薩摩の金山

細川藩密偵の報告書

熊本大学のプレスリリースを眺めていたら,未解読の永青文庫の中に肥後藩の密偵が薩摩藩の内情を調べた報告書が発見されたという記事が目に留まった.さっそく,報道資料をダウンロードさせてもらった.

    熊本大学永青文庫研究センター稲葉継陽 センター長にとると,「1651(慶安4)年に薩摩に派遣された『密偵の報告書』18か条の原本が発見された」 という.その報告書には薩摩の財政状況や藩主の近況、外交に関する記載など多岐にわたっている. 報告書の最後には,「村田 門左衛門(むらた もんざえもん)」の署名と印がある.「村田 門左衛門」については,これまでの歴史資料に一度も出てきたことのないまさに「謎の人物」という.

時代背景については,プレスリリースの一部を引用させてもらった.

時代背景(熊大資料を引用)

当時は熊本藩主細川光尚(1619―1650)が慶安2年12月に急逝した直後で、 わずか8歳の綱利が家督を継ぎ、小倉藩主小笠原忠真(1596―1667)が後見 人となって、家老合議制のもとで治世が行われていました。鹿児島藩の当主 は島津光久(1616―1695)でした。
細川光尚が1640年代に発給した複数の文書によれば、光尚は薩摩との戦争さえ想定していたことがうかがえるという。島津家は鎖国後の海外貿易の場(口)の1つとして琉球口の管理を幕府に認められ、国家的な対外政策を担っていたが、一方で、諸外国と結託する危険性も十分想定されていたことが理由だ。実際、この時期に江戸では薩摩が大船20艘を建造し、異国へ遣わしたといった噂も飛び交っていたほどだという。

幕府の長崎奉行は、そのような江戸の情報を内々に肥後細川家に伝え、細川家に薩摩を抑える役目を期待していたとする。しかし薩摩の琉球侵攻・支配の実態は不透明で、光尚は正保4年(1647)、琉球に異国船が到来して薩摩の御番衆(警備・警固にあたる者)がこれを打ち果たしたとの報を幕府にいち早く注進し、以後も薩摩の監視を怠らなかったとする。

その後光尚は、病で薩摩の抑えの役割を果たせないことを心配しながら、慶安2年(1649)12月に他界。しかし、その遺志は家老たちに引き継がれたとされる。

中略(詳細は熊大の資料を参照)

視聴には現代語訳が付けられている.詳細は資料を見てほしい.以下にタイトルだけを示した.

【別紙】発見史料の現代語訳

1 島津家と領内の一般状況

2 鹿児島藩の税制

3 金山開発の停止

4 鹿児島城普請工事の状況

5 島津領沿岸の異国船警備の状況

6 島津家の琉球・八重山支配

7 年貢徴収の状況

8 島津家の財政状況

9 島津家中の娯楽

10 島津光久参勤出立の様子

11 12 島津家老衆の役割分担

13 薩摩の穀物相場

14 島津家所有の船舶

15 島津光久の娯楽

16 島津家中の軍備

17 島津領での一向宗(浄土真宗)取り締まりの実態

18 細川家の財政状況の薩摩での評判

江戸幕府は,鎖国後の対外貿易の窓口としての役割を薩摩藩に任せていたが,一方では海外勢力と結託するのではないかという疑念を有していた.そのため,天領長崎奉行を通して細川家に島津藩を監視させたという.そのような背景を知った上で報告書をみるとなるほどと納得する事項が多々存在する.

 全体的な考察は他に譲るとして,筆者は「金山開発の停止」に興味をもった.「金山」の場所は山ヶ野(鹿児島県霧島市横川町)であり,妻の両親のルーツに繋がる土地である.山ヶ野の金は,1640年(寛永17年)に永野の川辺で発見され,幕府に献上された.1642年に幕府の許可を得て,採掘を開始したが,翌年には採掘が禁止された.その理由は江戸時代初期の1640年から1643年にかけて起こった全国規模の寛永の大飢饉への配慮といわれているが,薩摩藩の強大化に対する警戒心によるものとみるべきである.採掘は13年後の明暦2年(1656年)に再開されている.

3 金山開発の停止

一、金山の口は、開けないと決まったと聞いています。 👈  現代語訳(原文は三番目の文章)

密偵(村田 門左衛門の報告書の日付は慶安4年(1651)2月27日であるので,金の採掘は幕府により禁止されていた最中である.金の採掘状況は幕府にとってもっとも気掛かりな課題であり,密偵による「金山開発の停止」は重要な情報であったと思われる.1656年に再開(実際には1年前から工事開始)されると,山ヶ野は隣接する永野地区とともに一帯は金山として栄え,薩摩藩の財政を支えた.なお.金の発見者については薩摩藩に招聘された石見銀山の内山与右衛門と肥後・宇土の笠伊兵衛尉という説が有力である.金山開山における報酬について笠伊兵衛尉が薩摩藩を相手に起こした訴訟の史料(1644)が残っており.それがもっとも信頼できる情報見なされてる(資料2).

金山開発のその後
金山一帯は柵で囲まれ閉鎖社会を形成し,特有の経済空間ができていた.賃金,課税は外界とは異なり,すべてに消費税が課されていたという.幕末には.金の産出量は一時世界でもトップクラスの量を記録した,最盛期は2万人が働く鉱山街として栄えが,産出量の減少に伴い次第に衰微し,昭和40年(1965年)に閉山した.坑道金山施設,遊郭,牢屋などの遺構が多数残っている.

鹿児島県伊佐市の菱刈鉱山

近世に薩摩藩内において開発された金山は,山ヶ野金山(永野金山)のほか,芹ケ野金山(いちき串木野市),鹿籠金山(枕崎市),神殿金山(南九州市)の4鉱山である.現在,鹿児島県内の金の産出は,山ヶ野金山から北北東に十数キロの距離にある菱刈鉱山で続いている.「菱刈鉱山の特長」は高品位な鉱石にあるという.海外では鉱石1トンに含まれる金が3グラムもあれば採算が取れるとのに対し,菱刈鉱山の金含有量は20グラム程度,世界でもトップクラスという.佐渡金山は20世紀後半までの約400年で83トンあまりの金を産出したのに対し,菱刈は40年で累計約260トンとのことである

都市鉱山

現在世界では金が1年に約3000トン前後生み出されていて,中国はその10分の1である380トン, 我が国は10位以下である.しかし, 都市鉱山からとれる金の量は1年間に算出される世界全体の量を超えるらしい. 実際に廃棄物から取り出された金の量は約6000トンを超えている. 

     パソコン1台には、金が150mg、銀が520mg、パラジウムが28mg、銅が107g使われている. メモリ基板には,1枚の重量が10gなのに金を11mgも含んでいる.日本一含有量の高い菱刈鉱山の鉱石の数十倍も多く含まれていることになる(資料3).

参考資料

1)1651年に熊本藩から薩摩に派遣された密偵の報告書18ヵ条を発見(熊本大学)

       プレスリリース

2) いちき串木野市郷土史料集2金山編.pdf  開山にまつわる通説と真実を併記.薩摩旧記雑録の史料.

         鹿児島の金山開発史ー近世から近代までー(奈良文化財研究所)上記と同じ著者(新田栄治)による記述あり.薩摩旧記雑録

3) パソコンの貴金属含有量(国立環境研究所)

4山ヶ野金山 (ヤマガノキンザン) 行きたい - 鹿児島県観光連盟

5) 佐渡以外にもあった有名な大金山!鹿児島県山ヶ野金山の歴史や現状等

6)  早渕名誉教授の思い出,第4回 山ヶ野:西国三大遊郭(久留米大学医学部放射線医学教室)

6)   世界遺産候補の佐渡金山と比較して知名度が低いため,山ヶ野金山文化財保護活用実行委員会による史跡めぐり早春ウォーキング大会等の町おこし行事を実施中.
Googleストリートビュー:金山奉行所跡近くの民家,家先に「油屋」,向かいの家の前には「焼酎屋」の立て札がある.

(2023.6.9)