この国の空は、過去にも常に今と同じような穏やかな表情を見せていたわけではありません。

戦後復興と公害

対米戦は日本の国内経済を崩壊に導き、産業を担った工場群も都市空襲で灰燼に帰して、敗戦直後の国内産業は壊滅状態に陥りました。しかし敗戦後、米国の庇護下に進められた民主化政策により拡大した国内市場を足がかりに国内産業は戦後急速な回復を遂げ、さらに朝鮮戦争・インドシナ戦争と続くアメリカ反共戦争の後方支援基地として思わぬ戦争特需を得て、何時しか日本経済は英・仏を凌ぐまでに成長を遂げます。

その後、朝鮮特需・神武景気・前期高度経済成長等と呼ばれたこの時期の発展は、その生産を担った工業都市周辺に公害を生み、その環境に多大の負担を与えるとともに、そこに暮らす多数の人々に様々な被害と苦痛をもたらすこととなります。

1950年代には、川崎・尼ヶ崎・四日市・水俣などの地域で工場が排出する様々な有毒物質を含む排煙や排水によって、多数の住民が病に苦しみ命を落とすまでの公害が多発します。なかには三井金属神岡鉱山のカドミウム汚染未処理廃液によるイタイイタイ病のように戦前から戦後までその原因さえ究明されず未対策のまま放置された恐ろしいものもありました。

車の出す排気ガスと排煙は相まって町を覆いスモッグと云われました。強烈な紫外線が降り注ぐ夏日には光化学スモッグとなり、本来なら風もなく穏やかな秋日にも、大気に生じた逆転層によって上層への拡散を妨げられて地上に滞留して被害を及ぼします。公害の街に入ると異臭鼻をつき、目がチカチカ痛み出し、呼吸すら満足にできなくなる有様で、その地に生活する人々には塗炭の苦しみをもたらしたのです。

京浜工業地帯を覆うスモッグ 学研 原色現代科学大辞典 「 地球 」挿画より

三重県下では石油コンビナートの町四日市の塩浜がその典型で、コンビナートから排出される亜硫酸ガスその他の有毒物質が絶えず大気に充満し四日市ぜんそくの患者が多発します。1950~1960年頃には電車が塩浜駅に近づくと、車内に立ち込める異臭で駅の存在が分かるほどで、街全体がコンビナート企業によって侵されていると感じられたものです。

東京・大阪周辺の工業地帯でも同様で、当時は既に公害が原因とみられる死者すら発生していましたから、当然公害の発生源である企業群や企業を指導監督する立場の国や地方公共団体は国民の指弾を受けて当然なのですが、公害の被害者たちが公害企業や国を相手取っていざ訴訟を始めてみると、逆に被害者が世間から白い目で見られ加害企業のほうが正しいと言わんばかりの状況が出現しました。

企業城下町に暮らす住民も本来なら被害者の立場なのですが、恥ずべきことに加害者の立場に身を置いて被害者を非難する有様です。公害審議会の専門家や被害の調査を依頼された東大を頂点とする官学アカデミズムの学者達は、病気と公害との因果関係が明らかでないとか公害の原因物質は大気や海中で拡散して薄められるから原因とならないなど、凡そ当時の素人が考えてもスジの通らない論を学者と称する人達が唱え、企業に責任など無いと言わんばかりでした。

私は当時公害問題を通して世の中の仕組みを学びましたが、学者にも被害を被る民衆の側に立って行動される方と、常に企業・権力の立場で物を云う二通りの人間が存在することを思い知らされました。これは住民も同じで、我が身を被害者の立場に置き、被害者の側に立って物を云う人と、加害企業の側に立って物を言う人があらわれます。

加害企業の経営者やその資本出資者あるいは企業との取引で多くの利益を得ている人間が企業の立場でものを云うのは当然かもしれませんが、経営者でもなければ資本家でもなく、加害企業に薄給で勤めているだけの人や、企業と何ほどの関係もないような人が、まるで自分が経営者でもあるかのようにものを云うのは、何とも情けなくやりきれない話でした。

戦後日本が民主化したといっても、アメリカ占領軍の指導下で強引になされたものです。悲しいかな国民の多くは未だ戦前の軍国主義時代とさして変わらぬ精神構造の持ち主でおかみに楯突く言動を取る意志もなかったのです。学者の場合、徹底して被害者の側に立ち公害企業にその原因が有ることを科学的に追求した学者たちはみな東京から離れた地方の大学の研究者や地元の医師でした。

国立大学の頂点に立つ東大系の学者は専ら企業の立場でものをいうか積極的な関わり合いを避けるかで、酷いのは権威にものを言わせて満足な現地調査もせずに口先だけで企業の側に立った発言をする学者が次々に現れることでした。東大内で反公害の旗幟を明確にし企業責任を追求した学者は宇井純氏のように出世の道を閉ざされました。薬害・薬効問題を生涯追求した高橋晄正氏も退官まで東大講師の肩書でした。

国内がこのような有様ですから、公害企業の責任追及もいっかな進まず、公害の被害者にとっては誠に辛酸を嘗める歳月が続きます。何とか被害者の側に立って裁判が進み始めたのは1960年代アメリカを中心として消費者運動が力を持ち始め、国内にも消費者保護を掲げる消費者団体が幾つもつくられて、国民の多くが消費者の立場で、すなわち企業と対立する被害者の立場でものを考え始めて以降のことです。

しかし被害者や支援者の苦闘が実って、何とか裁判で原告勝訴の判決が読み上げられ和解が成立して被害者たちに保証金が支払われ始めると、今度はそれまで原告被害者を除け者にして差別・非難していた住民たちが保証金欲しさに次々と公害病患者に化け始め、企業から少しでも金をせしめようと立ち回り始めるしまつです。当然潜在的な患者も多数存在するわけですから、これら欲にカラれたニセ患者の出現は公害保証の問題を更にやっかいにする情けない話でした。

現在の四日市コンビナート ( 四日市港湾組合 展望展示室うみてらす14 より )

1970年代に入ると、もはや世論に押されて公害企業も言い逃れは困難となり、様々な対策が取られるようになりました。四日市コンビナートの煙突群も脱硫排煙装置・煙突の嵩上げ・集合化等公害抑制の技術を次々に開発・設置して、嘗ては町に近づくだけで大気に異臭が感じられ汚れが実見できた塩浜の空も、周りとさして変わらぬ青空を取り戻すに至ります。

現在では、過去の公害企業群は最先端の公害防止設備を備えたプラントへと変貌し、当時は公害発生源として肩身の狭かった重化学工業も今や先進の公害防止技術を売りにする環境にやさしい企業へと変貌してそのマーケットを全世界に拡大しています。しかし50年以上に及ぶ反公害闘争の歴史は、企業が決して積極的に公害防止に取り組んだのではないことを示しています。

企業は企業利益に反する事実が明らかになると、常にそれを隠蔽し、様々な方面から圧力をかけ事実を追求する動きを阻止しようとするものです。たとえどれほどの死者が出ようとも彼らがその非を認め現状を改めるのは、法廷闘争に於いても社会的にも劣勢となり、もはや企業責任の回避が不可能となってからです。この事実は企業がその利潤追求を第一の目的とする以上今後も避けがたく、私たちはそのことを肝に銘じておかねばならないと思います。

啄木の空

啄木の歌集「一握の砂」にはその描写の中に空を詠んだ歌が幾つもあります。例えば第二章 「煙」 より

不来方のお城の草に寝ころびて

空に吸はれし

十五の心

知らぬ人も無いほどに有名なこの短歌は彼が盛岡中学に在籍した当時のことで、文字通りの解釈であれば、授業中の教室から抜け出して ( この歌の前首に「教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな」とその情景が詠まれています ) 盛岡城址の青草の上に寝転び、様々な思いの果てに空の高みへと吸い込まれてゆく啄木15才の頃の若く瑞々しい心を詠っています、しかしこの歌が詠まれたのは、自信にあふれていた啄木15の当時ではありません。

盛岡城址に立つ歌碑 青雲の志に満ちた啄木15の心を詠む

詠まれた年代は「一握の砂」の冒頭に「明治四十一年夏以降の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む」とありますから、明治41年啄木が東京に出て以降、翌年東京朝日新聞の校正係として勤めながら生活に呻吟していた二十三才前後の歌です。

当時の啄木は、小説家になることを夢見ていて、すでに与謝野晶子夫妻・鴎外・漱石ら当代一流の文学者らと親交を持ち文学者仲間ではその名を知られる存在でした。才能に恵まれ自負心も人一倍高かったのですが、自身の思いとは裏腹に小説では世に認められず、薄給の暮らしのうえ、坊ちゃん育ちで身の丈に合った生活を切り盛りしてゆく努力ができません。

家族の生活もままならない家計なのに遊郭に遊び、周りの華やかな都会生活の誘惑に遭うとその浪費癖から友人・知人所構わず返せるあてのない借金をしまくり無駄な出費を重ねては更に借金を続ける借金漬けの生活で、収入と釣り合わない贅沢な日常を求めながらも、そんな自分を常に後悔する矛盾に満ちた日々でした。

そんな啄木にとって、自然と口をついて出る歌が心のはけ口となっていたようです。この歌は当時の屈曲した心で、彼が自信に満ち溢れていた15の頃の心を歌ったもので、そこには自分に対する皮肉や諦め、深い悲しみすら読み解くことが出来ましょう。

歌の持つはつらつとした響きと裏腹なこの思いは、限りなく澄んだ虚空の果に何時しか吸い込まれて失われてしまった15の頃の若い魂にたいする悲しみなのでしょうか。しかし啄木がこの歌を読んだのは彼が未だ23~24才の若さだったのです。当時の気持ちを素直に情景に託した歌もあります。

同じく第二章「煙」より

青空に消えゆく煙

さびしくも消えゆく煙

われにし似るか

啄木が東京本郷に移り住んだ明治末期、彼の暮らした東京は未だ現在のように高層ビルで周囲の見通しもままならない世界ではなく、平屋の家屋も多く立ち並び、土手や高台からは周囲の家並みが一望できたはずです。啄木が暮らした下宿屋の二階や三階からも街の一部が望めました。

明治末期の本郷森川町 文京ふるさと歴史館 収蔵品展「絵葉書に見る文京」より

当時はどの家でも炊飯にかまどを使いましたから、朝な夕なに平屋の家並みの方々から炊飯の煙が立ち、石炭や薪を燃料とする工場や湯屋の煙突からは大量の煙がまいあがってっていたはずです。彼が暮らした本郷森川町の下宿蓋平館の南800m程には神田川沿いに東京砲兵工廠が広がっており何本もの高い煙突がありましたから時には激しく黒煙を吹き上げていたことでしょう。

この歌では、そんな煙が青空の中に吐き出されて何時しか寂しく消えてしまう様を自身になぞらえて詠んでいます。自信家で、嘗ては自ら天才と見做していたほどでしたが、東京暮らしは借金を増やすばかりでいっかな芽が出ず、時には自らの才能さえ否定してしまうほど落ち込むこともたびたびでありました。

当時の彼は『明星』『スバル』に短歌・小説をのせ、東京朝日の校正係として二葉亭全集の校正を手がけ、朝日歌壇の選者を務めるなど作家としての力量も、己の才を冷静に見つめるだけの批評眼も十分持ち合わせている訳ですが、生活のめどが立たずに知人に無理やり借金しては踏み倒してしまう日々は、然しもの啄木でも自分を持ちきれなかったのでしょう。

それでも同じ煙を眺めながら、正反対の心情を読んだ歌もあります。第一章 「我を愛する歌」 より

龍のごとくむなしき空に躍り出でて

消えゆく煙

見れば飽かなく

ここに詠まれた煙はさびしく青空に消えるものではありません。龍(りょう)となって蒼空に躍り出て暴れまわった末に消えゆくのです。もうもうと黒煙を上げて空高く立ち上り、空を煤で汚しながらもついには消えてしまう煙に対する啄木の共感が読み取れます。この当時一生活者としての覚めた目で世の中を見つめていた啄木は、国家権力に立ち向かって投獄されるも辞さない社会主義者や無政府主義者の活動に心を惹かれてゆきますが、この煙は勝算のない戦いを敢然と続ける彼ら革命家にも対比出来るでしょう。

啄木自身、あるいは龍のようにこの世の中に舞い踊り、この世に革命を起こし、力の限り暴れまわってから、消え去らんと欲したのでしょうか。ただ彼自身、自ら弱い意気地のない人間であることを十分心得ていましたから龍の仲間に共感を覚えたとしても、彼らと一身胴体となることは出来ぬ相談でありました。彼を取り巻く重い現実は啄木をしても、さびしくも消え行く煙 われにし似るか と嘆かざるをえなかったのです。

明治43年宮下太吉・管野スガ等による明治天皇暗殺計画に端を発した大逆事件は暗殺と無関係であった社会主義者や無政府主義者の一斉検挙を生み幸徳秋水・大石誠之助等多数が嫌疑も定かでないままに死刑に処せられます。これを受けて啄木は「時代閉塞の現状」を書きます。体裁は自然主義文芸に対する批評の形を取っていますが、国家の体制に対する批判であり、世の青年に対して社会変革の努力を呼びかける鮮烈な内容を持った短評です。

さらに啄木は幸徳秋水の陳述書をひそかに借り受けて筆写、膨大な特別裁判の訴訟記録をも精査して、幸徳等の嫌疑が官憲によるでっちあげだと確信します。明治44年5月には、幸徳の陳辯書を中心に構成した「‘V’NAROD’SERIES A LETTER FROM PRISON」を執筆し事件の真相を少しでも世に知らせようと勤めます。

この事件以降、自らの生活によって一片のパンを得るための労働者の苦しみを自覚していた彼の思想は、社会主義・無政府主義に急接近しますが、最早革命的実践を行うための余力も残されていませんでした。結核を患っていた彼は闘病を余儀なくされ、1912年4月13日26才で苦闘の生涯を終えます。

金銭面では一生周りのものに迷惑・苦痛のかけどうしであった無茶苦茶な人生でしたが、彼が本分とした文芸の分野では最後まで一歩も引かず、他を遥かに凌駕する仕事をなし続けその人生の帳尻をあわせました。散々裏切られながらも、最後まで生活の援助を続けた友人たちもそんな啄木に引かれていたのでしょう。まさに龍のごとくむなしき空に躍り出でて消えたの感があります。


秋の空 絹雲

「天高く馬肥ゆる秋」の言葉通り、秋は大気が澄み渡り青空が高く感じられます。国土が湿気を多く含んだ夏の太平洋高気圧の勢力範囲から、乾燥した冬の大陸高気圧の勢力範囲に移るに従い、大気の透明度が増して青空が奥行きを増す様に見えるからですが、この高い秋空を更に高く感じさせるのが絹雲と呼ぶ雲です。

絹雲は、その字の通り光沢のある絹の布を思わせるような繊細で緻密な表情をしており、対流圏内で最も高い高度に現れます。天気が崩れる前兆として空にかかることが多く。最初はごく薄い虹色のベールが空の一部に見えるだけですが、見る間にベールは銀色に輝く絹地となり空を覆い始めます。雲には繊維のような模様・表情がありとても繊細で美しく感じるのですが、暫く眺めているとその表情の緻密さ故にかむしろ不気味に思われてきます。

10月の夕刻、自宅上空のごく一部に現れた絹雲 ( 巻積雲 )10km前後の高空にみられ緻密な表情を持つ

雲が厚みを増すに連れて、雲の一部に絹ちりめんのような細かなシワがより始めます。そのうち雲は空全体を覆いますが、見た感じでもこの雲は普通の雲と違って極めて高いところに広がっていることが分かります。高層を飛行する航空機さえ雲の下を飛び、機体が雲に隠れることがありません。でもこの雲に関するはっきりした記憶は私が小学6年のころ・・今から60年も前の話なのです。

この状態の雲は、正確には絹層雲及び絹積雲とよびます。そして絹雲と絹の字を当てるのは、私が高校の頃から暫くの時期で当時私が持っていた学研の原色現代科学大辞典には絹雲の表記ですが、今では語源の意訳で巻雲の表記が使われています。絹のベールとなる以外に髪の毛状の筋となり先端がカールするように見える事が多いからです。

しかし絹層雲から絹積雲にいたると、これはもう明らかに巻くといった形ではなく、絹のベールや絹縮緬の印象が強く空が一面に絹積雲で覆われると、雲の緻密さと高さが他の雲と全く異なるので時に異様な印象を受けるものです。

海外サイト(http://cloud-maven.com/category/cirrocumulus-clouds/)に掲載の巻積雲 高度2600feet ( 8.8km ) で-36℃

同じく(http://cloud-maven.com/category/cirrocumulus-clouds/)虹を伴う巻積雲。美しい写真です

小学校時代、私は絹雲の記憶をいくつも持っていました。青空の広がった心地よい空が少しずつ雲に覆われて天気が変わり始める、そんな折によくこの雲が現れたからです。ところがそれ以降この雲に出会った明確な記憶が私のなかには有りません。小規模のものは何度となく目にしているはずですが、空全体が絹雲で覆われ、ある種の不気味さを感じるそんな経験がもはやないのです。

2000年にオリンパスのレンズ非交換一眼レフE-10 ( ミラーレスではなくTTL一眼レフ ) を買って以来、周囲の様々な対象をカメラに収めてきましたから、最近は特に人一倍周囲の環境については注意しているのですが子供時代に目にした空を覆う絹雲 ( 巻積雲 ) には出会いません。勿論それ以外の空 ( 雲 ) の写真はたくさんあるのですが。これは一体どういったことなのでしょう。

秋の空によく現れる巻雲と高積雲・高積雲。私には子供の頃に比べて出来る高さが低いように思える

googleの写真サイトで検索しても、日本語の検索では記憶にある高空の絹雲を撮したような写真はまず見当たりません。巻積雲として上がっているものの、高度が低いむしろ高積雲と呼ぶほうがふさわしいのではないかと思うような写真が多い。どうも私の子供時代1950年代に比べると、現在は雲の出来る高度が全体に下がってしまっている印象を受けます。

絹雲ができるのは、成層圏との境界に近い対流圏の最上部ですが、そのあたりは私の子供時代とは異なり、ジェット気流にのって毎日無数のジェット機が飛行する航路となっています。ジェットエンジンの排出する無数の塵は対流圏内に拡散しますが除々に下部に沈降してゆきます。

巻積雲より低高度にできる高積雲

雲は大気の上昇によって断熱膨張した大気中の過飽和状態にある水蒸気が大気中の塵を核として凝結し氷や水に変わったものですから対流圏上部の大量の塵は、水蒸気の凝結する高度を引き下げ、ジェット機の飛行などがなかった昔に比べて絹雲の高度を下げているように思えます。高層雲に近い巻層雲の写真が多いのはその様な原因かもしれません。

真夏の空・積乱雲

成層圏境界にまで立ち上る雲には真夏の夕立をもたらす積乱雲があります。灼熱の太陽によって熱せられた大気が急激に膨張して上昇して境界面に沿って大きく広がりその最上部は対流圏上限の境界面に沿って四方に拡散し鉄床雲となるもので、勢力の強い積乱雲の頭頂部は時々刻々姿かたちを変えて発達しますから眺めているだけでも感動的です。

積乱雲では急速に発達した積雲の頭頂部が圏界面近くまで上昇して水平に拡散する

真夏の空につきものの積雲。未だ頂きは発達途上だ

大気が循環して雲となる対流圏は、地表が高温となる赤道付近では高度が高く17km前後ですが、温度の低い極地では8km程度に下がるそうです。大気圏内では高度の上昇とともに大気の圧力・温度ともに低下しますが、これより上の成層圏では高度に連れて温度も上昇に転じるため対流圏内の大気には浮力が生じず、圏境界 ( 圏界面 ) を越えて対流することはできません。

このため発達した積乱雲でも、その頂頭が圏界面近くまで上昇すると圏境界に沿って周囲に拡散します。この辺りの高度は対流圏の最上部になりますから、発生する雲は絹雲や巻層雲となります。

日暮れとともに発達を終えた積乱雲。左部は成層圏境界当たりまで上昇し拡散しているが、右部は中層で成長できずにいる

対流圏で積乱雲が上昇を続けられる条件は、熱膨張した大気の密度が周囲に有る大気密度を上回らなければなりませんが、大気の一部が強く熱せられ膨張して周囲の大気より軽くなり、上昇し始めると膨張のために要する仕事で熱エネルギーを奪われて冷却するので、地表から連続的に熱せられた大気が供給されないとある程度の高度で周囲大気の密度のほうが低くなって、もはや上昇できなくなります。

上昇に伴って、気圧が低下し温度も下がると大気中の水蒸気は過飽和となって凝結し始め雲となります。凝結が始まると大気中に潜熱が放出され温度が上がるので膨張を助けます。膨張し上昇する雲の中で、水蒸気は気相から液相にさらに固相へと変化し、各相が複雑に混在しながら変化してその大きさがある程度に達すると雨や霰・雹となって地表に落下します。

地上高度に対する大気の密度分布は、大気密度が上層大気の重さ(気圧)と温度によって変化するので簡単には求められませんが、対流圏内の重力加速度が一定で、対流圏内の温度変化が地表高度に対して直線的に変化すると仮定すると微分方程式の数式解法が可能で大気密度は高度の上昇に対して指数関数的に減少します。

標準大気の気温減率を用いて地表温度30℃ 気圧1013hpa時の各高度に対する気温・気圧・密度を求めますと次の表となります。

中緯度における積乱雲頂部の最高高度は対流圏境界の10km程度にまで達しますから、頂頭部では気温-35℃ 気圧は地表の0.28倍 大気の密度は地表の0.36倍となります。大変な低温ですから大気中の水蒸気は殆ど存在できません。気温30℃における1m^3辺りの飽和水蒸気量が約30gなのに対して-30℃ではその過飽和水蒸気量は0.3gと100分の一に減少します。

したがって地表から強力な上昇気流によって対流圏最高部まで持ち上げられた積乱雲頭頂部の水蒸気はほぼ全てが氷結して氷の雲となります。気象学の本を見ますと積乱雲の上昇速度は10m/s以上とのことですから平均速度10m/sで10km上空に到達するまで20分程度の時間しかかかりません。

螺旋状に成長し始めた積雲。こういった雲はぼんやりと雲の形の変化を眺めているだけでも楽しめます

その間に大気中に含まれていた水蒸気は全て氷か水に変わり積乱雲中で降下上昇を繰り返しながら大きく成長して地表に夕立をもたらします。積乱雲の勢力が強く、その下部から絶えず新たな暖気が供給され続けると短期間に大量の雨が降ることも理解できます。

私の幼児期は、未だ敗戦の傷跡が方々に残っている頃で、時折上空を占領米軍のB29が銀色の機体をきらめかせて飛行していました。対米戦当時はサイパンを基地に日本全土を空襲して都市を焦土と化し、最後には広島・長崎に原子爆弾を投下して戦争を終決させた恐るべく爆撃機でしたが、この爆撃機が飛行していたのが正に積乱雲最上部の高度でした。

地表8~10kmもの高度では空気の密度が地表の1/3程ですから通常のエンジンでは酸素不足で全く力が出ません。B-29には、我国など手も足も出なかった2段の排気タービンを装着したエンジンが積まれ、完全に与圧・空調がなされた機内を持つた恐るべき航空要塞で、基本的に燃料品質やエンジン性能の劣った国産戦闘機ではB-29の飛行高度に上昇することさえ困難でした。

当時の米軍気象観測機WB-29 Tyhoon Goon Ⅱ ( https://www.wunderground.com/hurricane/hunter2.asp )

暫くしてB-29が上空を飛行する光景を見かけることも無くなりましたが、B-29の機体は終戦とともに米軍によって気象観測機WB-29に改造されグアムを基地としてカスリン台風・ジェーン台風・13号台風・伊勢湾台風・・等々戦後日本を襲った台風の正確な気象情報を届けてくれました。

彼らの仕事は北太平洋・フィリピン海で発生する台風を捕捉してその進路を追跡しドロップゾンデを次々投下して気温・気圧・風速・湿度等を逐次観測しながら台風の進路予想を立てることでした。貧しかった当時の日本では到底マネの出来ない贅沢な観測体制で、米軍からの台風情報がなければ未だ観測機器も観測点も十分でなかった日本の気象観測網では、台風が直前に来るまでその正確な位置や規模の把握は難しかったでしょう。

実際1955年の6月 ( 出来事はよく覚えているのですが月日の記憶がなく1955年の天気図を調べましたが何時のことかわかりません ) 天気予報では全くなんの予報もなかった台風が津市に上陸したことがありました。当時私は小学1年生で、その日は平日でしたら登校日です。しかし朝から強風を伴う強い雨が降っており傘をさして登校するのも儘なりません。合羽を着て上級生に連れられて何とか無事学校につきましたが、授業が進むに連れて風雨は凄まじくなり、3限目の始まる頃には最早外出することなど出来ない暴風雨となりました。

教室の窓からは横殴りの雨が校庭を激しく打ち烈風のため校庭に植えられている庭木も引きちぎれんばかりに風下に倒れて、葉がちぎれ飛びます。気の弱い生徒は泣き出す始末で、生徒は皆どうして家に帰ればよいのか考えるだけでも不安になるのでした。その頃には先生から学校は昼から休みになると聞かされましたが、休みになってももはやこんな天気ではどうやって家に帰ればよいのだとだれしも恐怖しました。

暴風雨はお昼に最も激しくなり、そんな中を学校からの連絡で生徒の父兄が迎えに来ました。連絡のつかなかった生徒の家へは学校出入りの業者さんが幌付きの小型三輪トラックに生徒を載せて送り届けてくれました。私は母親に連れられて帰りましたが風雨が強くて満足に歩けず、母親から離れると吹き飛ばされそうになります。少しでも風向きに顔を向けようものなら風圧で呼吸ができなくなり、誠に恐ろしい思いを味わいながらようやく家に帰り着いたものです。

ところが更に驚いたのは、家に着いて1時間と経たないうちに急に風がやみ辺りが明るくなって青空が覗き始めたました。ついさっきまであれほど猛威を振るっていた雨風が嘘のようになくなって日が照りだしたのです。それはハッキリとした目をもった台風が上空を通過する瞬間だったのです。目が通り抜けた数十分後には再び空は雲に覆われ風雨が激しくなりましたが午前中ほどの荒れようではなく台風に対する不安は去りました。

この台風は何故か気象観測の記録にも残らなかったようで、台風と呼ばれませんでした。当時国内の気象観測点は各地の測候所から得られていましたが、日本周囲の海上となると僅かな定点観測だけですから、米軍の台風観測機に捕捉されずに急成長した低気圧などはその位置や規模も分からず天気図から抜け落ちてしまったのかもしれませんが上陸してからは天気図にも記載されたはずですが。

( 気象庁の台風経路図1955年によると、この年上陸して津市の近くを通過した台風は10月20日 No.5526 OPAL_台風第26号 のみで午前9:00に高知室戸岬沖に在り985mb その後和歌山県に上陸して三重と滋賀の県境に沿って北上し午後9:00には996mbに衰えて三陸沖に抜けています。目は津市上空を通過していませんが、私の記憶違いでこの台風のことを勘違いしているようです)

当時日本に上陸した台風について、その正確な位置や規模が早い時期から伝えられ、進路予想を可能としたのはグァムを拠点にフィリピン海域の台風を虱潰しに観測してくれた米軍台風観測のおかげであり、戦後を生きた世代の日本人は、誰しも米軍の台風観測機WB-29にはお世話になったと言えましょう。

そしてこの台風こそ、正に積乱雲の集大成とも云うべきものです。台風ではその目を中心にしてその周囲に大小多数の積乱雲が円筒状に配列し、その中心部には目を取り囲んで太いパイプ状に垂直に立ち上がる巨大な積乱雲が発達して、その上部は丸テーブルを思わせるかなとこ雲が目の周囲全体に広がっています。

台風の構造 ( University of Rhode Island Hurricanes http://www.hurricanescience.org/science/science/hurricanestructure/より )

台風はその下部から周辺の温かい大気を大量に取り込み塔状の積乱雲の中で大気中の水分を凝集して大量の雨として排出します。凄まじい暴風雨は世に甚大な被害を及ぼしますが、雨と同時に大気中に含まれていた塵や埃なども一緒に地上回収しますから、ある意味で台風は超巨大な大気のサイクロン掃除機であり空気清浄機だとも言えるでしょう。

戦後の空

WB-29の母体となったB-29は戦前生まれで都市空襲を体験した方々には都市を焼き尽くした恐るべき、憎むべき爆撃機であった訳で、津市も終戦間近の7月24~28日にかけてB-29による大規模な爆撃と焼夷攻撃をうけます。ことに7月28日にはB-29 78機がテニアンより飛来し岩田川と安濃川に挟まれた津市中心部に焼夷弾による大空襲をかけました。

既にこの年の春以来、度々津市に空襲を加えていたため防空体制の不備を見抜いて侵入高度は3500mと低く、中河原から万町にかけて津市中心部の町は殆ど消失します。私の母親や兄姉が住んでいた栄町は安濃川の対岸に位置したため被災は免れましたが、空襲を恐れて中河原の海岸沿いの知人宅に疎開させていた家財がすべて灰になりました。

この後20日足らずで日本は無条件降伏し戦争終結しますからこの時期に生命を奪われた者やその家族にしてみれば誠に悔しくやりきれぬ思いだったでしょう。敗戦とともに国内には米軍が進駐軍として入り、連合国と日本の戦争終結を取り決めたサンフランシスコ条約が発行する1952年4月末までアメリカ占領政策による統治が続きます。

私の幼児期は進駐軍統治の最後の時期でしたが、自宅上空を米軍の連絡機が良く飛行していたのを覚えています。多くはP-38で、操縦室のある機体中央の両側にも双胴の機体を持つ独特の形で、高空を飛行していてもそのシルエットですぐに機種がわかりました。他には戦争当時、空襲時の直掩機として津市空襲の際に度々襲来して機銃掃射を浴びせてかけたと云うP-51も時折見かけました。

ロッキード P-38 終戦末期対日戦ではP-51とともに圧倒的な速度と武力を誇る高速戦闘機だった Hasegawa 1/48 Scall modelより

先にも書きましたがB-29はかなり頻繁に飛行しており、長い翼に四発エンジンを持った細長いスマートな機体が飛行してくると重々しい独特のエンジン音ですぐそれと分かります。B-29の飛行音がすると、私は何時も家から飛び出してその機影を追いかけたものです。時速600kmもの高速飛行が可能な大型爆撃機は、占領軍にも重宝で資材の輸送や兵員の移動の際に積極的に使用されていたのでしょう。

1950年6月には朝鮮戦争が始まって米軍が直ちに戦争介入しますから、後方支援基地と化した日本では米軍の出入りが頻繁に行われ、サンフランシスコ講和条約発行による占領終決後も米軍駐留は続き、朝鮮戦争が終決をみた1953年7月以降も三沢・横田・厚木・座間・横須賀・岩国・佐世保・嘉手納・普天間等に米軍基地が残されました。

このため私が幼稚園に入学する1954年頃にもまれにB-29やP-38の飛行を目にしましたが、それ以降は上空を米軍機が通過することも殆どなくなったようです。それに代わって民間のセスナ機やベルと呼んだ小型ヘリコプターを時折見かけるようになりました。

現在空に掲げられた広告としてよく目にするのはアドバルーンや飛行船によるものです。しかし私の幼小期にはビラ撒きと言って小型飛行機やヘリコプターから住宅地の上に大量のチラシをばらまく乱暴な広告が好まれた時期がありました。

戦争の際に対戦相手の戦意低下や懐柔目的で蒔くビラを伝単と呼びますが、対米戦末期に日本の制空権を握った米軍は、劣悪な戦況を国民に秘匿していた日本軍部に代わって戦況を日本国民に知らせるため、都市空襲の度に夥しい量の伝単を撒きました。チラシの英語flyer ( flier ) には飛行家・空飛ぶものの意味がありますので、米国ではチラシの初期から飛行機からのビラ撒きが行われていたのかもしれません。

米軍が撒いたもう一つのものは電探撹乱用のアルミ箔です。母親の話では津市空襲の初期に何度か空からリボン状のアルミ箔が大量に降ってきてびっくりしたといいます。初めて見るもので最初は何のためのものともわからず近づくのも怖かったそうです。此処で云う電探とは対空レーダーのことです。

既にドイツを屈服させた米軍は、対ドイツ戦で独軍が対空レーダー ウルツブルクやマイクロ波帯パラボラアンテナを持った空対空レーダー ベルリンまで開発して迎撃戦に用いたことをよく知っていたため、日本本土の防空レーダー網を警戒して電探撹乱用のアルミ箔をまいたのでした。

当時の日本にはレーダー波やその中間周波を満足に処理できる検波器や真空管は殆ど存在せず、超短波で使用に耐える絶縁体・受動部品も品質が悪かったため、レーダーと呼ぶものは開発されましたがあまり実用になりませんでした。ましてドイツやイギリスが展開したようなレーダーと高射砲との連動などは夢のような話でしたが、米軍はそのレーダーを警戒したものです。

広告の空 Sky Sign

子供時代に宣伝ビラがよく撒かれたのは1950年代の中半で、後半には見かけなくなりましたからそのころから法規制が始まったのでしょうか。ビラ撒きは休日に行われ、どこからともなく小型の飛行機 ( たいていはセスナでした )が飛んできて、まず上空を旋回し始めます。そうなると子供らにはすぐその目的が分かるので、飛行機を追いながら何時ビラを撒きだすのかワクワクものです。

次々とビラの束が投下され、落下とともに多数の紙片に分かれてパッと空に散らばり始めると、待ち受けていた子供らは一斉にその後を追いビラ拾いに夢中になります。飛行機によってはビラとともに小さな落下傘を投下するのでそれを求めて田も畑も踏み込んで奪い合いましたから迷惑も大きかったはずです。幸い当時の地方都市では未だ車も殆ど走っておらず、道路もみな未舗装の時代でしたから、ビラを求めて子供が車にはねられることもなかったようです。

しかし風向きによって、どこに落ちるかも定かでないビラを大量にばら撒くのです。ときにはビラが散らばらずに厚い束のまま人家の庭に落ちることもありましたし、塊にならずとも、十分に広がらずに狭い範囲に大量のビラが舞い込むこともありましたから、その危険や迷惑も大きく早晩禁止されるのも当然の行為でした。

当時は私も何度も飛行機を追い、ビラを拾いましたが落下傘となると、落とす数も2~3個なので子供らの取り合いになり余程風向きに恵まれて運がなければ拾えませんでした。運良く拾った子供の周りに集まって見せてもらいましたが、下で見ると紙と糸でできたちっぽけなものです。それが空をふわふわ落下してくるときにはとても魅力的で、みんなが必死で追いかけて手に入れようとしたことがウソのように思えました。

それでも、また次の落下傘が撒かれたりすると、そこは子供で一生懸命後を追いかけるのですからゲンキンなものです。結局私は当時小さかったこともあって、ビラはよく拾いましたが一度としてこの落下傘を手に入れたことはありませんでした。ビラについて今思い返して情けないのは、その情景はよく覚えていてもビラに何が書かれていたのか何一つ覚えていないことです。拾うと持ち帰って読んでもらったり、仲間うちで見たものですがその内容は記憶になく今では白紙です。

飛行機によってはスピーカーを付けて宣伝放送を流したり、機体の尾部に宣伝広告の書かれた長い幟を曳航したものもありましたが、何を言っているのかよくわからなかったり書かれている文字が見えにくかったりで、果たしてどの程度の宣伝効果が期待できたのでしょうか。これ等の宣伝も、飛行機ビラの散布が消えるとともに目にしなくなりました。

今日、空に展開する広告の技術は、曲技飛行で煙文字を書いたり、花火で文字を出したり、雲や霧をスクリーンにレーザーで画面を投影したり様々なものが考えられていますが、近い将来何もない空間に直接立体画像を投影する技術が確立されれば 都市の空は至る所がスクリーンや舞台となり様々な文字・映像が入り乱れる空間ともなりかねません。地上のみならず空にまでも無数のイルミネーションや絵の輝く世界が果たして住みよいものなのかどうかわかりませんが、そんな時代も見てみたいものだと思います。

確か二度、津市に遊覧飛行を行う飛行艇が来たことがあります。今で言えばどこかのイベント企画会社が遊覧客を募って遊覧飛行を実現させたもので、それは私が初めて近くで見る飛行艇でした。当時は岩田川河口に競艇場があり、飛行艇はそこに着水して競艇の出艇場所あたりから遊覧客を搭乗させていました。

当時飛行艇に対する知識は何もなかったのでそれが何という機種なのかわからずじまいになってしまいましたが、以前子供雑誌で見た川西の二式飛行艇のように胴体はボートのように水切りが付いており、翼には着水用のフロートがある機体でした。

旧日本海軍 川西 二式飛行艇 Hasegawa 1/72 scall modelより

飛行艇は開けた平水面があれば離着陸可能で機体下部を防水してフローターにすれば特別な離着陸装置を必要としません。このため機体の大型化に伴う離着陸装置の強度限界に直面していた航空機は、1920~30年代に飛行艇全盛期を迎えカプロニCa60・シコルスキーS40・ショートS17・サボィア-マルケッティS66・ドルニエDo X等 次々に大型飛行艇が建造されます。

宮崎 駿の「紅の豚」もその時代から着想したものですが日本では第二次大戦中の川西 二式飛行艇が有名です。ドイツでは第2次大戦中にも6発エンジンを装備したBv222 Bv238等超巨大な飛行艇を生み、Bv238に至っては全幅60m全長43m自重50t全備重量70tエンジン1900hp×6最高速425km/h航続距離6100kmと飛行艇中最大のものです。

しかし強度の高いゴムタイヤが開発されるに及んで飛行艇は急速に姿を消してゆきます。Bv238より小さいB-29が全幅43m全長30m自重32tで全備重量62tと、これより遥かに巨大なBv2389よりも1.5倍の積載能力を持つにいたり、地上滑走型の大型機が航続距離・最高時速ともに巨大飛行艇を凌いで、飛行艇の利点は単に水面に離着陸できると云うだけのものになったからです。