「町在」とは

熊本大学附属図書館に「町在(マチザイ)」解析目録を検索するシステムが公開されている.19世紀の熊本藩内住民の社会活動を評価褒賞した藩政記録である「町在」の概要を知るることができる.寛政11年(1799年)から明治3年(1870年)にかけて武士を除いた藩内住民が行った寄附や献金奉仕活動の詳細とそれに対する褒賞の内容等が105冊の帳簿に記載され,その総数は2万4百件に上るという.住民の公共的な行為や寄附が広範囲に及び藩行政の実質を担っていたことを示す貴重な資料として注目されている.

システム公開の序言の前半部分を以下に示した.

十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」解析目録検索システムについて

 本検索システムは、熊本大学拠点形成研究のプロジェクトチーム(「世界的文化資源集積と文化資源科学の構築」平成15-19年度、「『永青文庫』資料等の世界的資源化に基づく日本型社会研究」平成20-24年度)が、熊本大学附属図書館及び平成21年4月に開設した熊本大学文学部附属永青文庫研究センタ-との連携のもとで解析した十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録「町在」の詳細情報を広くインターネット公開するものである。

 熊本大学附属図書館が収蔵する「町在」(財団法人永青文庫蔵、105冊、総数約2万事案)は、熊本藩の政庁(藩庁)の人事考課担当部局たる選挙方(役方)の帳簿であるが、文字通り「町在」に居住する住民=社会諸階層の社会活動・行政活動など種々の功績・功業を評価し、褒賞した膨大な行政記録群である。現存する「町在」にみる限り、「町在」は寛政11年(1799年)に成立し、明治3年(1870年)まで作成されているが、実は「町在」の前身形態をたどっていくと熊本藩の宝暦改革期、具体的には民政・地方行政領域で改革政治が開始される宝暦5年(1755年)まで遡及しうる。18世紀後半期、領主政治が住民の諸活動を取り込んでいく政治方向が明確となり、「町在」が作成される19世紀には、こうした政治と社会の関係が成熟し、明治維新の歴史的基底をなしている。

 プロジェクトでは、「町在」を「十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録」と位置づけている。「町在」では、当時の領主身分たる武士以外の全ての藩領住民が対象とされている。惣庄屋・庄屋や町別当を始めとする地方行政現場の役人、大部分は献金(寸志)により百姓・町人身分から武士身分待遇となった在御家人、寺社の宗教者、医者、そして百姓・町人のさまざまな社会的な行為・活動が延べ数万人規模で記録されている。「町在」に記録されている住民の数は5万人を下るまい。世界の近代社会以前の歴史資料のなかで被支配階級・非領主階級の人びとの活動・生活内容が万人規模のレベルで記録されている資料が他にあるだろうか。プロジェクトが「町在」を「世界的文化資源」と位置づける所以である。

人事考課とは

企業が定める一定の基準に基づき, 社員の能力・業績・勤務態度などを評価する制度.「考課」という言葉は古くから使われており,奈良時代の官人、いわゆる役人が唐から伝わった「律令」という法律に従い査定を受ける人事評価制度まで遡る.

寄託された史料の写真

左)熊本大学永青文庫研究センターの研究紹介に掲載されている写真を引用しました.詳細は熊大附属図書館寄託の「町在」を参照.

右)参考論文1に掲載されている写真

「町在」解析目録の検索例を以下に示した

熊本,菓子で検索

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目録番号       10.3.1__132                                                                                                     件名丁数 5

表題・年代  慶応元年 町在 丑九月ヨリ十二月迄    1865年

件名年月日  慶応1 年11 月11 日

件名表題      熊本新坪井米屋町丁頭園田武右衛門、 台所御次酒御用聞出精にて賞美     町名主

件名内の構成         1「御内意之覚」 慶応1年10月  台所賄方

                           2 僉議        (慶応1年)丑11月11日通達

                           3 (覚)       (慶応1年)丑10月  町方横目 👈町役人の役職

件名主内容  武右衛門、 台所御次酒御用聞兄代より21年・相続以来17年出精にて、町別当列に仰付け

事項   丁頭/台所御次酒御用聞/菓子糀白味噌御用/御用出精/町別当列  👈町役人の役職名

地名   熊本町/新坪井米屋町

人名   園田武右衛門

関連事項

現在も南坪井町で店舗を構えている老舗園田屋の元祖である.町役人に仰せ付けられていたことが分かる.
江戸時代,朝鮮飴は「全量城中買い上げ」であったらしい.以下に農水省の「にっぽん伝統図鑑」に掲載されている記事を引用させてもらった.

園田屋の朝鮮飴

安土桃山時代(大正年間)に園田武衛門が中国・明の僧から保存食として製法を教わりつくったのが発祥とされる。加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮の陣中食としてこの菓子を持ち込んだ際、長期間の保存に耐え、また、風味が変わらないため、兵士たちの英気を養うのに役に立った。当初は「長生飴」「肥後飴」と呼ばれていたが、加藤清正がこの菓子を褒めたことから「朝鮮飴」と呼ばれるようになったと言われている。

その後、熊本城が新たに築城したのを機に、朝鮮飴の全量城中買い上げ(生産されたすべてを買い上げ、一般販売がされないこと)が決まる。城主が加藤家から細川家に移り変わってからも、明治維新まで城中買い上げは続いた。という言い伝えが残る。

兵士の食料とするほか、参勤交代の際は江戸幕府と朝廷への献上品として、また、諸大名への贈答品としても用いられた。

製法は一家相伝で管理され、長らく一般に流通することはなかったが、明治維新以降は一般に販売された。その後、明治10年の内国勧業博覧会で、発祥とされる園田武衛門の子孫である園田政治郎の朝鮮飴は、大久保利通より褒状を与えられた。

細川家は肥後入国後藩内に「手永」という行政区画を設け総責任者である惣庄屋を置く制度を導入した.地方行政記録綴「覚帳」には惣庄屋からの上申書やそれを起案書とした稟議(りんぎ)結果などが残されている.また,十九世紀熊本藩住民評価・褒賞記録である「町在」,武士身分待遇になった人達(農民・職人・商人)の寄附や献金奉仕活動などの詳細とそれに対する褒賞どが詳細に記されていて,住民による地域自治が実施れていた姿を読み取ることができる.検索結果には,「賞美」,「褒賞」のほか「名字御免」,「隠居」.「跡目相続」,「刀御免」などの事項が見られるが,身分変化に伴う役職が一代限りではなかったことを意味している.

    町在の源流は,細川重賢の宝暦の改革(宝暦2年,1752年に遡ると記載されているので,改めて重賢の事績を振り返ってみて「なるほど」と思った.100年後の通潤橋の架橋(1854)はその典型的なものである.我が国最大の石造水道橋である通潤橋(熊本県上益城郡矢部町)の 架設に尽力した布田保之助は,青年時代には,成績が優秀であれば農 ・商の身分にも門戸が開かれていた重賢創設の藩校時習館で学んでいる.架橋完成後に,布田保之助の功績を藩に上申した町在関連資料などが近年発見されている.民間活力を治世に活かすには領民の潜在的な能力の発掘と活用が必須であったことが分かる.「白,普請」などのキーワードで検索すると,領内河川の氾濫防止のための築堤に尽力した人達がヒットする.以下にキーワードとヒット数を示した.

医師 1642,普請 1194,農業 50.漁業 26,石工 28.紙漉 50.油屋 24,学問 127,学業・篤志 688,孝行 48,熊本・療治 25,狂言 16,洪水  148,人参  6,鉄炮 57,大筒 17,鍛冶 116 ,刀鍛冶 25,温泉 13,地震 13,火事 73,蝋燭 3,

それぞれの案件は,「件名表題」として30字以内で要約され,キーワード的な地名,人名などの「事項」によって追補されているが,それに携わった人の隠された物語についてはさらなる史料の解析が必要である.


追記「農業不出精の訳にて地士格に降格」のようなケースも存在する.

      「立木盗伐者組伏押捕にて賞美」は現在なら警察からの感謝状.

(2024.2.28)