鉄道模型

先日偶然に点けたテレビで、鉄道模型マニアを取材した番組が放映されていました。鉄道に限らずミニチュア模型づくりを趣味とするマニア(今風に言えばオタク)は世の中に結構いるようで、彼らが長年養った模型作りの技やその成果を目にするのは大層興味深くもあり楽しくもありました。

見方によっては大の大人が子供が遊ぶような世界に夢中になって悦に入っている姿は、どことなく異質で時には滑稽でさえ有るのですが、これはなにも模型作りに限った話ではなく、世の中のあらゆる趣味のオタクに共通することで、スポーツと称して昼日中から野球やサッカーやクライミング等に興じる大人たちと何ら変わるところはありません。

ただ力や体力を旨とするスポーツとは異なり、これら屋内の趣味の世界は大へん繊細で緻密な手作業や技術を必要とするものが多く、あるいは手先が器用だと云われることの多い日本人には似合っているのかもしれません。

かく云う私もその昔、鉄道模型もどきを作ったことがあります。私は物心がついて親から鉛筆で絵を描くことを教わって以来、新聞や絵本に載っている写真や絵を紙に写し取ることが大変好きになり、そのうちに目で見たものはほとんどすぐにその形を紙に描けるようになりました。

また殊に乗り物が大好きで、新聞に乗っていた乗り物の写真は、ことごとく切り抜いて、新聞紙を切って閉じ合わせ母親が作ってくれたスクラップ帳に貼り付けて集めました。当時の新聞の写真は、現在のように画質の良いものでもなく、ものの輪郭さえもはっきりわからないことすらありましたが、そんな写真でも私には貴重な楽しみでした。

戦前~戦後にかけて国鉄で活躍したデッキ付電気機関車。私の記憶の原風景

中でも、手すりのあるデッキが前後についた電気機関車の写真を見つけたときには大変感激し、また同じような写真が新聞に載ることを期待して、毎日、新聞の写真を隅から隅まで調べましたけれど、二度とそんな電気機関車にお目にかかることはなく寂しい思いをしました。

当時はテレビなどなく、今の様に贅沢に物が買える時代ではなかったので、私は新聞の写真や、たまに買ってもらった絵本に載っている絵がとても新鮮で、毎日繰り返し眺めては身近に感じて、それを真似て絵を描くのが一番の楽しみでありました。未だ幼くて、ほとんど一人で外へ遊びに出してもらえなかった私は、よくこうして紙に書いた車や汽車や建物をハサミで適当に切り抜いて、ノリでスリガラスや障子に貼り付けて遊んでいました。

それらの絵を見て両親や兄姉が大層褒めるので、自分の絵がかなり特殊なものだということは、私にもだんだん分かってきて、幼いながら誇らしい気持ちになっていました。そんなある日(未だ幼稚園に通っていなかったので5才の秋だと思います)森永ミルクキャラメルの内箱に展開式の自動車の型紙が印刷されているのに出会いました。

立体の自動車をこの様に紙の上に展開して描き、それを切り抜いて折り曲げ貼り合わせて立体に仕上げると言うのは初めてのことだったので、最初はその意味が分かりませんでしたが、姉の説明を聞き、暫く眺めていると自然にそのやり方が理解できるようになり、早速ハサミで切り抜いて折り曲げ糊付けして組み立てました。

確か一箇所だけ間違って切ってしまった糊しろの部分があったのですが、姉が来てその部分に別の紙を切つて糊付けしてなおしてくれました。こうして完成した自動車は、当時10円だった森永ミルクキャラメルの箱とほぼ同じくらいの大きさの可愛いものでしたが、私はこの時、全ての立体がこれと同じやり方で紙を切り抜いて作りうることを一気に理解しました。

早速お絵かきに使っていた紙に、もう少し大きい自動車の展開図を描き、切り抜いて組み立てました。ただ車の左右の側面をきれいな対称に描くのが難しく、屋根から前後に伸びる車体中央部分の長さが、窓やボンネットの折り曲げ部分と上手く合っていなかったので、出来上がった車はかなりひしゃげた変な形になってしまいましたが、それでも一応立体になったことに感動して、私は次々に車や汽車や建物の形を紙に書き、切り抜いて組み立てました。

幼児期に作った紙の立体模型と同じものを作ってみました。あるいは当時のほうが上手かったかも・・・

まず一番上にくる屋根を描き、次にその左右にできるだけ対称になるよう側面の絵を書きます。側面が書き終わったらその形に合わせて屋根の前後に中央の展開部分を描き、その両側に貼り合わせる糊代を適当に描けば展開図の完成です。

定規も物差しも何も使わず(使い方もよく知らなかった)目測で書いてゆくので多少複雑なものでもすぐに書き終わります。これを切り抜き何台か組み立てるうちに描くコツも掴み、完成品も歪みが取れて子供ながらに満足の行く仕上がりになりました。

わたしは、その日のうちに10台以上の車や電車を組み立てて畳に並べ、押して遊んでいましたが、外出から戻った母親がこれに気づいて大層驚きました。母は幼い子供が誰に教わったわけでもないのに、紙で立体の模型を作ったことに余程感動した様で、それまで使っていた薄ペラいお絵かきの紙ではなく、もう少し厚みのある画用紙を何枚も買ってきてくれました。

当時は敗戦から未だ10年も経っておらず、この国も貧しくて借家住まいの貧乏官吏であった私の家では、画用紙など贅沢に使えるような身分ではなかったのです。確かに腰のある画用紙だと、立体の形も綺麗に決まるし、何よりも紙が大きいので、もっと大型で複雑な絵がかけます。これには私も大いに嬉しくなり、早速絵本で見たハシゴ車から給水車に至る5台の消防車のシリーズと、蒸気機関車と客車からなる鉄道のシリーズを作りました。

私は最初、新聞の写真で見た電気機関車を作りたかったのですが手すりを持ったデッキの部分が難しそうに思えて、蒸気機関車にしました。今思うと汽車のほうが複雑な形をしている筈ですが、汽車についている多くの部品は、側面に絵で書き込めたので私には汽車のほうが作りやすいと思えたのです。

此方のシリーズはそれまでの車より一回り大きく、鉛筆書きの上にクレヨンで彩色して細部も細かく書き入れました。当時私は、目で見たものは細かい細部まで何故かすぐに記憶に残り、それを紙に描けましたから、こうして作った消防車や汽車は、子供目にみてもなかなか大したもので自慢できるものでした。

当時は未だ蒸気機関車が幅を利かせていた時代で、自宅から少し行くと亀山-鳥羽間を行き来した参宮線の列車や貨物車が安濃川の上流によく姿を現しましたし、津駅の近くの踏切まで行けば、目の前に踏切を渡る汽車の力強い姿を見、重々しい蒸気機関の音を耳にすることが出来ました。

まだこの頃には、その後しばらくして廃線となった伊勢電鉄の新地駅が家のすく近くにあったので、津駅と新地を結ぶ2両連結の電車が数時間に1回程度の割合で家の西を走っていました。しかしこの電車は重厚で力強そうな蒸気機関車に比べるといかにも貧弱で味気なく、子供ながらにあまり興味を引きませんでした。

この時作った蒸気機関車と客車が、私にとって初めての鉄道模型でした。前のボイラーから石炭箱まで含めると、かなり複雑な形の汽車はなかなか作りがいがあり、絵を描いて切り抜き組み立てるのも楽しかったものです。しかし、ただ四角くて細長いだけの箱に、窓と台車と車輪を描くだけの客車は変化がなくて私にはあまり面白味いものではなく、作っていてもすぐ飽きてしまって、同じようなものを3両作って汽車に連結しただけで終わりました。

このシリーズは、両親や兄姉にも大層な人気で、もっといろんなものを作るよう、さかんに進められたので、消防車の車庫や汽車の駅等もを作って遊びましたが、じきに紙の模型作りそのものに飽きが来て作るのをやめてしまいました。

その後幼稚園に上がってから、朝の遊び時間にこれより遥かに簡単な折り曲げ式の立体模型を幾つか作って並べていたところ、幼稚園の先生がこれを見て驚き大層褒めてくれた事があります。しかし私はそれ以前に、もっとずっと複雑なものをたくさん作っていたので、そんなものを褒められてもすこしも嬉しくなかったのですが。

当時の私は絵がうまく、私が描いた絵は他の園児たちの描く幼い絵と比べると遥かに精緻で異質なことが自分でもよくわかりました。幼稚園の教師たちは、初めは私の絵が園児の描いたものと思えなかったようです。しかし私が絵がうまいと知ると、市や県や新聞社のコンクールが開催されると必ず私のところに来て絵を書くように求めました。

出した絵は、みな何らかの賞をもらいましたが、園の先生達に言わすと、とても大人びた絵なので園児が描いたと思われず残念だとのことでしたから、この分野ではすでにガキながら多少の自惚れを持っていたものです。もっとも中学まで進む頃には我が能力が、見たものを正確に記憶していて写し取るだけの力で、美術やデザインに求められる創造力・構成力・色彩感覚なとは甚だ欠落していているし、手先の器用さもあまりない。ようは芸術分野で私は到底ものになりそうにないと分かるのですが。

幼稚園から小学校に上がる頃になると、終戦直後の大空襲で焼き払われた津市中心部も戦後復興期から高度成長期にさしかかって、次第に新しい建物が立ち始め、丸の内中央道りには中央郵便局を兼ねた五階建ての三重会館ビルができました。開館当初、このビルの中には2軒のおもちゃ屋が入っていたので、度々家から歩いて遊びにゆきましたが、その店で私は初めて本格的な鉄道模型に出会いました。

当時玩具屋で売られていたOゲージの電気機関車。車軸が2本のコンパクトなものが多かった

それは1/45スケール32mm軌道のOゲージと呼ばれる模型の電気機関車と数両の貨車で、線路は何故かブリキでできたレールが3条ありました。これまでも、ブリキ製の鉄道のおもちゃはたくさん見かけましたが、みなぜんまい仕掛けが乾電池で動く小さな汽車や電車が2条レールの上を走るもので、それらは子供目にみても明らかにおもちゃでした。

しかし新しいおもちゃ屋のショーウインドの中に並んでいるOゲージの模型は、作りがおもちゃのそれとは全く違ってもっと精工で丈夫なものです。車両とレールとトランスのセットで売られており、高価なものでしたから勿論買ってもらえるわけもないのですが、子供の心を惹きつけて放さない商品でした。

現在の日本ではOゲージ模型はより小形のHOゲージ・Nゲージに取って代わられごく一部の企業や好事家の間で流通しているだけですが日常生活の規模が大きい欧米では現在でも多く市販されているようです。ただしサイズが大きいので作り込みも精緻で、その価格もサイズに合わせて大変高額なもので最早到底おもちゃ屋の取り扱う商品ではなくなっています。

そんな中でも極めつけは、ある日突然三重会館のショーウインドの中に並んだ一台の電気機関車でした。それまで見た電気機関車は、寸詰まりで車輪も2軸でしたが、この模型はショーウインドの奥行きいっぱいの長さを持っており、車輪の数も半端なものではありません。台車や前後のデッキも細かく再現されており、真鍮で出来た重厚な動輪や精緻なパンタグラフなどは何時まで眺めていても飽きが来ないほどの魅力を持っていました。

新幹線が開通するまでEF58は東海道線の特急「つばめ」「はと」を牽引する機関車のエースだった。写真は「カモメ」牽引車

それは戦後に国鉄が開発した電気機関車のエースEF58の素晴らしいOゲージ模型だったのです。私はこの模型見たさに、頻繁に三重会館まで出かけましたが、模型に出会えたのは2回きりで、その後は売れてしまってもう二度とその模型を見ることはなく行く度に私をがっかりさせました。また件のおもちゃ屋もじきにこのビルからテナントをたたんで何処かへ行ってしまいました。

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その後もこの電気機関車のことは、時折私の記憶に蘇ってきましたが、東京オリンピックを契機に新幹線が登場するとEF-58は国鉄電化のエースの地位を新幹線に譲り、徐々に在来線からも姿を消して行きました。そして殆ど旅行に出ることのない私は結局この年になるまで一度もその実物に接することなく年を経てしまいました。

そんな私がもう少し積極的に鉄道模型と関わったのは、中1に進学した春、1/80スケールHOゲージの電車模型を作っていた新しい友達に誘われたおりです。HOゲージは大型のOゲージの半分16.5mm(12mm狭軌)線路を走らせる鉄道模型で、電車や機関車の車体は20cm前後の長さとなり、狭い日本の家にもよく似合いますし、あまり器用ではない私でも割りと簡単に真似することが出来そうでした。

現在も多数流通しているHOゲージ模型 ( 下段 ) 上のNゲージに比べると半分程度のサイズ ( リサイクルショップ )

けだし模型を走らせようと思うと、最低でも円形レールのセットと可変できる直流電源装置(パワーパック)が必要となり、貧乏役人の親からもらう小遣いではとても足りません。しかし其処は親に泣きついて何とかお金を調達するすることが出来ました。

線路等の目処が付いたので、次は車両の模型作りです。自分としては電気機関車を作りたかったのですが、複雑な上、台車や車輪等も高額なので、最初はずっと安価に仕上げられる電車を作ることにしました。

当時は既に黄と青のツートンにぬられた近鉄のビスターカーが登場して間もない頃でしたが、ビスターカーは如何にも複雑そうでしたから、私が作ったのは雑誌でしか見たこともないオレンジと緑の湘南電車でした。

まず白ボールに車体を描き、鋭利な刃物で切り抜きます。当時は未だ折り刃式のカッターがなかったので、車体の窓やドアを綺麗に抜くにはなるべく刃先の薄いナイフを研ぎ出して切口が毛羽立たぬよう慎重に切り出しました。

切り抜いた車体のパーツを接着剤で貼り合わせ、曲面のコーナー等はパテ塗りした上ペーパーがけしてからラッカー塗装して車体上部を仕上げます。塗装はツートンに仕上げたかったのですが、小遣いがなくて黄の一色となりました。

車体の下部は、車体に合った薄い板をベースにして車軸台車や連結器を取り付け車輪を嵌めると出来上がりですが、動力車の場合は台車や木製ベースに直流モーターを載せてギャやベルト駆動で車輪を回します。

紙作りの車体の方はパテやラッカーに多少お金がかかる程度で済みますが、台車や車輪、モーターは金属製の既製品を使いますからそれなりにお金がかかり、むやみに台数を作ることは出来ませんでした。

ことに12V用のモーターは結構高かったので動力車を何台も揃えるのは負担が大きいく、ベルト駆動の電車など、やむを得ず安価な馬淵モーターで代用したりしました。しかし、そこは低電圧用に造られた安物の悲しさで、12Vをかけて暫く回しているとブラシの金属部が整流子と激しく摩耗して擦り切れて壊れてしまい回らなくなります。

それでも一両の動力車と連結できる2両の電車を作り上げて走らせたときは大層感激しました。直径1m程の円形レールの上をただくるくる回るだけのものですが、電源(パワーパック)の電圧調整で走る速度を変えることができました。

パワーパックは市内の模型店に頼んだものですが、実は近くにあった津市内で唯一の無線部品(電子部品)専門店、藤井無線が作ったもので、中を見ると多数のスライダータップを出したトランスと、交流を直流に変換する全波整流のセレン整流器だけで出来た至極簡単なものでした。

Oゲージ用の交流トランスとセレン整流器。Oゲージは交流モーターだがHOゲージは直流で整流器を必要とした

小6の頃、ラジオ作りに夢中になったことがあり、私はこの電気店をよく知っていました。時折店の奥でその店の息子さんがトランスを巻いて何かを作っていましたが、聞いてみると、このパワーパックも彼がそうやってトランスを巻いて作ったものでした。

当時、安価に直流電圧を連続的に可変するには、スライダックでまず交流100Vを可変し、それを低圧変換用のトランスで0~15V程度に落としてその出力をセレン整流器で直流に直します。しかしそれでも結構高価な小型のスライダックが必要となるので、多数のタップを設けたトランスでスライダックと低圧変換トランスの代用をして、2V程度の間隔で階段状の出力電圧変化を得るのが普通でした。

これは当時はもう殆ど見られなくなった、HOゲージより一回り大きいOゲージ模型の電源に使用されていた方式で、Oゲージは線路に供給する電圧自体が交流(0~18V)であったため、タップ付のトランス出力をスライダーで選択して直接レールに流していました。HOゲージでは絶縁された2本の線路に直流を流し、これを絶縁された左右の車輪を通じて集電して車体のモーターを回します。

Oゲージの中間線路集電子 ( 左 ) とHOゲージの絶縁車輪と台車 ( アル モデル商品ベージより )

Oゲージの線路が3条あったのは、真鍮車輪が絶縁車輪ではなかったため、2本の車輪レールと中央の絶縁レールに電圧をかけ、車両の車輪と車体下部に設けた集電子で車体に給電していたからでした。私は小5の頃から電気工作にも入れ込んでいたため、偶然Oゲージ用の中古トランスを持っていましたので、セレン整流器を買えば遥かに安くパワーパックを作れたと思い至り、悔しい思いをしました。

しかしこの時期、鉄道模型に対する興味はあまり長続きしませんでした。自発的にのめり込んだ趣味ではなく人に誘われて入り込んだ世界でしたから今ひとつ気合が入らなかったともいえましょうか。当時の私には、それより遥かに面白みを感じた短波ラジオ作りからアマチュア無線に興味の全てが向って行き、中2に上がった頃から小遣いの全ては無線機作りにつぎ込こまれて鉄道模型はすっかり頭から消え失せてしまいました。

この無線の趣味は、結局私の進路をも決めてしまい、私は工業の電子科に進んで電子制御を職業とすることになります。果たしてこれが良かったものか、いまでも私には判断できませんが、今日までに身に着けたさまざまの民生用電子機器や産業用機器の知識と技術は、今も私の趣味の一部をなしていますから、悪い選択ではなかったのかもしれません。

電子関連産業は、この時期"疾風怒濤"の時代に突入しており、第二次大戦末期ベル研究所による個体増幅器(トランジスタ)の発明に端を発した電子デバイスの開発競争は止まるところを知らず、トランジスタ・ダイオードからマイクロモジュールさらにIC集積回路の発明へとめまぐるしい発展を遂げます。

なかでもマイクロコンピューターに代表される、より高密度のLSIが開発されるに及び、従来では大きな企業でもなければ所持しえなかったコンピューターが、個人でも僅かな金額で自作可能となり、米国のベンチャー企業からは企業向け製品の1/100以下の価格で家庭用のコンピューター製品が発売される状況すら生まれました。

この分野を飯の種にする人間にとって、これらの最新技術を見過ごすことは不可能に近く、私も20代から40代にかけての時代は、次々に登場する新手のデバイスや制御技術に技術的興味の多くを奪われ、それを吸収して消化することに力を注ぎました。

しかし結婚して長男が生まれ、男の子らしく車や鉄道に興味を持ち始めると、親ばかの常で子供に色んな車おもちゃを買い与え、鉄道模型もそんな中のひとつに入りました。当時既にトミーのプラレールが売られていたので、プラレールの新幹線や蒸気機関車が専ら子供の遊び相手でしたが、仕事で名古屋に出かけた折、デパートのおもちゃ売り場で多種のNゲージ模型が並んでいたのを目にして、昔の模型作りが懐かしくなり国鉄の貨車とレールを買い込んでしまいました。

1980年代に売られていたNゲージの国鉄貨物模型。国鉄の操車場系貨車の運行は1984年で終わるのでこれらは貨車の最後の形式

Nゲージは軌間9mm縮尺1/150の小型鉄道模型で1/80スケールのHOゲージの半分程度の大きさです。Nゲージですと狭い日本家屋の室内で多数を連結走行させてもあまり違和感がありませんが、HOゲージでは室が手狭に感じられて、ジオラマを作っても如何にも箱庭っぽい不自然さが拭えないため、鉄道模型愛好者の嗜好がこの時期にはより小型のNゲージに移行しつつあったようです。

Nゲージ模型の旧国鉄貨車の数々。貨車はその用途に応じて様々な形をしているので大変興味深い

貨車を買ったのは、子供が貨車の出て来る絵本「かもつれっしゃのワムくん」で国鉄貨物に興味を持ったため、頻繁に近くの亀山操車場に出かけてディーゼル機関車DD51に牽引されてくる様々な貨車を見ていたからでした。亀山駅は、参宮線・紀勢線を利用する津以南の路線、関西線による関西方面の路線、及び名古屋方面の路線の分岐中継点にあたり当時は貨車を仕分ける操車場がありました。

また関西線下り方面には、直ぐ先に急勾配の加太峠があり機関車の負担も大きかったようです。そのためか私の子供時代には蒸気機関車の整備を担う亀山機関区がおかれていて、汽車を折り返し運転させるための転車台( ターンテーブル ) もありました。

私の幼児期は未だ蒸気機関車の全盛時代で、県内の国鉄全線で蒸気機関車が走っていました。私は親に連れられて列車で亀山駅の構内を通過する機会があると、転車台に乗った汽車を見ることが出来るのでとても楽しみだったものです。当時は小型のC11・C50等動輪3軸の汽車が多かったように記憶しています。

嘗ての亀山機関区に残る転車台 ( 左 ) と加太川沿いを走る現代の気動車

さらに亀山-加茂駅間は現在でも関西鉄道当時と変わらぬ非電化区間でディーゼルカーが走っています。伊賀上野の周辺を除くとその路線の多くが山間僻地を走るこの区間では、明治20~30年代関西鉄道( 現在関西本線 )建設当初の鉄道施設が今も多く残っており、ことに亀山-伊賀上野間にはトンネルや橋梁などの施設が 現役で使われていることで知られています。

加太駅手前の坊谷隧道と加太川にかかる一ノ湯川橋梁。どちらも明治期関西鉄道当時からの施設

これ等の鉄道路線は、自動車が普及する以前の日本にとっては正に地域交通の要でしたし、また都市間を結ぶ道路が整備されトラックによる荷物輸送が本格化する1970年代以前は、海運以外の長距離国内貨物輸送の殆どが国鉄の路線を走る貨物列車に任されていました。その為亀山のように路線が分岐する主要駅には、貨車の貨物を目的とする方面の路線に仕分けし、新たな編成の貨物列車に組み換えを行うための、特殊な線路配置をもった操車場 ( ヤード ) が設けられていました。

操車場では、専ら駅員の手動による操車によって貨車ごとに目的路線へと仕分けされていましたから、当時は操車場に出かけて行けば、必ずと行ってよいほど多数の貨車や牽引用の機関車を見学することができました。亀山駅の下り線側には戦前からかなりの広さを持つた操車場が造られていて貨車の仕分けが行われていました。

敗戦直後1946年5月23日の亀山操車場の米軍空中写真。敗戦一年未満の写真だが多数の貨車が仕分線上に見られる

長男を連れてよく見に行った頃 (1982年11月14日) の国土地理院空撮。白塗りの保冷車や茶色に塗られた有蓋車ワムが分かる

操車場業務廃止後は客車や気動車の置き場になっていたが南側仕分線には未だ多数の貨車が見られる ( 1987.1.18 国土地理院空撮 )

もはや現在では当時働いていた様々な種類の貨車はスクラップとして潰されてしまったり、民間に払い下げられて倉庫や小屋に改造されたりしてその姿を留めるものは殆ど存在しないようです。しかし私がNゲージの貨車を買い求めた1980年代初頭には未だ操車場が稼働しており、各方面よりDD51に牽引されて亀山操車場に出入りする多彩な貨車と接することが出来ました。

既に貨車輸送は複雑な編成替えを必要としないトラック輸送に換わりつつある頃でしたが、それでも当時の亀山操車場では何時も多数の貨車やデーゼル機関車DD51の姿を見ることが出来、長男とともに私自身が大変興味深くその姿を眺めていたのを覚えています。

しかし亀山操車場は鉄道輸送の減少に伴ない、国鉄が操車場系輸送を廃止する1984年には他地区の操車場共々廃止されてしまいます。その設備は一部直行輸送のコンテナやコンビナート等私企業の直行貨物輸送が存在したことなどから撤去されずに残されていましたが1990年代に入ると何時しかレールも撤去されて更地に変わり、今では広かったヤードの跡地も一面ソーラパネルで埋まっています。

1970~80年代国鉄非電化区間のエースDD51デーゼル機関車(左)とその小型版DE10デーゼル機関車(右)

今思うと当時の国鉄貨物を担っていた貨車の種類は大層変化に飛んでいて、新しい種類を見つけたりその名前を調べるだけでも面白いものでした。名古屋のデパートの模型売場にはそんな貨車の数々が可愛いNゲージ模型で再現されて並んでいましたから、私はすっかり心を奪われてしまいました。HOゲージより一回り小さいNゲージの模型は価格もそれなりに安く、ことに小型の貨車は300円とか500円の値段で色んな種類を揃えるのも楽でした。

ただプラスチック製のNゲージ模型は子供が遊ぶにはあまりにも華奢で押したり引いたりして遊ぶことが出来ません。子供にとってはプラレールのおもちゃのように、自分の手でいじりまわして遊ぶのが楽しみなわけですが、この模型でそれをやると、忽ち連結器が壊れたり車輪や台車が外れてしまうし針より細いデッキなど直ぐに折れてしまいました。

勿論こんな模型を4~5才の子供に買い与える親が大馬鹿です。子供が何台かの貨車を壊してしまった所で当然のことですが、これでは到底子供のおもちゃにはならないと子供の手の届かないところへ並べる始末。要は私の興味の為に買ったようなものでしたが、親が鉄道模型で喜んでいるのも大人げないと思えて、結局はいじらないようにしまい込んでしまいました。

この模型はそれから20年以上も納屋の中で眠っていました。その間に国鉄の貨物輸送はその多くをトラック輸送に取って代わられ、コンテナによる直行輸送や私有コンテナ輸送も現在は貨物輸送専用の日本貨物鉄道 ( JR貨物 ) へと移管されます。貨車も殆どがコンテナ積載車に変わり、コンテナの取扱駅も幹線の主要駅か大量の私有貨車を有する大企業の直行駅だけとなりました。

今では亀山操車場も其処に並んでいた様々な種類の国鉄貨車と共に消え去って最早目にすることも叶いません。貨車を牽引していたディーゼル機関車も関西線 ( 名古屋-亀山間 ) が電化区間となった今ではその姿を見ることはまずありません。直行駅間輸送であればトラック輸送より遥かにエネルギー効率の良い線路輸送も、一般貨物となれば仕分や組み換えの手間と時間がかさみ、トラック輸送に取って代わられるのも止む終えなかったのでしょう。

そして嘗ては模型で遊んでいた長男も何時しか結婚して子供ができ、その孫達が家に遊びに来るようになった今、当の模型は再び日の目を見ることになります。納屋を片付けていてひょんなことから再び現れたその懐かしい貨車を目にして、私は今こそ自分のためにこの貨車の模型を走らせてやろうと決めました。

早速適当なレールと牽引用の動力車を何台か買い込みついでに客車や貨車も付け足しました。動力車は私が幼児期に憧れたデッキ付き電気機関車とEF58さらに亀山操車場の主力機関車DD51等です。線路も大幅に買い足して複雑なレイアウトの組み立てが行えるようにしました。

幼児期に魅せられた電気機関車が我が家の鉄道の看板となる。茶色く塗られた戦前からの電気機関車はことに愛着がある

電源装置は簡単なので自作とし、同時に自動運転とポイントの自動切り替えを行えるようPLC ( プログラマブルコントローラー ) を組み込み、レイアウト上のポイント状態の直視と手動のポイント操作を可能にするため操作表示器はタッチパネルとしました。電圧可変出力は独立5系統・出力入り切り操作は10回路分可能な仕様とし、ポイント切替出力は実装20回路・PLCのユニット増設によって32回路以上の拡張が行えるようにしました。

ケースは廃品の電気設備の箱を切断・溶接して加工。直流電源はパソコン用の12V電源ユニットを利用する

”Nゲージ用のパワーパックとポイントコントローラー
”Nゲージ用のパワーパックとポイントコントローラー”/

パネルとPLCには手動操作による各系統の運転停止とポイントの切替および線路レイアウトに応じた自動運転をプログラムする

直流電圧の可変回路は安価な出力表示付きの可変出力DC-DCコンバーターを制御装置の前面パネルに取り付け、5個のボリュームで系統電圧の可変を行います。運転の入り切りやポイント切替の操作は全て装置前面パネルに取り付けたタッチパネルより行います。操作の内容に応じてタッチパネルの画面は何面でも自由に構成できるので様々な操作に応じてパネルレイアウトをデザインして組み込みます。

”Nゲージ用のパワーパックとポイントコントロール”/

線路のレイアウトが変わると新たなレイアウトに応じて表示器のデザインと制御器 ( PLC ) の制御用ソフトを追加して書き込む必要がある

タッチパネルは以前スクラップ業者から買い取った産業用の制御盤から取り外したもので、もう10数年も前の製品ですがPLC共々正常に働きます。サポートソフトは以前の仕事で日常的に使っていたものが対応出来ました。産業用の制御装置は時として中古品が極めて安価に手に入ることがありますが、これを新品で買うと凄まじい値段になってしまいます。PLCや入出力表示器のサポートソフトも同様で最新版を揃えるには何十万にもなります。

電子部品の分野では、今回も使用した出力表示器付DC-DCコンバーターの様に中華製の極めて安価で性能の良いパーツが多数流通しているので助かりますが、産業用の制御部品に関しては今一つで、なかなかOMRONや三菱・安川・FUJIといった国産メーカーに変わる安価な製品を見つけることが出来ません。中国国内のサイトを見ると国産品に変わりうる低価格の制御機器が様々なメーカーから発売されている様子ですが言葉の壁があって手を出せないのが現状です。

室内のレイアウトではポイント数が増えると配線の処理にうんざりします。アドレス制御とすれば配線は解消しますが思うようにできるかどうか。ジオラマにして配線をベースの下へ隠蔽できればよいがそうなると部屋が模型で占拠されてしまうし・・・・

色々と試行錯誤した末3種類の線路配置を組み込みましたが、一番気に入っているのがこの配置ですがこの配線ではなあ・・

我が家の狭い室内では、頭で考えた線路配置をいざ実行してみると四方の壁やものにぶつかっては急遽計画変更の繰り返しで、なかなか思うようには行きませんが色々といじりまわして何とか様になりました。しかし線路を敷いてポイント配線をセットするだけでも結構な手間と時間を必要とします。一部屋を模型のために潰してしまって配線の隠蔽や構造物の設置なども好きにできるのであれば良いのですが、生活空間の一部としている部屋では線路を広げてもその取り片付けが大変ですから、私のような貧乏人がこの手の趣味にむやみに手を出すのは考えものだと思う昨今です。

戦前~戦後期の国鉄電気機関車左よりEF57・EF13・ED16 どれも国産だが設計の原型は英・米から輸入したEF50・EF51等欧米の電気機関車を範とした。

「老化による幼児化」と云う言葉がありますが、実際子供の頃に親しんだ世界に対する親近感は年とともにその距離を広げる訳でもなく、むしろ逆に年を経るにつれてより身近なものと感じられるようになるものです。これは人の記憶の働きに直接関係する現象で私達の懐古趣味も基本的にはこの様な記憶の根源的な作用によるもののようです。

ひかり・こだま・のぞみ・かがやき・こまち・・・現行新幹線の愛称も我が孫達にはとても馴染み深いものですが、私には学生時代に登場した旧国鉄の東海道新幹線ですら、その利便性には誠に敬服しますが親近感を持つ程のこともなく、むしろそれ以前の様々な汽車・電気機関車・ディーゼル機関車・気動車等により親しみを覚えてしまうのはやはり歳のせいでありましょう。

そんなことを思うと、過去の想い出に連なるこれら鉄道車両の数々を、たとえミニチュア模型であるとしても自宅の室内で眺めて楽しむことが出来るのは素敵なことであり、それに掛かる少々の手間や労力は惜しむべきではないのでしょう。