一昨年,利用経験に基づき,ChatGPTの実力と弱点について紹介した.プログラミングに関してはAIの本領を発揮するが,日本の文化に関しては,「その分野は学習していません」と応えるならともかく,自信たっぷりに誤った回答を繰り返すのにびっくりした.その詳細については以下のブログで確認してほしい.
対話型AI ChatGPTの実力 (2023.2.20)
ChatGPTの弱点 (2023.5.14)
それから1年以上が経ち,GoogleのGemini(旧Bard)などのサービスも始まり,同じ質問に対して妥当な回答をするのをみて,ChatGPTに再度質問してみた.
質問に使用した人物と功績については以下のブログで紹介した.
吉田光由(2023.5.5のブログ)
今回の対話
吉田光由について再度教えてください.
ChatGPT
『塵劫記(じんこうき)』の著者は、**吉田光由(よしだ みつよし)**です。彼は江戸時代初期の和算家(日本数学者)であり、日本における数学(和算)の普及に大きな影響を与えた人物です。
吉田光由と『塵劫記』について
吉田光由は、1579年(天正7年)に京都で生まれ、1650年(慶安3年)に亡くなりました。彼は商人でもあり、和算の研究に没頭していました。
**『塵劫記』**は1627年(寛永4年)に初版が刊行されました。これは、日本で初めて刊行された和算の教科書であり、商人や庶民にとっても理解しやすいように書かれていました。
『塵劫記』には、割り算や掛け算の方法、算術を用いた問題の解き方などが記されており、具体的な問題を通じて算術を学ぶ形式が取られています。
特に、そろばん(算盤)や商業の実務に使える計算方法が多く含まれていたため、商人たちの間で広く読まれ、江戸時代における和算の普及に大きく貢献しました。
『塵劫記』の影響
『塵劫記』は非常に人気があり、江戸時代を通じて何度も再版されました。また、日本の和算の発展に大きく寄与し、のちの和算家たちにも影響を与えました。江戸時代における和算の基礎を築いた重要な書物とされています。
吉田光由は、『塵劫記』を通じて庶民にも数学の重要性を広め、その知識が日常生活や商業活動に役立つことを示しました。その功績により、日本の和算界における草分け的存在として評価されています。
吉田光由は肥後藩に滞在したことはありますか?
ChatGPT
吉田光由(1579年 - 1650年)は、江戸時代初期の和算家であり、京都の出身です。彼の主要な活動は京都で行われ、彼が肥後藩(現在の熊本県)に滞在したという記録は残されていません。
吉田光由の代表作『塵劫記』は、1627年に出版された日本初の数学(和算)の教科書であり、江戸時代の数学教育に多大な影響を与えました。しかし、彼が肥後藩に関わったり、滞在したりしたという具体的な記録は確認されていないため、肥後藩に滞在した可能性は低いと考えられます。
なお、肥後藩出身の和算家としては、江戸時代後期に活躍した関孝和(1642年? - 1708年)などが知られており、肥後藩でも和算は一定の影響を持っていましたが、吉田光由とは直接の関係がありません。
吉田光由を以前のように「肥後藩の家老」と答えることはなく,「塵劫記」の著者であることは知識として修正されていたが,「肥後藩とは関係ない」という点は以前の回答と同じである.肥後藩の和算家について尋ねたわけではないが,気を利かしたつもりか,肥後藩出身の和算家として,関孝和を挙げ,以下のような説明を付け加えてきた.
『なお、肥後藩出身の和算家としては、江戸時代後期に活躍した関孝和(1642年? - 1708年)などが知られており、肥後藩でも和算は一定の影響を持っていましたが、吉田光由とは直接の関係がありません。』
関孝和に関しても,誤りであり,関孝和は上野国(群馬県)の人である.
何をベースに学習しているのかわからないが,人間の記憶様式とは異なり,辻褄が合うように紐付けがなされていないようである.
Google Geminiの場合
1年前の回答(滞在期間を除き正確)に比較し,さらに学習の進化が感じられた.回答の詳細は「折りたたみ文書」に記した.
吉田光由と熊本藩の関係について教えて
回答案を表示
吉田光由と熊本藩の関係は、江戸時代初期の数学史において非常に興味深いものがあります。
江戸時代の数学者として名高い吉田光由は、『塵劫記』という算術書を著し、広く庶民に数学を普及させた人物として知られています。近年、熊本大学による研究で、光由が熊本藩主・細川忠利に招かれ、熊本に滞在していたことが明らかになりました。
細川忠利の招聘: 細川忠利は、熊本城の普請や肥後国内の開発など、大規模な土木工事を進めていました。算術に長けた光由の知識は、これらの事業にとって非常に有用であったと考えられます。
熊本での活動: 光由は熊本で、土木工事に関する計算や、藩政に関わる様々な計算を支援したと考えられています。また、地元の人々に算術を教える活動も行っていた可能性もあります。
『塵劫記』への影響: 熊本での経験は、『塵劫記』の内容にも影響を与えたと考えられています。例えば、土木工事に関する記述が増えたり、より実用的な内容になったりした可能性があります。
この発見は、以下の点で大きな意義があります。
『塵劫記』の成立過程の解明: 『塵劫記』が単なる個人の研究成果ではなく、当時の社会のニーズに応えて書かれたものであることがより明確になりました。
江戸時代の地方社会の理解: 熊本藩が積極的に学問を奨励していたことや、光由のような学者が地方で活躍していたことがわかります。
吉田光由研究の深化: 光由の生涯や、『塵劫記』の内容に関する新たな解釈が可能になります。
吉田光由と熊本藩の関係は、単なる学者の招聘というだけでなく、当時の社会と学問が深く結びついていたことを示す重要な事例です。この発見は、江戸時代の数学史や地方史の研究に新たな光を当てるものとして注目されています。
熊本大学プレスリリース: https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/zinbun/20210309
日本数学会の論文: https://www.mathsoc.jp/assets/file/publications/tushin/2504/2504goto.pdf
これらの資料では、より詳細な情報や分析が提供されています。
追記(Search Labs | AI による概要)
吉田光由と肥後藩で検索した結果である.最近の情報を的確に収集している.
回答
江戸時代の数学者である吉田光由は、熊本藩細川家の初代藩主である細川忠利によって熊本に招かれ、1636年と1637年に滞在しました。
吉田光由は、日本で最初の算術書として知られる『塵劫記』の著者で、数学の普及に貢献しました。熊本では、大規模な土木工事が行われており、吉田光由は土木工事に必要な算術の体系や水利土木技術をもたらしました。
吉田光由が熊本に滞在したという史実が確認されるまでは、後世の編纂物や二次史料によって、熊本藩に召し抱えられていた(仕官した)といわれていました。しかし、熊本大学永青文庫研究センターが発見した一次史料により、吉田光由は「客人」として招かれていたことが明らかになりました。
AIに関しては,わが国は世界に周回遅れと言われている.一方,海外企業の生成AIは,今回紹介したように,日本語による学習量が少なく、不自然な日本語や日本の文化にそぐわない回答を導き出すケースがあると指摘されている。日本人の日本語による日本文化の学習に基づく日本仕様のAIの構築が必要である事は明白である。
参考資料
1)一般社団法人日本数学会『数学通信』第 25 巻-4 号 (2021 年 2 月号),後藤典著「吉田光由の肥後下向と細川忠利」.
2)関孝和について(Search Labs | AI による概要)
関孝和は熊本藩とは関係ありませんが、江戸時代に活躍した和算の大家です。
関孝和は、高度な数学を幅広く研究し、イギリスのニュートンやドイツのライプニッツと並び、世界三大数学者の一人に数えられています。和算家からは「算聖」と仰がれ、藤岡市民ホール前には「算聖の碑」や座像が建てられています。
関孝和の業績には、次のようなものがあります。
行列式の展開法を考案し、西洋数学のライプニッツの導入よりも約10年先駆けていました。
弟子の建部賢弘や賢明らと「大成算経」を著し、和算の向上に貢献しました。
(2025.1.31)