摂津の国の道標




【伊丹市 辻の碑(摂津の中央らしい)】

履歴など

2024/4/16 神南邊(6) 作成中 2024/4/16 神南邊(7) 作成中
2024/1/13 神南邊 1/28完 神南邊(2) 3/1完 神南邊(3)  5/16完 神南邊(4) 4/7作成中 神南邊(5) 4/9作成中
2023/12/4 池田横山峠 12/14完 旧妙見道 12/20完 マイマップ2表追加 12/14
2023/11/14 藍那五輪塔 12/6完 最明寺滝東 11/21完 千里丘道標 12/10完 高槻萩谷 12/3完  丹波坂 12/11完
2023/10/25 中山寺 10/25完 多田院道標 11/2完 妙見山奥ノ院本道八丁 11/7完
2023/9/16 中山寺 9/30完 南江口 9/23完 川西霞ヶ丘 8/17完 東大寺道標再訪 8/16完 
2023/6/26 丹生山丁石 丹生山2 義経道 7/23完
2023/6/6 剣尾山下見谷 2023/4/24 剣尾山月峯寺丁石  5/31 白木谷2 6/2 白木谷3 白木谷4
2023/3/27  住吉道山中の二基 2023/3/15 中央区大師道の丁石中央区27.削除の件
2023/ 2/ 3 東淀川高槻更新 2022/12/23 妙見山丁石等 2022/11/7 平尻道踏査
2022/10/31 西宮(青野道)修正 2022/10/25  池田巡礼道更新中


自身のホームページがあまりにも味気ないので、少し作り直そうとしました。 気楽に読み物風に出来ればと思います。(写真をタップすると単独で表示されます。)

お知らせ。2021/12 神戸市の山間部をのぞき摂津国内の調査が終わりました。
2022/6、神戸市山間部もほぼ終了し、集計作業に入っています。
2022/9、未調査分等に取り掛かる予定です。

先ずは摂津国の領域です。

西は神戸市垂水区から北区、三田市で北限となり、猪名川町、能勢町豊能町、茨木市、高槻市と東に向かい、島本町で東端となります。淀川を境として、南へ高槻、茨木、摂津市、吹田市と来て、神崎川を越えると大阪市内に入り、東淀川区、鶴見、東成、生野、平野区で南東端となり、大和川に達することなく八尾街道を境に西に進み住吉区遠里小野辺りで現大和川を越え、堺市内に入り大小路を国境としている。

見出し写真の伊丹市の西国街道と多田道が交差する辻が、摂津国の中央とされている。

神戸市域の摂津、播磨国境は、明治22年の村で南側より、須磨村、山田村、八多村、大沢村、道場村、三田市に入り貴志村を摂津国とし、播磨国を垂水、伊川谷、櫨谷、押部谷、志染、淡河、上淡河、奥吉川、北谷の各村境とした。

最北端 三田市母子

南端 堺市境東駅前

東端 島本町山崎

西端 三田市梅木峠

「道標」の定義

次に道標の定義です。「道標」をくん読みすると「みちしるべ」これをそのまま当てはめます。行き先を案内し、その為にどの道を選べばよいかが分るものとしました。目的地は何でもよいとするが、昭和の第二次大戦以降の観光案内は除外しました。又、寺標、社標、名所・名勝地その場の名称を示すものは省いた。参詣に関わる純然たる「丁石」は道標と区別した、但し丁数や里数を書くが、距離が不正確、或いは単独で立つものは道標とした。大正期の「道路元標」は参考として記載した。
参考とさせていただいた諸資料に掲載されたもので上記道標定義に当てはまらないものは、一応載せた。

道標詳細の内容について。

名称、所在地、緯度・経度(小数点表示の度数)、形、大きさ(全高x巾x奥行㎝(頂高))、を記す。次に各面の写真・読み下しを縦書きで載せ、紀年銘が有れば(月無は仮定し)、それを西暦年月日、曜日に変換して載せた。変換については自身の作成したツールに依った。
解説については、参考資料と異なる点は明確にし、自身の解釈など入れ「移設」の有無を明確にし、元位置の検討を加えた。移設の有無に係らず、現状の方位面と、移設前の向きを示した。(これらの作業が一番面白いと感じています。)

近世における街道名についてはよく聞く「五街道」があり、この様に地方の主要道路にも名前が付けられていればいいのだが、現実には権威筋により決められたものは無かったように思います。例えば有名な「五畿内志」にある名称が一般に使われていたとは思われず、庶民にとっては行きたい方向の大きな町(村)名への「道」で十分であったと考えられます。これが明治に入りますと太政官布告の形で開始、終点をもつ今の道路名方式になり、現在へとつづいている。法律などで厳に決められたものと思われ経路(ルート)が明確なのはよいが、逆に「道しるべ」には使いにくいのです。例えば、あなたが梅新交差点に立っていて、京都に行きたい場合そこの道標に「東、国道1号」でよいのですが、梅田曽根崎警察角に立っている道標に「南、国道1号」では具合がわるく、もし書くなら「東、扇町、京都」「南、難波」とするでしょう。
このように、道標にはみんながよく知る目的地とその最短ルートを書くのが基本であり、最後に「道」を付けたと思います。「xx道」は「xx街道」ではないのです。ではなぜ「道」としたのでしょうか、これは多分ですが、付けると「寺標」や「社標」と明確に区別ができ、文の最後が認識できるようにしたものでは無いかと考えています。下部が埋ってしまい下が続くかどうかは気になるところです。例えば「中山道」が「中山寺道」が「道」のあるなしで示す所が変わる可能性がある。
話がそれましたが、街道名は説明に便利ですので、文中に多く用います。この時近世の道標を基本に考えたので、五畿内志の街道名を基本に用いるつもりですが、記載されている街道名が少ないため、明治時代に決められた街道名も多く使いました。

地図に関して

文章中によく書かれている「明治の地図」とある場合は、帝国陸地測量部の明治43年測図による地図を指します。発行は明治44年以降で地域により大正3年頃になる。
その他の地図の場合は「明治19年測図」などと明記し、微妙な年が必要でないと思われるものは「大正、昭和の地図」のような表現とした。
地図の入手先はほぼ図書館となりましたが、一部自身の購入していた地図等も参考にしました。古地図(明治期含む)は著作権も消失しており、全体をコピーしても問題はなさそうです。ただし、一部の図書館では期限切れの確認に手間取る状況がみられました。

明治の地図で近世の道が再現できるのであろうか。この疑問はYes,でもありNo,でもあると思う。 一般的に近世の道は幕府が認めた道で有っても普請(保守、管理)は「村」であり費用や労力も村が負担するものであった様で、新たな道等は特殊な事情が無い限り付け替えることは無かった、とされる。明治に入っても9年に太政官布告第60号の「…国道県道里道ヲ定ム」が出たようであるが、実質新しい道に付け替えられたとは想像しにくい。よって明治19年測図の地図であれば、近世の道をほぼ再現していると考えます。しかし後期になれば近代化(軍事的も含む)の影響が出てきて近世の道は改変されている。例えば、神戸市の今のJR灘駅近辺を明治43年測図の地図で見ると三本もの鉄道が通り敏馬神社にある「明治18年の地図」からでさえ変わっており、近世の西国街道は変更を受けているのは明白でしょう。
それでも、近世の道を推定することは出来ると考えています。

前述の今の「道路法」に当る布告では国道等一等から三等に分類されていたようであるが、道の種別を述べるにあたって、明治の地図に記されている表記に従って「国道、県道、里道、小径」を用い、里道は更に「達路、聯路、間路」に細分して用いてます。ただし達路以上は実線二本の間隔で判断する様で判定が困難であるため、「達路以上」の表現を使います。又小径は破線で表されているが、それより細い?と思われる点線で書かれる道も見える気がする。

街道名に関して。

『大阪府史』明治36年刊、昭和36年復刻から多くを使用しています。ただし始点、終点、経過地名は文字で表現されている為、明治の地図でそれらしいものにあてはめて用いました。又明治の地図に街道名が書かれている場合は、府史の記述に関係なくそれを用いました。
その他、現地の案内板等に書かれていいるものは、明らかに誤りであるものを除いて使いましたが、年代に従った呼び方を使わず今の呼び方で記すものが多くありこの場合無視しました。

マイマップ、大阪市の道標

御城、大坂、堺、平野、東成郡、西成郡、住吉郡

マイマップ、尼崎市の道標

お城、川辺郡

マイマップ、伊丹市の道標

伊丹町、川辺郡

マイマップ、川西市の道標

満願寺、多田院、川辺郡

マイマップ、宝塚市の道標

中山寺、川辺郡、武庫郡

マイマップ、西宮市の道標

神呪寺、武庫郡、有馬郡

マイマップ、芦屋市の道標

兎原郡

マイマップ、神戸市の道標

兵庫津、八部郡、兎原郡

マイマップ、神戸市北区東部の道標

有馬温泉、有馬郡

マイマップ、神戸市北区南部の道標

有馬街道、湯の山道

マイマップ、神戸市山間部の道標

六甲山頂、摩耶山、高取山、旗振山

マイマップ、三田市の道標

花山院、有馬郡

マイマップ、猪名川町の道標

川辺郡

マイマップ、豊中市の道標

豊嶋郡、嶋下郡

マイマップ、池田市の道標

豊嶋郡

マイマップ、吹田市の道標

豊嶋郡、嶋下郡

マイマップ、箕面市の道標

勝尾寺、豊嶋郡、嶋下郡

マイマップ、能勢・豊能町の道標

妙見山、能勢郡

マイマップ、摂津市の道標

嶋下郡

マイマップ、茨木市の道標

嶋下郡

マイマップ、高槻市の道標

お城、神峯山、金龍寺、嶋上郡

マイマップ、島本町の道標

嶋上郡

マイマップ、丹波・篠山を案内する道標

摂津国内で丹波を案内

マイマップ、勝尾寺を案内する道標

摂津国内で勝尾寺を案内

マイマップ、竹内街道の道標

神南邊石造物を中心に

マイマップ、神南邊の石造物

一部未調査を含む

集計作業

2022年5月より、二次調査にかかると共に集計作業を始める事にしました。調査の合間に集計をと考えたのですが、いざ取り掛かると今までの資料がいい加減である事が災いして一筋縄でないことが分りました。基本的にはエクセルを使用していたので、集計方法決めるだけで済むと思っていたのですが、馴染の無かった「ピボットテーブル」を使い始めると…??。トホホの結果になってしまう。
 例えば、道標の形状、人目で見ると「道標」「丁石」に分類していたつもりが「道標」「道標でない」、「丁石」「町石」等、建立年月日(紀年銘)に至っては「文化2年…」「文化二年…」「1805年文化2」等考えればすぐに気が付くのだけれど、機械的に処理出来ない状況でした。
 そこで、従来のデータを壊さないよう、新たに集計用の項目を4つ追加し、これを埋めていきます。
1.石碑の種類、「道標」「丁石」「まとめ記事」「対象外」「摂津国外」「重複記述」等。
2.形状、「尖頭型」「角柱」「山型」等頭部の形状を中心に分類したのですが、中に「蒲鉾型」、「こうばこ型」がありこれは説明しておく必要があるでしょう。
 「蒲鉾型」は板付きの蒲鉾を板からはずし、厚さ5㎝で切ったものを四角い柱の上に置いた形、櫛型。
 「こうばこ(香箱)型」はよく説明できませんが、私のイメージでは西遊記の三蔵法師の頭巾か。墓石の説明から引用しました。
3.年代区分、分ける基準が1699年以前、1700年代、1800~1868年、明治、大正、昭和とした。江戸以前、前期、中期、後期、明治・・・とすべきか。区切りを知らない為できなかった。
4.建築年を西暦で埋める。エクセルの日付制限が1900年以降とあるのを知らず、四苦八苦した。
 対象件数は1400件ほど。

次に、道標碑面から行先を抽出します。一基1ヶ所から、最大21ヶ所まで、表記のままを一セルに取り出し、これを名寄せ出来るように、現代名を付けていきます。
 つけ終わった場所の緯度経度を、グーグルマップから拾い出します。道標の設置位置から目的地までの距離を計算します。
 行先の件数は3000件強になりました。一基当たりの平均は二ヶ所の案内になる様です。

データが揃うと後は表計算プログラムにお任せです。
道標明細から
1.石碑の数を分類別集計(列に分類、行に市町村)
2.道標の数を形状で集計(列に形状、行に市町村)
3.道標・丁石を時代別に集計(列に時代、行に市町村)
4.道標を時代別・形状別に集計(列に時代、行に形状)
5.建立年の古い順に並べ替えたもの(不明は省く)

摂津の国の道標の集計

行先の明細から
1.各道標の行き先(案内先)抽出件数
2.名寄せ後の行先の多いもの順に件数を集計
3.時代別に行先を集計(列に時代、行に行先)
4.表記行先を集計(列に件数、行に表記行先)
5.案内先の遠い順に並べたもの
を作成しました。

摂津の国道標の行先一覧

尚、2022/10/12以降の調査分については、集計結果に反映できていません。