ウランの黄色とオレンジ

ウランを用いて着色された釉薬とガラス.

左:Homer Laughlin China Company(アメリカ)、Fiestaware のティーカップ (1936-1944年頃の生産).

中央:チェコ、ボヘミアンガラスの小物入れ(1930年代).

右: Dümler & Breiden社(ドイツ)の果物皿(1930年代).

ウランは重要な核原料物質のアクチノイド元素であり、若干の放射性を示すことから、その名前を聞いただけで忌避する人もいる。しかし、その感情とは裏腹に、地殻中には比較的ウランは豊富に存在する。ウランは水に可溶性の塩をつくりやすいことから、地球上では海水中に多く溶存している。ウランは1789年、クラプロートによって金属として発見された歴史のある元素であるものの、ウラン235 が連鎖的な中性子核分裂を引き起こせることがわかった1934年以前は、ウランは陶磁器やガラスの着色料、および染色用蛍光色素に多用されていた。

ウランは酸素との結合エネルギーが大きく、酸素が配位した形で安定なイオン性固体を作る。この場合はウランは7-8配位のイオンとして存在している。ウラン酸化物を陶磁器の鉛系釉薬に加え焼成すると、鮮やかな黄色~オレンジ色を表現できる。この色は非常に熱に強く鮮やかなので、セレン化カドミウムの赤が陶磁器に用いられる前は、積極的に利用されていた。特に、1920-1930年代は、ウラン鉱に微量に含まれるラジウムが医療用および蛍光材料としてもてはやされ、それを抽出すると大量のウランが副産し、その利用に困ったためである。

戦前の1930年代から、アメリカ・ウエストバージニア州の Homer Laughlin China Company (H. L. Co.) は、廉価でビビッドな色彩の陶器食器、Fiestaware(フィエスタウェア)を生産している。昔のアメリカのホームドラマに出てくる色鮮やかな食器は、ここのものが多い。これは大ヒット商品になり、コレクターの収集対象にもなったので(有名なコレクターとしては、アンディ・ウォーホルがいる)、カリフォルニアの多くの窯業会社が真似、よく似た色彩の陶器を作った。H. L. Co. では最初期に5色(アイボリー、イエロー、オレンジレッド、グリーン、コバルトブルー)をラインナップしているが、このうち、アイボリーとオレンジレッドはウランを釉薬に含んでいる。特にオレンジレッドの釉薬(通称、radiation red とか radioactive red, Fiesta red と呼ばれる)には著量のウランが使われており、釉薬中のウラン含量は 15-20%、製品ひとつで平均 4.5 g も入っていると見積もられている。これは、製品全体で見ても、通常品位のウラン鉱の平均含有量よりはるかに多い。H. L. Co. 社では戦前は天然同位体比のウランを釉薬としていたものの、戦時中は会社のウラン在庫は全て米国のマンハッタン計画に回され、ウラン釉薬の利用は強く制限された。そのため、特にウラン含量の多い赤色ウラン釉の製品は 1944年-1958年の間は生産を停止している。戦後に再度利用許可が下りると、今度は原子力に有用なウラン235 を濃縮した後に残る劣化ウランを使用した釉薬に切り替えた。H. L. Co. 社は 1972 年にFiestaware の生産を停止し、その後再開したが、再開後はウラン釉は用いていない。ただしこれは、ウランの放射毒性よりむしろ鉛の有害性を嫌ったためともされている。

ガラスへのわずかなウラン着色は特に有用で、鮮やかな黄色が出せる。これをウランガラス(ワセリンガラス)という。ワセリンの名は、高分子量炭化水素のワセリンと質感が似ているところから来ているものらしい。この色はウラン独特のもので、代わりはない。アールデコの時代にウランガラスを使ったガラス工芸が爆発的に流行り、現在でも当時の工芸品を見かけることがある。紫外線照射により強い青緑色の燐光が見られ、これは太陽光でもはっきりわかる。

ウランガラスのもっとも有名な生産地はチェコのボヘミアで、ウランガラスは19世紀半ばにここで開発された。ボヘミアには近くにヤヒモフ(ヨアヒムスタール)という有名なウラン鉱の産地がある。キュリー夫妻がラジウムを単離したピッチブレンドはここのものだ。ボヘミア近郊のピッチブレンドはボヘミアンガラスと陶磁器釉薬用にウランを取り出していた。

科学技術の分野では、かつては硬質ガラス管関連にウランガラスが使われることがよくあった。硬質ガラス管から石英管への段継ぎ、あるいは真空管の熔封部にウランガラスが使われているのを実験室ではよく目にした。コーニング社はウランガラスをカタログに入れてあって、その色から、日本のガラス職人の間では「ウグイス」と呼ばれた。

なお、戦前~戦中の日本ではほとんどウラン資源が見つからず、釉薬用のウランはほとんどが輸入であり、国産のウランを用いたウラン釉薬はごく限られていた。岐阜では、花こう岩の風化土砂中にウランを含むフェルグソン石という鉱物が濃縮するので、これを用いて陶磁器に黄色い着色をしていたことがあった。戦時中は福島県石川町で原爆開発用のウラン鉱を探したが、その量はほとんどなく、同位体濃縮ができずに開発計画は完全に頓挫してしまった。戦後、GHQから核物理学の研究の制限が解かれると日本各地でウランを探し回り、人形峠(岡山〜鳥取県境)、東濃(岐阜)などの大規模鉱床を見つけるが、それでも商業的に利用できる量ではなかった。人形峠のウランを用いたウランガラスは、今でも愛好会の手によってわずかに作られ、「妖精の森ガラス」と名付けられている。ウランを用いた釉薬やガラスは、世界的には1970年代ごろから生産が難しくなった。これは、主に生産現場での労働者の健康管理のためによる。