山藍の謎

アイ(タデアイ)は、古墳時代に大陸経由で日本に渡ってきた含藍(がんらん)植物で、それ以前は日本にはインジゴ染色文化はなかった。アイ以前の青色染料としては、ヤマアイ Mercurialis leiocarpa を用いた「藍」染めが古典的な記録にはある。ヤマアイはトウダイグサ科の植物で、本州~九州の山林の林床に群生する多年生の草本である。この植物を使った「摺り染め」の記述が、古い和歌や上代文学にはしばしば出てくる。しかし、葉をこすりつけるだけでは、葉緑素の緑ばかりが目立ち、青にはならない。上代の日本では青と緑の別が明白ではなかったとはいえ、葉緑素ならどの植物でも構わないわけだから、ヤマアイの摺り染めにはやはり疑問が残る。

ヤマアイ。日陰の林床に密集し、一年中、鮮緑の葉を付けている。2018年3月。逗子市。

明治~昭和半ばまでの資料にはこのヤマアイにはインジゴが含まれているとあるのだが、これはおそらくアトキンソン(アイの項を参照)による間違いを孫引きしたもので、実のところヤマアイにはインジゴは全く含まれていない。しかし、ヤマアイにはインジゴとは異なる青色色素のもとになる物質が含まれていて、草本、特に茎の成長先端と地下茎を乾燥させると藍色に変化する。ヤマアイの名は、この挙動からきているもののようだ。

この青色の原因は、天然に発生する準安定なラジカル陰イオン(普通は不安定な奇数電子の化学種)で、シアノヘルミジンという物質である。植物生体に含まれているときは無色の物質ヘルミジンのタンパク質と結合した誘導体であるが、乾燥させるとヘルミジンが発生し、酸素酸化によりヘルミジンがシアノヘルミジンに変わる。シアノヘルミジン分子は電子の共鳴によりラジカルおよび陰イオン中心が分子全体に非局在化しており、これが安定化の鍵になっている。一般に、ラジカルやラジカルイオンは、そうでないものに比べ吸収波長が極端に長波長シフトし、極めて鮮やかな色を出しやすい。しかし、ラジカル類は通常酸素などに対し不安定で寿命が短く、有機化学的な常識からはむしろシアノヘルミジンはラジカルとしては驚異的に安定な部類といえよう。青色を呈する安定なラジカルイオンとしては、ラピス・ラズリのトリスルフィドラジカルアニオン(ラピスラズリの項参照)があるが、これはケイ酸塩のカゴの中で完全に外界とブロックされているので、酸化されずにすんでいる。これら以外に、ラジカル種が着色中心となっている色材はない。しかし、やはりラジカルとしての反応性を持っていて、ゆっくりと二分子が結合(二量化)し、一週間ほどかけて炭素ー炭素結合を形成したクリソヘルミジンという赤い物質に変化する。そのため、ヤマアイの根の青い抽出液をそのまま単独で使って絹を染めても、一週間もすると赤くなってしまう。

ヘルミジンの酸化によるシアノヘルミジンの発生と二量化、さらにその異性化反応が連続で起こる。これを途中で止めるのは難しいが、銅イオンの存在がそれを止める鍵になるかもしれない。

ヤマアイによる染色はずっと謎であり、かつての摺り染めがどのようなものかよくわかっていなかったが、1980年代前半に辻村によって、ヤマアイの青色色素を用い銅媒染により布を鮮やかな青に染められることがつきとめられた。ヤマアイの属名は偶然にも水銀 (mercury) と同じだが、実際に好むのは水銀ではなく銅のようだ。シアノヘルミジンは銅イオンと反応し、安定な会合体を作る。万葉~上代の山藍染めは、銅を媒染剤とし、根のエキスを摺り染めしたものだったのかもしれない。しかし、銅媒染は木灰を用いたアルミニウム媒染より高度な技術であり、当時そのような技法を使い得たのか、その証拠は今のところ存在しない。

生のヤマアイの白い地下茎(上)と、その乾燥物(下)。

乾燥すると地下茎の表皮が藍色に変わる。

葉は乾燥で茶色くなるが、先端の成長点付近は青くなる。

<色の作り方>銅媒染剤を使ったヤマアイの藍色染色(絹)

1.硫酸銅五水和物を使って絹を銅媒染し、洗浄せずに風乾させる。乾燥後、炭酸カリウム溶液に浸し、繊維上で塩基性炭酸銅を作る。これを数回繰り返す。

2.ヤマアイの根を干したものを粉砕し(毒草でもあるので注意)、希薄な炭酸カリウム水溶液を加えると濃藍色の液体になる。これをガーゼでろ過し、先の銅媒染した布を漬ける

3.2時間ほど放置し、十分染色できたら、引き上げ、水で洗って日陰で乾燥させる

(文献)

(1) 成書, 総説: 辻村喜一, 萬葉の山藍染め, 染織と生活社, 1984.

(2) 増井幸夫, 神崎夏子, 植物染めのサイエンス, 裳華房, 2007.

(3) 西川廉行 (著), 奥洋治 (写真), 萬葉植物の技と心, 求龍堂, 1997.

(4) 佐藤幸治, 長谷川正男, “ヤマアイの染料色素について”, 古文化財の科学 1986, 31, 18-23.

(5) K. Abe, T. Okada, Y. Masui, T. Miwa, “Synthesis by benzilic acid rearrangement of the 2-oxo-3-pyrroline dimeric alkaloid of Mercurialis leiocarpa”, Phytochemistry 1989, 28, 960 .

(6) K. Abe, T. Okada, Y. Masui, T. Miwa, “Diastereomers of the 1,5-dihydro-2H-pyrrole-2-one dimer, a neutral component of Mercurialis leiocarpa”, Chem. Express 1990, 5, 13–16.

(7) P. Haas, T. G. Hill, “Mercurialis. I. The development of a blue pigment on drying”, Biochem. J. 1925, 19, 233–235.

(8) E. Ostrozhenkova, A. G.-Goldhirsh, A. Bacher, W. Eisenreich, “Biosynthesis of hermidin from Mercurialis annua: A retrobiosynthetic study”, Phytochemistry Lett. 2010, 3, 33–37.

(9) (a) P. Lorenz, M. Hradecky, M. Berger, J. Bertrams, U. Meyer, F. C. Stintzing, “Lipophilic constituents from aerial and root parts of Mercurialis perennis L.”, Phytochemical Anal. 2010, 21, 234–245. (b) P. Lorenz, J. Conrad, S. Duckstein, D. R. Kammerer, F. C. Stintzing, “Chemistry of Hermidin: Insights from Extraction Experiments with the Main Alkaloid of Mercurialis perennis L. Tracked by GC/MS and LC/MSn”, Helv. Chim. Acta 2014, 97, 1606–1623.