2024/5/24、今日は茨木市です。このところ度々お邪魔しております。図書館ではなく、文化財資料館の「わがまち茨木、道標編」の確認です。表題の「東福井」とは離れているのですが、次のようなアドバイスを頂いたためです。
嬉しい事に、私のHPを見て頂いた方から、未調査の道標に関する情報を頂きました。有難うございます。
早速調べに行くことにしました。
最初は「茨木市立民俗資料館」です。ここの2階に『わがまち茨木、道標編』の旧版があるとの事で訪ねます。ここは何度も行ったことがあるので地理に不安は無いのですが、中環を横切るのが大変なのです。なんとか辿り着き2階へ上がると右手(北側)が展示室に成っており、左突当りが事務所兼資料室のようです。
早速来意の用件を伝えると、学芸員の方が直接本を取り出されて、コピーの時は「お声かけ下さい」との事でした。手持ちの第三版(平成19(2007)年)と比べて行きます。旧版は昭和58(1983)年発行、縦書き右開きです。図書館にもあるかも知れません。
少し時間が掛りましたが、コピーしたい部分が抜き出せました。メモはしましたが念のためコピーもしようとして、先の言葉の意味が分かりました。自分ではコピー機を使えないようです。著作権保護の為の複写願を書かなくて良いのですが、該当箇所にしおりを挟む手間が要ります。
コピーを受け取った後に、道標について少しお話頂けたことは良かった。
わがまち茨木第三版と旧の複写
未調査の分を求めて、北行する事にします。その前に資料館西の道標に変わりが無いか見ておきます。
「六十丁」を「半丁」と大きな誤読をした「東奈良3の道標4」も元気?にしていました。
中穂積を目指します。
「中穂積2の道標」が個人宅にあると教えて頂いたので、その東側の道から見ますと石柱が見えるのですが、何故かこれは違うように思え、大きな庭がある家を探そうと町内を一周します。地形の関係か桝形に分れた住宅地でなく、ウロウロする内に、最初の石の西側に庭が有る家を見つけましたがお留守の様です。幸い南が開けており庭の一部は見えます。先ず橋標らしいのが眼に入り、道標らしい石も見えます。写真だけ撮り、次に向かいます。
(後日、この石では「ナイよ」と連絡いただくのですが知る由もない。最初に見た石がそれだったようである。なぜ違うと思ったのか、説明が出来ません。多分、「頭が石に近付いてきている。」「道標だけに」とオチを付け次へ。)
次に目指すのは将軍塚の西側です。つい最近訪れたばかりです。自転車を担いで下りた生々しい記憶が蘇ります。
山際を行ったことがないので、名神沿いを進み、中河原から旧西国街道をと考え北に向かうが、何処で間違ったか茨木ICの東の高い所を通っているではないか。広い道は止めて西の旧亀岡道へ向う。通い慣れた道で北へ進む。途中の道標は安否だけを見て通り過ぎる。ついた先は東福井2丁目、佐保川左岸(北)の三ツ辻です。
この三ツ辻は三か月ほど前にも通った所です、道標は無かったと思うのですが…。
写真の三ツ辻を右へ(250m先に「東福井2の真龍寺入り口の道標」がある)進み、20m地点で右上を見ます。そう道端ではありません、頭の高さを見るのです。
忍者の極意に「目の高さに隠れる」が有るとか無いとか。
石の形状としては「自然石」としましたが、まるで座椅子に見えます。背もたれから座板にかけ案内が彫られています。本来低い位置にあって然るべき形状と言えるでしょう。
案内は左右二方向を書き、右へは「丹州、国見、妙見」、左を「さを(多分佐保)」としています。
この後、旧版の情報を元に安威を訪ね歩くが、家自体が無くなる等目ぼしい成果は無かった。ただ一件、個人宅に道標が有ったとされる方に、お話を聞けたが「道標は見た事が無い」との事で、世代が変わり、住宅も変わると無くなってしまうのであろう。