員弁川・チャート

員弁川

三重県の北部で鈴鹿山脈と養老山地に挟まれた一帯を水系とするのが二級河川の員弁川です。水源は主に石榑峠以北の竜ヶ岳・静ヶ岳・藤原岳・御池岳・三国岳など鈴鹿山脈の北東部山腹と養老山から多度山に至る養老山地の南西部山腹で、東・西の山地に挟まれた平野部を南東に下り、桑名市の湾岸で揖斐川と朝明川に挟まれた河口より伊勢湾へと流下します。

河川の左右を山地に挟まれているだけに鈴鹿山脈側には宇賀川・青川・源太川・多志田川、養老山地側には嘉例川・戸上川・明智川・山田川など多くの支流を持ちます。

太平洋セメント手前の員弁川転石。玄武岩( 緑色岩 )・チャート・石灰岩・泥岩・砂岩・礫岩等鈴鹿川よりは多彩な転石が見られる

この辺りの丘陵部の地質は主に第四紀東海層群の東海湖堆積層、平野部は河川による段丘堆積物です。また竜ヶ岳の東麓及び養老山地南西先端部分では平地との間の細長い地域に中新世・日本海拡大期の砂岩・泥岩質の堆積層がみられます。

山地部は鈴鹿山脈側は藤原岳から霊仙山にかけては古生代石炭紀の海洋底玄武岩と海洋底堆積物のチャート及び環礁性石灰岩。烏帽子岳東南部一帯及び養老山地は中生代の砂岩。竜ヶ岳周辺では泥岩及び混在岩ですが、どの地域においてもジュラ紀に付加した付加体です。

1000m級の山地がすぐ近くに迫る藤原町の辺りでは転石も大きなものが多く見られます。硬度が低くて河川では直に摩耗して無くなってしまう石灰岩もこのあたりでは巨大な白色の岩塊として居座っています。赤や黒など色のくっきりとしたチャートの多いのもこの河川の特徴です。

この地域を代表する石といえば第一に石灰岩を上げねばなりません。昭和7年に小野田セメント藤原工場の稼行以来今日に至るまで、藤原岳を始めとする周辺の山々の石灰岩資源は員弁地域経済の柱となり地域住民の生活を支えてきた宝の山ですし、上の地質図でも分かるように鈴鹿北部の山には現在も大量の石灰岩の露頭が存在します。

春の藤原岳、石灰岩の露頭の周辺には多数の福寿草が花をつける。藤原岳は福寿草を始めとし好石灰植物群集と呼ぶ独特の植物群落が花咲くことで知られる

藤原岳大貝戸登山道より見た太平洋セメント( 旧小野田セメント )藤原工場とその前を蛇行する員弁川。背後は北勢町の家並み

満足な産業とてなかった山間僻地の町にとって、神岡や足尾のような鉱毒公害もなかった小野田セメントの存在は地域の人々の生活と密着した優良企業でありその原資とも言える石灰岩は藤原を象徴する石なのですが、ここでは敢えて取り上げず石灰岩同様に鈴鹿北西部の山地に多く存在するチャートの転石を見てみようと思います( この地域の赤坂石灰岩については雑記帳  石灰岩  で少し書きましたので興味があれば覗いてください。)

員弁川・チャート

赤色チャートと黒色チャートのオブジェ。どちらも変成が進み熱水中の二酸化ケイ素が晶出して複雑な石英バンドとなっている

チャートの歴史はの遠くなるほどに古く、今より2億年~3億年も前、石炭紀から三畳紀にかけて海洋に生息した珪酸質甲殻を持った放散虫や海綿など生物の遺骸が海底に堆積・固結して誕生したものです。海洋底の移動に乗って何千万年もかけて大陸縁辺の沈み込み帯に到着して海溝に沈み込み、ジュラ紀に付加体となって大陸の陸側地殻に付加されたものが幾多の地質構造運動の末に今日鈴鹿北部の山地に露出して見られるものです。

員弁川は周囲を山地に挟まれているだけに川原の転石も多く、様々な種類の石が見られる。先の20万分の1地質図では描かれていない湖東流紋岩類の岩脈も三国岳や狗留孫山の周囲に存在し花崗岩類のかわりに目を引く

員弁川の河原の転石をアップで写してみましたが、赤・黒・黄・灰と色の多彩なチャートと白色、こぶりな石灰岩の多さが目を引きます。湖東流紋岩と見られる石英斑岩も思いの外多くありますが、玄武岩( 緑色岩 )はその分布が広い割にはあまり見受けられません。上写真の中央は砂岩のようですがその質感から中新世に堆積したものでしょうか。

下写真の中央と右の石もチャートですがまるで礫岩のような変型とミグマタイトのような変成を受けています。海溝に沈み込む過程で陸側地殻に底付けされ、幾多の地殻構造運動のすえ1億年以上もかけて地表露出したことを考えればどんな変型や変成を被っていたとしても不思議ではない訳です。

チャートはまた世界に先駆けて日本で付加体研究の突破口となった誠に輝かしい石でもあります。岐阜の長良川、木曽川、飛騨川の流域には鈴鹿山脈北部のものと同起源のチャートが大量に存在しており、犬山周辺の露頭では1980年初頭に日本の先駆的研究者達によって付加体中のチャート・泥岩に含まれる微化石を用いた付加体層序の年代決定が行われ、海洋プレート層序の概念が確立されましたから中部地方のチャートが1980年代地質学研究にブレーク・スルーをもたらしたとも言えます。

上は犬山・木曽川河床の赤色チャートの露頭。物理的な変型をあまり被っておらず初期の堆積の状態がよく出ている

チャートの堆積速度も著しく遅いもので1000年間でも数mmの厚さしか積もりませんから、手元にある4~5cmほどのチャートでも堆積するのに数万年の歳月を必要とする、とんでもなく気の長い石ころです。

このようなことを知ると、チャートは石ころと言えども仇やおろそかには出来ないと思えてきますし、実際私には、その多彩な色や模様は手にとって愛でる価値が十分にあると思います。

チャートは石によって変化が大きく、堆積当時の層理を残しているものも多いのですが、マグマの熱水による変成を受けて二酸化ケイ素が再結晶し石英バンドが石の内部に複雑な網目を作っているものや、石英塊に変わってしまったような石も多くあります。

上のチャートの表面には堆積時の層理を保存していると思われる細かな縞模様が入っている。石によっては内部に生物の珪酸殻が残っているものも有る

変成をあまり被っていないチャートには放散虫の化石が見られるものも多く有り、日本の研究者により1980年代にチャートに含まれる放散虫の年代決定が行われてチャートの堆積年代や海洋プレート層序が明らかにされたのです。下の転石は表面をよく見ると多数の円形のクラックが認められますが、たぶんこれは堆積した放散虫殻の仮象だろうと思います。

変成の少ないチャートには放散虫の殻が白く浮き出して見えるものが有り、下の写真のように薄片にして顕微鏡で覗いてみると放散虫の殻が堆積している構造が分かります。

上写真左は放散虫遺骸を残しているチャートサンプル、右は切片に切り出してガラスに貼り付けたところ。この後0.03mm薄片に研磨する

薄片にして見ると多数の殻が層状に積み重なってチャートの層理を形成していることがよく分かります。この石はある程度変成が進んでいるようで殻の表面構造なとは全く見られませんが、放散虫を抽出する弗酸処理を行えば或いは殻の構造も確認できるのかもしれません。

放散虫を画像検索してみれば分かりますがその甲殻の美しさは驚くべきものでドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルによる精密な写生画は方々の記事に転載されています。下写真はWikipediaに掲載されているヘッケルの” 自然の芸術形式中のものです。 

何しろ2億年以上の時をかけてようやく私の手元に辿り着いた石が、実はこんなにも見事な生物の遺骸であるとはとても想像できないことです。誠にチャートは石の中でも別格でありがたいもののように思えてきます。

チャートは経てきた歴史が長いだけにその岩相、模様や色も変化に富み、多く有る岩石の中でもその多彩さでは一、二を争うのではないかと思えます。上は藤原町で員弁川のチャート転石を拾い集めたものですが、赤から茶色、黒、白、緑と色合いも多く、そこに刻まれた石英の白色バンドの変化も実に多彩です。

以前旅行で訪ねた京都の北野天満宮の境内には、チャートを磨いた巨大な牛の転石が置かれていましたが、この石などはチャート以外にも様々な転石が礫岩状に結合したもののようでチャートの持つ色と模様の多彩さが良く出ています。どの様な過程でこのような岩塊となったのか想像力を刺激しますが多分国内産の石ではないようです。

このようなことを考えると、チャートは石ころと言えども仇やおろそかには出来ないと思えてきますし、実際私には、その多彩な色や模様は手にとって愛でる価値が十分にあると思います。

チャートの転石も河川で綺麗に円磨してくれると、色や形の整ったものはそのままでも楽しめるのですが、水晶と同質の二酸化ケイ素の凝集体で大変硬質でそれゆえ脆いため河川で転動して摩耗する過程でかけたり割れたりするようで部分的に角のついたものが多いようで、楽しむためにはある程度削ったり磨いたりしてやる方が見栄えのするものになります。

ただし、研磨すると当初の感じが全く変わってしまう場合もあります。下の石は拾ったときは表面に摩耗による多数の網目状の筋が入り面白い質感を与えていたのですが、研磨したためにまるで大理石のようにノッペラな表面の質感に変わってしまいました。

私の目算では、細かな網目状の構造が石英バンドしとして浮き出すことを期待していたわけですが、微細な構造はチャートのクラックによって生まれていたもので研磨とともにそりれらのクラックはみな削れ落とされて唯の平滑面になったという訳です。

結局この石は2つに切り離して夫婦岩のような大小の親子石に変えてしまいましたが、削ったり磨いたりしていると当初の思いとは全く異なった色合いや質感に変わってしまい失敗することもままあります。しかし逆に思っていたより遥かに綺麗で面白い表情になることもあってそれがまた楽しみのひとつなのかもしれません。

地下深部において、チャートの間隙にマグマの熱水が浸透すると熱水中に溶け込んだ二酸化ケイ素が間隙に晶出を始め、石英の複雑な網目バンドを形成するようです。下はそのような転石の一つで表面は複雑な網状の石英帯で覆われてチャートの源岩はこの面では全く分かりません。

晶出時の条件によってはこのような間隙に微細な水晶が無数に結晶化します。下はそのような転石で、空隙となっていた破断面を拡大すると多数の結晶が一面に付着して陽光を受けるとキラキラ輝いて大変美しいものです。

このような箇所は磨いたり削ったり出来ないのでその部分を残して仕上げる様にしていますが座りの良い形に仕上がらないことが多いので一長一短です。

元来気の短い私の性格には、手っ取り早く削ったり磨いたりして適当に形を整えてやれば見栄えのする研磨作業の方が似合っているようです。

チャートの深層

下の地質図を見るとよく分かりますがチャートの分布( 橙色 )は本州の中央部に多く、鈴鹿山脈においても広範な露出が見られるのは山脈北部の藤原岳から霊仙山にかけての辺りです。山脈の中部以南にも分布はありますが岩脈状の小規模なもので下のシームレス地質図では小さくて見えないくらいです。

しかし新第三紀鮮新世、現在から400万年程前以前の鈴鹿山脈南部・鈴鹿峠の一帯には大量のチャートの露頭があったことが東海層群中の西行谷累層などの堆積物より分かっています。西行谷累層は" 5万分の1地質図幅・津西部地域の地質 "によると布引山地北縁から鈴鹿山脈南縁にかけて山地と丘陵の間に分布する鮮新世の扇状地堆積物中の礫層なのですが、この礫の50~60%をチャートが占めているのです。

上の地質図 オレンジ部分が西行谷累層 当時既に扇状地を形成する山地が西部にあったことが分かる。URBAN KUBOTA No.29 東海層群・伊勢湾西岸地域  吉田史郎 より

上は芸濃町楠原西方の西行谷累層露頭。凝灰質岩( 火砕流堆積物 )とともに大量のチャート礫を含む鮮新世400万年程前の扇状地堆積物

凝灰岩礫とチャートが卓越する西行谷累層。礫間を埋めるマトリックスは未固結の砂やシルトだが部分的に著しく凝灰質な層がある

更に面白いのはこの層の下位には忍田礫岩層と呼ぶマトリックスが固結した礫岩層が存在し西行谷累層と西部の山側の間100mほどに幅の細いベルト状に露出しています。日本海が拡大していた新第三紀中新世1800~1700万年前の堆積層でこの礫岩中の礫にも大量のチャートが含まれています。

鮮新世・西行谷累層( 上位の凝灰質層 )と中新世・忍田礫岩層( 下位の褐色部で固結層 ) の境界部。両者の堆積時期には1200万年以上の開きがあるが含まれている礫種は共通している

双方の堆積年代には1200万年もの開きがありますが、どちらの場合も現在では失われてしまっていますが、当時はその後背地に大量のチャートを供給できる露頭があったということが分かります。

上は忍田礫岩層の露頭面。礫岩中に色とりどりのチャート礫が沢山含まれていることが分かる。これらの鮮やかなチャート礫をもたらした西部山地の地層は今日では地表から削除されてしまって存在しませんが、当時の表層がどんなものであったのか日本海拡大期の西南日本の変遷は今日でも十分には解明されていない。

石炭紀からジュラ紀初頭に形成された海洋底は、ジュラ紀1億7000万年前頃に上層のチャートとともに当時大陸東縁にあった西南日本の全面に渡ってに海溝に沈み込み、西南日本の南面に大量のチャートを付加したはずです。その後ジュラ紀以降に付加した白亜紀付加体や第三紀付加体によって陸側へ押し込まれ徐々に地表へ露出して、既にその多くは地表から削除されながらも、今日西南日本の中央部にその一部が残されて露出しているわけです。

上は西行谷累層中のチャート礫を拾い集めたものですが、こちらも実に色とりどりで変化に富んでおり美しいのに驚かされます。特に員弁ではあまり拾えない緑の石が含まれています。忍田礫岩中のチャート礫もこれとよく似た色合いですからこの地域のチャートの特徴と言えるでしょう。これらの石が堆積した鮮新世~中新世の環境は、今日の員弁川周辺に似たものであったと思います。逆に員弁地域の山地縁辺を掘り起こせば、第四紀に入って網状河川に堆積した西行谷のような大量の礫層が埋まっているはずです。

水系が異なると後背地の基盤岩にも変化して転石の種類が変わってくるのは今も昔も同じで、同時期の同じ忍田礫岩層であっても3km程南に離れた安濃川河床では、礫は縞状片麻岩・花崗閃緑岩・花崗岩などの領家帯起源のものが卓越します(五万分の一地質図幅津西部地域の地質・忍田礫岩層より)

忍田礫岩層が堆積した扇状地の環境は後100万年程経過して日本海拡大の終盤になると鈴鹿や布引の山地一帯は完全に水没して海面下の環境に変わります。

楠原西方の忍田礫岩層露頭より南西700m程に石山観音山公園があり、この一帯には忍田礫岩層の跡を受けて1700万年ほど前二堆積した石山砂岩層が存在します。石山砂岩層は完全な海成堆積層ですから日本海拡大の終盤にはこの一帯が完全に海中に水没していたわけです。

忍田礫岩層の礫岩巨塊。色とりどりのチャート礫を多数含み員弁川の河原を思わせる