東南海地震&三河地震報告書
戦時下報道されなかった地震の真相
戦時下報道されなかった地震の真相
現在放映されているNHKの朝ドラ「あんぱん」では、主人公は1946年に高知地震を経験している。調べてみると、1946年12月21日午前4時19分、昭和南海地震が発生している。 震源は和歌山県南方沖で、マグニチュードは8.0。 高知県の沿岸部を中心に甚大な津波被害をもたらし、近畿地方、四国、大分市、境港市、福井市、岐阜市で震度5を観測している。
当時、私は小学1年生であり、全く記憶にない。終戦前後の地震について改めて調べてみると、意外な事実が判明した.
終戦直前には、1944 東南海地震・1945 三河地震が発生している.戦時下であったため,報道は厳しく規制され,被害の実相は公表されないまま終戦を迎えた.敗戦処理に伴い関連資料が破棄されたこともあり,その後も大きな話題となることはなかったようである.「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」が公表されたのは2007(平成19)年3月である.その内容の一部を以下に記した.
1944(昭和19)年12月7日午後1時に発生した東南海地震は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。その37日後、1945(昭和20)年1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生し、死者は2,306人に達した。
1944年東南海地震は、歴史上繰り返し発生してきた駿河トラフと南海トラフ沿いを震源域とする地震であり、震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った
三河地震は、プレート内活断層から発生した地震の典型例で、明瞭な地表地震断層の出現、多数の前震等が確認されており、岡崎平野南部や三ヶ根山地周辺に最大震度7の局地的な大被害をもたらしたが、東南海地震と同様、「隠された地震」であった。
東南海地震及び三河地震による被害は甚大で、軍需生産力にも大きく影響したため、地震に関する資料は極秘とされ、戦時報道管制の下、被害に関する報道は厳しく規制された。地元紙においては、物資配給・住宅対策といった被災者の生活支援に関する記事についてできうる範囲での報道が行われた。
下図は,地震直後に行われたアンケート調査をもとに,後日推計した震度分布である.
図 1944 年東南海 地震(a)と 1945 年三河地震(b)の 愛知県内におけるアンケートの最大震度分布. 図(b) の星印は,三河地震の震央で,メカニズム解と断層面の地表投影を表す矩形 (実線は断層面上端)は,高野・ 木股(2009,地震) による断層モデル.
出典:1944 年東南海地震・1945 年三河地震の震度分布 歴史地震 第31号(2016) 195頁,原田智也.室谷智子,佐竹健治.古村孝志
次図は全国規模の震度分布図(推計)である.
1944年昭和東南海地震の震度分布図(気象庁,1968より作成)をもとに,作成されたものである.以下の説明が付けられている.
「限られた震度観測結果を参照して等震度線を引いたもの。なお、震度5弱及び5強は震度5と表現し、震度6弱以上は震度6以上と表現した。また、当時の震度階級で表現しており、震度6は現在の震度6弱以上に相当する。震度6以上は赤で示されている.」
出典:津地方気象台ホームページ
津地方気象台の説明
飯田(1977)は、各地の役場や警察署に残る被害報告を用いて、静岡県、愛知県の詳細な家屋の倒壊率をもとに震度を推定しました。
三重県内では、震度4から6が観測され、特に県中部及び北部の海岸沿いでは震度6を観測した地域が広く分布しています。
なお、当時において、震度5は、壁に割れ目が入り墓石、石塔籠が倒れたり、煙突や土蔵も破損する程度の地震であり、震度6は、家屋が倒壊し山崩れや地割れを生じる程度の地震でした(三重県の市町村単位の震度分布(飯田、1977))。
「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」の詳細はPDFで閲覧可能である.折りたたみ文書
表 紙 【 PDF34KB (PDF形式:33.5KB) 】
口 絵 【 PDF2.5MB (PDF形式:2.5MB) 】
目 次 【 PDF192KB (PDF形式:191.0KB) 】
巻 頭 言 【 PDF567KB (PDF形式:566.8KB) 】
第1章 東南海地震の災害の概要 【 PDF2.8MB (PDF形式:2.8MB) 】
第2章 東南海地震の被害と救済 【 PDF5.9MB (PDF形式:5.8MB) 】
第3章 東南海地震のインパクト 【 PDF979KB (PDF形式:978.1KB) 】
第4章 三河地震の災害と概要 【 PDF8.5KB (PDF形式:8.3MB) 】
第5章 三河地震の被害と救済 【 PDF18.5MB (PDF形式:18.1MB) 】
第6章 戦時下での地震 【 PDF10.2MB (PDF形式:10.1MB) 】
資料編 【 PDF256KB (PDF形式:255.2KB) 】
災害概略シート 【 PDF90KB (PDF形式:89.1KB) 】
謝辞 【 PDF143KB (PDF形式:142.6KB) 】
奥付 【 PDF146KB (PDF形式:145.9KB) 】
敗戦時に大量の公文書が焼却処分されたが,難を逃れた内務省警保局図書課新聞検閲係の『勤務日誌』に,災害状況の報道に関して報道管制が行われた証拠が残っている.それには,軍事施設の被害状況など「戦力低下ヲ推知セシムルガ如キ事項」や「被害現場写真」の掲載を禁じる通達が主要報道各社に出されたことが記録されている.
しかし,政府の目論見に反し,地震発生から3日後,アメリカ軍は地震と津波の被害を確認するため,現在の三重県尾鷲市の上空から写真を撮影していた.さらに,ニューヨークタイムズは「日本を大震災が襲った」と発生の翌日と3日後に大きく報道した.
情報の公開が統制されたため,全国各地からの支援物資もなければボランティアの応援もない状態だったという.津波で家屋を失った上に食料や衣類が不足し,苦しい生活を強いられたことだろう.熊本地震や能登半島地震で問題になっている地震関連死を含めると犠牲者はもっと多いのではないかと推察される.
同様な情報統制は前年(1943)に起きた鳥取地震でも行われている.
1943年(昭和18年)9月10日17時37分頃,鳥取平野を震源とするマグニチュード7.2の直下型地震が発生し,この地震で鹿野断層・吉岡断層が地表に露出した.鳥取市を中心に甚大な被害が発生,死者1,083人,負傷者3,259人,被災家屋は13,500棟以上にのぼったが,戦時中でもあり情報統制がされた.
政府の地震調査委員会は,南海トラフの巨大地震が今後30年以内に起きる確率について,改めて計算し,これまでの「70%から80%」を「80%程度」に引き上げ公表した.2025年1月1日時点での計算であり,昨年8月13日に発生した日向灘の地震は影響しておらず,過去の巨大地震から時間が経過しているためだとして備えを進めるよう求めている.
参考資料
戦時中に『隠された大地震』 政府が情報統制「戦力低下が推察できる事項は掲載しない」被災者には支援も届かず
内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成19年3月 「1944 東南海地震・1945 三河地震」
昭和十九年自十一月至十二月・勤務日誌 国立公文書館デジタルアーカイブ
隠された地震の記録 ―東南海地震と三河地震 国立公文書館
[講演要旨] 地震研究所に保存されている鳥取・東南海・三河・南海・福井地震のアンケート調査資料 歴史地震, 25(2010), 103. 津村建四朗, 野口和子, 鷹野澄
あの日放送は何を伝えたか 第14-1|放博だより一覧 鳥取地震
昭和東南海地震の概要 津地方気象台ホームページ
(2025.7.30)