――この世界は人間同士で争っている暇があるのか?
という問いかけに対し、答えるならば「ある」なのだろう、とトラペゾイド連合王国の『覇王(ハイロード)』ピュロスは思う。
先のヴェルギナ皇帝達があげた戦果はそれを許すほどの多大なものだった。
(――だが、本当にそうか?)
ピュロスとしては懸念がある。
異貌の神皇はトラシア諸国連合軍によって討たれた。
『異貌の神々(ディアファレテオス)』は勢力を大きく減衰させ、元の異界へと押し返された。
神皇軍の残党がしつこく喰い下がって、辺境のエスペランザ諸島へと次元瘴穴を再び開きこの『世界(テルス・マーテル)』に出現させたが、その規模は先の神皇軍と比較すればごく小さなものだ。
トラシア文化圏の人類全体の存亡を脅かす程ではない。
むしろ、大陸の覇権を争う諸侯にとっては、強力なライバルの一人であるニカイア公(オーケアノス海の交易を牛耳っている大貴族)の経済力を減衰させる為にも、エスペランザ諸島を異界勢力に抑えさせ、交易を妨害させておいた方が都合が良かった。
だから、異界勢力の残党に対し、人類の総力を挙げての討伐軍が編成されない。
そうして、彼等は現世に居座る事を、大陸の諸侯達より見逃される形となった。
一方、権力争いによって人類から切り捨てられたエスペランザ諸島は、異貌の神々達の支配する所となった。
そんな中でも個人で偵察を行ったという大陸三勇者の一人ジャスティンからもたらされた報によれば、エスペランザ島の男達は多くが虐殺され、女子供達は捕らえられ、精神エネルギーを絞り出す為の家畜のように扱われているのだという。
ジャスティンは大陸で救助を訴えたが、彼の訴えに応える諸侯はいなかった。ニカイア公でさえ、動いた隙を他のライバル達に突かれるのを恐れて動こうとしなかった。
だから赤髪の勇者ジャスティンはゼフリール島へとやってきて、トラペゾイドと同盟を結んだ。エスペランザ島の解放を目指すと、はっきりと断言したのがピュロスだけだったからだ。
(嘆かわしい事だ)
守るべき帝国民達が虐殺され家畜のように扱われている現状を放置し、覇権を巡って互いに相争う。
先帝が生きてさえいれば、決してそのような事は許さなかっただろう。
ピュロスとしてはそう思う。
カラノス帝は英傑だった。
もっとも、その英邁な皇帝が死んでしまったからこそ、後継の座を巡って諸侯は互いに争っている訳だが――
(……異界勢は現状で全力なのか?)
ピュロスとしては疑問があった。
次元瘴穴の彼岸にあるという異界の事情は謎に包まれているが、人類が一枚岩でないように、異貌の神々もまた一枚岩では無い、という可能性は無いのだろうか?
神皇が討たれた事により異界勢力の大半はテルス・マーテルへの侵攻を諦めた――という現状にあると仮定しよう。
そうであるなら、その諦めは『勝ち目が消えたから』というだけの事であって、勝ち筋が再び見えたら、連中は再び連合してこの世界へと侵攻して来る、という事を意味してはいないか。
異貌の神々が再び大挙してこの世界に攻め込んで来たらどうなるのか。
世界に危機が再び訪れたら、人類は再び手を取り合って脅威に対抗する――異界側の勢力はそのように予想しているのかもしれない。
が、ピュロスには、カラノス帝が身罷られ、世界帝国ヴェルギナが崩壊した今、危機になりさえすれば再び人々が手を取り合う、という図がどうしても現実味のある可能性として想像できなかった。
(もしも戦乱がおさまらぬままに再度異界勢が攻めて来たら、前大戦時のようにはならないだろう)
英雄皇帝は死んだ。
黄金の世界帝国は崩壊してしまった。
輝ける陽は地平の彼方に沈み、分断と対立、戦乱をもたらす暗黒が、世界を包み込まんとしている。
以前とは状況が違うのだ。
だから、再び人類世界全体に危機が迫っても、人々はそれでも互いに同士討ちを続けるだろう。
その可能性が高い。
憎しみあう人々は、滅びるまで相争い、足を引っ張り合う。
下手をすれば異貌の神々に降って、その手先になるような国々とて出てこないとは限らない。
前大戦の時とて、個人や小さな団体であるなら、そういう者達は存在したのだ。
エスペランザ諸島の異界勢力が拡大し、ヴェルギナ皇帝亡き後の人類など烏合の衆であると、異貌の神々達全体から見なされてしまったら、彼等は再び攻めて来る。
ピュロスにはその予感があった。
再びの大侵攻を受けたら、
(――人の世は滅ぶ)
おしまいだ。
悲観的な考えかもしれない。
だが、ピュロスにはどうしてもその可能性が高いように思えてしまう。
故に、
(……エスペランザ諸島の異界勢力は早急に撃滅し、次元瘴穴の封滅を行う必要がある)
トラペゾイドのハイロードはそう結論づけた。
異界の側に勝ち目があるのだと思わせないように、人類の窮地を気取られぬように叩き潰す必要がある。
ピュロスが持つハイロードという称号は、かつての世界帝国ヴェルギナから与えられたものだ。
その称号はゼフリール島の王の中の王として諸王を統率する権限を有している。
故に覇王。
代々のトラペゾイド王は世界帝国の信任を受け、その権威を後ろ盾として、ゼフリール島内をまとめあげてきた。
故にピュロスは、今回の事態に対しても、島の諸王の王として諸国へと号令をかけ、エスペランザ諸島を奪還すべく攻め入る計画を練っていた。
しかし、である。
準備を進めている最中に、西のガルシャ王国が皇女アテーナニカを皇帝に即位させヴェルギナ・ノヴァ帝国を号し、我こそが新帝国の後継者であると宣言してしまったのだ。
ヴェルギナ・ノヴァはあろうことかトラペゾイドを含むゼフリール島の諸国に傘下に入るように通達してきた。
(……確かに、アテーナニカ皇女は帝国法に則れば現在は帝位継承権第一位だ。ヴェルギナ帝国の後継者となる正統性がある。そして、アテーナニカ皇女が皇帝となるなら、彼女こそが我等の主君となる……)
ピュロスはそれは認めた。
しかし後継だというヴェルギナ・ノヴァ帝国、名前ばかりはヴェルギナを名乗った所で、その実態は西の辺境小国家ガルシャに過ぎない。
その文化も軍事力も世界帝国であった『ヴェルギナ』という言葉から一般に想像されるものからかけ離れている。
ヴェルギナ・ノヴァの実態は世界帝国ではなく、辺境のガルシャ人の一王国に過ぎないのだから当然だ。
世界帝国崩壊以前では、ガルシャ王国もトラペゾイドを通してヴェルギナ帝国を構成する国の一つではあったから、一応はガルシャ人もヴェルギナ帝国人という区分内ではある。
だが、ガルシャはトラシア文化圏において辺境も辺境、この世の最果てとまで大陸人からは言われている程に外様も外様なのだから、これを後継者、新たな主人と言われても、諸民族は納得すまい。
特に、他ならぬこのトラペゾイドだ。
トラペゾイド連合王国を構成する国の一つであり、ピュロスが直轄して治めている都市国家ケンヌリオス・ヘリオンは大昔にトラシア大陸から海を渡って島に入植した人々が建てた国である。
ヘリオタイを称する彼等は『我等に流れる血はヴェルギナ人と同源であり、ゼフリール島に元々暮らしていた野蛮な蛮族達とは一線を画する』として、ゼフリール原住の諸民族を一段下げて長年見てきた。今でも見ている。その差別感情は根深く染みついている。
我等は彼等よりも上等高貴な存在であり、故に我等は彼等の主人たる権利があるのだと。
トラペゾイド連合王国内の諸国は、ほぼ全てが、ヘリオタイ達が建てた都市国家だ。
プライドの高いヘリオタイ諸国がトラシア大陸の洗練された国家相手ならともかく、辺境の蛮族と見下げていたガルシャ人達の国を主君として仰ぎ、その傘下に入る?
(無理だ)
ピュロスの表情は鋼のように動かなかったが、胸には苦い暗澹たるものが広がっていた。最早決してまとまれぬ島の未来が視えた。
(イスクラめ、貴様ほどの男が何故、そんな真似をした)
ガルシャ王国の傘下に入るなど、トラペゾイドの連合議会は必ず反対するだろう。
もしもピュロスが上王としての一存でそれを強行すれば、トラペゾイド連合王国内で高確率で反乱が巻き起こる。
ピュロスはゼフリール島の覇王であり、連合王国の上王でもあるが、直轄して統治しているのはケンヌリオス・ヘリオンとその周辺領域だけだ。
都市国家には一つ一つに王がいる。ピュロスはその王達のまとめ役であるに過ぎない。
乱暴に言うならば、寄合所帯の親玉に過ぎないのだ。
ケンヌリオス・ヘリオンは大陸との交易により長年栄華を築き、ゼフリール島内において堂々の第一位たる超巨大都市となっているが、その莫大な都市人口を支える食料は西の農耕大都市デルタポリスによって賄われている。
現在はデルタポリスの王とは持ちつ持たれつの良好な関係にあるが、彼はヴェルギナ・ノヴァの傘下に大人しく入るような性格では無い。
もし、デルタポリスの王と険悪な関係になり食料供給を止められてしまったら、それだけでケンヌリオス・ヘリオンは大きなダメージを負うだろう。
最悪、連合国内の都市すべてにそっぽを向かれても、アヴリオンから買い付ける事も可能ではあるだろうが、従来とは比較にならない高値になるだろう。民衆の生活は苦しくなり、ケンヌリオス・ヘリオンは衰え、力を失う。
食料の大口の輸出先を失ったデルタポリスもまた経済的に困窮して破綻する。
損得で考えるなら、そんな事はする筈が無い。
だが、ヘリオタイ達のプライドは、ガルシャの下風に立つくらいならば共倒れすら厭わないのだ。
ピュロスはそれを良く知っていた。
ピュロスは連合王国内から強い支持を受けているが、それは諸王の意に沿うように、あるいは反しないように巧みに調整してきたからであり、人々の意に真っ向から歯向かうような決定を下せば、立ち待ちのうちに支持を失うだろう。
諸々の状況を鑑みるに、
(……現状ではヴェルギナ・ノヴァ帝国を世界帝国の後継として認める事は不可能だ)
少なくともガルシャが帝国後継者として島内をまとめようというのなら、ヘリオタイ達に主と認められる程度の何かを得て、示す必要があった。
皇家の血は強力ではある。
だが、長男や次男や他の有力後継者が軒並み死に絶えた為に順繰りで第一位になっただけ、という年若い少女アテーナニカでは、ただそれだけでは人々からは認められまい。
そして、北のユグドヴァリア大公国は、後継の正統性以前にそもそもにヴェルギナ帝国からの支配そのものからの脱却・独立を宣言している。
アテーナニカでなく、もっと有力な皇族だったとしてもかの国は従わなかっただろう。
世界帝国の後継を名乗るヴェルギナ・ノヴァ帝国へと真っ向から宣戦布告した彼の国と同様に、フェニキシア王国もまたヴェルギナ・ノヴァ帝国へと宣戦している。ユグドヴァリアと同盟して。
(……酷い有様だ)
ピュロスはゼフリール島の覇王として、長年諸王国間の利害を苦心して調整し島内の平和を保ってきたが、その秩序は、最早完全に崩壊してしまった。
この島も大陸のような戦乱の時代へと突入してしまったのだ。
引き金をひいたのは、
(……イスクラの古狸め、やはり、あいつは危険な男だった)
あの男なら、こうなると、解らない筈がなかった。
解っていて、それでもやったのだ。
己の野望よりも民達の暮らしを第一に考える男だと思えばこそ、長年見逃してきたが、どうやら見込み違いであったようだ。
やはりあの時、殺しておくべきだった。
やはりあの男は平凡なふりをしてるだけだった。
若かりし頃からゼフリールの平和秩序を危機に陥れられる者がいるとするなら、それはガルシャのイスクラである、という予感はピュロスにはしていたのだ。他なら叩き潰せる自信が昔日のピュロスにはあった。
だが、あのイスクラという男は、負けはせぬまでも殺し切れる視座が思い浮かばなかった。あの男の才はピュロスに匹敵する。
だから長年ずっと油断なくガルシャを睨んで来た。
しかし、イスクラもそれを察知していたのか、長年大人しくしていたから、油断していないつもりが油断していた。
この歳になってまんまと出し抜かれた。
若かりし頃に抱いた直感の通り、苦心してピュロスが守っていた平和秩序をイスクラは盛大に一撃で粉砕してくれた。
ずっと、無害なふりをしながらこの野心を秘めていたのか、あの男は。
あるいは、
(……皇女に何か見たのか?)
大公国が言う様に”たぶらかされた”などとまではピュロスには思えなかったが、夢くらいなら見てしまった可能性はあるかもしれない。
ヴェルギナの皇族には、代々そういう所がある。人を引き込む力がある。ヴェルギナと接点の多かったピュロスはそれを知っていた。
(……ともあれ、この状況で諸国にエスペランザ諸島への共同出兵を呼びかけた所で無駄であろうな)
崩壊した世界帝国の権威を完全に否定したユグドヴァリアは、その帝国の権威によって島を統率する権利を与えられていたピュロスの言葉には従わない。
ユグドヴァリアと同盟したフェニキシアもそうだろう。
そして、その二国と交戦しているヴェルギナ・ノヴァは、覇王の上位者である皇帝位にある訳だから、ピュロス側から権威で以っての命令なんて出来る訳が無い。
そもそもに二国を相手取るかの国にエスペランザ島へ遠征するような余力があるとも思えない。
つまり、
(……世界中でただ一国のみ、トラペゾイドのみで、世界の敵たる異界勢力と戦わねばならん)
厳しい。
厳しいが、しかし、世界の存亡がかかっていた。
失敗する訳にはいかなかった。
自国の存亡としても、エスペランザ諸島の奪還は急務だった。
トラペゾイドの繁栄は大陸との交易によって支えられていたからだ。
大陸交易による莫大な収入があればこそ、国内を富ませ、強力な常備軍を整備し、ゼフリール島内での最強国家として島内を統率できていたのだ。
弱ければ誰も言う事など聞きはしない。
国としての形を保つ事すら危うい。
今はまだ以前の蓄えが残っているから、すぐにどうこうなる訳ではなかったが、これが尽きれば、トラペゾイドは立ち待ちのうちに弱体化し、現在の地位から転落するだろう。
大陸との交易線は速やかに復旧させる必要があった。
故にピュロスは、エスペランザ諸島の異界勢力からの解放を国家の第一目的と定めた。
争う島の諸国へは中立を宣言し、ヴァルギナ・ノヴァ帝国の世界帝国の後継としての正統性に対しても言及を避けた。
「…………はたして、この島を統べるに相応しい人間は現れるのだろうか?」
ピュロスはハイロードとして長年、ゼフリール島の頂点に立ってきたが、その地位に拘りは無かった。
島の頂点なんて生真面目に役割をこなすなら気苦労しかないと知っている。個人的な本音を言うなら、さっさと隠居したいくらいだ。
(ヴェルギナ・ノヴァ、ユグドヴァリア、フェニキシア、見込みはあるのか……)
島と世界の安寧を守り、繁栄させ、正しい方向に進めてくれる者が現れるなら、その者に覇者の地位を譲る事に抵抗は無い。
それが、島の為にも、世界の為にも良い事の筈だった。
しかしである――
位を求める者というのは、大体が虚栄心や富が目当ての、私利私欲に塗れたろくでもない人間ばかりである。
あるいは、力の無い口先だけの夢想家だ。否、夢想家ならば良い方で、大体は詐欺師だ。
……島の三国いずれも島の長たるに値しないのであれば、その時は。
王の中の王、自らが持つその称号の意味を、名実ともに確かなものに変える必要があるのかもしれない。
――しかし、何はともあれ、まずはエスペランザ島である。
かくてトラペゾイドの覇王ピュロスは、ゼフリール最強を謳われる鋼の精鋭軍団を、東の海へと向けるのだった。