炭素の黒

黒文字の理由

色材は、人間の生活を豊かにするために見出され、利用し続けられている。染料の多くは、衣類を染め、生活をあでやかにする。顔料は、塗装としての利用により物体を色鮮やかに彩り、新しい価値を付け加える。また、画材も多くは顔料である。人類が文字を持たなかった先史時代からずっと、顔料は描画に用いられ続けている。

先史時代は、入手できる限りの多くの色を用い、形を描き、祈りやまじないとした。創造性の表現とみることもできる。絵によるかたどりは、どんどん簡略化し、その意味のみを抽出させて単純な記号を作り出した。それらが象形文字である。文字は、種々の文化、地域および言語と直結したシグナルの集合で、人類の知を高度に表現できる。また、象形文字の洗練は、画から意味のみを抽出し無駄を捨てる作業でもあった。多くの描画に伴われた色の情報も、全てふるい落とされた。文字は色の規定を持たず、かたどりだけで意味を持つため、黒で記述することが多い。文字情報を残せるようになり、ようやく歴史がスタートする。歴史を伝えるのは、黒文字の仕事である。

分子と光の相互作用による黒、炭素単体の黒

染料をはじめとする可溶性の有機色素の色の多くは、その分子軌道における電子遷移に基づく吸収だというのが量子力学の解釈である。ややこしい話であるが、これは色素設計における基礎の基礎なので、やや細かく話をする。

有機分子には分子特有の多数のエネルギー準位をもった分子軌道があり、それにエネルギーの低いところから順に、定まった数だけ電子が詰まっている。ここに電磁波、すなわち光エネルギーが当たると、低いエネルギー準位からより高いエネルギー準位の軌道に電子が飛び上がる。これを電子遷移という。このとき、このエネルギー準位の差に相当する波長の光を吸収するため、そのエネルギー準位差に相当する光エネルギーが可視光領域にあると、可視光のうち特定の波長の光を吸収し、結果としてその補色に相当する色の光を透過し、分子が色づいて見える。これが有機分子が色を呈するということである。

有機分子における電子遷移のエネルギー準位差が可視光の領域に存在するのは、およその場合、炭素の二重結合を鍵にしていることが多い。炭素の二重結合系は(単結合系に比べ)電子遷移に必要なエネルギーが小さいことが多く、それが可視領域の光に入ってくる。特に、炭素の二重結合が複数連結すると、電子遷移に必要なエネルギーはどんどん下がる。これをπ電子共役系といい、二重結合を形成するπ電子が分子の一箇所のみにとどまらず、広く分布しはじめる(非局在化)。そのため、二重結合が何個も何個も連結すると、その吸収はどんどん長波長側(=低エネルギー側)に移動し、やがて可視領域を超え、赤外域まで到達してくる。この時、可視領域全域に様々な電子遷移モードが重なり、全域に吸収があると、その物質は黒ずんで見える。可視領域全域の光を、波長の別なく均等に吸う状態が「黒」を意味する。

炭素には多様な同素体があるが、大きく分けると二つになる。ひとつはダイヤモンドをはじめとする炭素単結合よりなるもので、これは電子遷移に必要なエネルギーは可視光では全く足らず、結果として可視光に対しては全くの透明である。もうひとつは、炭素二重結合の連鎖により形成された同素体で、これは電子遷移エネルギーがはるかに低く、可視領域の光を大部分吸収するため、黒く見える。ただし、ダイヤモンドは常温常圧では最安定な構造ではなく、多くの場合、炭素は真っ黒である。このような黒い炭素は珍しくないが、結晶質の黒鉛(昔は「石墨」と呼んだ)、非晶質の炭の二つが身の回りにはよく見られる。

黒鉛と鉛筆

黒鉛は、いわゆる「亀の甲羅」、ベンゼン環の6員環が互いに連結(縮合)し、それで平面に敷き詰められた構造が積み重なったものである。この平面と平面の間には強い化学結合がなく、層の間で非常に滑りやすい。そのため、黒鉛は軟らかく、かつツルツルしている。これを紙に擦り付けると、層を剥ぐようにして滑りながら、層を紙の上に残し、黒々とした文字が描ける。これが鉛筆の原理である。黒鉛は無機炭素とはいえ、有機化合物の性質を色濃くもっていて、非常に水と相性が悪い。水に分散させることが極端に難しいのも、このためである。逆に、水と黒鉛がまったくなじまない性質を利用して黒鉛は精製される。黒鉛を含んだ岩石を粉砕し、これを水中に投入すると黒鉛のみが浮いてくる。この方法を浮遊選鉱というが、黒鉛は特に浮遊選鉱がよく効く。岐阜県天生鉱山などで黒鉛を捕集して出荷販売していたこともあった。

古代のギリシャやローマでは、本当の金属鉛を用いて、動物の皮などに筆記をしていたらしい。しばらくそんなことをしていたが、1564年、イギリスのカンバーランド地方のボロデールで質の良い黒鉛が発見され、これが筆記に最適だというのが明らかになる。これを削り出し、布や木のケースで手を汚さないように覆って鉛筆にしていた(これを生業にしてたのが、フリードリッヒ・ステッドラー。今のステッドラー社の創業者。1660年代ぐらいまでやっていたらしい。)。ただし、黒鉛の大きな塊というのはなかなかなく、劈開に沿ってぼろついてしまうのでそうは鉛筆向きの削り出し可能な黒鉛というのは入手できない。そのうち、黒鉛の粉を結合固着させる方法が編み出され、粉体の黒鉛からも鉛筆の芯ができるようになった。初期の黒鉛の結合材は硫黄であったが、種々の生物由来の有機物も利用された。しかしそれらの質は悪く、業を煮やしたナポレオンがコンテに鉛筆の製造方法の開発を行わせ、粘土と黒鉛を共に混ぜて酸素を絶って焼く、という現在の方法が確立した。

これを手工業で木に包み鉛筆を作っていたが、どうしても生産性が悪い。そこで、ドイツのニュルンベルク郊外に、カスパー・ファーバーが1761年に工場を建て、大量生産可能な六角鉛筆の製造方法を編み出し、かつ新規に発見された黒鉛の独占権を獲得して、鉛筆の大量生産と販売を開始した。現在の鉛筆とほとんど変わらない形状のものが、安価に出回るようになり、ファーバー・カステル社は不動の地位を得た。

Graphite (C), hexagonal

FoV = 4.6mm

Niar Kilmar, Quebec, Canada

結晶化した石灰岩中で成長した黒鉛の結晶(カナダ産)。

黒鉛は、高度に変成を受けた岩石中に鱗片状結晶として見いだされることが多い。

これの起源をたどると、もともとは堆積岩中の植物遺骸で、これが高温高圧で長時間かけて熱分解し

結果として黒鉛になっているものが大部分である。

炭、墨、あるいは黒鉛などの天然の単体は、ほとんどが空気中の二酸化炭素を植物が光合成固定し

生じた有機物が巡り巡ってできている、と言うこともできる。

炭と墨

一方、非晶質(アモルファス)の炭素も黒色顔料として使うことができる。もちろん、単体の炭素を擦り付けて黒を描くこともできる。例えば、旧石器時代の洞窟壁画には、植物由来の組織を蒸し焼きにした炭で描いたものが多いし、あるいは油絵の下書きに炭を使うことは少なくない。しかしこれらは炭素粒子と基材の間の接着性に著しく劣り、かつ使い勝手が非常に悪い。そこで、極めて微細な炭素粒子を用意し、これにもうひと工夫して水に分散し沈殿させないようにしたものを発明することができた。これがいわゆる「」である。炭素は水には全く溶けないので、黒色顔料として彩色や筆記に使うためには、水に対して高度に分散しなければならない。「墨」とよく呼ばれるものには、いろいろなものが含まれる。「イカの墨」と呼ばれる黒い液体は、メラニンの分散体である。メラニンはアミノ酸の一種チロシンを前駆体とした重合体で、高度に連結したπ電子共役系をもっているために、やや褐色を帯びた黒色をしている。これを「セピア色」と呼ばれる。 イカスミの場合は、非常に揃った球状粒子の水分散体でこれが黒い液体に見える。これを着色に用いることもできるのだが、残念ながらイカスミは耐光性に劣り、長時間光に晒されるとどうしても褪色し、色が薄くなり褐色を帯びてくる。

いずれにせよ、生物組織の熱分解により調製した炭素は、おそらく人間が利用した初めての黒色顔料だと思われる。クロマニョン人が描いたラスコー洞窟の壁画(2万年前)を代表として(注1)、先史時代の壁画の黒色顔料の多くは、植物由来の炭である。これは、人類による火の利用の歴史と起源を同一にしているのだろう。西洋画におけるデッサンは、木の枝を蒸し焼きにした炭が常用される。火を意図的に熾して自在に使えたのは、最近の研究から5万年近く前のネアンデルタール人の技術であったらしい。

植物、特に木本の材を不完全燃焼させることにより、不定形の炭素、いわゆる「炭」を作ることができる。

これは、人間が火を使った歴史と共に常に用いられてきた、代表的な黒色顔料でもある。

炭素単体は種々の方法で合成可能だが、もっとも調製しやすいのは生物起源有機物の熱分解による。これで得られるものはいわゆる「炭」で、化学的には不定形炭素として扱われる。これは原料や調製法によって、炭素以外の成分の量がだいぶ変わってくる。植物を起源とするものは二酸化ケイ素やカリウム塩、特に炭酸カリウムをまじえる。また、動物組織を蒸し焼きにして作ったものは、リン酸塩を含みやすい。

レオナルド=ダ=ヴィンチ「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」1507-1508年頃。

ロンドン ナショナルギャラリー、141.5 x 104.6 cm。紙キャンバス。

煤から墨へ

炭素の顔料としての利用性を高めるために微粉化されたものとしては、植物油脂の不完全燃焼に伴い生成する炭素ヒュームを捕集した「」が代表である。煤は、中国では紀元前より代表的な黒色顔料として用いられた。煤は極めて微細な粒子で、製法にも依存するが一次粒子は 10~100 nm ほどの球形の粒子である。これは部分的に黒鉛の結晶子を持ってはいるものの非晶質に近く、疎水性の黒い微粉末である。煤は大部分が炭素であるから、定義上は無機物質に分類されるものの、炭素有機化合物のような疎水性を示すため、界面活性剤、特に膠(にかわ、動物から採取できるタンパク質)と混ぜて水に分散させたコロイド分散液にして利用した。これがいわゆる「」である。墨は炭素コロイドが水に分散された状態で、先の一次粒子が多数連結した数珠状〜ぶどう状の集合になっているが、これを膠が安定化させ、さらなる凝集を防いでいる。膠は界面活性作用によって炭素を水に分散させ、かつ保護コロイドとしての役割を持つ。

墨の歴史は古い。中国では殷の時代(紀元前17~紀元前10世紀)に甲骨文字が発生し、これと同時期、あるいはその後の周代に墨が開発されたようだ。これが日本に入ってきたのは奈良時代で、日本書紀に記述がある。おそらく初期は大陸もしくは半島から輸入されていたのだろうが、ほどなくして国内でも生産が開始された。最初の生産は、奈良県の和束町だとされている。空海が日本に唐から墨の製造技術を持ち帰ったという伝説もあるが、これはどうも時期が合わない。いずれにせよ、墨の国内生産の開始のタイミングの信憑性はともかく、中国から技術導入されたのは間違いないようだ。

墨の製造では、かつては松脂を多く含む松材を燃焼させ、発生する煤を捕集し、これを松煙墨(しょうえんずみ)として賞用した。松脂にはロジン酸と呼ばれる一連の縮合多環脂肪族カルボン酸が含まれており、これの高温での熱分解や不完全燃焼により効率的に無定形炭素を生成させることができる。しかし、松脂や松材からの煤は粒子が肥大化しやすく、あまりいい墨が採れないとされる。中国では周代、漢代、唐代、そして晋代は松煙墨を用いていた。もっと時代が下がって明代になると、上等な用途にはさらに質の良い油煙墨に切り替わり、質の落ちても問題ない用途に松煙墨があてがわれた。日本に製造技術が導入されたのは奈良時代後半で、油煙墨以前の古いレシピが入ってきていたのだが、それはなかなか更新されず、古くから日本の墨は松煙墨が主流であった。これは、大陸に対する憧憬も手伝っていたのだろうと思われる。もう一つの要因としては、松煙墨は美しい青墨が出来、これは油煙墨ではなかなか作りづらい。現代の日本で好事家によって古唐墨で珍重されるものも、松煙墨の青墨が多いようだ。鎌倉時代ぐらいになって、ようやく日本でも油煙墨が生産されるようになる。奈良県は昔からの墨造りの本場で、古いレシピ(桑原著「顔料」より引用)を今風に書き改めると、下記のようになる。

高さ4m、横3m、間口2mの部屋を作り、三段の棚を吊る。この棚の上に多数の直径15cmぐらいの皿を並べ、菜種油と燈心を入れて点火し、皿の10cmぐらい上にもう一つの空の皿で覆い煤をつける。部屋の温度は20ー25度に保つ。この皿を、上段に60個、中段に70個、下段に80個ほど置くと、1日に上等品2.6kg、中等品3.8kg、並等品4.5kgが得られる。

たぶんこれはオリジナルレシピは古梅園墨談によるもので、それを引用する。

「当時南都にて油煙を取るは、煙室竪一丈三尺、横一丈、軒口の高さ七尺、屋根を萱にて葺く。室中の三方に棚二重あり。棚の間二尺、棚板の上を土にて塗り、燈皿を並べ土器を其の上に覆い煙を受く。燈皿と土器の間二寸、一室の煙工一人、燈の数上剤六十、中剤七十二、下剤八十二、一日に煤を取る事上剤十両、中剤十五両、下剤十八両、上剤は煙を繁く掃ふによって煙清くして少し。煤の色は黒に青を兼ぬるを上とす。純黒は次なり。赤に白を兼ぬるは又次の次なり。雪中には煙気室に凝て煤の色濁る。暑中には室内の熱に堪へずして煙工動作に労し此の煤も濁れり。二、三、九、十月を上の時とす。」

中国の油煙墨では桐油を、日本では菜種油や亜麻仁油が油煙煤製造に用いられた。しかし、煤はさまざまな原料から造ることができ、そのバラエティは甚だ多い。最も良質な墨とされているのは、漆の墨であるらしい。徳川時代の墨については、平賀源内が「物類品隲」中で詳しく記述している。

煤の粒子サイズは種々のものがあるが、細かければ細かいほど良いものの、凝集しやすい。古典的な墨の製法では、杵で煤を三万回搗き、さらに膠を加えて三万回搗くというレシピが良いとされた。これもまた、凝集した粒子を再分離するための操作である。着色力は 30 nm ぐらいのところで頭打ちになる。なお、「イカ墨」「セピア」と呼ばれる頭足類の墨は炭素ではなく、サブマイクロメートル単位の球形メラニンの粒子である。

カーボンブラックとその利用

現在では種々の植物油や鉱物油、あるいは工業的に石油から生産される有機化合物(アセチレン、ナフタレン、アントラセンなど)を原料とし、燃焼式、あるいは空気中での放電を用いて炭素黒色顔料(カーボンブラック)を製造している。「カーボンブラック」という言葉は、広義には「炭素の黒」という意味を表すが、より狭義では工業的な手法により石化原料や油脂を燃焼させて効率的に取り出した顔料用微粉末炭素をさすことが多い。この技術の進歩により、原料からのカーボンブラックの収率は80%を超えるほどに高効率生産ができるようになった。燈火により煤を作っていたころは、収率10%まで達しないのが普通だったから、飛躍的に向上している。カーボンブラックは、黒みを与える着色料としての有用性のみならず、様々な機能を有する。1910年ごろに、ゴムに分散されたカーボンブラックによって、そのゴムの機械的特性が大きく改善される「ゴム補強効果」が見出されると、ゴム産業、特に自動車用タイヤにカーボンブラックは不可欠なものとなった。現在、国内のカーボンブラックの需要 80万t/年 の大部分は、ゴム補強材としての利用である。また、電気伝導性付与や電極材、多孔質微粉末としての担体用途など、カーボンブラックの利用用途は多岐にわたっている。

様々な炭素同素体

炭素の同素体は古典的な黒鉛や不定形炭素の他にも、最近ではグラフェン、フラーレン類、あるいはカーボンナノチューブといった新しい分子構造のものが出現し、材料分野での注目を集めている。特にカーボンナノチューブはごく細長いチューブ状の物質なので、これを物質表面に垂直に多数並べて固定することができれば、光の再帰反射を極限まで減らすことができ、入射光は複数のチューブ表面間を何度も低入射角で反射しつつ、最後にはほぼ完全に吸収される。カーボンナノチューブは、このような理想的な「黒」に最も近い顔料として検討されている。人類が最初に利用した黒顔料、そして最後まで追及される理想的な黒顔料が、長い時代を経てもなお炭素を機軸としているのは面白い。

(注1)ラスコーの壁画における黒色顔料では、植物由来の炭と同時に、黒色のマンガン酸化物系顔料も用いられた。これはおそらく軟マンガン鉱(天然の二酸化マンガン)なのであろう。

(文献)

宮坂和雄「墨と色材の知識」、木耳社(1972年(昭和47年))

松井茂雄「The 墨 ― 墨は生きている (文房四宝 選び方使い方)」、日貿出版社 (1983).

小口八郎「古美術の科学 材料・技法を探る」、日本書籍(1980).

飯島茂「硯墨新語」、雄山閣、(1935).

仙石正「新・墨談」、内田老鶴圃新社 (1971).

松井元泰 編 「古梅園 墨談」 (1929).

川端克彦監修 ぺんてる株式会社編「筆記用具の化学と材料」グレースラボラトリ(1995).

ワールドフォトプレス編「文房具」光文社文庫(昭和62)

桑原利秀「顔料」増進堂(1948).