熊本城の石垣は平成28年の熊本地震で,その3割が損壊した.天守閣は5年後に修復が完了し一般公開されたが,900箇所を超える石垣の修復は,緒についたばかりである.
二の丸広場などに仮置きされているのは,石垣の築石と裏ぐり石で,その数は約3700個(2021年).こういった石材はトータルで10万個に及ぶという.これを全て元の位置に戻すには,20年を要するといわれている.
石垣の修復は, 混じり合った複数のジグソーパズルを解くようなものである.
崩れた石垣の石を元に戻すには崩壊前の写真データベースを参考にするらしい.そのために産学連携により「石垣照合システム」が開発され,90%の確率で活用されているという.詳細は参考資料をみてほしい.
崩落石にはひとつひとつ番号をつけ,その上,石材種も分析するという.石材種がわかることで,どのあたりから運ばれてきた石かを推測できるというから驚きである.さっそく分析法を調べてみた.熊本大学学術レポジトリに手掛かりになる以下の論文があった.
熊本城の石垣について(熊本地学会誌 (29), 2-5, 1968-11)
論文には,「城の全区域にわたって,石垣の最下部の石 500個を採集し,その内139個を薄片にして顕微鏡観察を行った.検鏡の結果,石垣は,1 角閃石紫蘇輝石普通輝石石英安山岩 2 角閃石両輝石安山岩 3 含角閃石両輝石安山岩の3種類の岩石からできていることがわかった.」と記されている.
私は西区島崎の石神山中腹にあった石切場とは谷を挟んで反対側に住んでいたこともあり,熊本城の石垣は石神山の岩石(島崎石)と思っていた.ところが,郷土史料を読むようになって,「熊本城の石垣の石は坪井川を利用して一駄橋から城下まで運ばれた」,「清正は石神山の石は温存していた」等の言い伝えを知った.今回の論文はそれを裏付けるものである.
石垣岩石の3つのタイプの中,第1のタイ プの角閃石紫蘇輝石普通輝石石英安山岩は,石神山の岩石(島崎石)で,量的には極めて少い.使用されている場所は3個所である.小天守下の石門に,石神山の石を使用しているが,残る2箇所については,清正公時代の記録がないことから,細川時代に増築したもので あるという..
石垣の用材の大部分をしめている第2、3のタイプの角閃石両輝石安山岩および,含角閃 石両輝石安山岩は,花岡山,独鈷山の岩石と権現山(百貫附近)の岩石とのことである.
石神山の石については,旧第五高等学校の建設の際に使用されたことを以前紹介した.2016年熊本地震で被災したが,2022年春に修復工事は終了した.また,石神山のある島崎地区は地震で壊れた家はなかったと聞いている.島崎石で造られた熊本城石門自体は壊れていないかもしれないが,それが明らかになるのはかなり先になるようである.
石門(熊本地震前)
人がしゃがんで通り抜けられる石門(抜け道?)
熊本城跡発掘調査報告書3-石垣修理工事と工事に伴う調査(PDF)に掲載されている写真(小天守下,石門付近)を引用.
地震前の石門の中の写真は熊日写真ライブラリーをご覧下さい.
熊本地震後の石門の写真(熊本城ホームページ)
石門上部の石塁の崩落で埋もれているものと思われる.
「宇土櫓付近の石の刻印」
論文の末尾に以下の記述がある.
なお宇土櫓附近の石垣には、第5図に示す ような刻印のはいった石が数個用いられてい るのがある。これらの刻印が何を物話るのか興味ある問題である。
修復された石垣
頬当御門付近
奉行丸付近
追記
石神山の変貌については,2020年のブログで取り上げたので詳細は省略するが,戦後,民間の石材会社によって清正の想いなどどこ吹く風,発破と岩石破砕の騒音は旧藩時代の御茶屋などの史跡が残る地域の雰囲気を長期間にわたって毀してしまった.
石神山の変貌(2020)
2012年のブログでは「石神山今昔」,「島崎地区の名所・旧跡」等を「シリーズ島崎」の中で掲載した.
参考資料
熊本城の崩落石材の元の所在特定ができる 画像照合システム ...
熊本大学と凸版印刷、熊本城崩落石材の位置特定作業を効率化
崩落した石垣の位置を9割特定できる技術とは【がんばれ建設 ...
熊本城の石垣について(西村渡,熊本地学会誌 (29), 2-5, 1968-11)
(2025.4.10)