きつつき
我が家の前の里山にはキツツキが住んでいる。中ノ川から小学校へ続く山沿いの道を散歩していると、時折キョッ、キョッと鋭い鳴き声や嘴で木をたたく音(ドラミング)が聞こえる。
絶えず姿を見せる鳥ではないけれど、音のする方を良く注意して見ていると、林の木立の間をすばやく移動してゆく姿を見かけることがある。木々の間で白っぽい、わりと大きな鳥をみたらまずキツツキだ。
彼らの羽毛の抜けるような白さは遠くからでも良く目立つ。頭と腰に真紅の羽根をまとっているから、幹に止まって木をつつき、虫を探しているとこの赤い色も良く目立つ。
思いのほか大きい鳥で飛んでゆく姿もヒヨドリなどより丸みがあって大きく感じる。人慣っこいところがあるようで、極まれにすぐ近くの木にも来て、幹を回りながら上がってゆくことがあるが、たいていは近づくことのできない林の中の木立の幹を移動して何処かへ消えてゆく。
キツツキの正式名称はアカゲラだ。赤いキツツキでゲラと云うのがキツツキを意味する様だか、どの地方の言葉なのだろうか。この辺のことは今一つ分からない。
アカゲラ以外には、コゲラとアオゲラの二種類が住んでいる。コゲラはシジュウカラ程の可愛い鳥で、人慣れしており三十年ほど前はよく庭の紅葉の木に来て枯れ枝を突き回していたことがある。冬にはメジロやシジュウカラやエナガの群れと連れだって行動することが多く、今でも犬を連れての散歩の折々、周りの木々を渡ってゆく小鳥の群れの中にいるのをよく目にする。
運よく見つけられるところにいれば、キツツキ特有の幹を走るしぐさと緑の体色ですぐに分る。幹に止まって首を伸ばすようなポーズを良く取るように思う。
山から音は聞こえるのだが一向に姿を見せてくれないのは大変寂しいものだ。下の子がまだ小学生の頃、キツツキを呼び寄せてみようと云うことになった。ロシアの動物作家ニコライ・スラトコフの作品に「北の森の十二か月」と云うとても魅力的な本がある。この本の中に、キツツキの居る森で、木の幹を棒で叩いてそのドラミングを真似てやると、キツツキがよそ者を自分の縄張りから追い出そうと飛んで来る話があったのだ。
冬休みに二人で小学校まで散歩したおり、ちょうど周りの山からキツツキのドラミングが聞こえてきた。早速やってみようと云うことになり、木の枝で小学校の裏庭に転がっていた倒木を叩いてみた。暫く叩いていたがいま一つ効果のほどが分らない。
山のキツツキのドラミングは少し近寄った様な気もするが本で読んだようにはゆかない。多分たたく木の性質やたたき方に問題があるようだけれど、その後何回かやってみたが結局キツツキを近くまでおびき寄せることはできなかった。空洞のある枯木を使っていつかまた一度試してみたいと思いながら果たせずにいる。
キツツキは餌を取ったり巣作りするのに木を啄くが、時には枯れ木の表面に無数に穴をあけてしまうようなことをやる。彼らにしてみたら材の中に沢山虫がいたからつついたということなのだが、ほんとにそんなに沢山の虫がいたのかしらんと首をかしげたくなることもある。
木の材ににつくカミキリムシやガの幼虫をつつきだして餌にするのだが、木の中に虫がいるのをどうやって知るのだろう。巣立ち後親について回って経験的に覚えてゆく以前に遺伝的な情報を貰っているような気がする。
里山の林を往くと彼ら(大抵コゲラだけれど)が枯れ枝の幹に開けた巣穴とよく出会う。思いの外細い幹でも器用に穴を穿って結構深い巣穴をつくつてしまう。中には巣のために開けたのか餌探しで開けたのかよくわからないものもある。体が自由に出入りできる大きさの穴を枯れ木の幹にやたらと開けまくるのだ。
中には手が届く幹を啄き回して巣穴のようなでかい穴をいくつも開けたりする。これはアカゲラの例だが1997年の春に小学校校庭の隅にあったモチの木の幹にしばらく見ない間にアカゲラがでかい巣穴を3つ開けたことがある。
幹は50cm程の径があつたけれど、その当時すでに内部が空洞化して下まで抜けており、巣として使えるものではない。しかも一番低い穴は当時小学2年だった下の子の顔の高さより低いくらいだった。おまけに学校の校庭の敷地の隅なのだ。毎日子供らがうるさくてとても落ち着けないだろうに、彼はなんのためにこんな木に3個も穴を明けて行ったのだろう。
実際人からみると全く無意味な行動を取ることがある。ここから30km程の所にある湯の山温泉の回りには、山歩きにに手頃な御在所や鎌ヶ岳があって私も時折出かけるのだが、山間にあるホテルの中には、建物の板壁がアカゲラに啄き回されて穴だらけになっているものがある。建物の壁の中に虫がいないことや、巣穴に出来ないことぐらい分かりそうなものだがなんでだろう。何か餌探しのための遺伝的な性癖がそうさせるのだろうか。それともただ単にいたずら者で、やたら木に穴を開けまくって楽しんでいるだけなのかもしれない。