マルコーニ あとがき

日本で流行った「ある評価」お薦め伝記本など

パラボラ式無線機の実験

短波から中波へ

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

船舶無線ほか

マルコーニは何も新しいものを発明していない

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あとがき 目次

1)戦後の日本で流行った、ある「マルコーニの評価」

1-1)「マルコーニは何も新しい発明をしていない」ー これって、お約束事?

は、工学部の学生だった頃「素人はマルコーニの伝記を読み、彼を尊敬するかもしれないが、マルコーニは何か新しいものを発明したわけでなく、先人の研究を組み合わせただけだ。」とか、「マルコーニは技術者というより、実業家なんだよ。」と、通ぶった発言をして得意がったものでした。

昭和40年代のあの頃はマルコーニ氏に対するそういった評価(彼自身の発明ではなく、他人の発明の"寄せ集め"に過ぎないとする批評)記事が結構あったような気がします。60歳以上の方なら一度はこういった論調の記事を読まれたことはないでしょうか?

(ですのでマルコーニ氏をこのように評するのが、ある種の「お約束ごと」みたいなものだったような気もするのですが、それはチョット言い過ぎですかね?

1-2) そもそも「何も新しい発明ではない」発言はどこから出たの?

そこで、この言葉の「そもそも(起源)」を調べてみました。

すると1898年にドイツのスラビー教授が書かれた雑誌記事の中にヒントが見つかりました。スラビー教授はドイツの無線研究者で、1897年に英国のマルコーニ無線を視察したあと、ドイツ帝国の国策無線機会社「テレフンケン」の創始者のひとりとなられた方です。

マルコーニの公開実験(1897年の実験)に立ち会った人の中に、ドイツのベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学のスラビー教授がいた。彼はドイツ皇帝の命を受け実験に立ち会ったが、自分が100m程度しか届かなかったのに、マルコーニは数キロメートルもの通信に成功しているのを見て、驚きまた賞賛した。 (若井登, マルコーニの手紙, 『電波受験界』, 2002.1, 情報通信振興会, p113)

スラビー教授はマルコーニ氏のデモを見帰国したあと、米国の月刊誌The Century Magazine(1898年4月号, pp867-874)にマルコーニの無線の記事を書きました。自分100mほどしか飛ばせなかった無線を、マルコーニ氏は誰も思いも付かなかった方法で飛躍的に到達距離を伸ばしたと大絶賛しました。

そのスラビー教授の雑誌記事を引用している書籍『マルコーニ(誠文堂新光社, 1941)から紹介します。

『 (1896年12月11日に英国トインビーホールでプリースGPO技師長が大々的にマルコーニの無線を紹介すると)一八九七年の一月、各国の新聞はマルコーニの最初の成功を掲載したが、ちょうどそのころ私も同問題について種々研究していた。私の空中電信は百メートル位しか送信できなかった。マルコーニが今まで知られていた方法に何か新しい工夫を加え、何キロという長距離へ送信することができたのだと直感した。さっそく私は決心してイギリスへ出かけた。英国電信局では大規模な実験をしているのだ。

私は逓信省の技術部長プリース氏の肝入りで特にこの実験に立ち会うことを許された。そして事実、私は全く新しいものを発見した。マルコーニは一つの発見をしたのだ。彼は以前、誰も考えついたことのない方法で研究していたのだ。そういうより他にマルコーニの成功の説明のしようがない。

ある英国の専門雑誌が、マルコーニ法にはなにも新しいものがない。ヘルツ波を空間に放射しただけだ。すべて以前から知られていた方法ばかりだ。と書いている。

そうだ。私にも解っていたのだ。それだのに私には百メートルしか送信できなかった。マルコーニはまず使用する機械を功に整備し、最も簡単な方法で、最も大きい効果を挙げ得るようにしたのだ。次に彼は、一方を接地、他方を空中線に繋ぐことよってのみ、かかる通信方法が可能であることを示したのだ。この簡単な、しかも非常に効果的な方法で電力の放射力を数百倍にもしたのである。』(Orrin E. Dunlap(著)/森道雄(訳),『マルコーニ』, 誠文堂新光社, 1941, p62

1-3) 英国のある雑誌がマルコーニのデモにケチを付けたのが起源

このスラビー教授の記事によると、英国の雑誌がマルコーニ氏のデモンストレーションにケチを付けているようですね。

そこで原書The Century Magazine(下図:1898年4月号, pp867-874)スラビー教授の記事を読んでみました。上記日本語訳に相当する部分は、下図の赤字部だと考えられます。

1898年スラビー教授の雑誌記事

「英国専門誌がマルコーニの新規性否定(deny noveltyキャンペーンやっとるよ」って感じですかね。

In the English professional journals an attempt has been made to deny novelty to the method of Marconi. (A. Slaby, "The New Telegraphy", The Century Magazine, Century Co. [New York], p871)

1-4) しかしスラビー教授はマルコーニを絶賛(1898年4月)

ここまでの調査で分かった「何も新しい発明ではない」の起源をまとめておきます。

1896年(明治29年)12月11日に、英国トインビーホールにてプリース技師長がマルコーニ氏の無線を詳しく紹介したところ、(雑誌名を特定できませんでしたが)英国の専門雑誌が「あれは先人の発明の寄せ集めで新規性はない」とネガティブな評価を書いたのが「そもそも」で、それが風評を生んだようです。

しかしながら、のちにマルコーニ社のライバルになる「テレフンケン社」の創始者のひとり、スラビー教授は雑誌The Century Magazine (1898年4月号, pp867-874)で、マルコーニ氏の無線が(自分には成し得なかった)画期的な発明だと讃えているのです。英国雑誌のネガティブな風評に対し、無線の世界的権威のひとりスラビー教授からこのような反論があった事を日本では全く伝えていないように思います。

1-5) マルコーニが新聞紙上で反論(1897年8月8日)

英国といえば、(マルコーニ氏よりも先に)リバプール大学のロッジ教授が、ブランリーのコヒーラが電波検出器として使えることを発表したり、プリース技師長が電磁誘導方式でブリストル海峡横断伝送(約5km)を成功させるなど、英国はこの手の研究のトップ・ランナーでした。

英国トインビーホールでの講演から半年たった1897年(明治30年)6月4日、プリースGPO技師長は英国王立研究所(The Royal Institution)にてマルコーニ氏の無線システムを再び絶賛しました(William Preece, "Signalling through Space without Wires", June 4,1897, Proceedings of the Royal Institution of Great Britain, vol. XV, pp.467-476。しかし地元英国にはマルコーニ氏の無線電信の発明を快く受け留めることができない学者や知識人らが少なくなかったようです。彼は大学を出てないし、23歳の若造で、おまけに外国人(イタリア人)だからでしょうか?

そのころ米国ニューヨークのNew York World 新聞社が、設立間もないマルコーニ社("Wireless Telegraph and Signal Company"、1897年7月20日設立)に対し、ロンドンのセントポール大聖堂からパリのエッフェル塔への通信デモンストレーションの企画を持ち掛けました。【注】結局、この無線実験の契約は不成立だったようです。

そしてマルコーニ氏からのNew York World 新聞社への返書が、同紙(1897年8月8日)に掲載されました。まず自分へのネガティブ・キャンペーンを謙虚に受け留め「先人の発明に私が改良を加えた」としました。しかしこの前置きに続いて、自分の「独創的な発想と改良」が重要な役割を果たし、成功への鍵となったことを述べています

My discovery was not the result of long hours and logical thought, but of experiments with machines invented by other men to which I applied certain improvements.

1-6) プリース技師長マルコーニを擁護して反論(1897年8月8日)

またこのNew York World 紙(8月8日)には英国郵政庁のプリース技師長への取材記事も同時に掲載されています。去る6月4日に、プリース技師長は英国王立研究所でマルコーニ氏を再び讃えましたが、その一方でネガティブな記事を載せる英国専門誌もあり、New York World の記者がプリース技師長に直接インタビューしました。その日本語訳と原文引用します。

『 ・・・(略)・・・プリースのマルコーニに対する真意を測り兼ねていた。電波に対する研究が、プリースやロッジによって相当なされている英国が、どうしてこの外国人(イタリアの青年マルコーニ)に注意を払わねばならないのだろうかと。

プリースはこの点に関して、ニューヨークのワールド紙の記者とのインターヴィウで次のように述べている。「マルコーニが何もかも新しいものを発見したわけではないというのは、ちょうどコロンブスが卵を発明したわけではないのと同じである。彼はただ卵がどうして立てるかを示しただけである。マルコーニはヘルツ発振器と、ブランリーのコヒーラ―をどう使うかを示す。彼は他に類例のないほど、どこまでも届く感度の良い眼を作った。そしてそれは実験によって充分証明された。私は自分でマルコーニの機械を調べたが、船舶用および灯台用として非常に価値のあることは自信をもっていえる。」』(Orrin E. Dunlap(著)/森道雄(訳),『マルコーニ』, 誠文堂新光社, 1941, p60)

New York World 紙の原文(プリース技師長の発言)は以下の通りです。

"While I cannot say Marconi has found anything absolutely new, it must be remembered Columbus did not invent the egg. He showed how to make it stand on end. Marconi shows how to use the Hertz radiator and Branley coherer. He has produced a new electric eye, more delicate than any other known, and a new system of telegraphy which will reach hitherto inaccessible places. But enough has been shown to prove its value. I have experimented freely with Marconi's instruments myself and I find for a certainty that they all proved of immense value to shipping and for lighthouse purposes." ("PREPARING FOR THE EXPERIMENT", New York World, Aug.8,1897)

もうひとつ別の日本語訳の記事も紹介しておきます。

二十二歳の青年マルコーニがその発明に係る無線電信装置を携えてイギリスに渡ったとき、そこには既に物理学者オリバー・ロッヂや郵政庁技師長ウィリアム・プリースの無線電信の研究が歩を進めつつあったのである。だから当時イギリスでは、何故かほどまでに白面の外国青年の為に、かほどまで専門家が大騒ぎするのかと審かる者も少なくなかったのである。

この疑問に対してマルコーニを擁護したのは却って、マルコーニの発明の価値を率先して認識し、自家の研究の先進性を潔く棄てた当のプリースであったのである。プリースのこの科学に忠実な無私心は、無線電信が存続する限り、マルコーニの成功と共に遺る高貴な人間性の発露である。即ちプリースは当時の『ニューヨーク・ワールド』に次のような解明を与えている。

私は、マルコーニが絶対に新しい何ものかを見出したとは云ひ得ないが、しかしコロンブスは卵を発明したわけではなかったということを記憶すべきである。彼はただ、いかにしてそれを立てるべきかを示したのだ。マルコーニはヘルツの発振器と、ブランリーのコヒーラーとをいかに使用すべきかを示したのである。彼は他の既に知られた電信方式の及び難い、新しい電気の眼を創り出したのである。しかしそれだけでその価値を保証するに充分である (桝本セツ, "マルコーニ", 『科学主義工業』, 1938年6月号, 科学主義工業社)

1-7) 本来「風評」と「反論」がセットとなり、エピソードとして完成

ここまで調べたところで、二つのことが頭に浮かびました。

まず一点目。当時の英国で起きた「マルコーニは新規の発明をしていないという風評」と、それに対する「プリース技師長やドイツのスラビー教授の反論」が対となり初めてこのエピソードが、意味をなすのだろうと私は感じました。

プリース技師長の言葉とは、大学も出ていないイタリアの田舎青年を(格下者だと)ハナから見下し、マルコーニの功績を認めようとしない英国の科学者や知識人たちに向けて、「これは偉業なのだ。"偉そぉー" にしてる君たちはそんなことも分からないのか!」と反論し、マルコーニ青年を擁護したものでした。

学生時代に私が読んだ記事、「風評」と「反論」がセットだったかなど、いまや全く思い出せません。たとえ両方書かれていたとしても、私の興味が「風評」の方ばかりに強く向いて、「マルコーニは自分で何も発明してないので、大した事ねーよ。」と勝手な解釈をしていたような気もします。

1-8) これらは1897-8年のこと。古過ぎて、後の功績が全く反映されていない!

つぎに二点目として、「風評」も、上記プリース技師長の「反論」それは1897から98年の出来事だという点です。

有名な1901年の大西洋横断通信はもとより、ドーバー海峡横断の英仏通信(1900年)さえもまだ行われていません。ノーベル物理学賞の受賞は1909年です。1923年、マルコーニ氏は短波帯を使った電離層反射による遠距離通信に成功し、1924年には(誰もが電波は夜に遠距離に届くと信じていた時代にあって)昼間波を発見し、短波ビームを併用することでケーブルに対抗し得る遠距離無線通信の商用化を達成させました。1930年代に入ると超短波無線電話を実用化し、無線界の常識に反するUHF波の屈曲を発表しました。

つまり「風評」や「プリース技師長、スラビー教授の反論」は、その後にマルコーニ氏が成し遂げた数々の成功や発見をまったく反映していません。もし大西洋横断通信の成功話やノーベル賞受賞のあとに、このエピソードの「風評」だけを書き添えると、「大西洋横断通信に成功したし、ノーベル賞も受賞できたが、実はマルコーニ氏の無線には新規性がなかったのである。」・・・という風に読み手が受取る可能性があります。

もしこの超古くさい(1897年の)エピソードを挿入するのなら、時の流れに正しく合わせて使うべきだと思いました。いや、誤解を生みやすいこんなエピソードを今更、掘り起こさなくても良いのではないか。正直なところ、そんな気もします。

【参考】大西洋横断通信成功(1901年)の頃になると、もう「発明の新規性がうんぬん」などはほとんどなく、もっぱら議論されたのは、「イギリスから輻射された電波がまっすぐ西へ進むと、やがて丸い地球から離れて宇宙へ行ってしまうはずだから、カナダに届くはずがない。マルコーニの大西洋横断通信成功の報など、我々科学者は受け入れ難い。」という内容でした。

2)マルコーニは技術者か?実業家か?

マルコーニ社は企業として大きく成長と遂げました。そして正規の大学教育を受けていないマルコーニ氏を認めたくない学者や研究者が少なからずいたため、「彼は技術者というより実業家だ」と意見、戦前より根強くありました。

昭和5年に電気試験所の横山英太郎氏が、記事でそれを否定しています。また昭和8年に来日したマルコーニ夫妻の官民合同歓迎会に出席された丹羽保次郎(日本のファックスの父、東京電機大学初代学長)氏は、マルコーニ氏が「典型的な技術者」だとしています。(電波界第一線の横山氏や丹羽氏がそんな話をされるということは、マルコーニ氏のことを実業家とする見方が、その当時からあったものと想像します。)

マルコーニには一種の幽玄な風格があった。貴族的なところもあった。初めて彼に会った人は彼の優れた性格に魅了されると同時に、その気位の高さを感じないわけにはいかなかった。彼は全く複雑な性格をもっていて、学者肌で、夢みる人で、また冷徹な人でもあった。

彼は数学者ではなかった。彼は計算尺や方程式を使わないで、夢と直感と実際の経験から計算したのである。なんら公式や先入観なしに巧みに発明をした。技術を把握し、これに溺れるようなことは決してなかった。私は彼に於いて典型的な技術者を認めるのである (丹羽保次郎, "マルコーニ", 『新電気』, 1948.10, オーム社, p50)

家庭を一切顧みないで短波開拓に没頭していたため、ついに妻から離婚を求められ、独身になってからはもっぱら帝国ビーム通信網の建設に邁進していたマルコーニ氏でした。しかし彼の態度は再婚で大きく変わりました。生活拠点を英国から新妻の住むイタリアに戻し、常に新妻に寄り添うようなりました。またエレットラ号による超短波の実験ではいつも妻を同伴しています。マルコーニ氏は英国での社長業より、イタリアでの家庭やエレットラ号での超短波研究に軸足を移したように私は受取りました。

3) 昭和40年代になり急激忘れられたマルコーニの功績

無線電信の発明者は誰か?

さてマルコーニ氏が「無線電信の発明者」かについて、様々な意見があることを私も承知しています。しかし米国のテスラ氏や、ロシアのポポフ氏らと、彼が決定的に違う部分があります。

マルコーニ氏はイタリアで無線実験を始めた1894年(20歳)より1937年(63歳)で逝去されるまで、44年間もの長きにわたって「現役の無線技術者・実験家」であり続け、かつ社会に有益な研究成果を出し続けました。この点に私は大いなる敬意を払いたいと思います。その意味で「無電王」の名にふさわしいのはマルコーニ氏ではないでしょうか。

マルコーニの一生は全く無線電信電話の為の一生であった。彼はそれを自分で発明し、そして一生をかけてその全発達史を創り上げたのである。(岡忠雄, 『科学者の道』, 1948, 三笠書房, p267)

戦前の日本ではマルコーニ氏の短波や超短波の開拓が伝えられ、無線のプロだけでなく、アマチュア無線家やラジオ・ファンにもそれらが認知されていたはずです。

  • 短波を開拓し、誰もが電波は夜しか遠くに届かないと考えていたのに、昼間波を発見した。

  • 昼間波とビーム通信法により、短波帯公衆通信時代を築いた。

  • 1933年2月11日、世界で最初にUHF回線を実用化した。

  • UHF波が曲がること(ラジオ・ダクト現象や山岳回折伝搬)を発見した。

  • 観光で妻と来日し、ラジオを通じ日本全国の家庭へ挨拶した。

しかしそれら一切合切が、なぜか昭和40年代ころから(日本では)急速に忘れられて行きました。

◎ マルコーニの功績が日本でも語り継がれますように

マルコーニ氏の功績が日本人に忘れられた理由はよく分かりませんが、終戦後の日本では、雑誌や書籍でこれらの話題を取上げる筆者が少なかった(=記事が少ない)からでしょうか?「語らなければ、10年前の出来事でさえ消えていく。」歴史とはそういうもののようです。

そこで本ページではマルコーニ氏の短波開拓を時間順に、そして網羅的に取上げるように努めました。このページをきっかけに、マルコーニ氏の短波や超短波がもっと雑誌や書籍で取上げられるようになり、結果、興味をもたれる方が増えて、Web上でもこの件がもっと話されるようになればと願っています。

語りましょう。マルコーニ氏の功績が歴史から消えてしまわないように。

4) ファシズムとマルコーニ

1930年代に入り、マルコーニ氏はムッソリーニに気に入られるようになった。マルコーニ氏もまたムッソリーニ政権を強く支持していたため、「マルコーニは電波兵器や殺人光線を開発している」との噂が絶えませんでした。たしかに晩年の彼はファシストだったのでしょう。でも最期までそうかというと、ちょっと違ったのかも知れません。この件を取り上げてみます。

マルコーニ氏は死の1カ月前に、古くから親交があり(途中で反ファシズムに改心した)女性ジャーナリスト、リサ・セルジョ(Lisa Sergio)が、身の危険を感じてイタリアからアメリカへ脱出する際に、その手助けをしています。助けられたリサ・セルジョは1975年に、次のように記しています。

『(1932年)当時はムッソリーニが権力を握ってから十年がたっていた。おそらくビットリオ・エマヌエレ三世(ファシズム政府の傀儡となった王)への忠誠心からのことに違いなかったが、マルコーニはこの(ムッソリーニ)新体制を数年間支持していた(彼がムッソリーニに対して失望を深め、やむをえずロンドン行きを考えていたことを知る人は少なかった)。(リサ・セルジョ, "電波の魔術師 マルコーニ"『リーダーズダイジェスト』1975年3月号, 日本リーダーズダイジェスト社, p63)

なんという事でしょう。マルコーニ氏は当初、ムッソリーニを支持していたが、やがて失望し、マルコーニ社のある英国ロンドンに行くことを考えていたというのです。

一九三二年の初めに、私はマルコーニの口ききによってヨーロッパで最初の女性ラジオ解説者となり、その後まもなくムッソリーニの演説の同時通訳者となっていた。しかしムッソリーニは次第に全体主義へと走り、私自身の反ファシズム感情はとてもつつみ隠せるものではなくなった。私は身に危険を感じた。一九三七年六月、とつぜん私は仕事をクビになり警察の監視下におかれた。

これを知ったマルコーニは彼の少なからぬ名声を利用して私を守り、即座に私をアメリカへ渡らせる計画を立てた。私のパスポートと出国許可に関する彼の請願も、秘密警察に感づかれるところとなった。もしマルコーニの名声と威信がなかったなら、私はけっしてアメリカへ逃れることはできなかったと信じている。

出発予定の(1937年)六月二十五日の前日、私はマルコーニにお礼かたがた別れを告げに行った。そのときの彼は驚くほど多弁で、アメリカ精神とアメリカ国民のあたたかさについて私に語った。「真のアメリカは小さな町にあるのです。頑健な開拓者精神が生きているのは地方であって都市ではありません。アメリカは世界の希望です。あなたはアメリカできっと幸せになりますよ。・・・略・・・それから約一ケ月後、彼が自分の意のままに扱った "空気の波" は、ひとつのニュースを地球の隅ずみまで伝えた-「マルコーニが死んだ」というのだ。ニューヨークのホテルの自室で、私は言葉もなく立ち尽くした。私に自由を与えてくれた偉大な人物が、大西洋を隔てたかなたで永遠の眠りについたのかと思うと、万感胸に迫る気持ちだった。(リサ・セルジョ, 前掲書, pp63-64)

1937年7月20日、マルコーニ氏が逝去されました。

5)お薦めする伝記本(マルコーニの伝記を読んでみたい方へ)

世には素晴らしい「マルコーニ本」が数多く出版されていますが、もし私から1冊だけをお薦めするとすれば、日本語で読める翻訳版『父マルコーニ』、これがイチ推しです!

翻訳本「父マルコーニ」

娘デーニャの視点から書かれた無電王マルコーニの生涯ですが、無線技術に関する専門的な記述も多く、電波産業にお勤めの方々や、アマチュア無線家など、無線に馴染みのある方には、とても興味深くお読みいただけることでしょう。

ところが・・・いつの間にやら、出版元(東京電機大学出版局)でステータスが「品切れ・重版未定」に変わっていました。いやあ驚きです。現状では市場に流通する在庫を探すか、中古本を購入するしかありません。ちなみに「Amazon」では2020年5月9日に在庫を完売したようです。

今のところ「Google Books」で本書の一部分を立ち読みできますが(この環境がいつまで続くのか分かりませんし)、無線ファンならば現物を手に入れたいものですよね。「Amazonの中古本」なら時どき出品されますので、希望される方はマメに立ち寄られてみてはいかがでしょうか。

日本語でこれほど詳しくマルコーニの生涯について書かれた書籍は他にありませんので、品切れになったのが本当に残念でなりません。

6)戦時中に出版された マルコーニの伝記本(訳本)

ダンラップ著「Marconi」

マルコーニ氏が逝去される3箇月前の1937年(昭和12年)4月に、ニューヨーク・タイムズ社無線部長のOrrin E. Dunlap Jr氏が出版した MARCONI the man and his wireless(The Macmillan Companyという伝記本があります(左図、下図:部分拡大)。

ダンラップ「Marconi」拡大図

すごいことに、本書を推薦する旨の序文をマルコーニ氏が寄せています。その序文を(後述する日本語訳本から)引用します。

 

久しい間、書籍は文明の最も強力伝播者であった。今日では通信機関がそうである。両者は思想を解放し、知識を普及せしめ、人類相互の緊密化を図る。今回、ダンラップ氏の如きラジオに実際的経験の豊富な記者が、マルコーニ無線の物語を著し、科学の進歩の跡を記録し、しかもその中で余が光栄ある役割を演じていることは、まことに欣快に堪えない次第である

余は、無線の重要性と、その人類生活に及ぼす影響とを全世界に示す本書が、イタリーと英語国民との友好を増進し、また青年学徒への霊感となることを希望してやまない・・・(略)・・・

グリエルモ・マルコーニ

1937年(昭和12年)7月、マルコーニ氏逝去のニュースが日本に飛び込んできたとき、日本読書協会は同年4月に出版されたばかりのダンラップ氏MARCONI the man and his wirelessに着目しました。そして『日本読書協会会報』1937年12月号マルコニ伝”(小田律氏翻訳)として 紹介しています。

【参考】日本読書協会(1921年(大正10年)創設。東京市麹町区内山下町1-1、現:千代田区内幸町1)は協会がピックアップした欧米新刊書の日本語訳ダイジェスト記事『日本読書協会会報』にて会員へ提供する業務を行っていました。

それから5年後の1941年(昭和16年)9月5日、森道雄氏によるに完全なる日本語訳本『マルコーニ』誠文堂新光社より出版されました。これは1938年4月改訂版を森氏が日本語に翻訳したものです(下図:もちろんUHF実験の記事もあります)。

翻訳本「マルコーニ」

しかし不幸なことに、日本語版の出版から3カ月後の12月7日に真珠湾奇襲攻撃で日米開戦となりました。その後は、戦局が悪化して、物資が不足したため、再版はなかったでしょう。

おまけに東京大空襲で、東京市は焼け野原になったせいか?この『マルコーニ』(誠文堂新光社, 1941)は、国立国会図書館にも、東京都立図書館にも、蔵書されておりません。ある意味「レア本」ですね、

国立情報学研究所NIIのデータベースCiNii検索では東京の場合、東京都立大学図書館(南大沢キャンパス)と東京大学総合図書館(本郷キャンパス)がヒットします(なお最新の蔵書確認と閲覧者資格については各自でお調らべ下さい)。また大阪の場合、一般向けの大阪府立中央図書館(東大阪市)が蔵書検索でヒットしますので、特段の制約なく、どなたでも読めると思います。私の場合は数年前に古書店で見つけて実物を入手できました。

本書のサイズはB6版(128 x 182)ですが、351ページもあるため分厚目の本です。マルコーニの短波開拓は第四章、UHF開拓は第五章にありますが、正直なところ前掲書『父マルコーニ』に比べるとべるとここは物足りなさを感じます。ただ各出来事が時間順にきれいに整理されていて、知りたい部分にたどり着くのは早いです(古い漢字に、旧仮名遣いなので読むの疲れますが・・・)

彼の生涯をきちんと網羅する伝記本が戦後も続けて出されていれば、マルコーニ氏が「火花送信機の人」、「長波の人」に成らずに済んだのではないでしょうか。

新漢字と現代仮名使いに改めたうえで、誠文堂新光社からもう一度出版して欲しいす。

7) 日本語版『マルコーニ』の目次と要約

以下に目次を転記引用しておきます。

実はこの目次には、その章にどんなことが書かれているかを、短い言葉で要約しながら順に書き綴られています下記、●茶色の部分です。小見出しのように見えますが、そうではありません)。この箇条書き風に並べられた要約を見るだけでも、マルコーニ氏の生涯の重要トピックスとその流れが読み取れす。

目次

第一部 1874年 ー 1899年

第1章 天才の誕生・・・・・・・・・・・ p3

●マルコーニの生まれた当時の世界 ●発明のロマンス ●マルコーニの生地 ●両親 ●父母の影響 ●受け継いだ特質 ●少年時代と学校 ●ヘルツ波を知る ●若き実験家を悩ました問題 ●無線への道 ●偉大なる思い付き ●無線の夢の実現 ●ボロニアに於ける最初の試験 ●マルコーニ無線に使われた器械 ●ブランリーのコヒーラーは如何に役立ったか ●父の疑惑と母の信頼 ●科学の長老の驚き ●無線の到達距離に関するマルコーニの考え ●最初の公開実験 ●発明の市ボロニア ●マルコーニの家庭 ●マルコーニの最初の実験室 ●ボロニアに於ける歴史的記念物 ●古老のマルコーニ少年時代の追憶

第2章 マルコーニの成功の秘訣・・・・・ p27

●無線の切札 ●時期の重要性 ●ルーミスの無線説 ●エジソンの発見と無線感 ●マルコーニの買った重要な特許 ●栄誉イタリーに渡る ●ロッジ卿とプリース卿マルコーニに譲る ●テスラと電磁波 ●運命マルコーニに味方す ●彼の初期の共同者 ●幸運のマルコーニ

第3章 神秘劇の幕・・・・・・・・・・・ p41

●マルコーニの空間征服 ●努力による成功 ●他の人々の失敗と彼の成功 ●無線の前途を予想す ●電気界の先輩より得た教訓 ●マックスウェルとエーテル ●ヘルツと電磁波 ●マルコーニの基礎知識 ●ポポフの業績 ●エジソンの実験 ●クルークス卿の予言 ●科学の手品

第4章 舞台はイギリスへ・・・・・・・・ p52

●マルコーニの直感と忍耐 ●無線をイギリスへ持参 ●イタリーを去った理由 ●ジェムソン・デヴィスの援助 ●プリース卿の歓迎 ●軍務と研究 ●ロンドンに於ける最初の実験 ●マルコーニ無線電信会社の設立 ●特許権によりイタリーを護る ●ロンドンに於ける最初のインタヴィウ ●無線とその将来に関する彼の信念 ●プリース栄誉をマルコーニに譲る ●スラビイの目撃したもの ●ドイツの競争者 ●ケーブルに対する脅威 ●新しい送信局と英国沿岸に於ける勝利 ●無線初めて海を往く

第5章 シーザーの如き勝利・・・・・・・ p66

●マルコーニ その勝利の発展性を示す ●ヨット・レースを無線で通信 ●ヴィクトリア女皇と無線通信 ●ウィンザー城に招かる ●女皇無線に驚かる ●地球の面に挑戦 ●理論家を笑う ●指向性電波を論ず ●無線初めて灯船に使用される ●イタリー マルコーニの帰国を促す ●彼の愛国心

第6章 フランス證明を求む・・・・・・・ p77

●マルコーニ 英仏海峡に挑戦す ●フランスよりドーヴァの海岸へ "火花" を送る ●歴史的の報告書 ●二重無線 ●同調による電波の分離 ●有名なる特許7777号の価値 ●マルコーニ会社海陸の施設拡張

第7章 アメリカ マルコーニを招く・・・ p83

●ベンネットの招待状 ●マルコーニ国際ヨット・レースの無線通信を計画 ●ニューヨークに到着 ●新聞記者のマルコーニ印象記 ●ヨット・レース始まる ●ヘラルドに記事を速報 ●新聞記者との会見談 ●陸海軍興味を起す ●プリースの称賛 ●無線は果して大西洋を横断するか


第二部 1900年 ー 1911年

第8章 最初の大西洋横断通信・・・・・・・・・・ p95

●世紀初頭の夢 ●常時のマルコーニ ●送信試験地の選択 ●フレミング 送信所を設計 ●フェッセンデン 高周波交流機を発表 ●ボールゼン電弧発振器を発明す ●各汽船無線設備を誇る ●フレミング同調の科学を説明す ●ポルデュに大送信所設立 ●マルコーニ ニューファウンドランド到着 ●歴史を作る準備 ●アンテナ代用の紙鳶(凧) ●記念すべき十二月十二日 ●マルコーニ最初の大西洋横断信号を発す ●その成功の情景 ●彼の成功談 ●世界の疑惑 ●新聞の意見 ●海底電信界の動揺 ●テスラの談話 ●エジソンの意見

第9章 時代の英雄・・・・・・・・・・・・・・・p113

●大西洋横断通信に対する一般の反応 ●カナダのマルコーニ援助 ●海底電信の恐慌 ●ピュピンの称賛 ●未来の勝利を確認 ●マーチン卿の言葉 ●ロッジの賛辞 ●聖ジョーンズに於けるマルコーニ ●今後の計画 ●アメリカ電気界権威の賛辞 ●司会者の紹介とマルコーニの答辞 ●ニューヨーク・タイムズ紙の記事 ●ヘヴィサイドの新しい無線学説 ●イギリスへ持ち帰った考え

第10章 フィラデルフィア号に乗船して・・・・・・p129

●通信記録の企て ●暴風雨中の出帆 ●紙テープに残ったトン・ツー ●電気ペンの魔術 ●大洋上の勝利 ●二千九十九マイルの距離 ●数学者の誤りを訂正 ●覆へされた古き学説 ●無線 実業界と政界に知己を得 ●新しき発展への記念碑 ●太陽光線の影響を発見

第11章 グレース湾及びコッド岬のマルコーニ・・・p139

●懐疑者の最後の藁 ●磁気検波器の出現 ●イタリー巡洋艦上の試験 ●グレース湾と送信所 ●最初の西方通信 ●パーキンの記事 ●無線の舞台マサチューセッツへ ●南ウェルフリートの "声" ●ルーズヴェルトとエドワード王との交歓 ●マルコーニの人物短評 ●電解検波器及び鉱石検波器の出現 ●ベルリンに於ける第一回万国無線会議 ●ドイツ側との葛藤 ●フレミング真空管検波器を発明 ●無線満十歳に達す

第12章 結婚式の鐘ーそして無線・・・・・・・・・p158

●マルコーニの結婚 ●子供の名と誕生日 ●海底電信五十年祭 ●マッキンレー大統領再選の通信の世界伝達 ●ニュースの大西洋横断通信要望さる ●無線に関する係争始まる ●ド・フォレーの提訴 ●無線によるニュース ●マルコーニ海外通信用の強力送信機を設計す ●最初の一般通信 ●科学帝国の勝利 ●ヒューウィットの言葉 ●商業及び文化に対する不可欠の功績

第13章 洋上の災禍による試練・・・・・・・・・・p169

●各国協定の危険信号 ●レパブリック号及びフロリダ号濃霧中にて衝突す ●CQD(救助信号)発せらる ●現場に急行した汽船 ●間に合ったバルチック号の救助作業 ●劇的な夜中の救助作業 ●フロリダ号ニューヨークへ除航す ●豪華船レパブリック号の救助作業 ●百五十万ドル客船の末路 ●船長と乗組員の救助 ●人命救助の恩人として感謝さる ●英雄的なビンズの行動 ●ド・フォレー無線に談話と音楽を興 ●最初の放送 ●大放送所の建設 ●マルコーニ イタリーを無線の中心地とす ●電波地球を囲繞す ●海外無電ニュースの成功 ●エジソンとマルコーニ


第三部 1912年 ー 1918年

第14章 SOS 氷河に衝突・・・・p185

●洋上の惨事に対する無線の役割 ●タイタニック号最新式無線設備をもって処女航海にのぼる ●氷山の予報通信 ●深夜の難船 ●救助船現場に急 ●無線による悲報 ●信号の混乱 ●混信とニュースの貧困の理由 ●マルコーニ 救助船を迎ふ ●桟橋上の彼の言葉 ●論ついに無線の効用を確認す ●ピュピン マルコーニの不朽の功績を称 ●タイタニック号が通信手に与えた教訓 ●必要なる改良 ●エジソンの称賛 ●工業協会におけるマルコーニの講演

第15章 「政争」と事故・・・・・p205

●株の売買の政 ●渦中に巻きまれた無線 ●マルコーニ株を売買したもの ●連座したルーファス・アイザックス ●議会の審議 ●証人席に立ったマルコーニ ●アスキス首相の陳述 ●諮問委員会の判定 ●ロイド・ジョージの陳述 ●マルコーニ晴天白日となる ●ゴッドフレイとルーファスの証言 ●マルコーニ自動車事故で片目を喪

第16章 燃える海・・・・・・・・p216

ヴォルタノ号洋上に火を発しSOSを送る ●六百五十七名の人命救助へ ●カルマニア号進路を転ず ●洋上の非常線マルコーニ無線の威力 ●燃える海 ●無線技師の得た教訓 ●夢想と発明に対する彼の意見

第17章 歴史的特許権の擁護・・・p223

●皮肉な諺の真理 ●ニューヨークにて特許権を擁護す ●ヴィーダー判事の証言 ●判決の意義 ●対審下のマルコーニ ●弁護論拠 ●歴史的特許 ●無線発達に関する判事の見解 ●マルコーニの勝訴理由 ●ロッジの折衷法とマルコーニの調和法 ●テスラ説の誤謬指摘 ●事実と背馳する説 ●マルコーニ上院議員を任ぜらる

第18章 マルコーニ出征す・・・・p231

●ルシタニア号上のマルコーニ ●巡洋艦に追跡さる ●大戦に志願 ●特許公判の延期 ●海上の敵よりマルコーニを防御 ●マルコーニ大西洋横断無線電話を予言 ●イタリーのために軍需品を購入 ●外交官となる ●前線へ往く ●検閲の効果を論ず ●戦時におけるラジオ ●平和の全権委員 ●戦時使節団に加わりアメリカを訪問 ●武器の歴史を説く ●休戦ニュース空を飛ぶ ●大戦末期に於ける無線の状況 ●彼の怖れた世界の経済的破綻 ●緊急の諸問題


第四部 1919年 ー 1926年

第19章 浮べる研究室・・・・・p247

●海上の研究室 ●アメリカに於けるラジオ・ニュースの進歩 ●放送熱高まる ●エーテルの "黄金狂時代" ●重要研究題目 ●エレットラ号アメリカへ向けて出帆 ●ヨット上の生活 ●"科学船長" の日課 ●各種の問題に対する彼の意見 ●無線が火星に届いたら

第20章 ラジオ時代の黎明・・・p261

ニューヨークにて短波実演 ●その可能性と研究の必要性を論ず ●短波発達の歴史 ●"魔法の家" を訪問 ●真空管の脅威 ●ラジオ放送は単なる流行に非ず ●無線の最尖兵 ●アンチノー号SOSを発す ●無線羅針盤により、ルーズヴェルト号救助に向かう ●大西洋横断無線電話実施さる ●一九二七年のマルコーニ

第21章 再婚の蜜月旅行・・・・p274

結婚式の鐘再び鳴る ●結婚式 ●ニューヨークへの蜜月旅行 ●市長の歓迎 ●短波ラジオの革命を講演 ●モロッコ及びヴェルデ岬の試験報告 ●マーク・トウェーン賞牌を贈らる ●イタリー学士院に於ける或る場面 ●イタリー協会に於いて科学の進歩に就いて講演 ●ヘヴィサイドの仮説を論ず


第五部 1927年 ー 1937年

第22章 全世界からの祝辞・・・・・・p289

●研究の意義 ●ニューヨークのマルコーニ ●彼の特質 ●彼の天稟と態度 ●ラジオの新驚異 ●テレビジョンの未来 ●世界放送始まる ●三女の誕生 ●ヴァチカン宮の強力短波送信機 ●マルコーニ国際放送に法皇を紹介す ●十四ヶ国の国民マルコーニを称ふ ●ロンドンよりマルコーニの答辞

第23章 微小電波の魅惑・・・・・・・p303

●マルコーニを魅了した微小電波 ●超短波の神秘を解く ●無線界の人々 ●光の世界に侵入す ●新しいラジオの可能性 ●テレビジョンに対する新しい希望 ●エレットラ号に於けるマルコーニの試験 ●ローマ法皇離宮に短波送信局を建設 ●海上の実験 ●超短波観察の詳細なる報告 ●英仏海峡に於ける超短波の試験による教訓 ●古い「エーテル説」駆逐さる ●学士院に於けるマルコーニの偉大な発表

第24章 マルコーニ未來を疑視す・・・p318

●全世界の王公貴顕との交流 ●マルコーニと大統領達 ●青年時代の話の魅惑 ●無線送電の問題 ●八十七回目の大西洋横断 ●新聞記者との茶話会 ●超短波とテレビジョン ●旧友の見た発明家の印象 ●新聞の批判 ●「進歩の百年博覧会」見物 ●ラジオ・シティの見学 ●太平洋を渡り故国に帰る ●超短波による「盲目」操縦の実験 ●ミリカン博士とコンプトン博士の回想 ●アメリカへ放送 ●マルコーニの成功に対する旧友の批判 ●マルコーニの生命神秘観 ●無線の旧秩序遷 ●極超短波とテレビジョン ●全世界マルコーニの長逝を哀悼す

マルコーニの叙勲表 ・・・p348

名誉学位・・・・・・・・・p349

主要受賞表・・・・・・・・p350


船舶無線ほか

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