吉田光由

江戸時代の伝説の数学者・吉田光由が細川忠利によって熊本に招かれていたことを示す史料が熊本大学に寄託されている永青文庫(58000点)の中から発見された.文書勉強の備忘録を兼ねて紹介したい.

     吉田光由(1598−1672)は,江戸時代大ベストセラーとなった和算書『塵劫記(じんこうき)』の著者であり,肥後熊本藩に招かれて1636年(寛永13年)と1637年(寛永14年)に熊本に滞在していたことを示す一次史料が発見された.吉田光由は,京都での金融業や朱印船貿易で富を得て河川改修や運河の開削などの土木事業に貢献した角倉了以 (すみくらりょうい) の角倉家の一族で,光由自身も京都の菖蒲谷隧道 (しょうぶたにずいどう) 工事を手掛けたことで知られている.しかし.光由の生涯は伝聞によるものが多いとされ,詳細は明らかになっていない.

が招かれた当時の熊本は,1632年寛永9年改易された加藤忠広に代わって小倉藩の細川忠利(1586年ー1641年)が治め始めたばかりの時期であり,土木工事の天才と言われた加藤清正が手掛けた熊本城普請や堤防普請,大規模耕地開発などの修復,追加工事に追われる時代であり,算術の体系や土木水利技術の知識を有する人材が必要であり,吉田光由が招かれたものと思われる.

発見された史料の内容

これらの史料については,一般社団法人日本数学会『数学通信』第 25 巻-4 号 (2021 年 2 月号)に,後藤典子氏の論文「吉田光由の肥後下向と細川忠利」が掲載さ れているので,その一部を以下に引用させてもらった.

1 点目は,寛永 13 年 (1636)「大坂へ遣状之扣」(永青文庫目録番号 10.9.51.2)という冊子で,吉田光由についての記載があるのは 7 月 21 日の一条である(写真 3).

この史料は,国元つまり熊本にいる惣奉行(すべての奉行たちを統括する奉行)から,大 坂にいる熊本藩の奉行に宛てて出された書状を控えたものである.

差出しの堀江勘兵衛以下4人は,熊本の惣奉行である. そして宛名の仁保太兵衛以下 4 人は大坂にいる熊本藩の「御米方・御銀方・御買物 方奉行」である.

【史料① 現代語訳】

一 忠利様に京都より召し連れられ,御下りなされた算者吉田七兵衛が京都に御上りなさるのでお知らせする 

一 この文箱を京都の御買物奉行衆へ,殿様の御印がある借銀証文が入っているので 確実に届けるように,慥かに受け取ったとの受領書を定期便で熊本に送るように

 

史料1の中に「召し連れられ」という表現があるが,召し連れたというのは殿様,つまり 細川忠利で,おそらくこの時,忠利が京都から吉田光由を連れて,熊本に帰国したのではな いかと推察する.

     光由は 2 か月ほど熊本に滞在して,7 月 21 日頃,京都に帰るというその時に,熊本の惣奉行から大坂の「御米方・御銀方・御買物方奉行」に出されたのが,史料1だと思われる. 「御米方・御銀方・御買物方奉行」という,いわば細川家の財政・経費を取り扱う奉行であるから,光由の京都に帰るまでの交通費・賄料(食費や生活費)それを支払うようにとの熊本からの指示であった可能性もある.

3月2      【史料② 現代語訳】

一 京都より吉田七兵衛が罷り下られるので,去年のように熊本に着いた日から熊本逗留中の賄い米を命じるように 

これは 熊本城内の奉行丸にある御奉行所から 「御客人御賄奉行」の鳥井六左衛門に宛てて出された差紙,つまり命令書の控えである.宛所の鳥井六左衛門というのは知行三百石取りの「御客人御賄奉行」,つまりお客さんの 賄い(食事や身の回りの世話)を担当する奉行である.熊本藩の場合,奉行は 2 人体制で, 奉行の下には扶持米取りの家臣たちがいて,鳥井六左衛門は御奉行所からのこの命令書を 受けて,下の者たちに吉田光由に賄い米を支給するように命じているのだ.

     史料2から,吉田七兵衛(光由)は,「客人」として肥後に招かれていたということが確認できる. そして「去年の如く」とあることから,去年つまり寛永 13 年(1636)に肥後に来た時と同じように,ということであり,それはおそらく史料1の時のことだと思われる. つまり寛永 13 年の時も同じように,光由には肥後到着の日から逗留中の賄い米が支給され ていたのである.どのくらいの賄い米が支給されたかは分からないが,吉田光由が一人で来 るわけではない. 光由の下人,お付の人も人数は不明だが一緒についてきている筈なので,その分の賄い米も含めて支給されているのだ.

吉田光由が京都から熊本に招聘された事実を示す史料の発見は江戸初期の熊本藩の情勢を解明する重要な糸口となると共に,吉田光由の経歴の空白部分が明らかになるものと注目されている.熊本藩年表稿によると,寛永13年の項に「加藤清正羨計画した菊池郡瀬田の上井手の工事を始む」との記載があり,吉田光由の滞在と時期的に一致する.翌年の寛永14年2月に再度来熊するが,10月には島原一揆が勃発している.忠利は一揆の鎮圧(寛永15年1月)とその後始末のため,吉田光由に学び懸案の土木工事を行う余裕はなかったのではないかと思われる.今後の調査によって,光由の肥後藩における活躍の詳細を記した関連資料が発見されることを期待したい..

     投稿論文の著者が解読し活字化してくれているので,古文書の勉強になると思ったが,それでも判りにくい部分がある.資料②について,Aiソフト「みを」に解読させてみたが,正解は7文字程度であった.御.被,候,殿,衞,所などはかなり簡略化されている.なお,ゟ(より)は古文書の合字である.また,画像で切り出し,「MOJIZO」で検索しても該当するものがないものがあった.


『塵劫記』について

そろばんの起源については種々の説があるが,我が国では16世紀後半には使用された記録があることから,それ以前に中国から輸入され,そろばんを使った算術が普及したと考えられる.そろばんの教科書としてその普及に大きく貢献し,日本人の学力を飛躍的に高めたのが『塵劫記』であり,そろばんの使い方だけでなく日常生活や農業,商業,工業などあらゆる分野で必要な算術を取り上げている.寛永4年(1627年)に初版が発行された後,改訂版や類似本が数多く発行され,専門家から一般民衆にまで広く愛された.国立国会図書館の和算コレクションあるいは早稲田大学の古典籍総合データベース閲覧可能である.平仮名で書かれているので,古文書として比較的に読みやすい.詳細は別項で紹介したい.