夏休み明けに行ってきました。webを見ていると、神戸市森林植物園に柿木塚の石標があるとの事。
しかも山田道と徳川道の辻近くにあるらしとしていたので、大いに期待していたのですが、結果は残念でした。道標にあらず、境界石でした。
再度山丁石の項で、境界石もとり上げたので、この境界石も載せて置きます。
森林植物園内の山田道を幾分かトレースできたので、未踏査部分が減った事にはなりました。
では、少し述べていきます。森林植物園をすべて見た訳では無く、北入口から山田道近辺を見ただけである為、この他にもキット存在すると思います。私が見た5基の石には「神戸区」又は「神戸」とあり明治12(1879)年1月8日から明治22(1889)年4月1日の10年間の間に建てられたものと思われ、結構古いものになるでしょう。
この地は歴史的に支配権をめぐり訴訟沙汰が多かったようで、国会図書館デジタルアーカイブで見れる『山田村郷土史』等にも例が載っています。これらから神戸区が山田村との境を明確にする為に建てたものと想像します。ただし、現在の神戸市北区の町境(山田町小部、山田町上谷上、同下谷上)等とは一致していないように思われる。
5基の内1基にだけ、「山田/神戸」と石柱の表裏にかかれており、他の4基は「神戸区」と2桁の数字が刻まれています。南に位置する方が数字が小さく、北に向け大きくなるようです。稜線の距離で500m程の区間に、35,山田,37,47,53,と連続していないので、この間にさえ沢山あるかも知れない。上面は平坦で「━」、「✟」が刻まれているが、境界線と一致してはいない様だ。
今日の始まりは、国道418号有馬道交差点からです。北に平野、旧有馬街道、天王ダムで寄り道し、小部峠交差点、東に折れ県道16号(明石神戸宝塚線、西六甲ドライブウェイ)に入り、神戸高陵高校校門西で徳川道碑、五辻を見て、神戸森林植物園を目指しますが、この部分は省略します。
園内の旧山田道のトレース可否や、柿木塚の位置を聞くため、管理事務所に向かいます。結果、山田道は園北部一部通行不可、柿木塚は位置不明、徳川道の№⑮から西への通行不可、争論松は案内板がある。との事であった。
『今昔マップ on the web』の明治の頃の地図で山田道、徳川道の様子がわかります。
同様に「柿木塚」、「山田道」と明記される昭和22年地図も閲覧できます。
登ってみると笹薮の中に石が見えます。これが探していた石だと喜び、何時ものお掃除が始まります。園内でもあり「草を刈ってもよいか」と管理棟で事前に聞いて「よい」と言われていたが、最小限の刈り払いに留めました。よって作業時間は10分と何時もの1/3ほどです。
西角上部が3㎝、高さ10㎝程欠損しているが、全体の大きさ、29x13x9.5㎝の四角柱の石です。
南西面に「四七」、南東面に「神戸区」とあります。特に読み難くもありません。webの記事では読み難く「三」に見えるとしていたはずです。記録が終われば持参のメモをチェックしてみましょう。
南東面「神戸区」、南西面「四七」とあり、どう見ても道標ではない。上面に線が刻まれており境界を示す石と思われます。「神戸区」とあるので、建立年代は絞り込めそうです。
後日ですが、当石は道標でなく、境界を示す石と解釈し、「神戸市北区森林植物園の境界石#47」としました。詳細はその項を見て下さい。
今日の主目的は終わってしまいました。第二目的の山田道を南に辿ってみます。管理事務所で聞いた話では、山田道の分岐点は案内板に示しているが、南にどのように続くかはハッキリとは分かりません。展望台辺りまでは山田道でしょう。その先は園外でもあり案内板も無いと思います。との事であった。
取敢えず、№⑯と№⑮の間の「山田道」分岐点まで北に戻り、そこから南東に進む事にしました。
『今昔マップ on the web』の明治の頃の地図では山田道と徳川道が直交している様に描かれています。これが今の№⑯地点であるなら、№⑯から幹線園路のここ階段迄が山田道に当り、南東に曲がり石段へと続く一本道であったと思われる。山田道の分岐点としているが、本来は後から造られた幹線園路の分岐点とすべき地点であろう。
前の三ツ辻から1分程歩いた地点です。尾根から左へ分岐し「トチノキ谷を経てアメリカ区長谷池」の案内が左側に、右の案内に「・・・/←(山田道)→/・・・」とある事から、山田道を上手くトレースしている事が分かる。
ただ、この左へ下る道は現在の地理院地図に描かれていないように思える。地図では少し北側から分岐している道があり、現状と異なる様に思う。又それ以南も一致しない。明治地図はこちら参照。
分岐から610m、展望台入口を南に見る
山田道から展望台への分岐。展望台へは奥に登る。右平坦な道が山田道。案内板は今来た道筋を「←山田道」としている。
この後カメラの調子が悪くなり、写真が有りません。スマホは電波が受信出来ず、グーグルマップはフリーズ状態。現在位置は出るが精度はどうか?
この後展望台から、山田道に復帰し、展望台の北側を巻いて通ると、道は西向きになり、西口に向かう道から外れると、その後谷筋に一気に下り始める。多分森林植物園の外に出たものと思われ200m程進んだ。この道は地理院地図にも描かれておらず、引き返すことにした。もう少し下って地図にある砂防堰堤か、西側の道に出会うか確認してみたいが、暑さで参ってしまい、登り返しの事も考えて止める。
左側、西面に「三七」とある事を確認し、争論松を探しに行きます。
境界石#37としておきます。詳細は帰りにします。
境界石#37を後にして1分後、争論松の解説板に到着しました。北側の足元には境界石も建っています。
この境界石は数字が確認出来ず「境界石、山田/神戸」としました。
「争論(そうろん)の松について」
この松は中一里山と奥一里山との
境界に植えたもので、樹齢約150年と
推定されます。
特に中一里山は入会権(一定地区の住
民が一定の山林原野を共同で使う権利)のある
神戸側と山田側との争いが激しく、慶
長9年から明治9年の役300年間に
わたって続けられた。
「一里山の名前の由来」
有馬街道(天王谷道)と大師道
(再度道)の山麓を起点として
一里毎に塚が造られ、この二
街道の標石を見通した線を
境界として、南から口一里山
中一里山、奥一里山と名付け
塚に茂る松を、一里松と呼ん
でいたといわれている。
「当寺の中一里山境界図(大蔵省地図参照)」
【省略】
●各一里山の基点は・・・【省略】
●入会権については・・・【省略】
争論松ならぬ、境界石が有ったので、記録しておきます。松よりは長生きしそうです。
解説板のすぐ北側にあるが、石の向きは解説板とは並行になっておらず、北西面に「山田」、裏?南東面に「神戸」までは読めた。北東面は別の石が密着しており、読み取る事は出来ませんが、数字があるかも知れません。
又、「神戸」の下に「区」があるかも知れないが、公園内でもあり掘り出すのは止めました。
このまま下り、西口に向かえば、更なる境界石もあるかも知れませんが、先の境界石#37を確認して、帰る事にします。
来るときに見落とした狼谷からの道が県道16号と合流する辻を確認しに行く。
五辻の西30mで、北西から県道16号に合流している。此処だけ見ると三ツ辻と言えそうです。一応鞍部の頂上(峠か、たわ)に見えます。
狼谷の道は「山田道」と別物と思える(注、但し道標にあっては「山田道」はあり得る)。明治の地図ではここと、森林植物園内の柿木塚を徳川道が繋いでいる。
五辻から、神戸蓑谷線(再度山ドライブウェイ)に南折れします。再度山ドライブウェイと、先に森林植物園展望台から南行を中止した山田道との接続地点を確認したいのです。修法ヶ原橋の北詰の四辻に来ましたが、東に少し入り込まないと旧道に繋がらないように『今昔今昔マップ on the web地図』では見えます。ロープが有り入れないようで諦めますが、この辻に出て来るものと思われます。
変則の四辻東部に建つ案内板には「分水嶺越林道」とあり「車両通行止」と朱書きされ、ハイカーは利用可能の様です。旧山田道はこの東100m強の辺りに出て来るようですが、今日は行きません。
尚、昭和22年地図にこの地点迄は「山田道」として書かれているが、この後南方へはどう続くか不明である。一方、国会図書館デジタルアーカイブ「山田村郷土誌」(大正9年)では「里道」として「再度越」を説明し「中一里山境の字丸石」より二手に分かれ、西方へ「再度に出る」、東方へ「布引滝に出る」としており、当時の山田村では「山田道」の概念は無かったと出来そうですが、西方へ「再度越え」に続くとしている道に同定したい。よって現在のドライブウェイに沿って進み、修法ヶ原池の北東より、現在の「再度越」で大瀧寺南へ、その後は再度谷(大師道)を通り諏訪山公園の南辺りが終点となるか。
そうすると、私の山田道南部の未踏区間は、展望台-修法ヶ原橋間の600m程となりそうです。
下谷上丸山谷の道標を南に見る。奥、森林植物園へ
上記「中一里山境の字丸石」を、私資料「北区山田町谷上南町南方の道標」の地点とする資料がweb上「イワクラ(磐座)学会会報56号掲載『六甲石楠花山の一里塚と生田川の立岩について』」にあるが、同誌の地図と矛盾がありそうです。
何故これにこだわるかと言うと、この道標が今で言う「山田道」に当るのか、それから外れた道になるのかが、良く分らない為である。
webによく出ている「旧山田道ハイキング」等で、谷上駅から森林植物園を目指す時、「旧山田道」を進むと言いながらこの道標を通過しないのです。即ち、神鉄谷上駅の西から丸山谷を遡り、「北区山田町下谷上丸山谷の道標」に出る道を「旧山田道」とするようです。確かにこの道は歩き易いのですが、「山田村郷土誌」に従えば、谷上駅東から南に一山超え、「北区山田町谷上南町南方の道標」に出て、これを右に採り、「北区山田町下谷上丸山谷の道標」に進む道が「旧山田道」であるべきと思う。
辻東側の説明板、右奥は修法ヶ原への道か
辻南西部の石碑
前回来れなかった、気になる石標はこの四辻の南西部にありました。何のことか良く分りませんが、興味なしになりました。
そして、時間があれば寄ろうとしていた、「オマケの確認」に向かいます。
前回、未確認のままであった、浅間ヶ丘、錨山記念碑を見に行きます。ここ(修法ヶ原橋の辻)からは大龍寺を経てドライブウェイを登る事になります。
浅間ヶ丘石碑は「中央区神戸港地方堂徳山西の石標」として紹介しています。それの「錨山記念碑」、「浅間ヶ丘」を明確にしたい。これをオマケの確認としています。
錨山記念碑は見つかりました。がこれが「浅間ヶ丘」かは分からずじまいです。
「浅間ヶ丘」に関しては、この石碑が建つ丘を指すとする記述が、webのTokiwaの山歩紀「再度東谷南尾根・太子の森」にあるようです。
この説にしたがうなら、「堂徳山西の石標」は「浅間ヶ丘、錨山記念碑」の標石となるでしょう。
「浅間ヶ丘、錨山記念碑」を見てみましょう。最初に「明治天皇御製」とあり、天皇が詠んだ歌が続きます。
歌は「進免てふ、旗尓徒連つゝ以く佐船、か路くも動く、浪能うへ可奈」
とあり、山の上からでは「旗」が見えないと思うので、この地点から詠んだ歌ではない事が分かります。
左端に「海軍大将有馬良橘謹書」(wikiに大正8(1919)年任官、同11年予備役)とあり、裏面には記念碑の銘があり、昭和12年7月、神戸区振興協會と彫られている。
よって建立年は昭和12(1937)年である。時代背景が見えるようだ。
裏面の銘は半分以下しか読下せず省略しますが、「錨山記念碑ノ銘」「明治三十六年四月十日神戸港外・・・」最後に「昭和十二年七月、神戸区振興協會」とある。
『今昔マップ on the web』昭和10年二修とある地図では、現在のドライブウェイとほぼ同じ道が出来ており、十年程前の大正12年地図には有った堂徳山から碇山への旧道が無くなっている。この記載が無くなった旧道西横の小高くなった丘に立派な石垣積の土台を築き「浅間ヶ丘、錨山記念碑」を建て、それと共に、新しい道に入口を示す標石「堂徳山西の石標」を昭和12年に建てたものと考える。
浅間ヶ丘は、一等巡洋艦の「浅間」をこの山に見立てて名付けたように思える。
尚、「昭和10年二修とある地図」にはこの碑の台石か「井」の様なものが見える。
以上で本日の予定は完了。帰宅します。