ハシュビレ彗星災害

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前置き

ハシュビレ彗星災害は玄暦1638年4月29日16時19分(紋令大帝国東部標準時による)に発生した全球規模の超巨大災害である。このページでは彗星災害の詳細、その他現実での事柄について書く。度量衡は全て地球のものに変換した。

災害の詳細

ハシュビレ彗星

 ハシュビレ彗星は極めて長い周期を持つ長周期彗星である。この彗星の核の一部が崩壊し、太球へ落下したことによりこの大災害が発生した。ハシュビレはイェッタリン系紋令人の天文家、Haxubile=Jat(ハシュビレ・ヤット)の名前をとったものである。

・発見者:ハシュビレ=ヤット(紋令大帝国, 紋令名:快農冷 來)

・発見日:1638年2月21日

・核の直径:短径32.9km±0.5km、長径49.7km±0.8km

・密度:1640kg/m³

・離心率:0.98745796

・近日点距離:0.7235Au

・遠日点距離:210.5Au

・軌道傾斜角:98.1度

・公転周期:1023.7年

・前回近日点通過:玄暦898年

・太球最接近距離:0 (彗星本体は0.25Auまで接近)

 ハシュビレ彗星は彗星としては珍しく、核に5パーセント程度の金属を含んでいると考えられている。そのため、陰謀論者の中にはハシュビレ彗星は人工天体だったという説を主張している者もいる。


経過

 前回の接近である898年には、ハシュビレ彗星は-3等星程度まで明るくなったと推測されている。接近時は夜空を華やかに彩り、『麗源民族記』や『ヴェッツィアの日記』など、数々の歴史書にその名を遺した。前回の接近時にこれを発見したのは、一般にはタゴマスの学者であるレコーシャ=カライクとされるが、今回発見したのはハシュビレである。

 そして、前回の記録から今回の接近でも非常に明るい彗星になると思われ、天文家を中心に世界中が大きな期待を寄せていた。現実にも、発見時に16等星だった彗星は、4月の下旬には3等星にまで明るくなっており、肉眼でも見えるほどになっていた。739年ぶりの彗星の再来は、世界を湧かせる一大イベントとなった。

 しかし、太球との距離が1.1Auを切った4月21日、彗星の核の一部が崩壊したことが確認された。それだけであれば、ただ彗星が少し暗くなるだけで済んだのだが、現実はそうにはいかなかった。なんと、剥離体は太球への衝突コースを取り始めたのである。剥離体の長径2.2km程度と推測され、世界宇宙調査局(SGD)により、衝突すれば人類史上最大の天文的災害となることは避けられないと発表された。世界はお祭りムードから一気に絶望の大混乱に陥り、終末論者が踊り出てきたり、世界各地で犯罪数が激増したり、はたまた敬虔な信者が一斉に神に救済を祈ったりしたりと、凄まじい混沌の様を呈し始めた。21日から衝突までの8日間で、3万人もの自殺者が出た。

 天文家や科学者は剥離体を逸らせうる要素がないか幾度も研究を行ったが、目ぼしい結果は全くでなかった。剥離体を核兵器で破壊する案も提唱されたが、迎撃の困難さや、その副次的被害の大きさなどを鑑みると、到底不可能であるとして却下された。こうして、人類はまともな対策もできないなかで、衝突の時を待つしかない状況へと陥ったのである。


 そして、4月29日16時19分26秒(紋令大帝国東部標準時。±2秒の誤差あり)、ついに剥離体は紋令大帝国の大都市の一つである水鐡(シュイティン)市高院区東部に、角度51度、42km/sという高速で衝突した。衝突の直前には、焔陽よりも明るく輝き、隕石雲を作りながら落ちていく剥離体の姿が現地の住民によって撮影されている。

 衝突の瞬間、TNT火薬換算で193万2000メガトン(広島原爆1億2866万発分)、ジュールにして8.06 x 10 21 Jという途方もないエネルギーが放出された。爆心には直後に直径33kmにも及ぶ巨大な火球が形成され、水鐡市を中心とした周囲30km程度の地域は瞬時に消滅した。衝突時の火球の温度は700万度圧力は50万気圧に達した。

 続いてその衝撃波により周囲250kmにある全建築物が跡形もなく吹き飛ばされ、当然その中にいた人々も何が起きたのかもわからぬまま死亡した。運よく衝突地点から離れていた人々の中にも、火球を直視して失明したり、熱線により火傷を負うなどして負傷者が続出した。熱線は衝突後1秒で600km地点まで広がり、きわめて広い範囲に火災をもたらした。衝撃波は1000km以上を伝わっても未だ威力を保ち続け、4000km離れた家屋の窓ガラスさえ割れたとの記録が残っている。水鐡市から400km離れた定叡の住民の一人は、「地下鉄から地上に出てみると、高層ビル以外は瓦礫の荒れ地になっていて、炎が町中に渦巻いていた。大頑ビル(註)が倒れて、ものすごい轟音と土煙が襲ってきた」と語っている。

 衝突による衝撃波は、太球を50周してなお空振計に記録され、衝突により発生したきのこ雲は遥か1800kmも離れた場所でも視認できた。きのこ雲を自宅から撮影していた人々のうち、約2万人が爆風で粉砕されたガラスにより失明した。衝突音は水鐵市から1万km以上離れたレイトガイジェンの首都、カンゲルヤークでも聞こえたという。砕けた剥離体と太球の一部は空へ舞い上がり、衝突地点の周囲数百キロに石の雨を降らせ、多くの家屋に被害を出した。この剥離体が起こした地震のマグニチュードは9.0と推測されており、この地震で東日本大震災の約0.7倍のエネルギーが放出された。

 衝突地点には直径40km、深さ1.4kmの巨大なクレーターが穿たれ、衝撃により地軸の傾き24.35432度から24.36019度に増加し、1日の長さは0.7秒短くなった。紋令大帝国の東部及び北灘の南部は壊滅し、剥離体の直接的な影響による死者数8400万人、負傷者数4800万人に及んだ。紋令大帝国の全人口のほぼ1割に相当する人数が死亡したのである。

 救援活動は困難を極めた。紋令大陸周辺を回っていた人工衛星はおおむねイジェクタ(衝突で巻いあがった破片)により破壊されており、電波が通じなかった。衝突地点から周囲500km程度の地域では、建築物の破壊に加えて熱線による火災が起こったため、まともに救助隊が近づける状況ではなかった。救助隊は、紋令中部以西と、北灘をはじめとする他国から来たため、到着までに短くとも半日、長い所では1週間を要した。火災が起きていた地域の大部分では、消火はもはや不可能であったため、自然と火が消えるのを待つ羽目になった。

 救助隊は積めるだけの物資を積み、被災地へ向かった。瓦礫の中や潰れた家屋から被災者を救出して治療し、あるいは物資不足に陥っている避難所に物資を供給するなどして、被災者を支援した。機能している病院が近いところでは、重度のけがを負った被災者は病院へ行くことができたが、水鐡市に近いところではどうしようもなかった。そういった地域では、救助隊は出来る限りの手当てをするほかなく、多くの人々が治療の甲斐なく死亡した。主な死因は挫滅症候群と衰弱死、そして熱傷であった。紋令東部の病院は被災者で一杯となり、現地住民の診療に支障をきたすこともしばしばであった。

 文化的被害も甚大なものとなった。数々の世界遺産が爆風や火球により破壊され、再建不可能になるほどの被害を受けた。交通面での被害も大きかった。水鐡市には多くの鉄道が通っていたが、衝突により総延長4300kmのレールが使い物にならなくなってしまったのである。紋令大帝国の被害総額は日本円換算で約700兆円となった。国際連合は4月41日に歴史上初の世界規模非常事態宣言を発令し、国際的に紋令大帝国および北灘の復興支援を行うことを発表するに至った。合計330兆円分の復興支援により帝国の経済状況は当初の予想より悪化しなかったが、1637年の経済成長率は-9パーセントを記録した。

(註)大頑ビル……定叡中心部にあったビジネスビル。高さ120m。

その後

 被害はこれだけに留まらなかった。衝突により巻き上げられた厖大な量の塵が大気中を漂い、2年近くにわたって焔陽光を遮断。空は晴れの日でも白く霞んで見えるようになり、澄んだ青空を見ることはできなくなった。隕石の冬が到来したのである。彗星の衝突後、太球全体の平均気温は1.5℃、北半球の平均気温は1.9℃下がった。1638・39年は「夏の消えた年」と呼ばれ、歴史に残る大凶作となり、餓死者が続出した。レイトガイジェン南部のインジェクス(註)では、平均気温が18℃ある夏の10月に雪が降ったとの記録もある。これは、一方では環境問題である太球温暖化を抑制することにもつながったが、被害の方が大きいのは明らかである。また、巻き上げられた砂塵の一部は人工衛星に衝突し、紋令大陸上空で数ヶ月間にわたって通信障害を発生させた。また、この際、ラシェント宇宙ステーションに直径4.6mの岩片が接触し、数日間連絡が取れなくなる事故も発生した。

 衛星が破壊されたことによる電波障害は、通信が日常生活に必要不可欠となった現代社会に甚大な被害をもたらした。紋令中部~東部の住民は、半年程度携帯が使えない生活を強いられた。BS・CSテレビのほとんどが視聴できなくなり、GPSは機能を失った。気象衛星も2機を除き、紋令上空のものは全て破壊されたため、気象予報に狂いが生じた。これら衛星を必要とする機能は、12か月後の衛星の一斉打ち上げにより解消された。

 経済活動は世界中で著しく衰退し、1638~1639年の世界の国内総生産は推定10.1パーセント減少した。大国である紋令大帝国での恐慌が、世界中に伝播したためである。紋令大帝国の失業率は一時15パーセントに達し、自殺率は55パーセント上昇した。紋令は1637年11月から公共事業の増産や産業の国家統制、失業保険の整備等を一括した政策(大復興政企)を展開し、翌年の9月には失業率を5.8パーセントまで押さえ込んだ。しかし世界的に見ると、大多数の国でまだ経済は復興していなかった。世界経済機構(SDA)によって、経済状況の落ち着きが宣言されたのは1642年12月である。この恐慌により、紋令は世界最強の国の座から引きずり下ろされることとなった。それでもなお、紋令は現在も強国の座にはあり続けている。

 発展途上国では足りない食料を何とかして獲得しようとする人々により治安が急激に悪化した。1638年9月には、過熱した食料争いにより、元々関係の悪かったジエンコトとガレイヴァの間で大規模な紛争が勃発し、その過程で300万にも及ぶ人々が殺害された。そのほかの地域でも、関係悪化による戦争が多発したが、世界規模の戦争は、国際連合の働きかけもあり発生せずに済んだ。先進国でも貧困層を中心に合わせて1300万人以上が死亡し、1638年のレイトガイジェンの経済成長率は-5.3パーセントとなった。餓死者等の二次災害による死者を含めた、当災害における総死者数は1億7100万人(総人口の約2.1パーセント)に達すると推計される。

 現在、衝突地点から周囲約200kmの一帯は完全なる荒野と化しており、帝国により非居住地帯に指定されている。クレーターには徐々に水が溜まっており、いずれ隕石湖となるであろう。水鐡市と鑑武市など、衝突地点付近にあった自治体は物理的に自治体としての機能を喪失したため、凱導(がいどう)縣などの周辺地区に合併された。水鐡市のあるガレトン平原(縦豪平原)にのみ生息していたシュイティンバイソン野生絶滅した。

 次回の接近は玄歴2400~2600年の間と推測される。

(註)インジェクス(Injeks)……レイトガイジェン南部、ザンガスジェッシュ県の都市。地中海性気候に属し、1635年の平均気温は18.3℃である。

参考地図(正距円筒図法)

紋令大帝国の地名は水鐵市以外、新字体転写である。

衝突前

衝突後



備考・こぼれ話

・もし剥離体が数十キロメートル東にずれて衝突していたら、高さ50メートルを超える超巨大津波が発生し、紋令大陸の東海岸とロイムス、ナッセ大陸の西海岸に著しい被害をもたらしたと考えられている。剥離体が陸地に直撃したのは、不幸中の幸いといえる。また、水鐵市の周りに鑑武以外の大都市が存在しなかったことも幸いだった。

・この規模の天体衝突は、約760万年に1回起こるとされる。

・世界滅亡の危機にいたってなお彗星の観測を決行した天文家たちが撮影した映像・写真によると、剝離後もハシュビレ彗星の明るさは-1等級と、非常に明るかったという。彗星の尾の角度は70度を超え、夜空は幻想的な光景となった。

 その後の数ヶ月にわたって、ハシュビレ彗星の本体は空に輝き続け、最後に肉眼で観測されたのは衝突から5ヶ月経った1337年10月21日であった。塵が空を覆っている環境下での観測としては、極めて長期間見られる彗星だったといえる。ハシュビレ彗星は天文史に名を残す大彗星となったが、前述の災害により、その美しい姿が世間で話題になったのは、衝突からしばらく経ってからとなった。

・710兆円は2019年度の日本国国家予算の約7年分である。


・これらの被害は『Impact:Earth!』というサイトで算出したものを基としている。

・ハシュビレ彗星の着想はガンダムシリーズのブリティッシュ作戦(スペースコロニーを地球に落として地球人類を壊滅させる作戦)と映画『君の名は。』による。太球はスペースコロニーを造れるほどには技術が発達していないので、隕石とした。しかし隕石ではインパクトが足りないと思ったので、『君の名は。』から着想を得て隕石から彗星に変更した。最初はもう少し大きな剥離体を衝突させようとしたが、あまりにも被害が大きくなったので縮小した。