IF世界:社会主義の勝利

 「社会主義の勝利」という、社会主義が史実よりも伸長したもしもの世界の設定です。このページの利用は、CC-BY SA 4.0 のもとで許可されます。

注意!:この世界設定は、一切の政治的主張を含みません。また、私はこの世界設定を利用して、いかなる政治的・政治思想的な主張も行いません。当世界設定は、あくまでも歴史の分岐点を想定して、そこから世界がどう変わっていくのかをフィクショナルに考えるものです。私は社会主義者でも共産主義者でも無政府主義者でもありません。

 最後に、末筆ではありますが、社会主義、共産主義の思想によって起こされた暴虐で命を落とした無辜の人々に弔意を表明いたします。

歴史の分岐点

 いろいろありますが、最大の分岐点はスターリンが書記長にならなかったことです。

歴史概説

※区分けは大体のもので、時代は頻繁に前後します。

第二次世界大戦終戦まで

 資本家による労働者の酷使や、産業革命による貧富の格差の拡大という事情により、古くはロバート・オーウェンなどが提唱した空想的社会主義として誕生した社会主義思想は、マルクス、エンゲルスの両者によって本格的にまとめられ科学的社会主義として実現への道が開かれた。世界初の社会主義国として1871年、パリ・コミューンが誕生。非常な短期間しか存在しない国ではあったが、社会主義が現実のものとなることができることを示した。続いてフランスやドイツなどの当時の先進国で社会主義政党が誕生。これによりプロイセン宰相であったビスマルクは社会保障制度の導入を決定する事態に至った。

 1889年には第二インターナショナルが結成され、世界的な社会主義思想の拡張の始まりとなった。ここにおいて、社会主義思想は暴力革命も辞さないマルクス主義と、民主主義による平和的革命を目指す社会民主主義に分裂した。その後は1914年に勃発した第一次世界大戦の戦乱もあり、第二インターナショナルは崩壊してしまった。その頃日本では日本社会党などの社会主義政党が合法的に誕生したが、のちに治安維持法の制定をはじめとする各種の政策によって弾圧された。

 サライェヴォ(サラエボ)でオーストリア大公であったフランツ・フェルディナントとその妻が殺害されたこと(サラエボ事件)を原因として始まった第一次世界大戦では、フランス、イギリス、ロシア、セルビア、大日本帝国などからなる協商国と、ドイツ帝国、オスマン帝国などからなる同盟国とが戦ったが、結果は協商国の勝利に終わった。ドイツ、オーストリア、オスマンの三帝国は崩壊し、ドイツは極めて莫大な賠償金を負わされることとなった。

 第一次世界大戦の終戦後、戦争の疲弊によって1917年にロシア革命が勃発し、ソビエトはウラジーミル・レーニンの指導のもと、まもなく同時に興っていたケレンスキー政権を打倒、ロシア・ソビエト社会主義共和国が誕生した。「社会主義は成熟した資本主義のもとで達成される」というマルクスの理論に適合せずに生まれたが、ソ連は崩壊することなく社会主義を国中に浸透させていく。1919年には第三インターナショナルが設立され、世界各地に共産党が誕生した。1921年には中華民国で中国共産党が結成された。日本でも日本共産党が結成されたが、まもなく非合法化された。1922年には旧ロシア帝国領にあった複数の国々を統合し、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生した。同年中にはアジア初の社会主義国であるモンゴル人民共和国建国された

 1924年のレーニンの死後、史実とは違い、性格に難があるためにスターリン(ヨシフ・ジュガシヴィリ)は後継者となれず、幹部の地位に留まることとなり、代わりにアレクセイ=ルイコフが実権を握った(註:ルイコフは史実と異なり、レーニンと軌を一にしていた)。当時ソ連は第一次世界大戦の被害から立ち直るため、部分的に市場経済を取り入れるネップ(新経済政策)を実施していたが、これにより貧富の格差は拡大した。そのため、ルイコフはネップの段階的縮小を決定した。また、彼は世界革命論を唱えるレフ・トロツキーを国外へ追放し、ソビエト連邦だけで社会主義を建設できるとする一国社会主義論を採用した。

 1928年からは側近スターリンの度重なる提案によって、ソ連初の社会主義経済計画である第一次五カ年計画が始動した。第一次五カ年計画では、ソ連を農業国から工業国へと生まれ変わらせることが目標とされた。そのために、コルホーズ(集団農場)の建設などによって農業の集団化が実施された。集団化の過程で富農(クラーク)や反対派の農民が捕縛され、多くの農民が苦難の道を歩むこととなったが、これによって長らく停滞していた農業の近代化が行われ、ソ連の農業生産の向上が果たされた。

 工業化においては、「反革命」の罪を着せられた人々の強制労働もあり、ソ連全土で工場(特に重化学工業の工場)の建設や電化が進められた。資材や機械の調達は、農作物の輸出による外貨獲得がその手段となったため、特にウクライナ共和国で飢餓輸出まがいの穀物輸出が行われた。1928年から1933年までで、17万人のウクライナ人が餓死したといわれる。だが、何にせよ工業化は果たされ、後述する世界恐慌の中でもソ連は鋼鉄、石油、石炭などの生産を著しく伸ばしていった。ただし、これらの生産は質より量を重視していたため、質は悪いものが多かった。

 この第一次五カ年計画は、穏健派のルイコフにより進められたので、史実よりも成果は低かった。ただし、ノルマの強要が少なかったため、平均した質の面では史実よりも上であった。

 資本主義を堅持しようとするアメリカやイギリス、フランス、日本などは社会主義の広まりを制圧しようとしたが、これは1929年に起こった世界恐慌によりある程度の挫折を迎えた。資本主義の欠陥を明らかにしたこの大恐慌によって、社会主義運動は増大した。世界恐慌を乗り切るために、アメリカ、イギリス、フランスといった「持てる国」はブロック経済を形成し、大日本帝国やドイツ、イタリア、スペインなどの「持たざる国」は領土侵略や全体主義などの軍国主義に走った。ヒトラー率いる第三帝国はソ連と対立した。アメリカのニューディール政策に代表されるように、社会主義化を恐れた国は福祉政策を実施した。前述の通り、ソ連は第一次五カ年計画に基づいた計画経済を実施していたので、世界恐慌の影響をほとんど受けなかった。

 「持たざる国」の詳細については、ドイツでは1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)党首であるアドルフ・ヒトラーが一党独裁体制を確立し、戦後賠償で苦難に喘いでいたドイツ国民の支持を買った。イタリアではそれよりも少し前の1922年にファシスト党党首であるベニート・ムッソリーニが全体主義体制を確立した(ファシズム=全体主義の勃興)。日本では1932年に中華民国領満洲に満洲国を建国し、また、同年5月中には犬養毅首相が暗殺されたことにより民主主義政治が終了した。

 ルイコフは個人崇拝を厳禁とするレーニンの考えを受け継ぎ、自分だけでなくソ連建国の父たるレーニンのむやみな崇拝もやめ、革命家としての「等身大」の評価をすべきであるという立場に立った。彼の指導のもとでは、大粛清や著しい量の密告などは発生せず、粛清されたのは積極的な反対派や反政府主義者、ブルジョワジー、富農(クラーク)など、少数に留まった。粛清によって死んだソ連の文民は30万人程度といわれる。

 1930年代前半から後半にかけて、ルイコフは赤軍の中にあった「反対派」を粛清した(スターリンやベリヤなどが関わったとされる)。組織引き締めのために行われたこの粛清により将校の1割が消滅するなどして赤軍は組織として弱まった。粛清は一般市民にも行われ、5年で10万人もの人々が政治犯として収容ないし殺害された。なお、粛清による赤軍の弱化は、後に始まる第二次世界大戦の要因となる。

 1938年からドイツは過去のドイツ領土を取り戻すという名目で領土拡大政策を開始。はじめにオーストリアを併合し、9月にはチェコスロバキアに対し割譲を要求。これに反発した英仏との間であわや直接的な武力衝突が起こるところにまで事態は達したが、イタリアの仲介により、以後の領土拡大をやめるという合意を得たことで戦争はいったん回避された(ミュンヘン会談)。

 しかしヒトラーは1939年3月にはこの協定を事実上破棄し、チェコスロバキアを半ば強制的に併合した。これに対しイギリスは激しく反発したが武力行使には出ず、ドイツが冒険に出てもイギリスが武力行使に出ることはないという考えをヒトラーに持たせることになった。アメリカ、イギリスと並ぶ脅威であるソビエト連邦を彼は警戒し、1939年5月には独ソ不可侵条約を締結した。ルイコフはヒトラーと握手するというパフォーマンスを行った。

 その後もドイツはポーランドをソ連と共に東西で分割し、1940年の春になるとベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)やデンマーク、ノルウェーに電撃戦を仕掛け、立て続けにドイツ領に組み込んだ。6月にはフランス全土を占領し(後に国家弁務官による間接統治に変更)、ドイツは葡・西・英を除く西~中央ヨーロッパのほとんどを版図に収めた。それにもかかわらずイギリスが武力を行使することはなかった。内戦に勝利したファランヘ党が率いるスペインの指導部は、再三行われたヒトラーの脅迫じみた参戦をぎりぎりのところではねのけ、できる限り中立を保つように努めた。

 続けてドイツはスペインの消極的協力を得てブリテン島をも占領しようと攻撃を行ったが(バトル・オブ・ブリテン)、これはうまくいかず、戦況は膠着状態となった。ヒトラーなど指導部はソ連にその活路を見出した。ソ連はこのころ内政を進めており、順調な発展を遂げ続けていたが、軍事はそれほど強力でもなかった。これを機とみたヒトラーはソ連侵略を決断した(史実よりも改革派の欠如などによって赤軍が弱かったことが最大の要因である)のである

 1940年12月、大日本帝国が真珠湾攻撃を決行し、アジア・太平洋戦争が勃発。これにより戦火は世界中に広まっていった。真珠湾攻撃から半年強が経った1941年5月30日、東方生存圏を確保するという名目でドイツは独ソ不可侵条約を破り、ソ連への侵攻を開始。第二次世界大戦が開戦した。ソ連は英米と同盟を組み、日独伊などの枢軸国に反撃した。

 戦争は当初こそ枢軸国優位で進んだが、ヨーロッパでは冬将軍の到来や補給線の伸び、日本では中華民国の堅強な抵抗やアメリカの強大な軍事力、補給線の伸びといった原因が重なり、枢軸国は不利となっていった。ソ連は大粛清が起きなかったため国力をじゅうぶん維持することに成功し、経験豊富な将軍の集う赤軍はドイツに対して強力な反転攻勢を敷くことができた。ルイコフは名将トゥハチェフスキーを本格的に起用し、赤軍を改革した。赤軍への粛清は止まり、ソ連の軍事力は史実レベルを超越して著しく強化された。

 「大祖国戦争」という名称に代表される積極的なプロパガンダや、ドイツで行われているユダヤ人の絶滅政策(ホロコースト)という情報もあり、兵士の士気も高かった。ドイツ軍は1943年11月にはソ連全域から撤退させられ、ソ連はドイツが占領していたバルト三国を再び強制的に併合した。また、フィンランドのカレリア地方やラッペーンランタ、ヨエンスーをも併合し、ロシア共和国に組み込んだ。

 スペインは1944年に入るとドイツとの協力を実質放棄し、連合国に迎合した。ドイツは、ソ連に全土を占領されて大敗北を喫し、1945年4月に降伏した。イタリアやフィンランドも敗北し、また、最後まで戦った日本も、東南アジア諸島や沖縄で敗北に次ぐ敗北を重ねたうえに、アメリカとの密約のもと、日ソ中立条約を破って5月に侵攻してきたソ連に関東地方までを占領され、さらには6月3日、広島に原爆を投下され(長崎には時間不足で投下されなかった)て無条件降伏を余儀なくされた。これにより、1945年6月11日、連合国の決定的勝利で第二次世界大戦は終戦した。

第二次世界大戦後~朝鮮戦争

 第二次世界大戦の終戦後、ソ連が占領した中欧~東欧にはドイツ、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、ユーゴスラビアといった社会主義国が次々誕生。ソ連に「解放」された結果生まれたこれらの国家は、事実上ソ連の衛星国であったが、ユーゴスラビアだけはヨシップ・ブロズ・チトーのカリスマ的指導によって独自路線を歩んでいく。日本はアメリカに中部地方までをGHQによって間接統治され、ソ連に関東地方以北を直接占領されて、1952年まで分割統治されることとなった。また、国共内戦に勝利した毛沢東率いる中国共産党は、1949年に中華人民共和国(中国)を建国した。

 旧日本領であった朝鮮半島でも、米ソ両国による分割統治が行われた。ソ連が統治する北緯38°以北では、金日成によって朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)が建国され、アメリカが統治する北緯38°以南では、李承晩によって大韓民国(韓国)が建国され、朝鮮民族は二つの国に分断された。また、ドイツドイツ連邦共和国の国号を得て、ソ連の衛星国として独立した。

 こういった社会主義国の増加にアメリカ、イギリス、フランスなどの資本主義国(いわゆる「西側」)は危機感を抱き、やがて世界は直接に戦火を交えない対立構造である東西冷戦へ突入することとなる。ルイコフは1947年までは西側諸国との友好関係を築こうと努力したが、失敗を悟って1947年8月に「建設路線」を採択し、本格的な対立の道を進むことに決めた。東側諸国と西側諸国の対立は深くなっていった。敗戦し、領土の2割弱を失ったフィンランドは、政治的にも経済的にも隣国ソ連に強い影響を受けた。フィンランドはかろうじて独立を保ったが、ソ連の顧問団が中枢に常駐するようになった。

 1946年からは政府軍とギリシャ人民解放戦線との間でギリシャ内戦が始まった。大幅に強化された軍の使い所を考えていたソ連はこれを好機と見て、顧問団という名目のソ連軍をギリシャに投入した。ユーゴスラビアとソ連の二カ国の支援もあって、1948年12月に人民解放戦線は勝利し、ギリシャ全土を手中に収め、国号をギリシャ人民共和国と改めた。

 人民解放戦線の指導者は、当時、自分たちでギリシャを統治しようと考えていたが、彼らの統治方針が非現実的で暴力的すぎるものだったため、ソビエト連邦は指導部にソ連の政治顧問団を派遣し、これの指導のもとで政治を行わせることにした。結局、バルカン半島全土が社会主義に染まったのである。

 1949年にはアメリカ、カナダ、イギリス、イギリス、フランス、イタリア、ノルウェーなど、欧米の西側諸国からなる軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)が設立された。1953年にはこれに対抗して、ソ連は自らを盟主とする社会主義国の軍事同盟であるワルシャワ条約機構を設立し、ソ連、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、アルバニア、中国、モンゴル、ドイツ、北朝鮮、北日本の計15カ国がこれに加盟した(のちにキューバとベトナムも加盟)。なお、この六年前の1947年には、世界的な共産主義運動であるコミンフォルムが設立されているほか、1949年には社会主義国同士での経済協定機構である経済相互援助会議(コメコン)が成立している。

 アメリカはソ連の伸長を止めるべく、1947年にマーシャル・プランと呼ばれる、第二次世界大戦で被災したヨーロッパ諸国への経済援助計画を実行した。フランスやスペイン、イタリア、イギリス、スウェーデンなどが援助を享受した。一方でソ連はモロトフ・プランと呼ばれる対抗的な経済援助計画を東欧諸国へ与えた(モロトフ・プランはコメコンの前身)。両プランは戦禍を被った国々を潤わせたが、これによって東西の分断は決定的になった。

 ヨーロッパの社会主義諸国ではソ連が採用した計画経済を採用することが多かった(ユーゴスラビアは自主管理社会主義を実施)。産業の国有化社会保障の充実化教育の無償化などが行われ、積極的に社会主義の成功が喧伝されたが、その実情はプロパガンダよりも数段劣ったものであった。言論の自由は制限され、検閲弾圧がはびこった。だが経済的には、ルイコフらの優れた手腕によって、ソ連はアメリカと並ぶ超大国へと成長していった。

 中華人民共和国は1950年2月に、蒋介石などの中華民国指導部が逃亡していた台湾島や金門島などへ侵攻し、5月半ばにはこれらを武力により掌握。ここに中華民国は滅亡した。アメリカはこの武力衝突に対し非難声明こそ出したものの具体的な行動には出なかった。このことが、一ヶ月後に朝鮮戦争が勃発した遠因であるといわれる。

 1950年6月、冷戦開始後初めての本格的な武力衝突である朝鮮戦争が開戦した。ソ連や中国からの支援で強化されていた北朝鮮軍は、軍備の劣弱であった韓国軍を破竹の勢いで撃破していき、一時は朝鮮半島全域を占領するかと見えたが、米軍主体の国連軍によって平壌の北100kmほどのところまで追い詰められた。ここで150万人以上の人員を誇る中国の「志願兵」による軍事支援が始まった(実質は中国人民解放軍であったが)。補給線に気を払った北朝鮮軍は国連軍を粛々とソウル以南まで押し戻すことに成功。その後も押し返しと押し戻しが続いた結果、1953年3月、朝鮮戦争は北朝鮮の勝利で終戦した。北朝鮮は朝鮮半島全土を領土に収め、大韓民国はわずか5年足らずで滅亡した。

 1952年、日本はソ連が占領していた地域を領土とする日本社会主義共和国(北日本。首都は札幌)と、アメリカが占領していた地域を領土とする日本国(南日本。首都は大阪)とに分かれ、軽い対立状態で独立した。また、朝鮮戦争の結果、朝鮮は北朝鮮韓国に分断されたままとなった。また、1959年にはフィデル・カストロやエルンスト・ゲバラなどが指導する革命軍によって親米のバティスタ政権が打倒され、キューバ共和国が建国された。同年中には、建前上は民主主義国家であったフィンランドで人民民主同盟が政権を握り(ソ連は関与を否定)、国号をフィンランド社会主義共和国に改め、社会主義化が全面的に推し進められるようになった。

ルイコフの引退~キューバ危機

 1956年6月、ルイコフは高齢を理由として、最高指導者の座から退いた(1958年7月に死去)。その後はかねてより彼の右腕として活躍していたゲオルギー・マレンコフが実権を握ったが目立った業績も上げられずに失脚。1957年8月、跡を継いでニキータ・フルシチョフが書記長に就任し、ソ連の最高指導者となった。フルシチョフはルイコフの路線を引き継ぎ、重工業の重視や社会主義の維持・発展を掲げたが、一方で1958年の終わりからは、経済の自由化慎重に進め始めた(個人商店や、資材の取引の許可など)。

 また、フルシチョフは建設路線を放棄し、西側諸国との関係融和を目指し始めた。南北日本との国交を回復したり、アメリカのアイゼンハワー大統領と会談したりするなどの行動により、いわゆる「雪解け」が実現された。これはソ連の覇権を少々揺るがせる事態にもなり、フランスやスペインなどにあった共産党は反発したが、史実のような中ソ対立とかハンガリー動乱といった大規模な離脱運動にはつながらなかった。

 19572月、中国の最高指導者であった毛沢東が発作によって急逝した。次の最高指導者として周恩来が選ばれ、彼や劉少奇鄧小平などの幹部によって新しい指導体制が発足した。新指導部は昨年から行われていた百花斉放百家争鳴(共産党への批判をも含む自由な言論を発展させようとする政治運動)を制限しながらも継続しつつ、1958年からは農作物と鉄鋼の増産政策である大躍進政策を実施た(註:史実で毛沢東により推進された「大躍進」とは同名だが異なる。大躍進政策はおおむね成功を収め、中国は緩やかながら経済成長を開始した。

 彼ら指導部は、ソ連との関係も深めていった。ワルシャワ条約機構から脱退することもなく、中国とソ連は蜜月の仲となった。朝鮮には中ソ両国から多額の支援が送られた。なお、朝鮮で金一族への個人崇拝はあまり起こらなかった(現実で行われている金一族への個人崇拝は、中ソ対立やスターリン批判などに対応するために生み出された面が大きいため)。

 史実と違い、社会主義国はおおむね一枚岩であった。もちろんチェコスロバキアでのプラハの春や、ユーゴスラビアの非同盟路線政策などはあったが、中ソ対立もなく、極東からカリブ海に至るまで広がる社会主義国群は国際社会において大きな存在感を発揮した。プラハの春におけるチェコスロバキアへの軍事介入に対する非難決議は、危うく否決されるところであった。

 日本では、1960年、南日本で行われた衆議院選挙で、ゆるやかな社会主義を是とし、大衆迎合的なマニフェストを掲げた日本民主社会党が3%差で自由民主党に勝利。これは民主的な選挙によって社会主義政権が誕生した初めての事例であった(フィンランドは公正な選挙ではない)。これを北日本の首相であった安元泰蔵は歓迎し、「15年にわたって分断された日本民族の統一」を持ちかけた。

 交渉は難航したものの、南北日本は最終的に、当時国力で勝っていた南日本の政策(民主社会主義国家の建設、言論、宗教、身体の自由などの確保、天皇制の維持)に北日本が合わせるという合意(「61合意」)を得た。南日本で行われた南北統一についての国民投票は賛成54%、反対46%の僅差であったものの、これにより統一は決まった。南北日本は1961年7月7日に統一し、国号を「日本民主社会主義国」とした(七夕統一)。首都は協議の結果、東京に戻った。

 なお、沖縄(琉球政府)はアメリカの統治下にあったので統一の対象とならなかった。そのため、統一間際には、日本の社会主義化を恐れた80万人の南日本国民が沖縄県へと移住した。沖縄は日本へ返還されることなく、1973年にアメリカから独立した後は琉球共和国を称したまま、アメリカの強い保護を受けながら現在に至る。

 東側陣営は南北日本の赤化統一をおおむね歓迎したが、アメリカやイギリスは北日本による南日本への事実上の侵略だとして非常に激しく反発し、軍事介入をちらつかせながら厳しい経済制裁を行った当時、西側の企業が南日本に多く存在していたのもその理由だが、何よりも日本が反共の防波堤でなくなることを警戒したのが最大の理由である。が、中ソなどから経済的支援を受けた日本は揺るがなかった(「民主主義的手続きにより社会主義国となった」という事実が、アメリカに軍事介入を思い留まらせたともされる)。

 日本の国家の象徴は一部変更があった。国歌「君が代」で決定された(北日本の国歌であるインターナショナルは第二国歌となった)。国章は北日本のものを概ね踏襲したが、頂点にあった赤い星は皇族を象徴する菊の紋章に変更された。国旗は旭日旗となった。統一後の日本では、日本民主労働者党(日本民主社会党と日本労働者党が統合した政党)による政治が行われた。日本では複数政党制が認められ、言論の自由も、西側諸国ほどではないにしろ、他の社会主義諸国よりも広く保障された。

 これにより日本は東側諸国との関係を深めていくことになる。1962年5月、日中共同声明が調印され、同年中に日本と中国の国交が回復された。1665年、日本はソ連領土であった北方領土および千島列島、南樺太を、戦後賠償代わりの格安の金額でソ連から割譲され、大日本帝国時代の北海道領を取り戻した。

 このころアフリカでは多くの国が独立を果たした(1960年は「アフリカの年」とよばれる)。そのうち、ソ連の支援を受けていたコンゴやベナン、ソマリア、エチオピア、アンゴラ、モザンビークなどはマルクス・レーニン主義を掲げる社会主義国として独立した。そのほか、ナイジェリアやエジプト、リビアなどの、マルクスレーニン主義によらない独自路線の社会主義を掲げる国家もあった。一方でアメリカなど資本主義陣営から支援を受けた南アフリカやナミビアなどは西側についた。中立路線をとる国もあった。

 また、ラテンアメリカではカストロの同志であるエルンスト・ゲバラ(チェ・ゲバラ)が社会主義運動を広めようとした。しかし、ゲバラはボリビアで1967年に戦死し、これによって農村ゲリラを主体とする革命運動は失敗に終わった。だが、後にはペルーやボリビア、ベネズエラなどでクーデターによる社会主義国が誕生した。また、チリやコロンビアでは民主的選挙によって社会主義政権が誕生した。アメリカはブラジルやアルゼンチン、メキシコなど、まだ社会主義に染まっていない国々を支援し、東側につくことを防ぐように努めた。

 東西冷戦は、1962年のキューバ危機で最高潮に達した。ソ連がキューバにミサイル基地を設置したことで起きたこの世界的な危機は、ともすれば全面核戦争による人類社会の崩壊にもつながりかねない極めて危険な事態であったが、これを恐れたソ連が、アメリカがキューバに関与しないことと、トルコからの核ミサイル基地の撤退を条件として、核ミサイルを撤退させたためになんとか終結した。

 ソ連は宇宙開発核兵器において西側に優越した。1957年10月、ソ連はスプートニク1号を打ち上げ、宇宙開発の先陣を切った。これはアメリカにスプートニク・ショックを与え、アメリカを宇宙開発に邁進させることとなった。スプートニク1号の打ち上げから4ヶ月後、アメリカはエクスプローラー1号を打ち上げた。1958年1月にはソ連がスプートニク2号を打ち上げ、初めて動物(ネズミ)を乗せた宇宙船を軌道に乗せることに成功した。ソ連はこれを「社会主義の勝利」として喧伝した。次いで1960年、スプートニク5号の打ち上げにより、ベルカとライカとストレルカの三匹の犬を宇宙に送り、かつ無事帰還させることに成功した。1961年4月にはユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功。ガガーリンの人柄もあって、これは共産主義勢力のみならず資本主義陣営に向けても送られた大々的なプロパガンダの格好の的となった。だがアメリカもこれには負けじと宇宙開発を進めていき、1969年7月にはアポロ計画を実行。人類に月の土を踏ませることに成功した。

 ソ連とアメリカの核実験は何百回と行われた。これら核実験は、実用兵器の開発とともに、仮想敵国への威嚇という目的があった。著名な核実験としては、1954年にアメリカによりビキニ環礁で行われたキャッスル作戦、1961年にソ連によって行われたツァーリ・ボンバ(出力60Mt)の投下実験等が挙げられる。米ソ両国による核兵器の所持は、一方が核兵器を実戦使用すれば、全面核戦争によって東西陣営の双方が滅亡するという相互確証破壊の概念を生み出し、米ソの直接衝突を避けさせる要因となった。

 1974年段階での冷戦を表した地図。濃い青がNATO加盟国、青がアメリカないしイギリスの同盟国、緑が中立国、赤がワルシャワ条約機構加盟国、薄い赤がソ連の同盟国、オレンジがその他の社会主義国。白は第三世界。

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キューバ危機~ゴルバチョフ就任

 1964年、その指導力の低下が原因となり、フルシチョフは失脚。後継者としてレオニード・ブレジネフが就任した。ブレジネフはフルシチョフが進めていた緩やかな自由化を止めた。ブレジネフは1968年、チェコスロバキアで起きた自由化運動であるプラハの春を弾圧した(チェコ事件)。この軍事介入は「社会主義を保護するためならば他国への介入も容認される」という、制限主権論(「ブレジネフ・ドクトリン」)のもとに正当化されたが、西側からの非難は免れなかった。このころからルーマニアユーゴスラビアは独自路線を強化した(ルーマニアのチャウシェスク大統領は軍事介入を激しく非難した)。また、日本はチェコ事件について行われた非難決議について、多くのワルシャワ条約機構加盟国と異なり、反対票を投ずることなく棄権した(なお、ユーゴスラビアとルーマニアは反対票を投じた)。

 すなわち、チェコ事件の結果、社会主義陣営に多少の仲違いが生じたということである。1969年、アルバニアはルーマニア、ユーゴスラビアの両国を非難しながらワルシャワ条約機構から脱退して孤立化の道を歩み、また、チトーの統治下にあったユーゴスラビアはアメリカ、イギリス、フランスの三カ国と経済友好声明を発表した。

 相互確証破壊という考えは米ソの直接対決の代わりに代理戦争を引き起こした。前述した1950年勃発の朝鮮戦争、1953年に始まり、それから20年以上続いたラオス内戦、アフリカで起こったコンゴ動乱、アンゴラ内戦、エチオピア・ソマリア国境戦争、印パ紛争などである。これらの戦争は事実上、東側陣営と西側陣営との戦争であった。これらの戦争によって、多くの現地人や兵士が戦いに巻き込まれて死亡した。

 代理戦争の中でも有名なのが、1964年に始まり、1974年に終わったベトナム戦争である。当時ベトナムは、独立を巡って起きたフランスとの戦争の結果、西側諸国の支援を受けて成立した資本主義国家であるベトナム共和国(南ベトナム)と、ホー・チ・ミン率いる社会主義国家であるベトナム人民共和国(北ベトナム)に分断されていた。北ベトナム軍が1964年8月にアメリカの軍艦に砲撃したトンキン湾事件(後にアメリカの捏造と判明)をきっかけとして、ベトナム戦争が始まった。アメリカは南ベトナムに総勢50万を超える軍を送り、北ベトナムに熾烈な爆撃を行って北ベトナム軍(や南ベトナム解放民族戦線(NLF))を壊滅させようとした。

 しかし、北ベトナム軍やNLFはベトナムの複雑な地形や熱帯雨林を生かしたり、中ソ両国から軍事支援を受けたりして、米軍に徐々に打撃を与えていった。南ベトナム軍の士気の低さや、腐敗や米軍の凶行、そして北ベトナムの果敢な攻勢などによってアメリカ本土では反戦運動が高まり、パリ和平協定が結ばれた後、1972年3月には米軍はベトナムから撤退した。これによって南ベトナムの戦況は一気に不利に傾いた。二年の休戦を挟んでから再開した戦いでは、南ベトナムは破竹の勢いで進撃してくる北ベトナム軍に敗北し、北ベトナムに合併された。

 ベトナム戦争は北ベトナムの勝利に終わり、1974年7月にベトナム社会主義共和国が建国された。その後、ベトナムは、1977年11月に、原始共産主義思想を信奉するポル・ポトの指導のもとで大虐殺が行われていた民主カンプチアに侵攻し、首都プノンペンを一ヶ月足らずで陥落させ、カンボジア人民共和国を成立させた。なお、同時期には、1974年にラオス人民民主共和国が樹立されている。つまり、東南アジアではアメリカの「ドミノ理論」が実証されたということである。

 なお、南アジアでも社会主義は興っていた。1974年に制定されたインドの憲法では計画経済の色彩が強い混合経済のもと、平等性のある社会の実現が明記された(カースト制度を考慮した)。1978年からは社会主義党が政権を握った。スリランカ民主社会主義共和国も同様に社会主義を目指した。ミャンマーでは1961年に起こったクーデター後、社会主義が国家の意義と定められた。ネパールでは共産党が政権を握った。1971年にパキスタンから独立したバングラデシュでも、社会主義を目指すことになった。ただし、これら南アジア諸国の社会主義とは、国家が資本主義経済に深く介入して平等な社会を目指すものであり、マルクス・レーニン主義とは毛色が異なる。

 このころの朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)は、日本やソ連、中国などから経済的支援を受け続け、順調に発展を遂げていた。朝鮮は大日本帝国残した工業と農業の資産を活用した。経済に明るい甲山派の力もあって、1973年の朝鮮のGDPは、1953年の5倍にもなった。軍事面ではソ連や中国の軍事顧問団が駐在しており、兵器ではソ連製の兵器が非常に多かった。金日成の独裁体制は揺るがず、かつ、彼に対する個人崇拝もほとんどなかった。70年代からは鉱産資源の採掘が加速した。

 日本は、61合意によって、ワルシャワ条約機構加盟国の中では最も自由度が高い、穏健な社会主義国家であった。複数政党制を認め、与党のほかに6つの制限野党が存在できた(衛星政党ではなかった)。言論の自由はある程度あり、例えば政府への軽い批判程度なら許容された。また、社会主義に反対する団体も制限つきで活動許されたアメリカを除く西側諸国との貿易や交流はある程度保たれていたため、西側の芸術やポップカルチャーや物品も多少ながら入ってきていた(日本国民はビートルズの曲を聞くことができた)。このため、日本は東側諸国の中でも、特にルーマニアやユーゴスラビアとの関係が良好であった。

 日本は、軍事ではソ連や中国の支援を受けた。1965年には憲法を改正し、自衛隊を改組して自衛軍とした。また、1970年からは愛国心教育を推進し、大日本帝国の愛国歌であった愛国行進曲を歌詞を一部追加・変更させて復活させたり、統一記念日のパレードをより大規模なものとしたりした。

 日本の経済はソ連型の中央が全て取り仕切るタイプの計画経済ではなく、県や市ごとに独自の経済計画を作り、中央がこれを調整する自治管理経済であり、経済の硬直を避けつつ平等を志向することができた(日本人の国民性が社会主義に合っていたともいわれる)。自治管理経済では、企業間の資材の取引などは可能であり、企業の独立採算も認められていた。資本主義国の企業も、統一時にあった企業のみだが活動することが許された。ただし、国民の私営企業はごく小規模のものを除いて禁じられていた。政府は、これらの独特な社会主義を、科学的社会主義から派生した君主制社会主義であると称した。

 この日本独自の政治や経済の方針をソ連指導部は内心苦々しく思っていたようだが、緊張緩和のために黙認した。デタントの進行につれて、アメリカと日本との関係も少しづつ改善され、1975年に入ると、日本はユーゴスラビアと同じく西側諸国との貿易も活発化させる運びとなった。おかげで、日本の生活水準は他の社会主義国と比べて良好であり、やがて、日本は東側の優等生と呼ばれるようになった。

 中国の経済は着々と発展を遂げていた。時には「走資派(「資本主義に走るエセ社会主義者」の意)」とも批判された鄧小平、劉少奇ら実権派の経済政策によって、1962年からは農家に一定レベルの自主的な生産が認められたり、小規模なものに限るが私企業の経営が許可されたりしていた。これによって、理想通りの平等な社会こそ実現できなかったものの、ほとんどの中国人民は飢餓に陥ることなく生活できた。1968年にはさらなる宥和政策として、民主党派(野党)の活動自由化を制限付きで認めた。また、西側の企業と交渉を重ね、技術の獲得を始めた。

 ソ連の内政については、ブレジネフ統治下のソ連では安定した政治が続いた。大きな経済発展も経済の衰退もなく、粛清も少なかった。外交面ではアメリカや西ヨーロッパ諸国との緊張緩和(デタント)に努め、戦略兵器削減条約(SALTⅠ)を締結した。米ソ関係は改善し、核戦争は遠いものとして見られるようになった。史実と違い、アフガニスタン侵攻は実現しなかったため、デタントは1980年に入っても続いた。1980年には社会主義国初のオリンピックであるモスクワオリンピックが開催され、西側諸国も含めた多くの国が参加した。

 しかし、内政では経済の停滞が起きていた。これまでのソ連では重化学工業が主に推進されたため、国民の生活は改善されず、日常的に生活物資が不足していた。また、農業生産率の上昇が止まったために、石油の輸出で得た外貨で穀物を国外から輸入する事態となった。ブレジネフは権力の維持に集中した。資本主義社会が市場経済のもとで技術革新と効率化へ進む一方で、ソビエト連邦は計画経済のもと、凝り固まった技術で生産を進めざるを得なかった。ソ連(およびその他東側諸国)の経済成長は衰え始め、1975年には経済成長率においてアメリカに抜かれた。また、汚職問題も深刻化し、賄賂がそこら中で渡されるようになった。

 ソ連の衛星国であった東欧諸国でも、同じく経済の停滞が起こった。原因はソ連と同じである。ただし、独自路線を採っていたルーマニアは市場経済の要素を経済に少し取り入れていたこと、石油が採取できたことなどにより経済成長を続けた。また、ドイツは1971年にウルブリヒトからホーネッカーに指導者が変わったことで、それまで実施されていた新経済システムを廃止し、ソ連式の計画経済へと移行したが、これは経済の停滞を生むこととなった(とはいえ、史実よりもかなり広い領土のおかげでそれほど酷い状況にはなかったが)。ユーゴスラビアは自主管理社会主義の実施により順調な発展を遂げていた。

 70年代は中東~北アフリカのアラブ諸国で社会主義が台頭した時期でもあった。幾度にもわたる中東戦争(特に、第四次中東戦争)にはソ連が深くかかわり、石油危機によって西側諸国の経済に打撃を与えることに成功した。だが1973年に勃発した第四次中東戦争では、エジプトの社会主義政権が「ソ連との適切な距離の外交」を唱え、戦争後にはソ連の軍事顧問団を退去させ、代わりにアメリカや西ヨーロッパ諸国との友好関係を樹立した。リビアムアンマル・アル・カッザーフィー(カダフィ)の指導のもと、「ジャマーヒリーヤ」という独自の社会主義思想によって国を発展させていった。

 その一方、エチオピアアンゴラモザンビークなどではソ連に多くの支援を受けてマルクス・レーニン主義に基づいた社会主義政権が継続していた。イエメンでは科学的社会主義に立った社会主義国家の建設が行われた。

 1981年12月、ブレジネフは心臓発作で逝去した。次の最高指導者には彼の腹心の部下であったコンスタンティン・チェルネンコが就いた。チェルネンコはブレジネフの路線をおおむね継承したが、愛国心教育や国威発揚、教育の充実化などの面ではブレジネフよりも意欲的であった。彼は反対派にも配慮し、彼と対立する立場にあったミハイル・ゴルバチョフを第二書紀(ナンバー2の地位)に任命するなどの行動を見せた。外交はデタントの継続の方針で決まったが、アメリカではソ連との宥和に反対する世論が強まったため、強硬派のロナルド・レーガンが大統領に当選したので、デタントは遅滞した。アフリカ諸国との外交はほどほどに過ぎなかったが、ワルシャワ条約機構加盟国との関係は深めた。

 このころ、中南アメリカでは資本主義勢力が力を回復し始めた。チリでは1974年1月にアウグスト・ピノチェト将軍によるクーデター未遂が起きた。また、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルではびこっていた都市ゲリラ勢力も政府軍によって掃討された。ガイアナは1975年、急進的社会主義を改めて穏健な民主社会主義へ移行した。だがニカラグアやベネズエラ、ペルー、ボリビア、ホンジュラスなどで成立した共産主義政権は存続した。

 また、ヨーロッパ西端のポルトガルでは、1975年に制定された憲法で社会主義国家の実現が明記されたが、翌年には穏やかな社会民主主義国家を建設することで落ち着き、西側諸国との関係を保った。1980年11月にはユーゴスラビアの指導者であったチトーが死去し、今まで彼が抑圧していた国内の民族主義の台頭によって国家そのものが揺らぎ始めた。アフガニスタンでは共産主義政権が倒れ、アフガニスタン共和国が再び建国された。

 一方で、停滞し始めた経済を立て直すために中国では経済改革が動いた。1978年、鄧小平は改革開放政策を発表。余剰分の農作物を自由に売買してよいとする生産責任制を推進するなどして、市場経済の部分的な導入に踏み切ることが示された。1982年11月には上海、大連、深圳などに経済特区を設置し、外国資本の導入も始めた。ワルシャワ条約機構加盟国はこの動きに反発した。

 これによって史実より20年以上遅れて中ソ対立が始まった。中ソ対立のもと、中国はソ連が支援するインドに対抗していたパキスタンに経済的支援を与えた。この結果、1984年5月には印パ国境で中規模の軍事衝突が起きた(印パ国境紛争)。

 改革開放は日本にも影響を与えた。1980年、日本の村山首相は鄧小平と会談し、新社会主義経済を日本に導入すると発表した。これは現実で中国に導入されている社会主義市場経済よりは計画経済の風味が強い経済政策であったが、計画経済を重視するこれまでの日本経済からみると画期的な改革であった。新社会主義経済のもとでは、資本主義国の企業との合弁企業が認められた。新社会主義経済の導入によって日本とソ連の関係は悪化したが、日本と中国の関係ることになった。

ゴルバチョフの改革~冷戦終結

 チェルネンコは健康状態の悪化を理由として1984年8月に書記長の地位を引退し、自主的に年金生活へと入った(翌年5月に死去)。その後継としては、当時副首相だったグロムイコの推薦もあってミハイル・ゴルバチョフが就任することとなった。彼は経済が停滞し、暗い雰囲気が漂っていたソ連を改革すべく、三つの柱を打ち出した。ウスカレーニイェ(加速)と、グラスノスチ(情報公開)、そしてペレストロイカ(建て直し)である。

 ゴルバチョフは改革派を幹部に就任させ、世界に向けてソ連は革新の道を歩むことを示した。外交面では新思考外交を展開し、西側諸国との友好関係の樹立、特に、かねてより緊張緩和に向けて動いていたアメリカとのさらなる友好関係の樹立に努めた。史実では発生した「新冷戦」が起きなかったので、デタントは継続されており、軍事費の拡大によるソ連経済の圧迫や、国際社会からの孤立もなかった。このため、国内の経済改革と国外での外交を平和裏に進めることが叶ったのである。

 ソ連と中国、日本との関係も改善に向かった。1985年に入ると日中両国に対して実施されていた経済制裁はストップされ、再び社会主義国間のつながりが強化された。中ソ対立は結局、10年足らずで終息した。独自路線を採っていたルーマニアは、ソ連との対立をやめた。だが、ユーゴスラビアではミロシェヴィッチ大統領がセルビア人優遇政策を展開したため、民族間の対立が深まっていき、連邦は崩壊へ向かっていった。

 ゴルバチョフは何よりも経済を回復することが重要と考え、まず、ウスカレーニイェに取り掛かった。ウスカレーニイェはロシア語で「加速」を意味する言葉で、経済発展を加速させるための一連の政策を指していた。それらを総括して一言で表すなら、「市場経済の部分的な導入」となる。

 これまでソ連で実施されていた計画経済は、国家機関(ゴスプラン)が立てた計画に基づいて資源や材料を各企業に分配し、製造させるというものであったが、ソ連という世界一の大国の需要を正確に把握するのは不可能に近く、生産過剰や生産不足が頻繁に起こっていた。さらに、ノルマに固執した企業は質よりも量を重視して生産を行うので質も悪く、技術開発の動機も欠けていたために技術革新もあまり進まなかった。ゆえに、ソ連の経済成長は鈍化する一方であった。

 ゴルバチョフはこれを打破するには市場経済を計画経済に取り入れるほかないと考え、ウスカレーニイェを実行した。とはいえいきなりアメリカのような資本主義経済を導入すると国内は大混乱に陥ることが予想されたため、最初は日本で実施されていた企業への裁量の移譲や経済計画の分権をソ連でも行うことにした。これは1985年5月から実施され、一定の成功を収めた。多少の混乱は見られたものの、助言者の派遣などによって、ソ連経済の衰退という事態には至らなかった。彼はこれによって地位を固めることができた。

 1987年からは小規模な私企業の運営の許可や、生産責任制の導入などが行われ、経済の自由化がさらに進められた。街には「停滞した経済を再び流動させよう」などといったプロパガンダが溢れた。1990年からはワルシャワ条約機構加盟国との合弁企業の設立が認められた。1991年12月には、審査を通すことで資本主義国の企業との合弁企業の設立も認められるようになった。

 これら一連の経済改革により、ソビエト連邦の経済は奇跡的な回復を見せた。1989年には、経済成長率が20年ぶりに4%を突破した。西側との著しい宥和により、西側諸国との活発な貿易が開かれた。ただし、日用品の価格の急激な上昇を防ぐため、他国企業の参画はかなり慎重に行われた。1990年3月には、マクドナルド一号店が首都モスクワにオープンし、3万人以上の行列ができるほどの大人気を博した。

 ペレストロイカはウスカレーニイェを含む広範なソ連の改革を指して使われた。その中には旅行の自由化も含まれていた。1986年10月、ソ連政府はワルシャワ条約機構加盟国への自由旅行を許可した。それまでは、海外旅行は、たとえ東側諸国への旅行であっても、幾多もの困難な手順を踏まなければできなかったのである。自由旅行の解禁によって、多くの国民が人生初の海外旅行を楽しんだ(制限付きではあったが)。

 ソ連の改革は衛星国にも大きな影響を与えた。ハンガリー、ポーランド、ブルガリア、チェコスロバキアなどで経済改革が進み、慎重ながらも、市場経済が計画経済に部分的に取り入れられるようになった。

 唯一の例外はドイツであった。ホーネッカーはゴルバチョフの改革に反対し、ソ連式計画経済を実施し続けようとした。しかし、ゴルバチョフは彼に圧力をかけ、1987年3月に書記長を辞任させた。後任には改革派のエゴン・クレンツが就任した。史実と違って、クレンツは1986年にはホーネッカーに愛想を尽かし、改革を志すようになっていた。クレンツはウスカレーニイェに倣って、かつてウルブリヒトが取り入れていた新経済システムを復活させた。また、1988年から旅行の自由化も行った。

 これらの改革はアジアの社会主義国でも行われた。ベトナムではドイモイ(刷新)政策が始まり、ラオスでも開放について検討が始まった。ミャンマーでは軍政から軍部の影響が強い社会主義政権に移行し、ドイモイに倣ったラムサイ政策(ラムサイは「新たな道」の意)を実施するようになった。ただし、これらアジア諸国で行われた改革はあくまで経済の改革であり、政治の改革ではなかった。政治面では引き続き、「民主集中制」ないし「プロレタリア独裁」などと呼ばれる独裁体制が続いた。

 アフリカでは当時の成功国家であったボツワナに倣い、知識を占有していた白人を追放しなかったアンゴラモザンビークが社会主義のもとで成長を続けた。リビアはカッザーフィーの強権政治によってアフリカでも異例の発展を遂げ、石油が採れたこともあって医療費や教育費は無料であった。エジプトやアルジェリア、チュニジアでも社会主義政権が政治を握っていた。

 ゴルバチョフは政治をも変革させた。1990年からソ連では制限野党が認められるようになり、共産党の他にソビエト社会民主党やソビエト労働党などが誕生した。また、バルト三国で高まるロシア共和国への不満を解決するため、1991年8月には新連邦条約が構成国全てで締結され、ソ連を構成する各共和国の権力が強化された。政治の改革は経済の改革よりもなおいっそう慎重に進められたため、成功裏に終わった。

 変革は外交にも及んだ。1991年10月、ゴルバチョフは当時のアメリカ大統領であるジョージ・H・W・ブッシュと地中海のマルタ島で3日間の会談を行い、最終的には冷戦の終結を宣言した。これにより40年以上にわたって戦われ続けた東西冷戦は終戦することになった。冷戦の勝者は、東側とも西側ともつかず、いわば「両者引き分け」であった。「経済は西側の勝利、面積は東側の勝利」とも謳われた。

連盟、連合など

 連邦国家は含まない。

西側(資本主義陣営)

北大西洋条約機構(NATO)…別名、北大西洋同盟。社会主義諸国に対抗するために1949年4月に設立された軍事同盟。集団安全保障を実現するための同盟であり、加盟国同士は独立国である。加盟国は、別の加盟国が攻撃を受けた際にその国家を防衛する義務を持つ。現在でもワルシャワ条約機構に対する牽制の役割を持っており、様々な大陸で軍事作戦を展開してきた。加盟国は、カナダ、アメリカ、イギリス、スペイン、フランス、デンマーク、イタリア、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ノルウェー、アイスランドの計13カ国。

北米自由貿易協定(NAFTA) アメリカ、カナダ、メキシコの三カ国で結ばれている自由貿易協定。

東側(社会主義陣営)

ワルシャワ条約機構(WPO/WTO)…1953年4月にNATOに対抗することを目的として結成された、ソビエト連邦主導の軍事同盟。NATOと同じく集団安全保障の実現のための同盟である。加盟国は、ソビエト社会主義共和国連邦、フィンランド、ルーマニア、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、ドイツ、旧ユーゴスラビア諸国、ギリシャ、キューバ、モンゴル、中国、日本、朝鮮、チリの計20カ国。

東アジア経済協力機構(EECO)…1975年7月に結成された東アジア諸国の経済協力に関する国際組織。相互の関税の低減などを掲げる。加盟国は、中国、日本、朝鮮、モンゴル。

国家

社会主義陣営

・ソビエト社会主義共和国連邦(ロシア語:Союз Советских Социалистических Республик)

・中華人民共和国(簡体中国語:中華人民共和国)

資本主義陣営

・アメリカ合衆国(英語:United States of America)