セケシヤムス社会主義国

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 セケシヤムス社会主義国瀬:sekexiyamus üyiteragos jüswaki, セケシヤムス・ユイテラゴス・ジュスヮッキ)、通称セケシヤムス(sekexiyamus)は、東ノートムスに位置する社会主義共和制国家。首都はネシヤ(瀬:nexiya)。世界最大の社会主義国である。

概要

 セケシヤムスは世界で三番目、ノートムスで最初に興った社会主義国家である。社会主義政権成立以前も含めると、2600年(地球時間で約3600年)にも及ぶ世界有数の長い歴史を持っている。総面積は約580万km²である。地域によって気候は様々であり、沿岸部は温暖冬季少雨気候や温暖湿潤気候、北部は亜寒帯湿潤気候、内陸部ではステップ気候や砂漠気候が主に分布している。地の大半は古期造山帯か安定陸塊であり、石炭や石油、鉄、銅などの天然資源に恵まれる。

 セケシヤムスの人口は15億1000万人であり、紋令を越えて世界第一位の人口を誇る。GDPは紋令に次いで世界第二位であり、貿易においても五本の指に入る。セケシヤムスは19の州からなり、それぞれの州が州旗および州歌をもっている。名目上は地方分権がなされているが、実質は中央集権的な国家である。

 セケシヤムスの政治体制は社会主義政であり、建国以来、セケシヤムス社会主義党による事実上の独裁が敷かれている。社会主義を破壊する思想や表現などは規制される場合があり、自由主義を是とするレイトガイジェンや紋令などからは批判を受けている(ただしレイトガイジェンには検閲があるが)。社会主義国ではあるものの、市場経済を取り入れた経済体制(折衷経済)を実施しているため、世界屈指の経済大国の座につくことができている。

 セケシヤムスは世界社会主義同盟の中心的立場にあり、その他国際連合、ノートムス諸国連盟などに加盟しており、国際的地位も堅強である。

国家の象徴

 国名と国章と国歌は、セケシヤムス社会主義国憲法の第八章「国家の象徴」に大まかな規定がある。詳細は「国歌、国旗および国章を定める法律」で定義されている。

国名

 現在の正式国名は、セケシ語で sekexiyamus üyiteragos jüswaki (IPA簡易表記 /sekeʃìjamɯs yjiteɾagos ʒysʷakʲ/, 日本語訳:セケシヤムス社会主義国家)である。一般には、簡潔にセケシヤムスといわれる。

 「セケシヤムス」は、セケシ語での sekexi(セケシ:東ノートムス全体を漠然と表す概念)と yamus(~の地、~の国)からなり、あわせて「東ノートムスの国」といったくらいの意味となる。「セケシ」の名は紀元後には既に出てきており、ロイテンツの古文書にも、超遠方の地としてその名が記されている。セケシの語源そのものは明確にわかっていないが、「焔陽」を表す sekki(セッキ)と、「広い」を表す sexiyu(セシユ)が合わさったものという説がある。セケシヤムスという国名となったのは、これが多民族国家であるゆえ、特定の地名に由来する言葉を国名に含むのは不適切であると判断されたためである。

 ロイテンツの国々の多くでは、レフティヤ大王国(詳細は「歴史」で扱う)を語源とした名称が使われる。レーゲン語圏の多くの国では、"Reftia" と呼称される。ただしレイトガイジェンではセケシヤムス政府からの要請を受けて、1626年からSekexiyamus /'sɛkɛʃɪjamus/(正式名称では Sekexiyamus Ceiwoykaizem Jeebrals)と原語に近い発音で呼んでいる。民主社会主義を掲げるヴァイウリアの公用語ヴァイウリア語では、Sekexiyamus /'sɛkəʃamʊs/ とよぶ。

 ほかのロイテンツ州での言語では、例えばタゴマス語で Reftia /'rɛftɪa/、バレデー語では Reftia /'rɛft͡ʃa/、イェッタリン語では Reftya /'ɹeftja/という。いっぽうラシェント語ではスュラミャムス帝国に由来する Zjurlamans /ʒuramans/ という名称が使われている。

 ここからは現実に存在する言語での名称を述べる。

 日本語での正式名称はセケシヤムス社会主義国である。一般にはセケシヤムスといい、漢字による転写は瀬景写務水で、略して瀬国とよぶ場合がある。英語では State of Socialism Sekeshiyamus /'steɪt əv 'səuʃəlɪzm 'sɛkəʃɪjəməs/、ドイツ語では Sekeschijamus Sozialistisches Land /'zɛkɛʃɪjamʊs zo(:)t͡sɪə'lɪstɪʃəs lant/ という。朝鮮語では 세케시야므스 사회주의 국가(漢字併用: 세케시야社會主義 國家)。中国語の漢字では塞克西亞穆斯(繁)または塞克西亚穆斯(簡)と転写する。「セケシヤムス」の部分は、スペイン語で Sekesiyamus /'sekesiʝamus/、フランス語で Sékéchiyamusse /sekeʃijamys(ə)/、ロシア語で  Сэкэшиямус と表記する。

セケシ語における「セケシヤムス社会主義国」の表記。

国旗

 セケシヤムスの国旗は、赤旗の左上に、社会主義の象徴である五芒星、および歯車でまとめられた鎌と槌を記したもので、赤光旗(せっこうき)とよばれる。赤は闘争や革命で流された血、および、労働者たちの社会主義建設に燃える気概を、金色は栄光を表す。

 赤い五芒星は団結の象徴(指導政党とも解釈される)であり、その下にある鎌と槌は、それぞれ農民と労働者を表す。歯車は特に工場労働者を表す。

 セケシヤムス国旗の縦横比は、5:9である。国旗は、国旗法により寸法と使用する色が定められている。16進数で表すと、赤色は ff000a, 金色は ffca18 である。

 故意に国旗を破損した場合、最大で2年の懲役刑を科せられる。セケシヤムス国内で不当に国をデザインにあしらうのは法律で禁じられている。外国人観光客がそういった服やグッズを国内に持ち込んで、没収ないし刑事罰を下されるアクシデントが毎年発生している。

セケシヤムスの国旗(赤光旗)。

国歌

 セケシヤムスの国歌は、社会主義行進曲(瀬:üyiteragos kios broya ユイテラゴス・キオス・ブロヤ) である。全部で三番からなる、イデオロギー色の非常に強い、勇壮な曲調の歌である。1565年制定。作曲は剛健派の影響を受けた作曲家であるシオウ=ゾヤカウィ(siou zoyakawi)が行い、作詞はリフトムら党の幹部が共同して行った。

 セケシヤムスの義務教育学校では、月に一回、教職員と児童生徒の全員で国歌を斉唱することが義務付けられている。そのため、たいていの国民は、国歌を そら で歌うことができる。国民は国歌が流れている間、これを清聴すべきであると国歌法で定められている。

 また、第二国歌として、麗しき祖国(瀬:neyeri tombat jüswaki ネイェリ・トンバット・ジュスヮキ)がある。ゆったりした曲調の穏やかな曲で、純粋に国の自然と国民を讃える歌である。国営テレビで頻繁に流れているほか、政府や役所の建物でもよくかけられているので、国民の知名度は高い。

国章

 セケシヤムスの国章は、焔陽に輝くセケシヤムスの大地の上に、歯車でまとめられた鎌と槌を描き、その上に赤い星を置き、周囲を赤いリボンを巻かれた稲穂でまとめた、典型的な社会主義国家の国章である。リボンの最下段には「セケシヤムス社会主義国」という国名が、巻かれたリボンの左右には「労働者主権」「社会主義」というスローガンが金色で記されている。

 国章を故意に毀損するのは犯罪である。セケシヤムス国内で不当に国章をデザインにあしらうのは法律で禁じられている。

標語

 セケシヤムスの標語は、「社会主義と労働者主権(i üyiteragos, tapekbüngh teoaris, i: ~と, tapekbüngh: tap(手)-ek(繰り返し)-büngh(人))」である。セケシヤムスの建国者リフトムが演説の中で繰り返し用いた語句がそのまま国家のスローガンとなったもので、1595年に制定された。

歴史

 「歴史」の節では、特筆ない限り、現在セケシヤムス領となっている地域およびその周辺も、「セケシヤムス」と称する。括弧内のアルファベットは、特筆のない限りで現代セケシ語だが、場合によっては「~文明」などといった部分は省いている。また、ジヤコアス族とセキ族以外の異民族およびその国家は漢字で音写して表記している(例:キケッツィン→季缺安)が、これは翻訳上の都合で漢字を使っているだけなので、セケシ語では表音文字を用いて表記される。

先史時代から真オークヮン王国の繁栄まで

 太球における人類の始まりは、約480万年前(地球時間約670万年前)に誕生したといわれるカトーウワネス・レンザニスディスという猿人の一種である。猿人は長い時間をかけて世界各地に拡散し、彼らのいくらかは今のセケシヤムス周辺までやってきた。その人々が今のセケシヤムス人の遠い先祖である。南部の都市アルスフォンでは、30万年前ごろの人類と思われるアルスフォン原人の化石人骨が確認されている。

 セケシヤムス(東ノートムス一帯)では15万年前ほどまで原人が生息し、のちに旧人、次いで新人に代わられたと考えられている。先史時代は旧石器時代新石器時代の二つに大別される。

 先史時代のセケシヤムスはヌファド川文明(nufad)が栄えた。およそ五千年前には文明が既に成立していたとされ、首都ネシヤから100km南方に下ったセバスという地域では様々な青銅器が発掘されている。ヌファド川文明は稲作が主であった。ヌファド川の南にあるソワン(sowan)川流域(現在のソワンブラー県あたり)でも文明が興ったが、次第にヌファド川文明に吸収されて消滅した。

 その後、紀元前1400年から紀元前1000年ごろまでムィジカ王国(mwizika teokaris)やアイィテュ王国(ayityu teokaris)という王朝が栄えたと古文書には記載があるが、考古学的な証拠は発見されておらず、伝説的な立ち位置にとどまっている。

 紀元前1000年ごろ、現在のハリブヤス州東部で、セケシヤムス最初の王朝であるパリブ王国(parib teokaris)が興った。パリブ王国は、実在が確証されたセケシヤムスの王朝の中では最古のものである。パリブ王国は、都市国家が集合してできた、都市の独立性の強い、現代でいう連邦制国家に近い国であったと考えられている。パリブ王国は、紀元前620年ごろに建国されたオークヮン王国(okwangh teokaris)によって滅ぼされ、組み込まれることとなった。オークヮン王国は諸侯を統率し、世界でもいちはやく封建制度を取り入れて体制を安定化させようとした。しかし、建国から三十年も経つと各諸侯の力を抑えきれなくなり、結局乱が起きてオークヮンは崩壊し、分裂状態に至った。

 分裂状態は百年程度続き、次に統一国家が成立するまでには紀元前482年のメニト(menito)の活躍を待たなければならなかった。メニトと彼の名将らは武力による圧力と穏健な姿勢とを巧妙に使いこなし、紀元前373年に諸侯をふたたび統一して真オークヮン王国(sibwa okwangh teokaris)を建て、その王を称した。真オークヮン王国は長大な警備体制を作り、西から襲い来る刀苑(トウエン)や嵯来工(サライク)、史錬羽(シーレンハ)といった異民族を撃退することに努め、さらには領土拡大を行った。これは一定の成果を上げ、真オークヮン王国の領土は、最大時でオークヮン王国の1.4倍にまで広まった。また、次いでセレモワート(メニト王の腹心)は農業政策に取り組んだ。メニト王の治世は、平和であった。小規模な盗みや脅しなどはあったが、大規模な殺人や暴動、戦乱などは起きなかった。 

 真オークヮン王国は百五十年以上にわたって、長らく平和を保つことができた。メニト王の死後に王位に就いたメニトダル(menitodar, cf: darは「息子」)以降、思想家テワジューン(Tewazüngh)が創立した下配思想(上は下の者に庇護を与えるべきであるという思想)に基づいた政治が行われ、民草に潤いがもたらされたためである。封建制度が固まっていき、王と諸侯との間で、鎌倉幕府でいう御恩と奉公のような関係性が確立されていった。真オークヮン王国の繁栄は紀元前350年ごろに絶頂へ至った。この頃には、首都ユロトアリー(現在のユロトヮリ(ürotwari))の人口は五十万を突破し、当時では世界屈指の大都市となっていたとされる。

真オークヮン王国の衰退から滅亡まで

 しかし、紀元前300年ごろになると、真オークヮン王国の栄えには陰りが見えてきた。周辺民族の攻勢の激化と、独立機運の高まりがその主因である。嵯来工の長である温架(キオンカ)は紀元前305年に論漠(ロンバク, ronghbak)という国を建て、また、刀苑は緩やかな民族の共同体である符度弦(ヒュードジェン, Hüdojengh)を成立させ真オークヮン王国と対等な姿勢に立とうとした。これによって真オークヮン王国の盤石は揺らぎ始めた。時を同じくして発生した異常気象によって収穫が減ったことも追い打ちとなったといわれる。

 論漠は嵯来工の元来の地であるとして真オークヮン王国西部のシヤポウェを侵略し、紀元前290年までには真オークヮン王国の武将カーブアーと和平交渉を行い、結局これを支配することに成功した。さらに、符度弦の長である亜斗秒(アトベウ, atbeu)は武力を交えた交渉の末、テイヤン切離地(民族自治領に近い)とすることに成功し、真オークヮン王国の国力と威厳はますます低下した。

 嵯来工と刀苑の進行はこれで止まったが、内憂は止まらなかった。土地や資源の不足によって、王と諸侯の従属関係が崩れ始め、諸侯の不満が高まっていたのである。第9代王のミーワトゴン(miiwatogon)はこれを是正するために分班制度を導入し、報酬と引きかえに民衆を動員して森林を開拓させるなどして、いったんは平静を保った。次代のミーワトゴンダル(miiwatogondar)は分班制度を継続した。また、民族への誇りが強く、異民族に自国の地を奪われたことに我慢ならなかった彼は、側近の助言も押しのけて、紀元前250年、真オークヮン王国の覇権を取り戻すための戦争(沙峰・丁揚戦争(シヤポウェ・テイヤン戦争))勃発させた。

 沙峰・丁揚戦争の目的は、シヤポウェとテイヤンを異民族の手から取り戻し、異民族を外へと追い払うことであった。だが、この戦争は強制動員された兵士や作業員の士気不足や、論漠の名将ダダークエの活躍といった要因がたたってうまく進まず、また、食料の徴収も行われたため、大衆は食糧不足に陥って分班制度が不十分となり、その結果、真オークヮン王国はダダークエ率いる2万の軍に大敗することとなった。これは真オークヮン王国の体制を破壊する決定打となった。戦争開始から3年後の紀元前247年、シロバ大班の乱が起こり、ミーワトゴンダル王は側近アーゴの裏切りに遭って殺害され、ここに真オークヮン王国は滅亡した。

分裂時代からレフティヤ大王国の成立まで

 真オークヮン王国の滅亡後、シロバ大班の乱を主導したバフテカス(bahwtekas)は自ら王を称して新アドウェルム(ur adwerum)を建国し、また、イスパル族の酋長であるキザーツォ(kizasso)は首長を称してイスパルバック(isparbak)を建てた。トロンザン(toronzangh)は真オークヮン王国の後継者を自称して続オークヮン王国(kont okwangh teokaris)を成立させた。真オークヮン王国の人望厚い将軍であったミヤリュス(miyarüs)は五百人以上の忠実な部下を連れて故郷フロゲンに戻り、レフト公国(rehwto karis)を建国した。テイヤンはそのまま符度弦の領地となった。その他にも大小様々な国々が乱立し、世は群雄割拠の時代へと突入した。

 まず、紀元前230年に続オークヮン王国がトロンザンの悪政を原因として崩壊し、新アドウェルムに併合された。また、小国は徐々に強勢な大国に吸収されていき、紀元前180年までにはセケシヤムスに存在する著名な国は新アドウェルム、イスパルバック、レフト公国、エノワーグ、ユロード、ブワコエユ、符度弦、論漠の計八か国に収斂した。五十年程度は七国の拮抗状態が続いたが、次第に文化促進を唱えて明明の改革を始めたレフト公国が勢力を伸長させるようになった。ミヤリュスや、シレメヤンク(xiremeyank)といった多くの思想家、技術者に支えられたためである。レフト公国は紀元前118年、諸侯の権力拡大によって集権制度が揺らいでいたエノワーグを滅ぼし併呑した。

 この動きに新アドウェルムのハパゼ王(h'paze)は反対した。彼は明明の改革に倣ってハユラ・ラスの改新を行った。紀元前115年、ハパゼは自ら軍を率いて小国ユロードを滅ぼし、レフト公国への対抗策のはじめとした。しかしこの統合によって旧ユロー域での反発が強まり、国内情勢は不安定化した。新アドウェルムは哲学者ペユタ(peüta)の提唱した罰統思想に基づき、反対活動に対する厳しい罰則を導入して国内の対抗勢力を強引に鎮圧した。いっぽう、論漠は西方への進出戦略を採っ

 新アドウェルムは罰統思想に破綻をきたして国家運営が傾き始めた。これを機とみたブワコエユは紀元前108年、これに侵攻することを決断。当時としては驚異的なスピードで同年中に新アドウェルム西部の都市オリアンまで進撃したが、武将シペーグが統率する都市軍隊に撃退された。ユロードを構成するユロー族は元々ブワコエユを構成する扇仕(センジ)族に反感を持っていたこともあって、新アドウェルム国内の民族対立は軽減され、ブワコエユへの対決で合致することとなった。

 結果、ブワコエユの侵略は成功せず、新アドウェルムの西部一部を占領することができたにとどまった。一年以上をかけて行われた戦争だったが得られたものは少なく、ブワコエユの国力は削がれてしまった。いっぽう新アドウェルムも安泰ではなかった。戦争が終わり、民族対立が再燃しはじめたためである。両国は互いにかるく対立したままで十年以上現状維持を続けた。

 この状況をイスパルバックは狙った。イスパルバックの王エトブ(etbu)は紀元前81年に隣接するブワコエユに侵略を開始。ブワコエユは全力で抵抗し続け、双方合計して五十万を超える膨大な死者を出しながらも、最後は紀元前79年にブワコエユの滅亡で戦いは幕を閉じた。この戦いを分界嶺の一戦という。ブワコエユ滅亡時点でセケシヤムスに存在する国家は新アドウェルム、イスパルバック、レフト公国、符度弦、論漠の5つにまで減少した。論漠はやがて分立され、紀元前70年頃にはそれぞれ是芳(ゼハート)と把朱(ヴァーシュ)となった。

 新アドウェルムは勢い猛で、カリスマ的軍師であったセケュフ(sekühw)の活躍で領土を広げた。新アドウェルムはイスパルバックとはじめ同盟的な関係にあったが、レフト公国の謀略家ベトの働きかけにより紀元前67年にイスパルバックとの同盟関係を放棄した(伊玲の頸斬捨て)。ベトは新アドウェルムをとりあえず味方につけ、時期が来たら滅ぼすことを画策していたという。この時代、レフト公国、新アドウェルム、イスパルバックの国力(人口、自然資源、経済力などを勘案したもの)の比はおおむね7:4:2程度であった。イスパルバックは分界嶺の一戦で国力を失っており、三国の中で最も脆弱であった。

 結局イスパルバックは新アドウェルムとレフト公国の挟み撃ちにより紀元前64年に滅亡した。旧イスパルバックの領土はこの二国で分かち合うことになったが、どこを境界とするかの問題が発生した。レフト公国の大公ミヤリュスバオア(miyarüsbaoa, cf:baoa「孫」)は戦いの貢献度を勘案して3:2で分割すべきと主張したが、セケュフは半々にすべきと主張した。すり合わせは難航し、最後はセケュフが獲得を必定とした拠点ランブを入手することを条件としてレフト公国の案を受け入れた。だがこれにより、二国の関係は悪化した。

 紀元前63年から把朱が新アドウェルムに対して侵略を開始した。新アドウェルムは自前の軍事力により侵攻をはねのけることに成功したが、国土の1割程度を喪失した。さらにここにセケュフ軍師とエトブ王の死去が重なり、新アドウェルムは揺らいだ。レフト公国はこの機を狙い、同盟を放棄して紀元前361年に新アドウェルムに対する戦争を開始(ザペンの裏切り)。新アドウェルムは紀元前59年に滅亡した。

 これによりセケシヤムスを支配する統一王朝がはじめて誕生した。大臣ヤゴダルの提案により、ミヤリュスバオアは国号をレフト公国からレフティヤ大王国(rehwtiya nwaggem teokaris)に変更することを決定し、自らその君主を名乗った。レフティヤ大王国の成立により、200年近く続いた分裂状態は終了した。

レフティヤ大王国の成立と繁栄から崩壊まで

 ミヤリュスバオアはまず、長きにわたる戦乱で荒廃していた国力を回復させることから始めた。

 彼は全国の農民に農作の拡大を指示し、未開墾の土地を開墾した者は所有権を与えると明言した。この政策を地開きという。続いて彼は各地でバラバラだった単位の統一に取り掛かった。彼は度量衡の原器の作成を命じ、当時としては驚異的な精度でこれら単位(重さ:ファイ hwai 長さ:ゼム zhvem 容積:ジルト jirt)を定義した。また、文字改革にも取り組んだ。これらの動きをクヮオソヤの改新といい、ミヤリュスバオアが熱心に取り組んだ改革であった。だが、クヮオソヤの改新は急進的であり、地方に浸透するまでには3年程度を要したほか、いきなり単位が統一されたことによる混乱・反撥が生じ、政府は対応に追われた。

 また、レフティヤ大王国の地方行政は中央集権で決定された。王国は40の県に分けられ、中央から任命された県長がこれらを治める制度が取られた。県が法を定めることは許されず、全て国家中央が制定した法律に従うものとされた。レフティヤ大王国は新アドウェルムが導入した罰統思想を緩めたうえで取り入れた。これが現代にまで続く法治の基礎となった。

 地開きの効果があることは十年程度で明らかとなった。各地の農場で穫れる作物を効率的に運搬するため、大臣テングジートは道路の建設を指示した。さらに異民族からの防衛も必要となり、レフティヤ大王国は徴発制度の導入に踏み切ることとなった。徴発制度により、一般の人々は租税として作物や布製品を国家に差し出す(租庸)か、あるいは使役労働(近場のこともあれば、数百キロメートルも遠くのこともあった)を強要された。この制度は農民に大きな負担を与えたが、法律の実施などもあって大規模な叛乱を起こすには至らなかった。開墾した土地が自分のものになるという点も叛乱をおさえた一要因である。当初、土地の所有は一代限りだったが、時代を経ると二代までに延長された。

 ミヤリュスバオアは紀元前50年に逝去し、後を息子のテオミヤリュス(teomiyarüs, cf: teo「上」)が継いだ。ミヤリュスバオアの遺言により、彼の墓は大王としてはかなり質素なもので、民への負担は極力抑えられた。テオミヤリュスは自らのことをレフト二世と称した。レフト二世は引き続き国力の増強に取り組んだ。彼は法治を機能させるため、新たにバースヤイムス(baasfhuyaimus,「裁く所」の意)という、罪人をさばいたり行政が不正を行っていないか監査したりする専門機関を各県に設置した。バースヤイムスの従業者は県長が任命した。

 さて、レフティヤ大王国は中央集権であるとはいっても、実際には昔から地域を治めていた氏族の勢力も強かった。レフト二世は氏族を勢力下に置こうと企んだが、その試みは失敗し、紀元前44年には一部氏族が小規模な乱(ロベの乱)を起こすまでに発展した。ロベの乱を起こしたロベ家当主は死刑、家族は流刑となり、ひとまず分裂は防がれた。レフト二世は弥縫策として氏族に限定的な統治を許した(のちのち権限を狭めていく予定だった)。

 氏族の協力、気候の安定、異民族の侵略停止(是芳や把朱は西方へ関心を向けていた)などにより国家情勢は安定した。農業生産量は年を追うごとに上昇していき、紀元前30年には食料が余りすぎたため租の割合を減らすまでに至った。レフト二世の前中期の治世は現在でも高く評価されており、「ハギヌの治」と呼ばれる。急進的に行われる予定だった防衛長城の建設はゆっくりと進められた。貨幣制度も普及し始め、従来よりも効率的な経済が実現された。この時期はサーザクオシンバヤといった詩人が活躍し、文化的にもこれまでで最高の隆盛を誇った。

 レフト二世は初老に入るとこれまでの質素気味な生活を改め、卿大殿という大宮殿の建設に着手した。先述するように国家情勢が安定してきたため実行されたものである。レフト二世は性急な性格ではなかったが、部下のワーポン(waapongh)をはじめとする官僚の一部がむしろ固執し、人々を強制労働にかり出した。卿大殿の建設そのものが国家情勢に直ちに影響を与えることはなかったが、レフティヤ大王国の崩壊の遠因になったと考えられている。

 レフト二世は紀元前18年に死亡し、大規模な葬儀が行われた。墓には二百体の動物が生贄に捧げられ、さらに側近三人が後追い自殺をして共に埋葬された。レフト二世の次にはテオミヤリュスダル(teomiyarüsdar)が即位した。彼はレフト三世とは名乗らず、テオミヤリュスダル大王と自称した。

 テオミヤリュスダル大王の時代は良く安定しており、「ハギヌの治」に次ぐ良い治世として「ドゥサーイェの治」と呼ばれる。全国各地を結ぶ道の建設が進み貨物や人々の輸送・移動が順調に行えるようになった。このほか、セケシヤムスでも一二を争う名詩人のゲットザクワ(gettozakuwa)や、こちらも著名な画家として知られるペイタが活躍した時期もドゥサーイェの治の時代であった。続く時代も安定の時代で、軍力増強が図られた。

 テオミヤリュスの次の次に即位したのは弱冠18歳のテオミヤリュスバオアであった(34年)。雅名ツノクで知られる彼の時代は戦いの時代であった。第一に、符度弦を倒して紀元前20年に成立した遊牧民族国家の輩不牢(ファイブロエ)が、44年に東方侵略を始めた。ツノクの摂政軍師であるスュパーヤ(süpaya)は軍を動かし、侵略を防ぐことに成功した(一片庁の戦い)。次なる侵略に備え、レフト二世が建設を指示していた長城の完成が急がれた。これらの政により、人々の負担は以前よりも上昇した。

 50年に輩不牢は再び侵攻してきた(二片庁の戦い)。輩不牢の名将カガベラの戦略で奇襲を仕掛けられたレフティヤは軍が急所を突かれ、一時は国土の12%を占領されてしまった。一年の戦いの末、国土の殆どを回復することはできたが、レフティヤが受けた損害も大きく、二片庁の戦いを境にしてレフティヤ大王国は長い衰退期に入る。総じてツノクの時代はレフティヤ大王国の国家制度の欠陥が表に現れようとしている時期だった。

 時代は進み、65年頃に隣接する孤島でパルティヤ(parutiya)という民族国家が誕生した。パルティヤはレフティヤ大王国と交易を求め、伏服の礼(ふっぷくのれい)をもって主従関係の中で正式な交流が始まった。70年に把朱が指導者を失って瓦解すると、レフティヤはこれを滅ぼして国土に組み込んだ。さらに勢いづいた同国はかつて切離地となったテイヤンを統一することにも成功し、紀元前28年にレフティヤ大王国は最大版図を実現した。

 さて、レフティヤ大王国の滅亡の原因となったのは急進的すぎる改革であった。81年、ショウア王が即位した。彼は国内改革を唱え、車輌規格の統一、文字の標準化、法律の厳格な履行を軸とする三急の改革に踏み切った。これらは以後の王朝にも影響する重要な改革ではあったが、あまりにも急激に行われた(三ヶ月で行う目標であった)のでクヮオソヤの改革以上の反撥が起きた。特に旧ユロード域で用いられていた表語文字の廃止は反対が大きかった。

 さらに彼は三急の改革を潤滑に行うため氏族の弾圧を開始した。この政策はレフティヤにとどめを刺し、127年に旧新アドウェルム領を支配していた五つの氏族が叛乱を開始、他の氏族も追随して最大規模の叛乱であるアリス・ムマスの乱(aris mumas)が発生した。レフティヤはぎりぎり叛乱を鎮圧することには成功したが、もはや統治力はないに等しくなった。レフティヤ大王国は地方分権が進み、連邦に近い状態となって、最後には首都アクスワビュ(Akuswabyu)でショウア王が幽閉され、叛乱指導者のシーホー(xiihoo)が実権を掌握し、129年にレフティヤ大王国は滅亡した。

三国連続時代からアデルム帝国の建国まで

 レフティヤ大王国はアデムサイレン・シオズ三つの国家に分裂した。戦乱がしばらく三国で続き、これらの再統一は166年まで待たねばならなかった。ハウビ(haubi)はその優れた人望と頭脳でこの三国をまとめてペジャユルク(pejayurk)という連邦国家を建国した。だがペジャユルクはハウビの統治力があってはじめて成立していたようなものだったので、181年に彼が死去すると不安定化し、小康状態が続いたものの198年に滅亡した。

 この後も統一王朝の成立と短期間での崩壊が二度繰り返された。戦乱が続いたこの不安定な時代のことを三国連続時代と呼ぶ。とりわけ三代目のソミガという国家はテンバーキという宗教者が建てたものだったが、宗教政治を強引に進めたため特に短命で、220年に誕生し231年に滅亡した。三国連続時代では文化が大きく衰退し、都市は荒廃した。また、210年には南方民族がメラザムという国家を建てたほか、西方異民族、史錬羽(シーレンハ)の指揮者である盗零(バットラエー)が遊牧国家の卑頑嬢(リーガンジョ, riganjo)を建国した。

 三国連続時代に終わりを告げたのはバーリェダ(baaryeda)であった。ハウビの統治や戦術を書物で学んでいた彼は、かねてより安定した統一王朝の建国を志す人物であった。テンバーキの政治に反感を抱く同志を集めた彼は、叛乱を決意した。229年、拠点のレーアで反旗を翻したバーリェダ軍団はこれを支配下に置き、当時ソミガの重要な拠点であったバイスランドを陥落させた。この一連の叛乱を潔血の乱という。慌てたテンバーキは軍を動かし、叛乱を抑えようとしたが、ソミガの宗教への傾倒など複数要因があって武力が十分発揮できず、バイスランド東でリュバイスの決戦にて敗北を喫した。これを機に各地で不満が爆発、テンバーキは首都テヨ(teyo)で拷問の末に殺害され、ソミガは前述の通り231年に滅んだ。

 だがテンバーキに賛同する残存勢力はまだ存在したため、建国にはあと一年を要した。南部の残党を破ったバーリェダは、テヨに戻って233年の年始に新たな国の建国を宣言した。新アドウェルムを建国した民族の出身であった彼は「アドウェルム」に倣い、国号をアデルム王国としようと思っていたが、部下の進言により、「王」よりも上、セケシヤムスの自然宗教で世の支配者を意味するソワキテカス(sowakitekas)を名乗り、アデルム帝国(aderm sowakitekas jüswaki)を建国した。

ルム帝国の繁栄から滅亡、十国対立状態の開始まで

 バーリェダ帝は三国連続時代で疲弊した国力の恢復に着手した。叛乱に参加した戦士たちを各地に割り当てることで兵力が十分であったので、使役労働のうち兵役や遠方労働を廃止し、庶民にとって大負担となる遠距離移動を減らした。また、彼は三国連続時代に途絶した戸籍の作成を命じた。さらに、女性や未成年の男子(15歳以下)の売買を禁止する人売り禁止の法を発令した。

 また、バーリェダの治世では官吏登用の制度が整備された。それは貴与試法(きとしほう)という名で、身分に基づいた一次選抜と試験に基づいた二次選抜で構成される方法であった。貴与試法により、従来よりも良質な官吏が増加した。地方行政については、レフティヤ大王国と同じくを基本単位とする中央集権志向の統治が行われたが、ショウア王の失政を踏まえて地方へ多少分権された。

 対外政策では、一度絶えたパルティヤとの交流を再開し、パルティヤからの学習団を受け入れた。そのほか、メラザムとも関係を設立した。メラザムには下公館(シー公館)を置き、間接的に統治した。西方の異民族については、当時存在した国家は嵯来工の後継である象丙(ゾウヘイ)が建てた季缺安(キケッツィン)、騎馬民族の常火(ジョウクヮ)が建てた馬偏(ヴァーペン)の二つが有力であった。このほかにも4つほどの小規模な異民族の群れが存在した。このうち馬偏はアデル厶帝国に帰順し、交易が行われた。

 アデル厶帝国の二代目皇帝は即位後わずか三年で夭折し、三代目にはバーリェダの甥であるテオジェイ(teojei)が就いた(255年)。この時代の特筆すべきことは、テイダネシュ教が帝国に流入してきたことである。テオジェイ帝は157年に大遠征を行い、南部のタノテンカ(tanotenka)まで到達した。この際に当地で信仰されていたテイダネシュ教が知られることとなった。テイダネシュ教は道徳的に生きることを軸に据えた宗教であり、セケシヤムスで従来信じられてきた自然宗教の考えと似ているところがあったため、260年代から徐々に国内へ広まった。

 テオジェイの時代にアデル厶帝国は繁栄した。260年には学術官僚のスクバライ(skubarai)が進化した製紙法を発明、書物の製造が従来よりも非常に容易になり国家の発展を促した。パルティヤから献上される高品質の鉄資源は武器の鍛造などに用いられた。河川流域での水車の利用も増え始めた。こういった事情から、テオジェイの治世を「文明の治」ともいう。

 文明の治は、文化的には、画家ギュザエリや詩人シャードが活躍した時期でもある。『煙家』『都白』といったシャードの詩は現在でも有名であるほか、メラザム出身の軍人ヴィエシュタラーニユは様々な実生活に即した詩をつくった。

 だが、第五代皇帝のテオジェイバオア(teojeibaoa)の時代からは徐々に勢いに陰りが見えてくるようになった。まず問題となったのは官僚の腐敗だった。当初は試験が十分な効力を発揮していた貴与試法だったが、時が経つにつれて身分が重要視されるようになり、最後には試験はほとんど形式的なものとなってしまった。このため身分にあぐらをかき、利益のみを求める奸臣が増加、次第に賄賂が横行するようになった。季缺安の勢力増強もアデル厶帝国の悩みの種であった。

 321年、第八代皇帝オロヤフ(oroyahw)は自ら政策をすすんで行い、季缺安に対処するために徴兵制を復活させ、さらに奴隷制度を導入した。奴隷の対象となったのは従来から差別されていた人々や、犯罪者と親しかった者などであった。国力の増強と国家の安定を目標としたこの政策は、ひとまず成功裏に終わった。いっぽう第九代皇帝オロヤフダル(oroyahwdar, 在位340~350)と第十代のテオオロヤフダル(Teooroyahwdar, 在位350~361)は暗君であり、エレボトーバッタといった奸臣が政治を専横したため国力は低下した。

 さらに、宦官の勢力増長もアデル厶帝国に悪く働いた。はじめ後宮のために犯罪者を登用して取り入れられた宦官制度は、次第に政治の中枢に食い込むようになった。第十一代皇帝バロウトは宦官を重用した。バロウトは宦官の権力を制御しつつこれを用いたので政治に変動はなかったが、その後の皇帝は宦官に政治を任せがちになった。ただ、この時代(330~380年くらい)は気候が安定しており、西方異民族の侵略も僅かだったため、国家転覆には至らなかった。

 389年に即位した第十八代皇帝イズパキ(izpaki)は宦官が猛威を振るっている現状を憂慮して、皇帝の復権を目指した。彼は宦官の業務範囲から政治を除外し、500名の宦官を解雇し、自ら政治を勤勉に行ってこれを実現した。しかし次代皇帝イズパキダ(izpakida)は仕事を行う体力に欠けており、再び宦官を広く用いてその勢力を助長した。宦官政治の腐敗は酷いものであり、アデル厶帝国を滅亡させる大きな根源であった。

 アデル厶帝国の滅亡の決定的原因は、奴隷制度の拡張および遠征であった。409年に成立した季缺安の後継国家、先緬(リョーセンミェン)は411年からアデル厶帝国への侵略を始めた。これに対処するため、全国から兵がかき集められ、租税の引き上げが行われた。馬偏と協力して行われた戦いは互角の状態で停戦と開戦を繰り返した。413年には奴隷の対象が反逆者にまで広げられ、軽微な犯罪でも奴隷とされる人々が増加した。

 結果、417年に負担に耐えかねた奴隷と農民による赤帯の乱が発生した。この叛乱は4年もの年月をかけてようやく抑え込まれたが、これにより国家権力は大幅に低下。425年にはアデル厶帝国が掌握している地域は410年時点の三分の一まで縮小した。次第にアデル厶帝国の名は形だけに変貌し、各地に地域ごとの国家が乱立し始めた。そして、最後は433年に第二十ニ代皇帝ルバユンニ(rubaünni)が軍師エバペーに帝位を簒奪され、アデル厶帝国は滅亡した。

 これにより、各地の王国が互いに対立、協力を繰り返す十国対立時代が始まる。

十国対立時代からブローゲン帝国の成立まで

 十国対立時代は後世の歴史書が名付けたものであり、実際には大小あわせて三十以上の国家がセケシヤムスに成立していた。

 アデル厶帝国崩壊直後に存在した代表的な五つの国家を挙げると、異民族である常火呂番斗(ロオバンテウ)、侮疎奴(ブソード)がそれぞれ建てた馬偏(ヴァーペン)、呂番(ローバン)、垓峰白(ガイボビャック)、セケシヤムス本来のジヤコアス族(zvhiyakoas)、セキ族(sfheki)がそれぞれ建てた北ブローゲン(reka broogen)と南アデルム(swam aderm)がある。もちろんこれら以外にも多くの国家が乱立していた。異民族としては上記の三つに追加して、卯範是(ウハンゼ)と呼ばれるやや南方の異民族が存在した。これら異民族4つをまとめて「西の四夷」とよぶ。

 これら多数の国々の歴史を詳細に述べると極めて繁雑になるため、十国対立時代は概要のみを述べる。各地の小国は一部を除いて二十年程度で崩壊し、上記に上げた五カ国をはじめとする大中国家に併合された。西方異民族の侵略が繰り返されたことによってジヤコアス族やセキ族と彼ら異民族の交流は深まり、異民族らのセケシヤムス西部への移住が進んだ。

 南アデルムはテイダネシュ教を受容し、これを人々に広めたが、他の国々は従来の各々の自然宗教を維持し続けた。はじめは馬偏の勢いが強かったが、戦い続きで次第に疲弊していったため、455年頃から垓峰白の台頭が著しくなった。垓峰白の指導者波轍(ヴァーテツ)はジヤコアス族の風習や政治の手法を取り入れ、融和を進めた。このようにして異民族のセケシヤムス化がおこった。

 垓峰白は領土を拡大していき、最終的には525年に北ブローゲンを滅亡させて北セケシヤムスを統一した。ここから主たる王朝は垓峰白と南アデルムのニか国となり、世は南北分裂期に突入する。垓峰白は529年に滅亡したが、531年に直ちに後継王朝の業異通(ゴーイーツ)が成立し、これを引き継いだ。南北分裂期は六十年以上続いたが、南部での疫病の流行や内部紛争などがあって南アデルムは徐々に衰退していき、最終的には594年に業異通が南アデルムを滅ぼし、約160年ぶりにセケシヤムスの統一がなされた。業異通は名をジヤコアスの言葉に似せてガイビヤ帝国(gaibiya sowakitekas jüswaki)と改めた。ガイビヤ帝国はセケシヤムス史上初の征服王朝であった。

 ガイビヤ帝国の初代皇帝に就任したのはシャイレン(歳蓮, xairengh)であった。彼はセケシヤムス本来の民族の風習に染まった人間で、レフティヤ大王国やアデル厶帝国が作り上げた政治・行政の制度をだいたいそのまま引き継いだ。シャイレンは良君で、罪と罰を定義した罪罰対照表の発表を行ったり、東西に流れる大青河などの大河川の数々を南北に貫く運河の建造などを始めたりした。また彼は宦官を規制し、宦官が政治に入れないようにした。第ニ代皇帝のシャイレンバ(xairenghba, 在位619~644)はシャイレン帝の政策を続行したが、後年になると堕落した生活を送るようになった。

 第四代皇帝のシャイレンバオアン(xairenghbaoan)は648年に即位した。彼女はセケシヤムス史でも希少な女帝であった。この時代に、官僚登用法として貴与試法が試験を伴い復活した。紙の開発という事情もあり、試験にはそれまでの面接試験に加えて筆記試験が加わった。シャイレンバオア帝は貴与試法の一次試験の合格基準をゆるめ、試験による実力重視の官僚選抜を目指した。彼女の在位中に運河東貫大運河)の建設は完了したが、民衆の負担は大きかった。

 シャイレンバオアの次に即位したミノシャイレン(minoxairengh, 在位665~677)は大宮殿の建設を命じた。二十万人以上の人々が強制動員され、合計で七万人がその過程で死に至った。そのうえ、ミノシャイレン帝は放蕩生活を送り、人々が苦しんでいるのも無視して宴会や後宮の側室との性的交際に耽溺した。結果、675年ごろから各地で群雄が蜂起し、最終的にはミノシャイレン帝が677年に自殺し、次に擁立されたサプーワ帝も部下のルヮンディに弑され、678年にガイビヤ帝国は滅亡した。

 678年に旧イスパルバック領の出身だったモソンイ(moswonghi)がブローゲン(broogengh)を建国した。彼は100以上に分裂した諸国を十年近くかけて統一させ、ブローゲン帝国(broogengh sowakitekas jüswaki)の建国を宣言し、初代皇帝(在位687~690)に就いた。

ブローゲン帝国による統一から東西分裂まで

 モソンイは長年の戦いで疲れていたこともあり、国家の基礎を作ったのち、690年に退位した。次に帝位に就いたのは彼の息子のモソンイダル(moswonghidar)であった。モソンイダル帝は貴与試法を発達させ、身分による選抜を廃止した賢誠試験(けんせいしけん)を導入した。彼はテイダネシュ教に入信し、これを保護、人々に布教した。

 また、モソンイダル帝は対外政策に積極的であった。彼は695年に東方へ遠征を行い、西パルティヤを直接統治することに成功、さらに東パルティヤを間接統治に置くことができた。西方異民族の諸国家については、呂番と協力して馬偏の後継となった(ギョウ, リョウ)を697年に滅亡させ、支配下に置いた。

 内政では、モソンイダルがテイダネシュ教徒であったこともあって奴隷制度が廃止された(奴隷還民)。モソンイダルは頭脳明晰な者を好んで登用し、彼らと共同して政治にあたった。農業では分田制を導入し、一般民は、地開きで得たもの以外の田畑は国家から与えられたものでまかなうことになった。

 彼の治世の後期には北東に存在する異民族国家ララセギ(rarasegi)が成立した。ララセギは東パルティヤと対立しており、協力を求めてきたためブローゲン帝国は伏服の礼をもって国交を結んだ。このように、総じてモソンイダル帝の時代は国家の発展と平和が続いたと見られている。

 第二代皇帝の続モソンイダル(kontmosonghidar, 在位713~731)の時代に、皇帝の補佐機関として諮応局が置かれた。これは皇帝が考えた政策などについて、専門知をもった官僚が内容を吟味、意見を上奏する機関であり、当時としては画期的であった。彼は柔和な性格で、民を絶えず慮る人物であったという(後世の脚色が入っていると考えられているが)。結果、この時代にブローゲン帝国は隆盛した。

 第三代皇帝から第六代皇帝まではブローゲン帝国は微衰退の状態が続いたが、第七代皇帝のハッペン(happengh)が765年に帝位に就くと再び発展が始まった。彼は西方の異民族国家をいったん滅ぼし、いくらかは今でいう傀儡国家として独立させた。ハッペン帝の時代にブローゲン帝国は最大版図を実現した。彼は租税制度や行政の改革、賢誠試験の亜種としての誠試験の導入などを行った。対外政策の一環としては、傀儡政権や地方を管轄する機関であるトゥーザミベを置いた。彼の治世は、これをほめたたえて「天慶の治」といわれる。

 ハッペンが生前退位を奨励したため、その後の皇帝は在位期間を10年程度に限ってすぐ退位するようになった。これは第十一代皇帝グルォバム(grwobam, 在位802~811)の時代まで続いた。早期の生前退位は、皇帝の政治への倦怠を防ぐ効果があるとともに、上皇となることによる裏からの権力闘争を増やす原因ともなり、功罪の両方がある。

 このころ、788年には西方に図悩査(ドゥノーサ)という異民族国家が誕生した。図悩査は北方へ進出し、順調に領土を拡大していき、793年にブローゲン帝国と本格的な交流を始めた。

 だが、第十二代皇帝グルォバムダル(grwobamdar)は生前退位を拒み、あくまで逝去まで帝座につくことを主張した。父グルォバムの説諭も無視した彼は、内部闘争に明け暮れて政治をおろそかにした。彼の悪政によりブローゲン帝国の国力は低下したが、先代の遺産があったため直ちに傾国に至るものではなかった。グルォバムダルは最終的に従兄弟のグルォバムダル=テーゼに帝位を簒奪された(825年)ものの、その間に図悩査は伸長し、ブローゲン帝国の国土の一部を奪った。このため彼を失地帝ともいう。

 ブローゲン帝国の政策に行き詰まりが見え始めたのもこのころである。表面上はいまだ強国であったブローゲンだが、土地の不足、戸籍を離れる流浪の民の増加などの国家問題が増えていた。財政策として842年に塩の専売が実施されたほか、税制の再改革が行われた。これらの改革で一度は立て直したブローゲン帝国だったが、ハッペン帝時代の栄華を取り戻すことは最後までできなかった。

 これまでの王朝の滅亡の原因は国内で勃発した乱がほとんどだったが、ブローゲン帝国の滅亡は国外からの侵略によるものであった。870年代に発生し急激に勢力を広げていた遠方異民族の国家である膨缺惧(ヴォーケトグ)は894年にブローゲン帝国への侵攻を開始した。騎馬民族の迅速な動きに対処できなかったブローゲン帝国は北西部を瞬く間に占領されてしまい、国内は大混乱に陥った。

 第19代皇帝へランウ(heranghu)は異民族か否かを問わず軍隊を招集し、侵略への対処に当たった。決死戦が一年以上続いた末、896年に膨缺惧の北東征服指令である羅重雲(ラジューヴン)との和平が結ばれた。この時点でブローゲン帝国の領土は侵略前の4割弱までに縮小してしまった。膨缺惧に征服された部分は分権的に武郎膨缺惧王国(ブロー・ヴォーケトグ王国)を名乗り、帝国は東西(正確には北西と南東)に分裂した。

ブローゲン帝国の滅亡から本来民族による帝位奪還まで

 こうしてブローゲン帝国は一時的には独立を保った。これは膨缺惧の建国者傘令大上王(サンレ大上王)が南方への進出に強い関心を持っており、東方政策は軽視されていたことが大きい。したがって傘令王が死去し、彼の息子傘漠大上王(サンバク大上王)が指導の位に就くと状況は一変した。920年に始まった二度目の侵略(夷猪の驀進)は猛烈であり、ブローゲン帝国は抵抗も虚しく928年に全土を掌握されて滅亡した。

 旧ブローゲン帝国の領土の概ねは武郎膨缺惧王国の名を引き継いだ。初代の王(皇帝ではない)には膨缺惧出身の伊番(イヴァーン)が就いた。彼は中央から来たる指令を受けて政治を行ったが、彼は指令をゆがめて解釈したため、セケシヤムスの人々の風習に反する部分があり、国内は混乱した。伊番のもとではテイダネシュ教の廃教が進められた。混乱もあったが、西方との移動ルートがつくられため文化的交流は盛んになった。セケシヤムスとシェハム教との本格接触はこのときにおこった。

 一度は中央ノートムスから東ノートムスに至る極めて広大な範囲を手中に収めた膨缺惧大上王国は、第三代大上王の勃午(ボツガット)の死去によって領土をまとめる能力を失い、970年には消滅した。だが各地にはいまだ膨缺惧の残留勢力が存在したため、武郎・膨缺惧国は勃午の死後もしばらく存続した。

 この状況を変革させたのは北東出身のトヮズヤリス(twazuyaris)であった。彼はセケシヤムス本来の民族が統治する帝国の復活を熱望しており、武郎・膨缺惧国を滅ぼすチャンスを虎視眈々と伺っていた。じっさい、992年に第六代の王を誰にするかで争いが発生し、1年半近くのあいだ、王が空位となった。後継者争いとこのころ相次いだ自然災害の連続によって国内情勢は揺れた。

 それを利用し、トヮズヤリスは同志セットリカなどとともに正朝団という組織を結成し、理想の実現を目指した。幸い国内情勢の不安定化によって正朝団に賛同する勢力はふえていき、994年に正朝復興の大乱が勃発した。武郎・膨缺惧王国は乱の鎮圧を試み、995年には一度鎮圧することに成功したものの、翌年に乱が再発。正朝団とその賛同勢力は998年に武郎・膨缺惧王国の首都大弥藝都(だいヤグェイと)を包囲殲滅した。結果、同年に武郎・膨缺惧王国は滅亡し、セケシヤムスを占領していた異民族の多くは南西へ逃げ去った。

 だがこの時点では旧ブローゲン帝国領の7割程度を奪還したに過ぎず、南部には異民族が未だ統治する南武郎・膨缺惧王国が存在した。セットリカはこれの平定に乗り出したが、気候の違いによりなかなか上手く進まず、全土統一にはさらに3年を要した。このうちにパルティヤラソンギオ(ララセギの後継)は独立を果たした。最終的に、1001年、トヮズヤリスはセットリカら多くの部下の支持を受けて、ノワロンズ帝国(nowaronz sowakitekas jüswaki)の建国を宣言し、その皇帝となった。

ノワロンズ帝国の繁栄から南北朝時代の開始まで

 トヮズヤリス帝はセケシヤムス史で屈指の名君として知られる。統一後、は外征をやめ、内政に徹した。彼は威厳を保ちつつも忠実な臣下とひざをつき合わせて応対し、多くの人々から慕われた。内政では戸籍を尊籍、農籍、街籍の三つの戸籍に分類し、それぞれに合った租税や法制を適用する三戸籍制度を導入した。トヮズヤリスは、また、徴兵制を復活させて人々を主には近隣の防衛にあたらせた。さらに、テイダネシュ教の復興も行った。

 トヮズヤリス帝は努めて質素な生活を送り、自然と宮殿に住む官僚・側室も華美な生活を避けるようになった。いっぽうで市井の人々が豊かになるのは推奨したので、経済は好況となった。結果、盗みのような犯罪は減少し、太平の世が到来した。トヮズヤリス帝の治世には脚色もあると考えられているが、この時代が豊かであったのは間違いない。

 彼が1020年に崩じると、次をトヮズヤリスダル(twazuyarisdar, 在位1020~1034)が継いだ。彼自身はやや放任的な人物だったが、幸いにも当時の大臣に優秀な人物が多かったため、政治は安定した。大臣テオアジョングは賢誠試験の内容改革を行い、実用的内容をふやそうとしたが、官僚の反撥に遭い、改革は一部の変更にとどまった。

 第三代皇帝トヮズヤリスバオア(twazuyarisbaoa, 在位1034~1052)の時代には、膨缺惧の残留勢力が南西に建てた点戊坐(テンボーザ)がノワロンズ帝国に侵略を開始した。ノワロンズ帝国は60万の兵力でこれを迎え撃ち、司令官の南突(ナントツ)を捕虜とすることに成功した。点戊坐とノワロンズ帝国の間には伏服の礼をもって外交が結ばれた。

 代皇帝の続トヮズヤリス(konttwazuyaris, 在位1052~1059)は貨幣の改革を行い、銀や銅を用いた兌換紙幣であるスォクライの発行を本格化させた。また、彼の時代には技術者フリバによって従来よりも高精度な時計が開発された。1056年、続トヮズヤリス帝は北方の異民族に対処しやすくするため、首都をレカティヤ(Rekatiya, cf: レカ:北)に移した。

 ノワロンズ帝国は第七代皇帝の続トヮズヤリスバオアン(konttwaziyarisbaoan, 即位1066年)の時代に変革を迎えた。彼女は皇帝の権力を大幅に引き上げるために皇帝の補佐機関である諮応局を廃止し、各政治機関を統率する陽制政省を置いた。こうして皇帝の独裁化が果たされた。彼女は1077年から、レカティヤに身分不問の大図書館を建造した。

 以降、ノワロンズ帝国の政治は皇帝の技量にかかることが多くなっていく。名君ライズパキのように政治にあかるい皇帝が帝位に就いているうちはいいが、政治に無関心な皇帝の治世では政治が乱れた。特に第十三代皇帝の続バーリェダ(kontbaaryeda, 在位1104~1124)は悪例である。彼は宮殿に引きこもり、奢侈な生活を送った。これにより財政が悪化し、やむを得ず増税を行う事態となった。

 いっぽうこのころは、外交面では、各国との貿易が盛んになった時期でもある。限井古(ゲンセイコ)や(ドー)、血朱巻(ケッシュクヮン)といった西方異民族の国家、東方のラソンギオやカラポゼム(パルティヤの後継)などの国家と官民で盛んな交流が行われた。首都レカティヤは国際的な都市となった。

 ノワロンズ帝国の勢力がいよいよ衰え始めたのは1160年代である。シャイレ帝の時代は国政が佞臣により行われ、腐敗した。これによって大小さまざまな乱が頻発し、帝国はその対応に追われた。乱そのものに国を転覆させる力はなかったが、鎮圧のための軍事費が多大となり、財政は傾いた。兵士への負担も大きく、徴兵の増加が加わり農業生産力も低下した。

 帝国の衰退に乗じて活潑になったのは北方異民族である。血朱巻は1165年にノワロンズ帝国への侵略を開始した。帝国の名将オイサキが防衛にあたり、数年は戦力が均衡した状態が続いたが、最後はぎりぎりのところで追い返すことに成功。しかし帝国の疲労は大きく、これまで帝国に従っていた周囲の国々が活潑となってくる。

 ノワロンズ帝国の崩壊の直接的な理由は外部侵略だが、それを引き起こすこととなった原因はフィボア帝(hwiboa, 在位1182~1192)の悪政であった。極めて疑り深い性格であった彼は、忠実な臣下の皆々を信用せず、怪しい素振りを見せた者は容赦なく粛清した。フィボア帝が即位した後で殺された官僚は1000人を超える。不幸中の幸いとして軍人はあまり粛清されなかったため、外国の増長は抑えられていた。

 さらに彼は国民をも猜疑しており、刑罰を強化し微罪でも牢獄刑を科す、貴族は罰金のうえで家族もろとも平民に落とすなどといった熾烈な政治を行った。フィボア帝は人間不信のあまり精神に異常をきたし、1192年に自殺したが、この時点で国民が皇帝に持つ印象は最悪であり、彼の悪政は帝国の滅亡をすこぶる助長する結果となった。

 ノワロンズ帝国最後の皇帝となったセンダール帝(sendaar)は傾いた国家を立て直すべく尽力したが、既に帝国の体力は改革に耐えうる状態ではなかった。1194年、撞と血朱巻は共同してノワロンズ帝国へ侵攻を開始した。最初の一年は持ちこたえた帝国だが、1195年に南部でテカイェスが新王朝を建てる乱を起こした。これにより二正面作戦を強いられた帝国は農民の蜂起と相まって著しく衰退、最後は1196年にセンダール帝が国外逃亡したことで滅亡した。

 ノワロンズ帝国の滅亡によって、セケシヤムスの統一王朝はまたもや消滅した。直後は十国程度の国々が乱立したが、1240年頃にはセケシヤムスに存在する国家は巻をもととするシュクヮン帝国(kexkwangh sowakitekas jüswaki)、テカイェスが建てた南サケヤ帝国(swam sakeya sowakitekas jüswaki)の二つに大別された。こうして、皇帝が同時に二人擁立される南北朝時代が始まる。

南北朝時代の概要

 南北朝時代は、ケシュクヮン帝国が北セケシヤムスを統一した1237年から、セケシヤムスが完全統一されてスュラミャムス帝国が成立する1360年までの123年間を指す言葉である。

 まずこの時代で特筆すべきことは、ロイテンツ州の国家との直接接触である。1245年、バレデーを出発し、世界航海を行っていたバルゲンス(バレデー語: Kbargénse セケシ語: bargens)らが南サケヤ帝国に到達した。バルゲンス一行は南サケヤ帝国の港町カッセオ(kasseo)に立ち寄り、ここで始めてロイテンツ人とセケシヤムス人の直接の交流が行われた。翌々年、再びバレデーの使節団が帝国を訪れ、首都アルスフォン(アルソン, 麗: Arsfhon, 瀬: arusfhon)にて皇帝クアイダル(kuaidar)に謁見した。

 また、ケシュクヮン帝国には、バレデーと競争関係にあったフレベヴェ(レーゲン語:Frebeve)から船団が到来し、貿易を求めた。他国の協力を得れば南サケヤに対し有利に立てると考えたケシュクヮン帝国政府は船団の長ヴァイクラムデ(レーゲン語:Vaiklamde)と会合し、友好関係を結んだ。

 南サケヤ帝国の第三代皇帝ボシュマエ(boxmae, 在位1256~1267)は積極的な対外政策を展開した。ダイソハ(daisoha)はバレデーの協力を得て、百隻以上からなる大船団をもって航海に出、多くの地域ないし国と関係を締結して帰国した。だが南北に国家が分裂している以上、あまり海外進出に費用と人員をかける余裕はなく、第四代皇帝ボシュマエダル(boxmaedar)は1270年に対外政策を縮小、これを西方異民族や東ノートムスとの国々との外交のみに限った。

 ケシュクヮン帝国は治水事業を行い、ゴヤ川の決壊を防ぐ工事を行ったほか、南サケヤ帝国に比べて財政状況が不安定であったため税制を改定した。これによって財政は持ち直したが、庶民への負担は重くなった。このころ、東方異民族国家のラソンギオが崩壊し、新しい王朝としてイオザティー朝が誕生した。ケシュクヮン帝国は南サケヤ帝国に先んじて国交を結んだ。

 全体的に両帝国の国力はおおむね拮抗した状態が続いた。バレデーからもたらされる銀によって南サケヤ帝国は栄えたが、次第にパルティヤからも銀が送られ、ケシュクヮンも銀の獲得量を増やした。内政では両国とも似たような政策をとった。

 しかし最終的にセケシヤムスを制覇したのは、南サケヤ帝国のほうであった。1342年に即位したケシュクヮン帝国の皇帝グロンダ(gronda)は、1350年ごろまでは善政を行ったものの、それ以降は耄碌が酷くなり政治を投げ出すようになった。その代わりに国政を取り仕切ったのが奸臣として悪名高いサカルシであったため、国家は傾斜、乱が頻発するようになった。

 ただし、これだけで南サケヤ帝国がセケシヤムスを統一できるほど優位に立てるわけではない。南サケヤ帝国が統一を果たせたのは、ここに膨缺俱の後継国家である新資具(シンシグ, xinsigu)が協力を申し出たためである。1354年に両国はケシュクヮン帝国に侵攻を始めた(南血戦争)。終戦までは2年半を要したが、ケシュクヮン帝国の首都アルスフォンが陥落したことにより1357年に終わった。

 南サケヤ帝国と新資具はここで共同してスュラミャムス帝国(süramyamus sowakitekas jüswaki)の建国を宣言した。帝国は残りの勢力を掃討するのに三年近くを要したが、1360年にセケシヤムスの統一に成功した。

スュラミャムス帝国の建国から最盛期まで

 スュラミャムス帝国初代皇帝のテオキアル帝(大始帝, teokiar, 在位1357~1368)はまず、南北の融和に努めた。彼はケシュクヮン帝国の武将カイバ(kayiba)を起用したほか、かつての敵でも忠誠と服従を誓った者は登用された。彼は民力の涵養に力を注ぎ、農民に対して一時的な免税を行った。さらに、皇帝独裁がノワロンズ帝国を滅びさせる要因となったことを踏まえ、諮応局がふたたび設置された。

 内政においてはここで始めて連邦制がとられ、スュラミャムス帝国は正サケヤ帝国(doot sakeya sowakitekas jüswaki)新資の二つの国家からなる連合帝国とされた。ケシュクヮン帝国時代には廃止されていた賢誠試験が復活したほか、悪辣な官僚は罷免された。地方行政については、州県制が採用された。当時既にセケシヤムスに広く行き渡っていたテイダネシュ教に対しては、減税を行ったがこれまでと異なり免税とはしなかった。帝国政府は宗教者の腐敗を取り締まった。

 第ニ代皇帝のテオキアルダー帝(teokiarda, 在位1368~1377)は先帝の政策を引き継ぎ、倹約に努め、政治に精力的に打ち込んだ。外交に際しては、バレデーとの外交のほか、当時勢いづいていたレイトガイジェン王国(レーゲン語: Leitgaijen Mahtfeinsal)との外交も開始した。このほかパルティヤを倒して誕生したパルーティー王国イオザティー朝とは今まで通りの交易、国家関係がとりもたれた。また、彼の在位中に首都が北方の都市ネシヤ(nexiya)に移された。

 第四代皇帝となった続テオキアル帝(kontteokiar, 在位1380~1405)の時代にスュラミャムス帝国は大なる隆盛を誇った。彼は地方の官吏を監視し、悪辣な者がいれば処罰を下したほか、無駄な歳出を規制し、上級官吏の華美な暮らしを諌めた。彼はこれまでのセケシヤムスの歴史をまとめた『全瀬地史』を自らも関わりつつ編纂させ、都の一般市民に対し教育を与える民教院をネシヤに三つ、新資具に二つ設立した。民教院では、読み書きのみならず歴史教育、技術教育までもが行われた。

 外征においては、1388年から始まった北西への防衛的侵略として津部(ツベル)を攻略し、これを打破、津部王国として組み込んだ。津部は今のソンジヤムス民国周辺である。津部の参加によりスュラミャムス帝国を構成する国家は3つに増加した。帝国は1391年から1398年には続けて西方を攻略、さらに領土を広げた。1403年にスュラミャムス帝国は最大版図を実現した。

 続テオキアル帝は暗愚な皇帝が出ないように、また佞臣を排除するために、諮応局と同等の権力を持つ機関として、官吏監査局を置き、相互に牽制させた。また、勅令により直轄裁判所が各県に一個ずつ置かれ、法律に則った公正な裁判を行うように命令された。

 第五代皇帝続テオキアルダー帝(kontteokiarda)は新資具や津部の力を抑えるため、1406年に中央シェッペム(「シェッペム」はセケシ語で「参拝」とか「参上」といった意味)という制度を採用し、ネシヤへの参上をこれらニ国の貴族に強制した。これに対する反撥は武力によりすぐさま鎮圧された。続テオキアルダー帝は連邦制の継続は困難だと考えており、中央シェッペムはスュラミャムス帝国を中央集権国家にするための第一段階として導入されたものである(もとからこの連邦制は正サケヤ帝国中心の不平等なもので、実際、スュラミャムス帝国が自らを「連邦帝国」「連合帝国」などと称したことはなかった)。

帝国の衰退、近代化の開始まで

 さて、このように繁栄を誇ったスュラミャムス帝国だが、その隆盛も長くは続かず、1440年代になると陰りが見えてきた。主な原因は官僚の腐敗、中央シェッペムや外征による財政の悪化、自然災害である。国家体制が凝固し、抜本的な改革ができなくなっていた。

 このとき問題となったのは外国との付き合いである。1446年、東方への国土拡大運動を続けていたラシェント帝国がついにスュラミャムス帝国領土と接触を果たした。帝国はラシェントとダルヴェリザルト条約(レーゲン語: Talverlisalt Dinsisowas)を締結し、国境を決定することとなった。今まで戦争により領土を雑把に決めていたスュラミャムス帝国にとって、これは衝撃的な出来事であった。

 1460年からロイテンツでは産業革命が起こり、従来とは比べ物にならないレベルの大工業が開始しようとしていた一方で、スュラミャムス帝国の技術革新は停滞していた。太平の世では技術革新はなかなか進まなかったのである。

 帝国の改革はいっこうに進まなかった。帝国の中枢は改革で自らの立場が揺らぐのを恐れる保守派で固められており、そもそも皇帝に積極的ではない者が多かった。内政では特に衝撃的な事件・事故が起こらなかったのは、帝国にとって幸いなことであった。内政面での大きな出来事は、1481年に大臣ケワゼアの上奏によって、新資具と津部が国家としての地位を奪われて州となったことである。この際に新津の乱が発生したが、正サケヤ帝国は3年がかりでこれを鎮圧した。乱の鎮圧後に正サケヤ帝国は消滅し、スュラミャムス帝国の州のいくばくかとなった。

 衰退期のスュラミャムス帝国に大きな衝撃を与えたのは、1508年に紋令大帝國(ミアンダウだいていこく / もんりょうだいていこく)の使者強汪爛(きょうおう らん)がロイテンツを経由せずに直接やってきて交易を迫ったことである。

 強汪は帝国同士の「対等な」関係を締結することを提案したが、紋令上位の内容が入っていることを察知したスュラミャムス側はこれを拒否した。紋令の使節団は1509年の二度目の来航時には武力をちらつかせて条約締結を要請したが、またも断られた。そのうち軍師ジャバンの独断で船団への砲撃が始まり、死傷者を出す事態となった(ジャフアの騒乱)。紋令はここに至り強制開国を決断し、開国戦争に打って出た。両国は1509年のうちに終戦条約を結び、国交の締結と真に対等な貿易の実施が定められた。

近代化から社会主義革命まで

 開国戦争で衝撃を受けた帝国政府は本格的な近代化を志したが、その道は前途多難であった。前述の通り政府に改革に積極的な派閥が少なかったためである。長年地域の覇権を握っていたセケシヤムスの人々にとって、近代化運動は外国に頭を垂れる屈辱的なものと見なされた。

 それでも改革派のディアク帝(diak, 在位1514~1524)が即位すると、ハズビュンク運動(hazbyunk)と呼ばれる近代化改新が始まった。改革の内容は、産業革命の取り入れ、賢誠試験の大々的な改定、外国の哲学・思考の学習などであったが、うち2つ目については官僚の反対により頓挫した。産業革命の取り入れは、職人の反対運動はあったが概ね成功した。また、帝国からロイテンツの各国へ研修生を送り、外国の進んだ技術や哲学などを吸収しようと努めた。

 しかしディアク帝が崩じた後はハズビュンク運動は下火になり、再び保守的な派閥が国を動かすようになった。この後のスュラミャムス帝国では、1536年まで改革派と保守派の対立が繰り返され、国政は不安定な状態が続いた。農業政策も安定でなくなり、庶民の暮らしぶりは悪化し始めた。ロイテンツ各国からの国家的圧力も強まり、スュラミャムス帝国の覇権は衰えた。例えばレイトガイジェンは、1529年に契約違反を口実として港湾都市セアドシを強制租借した(50年間)。

 1537年には再興したハズビュンク運動の一環として帝国議会が設置されたが、実権はほとんどなく、あくまで皇帝などの政策を追認する形だけの機関にすぎなかった。1538年にはスュラミャムス帝国欽定憲法が発布された。このように、政治については、表面上は近代化が進んでいたが内実は旧態依然の状態であった。真に近代化を成功させた稀少な分野は工業であった。軽工業、重工業ともに1540年代に発展を遂げ、スュラミャムス帝国の生産力は国力の衰退とは逆に増大していた。だが、資本主義化は貧富の差を拡大させ、後に社会主義革命を起こす原因の一つとなる。

 数多の抵抗がある中でもハズビュンク運動は一定の成果を上げ、1550年には賢誠試験の内容改定が実行されたほか、それ以前には軍の近代化も着々と進歩を遂げていた。1546年には政党の結成が認められ、自由党、新党、社会主義党などの様々な党が帝国議会に置かれた。1551年には完全立憲君主制への移行も唱えられたが、時の皇帝ハッペンペン(happenpengh, 在位1550~1558)が強く反対したので実現されなかった。

 1554年11月に始まった第一次世界大戦では、紋令の支援を受けていたパルーティーやイオザティー朝といった国々と戦うこととなり、最終的に勝利はしたが国力を減ずる結果となった。一方ハッペンペンは精神を病んで暴政を行うようになり、人々の生活水準は低下した。また、都市部では工業化の進展によって労働力の酷使が進んでいた。

 この結果、前々より賛同勢力を増やしていた、リフトム=ラッシャム(rihwtom raxxam)率いるセケシヤムス国家復興党(レーゲン語略称:SJDG)がますます増長した。SJDGは絶対君主制の廃止や労働者の保護、貴族位の廃絶などを掲げて活動し、帝政に疲弊して現状に展望を抱けないでいた多くの人々の支持を買った。スュラミャムス帝国はSJDGを違法としたが、効力は殆どなかった。

 1556年6月に帝国政府は譲歩して立憲君主制の導入を行ったものの、君主の権力はいまだ強いままであった。労働者や農民による抗議運動が多発し、一部の官吏さえこれに与するようになり、帝国の権威はもはや地に堕ちた。ハッペンペン帝はようやく事態の深刻さを悟ったが、帝国を存続させるにはタイミングが遅すぎた。

 1558年の1月からはSJDGを基盤とした全土レベルの蜂起が始まった。ここからの一連の政変をセケシヤムス社会主義革命という。帝国政府は革命の鎮圧を試みたが失敗し、最終的に同年7月16日にハッペンペン帝が側近に退位を宣言させられたことで、スュラミャムス帝国は200年の歴史に幕を閉じた。

セケシヤムス社会主義国の建国から第二次世界大戦まで

 1558年7月20日に首都ネシヤを掌握したリフトムは、皇帝の住居であった至天殿にてセケシヤムス社会主義国(sekexiyamus üyiteragos jüswaki, レーゲン語: Sekexiyamus Ceiwoykaizem Jeebrals)の建国を宣言した。「セケシヤムス」は民族的要素のない名で、多民族国家であるこの国に適切であると考えられたものである。この時点では現在のセケシヤムス社会主義国領の三割程度はSJBGの支配に入っておらず、皇軍派の掃討にはさらに2年を要した。

 SJBGは名をセケシヤムス社会主義党(以後、社会主義党 もしくは 党)と改め、社会主義思想に基づいた政治を行うことを明言した。農民や下層労働者はこれを歓迎したが、資本を持つものは反対した。1560年にはセケシヤムス社会主義国憲法が施行された。

 もちろん急激に社会主義化を進めれば国内が混乱することは党の上層部も認識していたため、政治体制の変革は急速に進んだものの、経済体制は五、六年程度をかけてゆっくりと行われることになった。地方行政においては、スュラミャムス帝国と同じく州県制が取られた(州の境界や数は少し変更された)。まず1559年に戦後の国力回復のため余剰自由制が採用され、ノルマを超えた分の生産品は自由に売ってよいことになった。

 また、国家の近代化を成し遂げるためにロイテンツや紋令の優れた技術者や科学者、教育者を招聘することが決定され、建国後から合計数百人の外国人がセケシヤムスにやってきた。彼らの多くは左派(社会主義者とは限らない)であり、学術や法律、軍事などにおいてセケシヤムスを近代化させることに大いに貢献した。また、自国人による近代化を行うため、多くのセケシヤムス人が技術・学問の修得目的で海外に派遣された。

 政治体制は社会主義党を中心とする実質の独裁であった。リフトムらはこれを「人民民主集中制」と呼称して正当化した。ただし、自由党や人民進歩党などの野党が廃止されなかったのは注目すべき点であろう。これは、リフトムが、社会主義党の過ちを正すための補佐機関として野党に価値を置いていたためである。もっとも、これらの野党は「制限政党」とされ、社会主義党に比べると活動は規制されていた。

 リフトムは産業革命の重要性を認識しており、セケシヤムスの工業国化に踏み切った。帝国時代よりも強い中央集権化による上意下達の方式による工業化を志向したのである。セケシヤムス社会主義国は1564年から第一次三か年計画を実行し、鋼鉄や機械の生産を上昇させた。同時に農業の効率化も進められ、三丸運動という農業運動が興された。

 三丸運動の一つには富農の排除も含まれていた。富農とは私有の土地を持っていたり、農民を使役したりしていた裕福な農家ないし大土地所有者のことである。政府は富農の土地を奪い、一般の農民と同じ待遇とした(あまりにも評判が悪い富農は収容所に送られた)。農業用地は国民に分け与えられ、彼らは集団農場(ベアルィス(bearwis))で農業に従事するとされた。

 社会主義革命は様々な地域で起こった。ノートムスではイオザティー朝が倒れて社会主義を掲げるハギト共和国(hagit)が誕生したほか、ヴァイウリアなど北ロイテンツの国々やブエシェニン、ベイラスなどでも社会主義政権が誕生したが、世界革命には至らなかった。だがセケシヤムスの国土、人口、資源は一国で自給自足できるほどの規模であったため、政府は特に警戒しなかった。

 セケシヤムスの経済は計画経済と集団化により大きく改善した。ただし、強制的な工業化・集団化による混乱、反対者の処刑、飢餓などによって、建国後から1568年までの死者数は200万人に達したといわれる(一説には400万人以上とも)。この後もしばしば政治家や軍人、一般市民の粛清が続き、国家警察が人々を監視する体制は長らく続くこととなる。

 リフトムは社会主義思想を国民に敷くため教育を重視し、全国に学校を設置させ、6年の義務教育を行うことを義務付けた。また、資源の輸送や工業を効率的に行うため、鉄道の敷設と全国の電化が急ピッチで進められた。教育は大人にも行われ、革命直後には20%だった識字率は1575年には50%を突破した。

 セケシヤムスの外交は、主に社会主義国を重視したものであった。革命ないし選挙により社会主義政権が誕生した国との関係を深め、また各国の社会主義政党・共産主義政党に助言や工作を行った。また、紋令やレイトガイジェンといった資本主義の国々との関係悪化の防止にも努めた。1572年にはハギト共和国やヴァイウリア、ブエシェニンなどの国家とそれぞれ友好条約を締結した。また、レイトガイジェンとは中立条約を結んだ。

 1580年に起こった紋令恐慌の影響で資本主義経済を行っていた国々は大打撃を受けたが、第四次三か年計画に基づいた計画経済を実施していたセケシヤムスはあまり影響を受けず、1580年から1583年のGDP成長率は9.8%と世界最大となった。

 1585年から始まった第二次世界大戦では、セケシヤムスはハギトとともにマーリカやパルーティー、ラシェントなどの諸国と戦った。はじめは劣勢に立たされていたセケシヤムスは、その強大な軍事力で同盟国と反撃を行い、東方と西方の双方に進出し、最終的にはレイトガイジェン植民地との接触地点まで到達した。セケシヤムスは戦勝国となった。

第二次世界大戦から冷戦終了まで

 第二次世界大戦終了後、セケシヤムスは占領した国々を社会主義国化させたうえで独立させた。これによってノートムスには広大な社会主義エリアが完成した。植民地が奪われることや世界の社会主義化を警戒していたロイテンツ諸国との対立が深まっていき、冷戦に発展することとなる。

 1590年13月にリフトムは死去した。彼自身は1576年に国家主席の座を退いていたが、死ぬまで政治に強い影響を及ぼし続けていた。本人の生前の強い意向により葬儀は密葬に限られた。その後、第四代の最高指導者として、リフトムの腹心の部下だったノラカウォン=ボング(norakawongh bongu)が就任した。ノラカウォンはリフトムの政治を引き継いだ。セケシヤムスはノートムスの社会主義国家を衛星国として自らの勢力圏に置いた。紋令をはじめとする君主制国家と関係を保つため、1593年、ノラカウォンは立憲君主制国家でも社会主義政治は成立するという見解を示した(君主制社会主義の肯定)。

 結果、当時の紋令皇帝の意向もあって紋令は(資本主義寄りの)中立を保った。初期の冷戦の舞台は主に二箇所あり、一つが北ロイテンツ、もう一つが東ノートムスであった。レイトガイジェンと関係を悪化させたラシェントは、君主制社会主義の肯定もあってセケシヤムスに接近していき、1595年には瀬羅連携協定を結んだ。また、紋令と関係の悪い上裁民國はセケシヤムスに味方したが、社会主義政は採らなかった。

 冷戦の象徴たる兵器は核兵器である。レイトガイジェンとセケシヤムスは互いに核兵器を開発し合い、一方が戦争を仕掛ければ全面核戦争となって世界が破滅する(ので互いに直接衝突を避ける)という相互確証破壊の概念を作り出した。セケシヤムスは衛星国に核兵器をシェアしたが、核戦争を危惧して北ロイテンツには与えなかった。

 相互確証破壊の考えは代理戦争を生み出した。代理戦争の舞台となったのは、東ロイテンツならびにナッセ州がメインであるが、北垂天亜大陸でも戦争が行われた。代表的な代理戦争は、ブエシェニンとジェワランの間で起こった憮説戦争ならびにベイラスとハイバスの間で起こった中東戦争である。

 セケシヤムスは植民地を解放することにより社会主義勢力圏を拡大した。ロイテンツ州の国々の支配を疎んでいたギューシェッタバーゼンツァなどが代表的な植民地由来の社会主義国家である。いっぽう資本主義国の支援を受けた国々は資本主義圏についた。ベイラスやギューシェッタといった原油産出国が社会主義陣営についたことは、セケシヤムスにとって大きな利益をもたらした。このころからエネルギー革命が起こっており、石油は重要なエネルギー源となりつつあったためである。

 1610年10月にセケシヤムスの港湾都市カヤソム(kayasfhom)にアルゴイレレス(argoireres, レーゲン語: argoireress)が初めて襲来した。続く紋令への襲撃により世界は衝撃に包まれ、冷戦はいっとき緩和した。1612年にはスクバライ(skubarai)国家主席とレイトガイジェンのガスベル総統が首脳会談を行い、「人類としての協力」で一致した。これが所謂「雪解け」である。しかし、アルゴイレレスの登場は核兵器開発の進展を招くこととなり、「雪解け」は短期間で終わった。また、強大な軍事力と経済力を持つ紋令が徐々に資本主義陣営へ寄っていくようになり、社会主義陣営は不利となっていった。

 さて、1610年代に入ると、資本主義陣営に比べて社会主義陣営の発展が遅れてきた。これは計画経済が非効率であったことや、イノベーションを生みにくい環境を作っていたことが大きな原因である。これを打破するため、1613年に国家主席となったルヮイサム(rwaisfham)は経済改革を打ち出した。この改革はザトヨ・バレック(瀬: zatoyo barek「新たな道」の意)と呼ばれ、「みな貧困よりも豊かな者が富を分ける方がよい」というスローガンのもと、市場経済への部分的移行、国営企業への独立採算制の導入などが行われた。一部の国を除いた社会主義国もこれに同調した。

 1620年代に入ると冷戦は終わりへ向かっていく。1621年、ルヮイサムと同じく改革派であり、国庫を圧迫していた軍事費の削減、資本主義陣営との関係改善を掲げるミサリヤ=ハユツィベス(misariya hayutsibesiu)が書記長に就任した。1622年にはレイトガイジェンや紋令、ラシェントなどとの間で対人類核兵器開発実験全面禁止条約(通称「IIDI条約」)が締結され、両陣営が核軍縮で一致した。

 1623年にヴァイウリアでは強権統治を行っていた社会主義統一党が倒れ、穏健な社会民主主義を掲げる民主社会党が当選した。代理戦争と化していた旧植民地での内戦も1625年までにすべて終結した。セケシヤムスら社会主義陣営と資本主義陣営は、関係を深めていった。

 1626年6月14日、ミサリヤ国家主席はシクルウォン(xikurwon)にてレイトガイジェンのラスバー=ヴェルトミッシュ総統と会談を行い、冷戦の終結を宣言した(シクルウォン会合)。これにより、約35年にわたって繰り広げられた冷戦は終了した。

冷戦終結後から現在まで

 冷戦終結後は資本主義陣営の国々と関係を維持構築し、経済成長を続けた。1627年から1633年まで国家主席を務めたイェハック=テオリュス(yehak teorüs)は積極的な外交政策と経済発展政策を促した。セケシヤムスは工業および農業の生産力を活かし、1628年にGDP世界第二位となった。また、コントミヤリュスはそのリーダーシップを活かし、1638年に起こったハシュビレ彗星衝突の余波を抑えることに尽力した。結果、他国に比べれば経済への打撃は少なめであった。

 専制政治への批判や少数民族問題など数多くの課題を抱えつつも、セケシヤムスは社会主義国のリーダー的存在として、あるいは世界有数の巨大国家として、世界での強大なプレゼンスを誇っている。

地理

 セケシヤムスの国土はラシェント、紋令に次いで世界第三位の広さを持つ。マーリカ、ハギト、ラシェントをはじめとする十か国以上の国々と国境を接している。また、海を挟んでパルーティーと接する。後述もするが、西部で接するディスモンクとはアネバン地区の領有権をめぐる争いがあり、未だ決着がついていない。

地形

 セケシヤムス社会主義国はノートムスの東に位置しており、穏広洋に面し、その面積は580万2370km²と、ラシェント、紋令に次いで第三位の大きさである。領土は、北は緯度46度のタスラン川の流域から、南はボシュテルク大山脈やバルト湾まで、東は穏広洋から、西は高度3000m近くのカノテスタム高原を越えた平地まで広がる。古代から文明の発展拠点となってきたヌファド川や大青川が主要な河川である。

 セケシヤムスの最高峰はボシュテルク大山脈に属するタゲウテル山であり、標高は8623mである。逆に高度が最も低いのは、南部のカッセオズ県に存在する大雲盆地で、標高マイナス41mである。概評するとセケシヤムスは内陸部の高地が多く、低地は33%ほど、平均高度は1740m程度である。

気候

 セケシヤムスは広大な国であるため、気候は地域によって大きく異なる。以下、ケッペンの気候区分に基づいた解説である。沿岸部では主に温帯気候が広がり、北へ上ると冷帯、内陸部は雨が降りにくいため乾燥帯となる。セケシヤムスは三つの気候帯を有する稀な国家である。首都ネシヤの気候は温帯湿潤気候で、年平均気温は18℃、年平均降水量は820mmとなっている。これに対し、北西奥部の都市であるテグラヴァ(鄭禺羅把)は砂漠気候に属し、年平均気温は14℃、年平均降水量は170mm程度である。このような多様な気候が、地形と相まって地域ごとに独特の文化を築かせる要因となっている。

政治

 セケシヤムスの政治体制は、人民民主集中制と称される事実上の独裁制である。

国政

 セケシヤムス社会主義国憲法(sekexiyamus üyiteragos jüswaki hazkiarbisk)が国家の最高法規として制定されている。社会主義憲法(üyiteragos hazkiarbisk)通称で呼ばれるこの憲法は全152か条からなっており、国家を縛るルールの面もあるが、レイトガイジェンなど自由主義の国のそれと比べると国民の義務や禁止行為の規定が多い。この憲法により、セケシヤムスの政治体制は、労働者が主権を持つ人民民主集中制であると定められている。

 立法機関としてセケシヤムス最上人民議会(瀬: patsekexiyamus arpedane rüstangh ourahwimus パトセケシヤムス・アルペダネ・リュスタン・オウラフィムス。通称「最上議会」)が、行政機関として国家政閣が、司法機関として最高人民裁判所がそれぞれ設置されている。しかし三権分立は存在せず、実権は全セケシヤムス最上議会に集中している。

 全セケシヤムス最上議会は一院制であり、定員は3000名。最上議会の議員の選出は、各地域ごとに立候補する人々を国民が直接選挙することによって行う。基本的には3~5人程度の立候補者から選ぶが、人口が少ない地方では信任投票となることもある。義務投票制を採用しているため、投票率は毎回90%を超える。投票は匿名形式で行われる。

 基本的に最上議会は、セケシヤムス社会主義党によって提出された法案や議案、予算案などを認める形式的な機関だが、稀には案が反対多数で否決されることもある。例えば、1630年に提出された高速道路整備法改正案は賛成1375、反対1498、棄権127で否決された。議会の投票は匿名形式で行われる。

 実際に国政を動かすのは与党たるセケシヤムス社会主義党(sekexiyamus üyiteragos dangh)である。社会主義党は建国以来、最上議会定員の7割以上を占め続けている。いっぽうセケシヤムスは社会主義国ながら野党の存在を制限付きで認めており、600人以上の野党議員が存在する。このほか、無所属議員が100名前後所属している。

 社会主義憲法に党の指導性は明記されていないため、理論上は野党が政権を握ることができる。とはいえ、社会主義党は常に議席のニ割を確保できる特権を持っているほか、野党を何度も連続して当選させた地域への冷遇措置、野党の活動制限などを行っている。したがって、実際には野党による政権掌握は非常に困難である。

 セケシヤムス社会主義国の元首は「国家主席」と呼ばれ、強い実権を持つ。ソ連や中国とは異なって、党の最高指導者がそのまま国家元首の役職になるわけではない。また、行政権の長として、首相が置かれる。首相の権力は国家主席に一段劣る。また、最上議会の長として最上議長が置かれる。これら三人の集団指導によって国政が行われる。国家主席及び首相は三選禁止である(3年に一回選挙される)。現在の国家主席は、クワト=スラタービー(kwat srataabii)である(1641年から)。国家主席は、必要であれば自ら辞任できるほか、最上議会開会中に不信任案が決議されると罷免される。

 セケシヤムスは建前上、政党結成の自由を保障している。しかし実際に結成するには数多くの制限や手続きを乗り越える必要があり、実質的には社会主義党に近い政策を掲げる政党しか新たには結成できないようになっている。昔から存在する政党は存在を許されている。国政政党にならないならば、政党結成の条件は少し緩められる。

 また、セケシヤムスには国政か地方行政かを問わず、外国人参政権は存在しない。外国人参政権を導入するか否かの発議はすべて否決に終わっている。

<歴代国家主席>

 丸括弧の中は任期を表す。太字は6年以上国家主席の座にあった者。

第一代:リフトム=ラッシャム(1559年3月~1576年13月)

第二代:エウコ=テオリュス(1576年13月~1580年6月)

第三代:ビト=テオオハック(1580年6月~1590年12月)

第四代:ノラカウォン=ボング(1590年13月~1597年1月)

第五代:イィリス=バッラン(1597年1月~1603年1月)

第六代:テンバッキ=モリュス(1603年1月~1608年4月)

第七代:スクバライ=ユピィーナー(1608年4月~1613年4月)

第八代:ルヮイサム=イーラン(1613年4月~1618年10月)

第九代:ノラカウォン=ボングダル(1618年10月~1621年1月)

第十代:ミサリヤ=ハユツィベス(1621年1月~1627年1月)

第十一代:イェハック=テオリュス(1627年1月~1633年1月)

第十二代:グンネオ=アミェ(1633年1月~1636年10月)

第十三代:コントミヤリュス=カッテョ(1636年10月~1641年10月)

第十四代(現職):クヮト=スラタービー(1641年10月~現在)

政党

<国政政党>

 上から最上議会に占める割合が多い政党となっている。

セケシヤムス社会主義党(左派、社会主義)

・自由党(右派、自由主義)

・人民社会主義党(左派、社会主義)

・社会民主党(中道左派、民主社会主義)

・人民進歩党(中道左派、管理制社会主義)

・労働党(中道右派、労働者の保護など)

セケシヤムス共産党(左派、共産主義)

<そのほかの政党>

・国家民主社会主義党

・セケシヤムス栄光党

・みどりの党

地方行政

 セケシヤムスは帝国時代からの伝統である州県制を地方行政区分の制度として採用している。国家は最大の行政区分単位である(ザイアン, zaiangh)に分割され、州はに分割される。州は州法制定の権利や独自の軍を持つ権利など、ある程度の自治権限を保障されている。各々の州が自らの州旗と州章、および州歌を持つ。しかし自治権限があるとはいっても、実際には中央集権的な向きが強い(州旗のデザインにも現れているといえる)。セケシヤムスには19の州がある。

 は第二の行政区分単位である。県の自治権限は州よりも遥かに弱い。セケシヤムスには合計で689もの県が存在する。県の下には市や村といった行政区分が置かれている。

 これらの通常の行政区分のほかにも、特別市や特別区と呼ばれる特殊な行政区分が存在する。例えば首都ネシヤ全体は直轄特別市とされ、州や県の制御を受けず国家中枢に直接管理される。

 県と州ごとに人民議会が存在する。これらの議会の議員は国民による直接選挙でえらばれるが、立候補するには政府の認可を必要とするため、あまりにも反社会主義的な政策を掲げる人はそもそも立候補することができない。州議会は州法や州予算の制定などを行うほか、最上議会との協議も実施する。

レカトーマヤ州の州旗。セケシヤムス国旗(下)とデザインが似ていることがわかる。

民意や世論の反映

 セケシヤムスは独裁国家だが、完全に指導部の意向のみで政治が行われるのかというと、必ずしもそういうわけではなく、民意を伝達する仕組みは存在する。選挙は社会主義党が大勝するような仕組みになっているが、あまりにも党が政策を誤ると党が最上議会や後述する人民議会に占める割合が減少する。このほか、人民議会への請願などによっても政府は国民の意をとらえることができる。近年ではインターネット上での意見発信も世論をはかる有力なツールとなっている。政府はこれらの手段を使って民意や世論を把握しており、時には政策に反映されることもあるとされる。

 なお、民意を表明する機会があるといっても、社会主義党への直接の批判や民主化の主張、政策の一方的な批判といったような意見は反映されないし、場合によっては表明者が法律違反で罰せられる。また、あまりにも請願が多すぎる場合には請願そのものが受理されないことがある。デモも、政府的なものを除いて、基本的には許可されない。

 したがって、結局、セケシヤムス独裁国家であることに変わりはないとえる。実際セケシヤムスの民主主義指数や報道自由指数は下位四分の一未満をさまよう状態が続いている。

警察、諜報、および司法と治安

警察

 セケシヤムスの警察はニ種類に分かれる。一つが一般の犯罪を処理したり、治安を保持したりする人民警察であり、もう一つがテロや暴動、反政府活動を鎮圧したり、辺境部などの警備を行う武装警察である。

 人民警察は中央治安維持局を最高管理部門とし、その指導に服する公安大課によって各州の警察の活動を指揮、制御する仕組みとなっている。各州の警察本部がさらに各県の警察部を、その警察部が各行政単位の警察署などを指揮する。人民警察は、このような多重複雑な上下構造によって運用されている。セケシヤムスの人民警察の最小単位は、各地に配備されている派出所である。

 人民警察官は国民の身辺調査、犯罪者の確保・尋問など様々な職権を与えられている。この職権を拡大解釈することにより、民主化勢力が抑圧されており、民主主義国家や人権擁護団体からの非難を受けている。過去には警官へのワイロが問題視されていたが、ルヮイサム国家主席の就任後に汚職絶滅が打ち出されたため、現在ではワイロはたいへん少なくなっている。

 武装警察は中央治安維持局を最高管理部門とし、その指導に服する公安大課によって制御される点までは人民警察と同じだが、そこからは武装警察専門の機動課によって指揮制御される。武装警察は陸上武装警察、海上武装警察、中央護衛警察の三つに大別される。武装警察は、準軍事組織として認識される。

 陸上武装警察は治安が不安定(政府視点の表現なので、民主化運動が起こっている場合も「治安が不安定」とみなされる)な地域や他国との紛争地帯などに配置されており、緊急時には暴動やテロの鎮圧なども行う。海上武装警察は日本の海上保安庁にあたる組織であり、海上犯罪の予防や取り押さえ、近隣諸国からの領域防衛をメインに行う。中央護衛警察は国家の中枢組織や各州や各県の政治組織、そのほか国家主席など重要なポストに就く人々を防衛する特殊な警察で、公安大課の直接の指揮を受ける。

諜報

 セケシヤムス社会主義国は諜報組織として中央情報収集局を持つ。本部はネシヤにあるが、詳細な在地は非公開となっている。

 中央情報収集局は、通常は非合法とされることも含んだ様々な活動を実施する(政府は中央情報収集局の非合法行為を否定している)。国内では民主活動家(組織)や少数民族、宗教団体の監視、国内にいるスパイや不穏分子の捜索・監視などを行う。また、国外ではスパイ活動の実施、国外に住むセケシヤムス人の監視、セケシヤムスに友好的な政権の樹立支援、セケシヤムスに敵対的な政権の破壊工作、サイバー攻撃などを行う。中央情報収集局は特に、国外に住むセケシヤムス人を監視していることにより非難を受けている(政府は「事実無根」だとして強く反撥しているが)。

司法

 司法の最高機関は首都ネシヤに置かれた最高人民裁判所(arpedane rüstangh basfhyaimus アルペダネ・リュスタン・バスャイムス)である。最高人民裁判所はその他の裁判所を統率する権力を持つほか、刑事裁判と行政裁判における終審裁判所である。最高人民裁判所の裁判官は最上議会の会議によって決められる。

 セケシヤムスでも裁判は三審制である。裁判所は上のほうから最高人民裁判所、高等人民裁判所、中等人民裁判所、尋常人民裁判所の四種類に分かれる。最高人民裁判所はネシヤにしか無いが、それ以外の裁判所は各州に少なくとも三つ存在する。ふつう、民事裁判の終審裁判所は高等人民裁判所となる。また、軍事裁判を行う専用の裁判所として、尋常軍事裁判所高等軍事裁判所が存在する(「最高軍事裁判所」はなく、代わりに最高人民裁判所が担当する)。セケシヤムスの裁判は、原則として法廷で行われるが、政治犯を裁く場合などは臨時会場で公開裁判を行うことも非常にまれにある。

 セケシヤムスの刑事罰は罰金、懲役、死刑の三つのみである。懲役は最長で終身刑。死刑は銃殺または薬殺をメインとするが、方法は州が決定することができる。全ての死刑は非公開で行われる(公開処刑は1584年に廃止された)。死刑となる刑罰は殺人、反政府運動、国家転覆(未遂)、テロ、違法薬物の輸送・販売などである。セケシヤムスの死刑執行数は一年あたり2700件程度とされ、世界有数の多さである。政府が国民に行った調査によれば、国民の6割以上が死刑制度存続に賛成している。死刑制度の存続により、セケシヤムスは死刑廃止国や人権団体からたびたび批判を受けている。

治安

 セケシヤムスの治安は良好である。とりわけ殺人や強姦、強盗、放火や銃乱射といった凶悪犯罪は現在非常に少ない。セケシヤムスは1642年の世界治安ランキングで第17位に入っている。いっぽう、近年増加傾向にあるのは特殊詐欺や金銭関係の犯罪(キャッシュカード不正利用など)、および観光客に対するスリなどの比較的軽い犯罪である。セケシヤムスでは、銃の所持を原則として禁止しているので、銃を用いた犯罪はとても少ない。1643年の刑事事件発生数は、政府の発表によると406万件である。

セケシ語で「セケシヤムス社会主義国」、下段には「最高人民裁判所」と書かれている。

軍事

 憲法により定められたセケシヤムス人民防衛軍をもつ。世界有数の規模である。

 軍隊は国軍州軍の二つに分けられる。国軍は国家中央の指揮に服し、地域を問わず国家を防衛する軍であるのに対し、州軍は州の軍事部門の指揮に従い、原則としてはその州のみを防衛する。州軍による叛乱を防ぐため、州軍には核兵器の所持禁止や人員・設備の制限といった制約が課せられている。私営の軍隊(民間軍事会社)の設立は法律で禁じられている。

 国軍と州軍を合わせた軍人の人数は、1640年発表の白書によれば131万人である(陸軍72万人、海軍32万人、空軍27万人)。人民防衛軍は現在も軍拡を続けており、自由主義陣営の警戒を受けている。ただし、セケシヤムス政府は「セケシヤムスは各国の独立主権を尊重する国家であり、世界の覇権を求めて軍事活動を行うことはない」と強く否定している。

 セケシヤムスには名目上、兵役が存在するが、志願兵によって人員は十分に確保されているため、過去30年間に徴兵制が敷かれたことはない。また、士官育成のための防衛専門大学が全国に6か所設置されている。

 人民防衛軍は社会主義国を中心として計58カ国に派遣されており、その人数はすべて合わせると20万人にも及ぶ。軍の派遣の主な目的はセケシヤムスの勢力圏を広げることである。また、国内にはラシェントの軍隊が駐留しており、その人数は約8000人に及ぶ。

 セケシヤムスは核保有国の一つである。政府は明確に核兵器の所持数を発表していないので推測になるが、少なくとも3500発の核兵器を保持しているらしい。セケシヤムスは対人類核兵器開発実権全面禁止条約の批准国の一つであり、核軍縮は徐々に進展している。社会主義憲法には、核兵器に関する特別の記載があり、核兵器は、これを自国の非常防衛のためにのみ用いなければならない。」としている

国際関係

 セケシヤムスは世界のほぼすべての国家と国交を樹立している。

 セケシヤムスは国際連合(JOF)の拠出金のうち18%を供出しており、割合は世界第三位である。セケシヤムスは世界社会主義同盟のリーダーであり、そのほかノートムス諸国連盟などに加盟している。セケシヤムスはほかにもロイムス貿易機構、国際経済機構、主要十ヶ国会議、国際アルゴイレレス対策機構といった国際機関に加盟しており、いずれの機関でもかなり中心的な立ち位置を占める。セケシヤムスはすこぶる国際的な国家である。

 セケシヤムスと友好関係を保っている国は、多くが社会主義国である。例えば、マーリカ、ハギト、パルーティー、ベイラス、バーゼンツァヴァイウリア、ソンジヤムスなどが当てはまる。特にベイラスは原油産出国であるという性質上、経済的に深い交わりがある。また、マーリカ、ハギト。パルーティーとは東能四国連携協定を結んでいる。そのほか、ギューシェッタ、ラシェントとの関係も比較的良好である。

 いっぽう、レイトガイジェンやバレデー、タゴマスといった資本主義諸国との関係はあまりよくない。冷戦期に比べればかなり改善したが、未だに緊張感のある外交が続いている。1643年にレイトガイジェン国民に対し行われた調査では、58%が「セケシヤムスを警戒すべきだ」という意見に賛同した。さらに、ジェピエンなど南ノートムス諸国との関係も良好とは言えない。また、紋令とは中立的な関係にある。もっとも、これらの国々とも経済的な交わりはとても深くなっている。西部で接するディスモンクとは領土問題があり、現在に至るまで度々衝突が続けている。

 ナッセ州の国家に多くの投資を行ってきたため、それらの国々との関係も深い。セケシヤムスはナッセ州の植民地を独立させるために、現地勢力に軍事的・経済的支援を行ってきており、近年でもインフラ投資を続けている。これらの投資は、投資先の国々にインフラの整備をはじめとするメリットを享受させると同時に、セケシヤムスへの依存度を高め、セケシヤムス寄りの国々を増やそうとする思惑も見える。もともと旧宗主国たるロイテンツの国々に反感を抱く人々が多い旧植民地の国々では、ロイテンツ諸国と一線を画するセケシヤムスに親しみを持つ人が多いといわれる。

経済

 セケシヤムス社会主義国は国家の管理が強い市場経済体制(混合経済)を採用する社会主義国である。

経済概要

 1644年のセケシヤムスの名目GDPは日本円換算で約1940兆円で、世界レベルで見ると紋令に次ぐ世界第二位、ノートムス州では第一位であり世界的な経済強国である。1628年に当時GDP世界第二位だったレイトガイジェンを抜いて世界第二位に躍り出た。現在では購買力平価に換算したGDPは紋令を超えた第一位である。セケシヤムスは市場経済を導入しているため、社会主義国でありながら国民間の経済格差は大きく、ジニ係数は0.379と資本主義先進国の多くを上回っている(レイトガイジェンはおおむね0.32程度)。

 経済方式はかつてはほとんど完全な計画経済を実施していたが、需要の予測が極めて困難であったことや資材供給が滞ったことなどによって発展が鈍化してきた。これを解消するため、1600年代中盤から経済改革が行われてきたのだが、ルヮイサム国家主席の改革により1613年から本格的に市場経済(「折衷経済」)の導入が始まった(ザトヨ・バレック)。

 ザトヨ・バレックでは集団農場の自由化や国営企業の民営化、余剰自由制の本格的実施、外資企業の誘致などが行われ、セケシヤムスの経済は再び大きく成長した。だが、ザトヨ・バレックは前述の通り国民の経済格差を拡大する結果となったので、人々の平等を目指すという社会主義の本意に反するという指摘もある。

 セケシヤムスの産業のうち最も大きな割合を占めるのは第三次産業で、65%程度を占める。続いて第二次産業が30%、残る第一次産業は5%ほどである。セケシヤムスの農業生産量と農業生産額はともにノートムス第一位である。農業では米、小麦、トウモロコシ、大豆、茶、綿花などが主に栽培されており、数多くの作物で生産量は世界有数である。第二次産業は主に工業(特に重工業)である。第三次産業はサービス業、小売業、卸売業などで、都市部に集中する。首都ネシヤはノートムス屈指の金融センター都市で、ここに在するネシヤ中央証券取引所がその機能を牽引している。

 セケシヤムスが先進国であるか否かは議論が分かれる。GDP世界第二位の大国であり、絶対貧困線を上回っている国民が9割を超えているのを考えれば先進国といえるし、そうはいっても地域ごとの格差が大きく独裁体制を採用しているのを考えれば先進国とはいいにくい。当のセケシヤムス政府は自身を「社会主義を採用することで飛躍的成長を遂げた『準先進国』である」と主張している。

雇用

 セケシヤムスは社会主義国だが、ザトヨ・バレック政策により市場経済化が進んでいるので、雇用は私営企業が大いに担っている。全被雇用者のうち、何らかの公営機関で働いている国民の割合は43%である。国家公務員の人数は710万5000人(1644年)。1643年の失業率は7%程度で、若年層に限ると15%まで上がる。失業率の上昇はハシュビレ彗星衝突による混乱が主な原因であるため、今後は低下すると予想されている。

通貨

 セケシヤムスの通貨はギル(gir)である。2023年10月現在、1ギル=44円程度。ギルは高い信認を持つ国際的な通貨である。また、補助通貨としてサウ(sfhau)が存在する。1ギル=100サウ。サウは全て硬貨、ギルは全て紙幣である。1644年時点で、1サウ硬貨、10サウ硬貨、50サウ硬貨、100サウ硬貨、1ギル紙幣、5ギル紙幣、10ギル紙幣、50ギル紙幣、100ギル紙幣、500ギル紙幣が存在する。全ての紙幣にはセケシヤムスの国章がデザインされている。裏側にはセケシヤムスの景勝地や革命絵画などが印刷されている。

 過去には偽札がよく出回っていたが、紋令の技術協力を受けた1630年の貨幣改革によって厳重な偽造対策が施された紙幣が出回るようになったので、現在では偽札は少ない。なお、貨幣の偽造は最大で終身刑、偽札の意図的な使用は最大で懲役10年を科される重罪である。

科学技術

 セケシヤムスはかつて技術先進国であった。例えば製紙法やコンパス、木版印刷などはセケシヤムスの発明である。しかし、ノワロンズ帝国後期からはその隆盛が衰えていた。スュラミャムス帝国末期からハズビュンク運動による技術革新が再び始まり、産業革命がもたらされた。セケシヤムス社会主義国が成立すると、国家首脳部はこれに続けて社会主義を発展させるための科学技術の振興を行い、結果としてセケシヤムスの科学技術は大いに発展を遂げることとなった。1585年には当時の国家主席リフトムによって「第一次科学技術発展目標」が示された。

 第二次世界大戦と冷戦は皮肉にもセケシヤムスの科学技術を発展させる有用な契機となった。この時代にテレビや冷蔵庫といった日用の電化製品のみならず、核兵器といった国家の威信をかけた兵器技術にまで科学技術の恩恵がもたらされた。地方自治体の幹部にはテクノクラートが就任することが増加した。冷戦終結後は資本主義諸国との交流を深め、これらの国々の科学技術を自国に取り入れ、さらなる発展を促した。例えば人工衛星を最初に実用化したのはセケシヤムスである。

 現在でも科学技術は国家を維持するために必要不可欠であると認識されており、国家機関の一つである国家科学技術局がこれを振興する。科学研究に必要な資材や費用は、申請があれば国がこれを賄うことになっている。セケシヤムスは多くの交換留学生を国外に送り出しているほか、高額の報酬をかけて国内外を問わず優秀な科学者を招いている。セケシヤムスの科学技術は他国に頼る段階から、自国で新技術を産出する段階へシフトしたといえる。大学はセケシヤムスの科学技術を発展させるための重要な拠点であり、国家は多額の国費を投じて大学を支援している。現在、官民は関係なく、日夜研究開発が行われている。

 セケシヤムスは有名な科学技術についての褒章であるザイレツィヌス科学賞の主要な受賞国の一つである。1630年から1644年までの間に、9人のセケシヤムス人科学者がザイレツィヌス科学賞を受賞している。

宇宙開発

 セケシヤムスでは宇宙開発が顕著である。その始まりは1604年に行われた人工衛星ティワズュノン号の打ち上げに遡る。冷戦期、宇宙開発は単なる学問志向の開発というよりむしろ国家の威光を示すための手段として用いられた。1605年に宇宙船カジェズュノン号が世界初の有人飛行を達成、1610年にはシャイレ六号が打ち上げられ、月(太球月:シュライト)に人類が到着した。冷戦末期からは資本主義国との協力が始まり、1625年には世界初の宇宙ステーションであるエミエンソルク(emiensork, レーゲン語: Emiensolk)が打ち上げられた。

 冷戦終了後、宇宙開発は科学技術の発展が主眼に据えられるようになった。1630年に連続した月探査計画であるショパーガ計画は1645年までに計四回行われ、いずれも目標を達成した。また、1637年には焔陽星系第五惑星金星への探査機を飛ばすスキェノフ計画が実行され、金星の表層構造および衛星の詳細を調べることに成功した。1645年現在、国際宇宙ステーション(JSH)にはセケシヤムスの宇宙飛行士が6名滞在している。

社会基盤

水道

 セケシヤムスの水道は全て国営企業のセケシヤムス国家水道業連合によって供給され、民間企業の介入は一切許されていない。これは、水道は国民の生命を維持するのに真に必要不可欠なインフラであり、これの安定した供給には国営企業による管理が必要であるとセケシヤムス政府が認識しているためである。セケシヤムスでは、前文の理由から水道は非常に安価である。

 大半の地域では水道水をそのまま飲むことはできないが、煮沸すれば飲んだり調理に使ったりできるようになる。水道水の浄化技術は都市部と地方で格差があり、大都市圏ではほとんど高度浄水処理がなされた水道水が供給されているのに対して、地方では未だ最低限の処理のみを受けた不潔な水道水が供給されているところもある。首都ネシヤなど巨大都市の水道水は清潔であり、そのまま飲んでも問題ない。水道水の安全性に疑問がもたれる地域では、ミネラルウォーターが一般に活用されている。

 水道水は生活用水のみならず工業や農業にも広く用いられている。セケシヤムスの水道利用のうち、長らく90%近くが工業・農業用水である。内陸部での水不足は長年の社会問題となっている。

電気

 セケシヤムスの電気は、水道と同じく全て国営でまかなわれている。セケシヤムス電気事業連合が国内の電気事業(発電、送電、その他電気ビジネス)をすべて担う。理由は水道が国営オンリーになっている理由とほとんど同じである。電気代はかなり安い。セケシヤムスの発電は大多数が火力発電と原子力発電である。発電量比率で見ると火力が最も大きく58%、続いて原子力発電が24%、水力が7%、そのほかが10%である。セケシヤムスの火力発電の多くは石炭を用いているので、環境保護を求める国々や団体からは批判を受けている。

 セケシヤムス社会主義国を建てた党の幹部らは、電気は社会主義を全国に浸透させるための重要な道具であると捉えた。社会主義党はテイダネシュ教の雷鳴信仰の考えも援用し、国中に電力網を張り巡らせていき、1600年までには一般家庭まで電化を完了させた。現在、電力を使えない地域は事実上存在しない。

インターネット

 セケシヤムスのインターネット普及率は1644年時点で82%で、主に都市部を中心に利用されている。首都ネシヤでの普及率は97%にも達する一方で、少数民族が多く住まうラコソン州での普及率は61%にすぎない。セケシヤムスでもインターネットは社会を維持するのに必要不可欠なインフラの一つである。5億人以上の人々がインターネットを用いたオンライン決済を日常的に利用しており、キャッシュレス化が進行している。

 しかし、セケシヤムスのインターネットは「サルワー網(saruwaa botnye)」とよばれる全国レベルのインターネット検閲システムによって規制されており、政府に不都合な内容を含んでいたり、犯罪行為を目的に設置されたりしているウェブサイトや投稿は非表示ないし削除の対象となる。サルワー網は人海戦術と人工知能や機械学習を用いた大規模情報統制システムである。通常、政府に不都合な内容は長くとも10分で閲覧できなくなる。検閲の厳しさは時の施政者や時期によって変動し、例えば最上議会が開催される前後では検閲が普段よりも厳しくなる。現在のセケシヤムス国家主席であるクワト=スラタービーは穏健派なので、検閲はやや緩めである。

 一部の国民はVPNなどの規制突破の策を用いて、国外のインターネットも閲覧しているとされている。このため、政府はVPNに対する規制を強化している。政府に許可された以外のVPNを用いるのは違法である。ただし実際の逮捕者数は年に百人未満で、ほとんどの国民はVPNを使用しても捕まることはない。

 サルワー網は自由主義陣営の多くの国々から繰り返し批判を受けているが、セケシヤムス政府は「不適切な情報を統制することは国家と人民の安全を保持するために必要である」として意に介していない。また、サルワー網は、レイトガイジェンに存在するインターネット保安システムである「電網防楯」と何らかの関わりがあると考えられているが、両国政府はともに否定している。

医療

 社会主義国なので医療は無料で受けることができる。ただし基本的には医療費を支払う必要があり、無料で医療を受けられるのは公立病院を受診し、かつ支払える余力がなく、そのうえ高度な医療サービスを受けない、など限られた場合のみである。多くの国民は医療保険に加入する(強制加入の保険と任意加入の保険が存在する)。

 セケシヤムスの医療水準は先進国に比べるとやや低いが、首都圏やその他大都市圏では日常生活に十分な程度のクオリティは担保されている。出産や外科手術、輸血など高度な清潔性や技術が要求される医療も、基本的に国内で行うことができる。ただし西方の経済的に貧しい地域では、未だ医療の発達は不十分である。

 政府は病気の予防に力を入れており、ワクチン接種や感染予防策の徹底に努めている。狂犬病など重大な疾病のワクチン接種は無料である。また、HIVや梅毒など性感染症の検査も同様に無料である。食中毒予防のため、1642年からは生食を目的とした生肉の提供が原則として禁止となった。 

交通

 陸上交通のうち、鉄道に関しては、まず全国を結ぶ高速鉄道としてセケシヤムス高速新鉄道(SPML, 1621年建設開始)が存在する。セケシヤムス高速新鉄道の最高時速は250キロクダム(≒360km/h)であり、紋令の強武彈速鉄道に次いで世界第二位のスピードを誇るほか、路線の総延長は1万キロメートル近くにも達し世界一長い。ラシェントやマーリカ、ハギトに直通する国際高速列車も運用されている(越境にはパスポートが必須)。

 さらに普通鉄道が全国に張り巡らされており、貨物や旅客の輸送に活用されている。大都市圏では鉄道は大量輸送手段として必要不可欠である。1642年におけるネシヤ駅の一日利用客数は約260万人で、世界第10位。セケシヤムスの鉄道のほとんどは国営である。鉄道の電化率は68%(1643年)で、レイトガイジェンよりも高い。

 道路網は高速道路が幹線道路として発達している。セケシヤムスの高速道路は原則無料である。さらに普通道路が生活の足、輸送手段として極めて重要な役割を果たしている。総延長は諸説あるが700万キロメートルともいわれ、いずれにしても世界一長い。舗装率は71%程度で、地方ではまだ未舗装の道路も多い。また、未だに馬車が使われている地域もある。道路を用いる公共交通機関としてバスや路面電車が存在する。

 空路は飛行機がほぼ全てを占める。ネシヤ国際空港、アルスフォン社会主義空港をはじめとして複数のハブ空港が存在する。国営航空会社として、セケシヤムス国際大航空が存在し、フラッグ・キャリアとして世界各地とセケシヤムスを連絡している。

 海路は主に資源と貨物の輸送で用いられている。船舶によって、セケシヤムスの経済を支える石炭や石油、ガス、そのほか食料品や鉱産資源などが日々輸出入されている。国営の船舶会社としてセケシヤムス・アクアライン(sekexiyamus sadaineize)が存在する。アルゴイレレスの存在を察知するソナーが領海や排他的経済水域の各地に設置されているので、現在では事故は非常に少ない。また、帝国時代に築かれた東貫大運河などの運河が内陸の水路として大いに活用されている。

社会保障

 セケシヤムスは社会主義国であるため、社会保障が充実しているといわれるが、実際は先進国に比べるとおおむね劣る。ただし、配給制度は社会主義国独特の制度であり、注目に値する。

配給

 市場経済化が進んだ現在でも一応、セケシヤムスには配給制度が存在する。これは、予め政府が買い上げておいた食料や生活用品、薬品などを国民に市場価格の30分の1から10分の1程度の非常に安い値段で販売する制度であり、受け取りは任意である。配給品の受け取りは原則として店舗にて行う。過去には品目と量の不足が深刻だったが、配給品を受け取らない国民が増加したため、近年では改善しているようだ。

 配給品を受け取るかどうかは半年に一回定期的に変更の機会が回ってくるほか、緊急事態ならば役所に申し立てると直ちに受け取れるようになる。配給品の質は市販品に比べて低いので、自力で生活できる人々の多くは配給を拒否する。政府は配給品を転売することを法律で禁止している(無償譲渡は許可)。

福祉

 セケシヤムスでは、福祉のレベルは州によって違いがある。

 失業者には民間・公営の失業者援助制度が存在する。また、貧困者は前述の配給制度を利用して日用品を確保することができる。このため、セケシヤムスには無戸籍者を除いて餓死する者は存在しないとされる。住居を持たない人々のため、公営のシェアハウスが全国各地に点在する(質は低い)。高齢者に対しては追加の経済的支援が行われる。養老保険制度も1637年から実施されている。また、高齢者用の福祉施設が公営私営を問わず多く存在しており、これらは政府の援助を受けている。

 障害者福祉については、障害者を持つ家庭ないし本人に経済支援が行われるほか、公営の障害者支援施設を多く建てて彼らを支援している。とはいえ、これらの公営の支援は最低限のものに的を絞っているため、裕福な国民は私営の施設を利用するのがふつうである。また、老人福祉とともに、施設の定員不足が社会問題となっている。セケシヤムスの障害者数は、政府の公式発表によると1643年時点で約8500万人であり、世界一多い。

 また、格差の増加により、絶対的貧困は減少したとはいえ相対的貧困が深刻になっているため、国民の貧困意識は増加する一方であるとも指摘されている。政府はこの意見を認めており、格差是正に取り組むことを表明している。近年、社会問題として顕現しつつある少子高齢化に対しても、政府は問題解決のための政策(子供を産んだ家庭への経済支援など)をとる姿勢を示している。

マスメディア

 いずれのマスメディアも、扱う内容は政府にある程度の統制を受けており、あまりにも反社会主義的な報道を行うと警告や罰金、放送停止、強制解散などの処分が科される。

テレビ

 セケシヤムスのキー局はセケシヤムス中央放送焔陽放送のニつで、いずれも国営である。セケシヤムス中央放送はニュースや宣伝を、焔陽放送はバラエティ番組やドラマを中心とする点で棲み分けがなされている。双方のテレビが国家からの金銭的支援を受けている。経済改革後はテレビ局の数は急激に増加し、競争が激化している。セケシヤムス中央放送には国外向けの国際放送も存在しており、レーゲン語、タゴマス語、紋令語など計10言語で放送を行っている。

ラジオ

 セケシヤムスのラジオはセケシヤムス中央放送を中心とする。

新聞

 国営の新聞社である人民新聞社が発刊しているセケシヤムス人民日報が国内最大の新聞である。配給で受け取ることのできる新聞はこれのみで、他の民営企業が提供する新聞は市場で購入しなければならない。言うまでもなくセケシヤムス人民日報は内容に政府の意向が反映されており、プロパガンダ紙の側面を持つ。発行数が多い新聞としては、人民日報のほかにも社会主義党の機関紙である社会新聞、民間企業が発行するセスキ新聞バンユ新聞などがある。これらの新聞はみなインターネットでも新聞を公開しており、紙でなく電子でも購読できるようになっている。

通信社

 国営の通信社としてザトイシャイレ通信社が存在する。自由主義陣営の国々からは、ザトイシャイレ通信社が社説や主張を発表する際は、基本的にセケシヤムス政府の意向であると受け止められる。また、国外の通信社の支社が多数存在する。メディア安全法によって、外国の通信社がセケシヤムスで活動を行うには、政府の許可を得ることが義務付けられている。

社会

国民

人口

 1644年におけるセケシヤムスの総人口は推定15億1000万人で、第二位の紋令を大きく引き離して断然一位である。セケシヤムスだけで世界の総人口の20%近くを占めるという事実から、その人口の多さがよく分かるだろう。人口のうち老齢人口が19.3%、生産年齢人口が64.6%、若齢人口が16.1%である。現在生産年齢人口にあたる年齢の人々が高齢化することにより、セケシヤムスには将来深刻な少子高齢化問題が発生することが確実視されている。また、人口の男女比は男50.6%、女49.4%で僅かに男性の方が大きい(人数でいうと180万人強の差がある)。

 セケシヤムスは人口爆発による国民の貧困化を防ぐために人口統制を長らく推進しており、産児制限計画を1604年から1630年まで実施し、各夫婦が産んでよい人数を原則一人までに制限してきた。産んでよい人数は、1630年からは二人、1638年からは三人と段階的に緩められ、1642年には産児制限は存在しなくなった。むしろ現在ではこれまでに述べてきた通り、高齢化と人口減少が叫ばれている。

 産児制限計画は厳格に施行されたが、それでも地方では労働力として作られた無戸籍者(「隠れっ子」)が千万単位で存在すると考えられており、一説によると彼らを含めたセケシヤムスの総人口は16億2000万人であるとされる。また、長年産児制限を行ってきたことや、人生の選択肢の増加などの要因により、合計特殊出生率は出産自由化が果たされてからもあまり上昇していない。1637年に政府は「隠れっ子」の存在を部分的に認めて謝罪し、無戸籍者146万人に戸籍を与えた。

 セケシヤムスでは、1564年に三戸籍制が廃止されており、戸籍は一つである。中華人民共和国のような二戸籍制度などは採用されていない。しかし、引っ越しの際には自治体の許可を得なければならないので、都市部に引っ越したい農民が戸籍移転を断られて断念した、という事例はよく発生している。都市部への出稼ぎは自由だが、都市部に戸籍を置く人々と同様の社会保障等は受けられない。

 また、セケシヤムスの人口統計には意図的な操作が入っているという意見もあり、カールドムン大学(レイトガイジェン)が1643年に発表した研究によると、実際のセケシヤムスの人口は12億7000万人しかないという。もちろん政府はこういった研究結果に強く反撥しており、「我が国の人口統計は正確な値である」と同年に表明している。

民族構成

 セケシヤムスの民族の大多数を占めるのは、昔から東ノートムスで生活してきたジヤコアス族(zvhiyakoas)であり、全人口の78%を占める。次いで多いのが東ノートムス本来民族のセキ族(sfheki)で、12%を占める。これらニ民族は融和的で慣習も似ており、民族対立はほとんど存在しない。

 ジヤコアス族とセキ族以外にも、かつての「西方異民族」の末裔である少数民族が多数存在する。代表的な少数民族は、嘉納天族(カノテスタム族)、新資族(シンシ族)、蹲而族(ソンジ族)、幾厥族(キッティェク族)、羅犀族(ラセギ族)などである。少数民族といっても2000万近い人口を持つ民族もおり、多数派の少数民族はロイテンツ国家の人口を上回っていることもある。セケシヤムスは憲法で国家を構成する民族を規定している(合計65民族)。憲法に記載のない民族は「他民族」として一括りに扱われ、憲法に載っている少数民族が受けられる優遇措置や文化保護措置を受けることができない。

 セケシヤムス政府は、民族差別や民族意識の激化による国家の分裂を防ぐため、「セケシヤムスに住む人々は、各民族の構成者である以上に、"セケシヤムス人" という一つの大民族の構成者なのだ」という「唯一つの民族」なる思想を提唱している。この思想にしたがって民族教育がなされる。「唯一つの民族」思想は、少数民族の文化・伝統を希薄化し、多数派のジヤコアス族(やセキ族)と同化させるものだとする批判意見がある。

難民・移民

 セケシヤムスは難民受け入れ国の一つであると同時に、移民を国外へ送り出してきた代表的な国でもある。セケシヤムスはレイトガイジェンや紋令、タゴマスといった先進諸国に1500万を超える移民を送り出している。これらの移民は現地で集まって暮らし、各地のセケシヤムス街を作っている。近隣のパルーティーやハギト共和国、マーリカ共和国などにも数多くのセケシヤムス人が暮らしている。

 いっぽう、セケシヤムスはナオカロやガムテノ、イザエンクヴェなどからの難民を受け入れる姿勢を表明しており、これまでに100万人近い難民がセケシヤムスに受け入れられている。また、ビジネスの都合や、セケシヤムスに魅力を感じたなどの理由によってセケシヤムスに移住する人々も多く、1644年時点で230万人の移住者がいる。いずれにしても移民・難民は、セケシヤムスの法と秩序、社会主義の原則を守って暮らすことが要求される。

言語

 セケシヤムスの国家公用語は全国の共通語であるセケシ語(瀬:sekexirük)をはじめとして、嘉納語新資語蹲語など少数民族の言語を含み、計7言語である。セケシ語はネシヤ周辺の変種を参照にし、南部方言なども加味して人工的に調整された「標準語」をスタンダードとし、方言教育は官では行われない。ほかの公用語も同様で、各公用語ごとに標準となる変種が定められていて、方言は軽視されている。また、州ごとの公用語を定めることが許されており、公用語の数は州によって多少異なる。ただし、セケシ語はどの州であっても絶対に公用語としなければならず、他の公用語に比べて一段上に置かれている。

 各方言を含むセケシ語の母語話者数は15億人を超え、世界で最も多い。第二言語として話す人々を含めると話者数は20億人にも達すると考えられている。セケシ語は国際連合、世界社会主義同盟、ノートムス諸国連合の公用語の一つであり、レーゲン語と並んで国際語の地位を確立している。

 セケシ語はVSO語順を標準とする膠着語であり、表音文字のユステュン(üstün)文字により筆記される。セケシ語は閉音節言語であり、高低アクセントを持つ。全地方でのセケシ語教育が、法律によって義務化されている。数字は、世界で広く用いられているクレス数字と、セケシヤムス含む東ノートムスで長らく用いられているユステュン数字の両方が使われている。伝統的な場面ではユステュン数字のみを用いる。

 公用語でない少数派の言語も、憲法に規定されている民族の言語は保護の対象となり、振興活動の援助や言語教育(中学校まで)などの支援を受けることができる。ただし、実際には上記のセケシ語優遇政策によって、少数民族の言語を専用的に使用すると生活で不便が多いため、少数言語を話す大半の人々はセケシ語も修得する。また、「他民族」の言語は保護の対象とされておらず、多数の少数言語の絶滅が危惧されている。

宗教

 セケシヤムスでは、憲法により「社会主義政治を妨害しない」限りで信教の自由が認められている。国教を定めることは固く禁止されており、宗教団体を母体とする政治組織の立ち上げも許されない。また、宗教教育も厳禁である。

 セケシヤムス国民15億人余の約55%(約8億3000万人)が無宗教であり、無宗教者の割合はゲゾーラ世界連邦、バーゼンツァ、ヴァイウリアに次いで世界で四番目に高い。これは政府が宗教を制限してきたことと、実際には何らかの信仰を持っているのに自身を無宗教と考える人々が多いことが主要な原因である。

 セケシヤムスで信仰される宗教で最も多いのがテイダネシュ教で、信者は人口の33%を占める。テイダネシュ教はカノテスタム発祥の一神教だが、伝来する過程で東ノートムスの自然宗教と交わり教義が変化したため、現在では一神教の側面はかなり薄くなっている。次に多いのが自然宗教(まとめて「天道教」という)で、信者は人口の7.5%を占める。さらに少数派の宗教としてルザーユ教(2.1%)、シェハム教(1.7%)、玄巖教(0.7%)などが存在する。

 憲法では信教の自由が保障されているとはいえ、実際には宗教の抑圧が問題となっている。とりわけ一神教のシェハム教は「原理主義的で反社会主義的な宗教である」という理由で弾圧されており、信者や教会の監視、「不適切な」行動を行った信者の(不正な)逮捕などが行われている。ただし、多数派のテイダネシュ教や天道教を信仰している場合には、余程のことがなければ特に就職や政治活動で不利になることはないようである。実際、セケシヤムス社会主義党の党員のうち、21%がテイダネシュ教、5%が天道教の信者である。

 また、セケシヤムスはカルト宗教を指定しており、フルコ会気飛教(キッピ教)などの宗教団体が中央情報収集局の厳しい監視対象となっている。1639年には終末論を唱えるハイエヨ団の教徒が大量集団殺人を行う事件が発生し、団は強制解散処分をくだされ、主要幹部と実行犯はそれぞれ懲役刑、死刑となった。

教育

 セケシヤムスの義務教育は最低7年、最長10年である。義務教育は無料であり、授業用具・制服なども消耗品以外は公費でまかなわれる。まず4年間以上の小学校教育と3年以上の中学校教育を行うことは全国の義務となっているが、その後の義務教育をどのように行うか、また年数をどうするかは各州の裁量に委ねられている。教育内容も州が決められるが、内容は国家中央の監査を受け、不適当と判断されると修正するよう指示が出るので、実のところ州の裁量は小さい。セケシヤムスの識字率は長年95%以上を達成している。義務教育では、教科書は国家の検査を通ったもののみが使用できる(検定教科書制度――日本と同じシステムである)。

 中学校教育を卒業した後の教育機関は州により異なるが、おおむね、学問的教育を行う高等中学校と職業訓練をメインに据える職業専門校に分かれる。学力や個人の意志などによりどちらに進学するかが決定される。都市部では前者の割合が高く、地方では逆である。高等中学校または職業専門校を卒業した国民の割合は98%にのぼる(無戸籍者は含まない)。高等中学校と職業専門校の学費は安く抑えられている。政府はセケシヤムスの過度な学歴社会化を警戒しており、職業専門校を優先的に待遇している。また、障害者を教育するための障害者学校が全国各地に点在する。

 セケシヤムスの教育は詰め込み型である。その内容には社会主義や愛国精神を賛美する内容が含まれ、幼いころから国家の思想を国民に染み込ませることを目標としている。教育テレビでも娯楽要素を含むプロパガンダ映像や音楽が流されている。中学校以降では成績優秀者のため飛び級が認められているほか、逆にあまりにも成績が悪すぎると留年になることがある。

 高等教育機関として大学が存在する。有名どころの大学は首都ネシヤに存在するネシヤ大学、アルスフォンに存在するアルスフォン大学などで、そのほかにもレカトーマヤ大学、ハリブヤス大学などの名門大学が多数存在する。政府は大学をその論文発表数や学生数、国家への貢献の程度などによって特級大学、上級大学、普通大学の三種類に分類しており、それぞれ異なるレベルで待遇している。例えばネシヤ大学は特級大学であり、学費は平均して年10万日本円程度である。これが普通大学になると30万日本円を超える。1644年時点でのセケシヤムスの大学進学率は52%である。

 セケシヤムスの大学受験は、帝国時代から長らく行われてきた官僚登用試験である賢誠試験の影響が大きい。特筆すべき点は、大学受験はすべての場合で学力以外の経歴も見るという点である。大学に合格するか否かは、全国大学統一試験(全統試験)の成績と、履歴書の内容を勘案して決定される。従って中等教育課程までにいじめや刑事事件を起こしていると、たとえ全統試験が優秀でも不合格となる場合がある。とりわけ医学部や教育学部にその傾向が強い。ただしボランティアや部活の成績は、卓越していない限りは合否判定に影響しない。

婚姻

 セケシヤムスでは憲法により婚姻を認めている。結婚の最低年齢は男女ともに13歳(地球年齢換算で18歳程度)。セケシヤムスでは社会主義建国以来、長らく強制的夫婦別姓制度が続いていたが、1633年に選択的夫婦同姓が認められるようになった(帝国時代は強制的夫婦同姓だった)。セケシヤムスでは結婚しなければ子供を産んではならないという考えがいまだ根強いので、婚外子の割合は一割に満たない。婚約数は減少の一途を辿っているので、前文の考えは少子化の一因となっている。

 また、セケシヤムスは世界で最も早く同性婚を法律で認めた国である(1618年)。東ノートムスでは、世界の他の地域に比べて比較的同性愛に対する非難が少なかったのがその原因で、冷戦時代の政府はこれを利用して資本主義陣営のロイテンツ諸国を「遅れている」と批判していた。セケシヤムスでは、同性愛は多少奇妙な目で見られることはあっても、弾圧や排斥を受けることはほとんどない。建国の父リフトムがバイセクシャルであったことも影響していると考えられている。


社会問題

<地域格差>

 セケシヤムスでは都市部と内陸の地方との格差が大きい。これは経済改革前からの社会問題であり、いろいろな策が試みられているが、未だ解消していない。例えば首都ネシヤの1644年の平均年収は日本円換算で約620万円だが、内陸都市テグラヴァ(鄭禺羅把)のそれは約330万円とニ倍近くの差がある(参考:東京と沖縄の平均年収の差は200万円程度)。このために地方から都市部へ出稼ぎに行く人々が後を絶たない。政府は地方への優先投資や補助金制度などを通じて格差を是正しようとしているものの、解消の目処は立っていない。

<人権侵害>

 社会主義憲法には「国家は、人権を尊重し、これの擁護に努めなければならない。」と明記されているものの、セケシヤムスでの人権侵害は国内外から問題視されている。例えば、言論の自由や表現の自由が憲法で定められているにもかかわらず、実際には、政府への批判は軽いものを除けば規制や罰則の対象となる。また、メディアやインターネットには規制がかけられており、知る権利が侵害されている。

 このほかにも少数民族の同化や、公共事業における強制立ち退きなど、多くの場面で人権侵害が行われている。政府は否定しているものの、政治犯や「危険な行為」に走った少数民族を収容する収容所の存在も確実視されている。これらの人権侵害に対して、人権擁護団体や自由主義諸国、国際連合はたびたび批判や非難決議の採択を行っている。しかし政府はこれらの批判、非難に対して頻く反駁しており、はっきり人権侵害をしていたと認めたことは少ない(無戸籍者問題はその稀有な例である)。

文化

 セケシヤムスの文化は本来民族のジヤコアス族、セキ族の文化を中心としつつ、多数の少数民族の文化がそこに混じってつくられている。近年ではロイテンツ諸国の文化も流入しており、融合により新たな文化が生まれてもいる。

美術(絵画)

 美術の中心は着色絵水墨画であった。昔の絵画は藝術というよりは歴史の記録や実用品としての意味合いが強く、人物画や街の風景を描いたものが主流である。したがって写実的な絵が上等だという考えが長年支配的であった。絵を上手く描ける者は、場合によっては特別官吏として登用されることもあった。だが、絵が写実的だからといって現実を描いているとは限らず、皇帝の意向などによって意図的に美化された絵が描かれることもしばしばあった。

 テイダネシュ教の伝来以来には宗教的な絵もたくさん描かれるようになった。これは写実の原則を崩すきっかけとなった。なぜならばテイダネシュ教の楽園の概念や神、下僕などは現実には存在しないためである。カヒムは様々な宗教画を遺した。アデルム帝国の画家ギュザエリ(güzaeri)は人物画で知られるが、宗教画も少し描いている。

 さらにアデル厶帝国中期からは水墨画が興った。ウィンテオガル(winteogar)は数多くの風景水墨画を描き、セケシヤムス水墨画の父と呼ばれる。水墨画が描く対象は主に風景であった。水墨画は書道とも結びつき、絵の中に書道を組み込む絵画書道というジャンルを生み出した。

 現代に入ると所謂漫画絵やアニメ絵が勃興した。セケシヤムスはアニメや漫画などサブカルチャーの発祥地であり、現在でも世界的なサブカルチャー中心国である。

美術(書道)

 セケシヤムスでは古くからユステュン文字を用いた書道(カリグラフィー)が発達していた。この書道というのは日中韓で嗜まれている書道とはかなり異なり、単語をエレガントに書くか、ないしは単語や文で模様や絵を描くものである(アラビア書道に近い)。

 古来はユステュン文字の字体が定まっていなかったため、書道にも決まった型はなかったが、レフティヤ大王国になって文字改革が行われると、エイスイバシクラワといった書道家によって概ね型が定まった。古くは旧ユロード域で表語文字を用いた書道も存在していたが、レフティヤ大王国末期に行われた三急の改革によって絶滅状態となった。

 アデルム帝国時代には名書道家ユイトアル(üyitoar)が数々の作品を残し、後世の人間によって「筆聖」と称された。彼は書道における書体の二つを確立した。彼の弟子ムヤスピ(muyaspi)は絵画に書道の要素を加えた絵を描き、絵画書道のジャンルを興した。製紙技術の発展によって紙の製造が容易となり、以後書道は大きく発展した。スュラミャムス帝国時代は識字率が少し上昇したため、書道は都市部の上級庶民にも嗜まれるようになった。セケシヤムス社会主義国の成立後は、文化教育の一環として、書道が義務教育で必修となっている。また、国立の書道専門学校であるネシヤ書道学院が存在する。

舞踊

 セケシヤムスの舞踊は地域や社会的立場により極めて多様であり、古来からの民族舞踊から現代のバレエまで含めて三十種類以上の踊りが存在する。少数民族の舞踊も多く存在する。

 古来の国家、レフティヤ大王国の貴族らでたしなまれたのは林陽踊と呼ばれる静かで雄大な、儀式用の踊りである。これに限らず古代の舞踏は儀式的側面がたいへん強かった。林陽踊は近世までに消滅し、現代ではその詳細な動きを把握することはできていない。レフティヤ大王国の次に成立したアデルム帝国は正式に芸術部門を宮殿に置いた。この時代には西方異民族の文化も混ざった多様な踊りが発展した。その中で有名なのはサヤム(sayam)という、器楽なしの声楽に合わせたリズミカルな舞踊である。

 ブローゲン帝国以後は器楽が発達したため、踊りは楽器の旋律に合わせたものがメインとなった。この時代の舞踊の一つであるアッセオア(assfheoa)はパルティヤ(今のパルーティー)にも伝わり、現代でも伝統的行事として踊られている。舞踊はやがて演劇と結びついていき、ノワロンズ帝国時代前期にガユンヤプ(gaünghyap)という演劇の一形態が確立した。ガユンヤプは現在でも興行されている。また、南北朝時代からは民俗舞踊(フォークダンス)が興り、スュラミャムス帝国時代前期に確立した。

 スュラミャムス帝国後期からは西洋の舞踊と音楽が港湾都市に広まった。リフトムやエニトなど社会主義党の指導者らはヴァイウリア式のオペラをセケシヤムスへ持ち帰った。舞踊はミュージカルと結びつき社会主義プロパガンダにも援用された。現代で作られ著名である踊りとしては、運動のための体操舞踊が知られている。

 ジヤコアス族の民族舞踊の中で有名なのは、バランフィェ(baranghhwye)という静と動をはっきり区別した踊りで、北部でたいへん人気を博している。

文学

 セケシヤムスの文学は長らくが中心であった。詩は決まった形で韻を踏む文学の最高の形態である、という考えが支配的な状態が長年続いた。従って、散文で文章を書くのは歴史書や行政文書など限られた場合のみで、これらは文学としては扱われなかった。

 有名どころの詩人や詩には、真オークヮン王国の思想家テワジューン(tewajüün)(代表作:『人、かくあるべし』『上に仕え下に配る』)、分裂時代に活躍したベッサ(bessa)(代表作:『城に緑生ゆ』)、レフティや大公国時代のサーザ(saaza)(代表作:『酒詩』『長江歌』『泡酒に空を想ふ』クオシンバヤ(kuosfimbaya)(代表作:『雷雨』『名女烈伝』)などがある。とりわけゲットザグワ(gettozakuwa)はセケシヤムス史でも一二を争うレベルの名人であり、『機(かわ)る腕』や『秋に臨む』、『ミヤリュス王伝』など百を超える詩を遺している。

 それ以降もアデル厶帝国時代にシャード(xaad)(代表作:『リュバイス決戦記』)やヴィエシュタラーニユ(biextaraaniyu)(代表作:『カルベー貧窮詩』)、テオジェイ帝(代表作:『宮殿日記』)などの数々の詩人が活躍した。ブローゲン帝国時代には異民族国家である梁の出身の李剖殊(リバウシュ, ribaux)が『砂風吹く』や『数書』といった詩を作った。

 南北朝時代以降は散文が地位を上げていき、スュラミャムス帝国中期からは詩と同等の地位を獲得するに至った。散文詩の有名人としては続テオキアル帝例に挙げられる。彼は歴史書『全瀬地史』の編纂にも携わった。市井でも小説が書かれるようになり、今でいうサブカルチャーとして人々の間で流行を見せた。

 スュラミャムス帝国後期から現代までは小説が文学の主流となり、長年支配的な地位を確立していた詩はサブとなった。近代小説の父といわれるズイゲミ(zwigemi)は世界的に有名である。ただ、詩が絶滅したわけではなく、セクヮジョック=ネイェルウィ(sekwajok neyerwi)がアルゴイレレスの襲来を書いた『その日』は国家指定の詩となっている。また、冷戦終了後はサブカルチャーの台頭により、所謂ライトノベルの存在感が高まっている。現代で著名な作家としては、ヒューマン・ドラマを得意とするミオルス=ムィソッビ(miorus mwisobbi)がある。

哲学

 セケシヤムスはロイテンツ各国および紋令とならんで哲学が発展した地である。歴代の王国、帝国は、国家を支配するうえで、真オークヮン王国の思想者テワジューン(tewajüün)と分裂時代の哲学者ペユタ(peüta)がそれぞれ唱えた下配思想罰統思想を基盤となしてきた。前者は上位の者は下位の者に施しを行い、下位の者は上位の者に感謝し奉仕すべきであるという思想であり、後者は国家を支配するうえで重要なのは法律で罪と罰を定義し、国民を統制することだという思想である。

 レフティヤ大王国後期の哲学者エイスイダル(eisuidar)は、国の支配者は天が決めるという天決説を唱えた。天決説はその後の皇帝支配の根拠となり、テイダネシュ教が広がった後も形を変えながら生存した。

 代表的なセケシヤムスの哲学・思想には、以下のようなものがある。

・下配思想…上述した。

・罰統思想…上述した。

・法徳治学…国家は法律と倫理の両方をもって治めるべきであるとする思想。

・天決説…上述した。

・陽転学…テイダネシュ教に関する哲学の一派。

・自然存在論…自然と人間のかかわり、違いなどについての哲学思想。

・新科学的社会主義思想…ロイテンツで生まれた科学的社会主義思想を、セケシヤムスに適応するように変更したもの。

・ルヮイサム経済理論…市場経済と社会主義を両立させることは可能で、これが国家の発展をさらに促すという考え。

映画・ドラマ・アニメ等サブカルチャー

 映画が興った時期、セケシヤムスでは既に社会主義政権が成立していた。国家は映画を重要なプロパガンダ手段であると見なし、映画産業の支援を行うこととした。社会主義党の主導で社会主義革命や解放戦争を描いた映画が多数作られ、人々の人気を博した。現在はプロパガンダ映画の製作は下火となり、民間でたくさんの映画が製作されている。代表的な映画として、サイバーパンクチックな未来都市を舞台としたSF映画の『孤高のソルダ』(1631年公開)や、戦争で引き離される二人の悲恋を描いた『明日、もう一度空を見よう』(1640年公開)などがある。

 セケシヤムスの映画は資本力に物をいわせた豪華なCGや登場人物、ロケなどを特徴としており、世界中で人気を博している。1644年の映画売上ランキングトップ10のうち、第二位、第三位、第五位、第九位がセケシヤムスの映画であった。近年では、レイトガイジェンや紋令の映画会社と共同して製作される映画も増えている。ほとんどの映画は公営機関であるセケシヤムス映画評価委員会の審査を受けたうえで公開される(海外の映画も同様)。

 ドラマは「セケシヤムス・ドラマ」として世界中で人気である。歴史モノは帝国時代の物語(後宮、皇帝、庶民、軍師などが主流なテーマ)がメインとなり、稀に近現代が舞台ともなる。歴史以外にもヒューマンドラマやSFもの、サスペンスなどのジャンルも人気である。ドラマも政府のプロパガンダ手段の一つとなっている。

 また、セケシヤムスはアニメ漫画が発展した国でもある。1612年に製作され、現在でも人気なSFアニメーション『ベウディバイ』をはじめとして、ファンタジーやSFものが多い。『ディヤ・カリス物語』シリーズは1626年に第一作が作られ、今でもOVAやリメイクが製作されている。近年では学園モノや異世界転生モノも台頭しつつあるほか、BL, GL を題材とした作品も作られている。

 セケシヤムス政府はアニメや漫画、ゲームなどサブカルチャーにも寛容で、反政府的・反社会主義的でないならば基本的には制限していない(映画やアニメでも同様)。親政府的な作品は援助を受けることもある。また、性描写の規制も緩い。毎年3月と9月にネシヤで開催される同人誌即売会兼コスプレイベント兼アニメ/漫画展覧会であるヤソット・パト・デシュルイムス(yasfot pat dexuruimus「漫画全店」の意)には、国内外から30万人以上の人々が参加しており、盛況を呈している。

食事

 単にセケシヤムスといっても国土が広く、東西南北では料理が大きく異なるので、一概に述べることはできない。しかし一般に「セケシヤムス料理」といえばジヤコアス族の民族料理を指す。ジヤコアス料理は世界三大美食の一つに数えられる。その特性は南北でかなり違っており、北部はさっぱりした味付けの料理が、南部では唐辛子などのスパイスを用いた辛い料理が多い。いずれにしても油をふんだんに使った料理が目を張る。近世以降に入ってきたトマトやピーマンを使った料理もある。

 代表的なセケシヤムス料理(ジヤコアス料理)には、たくさんの具材を炊いたご飯とともに油で炒めるリサンジョ(risfhanjo)、野菜と肉を炒めたものに大量の唐辛子と香辛料を加えてできるハーカン(haakkangh)、あっさりとした塩スープが特徴的な麺料理のヘーニスダン(heenisdan)などがある。西方料理では、様々な部位の肉をまとめて串刺しにして焼いたトッパギ(toppagi)や饂飩に似たスープ料理のオヴァモ(obamo, 新資語: o'vamo/於芭摸)が有名。

 一般に、食事はセケシヤムスでは非常に重要視されており、たとえ忙しくとも食事を疎かにすることは稀である。東セケシヤムスでは余った食事を持ち帰ることができる店が多い(食中毒の危険があるため、政府は推奨していない)。また、食事の基本道具はである。箸の素材は北東部では金属が多く、それ以外では木や竹が多い。箸のほかにも匙やフォーク、れんげなどが補助的に用いられる。

 飲み物としてはの文化がたいへん栄え続けている。東ロイテンツの諸語や西ノートムスの諸語で「茶」を意味する言葉はいずれもセケシ語の "bie" が語源となっている。紅茶や緑茶、焙茶など二十種類以上の茶が人々に愛飲されている。セケシヤムスの茶の生産量と消費量はともに世界第一位、一人あたりの消費量でも世界第二位である。茶のほかにもコーヒーや清涼飲料水、水や酒などが全国的に飲まれている。清涼飲料水のうち、炭酸飲料としてはパッチシュダイン(pattixdain, レーゲン語: Paccixdain)というレイトガイジェン発祥の飲料が大変人気である。酒はアルコール度数が高くないものが好まれる。

 地域によっては肉を生で食べる文化も存在するが、セケシヤムス政府は食中毒の原因になるとして、特別な許可を得た場合を除いて肉を生で提供するのを1642年から法律で禁止している。倫理的観点から、動物を生きたまま食べるのも基本的に禁止されている。

衣装

 ジヤコアス族の民族衣装はジヤコアス服と呼ばれる。これは、デザインが施された薄めの服や布を何枚か重ねて服とした衣装であり、特に宮中や貴族の中で好まれたものである。セキ族は南部に住んでいたため、薄い布をぐるりと巻いて作るゼジヨ(zezvhiyo)という暑さに適応した服を着ていた。

 どちらにせよ、近代以降にロイテンツの文化が入ってくると、人々が普段着る服は洋服となったので、現在では上記の民族衣装は祭典や儀式のときに着るのがふつうである。だが日用にする人もいないわけではなく、1643年の調査によれば9%の人々がジヤコアス服またはゼジヨを週3回以上着用している。

 また、西部の少数民族が多く住む地域では、彼ら少数民族の伝統衣装が着られている。紫外線から肌を守るために発達した、長袖と頭巾を特徴とする嘉納天族のファトングは有名な民族衣装である。

音楽

 セケシヤムスでは昔から音楽が盛んであった。音楽は主に口唱(所謂アカペラ)が中心で、楽器はサブという扱いであった。宮廷ではハーンユッベク(haangh'yubbek「口楽器」の意)と呼ばれる音楽家が住んでおり、皇帝や大臣、後宮の人々に曲を口で演奏して聞かせていたようである。また、音楽は詩の吟唱としても現れ、詩をフォーマルな場で詠む際には決まったリズムと音程で詠じるのが美しいとされた。

 テイダネシュ教の流入によって、宗教音楽も成立した。テイダネシュ教の聖典『聖トリガノ伝記』は、詩の吟唱リズムを改変した七短九長調と呼ばれる緩急をつけた音楽に乗せて話すのが正統となった。音楽は布教や精神高揚、政治的目標達成の手段として大いに活用された。ブローゲン帝国時代からは楽器も発達し、長琴やブォーノ(bwoono, 横笛の一種)といった楽器が広く用いられるようになった。スュラミャムス帝国時代に入ると宮殿に住まう人々のための宮殿音楽と呼ばれる楽曲が確立したほか、市井の人々にも音楽が開放されるようになった。1480年には軍に属する帝国正軍楽隊が結成された。

 近代になりセケシヤムス社会主義国が成立すると、国威発揚や社会主義宣伝のためのプロパガンダソングが必要となった。社会主義党の党員らはレイトガイジェンの剛健派と呼ばれる、壮大な曲調を特徴とする音楽に着目し、これを大いに取り入れた。国歌の『社会主義行進曲』は超典型的な剛健派の楽曲である。このほか、『セケシヤムス社会主義党党歌』『人民防衛軍歌』『兵士の旅路』など多くの楽曲が剛健派の特徴を持つ。もちろん旧来のセケシヤムス音楽に則ったプロパガンダソングも数多く存在する。

 現代ではロイテンツの音楽をもとにしたロックやポップス、電子音楽なども大衆の間で流行しているほか、所謂アニメソングや電子音声歌唱曲(アルジディヴァイ:ボカロ曲)がサブカルチャーの一翼を担っている。かつての政府はこういった現代音楽を規制していたが、資本主義陣営との融和政策の一環として1624年に規制が大幅に緩められ、現在ではおおむね自由となっている。

スポーツ

 セケシヤムスでは体育・スポーツ基本法が制定されており、国民の基礎体力や精神を向上させるための手段として体育やスポーツといった運動を振興している。国家組織の一つに人民運動推進課というものがある。 地域の運動クラブの設置が法律により義務付けられている。

 セケシヤムスで流行しているスポーツは棒球、いわゆる野球である。また蹴球(サッカー)も人気である。セケシヤムスの棒球チームであるバイェトィ・リュスは世界大会で幾度も優勝を収める強豪チームである。また、蹴球のチーム球戦部隊は1640年世界蹴球大会で優勝した。これら現代スポーツ以外にも、伝統的スポーツであるヌヮシャム(nwasyam, 格闘技の一種)や弓撃(矢を的に当てるスポーツ)などが広く遊ばれている。このうちヌヮシャムはパラスカサウム競技祭の科目の一つに入っている。

 セケシヤムスは1615年夏期パラスカサウム、1623年冬期パラスカサウム、1641年夏期パラスカサウムの開催国となった。1641年のパラスカサウムではセケシヤムスは金メダル43個を獲得し世界一の獲得数を誇った。パラスカサウムの実行にあたり、政府は強権も行使して会場やその周辺の整備を進めた。

 これらのほかにも、一年に一回、ソワッキ・レースとよばれる2300kmに及ぶ超長距離を走る自転車レースが開催されているほか、マラソン大会も定期的に催行されている。海に面した地域ではマリンスポーツ、北部の降雪地帯ではスキーやスノーボードといったスノースポーツが楽しまれている。

世界遺産

 セケシヤムスには65の世界遺産が存在する。うち46が文化遺産、19が自然遺産であり、登録数は世界第一位である。有名な世界遺産として、文化遺産では、スュラミャムス帝国時代の大宮殿である至天殿、最古の王朝であるパリブ王国の遺蹟であるパリブ遺蹟、レフト二世の墓であるレフトナディ、異民族からの防衛壁である大長城、複数の大河を南北に貫く東貫大運河などがある。自然遺産では、国内最高峰であるタゲウテル山、壮麗なV字谷のオビス谷(オヴィス谷)、などがある。なお、タゲウテル山は国境をまたぐ。