鉛丹と密陀僧

鉛丹(Pb2+2Pb4+O4, 左)と密陀僧(Pb2+O, 右)。

鉛丹は独特のオレンジがかった赤色顔料。

密陀僧はくすんだ黄色の一酸化鉛で、結晶多形があるが通常は正方晶のもの。

いずれも著しく密度が大きい。

珍しい、天然の鉛丹。極度に酸化状態の強い鉛鉱床の酸化帯に産出する。

著名なところでは、オーストラリア、ブロークンヒル鉱山のものが知られる。

これはメキシコ、チワワ州のもので、鉛丹が白鉛鉱の無色透明結晶に閉じ込められ、鮮やかな赤を呈している。

鉛丹と白鉛鉱(minium and cerussite)

Tres Marias mine, Manuel Benavides, Chihuahua, Mexico

FoV = 1.5 cm

学会の帰りに、足をのばして世界文化遺産である宮島の厳島神社(広島県)に船で訪れてみた。船上から、まず海上にそびえたつ巨大な大鳥居の橙色が目に飛び込んでくる。厳島神社は推古天皇元年(593年)、佐伯鞍職が創建し、その後平清盛が厚く信仰した縁起由来がある。宮島全体が神格であるため、土地や植生に影響を与えないよう、社殿の大部分は海面上にある。大鳥居を含め大部分の建造物は丹(に)で塗られているが、現在のこの着色は鉛丹によるものである。日本の古典的な赤色顔料としては、朱(硫化水銀,HgS)弁柄(酸化鉄(III), Fe2O3、および鉛丹 (四三酸化鉛、Pb2+2Pb4+O4) の三つが利用されたが、鉛丹は朱や弁柄に比べオレンジ味がより強く、明るい感じがする。赤の別名である「丹」という言葉は古くは硫化水銀のことであった。しかし、日本には大規模な水銀資源に乏しく朱が貴重だったため、室町時代以降は鉛丹のことを指すことが多い。

鉛丹は混合原子価の鉛酸化物で、密度が大きく手に持つとずしりと重い。天然にもわずかに存在しているがごく稀であり、顔料としては合成のものを用いる。鉛丹は、金属鉛を600℃程度で酸化焙焼させることにより黄色の一酸化鉛 PbO(密陀僧(みつだそう)、リサージ)をまず作り、これをさらに別の炉中で450~480℃にて酸化焙焼する二段階の酸化により製造できる。また、鉛白(塩基性炭酸鉛)の加熱によっても純粋な鉛丹を生じる。鉛丹の歴史は古く、その起源ははっきりとしないが、紀元前の古代ヨーロッパ~地中海沿岸諸国、もしくは古代中国の二つの説がある。ウィトルウィウスの『建築について』(紀元前30年前後)によれば、絵画に用いられていた鉛白が火事により焼け赤く変色していたことにより偶然発見されたともある。

鉛丹はおそらく仏教伝来と同時期ごろから中国より輸入されていたが、密陀僧を経由した鉛丹の高効率製法は、日本では応永2年(1395年)に明から伝えられ、堺(大阪府)の鉛屋市兵衛が生産を開始した。日本には小規模な鉛鉱床が数多く存在し、江戸末期までは鉱山で得られた鉛は灰吹き(鉛を用いて金銀を抽出製錬する方法)と、鉛丹製造に主に用いていた。鉛丹の製造時の加熱の加減は難しく、その色味は酸素供給と温度に大きく影響を受ける。乱造による品質の低い鉛丹の流通を避けるために、江戸幕府は「御定丹製法人」制度を導入し、品質の規格化・販売価格の公定化と製造の統制を行い、高度な鉛丹製造技能を持った製造者を保護した。明から鉛丹製造技術を伝授された鉛屋市兵衛は代表的な御定丹製法人であり、彼の興した会社は今なお株式会社 鉛市(創業1395年頃)として、社寺塗装用の鉛丹を供給している。

二段酸化により得られる鉛丹には活性が高い密陀僧が若干残存しているため、水の存在下で亜麻仁油などの乾質油と混和するとゆっくりと反応して、油のエステル部位を加水分解後に結合しカルボン酸鉛、いわゆる金属石けんを作る。この作用により、弾性があり接着性と耐久性の高い塗膜を生じる。これは木材の防腐や金属への防錆の作用が強く、かつては盛んに防錆塗装に用いられた。日本の神社や寺社建造物に見られる鉛丹彩色は、これを利用している。しかし、鉛丹は二酸化炭素や硫黄酸化物を含んだ大気、または海水とゆっくり反応し色がくすむために、定期的な塗り直しを必要とする。鉛系の防錆顔料塗装は、健康への影響の懸念と環境に対する配慮から使用自粛が進み、かつてのJIS 規格も廃止傾向にある。ただし、鉛を使った高屈折率のガラス、あるいは陶磁器釉薬の原料として鉛丹や密陀僧は欠かせないものであり、この用途は今でも少なくない。

厳島神社(広島県)の大鳥居。

クスノキの巨木で作られ、全体が鉛丹で彩色されている。

海水によってゆっくりと塗装が変質し、かつ材が劣化していくため、数十年ごとに補修を行う。

諸外国では、鉛丹の独特なオレンジがかった赤は、絵画彩色に好んで用いられた。特に、古代から中世にかけて、宗教写本の挿絵に好んで用いられた。このような画はミニアチュール (miniature) と呼ばれた。この語源は、鉛丹のラテン語名 minium にちなむ(日本語訳の「細密画」は誤訳である)。油彩画では、ルノワール、ゴッホやレンブラントの絵に、鉛丹の鮮やかなオレンジがしばしば見られる。特に、ルノワールの女性の人物画には、鉛丹が多用されている。日本における鉛丹・密陀僧の利用は密陀絵(みつだえ)として、油彩画、木製漆器への彩画に見られ、法隆寺や正倉院の収蔵物などに確認できる。

ピエール=オーギュスト・ルノワール「ピアノを弾く二人の少女」

1892年、油彩、パリ オルセー美術館蔵。

ルノワールの描く若い女性像には、鉛丹の豊かな暖色により華やかな雰囲気を表現しているものが多い。

特に、1890年ごろから亡くなるまでのルノワールの作品は鉛丹を多用し、独特の色彩感が感じられる。

BIHZAD, Yusef vlucht voor Zuleykha (Jozef en de vrouw van Potifar), 1488, Herat, Afghanistan

(リンク) 朽津、鉛白の変色に関する鉱物学的考察、保存科学、36、58、1997