紫根(むらさき)

洋の東西を問わず、紫色、特に濃紫色の染料は古来より貴重であった。英語における表現では、purple (赤みがかった濃い紫) (注1)という言葉は帝王や貴族も意味しているのは、かつてそれが最上位階級の人物しか使うことができなかったためでもある。地中海沿岸では、紫はローマ帝国以前より貝紫を意味し、これは巻貝から少量のみ得られる 6,6'-ジブロモインジゴ由来であったため、その稀少さは飛び抜けている。日本においてはどうだろうか。日本における紫色の染料は、古くより植物のムラサキ Lithospermum erythrorhizon の根から得られた染料であり、貝紫ほどではないがこの植物もまた大量入手が難しい。ムラサキは非常に気難しい多年草(2-4年草)で、暑さや害虫に弱く、栽培が困難な「弱い植物」である。かつては国内のいたるところに自生していたと言われるが、今ではまず野山で見かけることはない。環境省のレッドリストでも、絶滅危惧 IB 類に入れられてしまっている。現在目にすることのできるムラサキはほとんどすべてが栽培のものであるが、純血の(ニホン)ムラサキはより旺盛なセイヨウムラサキ (Lithospermum latifolium あるいは L. Officinale) と交雑しやすく、インターネットなどで市販されているものは大多数が交雑種である。本物のムラサキは発芽条件出しが非常に難しく、かつ移植をとても嫌うので、苗の販売には向かない。これほど野生の血を強く残した野草も珍しい。

ムラサキの花。2018年6月10日。高崎市染料植物園(栽培株)。

発芽して初年は穏やかな開花を見せるが、二年目株は多数の純白の花を付ける。

ムラサキの花。2017年7月8日。山形市(栽培)。

小さな、1cmをちょっと切るぐらいの純白の花が付く。

花弁は5-6枚で、花弁の端がやや重なり気味になる。

6弁のムラサキの花。撮影は上と同じ条件。

非常に弱い植物で、簡単に枯れてしまう。

また、セイヨウムラサキと大変交雑しやすく、純血のムラサキを野外で見ることはめったにないし、

市販されているもの(たとえ日本ムラサキと書いてあっても)は、そのほとんどがセイヨウムラサキか交雑種である。

ムラサキの根。一年目(11月12日、神奈川県(栽培))

ゴボウのような主根に多数のひげ根が付く。

この根の表面に、色素シコニンとその誘導体が付着しており、赤くなっている。

これは、非常にゆるく付いていて、手で触ると手が赤く染まる。

それもあって、紫根を掘り上げた時は、簡単に水で洗い流す程度に留める。

ムラサキの種子。小さいが陶器のような光沢を示す硬い種。

ムラサキの学名の属名Lithospermum は、この種のようす (lithos- (石の) + sperm (種子))にちなんでいる。

非常に発芽率が悪く、種子が休眠から目覚めるには、0℃の温度で一ヶ月放置し、その後に充分な水が絶え間なく

存在しないと発芽しない。セイヨウムラサキはこれに比べると発芽率が高く栽培が容易なことから、

ムラサキの代わり、もしくは交雑種での栽培に向くが、遺伝子汚染の問題が避けられない。

セイヨウムラサキも根にシコニンを貯めるが、その量はムラサキに比べると少ない。

ムラサキの標本(前田千寸「むらさきくさ」(文献4)より)。ムラサキの根に含まれるシコニン誘導体はわずかな蒸気圧があり

蒸発して周りの紙を紫に染める。おそらく紙のサイジングに用いるアルミ塩と結合して紫色を呈するのだろう。

ムラサキの群生地では地面が染まるともいう。

この性質が失われるまで、二十年はかかると前田氏は記述している(前田「むらさきくさ」(文献4)より)。

日本におけるムラサキを用いた染色は非常に古く、その黎明の時期はもはやはっきりとはわからない、少なくとも飛鳥時代以前より歴史があり、茜(アカネ)と並んで日本における最も古い染料であるのは間違いない。「ゆかり」の色という表現は、古今和歌集におけるムラサキを詠んだ歌からきている。

紫染が日本の歴史において重要視され、あるいは禁色として分類されたのは、言うまでもなく仏教伝来の直後である。これは隋や唐の制令を日本に移植したものであった。当時、百済では16、新羅でも17の冠位があり、それを模して12階級に分けたのが始まりとされている(日本書紀における冠位十二階)。この時の分類では順に

「大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智」

となっており、それぞれに色を割り振っていた。ちなみに、「徳」は紫、「仁」は青、「礼」は赤、「信」は黄色、「義」は白、「智」は黒をあて、それぞれに高い位は濃い色を、低い位は薄い色をあてた。すなわち、濃い紫は最も高い位であった。これは後の大化の改新では7色13階級になったが、それでもやはり最高位は濃紫色となっていた。その後、様々な変遷を経て階級の色分けが続くが、濃い紫(並んで、鮮やかな赤)は、常に最上位近くに来る高貴な色として認識されていた。より時代が下り、武家社会になると、豊臣秀吉、上杉謙信、そして徳川家康らが、紫根染めの上着を好んで着用した。

ムラサキの根に存在する色素成分は、シコニン (shikonin) と名付けられた 5,8-ジヒドロキシ-1,4-ナフトキノン (naththazarin) 置換体で、ナフトキノン部位が発色団になっている。ナフトキノン骨格の2位に有機基が置換しており、それが(1R)-1-ヒドロキシ-4-メチル-3-ペンテニル基の場合はシコニン、不斉炭素原子が反対の(1S)-1-ヒドロキシ-4-メチル-3-ペンテニル基の場合はアルカンニン (alkannin) と呼ばれ、両者は鏡像の関係にある。また、両者のラセミ体は二つの名前を足しあわせ、シカルキン (shikalkin) と慣用名が付く。植物の組織に存在している際は、側鎖水酸基がアセチル化されたアセチルシコニン、あるいは他のエステルが少量ずつ含まれている。このエステル部位は、染色の際のアルカリ条件で加水分解し、大部分がシコニンになる。

シコニンの分子構造と骨格の炭素原子順番づけ。側鎖1位が光学活性炭素である。

側鎖末端の炭素ー炭素二重結合はナフトキノン部位とは共役しておらず、色には関与しない。

ムラサキの根に含まれるシコニンおよびそのエステル類(名古屋大 平田義正教授らの報告に加筆)。

これらはいずれも、アルカリ性条件ではゆっくりと加水分解し、シコニンに変わる。

これに、側鎖1位の立体化学が反転したアルカンニンおよびそのエステルが混じってくる。

もちろん、アルカンニンやそのエステルは光学異性体であるため、色はシコニンと全く変わらない。

アルカンニン誘導体の夾雑率は全体の 10-20% 内外である。

ムラサキから得られる染料分子であるシコニンと、アルカネットから得られるアルカンニンの分子構造。

互いに鏡像異性の関係にある。その1:1混合物(ラセミ体)は、両者の名を取って、シカルキンと命名されている。

ただし、紫根においてもアルカネットにおいても、生体中で完全に光学的に純粋なわけではなく、

例えば紫根では 90% シコニンに対し約10%のアルカニンを含んでいる。

ee で言えば 80%ee。20% のシカルキンを含んでいる、という表現もできる。

シコニンもしくはその鏡像体のアルカンニンの代謝生成は、ムラサキ科の植物にしばしば見られる。アルカンニンはアルカンナ(アルカネット)の根に含まれる。また、属の異なるエキウム ルシカム(Echium russicum、ロシアに自生するムラサキ科の植物)にもまたシコニンが含まれている。エキウム属の植物は日本ではシベナガムラサキという外来種で見られるが、この根にもシコニンが蓄積する。

ムラサキの色素シコニンは、中性状態では紫色ではなく濃赤色を示す。これが、媒染剤であるアルミニウムイオンとキレート錯体を繊維上で形成すると、紫色をようやく示すようになる。シコニンによる染色ではアルミニウムで鮮やかな紫を呈色するために好まれる。他の媒染剤、例えばスズイオンでは赤に染まる(文献12)。シコニンは、特徴的な吸収スペクトルの pH 依存性があり、酸性~中性(低 pH 側)で赤く、アルカリ性(高 pH 側)で濃い青藍色になる。これは、シコニン色素の水酸基のフェノール性水素が、アルカリ側でフェノキシド陰イオンになり、それによってナフトキノン発色団における吸収極大の著しい長波長シフトを引き起こすためだと考えられる。この pH による紫根染めの色の変化は古くからよく知られていたようで、染色にも活用されている。紫根染めをアルミニウム媒染剤を用いて染色する際、5位の水酸基はなおフリーなため、液性によって色がだいぶ変わる。古来からのシコニンの媒染剤は木灰で、これには大量の炭酸カリウムが含まれるため、媒染剤浴は強いアルカリ性になる。一方、紫根を抽出した染液は中性から酸性側に寄っていて、時にそこに酢を加えわざと酸性浴にした。紫根は大変染まりづらい天然染料で、まず先媒染し、その後何度も染液浴と媒染浴の間を布が往復する。古代紫のように濃い紫を求める場合、その往復が十回を超えることも珍しくない。その往復の間で、媒染浴に浸かっているときはアルカリ性のために布は青みの紫に染まり、染浴に浸かっているときは酸性による赤みの紫へ何度も切り替わる。そして染色工程を終えるとき、最後に媒染浴で仕上げると布は青みの紫になり、逆に染浴から仕上げるときは赤みの紫になる。江戸時代においては、紫根染めは「江戸紫」(青みの濃紫)と京紫(赤みの紫)に派生したが、その二つはそのようにして染め分けられていたもののようだ。そして、「蝦紫」(えびむらさき。くすんだ赤みの強い紫)の場合は、染浴に酢を多めに使い、赤を強くした。pH によるシコニンのフェノール←→フェノキシド陰イオンの間のスイッチングを利用していた、と表現することもできよう。

紫根染めにおける pH による色みの変化の模式図を書いてみた。


ムラサキの根からアルコールでシコニンを抽出し、これに炭酸カリウム固体を加え、ゆっくり溶かした際の色調の変化。

中性ではワインレッドだが、これにアルカリを加えるとその固体アルカリの周りから紫色に変色していき、

濃い紫色を経て、最後には青い溶液となる。この挙動は、アルミニウム媒染による紫根染めでもある程度は見られ

江戸時代はこれを利用して微妙な紫色の加減を染め分けていたらしい。

紫根染めの呈色成分であるシコニンのアルミニウムキレートを作り、これを酸性またはアルカリ性液性としたもの。

左が酢酸酸性。右は灰を模して炭酸カリウムを少量加えアルカリ性にした。

このように、シコニンアルミニウムキレートであっても、液性によって紫の色調を大きく変えることができる。

江戸紫(青みの紫)、京紫(赤みの紫)は、このようにして染め分けられたものらしい。

ただし、江戸紫はシコニンの一部はカリウムが結合した陰イオン性塩になっているため、

京紫より色の安定性に劣ると思われる。江戸っ子的な用法ではある。

紫根の色素成分のシコニンの分子構造の決定は、「日本の有機化学の父」とも呼ばれる東北帝大の眞島利行教授、そして日本初の女性の帝大理学博士である黒田チカによる研究が発端になっている。黒田は、卒業研究のときに(1915年)、この研究テーマを眞島教授から授かり、その研究を継続してシコニンの分子構造を特定した。ただし、黒田はシコニンおよびその鏡像体であるアルカンニンの光学活性を見逃したためにシコニンに一部間違った構造を与え、後に旋光度を有する事実より発表構造を修正し、最終的に正しい分子構造とした。黒田チカのライフワークである種々の天然色素の構造決定に関する研究は、大学学部時代の眞島教授の指導がその源となっている。シコニンの研究テーマの立ち上げについては、黒田の回顧録(文献1)に詳しいので、該当部分を以下に引用する。

大正4年の9月私は3年生となり専攻をきめるとき眞島先生から有機の方に来いとのお話があり、先生から早速研究題目につき特別の希望あるかと尋ねられた時、全くとっさの間に次のごとくお答え致したが、実に自分ながら不思議な程で、よくもだいそれたお願を申上げたと後で考えたが、その時は全く自然であった。すなわち「色素に対し大いに興味を持っているけれど、合成色素については一般に多くの方々が研究されるに違いないから、私は皆さんが手をつけられぬような天然色素が在ったら、その構造の方面を研究したい」と。

そのときの眞島先生のご返事が、また実に有難いものであった。「実はそれにあてはまる問題がある。それは紫根といって、植物ムラサキの根で、この色素は昔から格の高い、たとえば伊勢大神宮とか、宮中のお式に使用せられる著名な染料であるから、その本体を研究せんため多くの方々が着手せられたが困難らしいので、東大工科の井上仁吉教授から依頼があって、その材料がある。しかし、色素が結晶にならなければ困るからまず自分で試み、もし結晶になったら問題にしよう」と。それから1週間くらいの後と記憶されるが、理論化学の実験中、眞島先生がわざわざ1階から2階の理論化学実験室にお越しになり、「紫根の色素が結晶になったから見に来い」とのお迎えであった。早速先生のお部屋に赴いたら紫根からの赤色の抽出物を石油エーテルに溶かし、分液漏斗中で水素を通じながら苛性ソーダ水溶液と振盪されたら、美しい青藍色となった。これを希硫酸中に滴下すると直ちに結晶性の赤い沈殿として析出した。これを吸引ろ過後有機溶媒で精製された結晶は、融点一定のものとなっていた。以上を目撃した私は全く驚嘆と喜びで胸一杯であった。これでいよいよ私の天然色素研究の端緒が開かれたのであった。短時日の間に結晶単離に成功された先生ご自身のお喜びは無論当然であった。このすばらしいご成功に対する敬意は数十年(約44年)後の今日にいたりさらに一層深く感銘するのである。

眞島-黒田法による紫根からのシコニン抽出の反応式。

紫根に含まれるシコニンは、新鮮なうちはそのほとんどが

アセチル体をはじめとするエステルの形を取っており、これは炭化水素によく溶ける。

これを室温付近で炭化水素(石油エーテル)で抽出し、これをアルカリ水溶液で処理すると、水溶性のナトリウム塩となる。

この際に、エステルの大部分は加水分解し、次いでアルカリと反応してシコニンナトリウム塩となる。

これをさらに酸で中和すると再沈殿し、赤いシコニンの結晶性粉末が沈殿してくる。

眞島らの方法である、紫根から粗シコニンを炭化水素溶媒で抽出し、これをアルカリ溶液と反応させて塩として水に移し、さらにこれを有機溶剤で洗浄し、次いで水層を酸で中和し沈殿してくるシコニンを捕集し、さらにこれをベンゼンで再結晶する方法は、シコニンの酸塩基反応をうまく利用したもので、非常に合理的である。まったく同じ方法は、アルカンニンの単離を行ったブロックマン (1935) の研究でも用いられている(文献13)。

黒田らの提唱したシコニンの構造は、現在考えられている構造ではなく、側鎖水酸基がナフトキノン環に結合しているものであった。これは、旋光度を見落としたものである。黒田の構造によるシコニンには光学活性は存在しない。シコニンは右旋性 (d-) であり、その鏡像体であるアルカンニンは左旋性 (l-)を示すことが1935年にブロックマンによって報告されると、黒田は直ちに自分の提唱構造の間違いを認め、構造を訂正した。

ムラサキの色素分子であるシコニンは赤い結晶質の固体で、冷水にはほとんど溶解しない。その溶解度は 0.213 mg/L (30℃) 程しかないので、染色には古くから温水を使い何度もの抽出を必要とする。ただし、加熱が過ぎると熱分解するので、沸騰水は歓迎されない。黒田チカも、導入されたばかりのソックスレー抽出器を用いて長時間抽出したら、みんな変質してしまったという失敗談を残している。シコニンは、中性分子のままでは布に強く吸着担持できないため、媒染剤を用いた染色が必須である。紫根染めには古来より椿の灰が良いとされていて(注2)、これは椿の灰が多量のアルミニウムを含むため、アルミニウムとキレート錯体を作り染色が可能になるためのようだ。

「南部むらさき誌」(文献3)に、ツバキの灰の分析生データが載っているので引用すると、以下のようになっている。

Al 4.8 wt%

K 10 wt%

Fe 900 ppm

Cr 5.4 ppm

Cu 120 ppm

ツバキの灰には極端にアルミニウム分が多い。通常のカリウムアルミニウムミョウバン(いわゆる生ミョウバンで、水和水を含むもの)は、理論組成で重量にして約10%程度のアルミニウムを含むから、椿の灰は、その半分がミョウバン等価体とみなしても良い。また、東北にはツバキが少ないので、南部地方ではサワフタギ(ニシコリ)と呼ばれる低木の灰を用いていた。これは、酸化物基準として約41%の酸化カリウム、3.9% の酸化アルミニウムを含むという分析データがある。ツバキの灰よりわずかに少ないが、ニシコリの灰も豊富なアルミニウムを含む。その媒染能力に気づいた古人が積極的に利用したものと思われ、おそらくは試行錯誤の末に到達したレシピなのだろう。

昭和10年前後の南部紫の絞り染め(文献2a 貼付の色見本)。

作られてから80年経過しているが、色はそのまま残っている。

ムラサキの色素シコニンは重合性があり、経年で強固に繊維に固着し、遮光さえしていればその色を何百年も保ち続ける。

いわゆる「古代紫」色の紫根染め。平成初年前後に染められたもの。

ここまで濃くムラサキを染めるには、年単位の媒染と、十回前後の染色を必要とする。

非常に手間のかかる染色法であり、量産には決して向かない。

昭和末期に染められた、艸紫堂(岩手県盛岡市)の紫根絞り染め。

南部紫は、ニシコリの木の灰と交互に、ご汁(豆乳)で補助媒染する。特に濃い紫色が特徴。

しかし、南部紫染めは先媒染に非常に時間がかかる。10回近く媒染し、媒染だけでも一年近くかかると言われる。

艸紫堂は古くからの南部紫と南部茜染めを得意とする染物屋である。

ムラサキは、染色原料としてのみならず、薬用にも広く用いられている。特に、切り傷や手荒れ、火傷などの皮膚疾患、そして痔の薬として古くから生薬として用いられており、紫雲膏として知られる。紫雲膏の開発者は華岡青洲だとされる。痔の薬として知名度の高い天藤製薬の「ボラギノール」は、ムラサキの科名 boraginaceae から取られている。天藤製薬はもともと京都府下の天津村で1813年に創業した天津屋という和漢薬の商いを発祥とし、ムラサキとは切っても切れない仲にある。それもあって、ムラサキの保護と栽培に社を挙げて取り組んでいる。ただし、天藤製薬が薬用に用いる紫根は、現時点ではすべてが輸入の天然のものである。

紫雲膏。紫根の生薬を胡麻油などで練ったもので、皮膚疾患や痔によく効く。

(注1)英語での purple は赤みの紫を、violet は青みの紫をさす。

(注2)ツバキの生葉も材部分もまとめて焼却して灰にしたもの。煙が旺盛に立ち、狼煙のように白煙が立ち込めるらしい。ただし、南部地方ではツバキはごく少ないので、ツバキは使えずニシコリ(サワフタギ)を用いたもののようだ。南部におけるニシコリ灰はニシコリの材を銅の鍋の中で燃やし、他の植物の灰と混じらないように丁寧に作っていた。

(注3)色の地域と時代変遷による好みは一言ではあらわせない。少なくとも古代中国、周代は色を正色(今の原色と白黒のこと)と間色(今の中間色のこと)に分け、正色に比べ間色の評価は低かった。論語、郷党には「紅紫は以って褻服と為さず」とあり、朱色と青色の中間にあった紫色の評価は低かった。しかし、論語、陽貨には「紫の朱を奪うを悪(にく)む」ともあり、紫色の流行もやはりあったらしい。色の流行のコントロールは権力者でもなかなか難しいようだ。

(文献)

(1) 黒田チカ,「植物色素研究に親しんだ筋道」,日本薬剤師協会雑誌,11,26-30 (1959).

(2a) 艸紫堂,「南部むらさきの由来」,昭和12年

(2b) 艸紫堂,「南部むらさきの由来」,大正7年

(3) 佐島直三郎,平山良 編,「南部むらさき誌」,平成4年,南部むらさき染研究会

(4) 前田 千寸,「むらさきくさ 日本色彩の文化的研究」,昭和31年,河出書房

(5) 竹内淳子,「紫(むらさき) 紫草から貝紫まで」ものと人間の文化史148,法政大学出版局,2009年

(6) 染織と生活社,「染織と生活 11号 特集 紫根染と貝紫」,田中直染料店,1975年

(7) 明石染人,「染織文様史の研究」,P233-254「『むらさき』に関する若干の史料」,萬里閣書房,昭和6年

(8) 宮澤賢治,「紫紺染について」,青空文庫

(9) 天藤製薬株式会社編,「むらさきのゆかり」,2014年

(10) 水上 元,京大薬博士論文審査要旨,昭和52年。

(11) 新井 清ら、古代染色の化学的研究 第1報 古代紫染について、奈良大学紀要、昭和47年。

(12) 長嶋直子,坂田佳子,片山明,「シコニンの染色化学的性質」,日蚕雑,67,123-127 (1998).

(13) H. Brockmann, "Die Konstitution des Alkannins, Shikonins and Alkannnanns", Ann., 521, 1-47 (1935).

(14) H. Brockmann and H. Roth, "Optically isomeric natural pigments", Naturwissenschaften, 23, 246, (1935).

(15) 寺田ら,「古代色素 シコニンとその誘導体の化学」,有機合成化学協会誌,48,866-875 (1990)

(16) 岡不崩,「万葉集草木考 第一巻」,紫草考(p411ー560),建設社,昭和7年.