波風を立てぬよう、努めて平凡穏健な王として生きてきた。
不満はなかった。
否。不満がまったくなかったといえば嘘だろう、特に若い頃は。
だが儂は幸い「仕方がなかろう」と諦める事ができた。
頂点を争うよりも自国に利を与え、民の生活を安らかにする事こそが第一だと。
そしてピュロスは悪い盟主ではなかった。
やりすぎず、やらなさすぎず、塩梅が良いように。
幸運な事に諸侯の協力もあり、国内は良く治まってくれた。
やはり幸運にも儂はジシュカという名将を得て、対外的にも一定の地位を築けた。
王として大成功とはいえぬまでも、そこそこの成功でそこそこ上手くやってきた――そうして平凡なそこそこの王として己の一生は終わる筈だった。
だが、この歳になって、皇女が手中にやってきた。
正真正銘の世界帝国ヴェルギナの、先の皇帝カラノスの娘だ。
アテーナニカ。
皇族の多くが死に絶えた今、帝室法に則るなら、帝位継承権第一位となっている。
儂の祖母エウゲニアはヴェルギナ皇家の出であったから、儂と皇女は遠縁ではある。
「世界帝国が辺境までをも支配に組み込む為に押し付けられた『血』である」
と父は語っていたが、血縁は血縁だし、親族は親族だ。
血族は助けるべきだろう。
まぁ儂は父の死後、最も近しい血族であった弟を王国後継戦争で殺したが。
皇女は大陸の有力者達に追われ、狩り立てられ、逃げて逃げて流浪の果てに、か細い縁を頼って、このガルシャ王国に辿り着いたのだという。
――ピュロスに勝てるのではないか?
何処かで誰かが囁いた。
これは果たして幸運か? それとも巨大な不幸か?
ガルシャ王家に世界帝国ヴェルギナの、帝位継承権第一位の少女を強力に結び付ける。
さすれば、
――ピュロスに勝てるのではないか?
そういう声が聞こえた。
だが、儂はその声を斬り捨てた。
そんな野望に耳を傾けるほど若くはない。
私利私欲で国難を招くほど悪党でも大胆不敵でもない。
皇女は若く美しくそして善良な娘だ。
政略や老人の野望が為に犠牲になるは哀れだろう。
追い返しもせず利用もせぬなら、斬り捨てるが最も安全だが……逃げて逃げてその果てにこのガルシャを頼ってきたというのに、それを無情に殺すも哀れだろう。
迷ったが、
やはり皇女殿下には適当な屋敷を一つ献上し、そこでそっと暮らしていただくが良い。
我ながら実に無難な"昼あんどん"の王らしい決断だと思った。
しかし、そんな儂へとある日、皇女が嘆くように呟いたのだ。
彼女は世界の闇を晴らし、救いを求める人々の声に応えたいのだという。
彼女は助けを求められ、しかし助けられなかった少年と少女の事、その他多くの民達の事も、心の底から悔やんでいるようだった。
――眩しい。
長年を王として生きてきた己には、彼女の心が酷く眩しく見えた。
世界の戦乱を治める? そんなのは夢物語である。
しかし本気であるのだと彼女は言った。
正真正銘本気であるのなら――なればこそ、寝言だ。
寝言の妄言の夢物語に付き合う一国の王がこの世界の何処を探したら居る?
――天命ではないか?
なればこそ、そう感じてしまった。
己がガルシャ王としての責務を考えた時、それは自国の安寧、それが第一の筈だ。
しかし、己は王の座にあり、皇女を助ける事ができる。
世界の闇を晴らし、天下万民を救わんとするその正義を助ける事ができる。
馬鹿馬鹿しいと、斬り捨てる事が、今度は何故か、出来なかった。
――天命ではないか?
野望は斬った。
欲望も斬った。
だが、
己が産まれ生きてきて死ぬ意味がどこかにあるというのなら、それはこの大義の為にではないのか?
儂以外に誰ができる?
――地獄への道は善意で舗装されている。
その言葉を知らぬ訳ではない。
だが、希望への道もまた舗装するのはそれではないのか?
皇女は言った、戦火に命を散らした子供達を皇室の一員として助けたかったと。助けたいのだと。今も多くが大陸では死んでいると。
彼女が呟いた願いは民の願い、そうであるのならば、それは民達の血を吐くような祈りだ。
誰が救う?
やらねばならん、誰かが。
そうでなければこの世は闇だ。
儂は皇女の願いを聞く事にした。
それは大陸の民のものであって、ガルシャの民のものではなかったが、将来ガルシャの民のものにならない保証も無い。
対岸の火よと無策で立ち尽くし、己が火に巻かれてから慌てて準備しても遅い。
動く余力があるのは今だ。
そう、大義ばかりの話でもなかった。
故に――
儂はこの齢にして己の天命を定め、ガルシャ王国を掛け金にして賽を握った。
要するに、勝負だ。
勝負というのは、勝てば良い。
否、やるからには勝たねばならぬ。
やるならば、必要な事はまず国内の支持を固める事だ。
――支持、どうやって固める?
哀れや情けや正義を語って諸侯が動くか?
動く訳が無い。
動かすべきでもない。
それのみで動いたら、それもまたこの国の未来は闇だ。
多角的に攻めるべきだが、第一にはやはりまず、根本的な所、戦う事の益を説くべきだろう。
幸か不幸か、いくつかの事実はそれを後押しした。
儂はガルシャの諸侯を集め言った。
「ただ座して待つならば、この島の諸国はいずれもルビトメゴルによって滅ぼされるだろう」
不安、恐怖、危機感、それらは最も人を動かすものの一つだ。
虚偽でなく真実であれば、それは一層に強力なものとなる。
ルビトメゴル、ヴェルギナ亡き後のトラシア大陸の列強。
かの強国は経済活動――特に自由都市アヴリオンの議会の一部――を通して既にゼフリールの諸国に密やかに影響力を喰い込ませている。
多くの人々は未だ気づいていないが、腐っても儂はガルシャの王だ。大陸の僭主が野望の手を伸ばして来ているのは把握していた。
流石に軍事的に攻めて来るのは今日明日の事ではないだろうが、ルビトメゴルはこの島に必ずやって来る筈だ。その時にゼフリールの諸国がこのままで立ち向かえるとは思えない。
ルビドメゴルはかつてのヴェルギナほど強大ではないが、かつてのヴェルギナほど寛容でも無い。
無論、ルビトメゴルが必ずしも大陸の覇者になるとは限らなかったし、覇者となった後にその性格を変える可能性もあるかもしれない。
だが、可能性というのは高い方に備えるべきだろう。
普通に考えれば、ルビトメゴルが島に押し寄せて来るのは儂が寿命で死んだ後の時代だろう。まぁ、まだまだ先だ。
つまり、儂自身の人生には関係ない。
だから、皇女に会うまでは儂もさすがにそこまでは面倒見るつもりは無かった。もう良い歳だ。儂は平凡な王だが、平凡である為に、これでも色々やってきているのだ。さすがにくたびれている。
そう、儂はボンクラ昼行燈の王なのだ。
だから、そんな未来の苦労までこの凡骨爺が背負い込むのは分を超える。
故に、その辺りの事は次期ガルシャ王であるボスキ公ルカに任せるつもりだった。早くに逝った父親に似て孫のルカは優秀だから、上手くやってくれる公算は高い。儂とは違う。
が、こうとなったら、これを動き出す理由にはできるだろう。
儂ら――ジシュカやルアールの魔女にとっては墓場に入った後の出来事だが、他のガルシャ諸侯は大体若い。
彼等にとっては未来の当事者として身に迫り来る自分事だ。
強大な危機が確かに迫っていて、今なら対処が間に合うと知れれば、備えておきたい筈だ。
だから儂は言ったのだ、
「戦は極力行なうべきではない。
しかし不可避であるなら、せめて国土の外でおこなうべきだ」
と。
これは、ガルシャの国是だ。
ガルシャの諸侯は戦火で自領を荒らす事を嫌う。
戦場となる地域は酷く荒廃する。
だから戦わざるをえないなら、籠城するよりは迎撃を選びたがり、自領の外を戦場にしたがるのが、我々の性質だ。
家が安泰な限りはのんびりしてるが、閉じこもって家を荒らされるなら、打って出る。
彼等は皆、守りたいものがあるのだ。
儂は長年ガルシャの王をやっているので、彼等の性格、望みを良く理解していた。
だから儂は彼等の希望にも沿うように、その為の手段を告げた。
――亡命してきた世界帝国の皇女を主君に推戴するのだ、と。
諸侯はそれを我々が我々の為に皇女を皇帝に即位させ、旧帝国の威光を利用するのだ、という意味に取ったようだった。
「アテーナニカ様を傀儡の皇帝にするのだ」
と。
儂は進んでの否定はしなかった。今のところは、それで良い。それにあながちそれも間違いでは無い。
儂は腐ってもガルシャの王だ。
ヴェルギナの皇女の大義の手助けはする。
だが、ガルシャ王国の利益は当然取る。
アテーナニカ様の帝国がいずれゼフリール島を覇した時、ガルシャは新しき帝国世界内で重要な位置に在る筈だ。
彼女にそれを拒否は出来ぬ。
儂がさせぬからだ。
かくて儂らはアテーナニカ様を主君に推戴し、ヴェルギナ帝国を継ぐ帝国としてヴァルギナ・ノヴァを名乗った。
黄金の世界帝国の再興の旗を掲げた。
ゼフリール島内の諸国に対し、ヴェルギナ・ノヴァ帝国を世界帝国の後継国として認めるように通達、同時に、諸国がかつてヴェルギナ帝国の傘下にあったように、この新帝国の傘下へと入るように、と告げた。
まぁ北は勿論、南も呑まんだろうな。
十中八、九、戦になる。
ピュロスも趨勢を見定めるまでは動かんだろう。だが、あの男はあれで正統性に拘る。アテーナニカ様の帝国が主君たれる力を示せれば、目はある筈だ。
賽は投げられた。
皇女の願いを叶え、ガルシャを栄光へと導けるか、それとも、国を潰した愚王となるか、儂の博打が始まった。