2012年のホームページで「石神山今昔」,「島崎地区の名所・旧跡」等の「シリーズ島崎」を掲載した.それから8年が経過し,名所旧跡の歴史的な価値に変化はないが,それらを取り巻く環境が大きく変化した.タクシーに乗って「三賢堂へ行って」と頼んでも,タクシーの運転手がその存在を知らないということがあると聞かされた.改めて以前書いたウエブページをたどると,リンク切れなども見受けられる始末である.そこで,Googleの地図を使って様変わりした石神山とその周辺を改めて紹介することにした.
中心近くに存在する公園は石神山公園である.
次図は公園拡大図
次図は谷を挟んだ向かい側から見た公園の全貌.谷底に沿って荒尾橋行きの市営バスが通っていて,道路に沿って釣耕園,三賢堂公園,岳林寺がある.
公園内で撮影した写真は以下に示した.
熊本市観光政策課のホームページに掲載されている石神山の写真(5枚)のうちの1枚.詳細はここをクリックして見てほしい..
以下の3枚の写真は桜の時期に筆者が撮影した写真である.
公園内には池も存在する.
池の周りの散策路には桜が植えられている.
頂上から40メートル削り取られ平らになってしまった.
石神山は良質の石材が豊富で,加藤清正は,将来の熊本城の修復に備えて同山の石に手をつけず,石工の生活のためにだけ採掘を許したと伝えられている.ちなみに,明治22年8月に完成した第五高等学校本館(熊大五高記念館)の石材は石神山から運びだされたものである.完成寸前の同年7月28日震度6強の熊本地震に見舞われたが,まったく損傷がなかったとのことである.注)約100万年以上前に噴出した角閃石安山岩 (「石神山今昔」で紹介済み)
この写真はアルバムの構成から昭和20年代後半の撮影と考えられる.
大規模な石材切出しが行われる前の石神山を我家の庭先から撮影
ロッククライミングの練習場は向かって左側の岩璧(小高い盛土の裏側),山肌には人工的な発破等によるキズは認められない.
円錐形の屋根の建物は三賢堂である.三賢堂の上に先祖代々の墓が在ったが,父が岳林寺に移した.現在は公園のドッグランになっている.
石材会社が岩を採取するために,ダイナマイトを使用するため,島崎はハッパの大音響が響き渡り,騒音公害で昼寝などできる状態ではなかった.時期は忘れたが,クレー射撃の練習場まで造られた.市が公園にするために買い上げたのにはそのような背景があることを知る人も少なくなった.
戦前の地図(スタンフォード大学図書館)では164m,最新の国土地理院の地図では123mである. 40メートル低くなっている.
現在,石神山公園は谷の両側斜面に竹が繁茂しているため,我が家から直接見ることはできない.
昭和20年代後半の写真からは想像できない変貌ぶりに改めて驚かされた.熊本市内には石のモニュメントが多いことを勘案すると,採掘した石材の一部は建築資材としてそれなりに街並みの整備等に役に立っているものと考えられる.現在は,爆破や機械で削られた痛々しい岩の壁は植物に覆われて見ることはできない.石神山の昔の姿を知る人は少なくなったが,その一人として庭先の景色の一部がここまで変化すると釈然としないものがある.
新型コロナが収束すれば,市中心部から近いということもあり,バーベキューパーティーを楽しむ若者でいっぱいになる公園のひとつである.
参考資料
72 石神山今昔(シリーズ島崎)
71 島崎地区の名所・旧跡(シリーズ島崎)
68 曾祖父の半生を追う(曾祖父関連,県立図書館 縣政資料,シリーズ島崎)
67 栗山のお観音さん(シリーズ島崎)
66 徳富蘇峰の髪塚(シリーズ島崎)
43 135年前の同志(西南の役の戦友)(曾祖父関連,シリーズ島崎)
34 三賢堂の建立(安達謙蔵の想い)(シリーズ島崎,身近な歴史,国会図書館)
5 青木規矩男覚書(熊本城炎上の真相)(シリーズ島崎,身近な歴史)
新屋敷(大江村)に住んでいた頃の漱石(身近な歴史) 2015年のブログ 41
追加資料
第五高等学校本館(熊大五高記念館)
明治22年8月に完成した本館の石材は石神山から運びだされたものである.完成寸前の地震(震度6)でも損傷はなかった.4年前の熊本地震(震度7)の被害状況にについては下記のウエブ情報を参照ください.