鯨の缶詰のコマーシャルを見ていたら、戦後間もない頃、父から、江戸時代の先祖が藩の命令で鯨捕りをしたと言う話を聞いたことを思い出した。
まったく手掛かりがないので、AIに「鯨と肥後藩」について調べてもらった。
AI による概要(Google Gemini)
江戸時代の熊本藩(肥後国)における鯨(クジラ)は、主に捕鯨産業の原料(鯨油)や食料(鯨肉)として非常に重要視されており、藩の危機管理や産業政策の一環として活用されていました。
具体的には以下の点において特徴的です。
1. 鯨油の重要性(産業・農業)
害虫駆除と肥料: 当時、鯨油はウンカなどの害虫を殺す「農薬(駆虫剤)」として、また肥料としても重用されました。
熊本藩の政策: 熊本藩では、捕鯨自体が盛んに行われただけでなく、他藩から仕入れたり、有明海などで捕れた鯨の油を積極的に農業に導入したりしました。
「鯨油免(げいゆめん)」: 熊本藩が干拓地で、村人が共同で耕作し、その収益で鯨油を購入するための専用の田んぼ(無税の田)を設けていたほど、鯨油は農業に欠かせない資源でした。
歴史的な文脈:
過去の文献では、「鯨油免」という言葉が、江戸時代などの歴史的な状況下で、村人が共同で耕作した稲の収益で鯨油を買うための田んぼ(免税地)を指す事例や、鯨油取引に関する藩の許可や特権的な状況を指して使われていたことが示唆されています。これは現代の免許制度とは全く異なる文脈です。
2. 捕鯨と鯨の食文化
天草・水俣などでの漂着鯨: 水俣市丸島などでは、江戸時代から明治時代にかけて、大嵐で海岸に打ち上げられた鯨(寄鯨)を村人総出で捕獲・解体し、学校を建てる資金にしたという「鯨学校」の伝承が残っています。
食文化: 鯨は「魚」の一種として扱われていましたが、当時は「大魚」として非常に貴重な食料でした。脂肪分の多い白身(皮身)が特に好まれました。
3. 西海捕鯨との関連
熊本藩は、平戸(肥前国)の吉村組など、九州の西海地域で巨大組織化していた「鯨組」と関連し、鯨の加工品流通に関わっていた可能性が指摘されています。
4. 縄文時代からの歴史
熊本県内の遺跡では、縄文時代の土器の底に鯨の脊椎骨の圧痕(鯨底)が見られるなど、古代から鯨類が生活資源として利用されていた歴史があります。
江戸時代の熊本において、クジラは「海からの贈り物」として、食と農業(害虫駆除)の両面で地域経済を支える重要な存在でした。
意外な結果なので、熊本藩年表稿(細川藩政史研究会編、熊大レポジトリ)で確認してみた。
「鯨」で検索すすると天正15年(1587)から明治4年(1871)までの284年間に20件ほどヒットする。
以下は検索結果である。
熊本藩年表稿
宝永3 (1706)丙戌(綱吉)綱利 9月 是月 他国の綿油屋吉左衛門、鯨油大和屋十兵衛へ座本を仰付られる(触)。
正徳2 (1712)壬辰(家鼠・家継)綱利・宣紀 11月 是月 熊本蔚山町大和屋十兵衛御国鯨油座の処油樽焼印打替について達(触)。
元文4 (1739)己未(吉宗)宗孝 1.一 佐敷椛島猟師、子鯨打殺(本)。
宝暦13(1763)癸未(家治)重賢 11 是月 郡浦手永赤瀬村黒崎へ鯨漂着、村方へ肥料として下渡す(年覚)
明和3 (1766)論客(家治)重賢 6.29 稲の虫害防除に鯨油を試用(年覚)。 横手手永権田村より稲虫害に付鯨油代を願出る(年覚)。7 11 飽田手永諸所稲の虫害防除に鯨油を試用せしめその効果を調ぶ(年覚)。
明和4 (1767)丁亥(家治)重賢 7 26 田方虫付防除の為、鯨油を試用せし丁数、鯨油代を飽田、託麻より報告(年覚)。
明和6 (1769)己丑(家治)重賢 12 是月 当夏田方虫入にっき鯨油を入れた所は田高に1歩あて御米を拝領せられるべき旨達しあれど、油を入れた田にもそれぞれ違いがあり、また油の用い方にも異同があるので、それらを詳細に調べ郡代まで報告を命ず(熊史28号一渋谷記録)。
明和7 (1770)庚寅(家治)重賢 是年 鯨油を長崎にて購入、川尻へ廻着の予定、その受取ならびに在中への割当等につき郡吟味役田添源次郎、緒方九郎左衛門に相談するよう通知す(覚)。
安永3 (1774)甲午’(家治)重賢 6.29 諸郡田方虫気のための鯨油を希望に応じ渡し、その代銀は冬に上納するように命じていたが、今年より半分は補助することになる。虫害防除の必要がないときは下々の灯油として配分するが、この分は補助はなく全部代銀を上納ずべし(熊襲28一渋谷記録)。
天明6 (1786)丙午(家治、家斉)治年 是年 銭塘三二会所に諸郡へ渡す鯨油蔵取下(覚)。
文政8 (1825)乙酉(家斉)斉樹 是月 歩入鯨油、米村儀八より見上願(覚)
文政11(1828)戊子(家斉)斉護 10.6 諸郡非常鯨油銭塘会所で取計、代銀は御米銀方立替(覚)。
天保2 (1831)辛卯(家斉)斉護 玉名郡大浜村にて鯨油開20丁4反築立(肥)。
天保6 (1835)乙未(家斉)斉護 御国用鯨油御用にて渋江甚之助平戸へ派遣(熊本史学28)
天保13(1842)壬寅(家慶)斉護 是年.飽田郡川口村に鯨油新地築立(潮害)。
天保14(1843)癸卯(家慶)斉護 是年 野尻手永麻苧、球磨苧製に仕立の上鯨油交易の願につき10貫目歩入拝借仰付らる(覚)。
弘化2 (1845)乙巳(家慶)斉護 是年 玉名郡小天村鯨油開御免、横島村五番開・大川口新地・飽田郡近津新地築立(肥)。
文久2 (1862)壬成(家茂)慶順 五嶋 宇久嶋鯨組、苧代年賦催促(覚)。
慶応1 (4.7改元)(1865)乙丑(家茂・慶喜)慶順 五嶋宇久嶋鯨組苧代のこと(文久2・3年間もこの項あり)(覚)。
AIは回答の根拠とした資料を提示しているが、熊本藩年表稿は引用していない。
熊本藩では、鯨油は農業分野で重要な役割を果たしていたことは確実のようだ。特に、稲の田方虫に対する鯨油の防虫効果に注目していることがわかる。なお、武士以外の褒賞記録である「町在」にも数件記載がある。藩の役職に鯨油を取り扱う部門が存在したことは想像するに難くない。 熊本藩年表稿には「食料としての鯨」についての記載はないが、クジラ肉は、江戸時代には庶民の間で既に食用として広く親しまれていて、「鯨一頭捕れば七浦(ななうら)が潤う」と言われていた。巨大なクジラ一頭の捕獲が、その周辺の七つの漁村(多くの地域)に莫大な経済効果と恵みをもたらしたという。
鯨は哺乳類であるが、江戸時代は「勇魚」と呼ばれていた。江戸時代後期には、肥前国松浦郡生月(いきつき)島での捕鯨の様子を記した『 勇魚取絵詞(いさなとりえことば) 』が刊行されている。『勇魚取絵詞』は平戸藩生月島に本拠地を置く益冨組の捕鯨業を解説したもので、上巻・下巻と鯨料理のレシピである『鯨肉調味方』の3点を1セットとして作られた。上巻は、初全部で20場面からなっている。内容は、漁場の紹介、捕鯨の実態、納屋場における鯨の処理法および商品化などである。下巻は絵と詞書で構成された20場面および小山田與清の「勇魚取跋」からなり、鯨の種類、解体された鯨の部位、解剖図、捕鯨道具などが描かれている。
鯨油の成分(AI による概要)
鯨油(げいゆ)は、DHA、EPA、DPAなどの「オメガ3系多価不飽和脂肪酸」を豊富に含む健康的な良質な脂です。ヒゲクジラ類ではイワシクジラが特にこれらを多く含み、抗酸化作用や疲労軽減効果、さらには高い育毛効果が期待されています。
詳細な成分と特徴は以下の通りです。
1. 主要な脂肪酸成分
多価不飽和脂肪酸 (PUFA): DHA(ドコサヘキサエン酸)、EPA(エイコサペンタエン酸)、DPA(ドコサペンタエン酸)。
特徴: 血液中の中性脂肪を下げ、記憶力向上や生活習慣病の予防に役立つ成分。
DPAの特性: 血管内皮細胞の移動を促進する効果が、EPAよりも高いとも言われています。
2. 種類による違い
ヒゲクジラ油: 食用や健康食品として利用され、DHA・EPAが豊富。
マッコウクジラ油 (脳油): 主に蝋(ワックスエステル)成分が含まれ、かつては工業用の高級潤滑油(精密機械用)として利用されました。
3. その他含まれる機能性成分
バレニン: 高い抗酸化作用を持つイミダゾールペプチドの一種で、疲労回復や筋肉のパフォーマンス向上に寄与。
4. 臭気成分
脂肪族アルデヒド、酢酸、ケトン、炭化水素などが含まれ、特有の魚臭や獣臭がある。
鯨油は、健康維持(サプリメント・機能性食品)や育毛剤などの研究・開発に利用されています。
DHA
EPA
DPA-1
DPA-2
バレニン
DHA
EPA
農薬としての鯨油
鯨油は、特定の化学物質を主成分とする殺虫剤とは異なり、主に脂肪酸(油分)の物理的な効果を利用した農薬(注油法)として、江戸時代から明治初期にかけてウンカ(害虫)の駆除に使用された。
具体的には、以下の成分や特性が関連している。
脂肪酸(脂肪酸トリグリセリド): 鯨油は主に動物性脂肪(脂肪酸とグリセリンのエステル)で構成されている。
物理的窒息作用: 水田の水面に鯨油を撒くと油膜が形成される。稲を揺らしてウンカを水面に落とし、この油膜がウンカの呼吸気門を塞ぐことで窒息死させる物理的な作用(窒息殺虫)が主たる効果である。
この手法は寛文10年(1670年)頃から始まったとされ、後に菜種油や鉱物性の石油(マシン油)へと変遷していった。 マシン油はカイガラムシ等の殺虫剤として現在も購入可能である。
明治時代になると「鯨学校」についての記事が散見される。鯨学校と言っても捕鯨技術者の養成のための学校ではない。
鯨学校について
以下の資料に当時の新聞記事(熊本新聞)が記載されているので、引用させてもらった。
「鯨学校」の記憶と実像 ― 寄鯨からみる水俣の歴史 矢野治世美 著 熊本学園大学 機関リポジトリ
史料2 『熊本新聞』1880(明治13)年6月23日 記事内容の要約(引用)
・鯨の発見・引き上げは1880(明治13)年1月で、発見者は葦北郡浜村の江口浅吉(礒吉)の妻ルイである。
・ルイは鯨の発見を近隣に知らせ、村の人びとが協力して鯨を陸に引き上げた。鯨の引き上げは当地では初めてのことで、集まった見物者で賑わった。
・鯨には入札で600円余りの値段が付いたが、「彼鯨は妾か見留たるとハいへ村中の力にて取得たるものなれは一家に領収するも如何ならん(私が鯨を発見したとはいえ、村の人びとが力を合わせて手に入れたのであるから、わが家だけで独り占めしてもよいものだろうか)」というルイの提案により、売上金のうち300円をまず学校に寄付することになった。
・学校に寄付した残りの金額のうち、ルイと礒吉が住む村と隣村に合計160円余が分配された。その残りは礒吉の亡父母の石碑(墓碑)の建設と鰯網購入の元手に充てられた。
・ルイと礒吉の行為は賞賛に値する行為であるとして、5月中旬に県庁から寄付金の功績を称えて「銀盃一個」が授与された。
鯨の売上金で学校が建ったという話は、他にも例がある。奈多小学校(現在の福岡市東区和白小学校)の校舎改修は、近くの海で獲れた鯨肉の売上金の寄付によって実現した。寄付金の大半は、鯨の売上金(470円)であったため、地元では「くじら学校」と呼ばれていた(参考資料 鯨学校跡地の碑)。
鯨学校跡地の碑には以下の記載がある。
「 奈多小学校(現在の和白小学校)は、明治6(1873)年に創立されましたが校舎は無く寺の本堂を借りて授業が行われていました。 しかし傷みがひどくなり新校舎建設の話が高まってきましたが、資金不足で難航していました。 そんな時、明治14(1881)年奈多の沖にクジラが現れ、近海の漁師たちが苦労の末捕獲しました。そのクジラの肉を売って出た利益の大半を新校舎建設にと当時として大金の470円が寄付されたそうです。 これにより新校舎が建設され、地元では永く「くじら学校」と呼ばれていました。」
注)明治13年(1880年)の600円は、現代(令和)の価値に換算すると、およそ1,200万円〜数千万円以上に相当する非常に高額な金額である。当時の小学校教員の初任給が月8〜9円程度であった。
捕鯨の現状
戦後の食糧難の時代、鯨が果たした役割は大きい。日本は2019年7月1日に国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、同日から約30年ぶりに商業捕鯨を再開した。これにより、日本はIWCの規制を受けずに自国の領海・排他的経済水域(EEZ)内で捕鯨を行っている。日本の商業捕鯨では、主にニタリクジラ、ミンククジラ、イワシクジラが対象となっています。これらの鯨種は資源量が豊富であるとされている。現在、商業捕鯨を続けている国は日本以外にノルウェーやアイスランドなど少数に限られている。
参考資料
「熊本藩年表稿」(熊大学術レポジトリ)
捕鯨|外務省
捕鯨の部屋:水産庁 - 農林水産省
鯨食文化 一般社団法人日本捕鯨協会
初めての農薬
(2026.4.10)