崩れかけた街だ。
年端もいかぬ少女が、痩せ衰え虚ろな瞳をした幼子を胸に抱きかかえ、切望を宿した青い瞳で私を見上げた。
「皇女様……どうか弟を助けてください……」
何も救えはしなかった。
「西へ行ったぞ! 逃がすな!!」
街の至る所で赤黒い焔が燃え上がっている。
「姫様……ここは我らが!」
「どうかお逃げください……! そしていつか再起を!!」
他人どころか自らの身すらも救えはしない。
「アテーナニカ様……恐れながら……もはやバシリャス家の時代では無いのです」
昨日まで皇女よ姫よと持て囃していた者達の多くが門を固く閉ざした。
――大陸はもう駄目です。皆、僭主どもを恐れている。
「海を渡り、西へゆきましょう」
多くの人が離れていったが、それでも側に残ってくれた師は大陸から脱出せよと言った。
メティス。永い時を生きる不老の賢者。その頭脳には英知が詰まっている。
海を渡って西?
エスペランザ島でしょうか?
「いいえ、さらに西です」
師は運命となる言葉を言った。
「希望の島よりさらに西、キンディネロス海の西方に浮かぶ大島ゼフリール」
ゼフリール。
聞いた事はあった。
『西の最果て(デュシス・トゥーレ)』にして『光の終わる所(フォス・テロス)』。
「あの島ならば僭主どもも貴女様を追っては来れないでしょう」
追っては来れないというのは道理だろう。
それは、この世の果てだ。
世界の果ての魔境まで逃げろ、と小さな師が言う。
師は、返答できず立ち尽くす私の表情(かお)を見た。
「ゼフリール島の西部に割拠するガルシャ王国を治めるオノグリア家はパラエオロゴス様のご兄妹であらせられるエウゲニア様が降嫁なされた家です」
パラエオロゴスは私の父から見て三代前の皇帝だ。
私からすると高祖父にあたる。
高祖父の兄弟姉妹は十人以上いたと伝えられている。
しかし、エウゲニアという人の名は聞いた覚えが無い。多分、あまり有力な皇族ではなかったのだろう。
――世界の果ての国の王家を、存在も今の今まで知らなかったひいひいおじい様の妹が輿入れしたという縁で、頼れとおっしゃるのか。
「かの家なればアテーナニカ様を匿ってくだされる筈です」
頼るには随分と遠すぎる関係のように思える……
何もかもが、あまりにも、遠い。
ゼフリール。
オノグリア家。
ガルシャ王国を治める家。
ガルシャ王国とは、どのような国なのか?
人類世界の西の最果ての島の、そのさらに西端に位置する国というのは…………
魔境ではないのか?
少なくとも吟遊詩人達は幾つかの物語でゼフリール島というのは大秘境・大魔境であるとして語っている。
多分にそれは、誇張は入っているのだろうが……
私は、まったく自慢にならないが、父や母や兄姉、親戚、臣下達、皆々から手厚く保護されて育てられてきた。
私のような軟弱な人間が、そのような場所へ足を踏み入れて生きていられるのだろうか?
「ゼフリール島の文明は優れています。詩人達が歌うような文明無き蛮地ではありません」
師は私の心を読んだかの如く、安心させるように可憐な微笑を浮かべた。
「フィリッポス様の時代に植民がなされ、以降六百年以上、大陸の西端からはエスペランザ諸島を中継に交易船が往来しておりましたから、偉大なるヴェルギナ帝国の文化や技術が伝わっているのです。無論、本土よりも技術水準は些か見劣りするでしょう、しかし、未開の地という訳ではありません。その文化は大陸とは異なる点も多いですが共通点もあり、また異なる点を持っているからこそ、大陸には無い優れた点も持つとも言えます」
……そうなのか。
正直よくわからなかったが、私の家庭教師を務めていただいているこのメティス師は立派な方だ。師のおっしゃる事ならば間違いはあるまい。
……しかしだ、メティス師を疑う訳ではないのだが、近しい親族達でさえ僭主を恐れ、私達を追い払っている。
それなのに、そんな遠い国の遠い存在が、落ちぶれた皇家の厄介者の娘などを、本当に受け容れてくれるのだろうか?
「遠いからこそです。トラシア文化圏内の最果てにある島の最奥なればこそ、僭主どもの手も容易には届きません。逆に、もしもガルシャにさえ僭主どもの手が届いているのだとしたら、我々が生きてゆける国はこの世に一つも残っておりません」
一理あった。
死ぬしかないのだ。
ようやく自覚した。
物分かりの悪い私の頭でも、師が言葉を尽くしてくださったおかげで、ようやく。
私は、そこまで逃げなければ生きる事がもはや出来ぬ立場にまで追い込まれていて、そして、そこまで逃げても駄目なら、もう生きてはいけないのだ、私は。
だから、我々は結局、他に妙案も浮かばなかった為、ゼフリール島のガルシャ王国を治めるオノグリア家を頼る事となった。
オノグリア家の現在の当主はイスクラ・ルブレ・オノグリア・デ・ガルシャというらしい。
ガルシャの老王。
一体どのような人物なのだろう? 彼は私達を助けてくれるだろうか……
未来が見えぬ不安と、後にする大陸の荒廃に暗澹たる思いを抱きながら、私達は西へと向かった。
――皇女様……どうか弟を助けてください……
今でも偶に思い出す、あの日、私を見上げた瞳の色を。
あの子の弟は結局、助けられなかった。
あの子は、今もこの戦乱の大陸を一人、彷徨っているのだろうか。