レーゲン語はアプリオリなのか?

 このページでは、レーゲン語のアプリオリ要素について論じます。2023/8/17時点での私の意見です。

まえがき

 まず、アプリオリとは何なのか、について述べる。アプリオリはラテン語の "a priori" から来ており、日本語では「先験的」とか「先天的」と訳される。経験に依存せず、先立っているさまである。砕けた言い方をすれば、「完全オリジナル」とか「何からもパクってない」といったところだろう。逆に、何かを参考にしたことをアポステリオリ(a posteriori)という。レーゲン語は一般にアプリオリといっているが、実際にはどうなのかをこのページで解説することにした。

 筆者の見解が多く含まれることをあらかじめ断っておく。このページはほかの人々の考えを攻撃する意図では書かれていない。明らかに誤解している点があればご指摘していただければ幸いです。

レーゲン語はアポステリオリか

 正直に言うと、レーゲン語は少々アポステリオリ要素の混じったアプリオリ人工言語である。アポステリオリ要素が特に多く含まれているのは、単語である。先験化されたものがアプリオリなのかどうかは議論の余地があるだろうが、筆者は完全なアプリオリではないと考えている。造語の際には英語の語源などをそのまま採用することもある(2020年6月以降は減少)。

 世界設定も実は割とアポステリオリ要素が混じっている。簡単にわかる分でいえば、ラシェント→ロシア、イェッタリン→イタリア、チェンラ→チリといったものが挙げられる。もう少しわかりにくい所でいうと、ウィートレン→ホワイトランド(グリーンランドのもじり)などである。当然だが世界設定の大半の名称などは筆者が自分で考え出しているから、アプリオリである。アプリオリ:アポステリオリの割合はだいたい9:1くらいだろう。

 国家の設定もいろいろな作品に影響を受けた。レイトガイジェンが半分独裁のようになっているのはジョージ=オーウェルの『1984年』からだし、憲法の部分は日本国憲法と中華人民共和国憲法を大いに参考にさせてもらった。

 だが、筆者はアポステリオリ要素を悪だとは思わない。創作をするうえでアポステリオリ要素が混じることは不可避である。おそらく、相当な努力をすればアポステリオリ要素をほぼ消し去ることもできるのだろう。だが、それをするために必要な労力と時間に対して、成果があまりにも少ない(アプリオリ要素の割合でいうとアルカを超えるのは無理(ただしそのアルカも相当のアポステリオリ要素が含まれているようだが(『アルカの書』より))なので、わざわざやる意義がない)ので、するつもりはあまりない。

 レーゲン語を作っている第一の目的は響きがお堅い言語を作ることであるので、これを達成するためにはさして重要ではない「完全アプリオリ」に労力を注ぐ暇はたいしてないのである。

アポステリオリは悪なのか

 現在の人工言語界隈では、「アプリオリ主義」というものがやや有力である。アポステリオリ人工言語は「わるい」ものであり、純粋なアプリオリで作りこまれた言語が最良だ、という考えである。ここで、アポステリオリというのは本当に「わるい」ことなのかということを考える。

 当然、1万を優に超える語彙数を持ち、豊富な世界設定を持つアルカを四半世紀にわたって作り続けてきたセレン氏らの業績は讃えられて然るべきである。しかし、決してアポステリオリ人工言語というものが劣っているとはえない。世界で最も話者が多い人工言語はエスペラント(100万人程度)だが、これは主に欧米の言語を基としたバリバリのアポステリオリ人工言語である。エスペラントには確かに、語法が確立していない、ヨーロッパ中心主義である、などの問題点はあるが、コンピューターもない20世紀前半に、10代から資料をかき集めてひたすらに国際語を作り続けたザメンホフ氏の苦労は計り知れない。しかも、現在エスペラントは国際語とまではいかずとも、多くの人々に名を知られている。言語は話す人がいなくなれば死んでしまうから、そういった意味ではエスペラントは大成功である。

 なお、エスペラントのヨーロッパ中心主義という問題点だが、これはコンピューターのない時代では仕方がなかったと思う。当時、ヨーロッパに住んでいる人間がアジアやらアラビアやらの遠方の情報を入手するということは困難だっただろう。ならば近隣のヨーロッパの言語を借りるしかなかったはずだ。

 

 創作作品にはしばしば○○星人が話しているという設定などで人工言語が登場する。例えば、アーヴ語、グロンギ語、ナヴィ語、ガミラス語、アルベド語などである。これらは概ね――トールキンの『指輪物語』を除いて――、既存の言語の置換などでつくられた、いわば作りこみの浅いアポステリオリ人工言語である。セレン氏はこういった「クオリティが低いくせに知名度が高い言語」を軽蔑していた(『心の闇とひとつの誓い』より )ようだが、筆者の考えでは、こういった言語も問題ないと考える。

 なぜかというと、これら「作りこみの浅いアポステリオリ人工言語」というのは、作品の装飾物としての役目が主であるからだ。これら人工言語は、作品の主幹を成すものではなく、あくまで雰囲気を出すために登場している。ならば、これらをアプリオリ言語として作りこむ道理はない。たとえそうしても、作品を楽しむ人々のほとんどは作中の言語の作り込み具合など気にしないから、徒労に終わるのだ(もちろん、これらが精巧な人工言語かどうかという点では、拙いことは言うまでもない)。人工言語はその人工言語が創られた目的に則って評価されるべきではないか。

 こういった理由で、筆者はアポステリオリ人工言語が悪いものとは考えていない。当然ながら、出来の良さのみを評価するならアプリオリの方に軍配が上がるが、アポステリオリ人工言語には「娯楽品の道具」という別の使い道がある。また、アポステリオリ人工言語はとある楽しみ方もできる。その言語を見聞きして、元となった言語のことを思い起こすという楽しみ方だ。例えば、エスペラントの akvo(水)という単語はラテン語の aqua から来ている。『指輪物語』に出てくるエルフ語は古ゲルマン語派の言語をもととしており、それらを知っている人は「この単語は古○○語の□□から来ているのか!」などとして元の言語を推察して楽しめる。これはアプリオリ言語ではできないことである。


 そもそも、人工言語(世界)を完全にアプリオリとすることは不可能である。人間は無意識のうちに身の回りにあるあらゆるものから影響を受け続けており、これから逃れることはできない。どうしても自分が生活してきた世界(現実)での知識・経験が、先験的な試みを妨害してくるのだ。アプリオリを追求するというセレン氏らの試みは、人工言語の歴史にその名を刻むわざとなった。しかし、一般の人工言語作者はあまりアプリオリ主義に固執せず、むしろアポステリオリの概念を自分なりに改造して、アプリオリ化すればよいのではないだろうか。これを筆者は個人的に「先験化」と呼んでいる。

 筆者が行っている先験化の例を挙げてみる。

 レーゲン語の gopas(ペン)という単語は英語の pen を参考にしたもので、アポステリオリな単語だが、この単語は太球(レーゲン語が話されている惑星)では古レーゲン語の gopa'os(鋭い)という単語がもととなっている。英語の pen の語源はラテン語の penna(羽)に由来するから、語源という面では完全なアプリオリである。レーゲン語の単語の少数はこの先験化によって造語されている。ほとんどの場合、2018年以前に作っていた原始麗語と呼ばれる人工言語(アポステリオリ)より借用した語彙に先験化を適用している。

 たとえ元のアイデアがアポステリオリ要素を含んでいたとしても、独自の考えで先験化を行えば、もはやそれはアプリオリなアイデアとなるのだ。アプリオリそのものに固執して創作活動を楽しめなくなるのは非常にもったいない。もちろん、アプリオリの追求を楽しんでいるなら、それに越したことはない。

 ただし、「アポステリオリだらけでも許される」と勘違いして、アポステリオリなものばかりを作るというのも考え物かもしれない創作物は無理のない範囲で、できる限り自分独自の発想を基にして作るべきである。だがそこに既の要素を含むのは別に問題であるというほどではないと考える。

おわりに

 以上でこのページは終わりである。これはあくまで筆者の意見に過ぎないので、「アポステリオリは駄作」とか「アプリオリこそ史上」といった考えを否定するつもりはない。むしろそういった考えがあった方が、世の中に多様性が生まれるのでよいと思う。

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