藍とインジゴ

タデアイ(Persicaria tinctoria)の若葉と、タデアイの葉を接触させて叩くことにより直接染色した絹布。

タデアイは若葉にインジゴの前駆体となる配糖体インジカンを多く含む。

青は藍より出でて藍より青し、ということわざがある。荀子の故事に基づくもので、草本のアイ(この場合は蓼藍)よりもそこから得られる染料の方がはるかに色が濃く鮮やかな青であることから、学問は日進月歩で進歩し、師匠より弟子の方がより優れるという内容のことわざである。このアイの染色の挙動には、化学反応のカラクリを含んでいる。アイ(タデアイ)をはじめ、いくつかの植物にはインドキシル(ヒドロキシインドール)の配糖体であるインジカンを含むものがある。これは機械的な刺激により分解酵素が働いて糖が脱離し、さらに空気酸化後に二量化して青色色素であるインジゴを生じる。インジカンは無色であるが、インジゴは極めて濃い青なために、当然草本よりも生成したインジゴによってはるかに色が濃くなる。

アイ(タデアイ)

タデ科の一年草で、雑草であるイヌタデ Persicaria longiseta と同じ属であり、とてもよく似ている。

アイの栽培には土壌の栄養を必要とするが、土がよいと雑草のようにしぶとく生え、こぼれ種が来年も芽を出し繁茂する。

かつては日本各地で栽培され、特に徳島の特産植物であった。

リュウキュウアイ Strobilanthes cusia (2017年7月17日、群馬県高崎市染料植物園)

熱帯から亜熱帯に自生するキツネノマゴ科の多年草。沖縄では、これを水中で腐敗発酵させ、泥藍を作った。

本州のタデアイとは異なり、蒅(すくも)を作らないのが琉球藍の特徴。

草本中のインジカンからインジゴへの化学反応。

糖が外れる段階が律速で、選択性の高い酵素触媒反応が必要。

この反応での鍵はインジカンを触媒的に加水分解する酵素グルコキシダーゼであり、これは草本中の液胞に含まれている。インジカンも細胞中の別の液胞に含まれているものの、両者は平常時は膜によって分離されている。アイの植物組織が傷つけられると液胞が壊れて両者が混ざり合い、上記の反応が始まる。そのため、アイは風が吹いて葉がぶつかり合う程度の刺激で、葉が傷んで青みを帯びてしまう。

アイの場合、インジカンは若葉が成長する時期にトリプトファン等のアミノ酸から多量に生産され、これはその後は減っていくのみである。藍の葉を叩き染めする際は、成長点に近い若い葉が特に色濃く染まり、大きな葉はそれほどでもない。これは、インジカンの含量の多少を示している。

衣類の染色は、矛盾に似た問題を孕んでいる。水を媒介として布に色素分子を結合もしくは吸着させつつ、染色後は色素分子が水による洗浄で決して離れてはならない。別のページに紹介したチリアンパープルと同様に、インジゴは水に対して不溶性の染料であり、大部分の有機溶剤も極めてわずかしか溶けない。草本中のインジカンやインドキシルは水溶性だが不安定で保存がきかず、インジカンからの染色は新鮮な葉があるときにのみしか行うことができない。それでは不便なので、藍染めは通常はインジゴからの建て染め(バット染色)によって行う。一度インジゴを合成し、これで貯蔵輸送する。染色の必要に応じて還元して水溶性のロイコ体とし、これを用いて布を染め、空気酸化して布上でインジゴを再生する方法である。日本古来の藍染めでは、アイは刈り取られて発酵後に乾燥させて蒅(すくも)という腐葉土にし、これを練って藍玉とした。この藍玉には、通常数パーセントのインジゴを含んでいる。ここまでは「藍師」と呼ばれる職業の人びとによって行われる。紺屋はこれを買い、木灰や消石灰(焼き貝殻)などのアルカリ条件で藍玉を含む腐葉土を微生物の力で発酵させ、ロイコ体溶液を作った。これを「藍建て」という。藍染めは、インジゴのみならず不純物であるインジルビン(赤)などの色が渾然一体となり、濃淡の他にも緑みがかった青から紫みがかった青までを布に定着させることができる。

インド藍。マメ科植物のタイワンコマツナギIndigofera tinctoria より得られる染料で、

この中には80%前後のインジゴを含んでいる。

大規模なプランテーションによるインド藍生産は、徳島の藍産業に大きなダメージを与えたが、

インド藍もまた、BASF による合成インジゴ(インジゴピュア)の

台頭により、大部分の生産をやめてしまった。

インド藍をアルカリ条件で還元したロイコインジゴ溶液。

「ロイコ(白色の)」とはいうものの、通常は黄色である。

インジゴのエノレートの形であり、この状態では水に溶ける。

ロイコインジゴを空気に接触させると酸化し、不溶性のインジゴを再生する。

この反応を利用して、バット染色では繊維上にインジゴ分子を生成させ、吸着染色する。

インド藍を用いた建染め法による正絹縮緬の染色布。

まさに濃い「藍色」である。

日本では、中国から藍の染色技術が古くから伝えられ、江戸期に藍染めの技術が完成した。

藍による染色は、その濃度や色合いによってさまざまな古名がある。

甕覗、浅縹、薄花色、薄藍、藍鼠、納戸色、薄縹、縹色、藍、濃藍、青藍、藍錆色、紺など。

日本における藍染の歴史は古く、正倉院御物にも含まれている。奈良〜飛鳥時代に中国から技術が伝来したとされる。江戸時代には、藩の奨励により徳島(阿波)で多く生産され、ブランド的な存在であった。ところが、明治に入ると熱帯で育つマメ科植物のタイワンコマツナギやナンバンコマツナギ由来のインド藍が多量に輸入されるようになり、日本の藍産業は大打撃を受けた。インドでは安い人件費をもとに大規模栽培したタイワンコマツナギを原料に、発酵させて沈殿してくる沈殿藍を生産したが、これは蒅よりはるかにインジゴの純度が高く80%近い。さらに、アドルフ・フォン・バイヤーによって開発された種々のインジゴ合成法がBASF社によって実施生産されると、タデアイはおろかインド藍すら太刀打ちできず、多くのプランテーションが生産をやめてしまった。日本では三井化学が大牟田の石炭資源を原料にインジゴピュアの生産を行った。三井法によるインジゴは、戦後のフォークソングやロックブーム、そしてベトナム戦争を起源とする若者のジーンズ志向に伴うインジゴ特需で潤い、海外有名ジーンズメーカーのOEM生産用に供給された。ジーンズをひとつ染めるには、約10 gのインジゴを必要とする。

明治期に、BASF社の日本代理店(ハー・アーレンス継続社)が染物屋に配布した染色見本のインヂゴピューアのところ。

日本の藍やインド藍と全く変わらずに亜鉛末石灰建てで染められる、しかも安く濃く、というのが売りであった。

それは主色素成分が同じなので当然ではあったが、藍屋にとっては脅威だったのだろう。

ちなみに当時、BASF社は音を当てて「馬獅子」という社名で日本国内に紹介された。

インジゴは古くより天然成分由来の青色染料としてなじみ深いものの、光酸化してごくゆっくりと褪色する傾向がある。この酸化反応によりインジゴの共役系が切断され、イサチンを経由し、黄色い別の物質に変化してしまう。そのため、インジゴを着色料に用いた古い絵画は、保管状況によっては色褪せてしまっていることがある。インジゴは墨のように顔料としても用いることができ、江戸末期の浮世絵にはプルシアンブルーとインジゴの併用が見られる。

マヤ文明で壁画用顔料に用いられていた、マヤ・ブルーという青色物質がある。これはしばらくその素性がわからなかったが、分析によって無機ケイ酸塩鉱物であるパリゴルスキー石などの粘土鉱物をインジゴで染め、適当に加熱したものであることがわかった。インジゴは加熱すると昇華する性質があり、加熱によって粘土鉱物のケイ酸塩のカゴにインジゴが規則的に閉じ込められ、クラスレート化合物を形成しているのだろう。驚くべきはその耐久性で、通常のインジゴに比べはるかに褪色しづらく、光酸化に対して高い抵抗性がある。これは、色素分子がケイ酸塩のカゴに閉じ込められた構造に由来しているのだろう。マヤ人がなぜこのようなレシピを見つけ出すことができたのか、興味は尽きない。

参考文献) https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu1962/39/3/39_3_202/_pdf