日本のアマチュア無線の歴史、特に1900年の電信法による電波の国有化から、無線電信法の制定前後までの最も初期のアマチュアが誕生した頃までの話題を取り上げます。
平成の時代には「昔は個人が電波を出して良いとも、悪いとも法律には書かれていなかった。だから大正時代の(JARL創設メンバーらの)アマチュア活動は違反行為とはいえない。」といった、かなり無茶な主張をWeb上で目にすることがありました。
(ちょっと話が変わりますが)江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の撤廃・改正は、我国の明治人の悲願でした。西洋式の法治国家を目指し、あらゆる分野の法律の整備を進め、粘り強く各国と交渉し、領事裁判権の撤廃をはじめ、関税自主権の完全回復を達成したのが1911年(明治44年)でした。
明治時代の日本では、法学者や政治家が、西洋諸国に認められるよう法治国家へ変わるべく努力・研究し、次々と新しい法律・規則を制定しました。ですから「昔は個人が電波を出して良いとも、悪いとも法律には書かれていなかった。」は全くの事実誤認です。
我国の法による「電波の国家管理」が始まったのは1900年(明治33年)10月10日で、同時に無線の私設(個人や私企業による設置)は認めないことになりました。つまり個人が電波を出すのは法律違反です。
日本では1900年(明治33年)10月10日、逓信省令第77号(M33.10.10)を発令し、「電信法」を無線電信に準用しました。つまり日本における無線に関する最初の法律は「電信法」です。
『電信法ハ第二條、第三條、第二十八條及第四十三條ヲ除クノ他之ヲ無線電信ニ準用ス
明治三十三年十月十日
遞信大臣 子爵 芳川顯正』
この逓信省令77号にある「電信法」(明治33年3月13日法律第59号)は、その9日前の1900年(明治33年)10月1日に施行されています。「電信法」は第1條で『電信 及 電話ハ政府之ヲ管掌ス』としています。これを無線電信にも準用するのですから、言い換えれば「無線電信は政府が管掌する」ということです。
『第一條 電信及電話ハ政府之ヲ管掌ス』
これを無線電信にも準用するのですから「無線電信は政府が管掌する」ということです。つまり我国では政府の許可なく無線電信をやってはいけないことになりました。
日本海海戦で帝国海軍の信濃丸が「敵艦みゆ」を発信したのが1905年(明治38年)5月27日です。また日本の公衆無線通信(無線電報サービス)の創業(逓信省の銚子無線電信局JOSと天洋丸無線電信局TTY)は1908年(明治41年)5月15日です。
海軍省や逓信省の無線よりも、ずっと昔の1900年(明治33年)10月10日に既に電波の国家管理が始まったのです。
そして「電信法」第二条では、例外的に有線電信の私設を認めるケースを定めています。
たとえば個人の敷地内の連絡線や私企業の工場敷地内の連絡線、私鉄会社の鉄道電信などの私設電信が認められました。なおここでいう私設とは官設の対語であり、民間企業や個人による設置です。また官設は国営の施設を意味しましたので、地方自治体の役所や施設は私設の方へ分類されました。
『第二條 左ニ掲クル電信又ハ電話ハ命令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ私設スルコトヲ得
一 一邸宅内若クハ一構内ニ於テ専用ニ供スル為施設スルモノ
二 鉄道業其ノ他電信電話ノ専用ヲ必要トスル事業ノ為施設スルモノ
三 公共團體(団体)ノ事務執行ノ為一市區(区)町村内若ハ隣接市區町村間ニ於テ公署相互間又ハ一郡市區内ニ於テ公署ト第一次監督官廳(庁)トノ間ニ施設スルモノ
四 電報送受ノ目的ヲ以テ一人ノ専用ニ供スル為電信官署トノ間ニ施設スルモノ
五 一市區町村内若ハ隣接市區町村間ニ於テ又ハ電信電話ノ連絡ナク且第四號(号)ニ依ルヲ不適当とトスル市區町村間ニ於テ一人又ハ一營業ノ専用ニ供スルモノ』
「電信法」を無線電信に準用するのですから、例外的に私設の無線局が第二條で認められる。と、なるはずです。しかし。しかしです。もう一度、逓信省令第77号をご覧ください。
『電信法ハ第二條、第三條、第二十八條及第四十三條ヲ除クノ他之ヲ無線電信ニ準用ス
明治三十三年十月十日
遞信大臣 子爵 芳川顯正』
「電信法を無線に準用するが、無線には第二條を除外する」としたのです。つまり1900年10月10日以降、電波については(一切の私設を認めない)国家独占としました。
以上のように日本では無線局の私設を認めない「国家独占」としたのに、なぜか民間会社である東洋汽船の天洋丸に無線局TTYが開設されています。さらに天洋丸に続いて、同じく民間会社である日本郵船の丹後丸YTGと伊予丸YIYにも無線局が許可されています。これは不思議ですね。
公衆無線通信(無線電報サービス)は逓信省の独占ビジネスです。逓信省は民間会社の商船に逓信省の無線局を設置・開設し、逓信省職員の無線通信士をその局長として派遣するという方法を取りました。したがって天洋丸無線電信局TTYは東洋汽船所属の無線局ではなく、逓信省所属の無線局だったのです。この方式は大正4年に制定した無線電信法で私設無線(個人や私企業の無線局)が認められるまで続きました。
JARL50年史『アマチュア無線のあゆみ』(1976, CQ出版社)にはJARLの結成を会員達が電波で一斉に発信宣言したことを、逓信省は輸入したQST誌によりその事実を知り衝撃を受けたと記しています。
『日本にはまだアマチュア局などというものは許していないのに、JARLなどという組織が結成されて電波で宣言しているとは・・・。異種の文化が接触する時は必ず大きなショックを受けるといわれるが、わが国の逓信当局は初めてアマチュア無線という文化に接したのである。そして真にアマチュア無線の意味を理解するには、昭和25年[1950年]の電波法公布まで25ヵ年の歳月を必要としたのである。』(日本アマチュア無線連盟, 『アマチュア無線のあゆみ:日本アマチュア無線連盟50年史, 1976, CQ出版社, p57)
まあJARL結成50年の記念出版ですから、誇張した表現を含むのは理解しますが「JARLが誕生した大正末期の逓信省はまだアマチュア無線のことを良く知らなかった」というのは、さすがにちょっと言い過ぎで、間違っています。ずっと昔から海外の無線雑誌を定期購読して情報収集していた逓信省のほうが、(JARL創設メンバーの方々よりも遥かに昔から)アマチュア無線界の動向を知っていました。
趣味・娯楽としてのアマチュア無線は1907年(明治40年)頃に、米国で誕生しました。この娯楽通信というべき新しい用途が日本に伝えられたのは意外と早く1910年(明治43年)でした。つまり現代的アマチュア無線の勃興から3年後には日本に伝わっているのです。
第一報を発したのは北米航路の天洋丸無線電信局TTYの木村平三郎局長です。米国で娯楽としてのアマチュア無線が大流行し、混信問題となっていたため、これを禁止する法案が提出されたと、日本の逓信省へ報告してきました。
報告書の文面から想像するところでは、1910年(明治44年)の2~3月頃の出来事ではないでしょうか。
木村局長からの米国青少年達の間で娯楽無線(アマチュア無線)がブームとなり、公衆通信に多大なる迷惑を掛けているという報告は、日本の逓信省に大きな危機感を与えたようです。逓信省が無線電報ビジネスを創業して、まだ2年にしかならない時期です。まさかアメリカでは無線が趣味・娯楽として楽しまれていたとは、それも若い「学生小児実験家」によってですから、それは想像もできないような衝撃の報告だったでしょう。
逓信省は「通信協会」が発行する『通信協会雑誌』1910年(明治43年)5月号(第22号)を通じて "米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案" という記事でこの報告を公表しました。
『通信協会雑誌』の読者は郵便事業や電報事業の逓信ビジネスを支えていた日本全国の逓信職員の方々です。
【参考】 「通信協会」(現:公益財団法人通信文化協会) は逓信省の小松謙次郎通信局長を設立委員総代として申請され、1908年(明治41年)5月25日に時の堀田正養逓信大臣より設立認可(私秘発第1832号)を受けた組織。そして協会の初代総裁に後藤新平(7月14日に南満州鉄道総裁を退き、逓信大臣に就任)、副総裁に仲小路廉(逓信次官)、会長には小松謙次郎(通信局長)が選出され、その機関誌として月刊『通信協会雑誌』を8月25日より発行開始した。
後藤逓信大臣時代の1910年(明治43年)5月には通信協会を財団法人「逓信協会」に改めたため、『通信協会雑誌』はアマチュア無線の勃興を我国に伝えたこの第22号を最終号として、以後『逓信協会雑誌』になった。
記事は木村平三郎(天洋丸TTY)局長の報告書からはじまります。
『官用もしくは商業無線通信が学生小児実験家の無線により、おおいにその活動力を減滅せられ居る事は目下米国斯界問題なるが、果然(かぜん=予想通り)舊臘(きゅうろう=昨年12月)十二月十七日マサチュウセツ州選出議員ロバート氏によりて国立無線電信局設置の決議案提出せられたり。
海軍省所管事務に対する下院委員の一人たる(ロバーツ)氏は、該決議案提出の理由を述べていわく、「海軍省、巡邏船事務および商業無線会社より、娯楽的無線家勃興の結果、危急符号として"CQD"の変更も必要なるのみならず、なおまた官私用(海軍局・商業局)無線通信はこれがため著しく妨害され候旨通報に接せリゆえに、これら監督する上に於いて必要なり。」
この決議案は委員七名の任命を是認し居れり、すなわち陸軍、海軍、大蔵の各省より専門家各一名、商業的無線電信電話の利益を代表せる三名の専門家、および電波式電信電話の学術に造詣深き科学者一人これなり。決議案によれば国立無線電信局義務は、政府および商業無線会社の利害関係を同一とみなし、合衆国の認識のもとにきたる海上、陸上装置の一切の無線通信を管理すべき総括的規則の制度を調査するにあり。しかして該局組織については三十日以内にこれに関する報告および推薦を議会に委任すべしというにあり。』 ("米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案", 『 通信協会雑誌』 第22号, 1910.5, 通信協会, pp40-41)
『通信協会雑誌』の記事は続けてガーンズバック氏のModern Electrics誌1910年2月号社説を翻訳紹介しました(逓信省は情報収集源として海外の各種電気雑誌を定期購読していましたが、このModern Electrics誌については、天洋丸の木村局長が報告書の添付資料として送ったものではないかでしょうか)。
『モーダンエレクトリック社は、その社説においてまず国立無線局(日本で言えば銚子無線JCSや天洋丸TTYなどの官設無線)の不必要を唱え、「かかる広大なる国土において、低廉に通信送達上、無線電信電話は甚だ価値ある方法にしてこれを奨励するは政府の義務なり。英国および独逸(ドイツ)は先にこれ(電波の国家管理法案)を通過したるも二国の技術は今やほとんど不明なり」と論じ、一例を述べていわく
「農夫も今より三年後には五十哩(=80km)を隔つる隣家を呼出すことを得るべき自己の無線電話を所有する位置とならむこの時にあたり、ユーナイデッド無線会社または同じ無線トラストの所有に係る高価なる器械に余儀なく加入するよりも、農夫は自己所有の器械を装置する方をはるかに可とすべし。該案は畢竟(ひっきょう=つまるところ)無線トラストをして高率の料金を酷求せしむるに至らむ。現在の電話関係にては農夫は自己の家宅より近隣人の家宅まで私有の電話線を架設することを許可せらるるも、一朝、国立無線電信局にして実施せられむか、同じ農夫にして隣家と私有無線電話の通話をなすことは無論許可せられざるべし。」
同社(Modern Electric社)記者が一月二十五日までに接受したる、決議案に反抗の書簡は実に九千通以上に達したり。』 ("米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案", 前掲書, p41)
つまり電波の国家管理は電報料金の高値停滞を招くというものです。記事は更に続けてニューヨーク各紙(the New York Evening World紙、the New York American紙、the New York Sun紙, the New York Independent紙)の論調を伝えました(これらの新聞も木村局長が送ってきたものと想像します)。『該ロバート氏の提案に対し紐育(ニューヨーク)各新聞の所論を意訳すると左の如し。』 ("米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案", 前掲書, p41)
どれもおおむねアマチュア寄りに書かれていました。ガーンズバック氏のもとには全米のアマチュアから9000通以上もの反対書簡が寄せられたとのことです。そしてマスコミ各紙の支援もありロバーツ法案は廃案になりました。「アマチュア無線禁止」への反対運動を全米で最初に組織したのは、私はアメリカ無線協会WAOAのガーンズバック氏だと思います。
通信協会はこの "米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案" に2ページ半ものスペースを割いており、本件に対する逓信省の関心の強さが相当のものだったことが伺えます。
それにしても(伝書バト通信を除いて)有線・無線・手紙の手段を問わず、A地点からB地点へのコミュニケーションを逓信省の独占ビジネスだとする日本で、よくも「通信の国家管理に反対する」ガーンズバック氏の意見を取り上げたものですね。
アマチュア無線(娯楽無線)の勃興が日本の逓信職員たちに伝えられた明治44年のこの時より、アマチュア無線は「逓信ビジネス」を脅かす存在=「悪」だと認識された可能性が濃厚です。これ以来、日本の逓信省は公衆通信(電報)を妨害する娯楽通信(アマチュア無線)を警戒して、米国の動向を注意深く見守るようになりました。
またこの記事は日本の海軍関係者の目にも留まる所となり、もし一般実験家に無線の使用を許すと、アメリカのように海軍無線へ混信妨害を与えるのではないかと危惧したでしょう。
明治時代末期の日本では逓信省も海軍省も、アマチュア無線には良くないイメージを抱いたと考えられます。
1915年(大正4年)6月、無線の国家独占の方針を転換し、私設を認める「無線電信法」(大正4年 法律第26号, 大正4年6月21日官報公布、同年11月1日施行)を、「電信法」から独立させて定めました。
1915年11月1日、「無線電信法」が施行されました。第1條で『無線電信 及 無線電話ハ政府之ヲ管掌ス』としながらも、(有線と同じく)例外的に第2條で個人や私企業による無線の私設を認める、第1から6号のケースを定めました。
その第5号が「実験用無線」でした。電波実験をおこなう無線施設者(免許人)を "法人" に限定するような付帯条件はありませんので、個人・法人を問わない「実験用無線」制度であることは明らかです。
【参考】 逓信省にとっては、無線施設者が、"個人"か "法人"かはどちらでも良い話しで、申請者の "社会的信用度" が最も重要でした。たとえば海運王として知られる山下亀三郎氏が許可を得た法2条第1, 2, 3号の無線施設の場合、1917年(大正6年)2月10日官報告示の「帝国丸」JTKの免許人は山下亀三郎(個人名)で、同年6月27日と12月5日に官報告示があった「第貳吉田丸」JBYと「第参吉田丸」JCYは山下汽船(会社名)で、翌1918年(大正7年)4月18日官報告示の「駒形丸」JDVは再び山下亀三郎(個人名)です。逓信省的にいえば、免許人が個人なのか、法人なのかは問題ではなく、政府にとっての危険思想や反社会的な個人・法人でなければ良かったようです。
『 無線電信法(大正4年11月1日施行)
第一條 無線電信 及 無線電話は政府之を管掌す
第二條 左に掲ぐる無線電信又は無線電話は 命令の定むる所に依り 主務大臣の許可を受け之を私設することを得
(一から四・・・省略)
五 無線電信 又は 無線電話に關する實驗に專用する目的を以て施設するもの
六 前各号の外 主務大臣に於て特に施設の必要ありと認めたるもの
第三條 私設の無線電信 又は 無線電話の機器、其の装置及運用に関する制限 並 私設の無線電信の通信に従事する者の資格は命令の定むる所に依る
第四條 私設の無線電信 又ハ 無線電話は其の施設の目的以外に使用することを得ず 但し命令の定むる所に依り船舶遭難通信、氣象通信、報時通信其の他主務大臣に於て公益上必要と認むる通信に限リ之を使用することを妨げず 』
上図では読者の便宜をはかる為、原文のカタカナを平仮名にしました。ちなみに、法二条第六号はいわゆる「なんでもありルール」で、戦前におけるJOAKなどのラジオ放送局はこの第6号免許でした。
無線電信法3条に "詳しいことは別途定める" とした通り、同じ1915年11月1日に「私設無線電信規則」(大正4年 逓信省令第46号, 大正4年10月26日官報告示、同年11月1日施行)および「私設無線電信通信従事者資格検定規則」(大正4年 逓信省令第48号, 大正4年10月26日官報告示、同年11月1日施行)も施行されました。
無線電信法の第2條第5号には 「実験に専用する目的をもって施設するもの」とあるだけです。法2條第5号がいう「実験」という言葉の定義を「私設無線電信規則(大正4年 逓信省令第46号)」の第2條で「学術研究または機器の実験」であると定めました。
また「私設無線電信規則」の第20條では各無線局に対する運用の制限事項について定めていますが、実験用無線の運用は「他の無線局に妨害を与えないとき」に限るとしました。
『 私設無線電信規則(大正4年11月1日施行) なお第39條(附則)で無線電話にも準用を規定
第二條 無線電信法第二條第五号に依り施設する私設無線電信は無線電信の学術研究 又は 機器に関する実験に供するものに限る
(第3 - 19條 省略)
第二十條 私設無線電信の使用は左記各号に従うことを要す 但し第二十二條乃至第二十四條に依る通信(遭難通信等)に関する場合は此の限りに在らず
一 無線電信に依る公衆通信 又は 軍事通信に支障なきものとす (→ 全ての私設無線に適用)
二 船舶に施設したるものの使用は航行中に限ること (→ 船舶の私設無線だけに適用)
三 無線電信法第二條第五号に依り施設したるものの使用は 他の無線電信の通信に支障なきときに限ること(→ 実験用の私設無線だけに適用) 』
次に私設による実験用無線(法2條第5号)に必要なオペレーター・ライセンスですが、「私設無線電信通信従事者資格検定規則(大正4年 逓信省令第48号)」第1條および2條により、私設無線電信通信従事者の第三級資格が求められました。
但し無線電信をオペレーションしない(無線電話だけの)実験用無線にはオペ―レーター資格を要求していません。ここは非常に興味深い部分ですので、どうぞ記憶に留めておいてください。
第三級の試験科目は「欧文60字/分、和文50字/分のモールス送受能力」、および「私設無線電信に関する法令知識」のふたつだけで、無線電信学(無線工学)と英語の試験はありませんでした。
『 私設無線電信通信従事者資格検定規則(大正4年11月1日施行)
第一條 私設無線電信通信従事者の資格は左の区別に依り十七歳以上の者に就き之を検定す
第一級 無線電信法第二條に依り施設したる私設無線電信の通信に従事し得る者
第二級 無線電信法第二條に依り施設したる私設無線電信(第三号に依り施設したるものを除く)の通信 及 同條第三号に依り施設したる私設無線電信の通信の補助に従事し得る者
第三級 無線電信法第二條第五号に依り施設したる私設無線電信の通信 及 同條各号に依り施設したる私設無線電信の通信の補助に従事し得る者
第二條 検定は試験に依り逓信大臣の命じたる私設無線電信通信従事者資格検定委員之を行う 其の試験科目左の如し
一 無線電信学 無線電信に関する学理(第一級に限る)、機器の調整及運用(第一級 第二級に限る)
二 電気通信術 和欧文の送信及音響受信
其の速度標準一分時
第一級 片仮名八十字 欧文二十語
第二級 第三級 片仮名五十字 欧文十二語(12語=60字)
三 無線電信法規 無線電信に関する一般法令(第一級 第二級に限る)、私設無線電信に関する法令(第三級に限る)
四 英語 初歩(第一級 第二級に限る)』
無線電信の実験を行うには、私設無線電信通信従事者資格検定規則の第一條において、第三級の無線電信通信従事者資格を要すると定めました。
ところがです!逓信省は「私設無線電信規則」第15條で、通信従事者の資格がなくても無線電信の実験用無線(法2條第5号)を運用できる「抜け道」を定めたのです。
第三級無線電信通信従事者の資格要件である "60字/分のモールス技能" を習得していないが無線機の設計技術者としては超一流という人たちにも電波実験ができる道を開いておくべきとの考えが当時の逓信省にあったことが伺えます。つまり「無線技術者=無線通信士」とは限らないだろうという考え方です。
実験用無線局を開設するには逓信大臣の許可が必要です。さらにその運用には通信従事者免許(今でいう無線従事者免許)も必要なのですが、特に逓信大臣の認可を得た者は通信従事者の資格なしで無線実験を行える道を開いたのです。
『 私設無線電信規則(大正4年11月1日施行)
第十五條 私設無線電信の通信従事者は私設無線電信通信従事者資格検定規則に依り相当資格を有するものなることを要す
但し無線電信法第二条第五号に依り施設したる私設無線電信の通信従事者にして特に逓信大臣の認可を得たる場合は此の限に在らず』
1926年(大正15年)5月25日に私設無線電信規則が改正され、逓信大臣からこの15條の「抜け道」の実施権が、逓信大臣から所轄逓信局長へ権限委譲されました(大正15年 逓信省令第17号)。
これ以降は地方逓信局の担当係員が、実験用無線(法2條第5号)の開局申請者に対して知識と技能の確認テストを行い、この規則第15條を根拠として、第三級資格の取得を免除しました。草間貫吉氏(J3CB)、梶井謙一氏(J3CC)、笠原功一氏(J3DD)ら、昭和前期のアマチュア無線家には所轄逓信局長の権限による資格免除規定が適用されました。
1928年(昭和3年)にJ3CCの免許を受けた梶井氏は次のように語っています。
『 最初の試験は大阪逓信局でうけた。科目は学科と電気通信術とだけであった。 』 (梶井謙一, "ハムと私", 『電波時報』, 1958.6, 郵政省電波監理局, p17)
なお地方逓信局でのこの試験に合格しても、無線通信従事者の資格はもらえません。これは第三級資格の取得を免除するか否かの「見極め試験」でしかないからです。
ちなみにこの免除規定のおかげで年齢制限(第三級の受験資格は17歳)を受けることなく実験用無線(法2條第5号)の開局が可能でした。例えば1931年(昭和6年)に免許を受けた札幌市の直井洌氏(J7CF)は15歳と10箇月1日目、東京の鈴木康夫氏(J1EP)は16歳と24日目に許可されました。
【参考】なお昭和13年5月10日(逓信省令第44号)、第三級無線通信士の年齢制限は14歳に引き下げられています。
戦前の我国では無線実験をするのに第三級資格(私設無線電信通信従事者資格検定規則 第一條)を要しましたが、「抜け道」規定(私設無線電信規則 第十五條)により、事実上は資格不要(局免許は必要)でした。参考までに、その後の変遷もご紹介しておきます。
● 実験用無線のオペレーター資格の変遷(おまけ)
1931年(昭和6年)7月1日、旧「私設無線電信通信従事者資格検定規則」が廃止され、新たに「無線通信士資格検定規則」(昭和6年 逓信省令第8号, 昭和6年4月1日官報告示、同年7月1日施行)が施行されました。実験用無線(法2條第5号)の運用資格が、「第三級の私設無線電信通信従事者」から「第三級の無線通信士」になりました(新規則第一條)。
このとき第三級の電気通信術が欧文80字/分、和文55字/分(のちに60字/分)に引き上げられ、そのうえ無線電信無線電話実験(機器の調整と運用の簡易なる実践)、無線電信無線電話法規(無線電信・電話に関する法令および条約の大要)、英語(中学校二年修業程度)の計四科目になりました。同じ日に「私設無線電信規則」も改正されましたが、「抜け道」(第15條)がそのまま残されました。 つまり資格取得は難しくなったのに、結局のところ、無資格のままで実験用無線(アマチュア無線など)の運用が出来ました。
1939年(昭和9年)1月1日、今度は旧「私設無線電信規則」の方が全面改正され「私設無線電信無線電話規則」(昭和8年 逓信省令第60号, 昭和8年12月29日官報告示、昭和9年1月1日施行)が施行されました。この新規則第36條に再び「抜け道」が盛り込まれました。
【参考】この全面改正の時に逓信省は実験無線(法2條第5号)に対し「実験用私設無線電信無線電話」という言葉を定義しました。ちなみに「私設無線電信無線電話実験局」という言葉は、戦後に広まった単なる俗称です。
戦時色がより強まった1940年(昭和15年)12月より逓信局内での運用方法が変更されました。今後一切「抜け道」は適用せず、実験用無線の新規開局および再免許の際には、電気通信技術者資格三級 [無線] または第二級無線通信士の資格がないと許可しないことを決めました。
日本アマチュア無線外史(岡本次雄/木賀忠雄, 電波社, 1991, pp99-100)に、安川七郎氏(J2HR)が東京都市逓信局より受取った届いた通知(都無監第48号, 東京都市逓信局)が掲載されていますので引用します。J2HRの局免許更新(11月)の際に、突然送られてきたもののようです。
『都無監第四八号
安川七郎殿 昭和十五年十二月四日
東京都市逓信局
実験用無線電信無線電話施設に関する件
右に関し今般左記の通決定相成候條諒知相成度
追而施設許可後左記第一号資格又は別紙電気通信技術者検定規則に依る詮衡検定申請資格具有者は証明書(合格証書写、卒業証書写、在学証明書、在職証明書)を添付の上その旨当局宛届出相成度
記
一 個人に対する許可は実験研究者が電気通信技術者第三級(無線)又は無線通信士第二級以上の資格を有する者 又は卒業後上記資格を詮衡に依り付与せられるべき学校講習所の学生生徒に限らるること
但しその他にして逓信大臣に於て必要ありと認めたるものは特に許可することあり
二 通信日誌抄録は爾今一通にてたること 』
実験用無線に求められる資格は、無線通信士資格検定規則で第三級無線通信士と定められているにも拘わらず、より難しい第二級無線通信士の資格を要求しており、理解に苦しみます。逓信省工務局の佐藤光男氏が無線と実験誌(実験用私設無線電信無線電話に関する規則取扱改正に就いて, 昭和16年1月号)を通じて、"あくまで地方逓信局内における「規則」の取扱い方(運用方法)の変更なので告示するものではない" と説明(弁明?)されているとおり、実は「無線通信士資格検定規則」も「私設無線電信無線電話規則」も一切改正されていないのです。日中戦争が拡大し、加えて日米間の雲行きも怪しくなった時期ですから、通信統制のさらなる強化を求める軍部からの要請による「超法規的措置」だったと推察します。
終戦9箇月前にあたる1944年(昭和19年)11月25日、水産無電協会が発行した漁業用無線電信無線電話関係法令集(改訂第四版)から引用します。第三級無線通信士の操作範囲には相変わらず実験用無線(法2條第5号)があります。 【参考】なお1943年(昭和18年)11月1日、戦時下につき逓信省と鉄道省が統合され、運輸通信省となった
『 ◎ 無線通信士資格検定規則 (昭和19年11月 時点)
第一條 無線通信士の資格は左の区別に従い試験または銓衡により運輸通信大臣の命じたる無線通信士資格検定委員これを検定す
・・・(第一級 第二級 略)・・・
第三級 無線電信法第二條 第一号 第二号 第四号および第六号により総噸五百未満の漁船に施設したる私設無線電信の通信、
同條 第三号により同漁船に施設したる私設無線電信の和文通信、
同條 第五号に依り施設したる私設無線電信の通信、
同條 第六号により受信に専用する目的を持って施設したる私設無線電信 および
同條 各号により施設したる私設無線電信の通信の補助ならびに空中線電力百「ワット」以下の私設無線電話の通信に従事し得る者
・・・(航空級 電話級 聴取員級 略)・・・』
また私設無線電信無線電話規則 第36條の「抜け道」もそのまま残っています。
『 ◎ 私設無線電信無線電話規則 (昭和19年11月 時点)
第三十六條の二 左の各号の一に該当する場合は前條の規定に拘らず無線通信士資格検定規則に依る資格を有せざる者をして私設無線電信無線電話の通信に従事せしむことを得
一 所轄逓信局長の認可を得て実験用私設無線電信無線電話(法2條第5号のアマチュア無線など) 若くは 無線電信法第二條第六号に依り受信に専用する目的を以て施設したる私設無線電信無線電話 又は之に準ずべきものの通信に従事せしむる場合
・・・(略)・・・』
逓信省としてはアマチュア達の事情も加味しながら、まず試行運用をしてみて、そのあとで正規の規則改正に手を付けるつもりだったのではないでしょうか?たとえばJARLは地方逓信局と交渉し、これまでの実務経験で(無試験で)電気通信技術者資格三級(無線)資格を得ることを認めてもらったように、地方逓信局はかなり柔軟に運用しようとしていたことが伺えます。ところが1941年(昭和16年)12月の日米開戦により個人の実験用無線を全面禁止したため、この「超法規的措置」も、そして本来おこなうべきだった「規則改正」も不要となり、そのまま戦後まで放置されました。
1946年(昭和21年)10月31日、水産無電協会が発行した漁業用無線電信無線電話関係法令集(改訂第五版)より引用します。
下図[左側]、無線通信士資格検定規則(第1條)の第三級無線通信士の操作範囲には法2條第5号施設(実験用私設無線)とあります。また下図[右側]の私設無線電信無線電話規則(第36條の2)には所轄逓信局長が実験用私設無線(法2條第5号施設)の運用資格を免除できる「抜け道」がありますね。これは戦前ではありません。終戦後です。
(終戦後[1946年] 時点) 1940年(昭和15年)12月から日米開戦でアマチュア無線が禁止された1941年(昭和16年)12月までの1年の間に再免許手続きをされたOM各局に対して、地方逓信局が正規の規則改正の手続きを踏まないで「第二級無線通信士」または「第三級電気通信技術者(無線)」を求めてきた話は、戦後のアマチュア無線界でも良く知られるところです。しかしそれは日中戦争が泥沼化した戦時下における超法規的な措置でしょう。
いわゆる戦前のアマチュア無線に求められた運用資格は、1915年(大正4年)11月1日より終戦後まで、規則上では一貫して「第三級無線通信士」です。元JARL会長の原昌三氏(JA1AN)がアイコムの週刊BEACONで以下のように述べられているとおり、けして「第二級無線通信士」や「第三級電気通信技術者(無線)」ではないのです。
『戦前、私はアマチュア無線の免許を取れなかった。アマチュア無線の資格は3級無線技士(通信士の誤記)以上であり、さらに逓信省は昭和15年になるとハムの免許を中止した。』 (原昌三, 「24)アマチュアバンド拡大の歴史(1)」, 週刊BEACON)
ですからまず最初に、正規の規則(無線通信士資格検定規則および私設無線電信無線電話規則)に沿って、求められた資格と、その取得免除規定の説明を行ったうえで、昭和15年12月の特殊な措置について言及した方が、誤解が生じなくて良いのではないでしょうか。
●それでは日本での私設無線の免許について下表に整理しておきます。
1900年(明治33年)10月9日まで
1900年(明治33年)10月10日より
1915年(大正4年)10月30日まで
1915年(大正4年)11月1日より
無線は誰がやるのも自由。
無線で何をやってもおとがめなし。(国家管理せず)
「電信法」により、無線電信と無線電話は政府だけが行う。
私設(民間企業や民間個人)無線は一切認めない。受信も禁止!
「無線電信法」により、私設で無線(含む受信)をするには
(個人・法人を問わず) 主務大臣(逓信大臣)の許可を受けよ。
WEB上では『(大正時代には)個人が電波を出すことについて、良いとも悪いとも法律に書かれていなかった。』との記述を目にすることもありますが、大正4年施行の無線電信法第2条が無線を施設するのに(電波を出すのに)「主務大臣の許可」を求めているのですから、「良いとも悪いとも法律に書かれていない」との主張はおかしいでしょう。
それに許可無く施設したり、使用した場合の罰則も大正4年の無線電信法第16條にきちんと定められています。個人とか、法人とか、そんなことは関係なく、誰であっても電波を勝手に使うことが罪です。大正時代の日本は、立派な「法治国家」ですから!
『 第十六條 許可なくして無線電信、無線電話を施設し 若は許可なくして施設したる無線電信、無線電話を使用したる者 又は許可を取消されたる後 私設の無線電信、無線電話をしたる者は1年以下の懲役 又は八千円以下の罰金に処す
前項の場合に於て 無線電信又は無線電話を他人の用に供し因て金銭物品を収得したるときは之を没収す 既に消費又は譲渡したるときは其の金額又は代価を徴収す 』
さらにさかのぼれば、我国では明治33年の逓信省令第77号で「無線は政府以外には使わせないぞ」と宣言したときから、たとえ個人であっても電波を出すことが禁じられてきたわけです。我国で自由に電波を送信や受信できた時代は、1900年(明治33年)10月9日をもって終了しました。もし『 明治33年10月9日までは、個人が電波を出すことについて、良いとも悪いとも法律に書かれていなかった。 』であれば、これは正解ですね。
また近年になり『アマチュア無線に関する法律がなかったのだから、JARL創設メンバーをアンカバーと呼ぶかは疑問。』というおかしな理屈も出てきたそうですが、アマチュア無線制度が有ろうが、無かろうが、"無線をするには大臣の許可が要る" と法2條で定められている以上、許可を得ずに運用するのは「アンカバー」でしょう?私はそう思います。
世界的にみて27MHzのCB無線はアンカバー活動が先行し、その取締りに手を焼いた電波行政当局が、後追いでCB無線制度を創設した(アンカバーを合法化した)国がとても多いです。私はそんな27MHzの歴史に対して「その国にはまだCB無線制度が無かったから、彼らをアンカバーと呼ぶかは疑問。」などとは、とてもいえません。CB無線制度が有ろうが、無かろうが、それは不法運用でしょう。違いますか?
もちろんJARL創生期の大先輩の方々をなんとか擁護したいという気持ちは私にも理解できます。ですが創設メンバーの笠原氏らはJARL創設の年の秋に、無線電信法違反で検挙されており、自分たちはアンカバー通信をやっていたと、あっけらかんと本に書かれています。はたして天国にいらっしゃる笠原氏らが、法を超越した擁護論を歓迎されるのでしょうか?
【参考】当サイトは「電波は誰のも?」を基本テーマとしています。JARLがアンカバー団体としてスタートしたことは事実として受け入れた上で、そのアンカバー活動が自己の楽しみの追求だけではなく、「法2条第5号」を平等に運用していたとは言い難い(と、少なくとも笠原氏は考えていたようです)、逓信省へのレジスタンス行為でもあっただろうと私は解釈しています。
大正12-15年頃は、自由な気風の世に生きる全国ラヂオファンたちが、ほんのわずかしか無線(放送実験・電波実験)を許可しない逓信省と衝突していましたし、「空中自由論(電波はみんなのもの)」という考え方が公に登場したのもこの頃でした。無線界にも大正デモクラシーの一端が見えます。
大正4年制定の無線電信法 第2條第5号で「実験用無線」が定められました。下図[左]は大正11年に免許された濱地常康氏(東京1番、東京2番)の官報告示で、この法2條第5号による許可です(同じ年の本堂氏や、翌大正12年の安藤氏も法2條第5号による免許)。
また下図[右]は昭和2年に免許されたJARL総裁の草間貫吉氏(JXAX)の官報告示で、濱地氏らと同じく大正4年制定の法2條第5号による許可なのです。この件については一切触れないまま、草間氏が免許されるまで「アマチュア無線に関する法律がなかった」と主張されても、まったく説得力がありませんね。ちなみに1941年(昭和16年)の日米開戦までに開局した戦前アマチュアはすべて、1915年(大正4年)に作られた「法2条第5号」による免許です。(この件もスルーされる事がとても多いです)
【参考】 戦前の官報は、その無線局の許可日や許可番号を開示していません(官報告示の日付や番号は、許可日や許可番号ではありません!許可日や番号は別途調査しない限り知り得ない)。たとえば昭和2年3月1日に許可された有坂氏(JLYB)の無線施設が官報で告示されたのは昭和2年4月5日で、なんと一ヶ月以上も経ってからの官報掲載です。つまり官報の日付に特に意味はなく、あえて言えば "皆に知らせた日"。ただそれだけです。
1927年(昭和2年)9月7日、草間貫吉氏にJXAXが免許されたのは、その直前に「法(または規則)が改正されて、アマチュア無線が認められたからだ」という意見もありますが、これも完全に誤りです。1926-1927年(大正15年-昭和2年)頃にアマチュアの認可に関して、無線電信法や私設無線電信規則が改正された事実はありません。
ただしこの時期に、新たに台頭してきた短波を使う電波実験の許可基準に関して、地方逓信局へ「短波開放通達」(電業第748号, 大正15年7月10日)が出されています。しかしこれは法改正でも、規則改正でもありませんので誤解されませんように。草間貫吉氏(JXAX)は濱地常康氏(東京一番, 二番)と同じく、"1915年(大正4年)に作られた実験用無線(法2條第2号)" として許可されました。法律上、何ら変化はありません。
それに「短波開放通達」電業第748号によって示された短波実験の許可に関する審査方針(運用方法)が、個人申請者に適用されたのは草間氏よりも、1926年(大正15年)10月の安藤博氏(JFPA, 38m/80m, 電業第2316号, 1926.10.8)や、1927年(昭和2年)3月の有坂磐雄氏(JLYB, 38m, 電業第561号, 1927.3.1)の方が先です。
49) 実験用無線機の製作指南本が出版される (1915年) [アマチュア無線家編]
さて「実験用無線」制度の創設に合わせたのか、1915年(大正4年)2月に一般人(アマチュア)向けとして日本初になる無線機の製作指南書「簡易無線電信機の製作法」が出版されました。筆者は東京の河喜多能直氏です。
この本に刺激された読者により、我国にもアマチュア無線実験家が誕生した可能性があります。すなわち河喜多能直氏は「日本のアマチュア無線実験家の父」といえるかもしれません。
『緒言
無線電信の装置には多額の費用を要する様に一般の人から想像せられて居る。然(しか)し乍(なが)ら、無線電信の研究は余り費用を要せずして甚だ興味あるものの一つであって、特に本書に指示したる装置は何人と雖(いえど)も安価に製作し得るものである。・・・(略)・・・読者中一人たりとも此(この)装置を実験せられ以て筆者に報告せらるれば此小冊子の目的は足るのである。
大正四年二月 河喜多能直』 (河喜多能直, 『簡易無線電信機の製作法』, 1915, 以文館, pp1-3)
しかし想像以上に「法2条第5号」の門は硬く閉ざされており、仮に無線を実験した人がいたとしても、それらはアンカバーでした。このあと、正規の個人実験局が誕生するまでにおよそ7年もの歳月を要しました(第一号は浜地常康氏)。
以下に目次を書き出しましたが、Web上でこの「簡易無線電信機の製作法」が閲覧できます。
第一編 無線電信の基本的硏究
第一章 火花放電が附近の導體に及ぼす影響 (P1)
第二章 コヒラー及リレー (P7)
第二編 簡易無線電信機製作上の注意
第一章 感應コイルの製法 (P14)
第二章 感應コイル用電池 (P21)
第三章 電鍵及火花間隙 (P24)
第四章 空中線の形狀 (P26)
第五章 コヒラー及リレーの選擇 (P28)
第三編 實驗用無線電信機製作法
第一章 實驗用無線電信送信機 (P29)
第二章 實驗用無線電信受信機 (P34)
第四編 一哩(=1.6km)乃至五哩(=8km)用無線電信機製作法
第一章 一哩乃至五哩用發信機 (P41)
第二章 一哩乃至五哩用コヒラー受信機 (P50)
第三章 一哩乃至五哩用驗波器受信機 (P54)
第五編 著者が考案せる最簡易無線電信說明用裝置
第一章 發電方法 (P57)
第二章 リレー其他の製作方法 (P60)
第六編 電波の利用方法
第一章 無線爆發裝置 (P63)
第二章 無線操縱裝置 (P66)
第七編 共鳴式無線電信
第一章 共鳴作用の說明並にタンピング係數 (P69)
第二章 クェンチト火花間隙及カップリング係數 (P72)
第三章 インダクタンス及電氣容量 (P79)
第四章 簡易共鳴式無線電信 (P83)
第八編 火花放電論
第一章 蓄電器の火花放電及變退電波 (P90)
第二章 不變退電波發生裝置 (P93)
第三章 火花を出し得る最小電壓及限界間隙 (P94)
第四章 火花の長さと電位との關係 (P97)
第五章 火花の後れ (P100)
第九編 驗波器總論
第一章 ヘルツ驗波器 (P101)
第二章 コヒラー (P102)
第三章 磁氣驗波器 (P105)
第四章 電解驗波器 (P106)
第五章 熱驗波器 (P108)
第六章 礦石驗波器 (P109)
第七章 眞空驗波器 (P110)
筆者である河喜多能直氏はこの本を出す前から "無線爆破装置" の発明者として一部では知られていましたし、検波器に性能に関し文中で『自分の実験に依れば(検波器より)コヒラーの方が反って確実である』と語っており、実際に電波を発射しそれを受けていたと考えられます。
「日本のアマチュア無線実験家の父」ともいえる河喜多能直氏ですが、その経歴は良く解りませんでした。東京市工場要覧(東京市役所編, 1926, p126)によると、この『簡易無線電信機の製作法』の出版から4年後の1919年(大正8年)9月に、医療機器メーカー「河喜多研究所」(東京市本郷区駒込林町174)を創業されています。
河喜多研究所の主力製品はヴィオラーという電波治療器でした。もしかすると日本のISMの祖である伊藤賢治氏(無線と実験誌の創刊者)のライバルに当たるのでしょうか?1922年(大正11年)の書籍で、河喜多研究所特約店の米田喜一郎氏が河喜多能直氏を以下のように紹介しています。
『河喜多研究所
本所はただ一時的の、紫光線治療器のみの研究所にあらず。所長河喜多能直氏は、電磁気に関する、世界的有数の研究家にして、その献身的なる事は、過去十数年の発明品において、既に特許権を得しもののみにても、百数十件あるを見て人呼んで、東洋のエヂソンと称するゆえんである。
発明品の主なる物は、電気に依る海深測定装置。同自動記録装置。飛行機。汽車。汽船その他の機械を電波にて操縦する装置。簡便なる空中窒素固定装置。気流測定器。油田測定器。電解用白金電極板。アルカリ電解。無線電信。無線電話。軽便なる無線電鈴。児童警報器。電送写真。X光線。同光量計。同スイッチ。各種デアテルミー等の外、その数実に数百の多きに達するのである。
なかんづく従来の、X光線、デアテルミー、紫光線装置等には、完全なる冷却装置なきをもって、自ら優秀を誇る、舶来品においても、故障を生じやすく、使用に堪えざるもの多きを遺憾とし、本所独特の装置を発明し、特許権を得、まず帝国大学病院の賞賛を得て採択となり、次いで順天堂病院その他、著名病院は外国製品を廃し、本所製品の採用せられおる点は、天才的なる所長をはじめ、技工手に至るまで、利欲を度外視し、専心これ研究に没食せる、責任観念の結晶なる事を、広く内外に声明して、あえてはばからぬ所である。』 (米田喜一郎, 『ヴィオラー:紫光線電波治療器』, 1922, 河喜多研究所)
なお前述の東京市工場要覧によれば、河喜多研究所の従業員数は94名 [男65、女29]です(大正15年)。
50) 日本に短波を使うアマチュア実験家が誕生か? (1916年) [アマチュア無線家編]
1916年(大正5年)には入船勝治氏が子供向けに出版した『誰にでもできる実用電気玩具製作法』の中で実験用無線機の製作方法を取上げました。これは前述の河喜多能直氏の「第三編 實驗用無線電信機製作法」にある送信機と受信機を、入船氏が抜粋し(河喜多氏の許可を得て?)再掲したものです。子供向けを意識してか、語尾が少々柔らかになっていますが、基本的には河喜多氏の記事のままです。
第九章 無線電信の理論と実験用無線電信機製作法
発達 (P127)
大要 (P128)
送信機の製作法 (P129)
受信機の製作法 (P134)
検波器受信機の各部分 (P138)
単純な無線電話装置 (P140)
我国における子供文化研究の第一人者だった上笙一郎(かみ・しょういちろう)氏が、2004年(平成16年)に江戸時代から太平洋戦争の終戦直後までの児童遊戯に関する書籍を集めた「叢書 日本の児童遊戯」全25巻を出されました。
『日本の子どもの遊びの内容を良く示し、日本の子どもの遊びの思想・心情を典型的に表し、日本の子どもの遊びの歩みを豊かに語っているものを選んで、ここに復刻=提供するのである。 』 (上笙一郎, 『叢書日本の児童遊戯』 [別巻], 2005, クレス出版, pp1-2)
入船勝治氏の『誰にでもできる実用電気玩具製作法』は、『叢書 日本の児童遊戯 第21巻』で復刻されました。春日明夫東京造形大学教授の解説を引用します。
『 (1)著者について
この本の著者(入船勝治氏)の経歴等については不明である。人物辞典などにも掲載がないため、目立った大きな功績はないように思われる。しかし、序を書いた農商務省特許局技師で工学博士の坂田貞一氏によれば、大阪人で早稲田大学理工科電気科の出身と記述されている。また、著者についての説明はどこにも見当たらない。ただ、奥付けには大日本電気研究所編集部編纂とあるので、おそらく彼はこの大日本電気研究所に関係深い人物であることは間違いないものと考えられる。
(2)本書の構成と概要
・・・(略)・・・題名には実用電気玩具の製作法となっているが、実際にはほとんどが電気や磁石などの基本的理論を示している内容構成である。しかし、この大正時代という背景を考えてみると、一般の人や子どもたちにとって難解である電気学が、玩具の製作という観点から執筆されている点に親しみを持つものと考えられる。さらに、各ページには図やイラストの挿絵が掲載され、難解である電気学の雰囲気を親しみやすく変えている点に、本書の特徴を見ることができる。 』 (春日明夫, 『叢書 日本の児童遊戯』 [別巻], 2005, クレス出版, pp193-194)
入船勝治氏と(学校や研究機関への理化学実験器具の製作販売していた)大日本電気研究所の関係ついては、書中では明らかではありません。しかし入船氏は "もし読者が部品の入手に困ったなら同社が実費で供給する" と述べており、大日本研究所に勤める研究員か、あるいは経営者だったのかもしれません。
少ないパーツで作ることができる非同調式無線機ですから、もし部品供給が保証されるのなら、電波実験は成功したも同然でしょう。私はこの点に注目したいと考えます。原設計者である河喜多能直氏がまず称えられるべきは当たり前として、製作部品を提供した入船勝治氏の役割も評価されるべきでしょう。
入船勝治氏の文頭の言葉を引用します(内容は同じですが、下の図は復刻版ではなく初版本です)。
『 (一)進歩または文明という語の一面は理化学応用の程度を示しているのである。げに吾人の日常目撃する一時一物は巧妙なる理化学の応用に過ぎぬものはない。しかるに電車は走るもの。冬は寒いもの。手品や魔術は不思議なものと独り合点して納まっている時代ではない。何故に「なぜ」(Why)を連発せざるや。金さえだせば玩具は買える。学校には出席さえすれば実験は見られるでは実に嘆かわしいではないか。ホワイを解決したならば、更に進んでこれを試作して見ようとの決心を起こして欲しいのである。・・・(略)・・・
(二)本書を編むに当たりて、最も苦労せる所は如何にせば電気というようなこむづかしい七面倒な高等なる学理を至極平易に子供にも面白く理解せしめるかという点である。・・・(略)・・・
(六)各工場においては皆、製作上における秘密を有して一般人の伺うを許さないため、たとえ専門学者の手を借りて製作するも、効率その他に欠点を生じて到底実用に供するを得ないが、本書は電気趣味普及のため忌憚なくこれら製作上における秘密を発表して読者の製作上の便宜をはかったものある。
(七)本書を熟読してその製作法を知ると共に、製作に当たりて材料を要する事もちろんなれども、その材料は坊間(ぼうかん=市中)に販売せざるもの多きため、材料収集に困難せらるる事と思う。大日本電気研究所は読者の便を計り、電気玩具その他の電気器具製作に要する確実なる材料を実費をもって供給し、また疑問に対しては何時にても詳しく解答するつもりである。 』 (入船勝治, 『誰にでもできる実用電気玩具製作法』, 1916, 大日本電気研究所, pp1-4)
送信機・受信機ともに非同調式です。米国のアマチュアに遅れること10年にして、ようやく我国でもアマチュア向け無線機の製作記事が見られるようになりました。屋外通信用にアンテナは高さ20尺(6m)以上としています。もし全長8mの垂直線を張ったとして、発射される波長は32m(9.4MHz)付近の短波です。
製作方法がとても詳しく書かれていますので、きっと入船氏自身も電波実験を行ったのでしょう。そして部品の供給を受けた読者により、短波を使う「町の実験家」が1916年の日本に誕生したものと考えられます。
送信機の製作法を引用します(なおこの原作者は河喜多能直氏です)。
『送信機の製作法
この機械の製作に先だって次のようなものが必要である。
(1)一糎半(=1.5cm)感応コイル(Induction Coil)
(2)加減火花間隙
(3)電池
div> (4)電鍵
(5)空中線
(6)地板
(インダクションコイルについて)
この装置の中で最も必要なものは感応コイルであって、このコイルの大小によって通信距離を自由にされるのであって、一糎半(1.5cm)のコイルというのは一番大きく出る火花の長さが一糎半(1.5cm)になるコイルのことである。このコイルの断続器はスプリングで作ってあって底部にパラフィン蓄電池が挿し込んである。日本の電機店で普通、四円ないし拾円で売っている。又ここに一つの利用法がある。それは即ちガソリン機関の発火装置用のコイルを使うことである。何れにしても一糎半(1.5cm)の火花さえ発するものならいいのである。
(放電球について)
そして小さなコイルには放電球を付けたものがほとんどないため(放電球は)自製の外(ほか)ない。放電球を製作するにはまず如何なる金属でも差支えないから、ダライ盤にかけて直径一糎ないし二糎(1-2cm)の球を作るのである。この球は正確な球である必要はないがその表面は平滑にするようにつとめなければならない。そして直径三粍(3mm)、長さ10糎(10cm)の針金を挿し込むのであるから相当な穴をうがって針金を螺旋仕掛けか、はんだで付けてしまうのである。
針金は第四十五図のように曲げて感応コイルの二次線の両極中に挿入した後で、その距離を加減し火花間隙の大きさを自由に出来るようにしておくのであって、もし室内で実験するなら四個位の乾電池で沢山である。また室外なれば六個ないし八個用意しなければならない。
(電鍵について)
電鍵は普通電信に使用する様なものでなく第四十四図の様な簡単な物で充分である。製法はまず真鍮版をはさみで長さ八糎(8cm)幅一糎(1cm)のものに切り取って他端には木製の釦(ボタン)を付けて釦の真下に一つの螺旋を挿入して接点として置くので、その接続法は点線で示してある通りにするのである。
(連結法およびアンテナ・アースについて)
第四十五図は発信機接続法を示したもので室内の通信用には空中戦は長さ六十糎(60cm)ないし九十糎(90cm)のものを直立し、その下端は火花間隙に一方に連結し、他方の一極は針金を付けてテーブルに下に垂らすのであるが、もし一つの辺が三十糎(30cm)位の銅版を空中線の上端に、また垂下させた導線の下端におのおの取り付けるならば三十米(30m)の通信は確実にすることが出来る。戸外通信で一哩(=1mile=1.6km)の通信をしようと思うなら空中線は少なくとも二十尺(=6m)の高さがいる。
地線は一米(1m)平方位の銅版を付けて深く地中に埋めなくてはならない。また川、湖水あるいは海辺においては水中に浸してもいい。また市街では水道管に連結しても差支えないのである。
(送信機の調整について)
送信機をしらべるには断続器の白金接点を軽くスプリングに接触させて電路を閉じると盛んにスプリングは振動し始める。このとき火花間隙は一・五粍(1.5mm)位にして、三粍(3mm)以上にしてはならないのである。 』 (入船勝治, 『誰にでもできる実用電気玩具製作法』, 1916, 大日本電気研究所, pp129-134)
受信機はコヒーラ(デジタル式)と、無線電話も復調できる検波器(アナログ式)が解説されていますが、前者の製作法を引用します。
『受信機の製作法
受信装置には二種類あって一つはコヒラーを使ってモールスの印字機を動作させるものであって、他の一つは自己回復の作用をしている検波器を使って受話器で音響を聴いて通信するものである。いま一つをコヒラー受信機といい、他を検波器受信機と名付けて製作法を説明しよう。
コヒラー受信機の各部分
(1)ニッケルの粉末を入れたコヒラー
(2)電鈴
(3)七十五オームの抵抗を有するリレー
(4)乾電池
(コヒーラについて) コヒラーの製作法はターミナル二個を第四十六図の様に長さ九糎(9cm)、幅六糎(6cm)の木片に取付けて、ターミナルの相互の間隔は三糎半(3.5cm)位とするのであって、図に示すように直径三分の一糎(1/3cm)位の針金を取付けておく。いま直径三粍(3mm)、長さ三糎半(3.5cm)ばかりの真鍮線を切ってターミナルの穴に差し込み、硝子(ガラス)管の長さ二糎半(2.5cm)、内径三粍(3mm)のものを図のように取付け、新しい鑢(ヤスリ)で五セントのニッケル貨幣の粉末を作って、これを封じるのである(日本の五銭白銅貨はニッケル二五%、銅七五%から成立っている。しかし純粋のニッケルが良好なのはいうまでもない)。
(リレーについて)
リレーは約七十五オームばかり巻いたものであって、ポニーリレーといわれている種類のものである。このリレーには四個のターミナルを付けて、そのうちの二つのターミナルは、コヒラーに連結し他の二つは局部電路の方に連結されるものである。電鈴から鈴を除いたものはコヒラーを打撃するのに使われる(デ・コヒーラ用)。この打撃は電波によってコヒラーが永久的導体に変ずるのを防ぐものであって、電波が来る時のみコヒラーを打つのが動作するのである。
(連結法およびアンテナ・アースについて)
この装置は一個の乾電池をコヒラー打撃電路およびコヒラー電路に共用したものである。それからその連結法は第四十七図のように(1)のコヒラーのターミナルは(2)のコヒラーのターミナルに連結されて、他方のリレーのターミナルは乾電池の炭素極(4)に連結されている。また乾電池の亜鉛極(5)は(6)のコヒラーのターミナルに連結されている。また(4)からは(7)のリレーのターミナルに連結する線を出し、また(8)からは(9)のコヒラー叩きのターミナルに連結し、また一方のターミナル(10)は(5)に連結されている。空中線と地線は同じ長さで、コヒラーのターミナルの(1)と(6)に連結するのである。
(受信機の調整について)
受信装置を調節するには先ずリレーの調節用螺旋を回転して、リレーの局部電路を閉じる接点が相触れるようにして極弱電流でもコヒラーが感ずるようにしなければならない。またコヒラーの栓の相互の間隔を加減し乾電池からの電流がコヒラーを通ろうとする所で止まるのである。この加減の如何によって通信距離は変化するのである。
(通信の原理)
もしこれらの調節を終ったのち、発信機の電鍵を閉じると放電球間に火花が飛んで、空中線から電波を発射するのである。この電波が受信機の空中線に達すると、これに誘発された振動電流がコヒラーの抵抗を数オームに下げてしまう(普通三十オームないし五百オーム位に低下する)。そしてこのコヒラーには電池の直流が初めて流通する様になってリレーを動作させて電鈴あるいはコヒラー叩きの電路を閉じるのである。コヒラー叩きがコヒラーを打てば、コヒラーの抵抗は殆ど無限大に増加して、再び電波が来なければ抵抗は低下しなくなるのである。 』 (入船勝治, 『誰にでもできる実用電気玩具製作法』, 1916, 大日本電気研究所, pp134-138)
【参考】 真空管式無線電話送信機の製作法が加わった改訂版にあたる『最新図解 実用電気玩具の作り方 並に日用家庭電機の製作法』が1926年(大正15年)に誠文堂書店から出されました。
51) 逓信省がアマチュア無線の免許を渋った理由 [アマチュア無線家編] ・・・2017年9月27日新規
法的には個人でも無線実験(法2條第5号)ができる道が開かれましたし、河喜多氏と入船氏が無線機の製作本を出しました。
【参考】さらに1916年10月には『簡易電気玩具の製作法 : 応用自在』(帝国電気学協会編)が出ました。やはり河喜多式の送信機と受信機の製作記事がほとんどそのまま再掲されています。
ただしこれらの製作本では具体的な開局手続きを説明していません。
実際には、実験無線(法2條第5号)の開局手続きは、無線電信法と同時に施行された私設無線電信規則第六條に従うことになっています。
『 ◎ 私設無線電信規則(大正4年11月1日施行) 【注】第39條(附則)で無線電話にも準用を規定
第六條 私設無線電信を施設せんとする者は願書に左記各号の事項を記載したる書類を添付し逓信大臣へ差出すべし 其の第一号乃至第四号の事項を変更せんとするときも亦同じ
一 施設の目的 及 施設を必要とする事由
二 機器装置場所 府県郡市区町村字番地(船舶の名称)
三 工事設計 機器種類、装置方式、電柱(櫓)の高、電力、昼間所要通達距離、補助設備を要する時はその設備
四 通信執務時間
五 船舶の種類、総噸(トン)数、所有者、航路及定繋港(内地に於る主なる碇泊港を定繋港とすべし) 【注】法2條第5号は不要
六 落成期限
前項第二号の船舶内装置の箇所 及 第三号の装置方式は別に図面を以て之を表示すべし
第七條 前條第五号及第六号の事項を変更したるときは速に其の旨を逓信大臣へ届出づべし 但し定繋港の変更に限り同時に旧所轄逓信局又は管理事務分掌一等郵便局へも届出づべし
(第7條 省略)
第八條 私設無線電信の装置工事落成したるときは速に之を逓信大臣へ届出づべし
第九條 逓信大臣前條の届出を受けたるときは検査吏員を派遣し機器及其の装置を検査せしめたる上 検定証書を交付す 但し特に検査の必要なしと認むるときは直に仮検定証書を交付す
(第10-17條 省略)
第十八條 私設無線電信は第九條に依る検定証書又は仮検定証書の交付を受けたる後に非ざれば其の使用を開始することを得ず
第十九條 私設無線電信の使用を開始したるときは速に其の旨を逓信大臣へ届出づべし・・・(略)・・・
第二十條 私設無線電信の使用は左記各号に従うことを要す 但し第二十二條乃至第二十四條に依る通信(遭難通信等)に関する場合は此の限りに在らず
一 無線電信に依る公衆通信 又は 軍事通信に支障なきものとす
二 船舶に施設したるものの使用は航行中に限ること
三 無線電信法第二條第五号に依り施設したるものの使用は他の無線電信の通信に支障なきときに限ること』
このように「工事設計の装置方式に関する図面を別途添付せよ」(施行規則第6條)と言われても、記入見本も無く、これでは素人には手が出せませんね。
開局手続きに関する書類を定めた上記、私設無線電信規則の第六条は、1926年(大正15年)5月25日の改正で、申請者により分かりやすい条文になりました(大正15年5月25日 逓信省令第17号)。下記の茶と赤字部分が変わりました(とくに赤字は実験用無線の申請者を意識した改正部分)。
『第六條 私設無線電信を施設せんとする者は願書に左記各号の事項を記載したる書類を添付し陸上に施設するものに在りては逓信大臣、船舶に施設するものに在りては所轄逓信局長へ差出し其の許可を受けるべし 其の第一号乃至第四号の事項を変更せんとするとき亦同じ
一 施設の目的及施設を必要とする事由
実験を為すものなるときは実験の種類及実験者の経歴を付記することを要す
二 機器装置場所 府県郡市町村字番地(船舶の名称)
三 工事設計
(イ)送信装置 装置方式、各機器の種類、電源設備、空中線電力、送信可能電波長及昼間通達距離
(ロ)受信装置 装置方式、増幅器種類及受信可能電波長
(ハ)補助設備 装置方式、電源設備、各機器の種類、送信可能電波長及昼間通達距離
(ニ)電柱(櫓)の高さ、空中線形状、空中線固有電波長及接地方式
(ホ)第四條の二の設備及物品の種類
(へ)実験を為すものなるときは空中線疑似回路
四 通信執務時間
五 船舶に施設するものなるときは船舶の番号、種類、総噸数、所有者、航路定限、就航方面、旅客定員、船員数及定繋港 内地に於ける主なる碇泊港を定繋港とすべし
六 落成期限
前項第三号の事項に付いては別に先の図面を願書に添付すべし
(イ)空中線、通信室、機械室及電源設備の位置を示す船体図面又は装置箇所附近図面
(ロ)送信装置、受信装置及電源設備の接続図面
(ハ)電柱(櫓)及空中線の大さ及形状を示す図面
(ニ)送信装置、受信装置及電源設備の配置図面 』
1917年(大正6年)8月3日、有線の「私設電信電話監督事務規程」を無線にも拡張した「私設電信電話 無線電信無線電話 監督事務規程」(大正6年8月3日逓信公報 公達第472号)を定めました。これにより各地方逓信局が私設無線の申請窓口(第2條)となり一次審査をする(第3條)ことが明文化されたのです。いわゆるアマチュア無線に相当する実験施設(法2條第5号施設)の開設申請は、各地方逓信局において「実験の種類、目的、実験者の略歴」が審査されました。
『 ◎ 私設電信電話無線電信無線電話監督事務規程(大正6年8月15日施行)
第一條 施設電信規則又は私設無線電信規則に依る施設の監督に関しては特に定むる場合を除くの外本規程に依る可し
第二條 私設電信規則又は私設無線電信規則に依り逓信大臣へ提出する書類は所轄逓信局又は管理事務分掌一等郵便局(以下分掌局と称す)に於て調査し 記載事項又は添付書類に不備の廉ある者は相当訂正を為さしめたる上 之を受付可し
第三條 逓信局長又は管理事務分掌一等郵便局長(以下分掌局長と称す)は前條に依り受付たる書類に関し左記各号を精査し意見を具し 之を進達す可し、 其他局管内に関係あるものは自局管内に属する部分に対し意見を具し 順次関係局を経由することを要す
一、 施設を必要とする事由の適否
(二から十二、十四、十五、は省略)
十三、 私設無線電信規則第二條(=無線電信法第2條第5号)に依り施設するものに関しては其の実験の種類、目的及実験者の略歴
・・・(略)・・・ 』
【参考】1920年(大正9年)11月の改正(大正9年11月6日逓信公報 公達第985号)で、上記第三條の十三は、第三條の十四へ横滑り移動した。(大正9年11月15日施行)
大正時代に個人で正規の実験免許(法2條第5号施設)を得ることができたのは濱地常康氏、本堂平四郎氏、安藤博氏の三名に限られました。おそらく最寄りの逓信局に開局申請の方法を問い合わせた方もいらっしゃったでしょうが、きっとつれない応答で、この3名を除き、みんなアンカバー運用になったのでしょう。
逓信省が法2条第5号の許可に慎重だったのは事実です。ではなぜなのでしょうか?まず日本のアマチュア無線の初期の歴史を年表に整理してみました(下表)。
無線を扱う法律(電信法と無線電信法)では、私設の無線実験をどのように規定していたか?これについては表中の「黄色」の部分でその変遷(方針転換)が説明できます。そしてその結果、おなじみの濱地氏や草間氏に実験許可が出ました。それは表中の「緑」で示しました。ここで取上げたいのは無線電信法の施行から濱地氏の免許まで7年近くも掛かった理由です。
たしか学校の歴史の時間に、「仏教伝来」とか「鉄砲伝来」とかの出来事を教わりましたが、「伝来」という出来事の中に歴史上の重要なヒントが隠れていることがあります。実は「アマチュア無線」もそうなのです。いつ、どんなニュアンスで「アマチュア無線」が我国に伝わったかが、とても重要な意味を持っていて、その後の逓信省や海軍省に大きな影響を与えました。つまり"アマチュア無線の伝来" は、日本のアマチュア無線の歴史を説明する上で外せない出来事だと私は思います(現実はそれが全く軽視されています)。
前述しましたが、天洋丸TTYの木村平三郎局長により我国にアマチュア無線が伝えられたのは、1910年(明治43年)春です。米国の無線少年達が軍用局や商業局に混信を与えて社会問題になり、アマチュア無線を禁止する法案が議会に提出されたという、とてもネガティブなニュースでした。
それを逓信職員で構成される通信協会の通信協会雑誌1910年(明治43年)5月号が報じましたので、日本全国の逓信職員が「学生小児実験家による娯楽的無線電信」(アマチュア無線)という "ヨロシクないもの" が米国で勃興したことを知りました。
それにしてもファースト・インプレッション(第一印象)が悪すぎです。まるで社会を混乱させる「悪の電気遊戯」です。無線電報をビジネスとする逓信省や、艦船との無線連絡を行う海軍省にすれば、そんな迷惑な「学生小児実験家による娯楽的無線電信」など、自国では許可したくないと考えるのは当然でしょう。
やがて同調式無線機が普及し、アマチュアからの混信問題が下火になった1914年(大正3年)5月に、米国のアマチュアがARRL(アメリカ無線中継連盟:American Radio Relay League )を結成し、再び逓信省を刺激しました。それはARRL3文字目のRelay=中継です。(米国では公衆電気通信が民営事業なので政府は無関心ですが)日本ではA地点からB地点へのメッセージの一切の伝達(はがき、封書、電報、電話)は逓信省が独占的に行う有料ビジネスです(除:伝書バト通信)。もしアマチュアによりA地点からB地点へ(しかも無料で)電文を中継送達されると、逓信局で働く人達にとってその行為は、脅威であり、また営業妨害です。
無線電信法で実験用無線が認められたこのタイミングでARRL結成のニュースが伝わり、「アマチュア無線が逓信ビジネスの領域を侵すかもしれない・・・」という危惧が逓信現場に広がったことは、日本のアマチュア無線界にとって大きな不運でした。
この二つの出来事があって、逓信省と海軍省はそれぞれの立場・理由から、アマチュア無線の免許にとても消極的になりました。そのため法二条第五号の開局申請者の社会的信用度や思想面が重視され、"選ばれしもの" にしか免許を出さないという不平等な運用が行われました。
52) 日本最古のアマチュアによる電波の公開実験 (1918年) [アマチュア無線家編]
日本のアマチュア無線は1915年(大正4年)11月1日より施行された無線電信法(1915年6月21日公布)第二条第五号により(たとえ絵に描いた餅であっても、条文上では)個人実験許可の道が開かれ、またアマチュア向けの無線実験本も出版されました。その筆者である河喜多能直氏が、内緒で電波実験を行っていたのは間違いないでしょうし、入船勝治氏もまた製作部品を提供するために、まず自分が電波の送受を試みたと想像します。
そしてこのような無線指南書と部品供給会社が1915-16年の我国にあった以上、電波実験する一般人(アマチュア)が日本中のどこかに生れたのは間違いないと思いますが、それを裏付ける文献は発掘されていません。
しかし2005年(平成17年)になって "眠っていたある資料" が出版されたことで、少なくとも1917年(大正6年)には一般人(アマチュア)による電波の公開実験が行われたことが明らかになりました。辻直人明治学院歴史資料館研究調査員は次のように出版の経緯を記しています。
『はじめに
「明治学院九十年史」は一九六七(昭和四十二)年に刊行された。その編纂過程において同窓生及び元教職員の方々による回想録が集められた。この点について、「九十年史」は次のように述べている。
卒業生から回想録の寄稿を願い、あるいは高齢の方々の談話をテープにおさめるなど資料は相当集まった。回想録五十余事のなかにはぜひ本史に入れたかったものも多数あるが、紙数の制約で入れられなかったのはかえすがえすも残念である。これらの回想録だけでも明治学院外史として貴重な一巻となるであろう。
このように、せっかく集められた回想録の多くは、その存在だけは知らされていたものの、今日まで日の目を見ることなかった。そこで今回、『明治学院歴史資料館資料集』第二集として、これら四十年近くも眠っていた回想録の全文(29名分)を、学院史の貴重な証言として刊行することとした。いずれの回想録も、学院の生活を実体験した人たちの貴重な証言であり、その時代を知る上で参考すべき内容が多く含まれている。』 (辻直人, 解説「明治学院九十年史のための回顧録」の概要と背景について, 『明治学院歴史資料館資料集(第2集)―明治学院九十年史のための回想録―』, 2005, 明治学院歴史資料館, 2005, pp220-221)
こうして2005年に刊行された資料にある安藤博(明治学院中学部OB)氏の回顧録から引用します。1917年(大正6年)、明治学院の記念祭で中学部理化学室から校庭を隔てて神学部までの数100m間で無線電話の公開実験を行ったことが記されています。
『明治学院の自由な学風は私の研究を伸ばす上に非常な助けとなったと思われる。又物理化学担当の長井先生(永江正直先生の間違い)は私の研究を認めて、物理化学専用室に自由出入を許して呉れた。・・・(略)・・・中学四年の大正八年一月に、それより以前数年間に研究資材や研究費にも色々の難関を突破して完成さした、多極真空管と二次電子倍増管の特許を出願した。この発明はその後、類似の出願が英マルコニー、米のGE会社等よりあったので、その発明の前後を審理の結果、私の最先発明であることが明かとなって、それぞれ特許が与えられた。この各発明は、今日のエレクトロニクスの心臓部として、その基本となったもので、我国の代表的発明として通産省の年表にも載っているし、世界の創始発明であることは今日、学界等一般に認められている。
さてわが国に放送事業の開始される以前、大正十年から長期間にわたって、私の発明した真空管等を駆使して実験放送を民間最初の私の実験無電局(呼出符号JFWA。これはJOAKに相当するもの)から続けて定期的に実施したばかりでなく、その他早大出版部から刊行した拙著等で放送事業開始の機運を盛り上げて、NHKの発起設立者となっているのである。が、これより以前このようなことが出来るようになった素地は中学三年(大正7年)当時、学院の記念祭のとき神学部津留教授(都留教授の間違い)の特別許可を得て、校庭を隔てて中学部理化学室と神学部の問、数百米の問に無線電話の実験を公開した等のことに原因している。・・・(略)・・・ すなわち、わが明治学院は、二十世紀文化の一面を代表するマスコミとエレクトロニクスを日本に発祥さした私の青春時代をはぐくんだ温床となったものであると云っても過言ではない。願わくは、今後も自由な学風を益々助長するよう、希望する次第である。』 (安藤博, 明治学院とエレクトロニクス及び放送, 『明治学院歴史資料館資料集(第2集)―明治学院九十年史のための回想録―』, 2005, 明治学院資料館, pp8-9)
明治学院の中学生だった安藤博少年が多極真空管の研究に没頭するかたわら、無線電話機を試作完成し学内で公開実験されました。おそらくは研究中の多極管を使ったものでしょう。
【参考】前述の河喜多氏の指南書は火花式電信なので、これは安藤少年が独自に考案した真空管式の無線電話でしょうか?もしそうなら逓信省のTYK式無線電話(火花電波式=非真空管式)が三重県鳥羽で実用化試験を開始したのが1914年(大正3年)12月16日ですから、かなり先進的な実験といえるでしょう。
前述のとおり私は日本のアマチュア実験家の誕生は、1915年(大正4年)の「簡易無線電信機の製作法」が出版された直後だろうと考えています。しかしそれを裏付けるものは何も発見されていません。したがって現時点(2016年)では「1918年(大正7年)、我国でもアマチュアの実験家が誕生」までさかのぼれた・・・ということでしょうか。さらに歴史的資料の発掘ができればなと思いますし、全国の無線史研究家の方々の成果にも期待したいです。
【参考】 ちなみに濱地常康氏が無線研究を始めたのは、ご自身の著書によると1920年(大正9年)です。
日本最古のアマチュア実験家は明治学院の中学三年生でした(もちろん逓信省の許可を得たものではないようです)。若い力によりなされたという点では米国のアマチュアの発祥と似ています。ちなみに安藤氏は明治学院中学部を卒業後は早稲田大学に進み、その在学中に正式免許を得ました。もちろん正式免許としては濱地氏や本堂氏の方が先行しましたが、いずれも無線電話です。安藤氏は無線電話の他に、個人実験家として初のモールス通信の許可も受けて、JFWAという国際呼出符字列で組立てられたコールサインを与えられました。
しかしながら早稲田大学の学生、安藤氏への個人の免許だったにも拘わらず、一部では「安藤研究所」への免許のように誤解されていたり、また大正15年10月8日(電業第2316号)に個人で最初の短波が許可(所有するJFPAへ波長38mと80mの増波を認可)された件は、官報(大正15年10月19日, 逓信省告示第1986号)で公知にされているにも拘わらず、(本当は個人最初の短波免許なのに)日本のアマチュア無線界からは今も無視されています。
いろんな意味で時代は変わりました。世代交代も進みました。もうそろそろ良いのではないでしょうか? 上記のように新たな歴史的資料の発掘もありますので、「昭和のJARL目線で描かれた日本のアマチュア無線史」を、令和時代の今、再点検してみては・・・。
JARLこそが創始とする歴史ではなく、当時制定されていた法や規則に沿って、公正・中立的な「日本のアマチュア無線史」を、令和のJARLに期待したいと思います。
● 本ページが巨大化したため、後半を「続 アマ無線家」に分離しました [2017.11.17]
このあとのアマチュア無線家による大西洋横断通信や、短波におけるアマチュアが果たした貢献は「続 アマ無線家」をご覧ください。