リフトム=ラッシャム

 リフトム=ラッシャム(瀬:rihwtom raxxam /ɾiʍtom ɾaʃʃam/, 玄暦1528年1月4日~1590年11月30日)は、セケシヤムスの革命家、政治家。1558年にセケシヤムス社会主義革命を起こし、同年にスュラミャムス帝国を打倒してセケシヤムス社会主義国を建国、1576年まで国家主席の座に就き国を統治した。また、1553年から1577年までセケシヤムス社会主義党の書記長を務めた。彼の政治思想は「東洋式科学的社会主義思想」と呼ばれ、世界中の社会主義国に大きな影響を与えた。

概要

 1528年1月4日(小正月)、スュラミャムス帝国南東の都市アッテャルに、上中流階級の家庭の次男として生まれる。父のオバヒヤは地元の役人で、帝国を支持していた。また、母のイウダルンはテイダネシュ教の信徒であった。彼は幼いころから労働を両親に強いられたが勉学にも励んだ。結果、民教院(今の義務教育学校にあたる)では常に優秀であり、10歳のときに大学への進学を勧められた。12歳で彼はアルスフォン大学に合格し、西洋留学生の一員となった。

 リフトムはレイトガイジェンのナッドウリック大学に1年間留学し、このときに初めて社会主義思想(ヴァンジャイの提唱した「科学的社会主義思想」)に触れた。彼はヴァンジャイの著書『社会主義――理論と実践』を購入して読み込み、スュラミャムス帝国に持ち帰った。

 帰国後は大学を優秀な成績で卒業し、民教院の教師を務めていたが、社会主義思想に傾倒していったために危険人物扱いされ、1543年12月に少しの失敗を理由として辞職させられる。次の職を探していたところ、偶然、セケシヤムス復興党(当時は非合法組織であった)のメンバーであるエニト=シェッセンを助けたことで党の事務としての職を得た。この後、エニトとは生涯の友人となる。

 リフトムはその優秀な頭脳を次第に周りに認められていき、1545年8月には正式な党員となり、翌々月に自説である東洋式科学的社会主義思想を発表した。東洋式科学的社会主義思想はヴァンジャイの理論を東ノートムスの文化や慣習などを鑑みて修正したものである。彼は順調に才覚を表していき、1549年10月に党の幹部職の一つである下管理員に就いた。

人物・逸話

・自身は無宗教者であったが、宗教についてはある程度の意義を認めており、ゆえにセケシヤムスの建国後も宗教を禁止することはなかった。ただし宗教に対して無批判ではなく、著書の中で「盲目な信仰は往々にして大きな害をなす」と記している。

・セケシ語のほかにもレーゲン語やタゴマス語を読み書きすることができた。特にレーゲン語は得意で、通訳なしで現地人と会話することも可能であった。紋令語も基本的な文や会話なら理解できた。

・名君として知られる続モソンイダル帝やトヮズヤリス帝、テオキアル帝を尊敬しており、彼の言葉を訓示に用いることが度々あった。

・論理的思考力に長けており、冷静に考えることが得意であった一方、ときおり非常に直情的になることがあった。妥協の必要性を知っていながら、真に必要であるとき以外は折衷をせず、どちらかの主張のみに偏ることが多かった。

・両性愛者であり、生涯で恋愛交際した8人のうち3人が男性であった。親友エニトとは所謂ブロマンス的関係にあった。

著書

・『東洋式科学的社会主義とは何か』

・『君主制の欠陥』