囲な領域にわたって各種の実験が行われるようになった。・・・(略)・・・

大正9年(1920年)にマルコーニは(ホーリーヘッドでのアイリッシュ湾横断試験など)15メートル(20MHz)の波長で通信試験を行ったという記録はあるが、この当時はまだ真空管も良いものが得られず定性的な実験しか行われなかった。大正12年(1923年)になって彼は100メートルの波長の電波の伝播状況を調べるためにヨット「Elettra」に受信機をつみ込んでポルドゥからの発射電波を受けながら距離を計っていった。その結果昼間でも1200マイル迄完全に信号を受けることが出来た。そして夜間にはこの倍以上の距離でも充分に感度のあることが確認された。明治35年にケネリーおよびヘビサイド両氏によって提唱された電離層存在説はじらい一つの仮説として扱われていたが、その考えの正しいことがこの頃になってようやく実証される段階になって来たのである。(田丸直吉, 『兵どもの夢の跡(日本海軍エレクトロニクス開発の歴史)』, 1979, 原書房, p141)

  • 『グリエルモ・マルコーニ』(キース・ゲデス著/ 岩間尚義訳, 2002)

マルコーニ研究家であり、JARL評議員としても活躍されたJR1TRW岩間尚義氏も、"Guglielmo Marconi:1874-1937" の翻訳者としてマルコーニ氏の短波開拓を日本に紹介されました。またハムフェアでは(クラブブースを通じて)アマチュア界へマルコーニ氏の啓蒙活動にも尽力されたそうです。なお筆者のキース・ゲデス氏は数学者として有名です。

波長97メートルで運用する実験用送信機がポルデューに建設されて、大きなパラボラ型反射器で、南西方向への指向性が信号に与えられました

そして、マルコーニは1923年の4月に、受信調査のために、出港しました。距離が遠くなると、信号強度は、初めは、急速に低下し、次いで元に戻ること。そして4,000キロメートル離れたエレットラでの航海で、最も遠い地点では、夜間におけるポルデューの短波送信機からの信号は、その電力を1キロワットに減らしても、英国の何処の大電力長波送信機からの信号よりも、強力であることが、判明しました(キース・ゲデス著/岩間尚義訳, 『グリエルモ・マルコーニ』, 2002, 開発社, p77)

  • 『父マルコーニ』(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/ 御舩佳子訳)

この他に翻訳ものとしては、『父マルコーニ』 (Degna Marconi Paresce, Marconi, mio padre, [Milano] A. Mondadori, 1967)があります。短波に関するトピックスはアームストロング氏の「失われたチャンス」から引用している部分が多いように思えますが、娘が筆者ということでマルコーニ氏の私生活を克明に伝えた珍しい書籍です。

1923年春ケープ・ベルデ島への旅で、ポルデュー短波局に設置されている短波送信機から97メートル波長で発信された電波の受信に成功した。日中は1400マイルからの信号はフェーディングしたが、夜間には2500マイルという距離でも、長波局から発信された信号よりポルデュー短波局の信号強度の方がずっと強かった。

マルコーニは、信号はポルデューの日の出の数分後まで続き、ケープ・ベルデ島の日没少し前に再び受信できることに注目した。何らかの未知の現象が短波帯に作用するのではないかと考えたマルコーニは、イギリスに戻るとさらに広範囲な実験計画を練った。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p280)

短波開拓の成果を学会発表

昼間波を発見する