サウビンホード=ショイカッシュ

 サウビンホード=デスカンメス=ショイカッシュ(麗:Saubinhaod Deskammess Xoikax, 1596年10月22日~) は、レイトガイジェンの物理学者、化学者、教員。レスジッド県バルトーザヴァイ市出身。セレシュルケン大学元教授、カールドムン中央大学名誉教授。ザイレツィヌス物理学賞受賞者。理学博士。重力波の検出と塩基沈着法の発明で知られる。

発音

レーゲン語:/sáubɪnhɔ:d ʃ'ɔɪkaʃ/

英語(米):/sáʊbənhɔ:d ʃ'ɔɪkəʃ/

経歴

子供時代・少年時代

 1596年、レスジッド県首都のバルトーザヴァイ(Barrtoozavai)市に生まれる。幼稚園児のころから周囲の大人に物事の理由をしきりに訊く子供であったという。その様を見て、両親は彼に「科学者になれる」としばしば褒めていた。家は非常に裕福であり、メイドが3人いた。兄弟姉妹は、弟が1人、姉が1人であった。

 1601年、バルトーザヴァイ南初等学校に入学する。態度は悪くなかったが、授業中や授業後の質問が多すぎるため教師からは煙たがられていた(自伝による)。3年生の時に学校図書館に置かれていた『人類の歴史』(レイン=ラカイ著)を読んだことで、人類の素晴らしさを発見し、叡智を発展させるため科学者になることを目指し始めた、と本人は語っている。このころから人類中心主義的かつ自己中心的な発言が多くなり、教師や親にたしなめられることが増えた。

 1605年、初等学校を卒業し、バルトーザヴァイ公立中等学校に入学。その変な性格のせいで親しい友人は数人しかできなかった。成績は優秀であり、10番を切ったことはなかった。3年生のとき、クラスメートに暴言を吐いたことにより、担任教師に説諭され、自己中心的な考えを改めたという。

 1608年、中学校を卒業。レスジッド県随一の高校である火丘(ひおか, faismava)高等学校に入学する。ここで工作や街路散策を趣味とし始める。将来は学者になろうと本格的に決心し、レイトガイジェン第三位の大学とされるセレシュルケン大学(レイトガイジェン最古の大学)に入学することを決めた。本来は第二位の大学であるカールドムン中央大学にも合格できる学力があったというが、遠すぎるため拒絶した。受験勉強は独学に頼り、塾や予備校に通うことはなかったが、理学部物理学科に合格した。1611年、セレシュルケン大学に入学。一人暮らしを始めた。食料は仕送りに頼り切りで、アルバイトは週に2回しかしなかった。

大学生・大学院生時代

 大学ではかねて趣味としていた工作を楽しむため、工作部に入る(レイトガイジェンの大学では、部活/サークル は基本的にひとつしか入らない)。「奇妙人間だらけだったので、友人は多くできた」と自伝にて語っている。2年生の時に動物の扱いについて友人と熱論を交わし、あまりの意見の違いに驚き、半年間絶縁した。

 学業面は相変わらず優秀であり、当時では珍しく、教授の緊急電話番号を知りえていた。物理学の中でも特に天体物理学や理論物理学を好み、逆に実験物理学には熱中しなかった。講義にはほとんど出席していたが、必須であった倫理はしばしば欠席していた(「人類以外も同じく大事にする」という考えが受け入れられなかったためであるという。本人はこの選択を悔いている)。教授ともしばしば議論を交わし、友人からは「ウェスタスフォール(議論バカ)」とあだ名されていた。

 1年生の10月、彼は昼食時間に居眠りをした。このときに「目に見える重力が『爆発』して焔陽星系が揺れる」という奇妙な夢を見て、重力波の存在を非論理的に悟った、という。重力波の存在を教授に伺ったところ、「存在は予期されているが未だ実測されていない」と返されたため、重力波を観測して発見することを志す。図書館においてある物理学の書籍を読み漁った。このころ、同級生であるザヴァドン=ロイリーシュ(Zavaddon Roiliix)から告白された。断るつもりであったが、(答えられないだろうと思って)交際する条件として課した3つの物理学にまつわる質問に彼女が完答できたため、交際することにしたという。三年生になってからはついでに化学も独学していた。

 1614年、物理学科を第三位で卒業。続いて大学教員試験を受け、数学・物理学の大学教員免許と数学・物理学・化学の高校での指導免許を得る。一年間のギャップ・イヤー(実質の浪人)の後、セレシュルケン大学院に入学した。執念を込めた勉強と研究により3年半で院を卒業し、博士資格を得た。趣味の工作中のミスにより、偶然、固体におけるトンネル効果を発見した。

大学教員~重力波の発見

 博士資格を得た後は、セレシュルケン大学の助手として働き始めた。同時にロイバ大学で非常勤講師を務めた。講義では、説明そのものはうまかったが、口調が良くない上に、寝ていたり私語をしていたりする学生を積極的に叱っていたため、人気は低かったという。人類中心主義的な発言もそれに拍車をかけた。

 1618年9月、重力波を理論的に証明する論文と、そのついでとして、観測可能な宇宙に存在する陽子の数のより高精度な推測 に関する短めの論文を書いた。重力波そのものは紋令の物理学者、大印刀(1582~1639)により予測されていたが、彼の論文により、重力波の存在がさらに確実となった。化学を同時に独学し、さらに劇薬取扱資格も取得していたため、化学においても修士相当の学力を持っていた。彼はたびたび、地方の科学実験教室で講師を務め、臨時の収入を得ていた。

 ロイバ大学を1621年に辞めた後、レイトガイジェン政府からアルゴイレレスの皮膚の有効活用(アルゴイレレスの皮膚は死後数日で急速に劣化し、弾性が著しく落ちる)に関する研究に加わるように要請された。レイトガイジェンの化学者には政府に協力することをためらう者が多かったため、彼に白羽の矢が立ったということである。人類中心主義者である彼は、人類の利益になりそうなこの研究を歓迎した。8ヶ月の研究ののち、彼の研究チームは、水酸化ナトリウム水溶液や数種類の有機溶媒などを混ぜた液体に、一週間ほど皮膚を漬けて熱し続けることにより皮膚の劣化を防ぐ「塩素沈着法」を開発した。

 その後はすぐにセレシュルケン大学に戻った。塩素沈着法の開発の栄誉を称えられ、この時に助手から助教授に昇格した。昇格後、一ヶ月でかねて交際していたロイリーシュとの間に長男であるサウビンホード=レッシェンパルン(Saubinhaod Rexemparn)を授かる。さらにトンネル効果の発見が目に留められ、翌年には教授となった。教授になっても性格は変わらなかったため、厄介者扱いされていた。

 教授になった彼は、長年の目標である重力波の検出に本腰を入れて勤しみ始めた。サウビンホードは彼自身がリーダーとなる研究チームであるSBEH(スベッハ)を創立し、検出を目指した。SBEHには、最終的に556人の科学者が参加することとなった。当時の科学技術では、重力波を直接検出できる装置はなかなか作り難いと考えられていたが、サウビンホードは人類の可能性を信じて疑わなかった。

 SBEHの重力波望遠鏡(SBVJ)は、レーザーを利用する方式である。全長は3ゼドクダム(約4300m)であり、陽子一個分のずれも検出できるほどの精度を誇っていたが、なかなか検出することは叶わなかった。稼働から2年経った1629年にSBVJを改装し、高精度な観測を可能とした。SBVJは人為的な偽りの検知を防ぐため、セレシュルケン郊外32kmのところに置かれていた。検出の確実性を高めるために、セレシュルケンから約120km離れたところにあるハプツミーにも同じ設備が置かれた。研究チームは日々重力波の検知のために全力を尽くした。あまりに研究に熱中したため、サウビンホードの睡眠時間は一日あたり5時間を切る有様であった(もともと彼はショートスリーパーであったため、あまり支障はなかった)。
 そして、ついに1632年2月13日午前10時57分、SBVJは重力波の信号を検出した。ハプツミーのSBVJも僅かにずれて検出した。この誤差を確かめることで、検出された信号が確かに重力波であることが確認された。彼はこの重力波の直接検出を、「人類の叡智によって成し得たもの」とたいへん称賛した。

 サウビンホードを含む計4人のSBEHの物理学者は、1632年にザイレツィヌス物理学賞、モッソゼード基礎研究賞を受賞した。サウビンホードは代表として20分間のスピーチを行った。

以後

 サウビンホードはレイトガイジェン国民栄誉賞を受賞し、カンゲルヤーク中央大学名誉教授職と、セレシュルケン大学特別教授と、レイトガイジェン物理学協会理事長の職を得た。物理学賞受賞後は物理学の研究活動を減らし、化学や生物学を趣味代わりに究めた。

 1940年12月、老化による体力の衰えを理由としてセレシュルケン大学を辞職。最終講義には500人以上が集まり、講義室が人で溢れかえったという。現在は時折、科学教室の講師や、予備校の講師(非常勤)を務めている。1642年にはエセ科学の検証を動画サイトの自身のチャンネルで公開した。

人物

 とにかく徹底した人類中心主義者であり、ガイア理論のことを「太球が意志を持っているわけがない」と真っ向から否定している。動物倫理に基づく菜食主義も批判している。SNS上では頻繁に人類の知能や叡智、理性を讃えている。ただし、サウビンホードは生物学にも造詣が深いため、ある種の生物が人間より優れた面を持つことは認めている。彼は理性と知性の信奉者ともいえる(本人がそのように発言している)。そのため、彼は理性や知能を育もうとしない人間は嫌っている。

 工作と街路散策の趣味は今でも続けている。月に一度は、首都カンゲルヤークを訪れて散策するという。

発言

「科学とは人類の絶えることのない探求の意志である。」……ザイレツィヌス物理学賞受賞時のスピーチでの言。

「重力波の検出は人類の叡智のみが成し得た偉業である。」……同上。

「人類の叡智の結晶たる科学と教育を3番目に置くとは、人類を石器時代以前の劣等生物に戻したがっているのか? 馬鹿め。」……テリエーレ連邦が教育と科学に充てる予算を削ると発表したことに対する発言。

「私は馬鹿が嫌いです。といっても、人間であっても最初はみんな馬鹿ですが。まだ学んでいないとか、何らかの事情があって馬鹿を脱せないのは仕方がありません。だがね、そうでないのに馬鹿を直そうとしない人間はダメですよ。そういった人間は、この惑星で人類のみが遥かに優等な理性と知能を持った生物であることに見向きもしない。惜しいものです。まったく、理性と知能を伸ばしたがらない人間は、人間である必要がない。」……1942年4月、テレビ番組での発言。頭が良くないことを自慢気味に表明した若手俳優に対するものだった。この発言はかなり物議を醸したが、彼は決して謝らなかった。

「私は理性と知能の信奉者です。」……SNSピーセスでの発言。