呉須(ごす)

「せともの(瀬戸物)」という言葉をご存じだろうか。これは主に関西圏で使われる陶磁器の一般名称で、かつては愛知の瀬戸焼がやきものの代表であったことに基づいている。瀬戸焼は愛知県瀬戸市周辺に存在する大量の陶土を利用して焼かれたやきもので、その黎明は諸説あるが、少なくとも5世紀後半ごろには須恵器の生産が始まっていた。より時代が進むと、白地に藍色で描かれた絵柄の「染付」の特徴が著しくなり、これは瀬戸焼のトレードマークでもある。瀬戸周辺に産出するもうひとつの陶磁器原料がこの染付の原料で、呉須(ルビ:ごす)と呼ばれるコバルトを含んだ真っ黒のマンガン土である。瀬戸における呉須は、黒い土状〜礫岩の隙間を埋める付着物として堆積層に含まれる。瀬戸から多治見、土岐市に至る新生代第三紀層には、呉須が少量ずつ広範囲に分布していて、江戸時代末期は陶土と共に盛んに採掘され染付に利用された。

「呉須(呉須土)」は正確には鉱物種ではない。この真っ黒い染みのような石を粉末X線で調べると、かなりのものが非晶質の酸化マンガンであるが、結晶質の部分にはリチオフォル石 (Al,Li)MnO2(OH)2 と呼ばれるリチウムとアルミニウムを含んだ酸化マンガンの鉱物が多く、一部にバーネス鉱NaMn4O8・3H2Oやオーロラ鉱 Mn2+Mn4+3O7・3H2O と呼ばれるマンガン酸化物を含む。これらに少量のコバルトが吸着されている。コバルト含量は、分析値から母岩のケイ酸塩砂礫を引いて考えると、約1~20%内外であって、その濃度はかなりのムラがある。江戸時代はこれを採掘し、黒い呉須の部分を選り分けて粉砕し、水簸にかけてしばらく水に晒して鉄を抜いた後に、さらに磨砕して絵付け用の「いろぐすり」として用いていた。

コバルトは9族第4周期の遷移金属元素で、単体では鋼灰色のパッとしない鉄に似た金属であるが、塩にするとカラフルな色が付く。コバルトイオンの色は、他の遷移金属錯体同様、金属原子周りの配位子によって縮退が解けて生じるd軌道間の電子遷移による。コバルト原子周りに6個の酸素原子が配位し、特に配位子場の強い水が配位子に含まれると鮮やかなピンク色を示す。酸素配位がそれより少ないか、あるいは水を含まないとコバルトイオンは青くなる。海外の顔料では、ピンク色のヒ酸コバルトをかつて「コバルトバイオレットライト」として藤紫色の油彩用顔料として使用していたが、ヒ素由来の高い毒性があったため現在ではほとんど用いられない。より有用なのはやはり青色着色で、コバルト酸化物を少量含ませたガラスは、鮮やかで色濃い青を示すことから、ガラス着色には無くてはならないものである。また、顔料としては高濃度のコバルトを含んだガラスを粉砕したスマルト(花紺青)、コバルトスピネルであるアルミン酸コバルトの「コバルトブルー」、スズとコバルトの複酸化物である「セルリアンブルー」などの利用がみられる。スマルトはガラスであるために粗い粒子でないと色が鮮やかにならず、粗い粒子は油彩の筆のノリが悪くなる欠点がある。コバルトブルーやセルリアンブルーは鮮やかな青色の顔料で、極めて高い耐熱性と化学的安定性がある。

話を呉須に戻そう。呉須による陶磁器への染付は、還元性の焼成を必須とするため、正確に雰囲気調整できる窯と技術が必要である。中国では、元代(14世紀頃)からスタートし、明代にはその技術が定着した。日本にはずっと遅く元和年間(1615〜1624年)ごろに輸入の呉須を使って有田で焼き始めたのが初めてと言われる。瀬戸で呉須が見つかったのは1600年代中ごろで、寛文年間であった。陳元贇(ルビ:ちんげんぴん)という明の帰化人によって見出され、彼の要望によって掘り出され、染付焼に賞用された。後にヨーロッパ経由で入ってきた純粋な酸化コバルトはプルシアンブルーと同じ名の「ベロ藍」と呼ばれた。ただし、純粋な酸化コバルトの真っ青な着色は風情が無いとも言われ、筆の運びがよい不純な呉須のほうがむしろ好まれた。瀬戸における呉須は山の中腹に坑道掘りで新しい地層を掘ったのだが、新生代の地層の一部を狙って無計画に採掘したものらしい。坑木も組まず、しばしば落盤や土砂崩れのために多くの犠牲者を出した。一合の呉須を得るのに45人工が必要だったとも言われ、いかに呉須の産出が少なく、貴重であったかがわかる。

瀬戸市史の陶磁編第三巻には、以下のようにある。

「呉須(絵薬)

呉須というのは染付焼に用いる青料(絵具)のことで、マンガン・鉄などの不純物をふくむ酸化コバルトを主体とする顔料を指している。瀬戸村で最初に発掘したときは、尾張の二代藩主徳川光友の一六六五年ごろ(寛文年間)で、陳元贇(ちんげんぴん)という明(中国)の帰化人の要望によって掘り出され、活用されている。彼は瀬戸の陶土を用い、この呉須で絵付けをし、青白色の透明釉をかけて、安南風の陶器を作っている。釉下の呉須がにじみ流れて一種の風情をあらわした焼きもので、元贇焼きの名で賞美されている。

一六六六(寛文六)年に藩の命令によって呉須の採掘が禁じられたのは、名古屋城内の御深井(おふけ)焼きに使うため、祖母懐土(瀬戸村産の陶土)の採掘を禁じたのと同時であった。後年になって染付焼がはじまると、唐左衛門が中心となって附近一帯を探鉱し、水野代官の許しを得た者を使用して盛んに掘り出した。

採掘の方法は山の中腹に横穴を掘り、坑木も組まないで掘り進んだもので、土砂くずれのために多くの犠牲者を出した。それらの人々は名前さえ忘れ去られているが、今の瀬戸釜を築きあげた尊い人柱といえるであろう。

染付焼の生産が日増に伸びるにつれて呉須は不足をつげ、尾張藩のお声がかりで長崎から唐呉須を買入れている。それを地呉須にまぜて用いたが、明治になって間もなく。西洋から舶来する酸化コバルトに依存するようになったので、呉須の採掘は次第におとろえ、ついに廃絶した。瀬戸の古老加藤三平が、生前に語ったところを加藤庄三の筆録した「三平老遺話」によれば、

陣屋川の北の上・窯神山の西・池ばたの池勝工場の裏山などで、昔は呉須を掘ったので、今でもそこには空洞が残っている。一番上等なのは陣屋から出る砂絵というもので、呉須が山砂に混じっているのをカマボコ板のようなもので撰りわけたものだ。その他の場所から出るものは石絵(いわえ)といって、板のような石に付着しているもので、これは下等品であった。[この外にゴロ絵といって小石に附着したものも採取されていた]

瀬戸の北新谷(きたしんがい)の窯屋が、大量に呉須を使用してルリ釉の磁器を焼き出した時、呉須の欠乏を心配した南新谷の窯屋から、御役所へ取締り(制限)方を願い出たことがある。そのためルリ釉は禁止されてしまった。だがその時代(幕末)になると、窯屋は役人を恐れなくなっていたので、北新谷の連中は少しばかり淡(うす)いかと思われる程度のルリ釉を焼きつづけた、そこで南新谷から取締りの強化を申し立てるので、役人は北新谷に出向いてルリは禁止になっているから焼くのは相ならぬと通達する。ところが窯屋はぬからず、前に焼いたルリの中でも特別に濃いものを持ち出し、これがルリ釉で、今焼いているのは浅葱色(あさぎいろ)でござるなどと役人を煙に巻いたものだ。」

江戸時代末期に瀬戸の染付焼の生産が急増すると、瀬戸〜美濃周囲の呉須の生産量ではとても足らず、長崎の出島経由で中国の唐呉須を買い付け、それを地呉須に混ぜて使っていた。明治に入って鎖国が解けると、西洋からの純度の高い酸化コバルトが安価に入手できるようになり、愛知の呉須鉱山は完全に行き詰まり、すべて閉山になった。今では、瀬戸市の分譲住宅地の周囲の露出にわずかな呉須の露頭がみられるが、そのいわれは住宅地住民にはほとんどあずかり知らぬところのようだ。

文献)

瀬戸市史、陶磁編第三巻、P70-71