肥後新田藩

肥後藩内の動向を知るには熊本藩年表稿が役に立つが,藩主や江戸詰め家来の江戸での生活は想像するしかない.江戸の何処に住んでいたのか知るために,細川藩の江戸屋敷の位置を江戸マップβ版で検索すると,24件ヒットする.その結果を以下に示した.

番号をクリックすると対応する地図が立ち上がるようにリンクを付けた表を以下に示す.

番号         分類         現代語訳                         翻刻                                  地図                                               関連情報

1-080 屋敷地 (紋)細川越中守  (紋)細川越中守   御江戸大名小路絵図               熊本 上屋敷   

14-099 屋敷地  ●細川能登守    ●細川能登守     深川絵図

14-431 屋敷地  ●細川能登守    ●細川能登守     深川絵図

14-450 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守     深川絵図

14-456 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守     深川絵図

16-022 屋敷地  ●細川能登守    ●細川能登守     本所絵図

16-226 屋敷地  ■細川玄蕃    ■細川玄蕃        本所絵図

19-173 屋敷地  細川屋敷      細川ヤシキ     音羽絵図

19-175 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守     音羽絵図

19-178 屋敷地  細川越中守抱屋敷  細川越中守抱ヤシキ 音羽絵図

2-220 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守                 築地八町堀日本橋南絵図

2-272 屋敷地  (紋)細川能登守  (紋)細川能登守         築地八町堀日本橋南絵図       細川新田上屋敷

2-353 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守                 築地八町堀日本橋南絵図

25-065 屋敷地  ●細川豊前守    ●細川豊前守                 目黒白銀絵図

25-081 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守                 目黒白銀絵図

25-104 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守                 目黒白銀絵図

27-043 屋敷地  ●細川能登    ●細川ノト                 隅田川向島絵図

3-061 屋敷地  (紋)細川長門守  (紋)細川長門守         日本橋北神田浜町絵図         谷田部上屋敷

4-107 屋敷地  ■細川豊前守    ■細川豊前守                 芝愛宕下絵図

5-010 屋敷地  ●細川豊前守    ●細川豊前守                 芝高輪辺絵図

5-052 屋敷地  ■細川越中守    ■細川越中守                 芝高輪辺絵図

5-380 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守                 芝高輪辺絵図

5-463 屋敷地  ●細川越中守    ●細川越中守                 芝高輪辺絵図

7-057 屋敷地  (紋)細川豊前守  (紋)細川豊前守         外桜田永田町絵図                   宇土 上屋敷

人名で区分しても細川越中守,細川能登守.細川豊前守,細川長門守の4名,細川家由来の三藩に上,中,下屋敷を含んでいるので,判然としない.細川本家の上屋敷は御江戸大名小路絵図では江戸城に近い現在の丸の内にあった.細川屋敷で検索した結果ヒットするのは1件だけであり,現在永青文庫が在る白金の屋敷は本家の下屋敷と考えられる.

   これまで支藩については,詳細に調べたことはなかったので,これを機に調べてみた.

肥後新田藩

肥後藩二代藩主である細川光尚の次男,利重が初代藩主である正保3年(1647年)12月15日ー貞享4年(1687年)8月15日].寛文2年(1662年3月),兄の綱利により5000石を与えられ,次いで寛文6年(1666年7月,35000石に加増され,立藩した.幕府の江戸勅使接待役などを務めた. 

    新田藩は知行地を持たず,本藩の蔵米分与により藩を経営し,参勤交代はなく江戸に常駐した(定府).

江戸の上屋敷は鉄砲州(現 中央区湊)下屋敷は本所中ノ郷にあった

屋敷

上屋敷   辰ノ口東→芝新堀端→鐵砲洲

中屋敷   本所中之鄉→鉄砲洲→深川元町

下屋敷   本所大川端→南本所小名木川端→本所中之鄉

抱屋敷   大崎村

地図名   築地八町堀日本橋南絵図番号  2-272:分類  屋敷地:現代語訳  (紋)細川能登守:翻刻  (紋)細川能登守:関連情報   細川新田 上屋敷

抱屋敷について

品川歴史館解説シートによると,熊本藩戸越屋敷について書かれている.それによると,戸越屋敷は寛文2年(1662),細川分家の熊本新田藩の細川利重が拝領したものだったが,本家の細川綱利が所持していた白金屋敷と交換し,戸越屋敷は細川本家のものとなった.文化3年(1806)に人手に渡るまで細川藩の管理下にあった.
江戸郊外の戸越屋敷内の泉水(現在の戸越公園)の水源として,玉川上水から屋敷まで水路(戸越上水)を開削したという.その後も,民間管理の下で流路延長され,品川用水として品川各地の生活・農業用水に利用された. 屋敷交換の背景については肥後新田藩細川家下屋敷跡(戸越公園) に詳しく書かれている.

利重の跡は,貞享4年(1687年)長男の利昌継ぎ,第10代利永(としなが)の時,明治維新になり,高瀬藩となったが,廃藩置県により消滅した.


細川利重   1666-1687 肥後熊本新田藩初代藩主

細川利昌   1687-1715 肥後熊本新田藩二代藩主

細川利恭   1715-1742 肥後熊本新田藩三代藩主

細川利寛   1742-1767 肥後熊本新田藩四代藩主

細川利致   1767-1781 肥後熊本新田藩五代藩主

細川利庸   1781-1805 肥後熊本新田藩六代藩主

細川利国   1806-1810 肥後熊本新田藩七代藩主

細川利愛   1810-1833 肥後熊本新田藩八代藩主

細川利用   1833-1856 肥後熊本新田藩九代藩主

細川利永   1856-1868 肥後熊本新田藩十代藩主 1868-1869 肥後高瀬藩

高瀬藩について
第10代利永(としなが)の時,1868年(慶応4)鳥羽伏見の戦いの後,本藩の勧めにより江戸を引き払い藩地を高瀬(現玉名市)岩崎原に定めて高瀬藩と称した100町歩の陣屋地に御殿を建設し.周囲を区画して家臣団(297戸、700人)を格式別に配置版籍奉還の際藩として認められたものの.知藩事の任命がなく高瀬藩は3年で消滅し本藩に合併した.江戸での藩校や高瀬藩校を受け継いだ藩校自明堂は,明治 5 年の学制でい ち早く小学校として認められ伊倉の苟新舎と共に玉名における近代教育の源流をつくった.旧藩士やその子孫からわが国の近代化に貢献した人々を数多く輩出した

<横井玉子について> 

新田藩の宿老原尹胤(まさたね)の二女として江戸築地鉄砲州に生まれ13歳まで江戸で暮らしたが慶応4年(1868)熊本に戻った明治5年(187217歳の時,米国留学から戻っていた横井小楠の養子横井時治(左平太)と結婚した.女子美大の創設者として美術教育を通して女子の社会的地位の向上に尽くした.


    明治時代初期,高瀬藩の家臣団屋敷が建設された場所は,現在玉名市岩崎の玉名女子高等学校・玉名町小学校一帯であり,現在,高瀬藩陣屋地跡の看板だけが残っている.

細川新田藩が定符であるのに対し,宇土藩は参勤交代を行う支藩であったため,財政的に困窮したことで知られている.


宇土藩について

初代 細川 行孝(ゆきたか,1637~1690)

 細川立孝(細川忠興の四男)の長男

 1646年熊本藩主細川光尚(従兄)から肥後宇土三万石を分与され, 宇土藩を立藩.1655年朝鮮通信使の接待役など.

 

二代 細川 有孝(ありたか,1676~1733)

 細川行孝の三男

 1690年 肥後宇土藩を相続(15歳).1693年ー1701年 江戸城奥詰. 

 

三代 細川 興生(おきなり,1699~1737)

 細川有孝の長男

 1703年 肥後宇土藩を相続(5歳). 1718年 勅使馳走役,

 

四代 細川 興里(おきさと,1722~1745)

 細川興生の長男

 1735年 肥後宇土藩を相続(14歳). 1744年 勅使馳走役.

 

五代 細川 興文(おきのり,1723~1785)

 細川興生の三男

    1745年 肥後宇土藩を相続(23歳). 1752年公儀馳走役. 藩政改革, 藩財政の建て直しにつとめた.

    1763年 藩校温知館を創設.

 

六代 細川 立礼(たつひろ,1755~1835)

 細川興文の三男

 1772年 肥後宇土藩を相続(18歳). 1781年 公儀馳走役, 1787年 宗家の熊本藩主となり, 斉茲と改名(33際).

 

七代 細川 立之(たつゆき,1784~1818)

 細川立礼の長男

 父が宗家の熊本藩主となったため,1787年 肥後宇土藩を相続(4歳).1800年 勅使馳走役

 

八代 細川 立政(たつまさ,1804~1860)

 細川立之の長男

 1818年 肥後宇土藩を相続(15歳). 1825年 勅使馳走役.1826年 宗家の熊本藩主となり,斉護と改名

 

九代 細川 行芬(ゆきか,1810~1876)

 細川立之の二男

 兄が宗家の熊本藩主となったため, 1826年 肥後宇土藩を相続(17歳). 1829年院使馳走役

 

十代 細川 立則(たつのり,1832~1888)

 細川行芬の二男

 1851年 肥後宇土藩を相続(20歳). 1853年 ペリー浦賀来航の際, 浦賀警備, 翌年から1863年(32)まで, 

    相模国走水の台場(砲台)の警備(宗家熊本藩の要請).

 

十一代 細川 行真(ゆきざね,1842~1902)

 細川行芬の五男

 兄の養嗣子となり、1862年 肥後宇土藩を相続(21歳). 1863年 宗家熊本藩の江戸湾警備に伴い, 佃島砲台の警備.   

    1865年藩校樹徳館を創設.1869年 版籍奉還. 宇土藩知事に任命されるも, 翌年に熊本藩に合併.

谷田部藩について

谷田部藩の藩主は肥後細川家の分家である細川興元氏.戦国時代を要領よく生き抜いた細川幽斎(藤孝)の次男である.興元(1562~1619)は,慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後,兄である細川忠興と不仲になって隠棲する.その後,慶長13年(1608年)家康の仲介で和解.慶長15年(1610年),徳川秀忠より下野国芳賀郡茂木1万石を与えられて大名の仲間入りする.その後、興元は「大坂の陣」の戦功により,元和2年(1616年)に常陸国筑波郡・河内郡6200石を加増され,谷田部藩を立藩する.以降興昌(おきまさ,1604~1643興隆(おきたか,1632~1690興栄(おきなが,1658~1737興虎(おきとら,1710~1737興晴(おきはる,1736~1794興徳(おきのり,1759~1837興建(おきたつ,1798~1855)と続き 代目の興貫(おきつら)で明治維新を迎える,最後の藩主となった細川興貫は,戊辰戦争では新政府に協力し会津若松城攻めに藩兵を派遣する.翌年の「版籍奉還」では谷田部藩知事に就任し,明治4年(1871年)の廃藩置県まで細川家が治めていた.現在の谷田部小学校に陣屋があった.この谷田部の名主に,からくり人形や和時計などを作った発明家の飯塚伊賀七[宝暦 12 年 (1762) −天保7年 (1836)]がいた

    7代藩主興徳,8代興建の治世には藩政改革がうまくいかず,相次ぐ江戸藩邸の焼失,百姓一揆勃発など,細川家本家の熊本藩からの援助を受けている.支藩ではなかったが,ルーツは細川家のためそれなりの繋がりはあったようだ.


八代城主について

 寛永九(1632)年,加藤家改易後,熊本城には豊前小倉藩主細川忠利が,八代城には忠利の父忠興(三)が城主(9万5千石)として入った.忠興は立孝(四男)を八代藩主として立藩させるつもりでいたが,正保二(1645)年に早世(31歳),さらに忠興自身も同年12月に没したため実現しなかった.立孝の遺児行孝が八代城に残されたが、翌正保三年に二代熊本藩主光尚は行孝を宇土に移して宇土藩(三万石立藩させ,代わりに家老の松井興長を八代城主とした.以後,松井氏は三万石の城主として十代続き明治維新を迎えた.八代城は,一国一城制の例外的存在であった理由は,島津藩や人吉藩を警戒,監視した結果であった.


   なお,西暦1871年(明治3年)7月14日 廃藩置県により熊本藩は熊本県,人吉藩は人吉県となった.11月さらに改めて白川県と八代県の2県となった.八代県は1873年(明治6年)2月22日に白川県に合併した.白川県は1876(明治9)年には再び熊本県と改称された.