オット、その前に、同書より未確認の道標を抽出し、エクセルの表に作成します。本には32基の石造物が取り上げられているが、道標以外も数点含まれており、道標として未確認のものが7基ありました。
過去にも訪れた事が無い地点が2ヶ所あり、何かつかめるかもしれないと、期待がふくらみます。廻り損ねの無いように、従来のグーグルマイマップの「豊中市の道標」に追加しました。☆印にしておきます。
では出発します。7地点はほぼ南北に並んでおり、今日は南から北へと向かう事にします。最後には山登りになりそうで、若干気が重くなります。
豊中市三国2丁目に来ました。過去に来たことがない一つ目の地点です。早速、辻の写真を撮り始めましたが、どうも道の形状に違和感が有ります。マイマップで確認すると場所が違っていました。
本物の三国2丁目に行きます。『道標編』では、№27.として「こもゑ、すどふしへの道」と呼んでいるようで、過去に2008年教育委員会所有、とあった為訪れていなかったものです。又同書には「三国二丁目xx氏宅角」とあり、添付する地図にも位置が記されているが縮尺の関係で詳細位置は確認出来ません。なにしろ50年前の本です。現在では高層の市営住宅と空地になっており、旧道の位置は跡形もないと思われます。
同書では近辺の道路事情がもう少し詳しく載っており、『今昔マップ on the web』の昭和52年地図とを見て、今回の位置に有ったとした。ただ、建立当時の位置はこの北東110mの阪急高架下に近い辻ではなかったかと思う。
「次は、服部緑地の東であったな。」と、旧の能勢街道で進むべく北東に進み阪急高架下を通り過ぎ、旧道の辻に来たが、この北への天竺川沿いはよく通るので、高川土手を進もうと、更に北東に進む事にした。市道神崎刀根山線に出て、「豊南町南3」交差点まで来て信号待ち、道路工事中で信号が青になっても行かせてもらえません。旧道の分岐が有ったように思ったので地図で確認すべく見ると、・・・。
ここで、道標ではないが、確認しておきたい一つとして「№4.明治の大阪府里程標」が長興寺南2丁目にある事に気付きます。南から順だとすると、こちらが先になります。慌てて能勢街道に戻りますが、時間のロスも考え、国道を進む事にしました。R176号「城山町2」交差点を越えると、登り道を感じ始めます。交差点の北90mで、右(北)に分岐する旧道へ進み、分岐から220mの四辻、この北東角辺りに立っていたと思われる地点に着きます。里程標なので辻である必要はありませんが、この角のお店(多分廃業)の看板が、『道標編』にある名前と一致するので此処とした。
里程標は道標でないとして、余り気に留めていないのですが、あれば参考として見ておきます。
ここに有ったものは「高麗橋元標、三里」とあったらしい。
大阪府の「摂津国」域内で知っているものを挙げておきます。
1.大阪市中央区東高麗橋6の里程元標跡
2.大阪市平野区中野2の里程標
3.大阪市淀川区加島4の里程標
4.大阪市東成区中道4の里程標
5.茨木市上音羽402南の道標
他、神戸市に二件
6.中央区相生町1の兵庫県里程元標
7.神戸市東灘区御影本町2の里程標柱
高麗橋6の里程元標跡碑を北東に見る。起点である。
さて、次は先ほど目指していた服部緑地の東です。過ちを繰り返さないよう、フィールドノート(エクセルの印刷紙片)に「済」を書くと共に順番の確認をします。最初から「そう、しとけ」。御尤もです。
真珠橋を渡り、道なりに南折れ後、すぐ東に向き、橋から90mの左手(北)にマンションへの進入道が有ります。東側の壁に「カクタスパークハイツ」、西側に植込みがあり「Gallary A.I」の掲示板が立ちます。
ここに、『道標編』は「№6.徳林院への道」元中桜塚2-28-20と「№13.梵字のある大峰参拝記念道標」元長興寺南2-4が有ったとしている。もちろん移設された結果である。
尚、真珠橋の西の道は、小曽根、寺内、下新田、上新田と続く勝尾寺への道である。
ギャラリーは締まっており、入れなかったのですが、多分この植込み中に置かれていたのではないかと想像します。
次は、豊中市の北部になります。私にとっては山岳地帯のように思われ、土地勘も有りません。坂道を登り切れるでしょうか。
ギャラリーから府道134号に戻り、服部緑地の北端を回り込みます。公園の北を地理院地図を見ると標高40m程度と読み取れ、ギャラリーが20m、距離600mで20mも登ります。多分緑地公園内の小鹿橋の下が峠?の頂上です。橋を潜ると下り始めます。出来るだけ下らないよう「№28.打越池北西三又路」を目指します。西泉丘3丁目2の高級そうな老人ホーム前を北西に下り始めると、「東泉丘4」交差点に出る。何方かと言えば西に進んでいるのに「東泉丘4」とは変な気がするが、これを北西に進むと、交差点から430mで目的の三ツ辻に出ます。
残り2地点のうち、桜の町5丁目の三叉路を目指し、北の熊野町方面に向かいます。明治の地図で熊野田村の集落中を進みますが、まるで迷路のようです。途中専宗寺の寺標が建っていましたが、「右(南)」が書かれておらず、道標とはしません。門前迄20m程しかない為でしょう。
熊野田共同墓地の北を通り、市道神崎刀根山線の「熊野町4」交差点で横切ります。道なりに北西に進み、上野小学校南にかけては登りが続き、ツラク感じます。中環を越えた先には千里川があり、もう一度アップダウンが有るはずです。ここで弱音を吐くわけにはいきませんが、・・・。
高橋から急な坂を登り、目的地の民家に着きました。
ここでトラブル発生、常用(愛用ではない)のカメラが動きません。「このメモリーは使用できません」と出ました。過去に何度か起きた現象です。カードを差替え、電池を入れ直ししますが、以降、液晶モニターこそ見えますが、何の操作も受け付けません。
以降、スマホのカメラになります。
「№17.福枝講造立の2」は道路改修時の折れ残り上部を個人が保存としているので、道路上には無いものと思われる。なお、『道標編』では西面として「左、池田へ」とあり、これを満足するにはな、南面していたと思われる。元位置は坂の東下の地蔵祠の西向かい辺りではないか。
いよいよ最後の目的地に向かいますが、本来なら旧箕面街道に戻り北上すべきであろうが、下って登るのが嫌なので、この三ツ辻を北に進み報恩寺に出るつもりです。
西側の府道43号線に出る事はなかったのですが、どこをどう通ったか分かりませんが、西からの道で寺の山門にたどり着きました。昔この辺りをウロツイタ事があり、記憶に残っています。その時も今日と同じく「№20.春日町2丁目北道標」を探したものです。
今回の『道標編』では、地図に「№31報恩寺前十字路」の印があったとしますが、道標はやはりありません。私の考えでは、私が「12.豊中市春日町2丁目の道標」と名付けた石(『道標編』では「№19.春日二丁目南道標」)が、ある時期、ここに置かれていた事を示すものではないかと思う。
今日は無いものの確認でした。想定位置が間違いなければ「ない」と言えますが、果たしてどうでしょう。
見つからないであろう所ばかりを巡るのは、「つらい」ことが分かりました。以前回った時には「三国二丁目」と「ギャラリーA.I」を除いて、一応訪れており、古い写真を使えば済んだことなのですが、万が一を思い、再度回った次第です。
これ以上無くならない事を願って終りとします。
もう一件忘れていました。時系列の都合上ここに書きます。
「№30.樫木池北東、勝尾寺道と野道との三叉路」新千里北町二丁目とする、六字名号を持つ道標です。『道標編』では「ニュータウン造成中、不明になった」とあり、写真も載っていません。場所の記述と明治の地図とで、元位置を想像すると、豊中市ではなく、吹田市青山台1丁目3、千里青山台団地のC-65棟の東辺りになりそうです。この東のC-62棟の間に遊歩道があり、曲線の一部が旧道に一致するように思われる。ここに西に曲がる聯路から北に分れる小径が見え、道標ならこことしたい地点である。
ただし、『道標編』の南面の記述を見ると、進むべき方向が書かれておらず、「かちをうし」とするだけで、私の基準からすると道標ではなくなります。こうなると、参詣の道筋に信仰の為に建てたものとして、辻にある必要はなく、同書の記述を尊重すると、樫木池北東部の現交差点辺りにあって問題無さそうである。
何れの場所にも、それらしい石は見当たりません。
尚、旧道をたどることはほとんど無理な様に思えますが、明治の地図では豊中の上新田から箕面市の今宮へ向う、谷筋の道があります。