ChatGPTの弱点

先に,Ai(人工知能)ツールであるChatGPTにプログラムを作らせた結果について紹介した.5月11には,ChatGPTと類似の機能を有するBard(日本語対応版)がGoogleから提供されたという報道をみて,早速その実力を比較してみた.結論から言うと,プログラミングでは差認められないので,歴史的な話題を使ってテストしてみた.その結果,ChatGPTは日本の歴史については学習していないという結論になった.以下に両ツールの会話結果を示した.ChatGPTはめちゃくちゃな回答である.知ったかぶりをせず,「知らない」と言ってくれた方がベターである.

ChatGPTの回答

吉田光由の肥後藩に於ける活躍について教えて?

ChatGPT

吉田光由は、江戸時代中期の肥後藩(熊本県)の家老であり、肥後藩主細川家の重臣でした。

吉田光由は、肥後藩主細川家の政治的・軍事的な改革に大きく貢献しました。彼は、藩政改革において中心的な役割を果たし、藩政の合理化や財政の再建、藩士教育の改革などに尽力しました。

また、吉田光由は肥後藩の軍事力増強にも貢献しました。彼は、鉄砲隊の創設や砲術の研究を推進し、肥後藩の軍事力を向上させることに成功しました。

さらに、吉田光由は肥後藩内外において、文化・芸術の発展にも尽力しました。彼は、肥後藩内に書院を建設し、儒学や和歌、茶道などの文化・芸術の振興に力を入れました。

吉田光由の活躍は、肥後藩の発展に大きく貢献し、その影響は今日まで続いています。


吉田光由について教えて

ChatGPT

吉田光由(よしだ みつよし)は、江戸時代中期の日本の武士、家老、儒学者で、肥後藩(現在の熊本県)の重臣でした。享保12年(1727年)生まれ、天明8年(1788年)に没しました。

吉田光由は、肥後藩主細川家の家老として、政治・軍事・文化の各方面で活躍し、肥後藩の発展に大きく貢献しました。特に、藩政改革においては、藩政の合理化や財政の再建、藩士教育の改革などに尽力し、肥後藩を近代的な藩として発展させました。

また、吉田光由は軍事面でも活躍し、鉄砲隊の創設や砲術の研究を進め、肥後藩の軍事力増強に貢献しました。文化・芸術にも造詣が深く、和歌や茶道、書道などを愛好し、肥後藩内に書院を建設し、儒学の研究・普及にも努めました。

吉田光由は、『吉田家文書』と呼ばれる膨大な書簡や日記を残し、当時の肥後藩の政治・文化を知る上で貴重な史料となっています。また、吉田光由の思想や業績は、のちに尊王攘夷運動や明治維新の志士たちに影響を与えました。


塵劫記の著者は?

ChatGPT

塵劫記(じんごうき)の著者は、日本の小説家である森見登美彦(もりみとみひこ)氏です。塵劫記は、2004年に刊行された森見氏のデビュー作品であり、独自の世界観や文体が注目を集め、多くの読者から支持されています。

塵劫記は、一人の男が奇妙な事件に巻き込まれ、そこから展開されるファンタジー的な冒険物語です。作品内に登場する用語や設定は、独自のものが多く、読者を魅了する世界観を構築しています。

森見氏は、塵劫記のほかにも、『太陽の塔』『四畳半神話大系』『ペンギン・ハイウェイ』などの作品を手がけており、独特な文体や世界観で多くの読者から支持されています。


江戸時代の塵劫記の著者は?

ChatGPT

すみません、前回の回答に誤りがありました。江戸時代に書かれた『塵劫記』という作品がありますが、これは森巴水(もり はすい)という筆名を持つ江戸時代の作家が書いた作品で、森見登美彦氏が書いた『塵劫記』とは別の作品です。

『塵劫記』は、18世紀中頃に書かれた中国の小説『西遊記』を元にして、江戸時代の読者に向けて書かれた小説です。著者は『塵劫記』という筆名を使っていたため、実際の名前は不明です。また、複数の著者説があるため、明確には定かではありません。

『塵劫記』は、主人公が仏教の修行を通じて悟りを開くという物語であり、その過程で多くの仏教的な教えや概念が描かれています。『西遊記』を元にしているため、神話的な要素も含まれており、奇妙な世界観が描かれています。江戸時代の人々に広く読まれ、愛された作品の一つとされています。


塵劫記の著者は吉田光由では?

ChatGPT

いいえ、『塵劫記』の著者は吉田光由ではありません。『塵劫記』は、江戸時代に書かれた小説で、著者は不明ですが、森という姓を持つということから「森塵劫記(もりじんごうき)」とも呼ばれています。

一方で、吉田光由は、江戸時代中期に肥後藩の藩医や、学問・技術の普及に尽力した人物であり、医学書や砲術書など多数の著作がありますが、『塵劫記』の著者ではありません。


吉田光由は江戸時代の和算家では?

ChatGPT

いいえ、吉田光由は江戸時代の医師、技術者、蘭学者として知られており、和算家として知られているわけではありません

吉田光由は、肥後藩の藩医として、医学書『和蘭撮要』を著したり、天文学、砲術、陸軍学などの分野にも精通しており、その知識をもとに多数の著作を残しています。

ただし、吉田光由は数学にも興味を持っており、オランダの数学書を翻訳して和訳したこともあります。また、『算学要略』という著作も残しており、その中で和算の基本的な理論や計算方法を解説していますが、これは和算家としての活動によるものではなく、医学の一環としての数学の活用に関するものです。

Bardの回答

吉田光由について教えて下さい

吉田光由(1598-1672)は、江戸時代前期の和算家です。京都の豪商角倉家の一族で、幼い頃から数学を好み、毛利重能や角倉素庵に師事しました。1627年(寛永4年)には、中国の程大位の『算法統宗』を参考にした『塵劫記』を著し、和算の普及に大きく貢献しました。『塵劫記』は、絵を多用し、基礎から応用までわかりやすく解説した数学書で、江戸時代の庶民の間に広く読まれました。光由はまた、兄の光長とともに北嵯峨に角倉隧道を開鑿するなど、土木工事にも優れた業績を残しています。

塵劫記についておしえて

塵劫記(じんこうき)は、江戸時代初期の和算家・吉田光由が著した算術書です。1627年(寛永4年)に初版が刊行され、江戸時代を通じて広く読まれたベストセラーです。

塵劫記は、大数・小数の名、九九の掛け算から、米や材木の売り買い、金銀の両替、検地、河や堀の普請といったさまざまな実用問題と、継子立て、ねずみ算などの数学遊びを図とともに豊富に載せており、全体がしっかりとした数学的体系をなしています。

塵劫記は、絵を多用し、基礎から応用までわかりやすく解説した点が特徴です。また、当時の庶民の生活に密着した実用的な問題を多く取り上げたことも、広く読まれた理由の一つです。

塵劫記は、和算の普及に大きく貢献した書物であり、江戸時代の庶民の生活を知る貴重な資料でもあります。

吉田光由は肥後藩で活躍したのですか

はい、吉田光由は肥後藩で活躍しました。

光由は、1639年(寛永16年)に肥後藩主・細川忠利に招かれ、熊本に赴任しました。忠利は光由の才覚を高く評価し、藩の財政や治水事業に力を貸してもらいました。光由は、肥後藩の財政を立て直すために、算術を用いた会計制度の導入や、山林や水源の管理などに尽力しました。また、熊本城の城下町の整備や、八代城の築城にも携わりました。

光由は、肥後藩で13年間活躍した後、1652年(承応元年)に京都に帰りました。しかし、光由の業績は肥後藩に大きく残り、今でも「肥後の礎を築いた人物」として知られています。

Bardはほぼ正確な回答であるが,肥後に滞在した期間(13年間)は長すぎるようである.忠利が1641年に亡くなると京都に帰ったと言われているので,4〜5年間程度と考えるのが妥当と思われる.

それにしても「吉田光由」に関するChatGPTの回答は許容し難い.質問の仕方が適切ではないのかと思い,「肥後藩」を入れずに氏名だけで質問してみたが,回答内容は同じであった.「吉田光由は江戸時代の和算家では?」の質問ではヒントを与えたつもりであったが,自信たっぷりに「いいえ」と否定された上に,もっともらしい史実?を教えてくれた.

      最近,テレビで「ChatGPT利用の是非」が話題になっているが,今回のような間違った結果が得られることがあることを熟知した上で使用する必要がある.類似のサービスが次々に開発されているので,複数の回答結果を比較することが肝要である.

参考資料

『塵劫記』と吉田光由 (日本数学会)

(2023.5.14)