色の科学と博物学

自然界には多種多様な物質が存在し、それに基づくとりどりの色彩があふれている。18世紀のスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネは、自然界を動物界、植物界、および鉱物界の3つに分け、それらの特徴を詳細に記載した。動植物における色は、その進化の過程で獲得した、高度に洗練された物質(その大部分は有機化合物)の生産と利用に由来するものである。生物の色彩は機能を備え、その機能が生物種の生存に不可欠な役割を担っている。一方、無生物である鉱物の色は、主にそれを構成する無機物質の性質に基づくものであり、様々な元素や化合物の特徴がその色にあらわれている。これらの有機物・無機物は光の特定の波長を吸収、あるいは反射して、その結果、鮮やかな色彩のシグナルを周囲に与えている。

人間は高度な社会性を持った動物であり、コミュニケーションの手段を常に模索してきた。そのひとつに色の情報がある。色彩は人間に様々な感情を誘起させるため、人間はそれを利用して色の意味づけを行い、伝達情報の一つとして色を利用してきた。そして、他の生物種同様、色の持つ機能も利用して文化文明を発達させ、現在に至っている。

色を呈する物質のうち、人間が色を利用できるものを色材という。これは二つに分けることができる。水などの溶剤に溶け、溶剤を取り去ることによって利用できる色材を染料という。染料においては、印刷物や服飾などの基材(多くは繊維)を染め、染色後はその色が抜けるのを嫌うため、色材に対し多くの性質の要請がある。そのため、染料は複雑な分子構造を有する有機化合物がほとんどである。一方、溶剤に溶かすことができず、粉末のまま利用する色材を顔料という。人類が初期に利用した顔料はほとんどが無機化合物であり、鉱物や岩石、土壌などの地上に存在する地下資源を巧みに利用していた。その後、白色の粉体を染料で着色したレーキ顔料(体質顔料)、あるいは石油などから誘導して合成した種々の有機化合物の顔料も盛んに用いられるようになった。

古典的な顔料は無機物質であるために熱や光などに対し安定である利点はあれども、身近にあまたにある植物や動物と比較し彩に乏しい。これをカバーするために、人間はくまなく地球上を探し回り、特徴ある色の鉱物を探し求めた。ここから色のもとを取り出し、(化学反応を経た)加工を施すことにより、自然界には無い新たな美しい色を作りだし、利用することができた。これが学問としての化学の起こりである。おそらく、人間が化学反応のプロセスで初めて作りだした顔料は、生物を焼いた炭素(炭)の黒であり、あるいは赤土を焼いて色鮮やかにしたもの(バーント・オーカー)なのであろう。そしてさらに鮮やかな色を得るために、自然界には無い新しい物質を作りだしていった。天然にはほとんど存在しない、合成による初めての有色顔料の創製は、エジプトにおけるエジプシャン・ブルーであり、紀元前3400年前後であることが最近になって明らかになった。色の歴史は、物質科学(化学)の歴史でもある。さらに光や色を丹念に調べ上げ、物質と色とのかかわりを調べていくうちに、様々な学問領域が発生した。例えば量子力学は、高温の物質の出す炎色反応(原子スペクトル)を説明するために生じたものである。

多くの色材の開発と利用の歴史を紐解くと、その資源的要素と技術的要素の二つが重なり合った時に、新しい色が生まれ、その使用が始まることがわかる。染料は植物から採られることが多いため、土地の風土と植生に強い影響を受ける。顔料においては、鉱物などの地下資源の分布、そして化学技術の開発や伝来が新しい色の鍵になっていることが多い。日本は地殻プレート境界に位置する島国で、小さいながらも複雑な地質を持ち、少量ずつ多種多様な鉱産物を産する、他の国には無い特徴がある。また、亜寒帯から亜熱帯まで数珠状につながった島弧によるバラエティに富んだ植生があり、その植生に応じた多種の植物が存在する。さらに、古くは中国や朝鮮半島から、より新しくは欧米からの科学技術の導入が多く、色材やその元となる原料の輸入・製造技術の移植が盛んであった。それらの結果として、日本人は多様な色材を古くから今日に至るまで自在に利用してきており、独特の色彩感と文化を持っている。

文明や技術の趨勢に伴い、初期は天然に存在する物質から、最先端は化学的に合成された色材まで、様々な色が作りだされ、着色に利用され、改良されていった。有害性のために消えていった色も少なくない。これらは、どういった色だったのだろうか。我々人類は、どういう色を使い、愛でてきたのだろうか。ここでは、主に顔料を中心として、様々な色材の黎明と調製、さらにその利用を追いかけながら、日本人が見てきた色を中心に拾い上げてレビューする。