海のこと

海釣り

社内食堂の昼食時には、よく釣りの話に花が咲きます。社内には若者から年配の者まで、様々な同僚がいましたから、釣りの話題も海釣りから池のヘラ釣り、渓流釣り、バス釣りと多彩ですが、やはり話題が多いのは海の船釣りです。たまの休みに釣に出て、近所の波止場や堤防から釣ったところで、釣れる魚も今日びはめっきり数が減り、いかほどの獲物もかりません。がっかりするくらいなら少々高い金を払っても、釣れる確率の高いプロの漁師の操る船に頼ろうという訳でしょう。

最も、その船釣も、ワラサ(鰤)のような回遊魚を別にすれば、最近はどんどん釣果が落ちてきて年々釣れなくなっていると云う話。多くの魚が餌場とする石付きの根や砂場は広い海でも場所が限られているため、そこに向けて多数の釣り船が押し寄せ産卵出来る成魚をどんどん釣り上げてしまうので、産み落とされる卵の総量が年々減少して魚の数が減ってしまうようです。

私も釣は好きですが、酷く船酔いするので、未だに船の釣りを経験したことが無く、船釣りに関してはなにも言えません。しかし地上に立ってする堤防釣りや渓流釣りならそこそこ年季が入っているので彼らの中に混じって多少のことは話すことができました。

私にとって印象深い釣りは日本鋼管突堤の石鯛釣りです。津市の日本鋼管突堤といえば県下でも名を知られた釣場でで当の日本鋼管も今ではユニバーサル造船とかに変名してしまったようですが、この鋼管突堤でも突堤先端部にある白灯台の周りは現在も大物釣りのポイントとして有名です。

鋼管突堤と白灯台。堤防は何時も多数の釣り人で賑わう。伊勢湾西岸にあって冬の北西風でもサイド気味に風が入る珍しい釣り場

今から30年以上も前の話、この白灯台の周辺のテトラには冬場から春先にかけてワカメを中心にした豊かな藻場が形成されました(今もまだ有るのでしょうか)藻は四月末から五月にかけて少しずつ千切れてテトラから離れてなくなってゆくのですが、それまでは潮位が下がるとテトラの周りの海面は密生した藻で覆われ、遠投しないと竿を入れる場所に困るほどでありました。

そして五月連休の頃になると、この白灯台のテトラ目指して、石鯛の群れが回ってきました。まだ白黒縦縞の残るさんばそうクラスが多数を占めますが、なかには50cmを越え縦縞の消えたサイズの魚体も多く混じりました。常連の話ではテトラの岩場に産卵するのが目的だそうですが、ワカメの離れる頃を狙ってこの灯台へ石鯛釣に通いつめた者も多かったはずです。

当時は潮通しさえ良ければ、一日に40~50cmを越える石鯛が何匹も上がり、6月末頃までは石鯛釣のマニアたちが多数訪れて白灯台下の狭いポイントには竿を出すのも難しい状態でした。回遊の多い年などは、灯台周辺部のテトラ全体で石鯛が上がり、いたるところが釣のポイントになつたことすらありました。

常連の道具は大体似たもので、5m前後の頑強なUガイド竿で間隔が広い所はガイドを補強します。ラインは新素材3号前後の糸の通しで潮流に合わせたガン玉をうち、餌は大きめのミノムシです。テトラの水際から4m以上離れたポイントもあるので長竿が有利ですが50 cm近い魚体が掛かると、竿を立てて浮かすことが余程難しく一気に潜られて切られてしまうので、私の場合は5.4mが限度でした。

ポイント近くに投げ入れて糸を張り竿先の僅かな動きで当たりをとります。大物ほど竿先を押さえ込む動きは少なく、ゆっくりと数cm竿先が沈む動きを繰り返します。3回程の押さえ込みを待って一気に竿を立て、針掛りすれば後はテトラに潜られないよう糸が切られないよう力を尽くします。

テトラの直下で50cmを超える石鯛を掛けると、よほど腕が良くないかぎりまず上がりません。強引に竿を立て、多少浮かせたところで、次に来る凄まじい突っ込みで竿先まで一気に海中に引き込まれ、テトラでたちまち糸を切られてしまう。そんな中でも、石鯛釣りに通いなれたベテランは50cm前後の石鯛を何匹も上げてみせるのですから、まことに見上げた腕でありました。

しかしそんな石鯛の回遊も、年々数が減り、釣れるポイントも狭まって、十数年後には殆ど来なくなったようです。私も当初は毎年頻繁に通いつめましたが、腕が悪いのとあいまって年々上がる数が減ってゆくので結局通うのを諦めました。石鯛の回遊に合わすかのように離れていった海草の群生も、いつしかあまり生えなくなった様子で、海草のベットの中で良く釣れた尺級のアイナメも、めっきり数が減ってしまいました。

魚や海草の減少は、水質汚染が主な原因だとも云われ、内陸部の林野の乱開発が原因だとも云われ、河川や海岸線の無思慮な開発により、海中のテトラの表面に河川から流入する砂泥が堆積して海草の芽が発芽できなくなったからだ等など色々な憶測話を聞きましたが、どれが原因にせよ魚が少なくなってゆく現実はまことに悲しく憂うべきものです。

海中水族館

私の子供時代1950年代はこの国はまだ貧しく、現代のように巨額の税金で果たして国民生活に必要なのか甚だ疑わしい重厚長大な建物や施設を矢継ぎ早に作る余裕もありませんでしたから、護岸堤防にも砂浜の松林によって守られた戦前からの石積みや土を突き固めた自然堤に近いような施設も残されていました。

中河原や志登茂川河口の砂地に張り出した突堤はみな大きな自然石を積み並べたもので、石伝いに突堤の中ほどに進むと、潮間帯にあたる石の表面には、牡蠣・フジツボ・イガイ・タマキビ・ツブ・カメノテなどの貝が付き、その間隙を埋めるようにたくさんのタテジマイソギンチャクが張り付いています。場所によっては石の表面を覆い尽くすほどの群落があり、私には巨大な吹き出物の集まりのようで気味の悪い限りでした。

潮間帯から飛沫帯に生息するタテジマイソギンチャクとタマキビ。津市周辺の海岸でも普通に見られる

それでも石の隙間から波に合わせて上下する海中を覗くと、これ等の生物に混じって様々な形をした緑や赤や紫色の小さな藻が茂り、その間を稚魚の群れが泳いで、水上では気味の悪いイソギンチャクも海中では触手を広げて花のように揺れてなかなか楽しげでした。稚魚の多くはそこに居ついているようで、潮の出入りに乗って出入りを繰り返していますが、ときおり全く違う種類の魚が姿を見せたりします。

自然に恵まれた豊かな磯では様々な海藻やサンゴ類が岩を覆う。熊野市井ノ浦

子供自分私は釣りが下手で、その場に合わせて海釣りに使える餌を手に入れる甲斐性も持ち合わせていません。浜が干潮のときだけは石ゴカイを探したり、渚でミノムシを掘ったりして何とか釣り餌を確保しましたけれど、潮が上がっていると餌も手に入れられずに釣りができず、石の間から海中を覗くのがささやかな楽しみでした。

長じてから、海釣りの餌にエビ・フナムシ・カニ・ヤドカリ・フジツボ・タマキビその他磯につく生物の多くが餌となることを知りましたが小学生の頃はそんな程度の知識もなく、餌と言えば釣具店で売られていたゴカイとミノムシくらいしか頭にありませんでした。この2つは時期さえ合えば子供でも割りと簡単にとることができ、勿論釣具店も店の者が近くの海岸に出ては餌を掘ってきて店頭で売っていたのです。

すでに伊勢湾沿岸部にも開発の手が伸びて、湿地や葦原の埋め立てが徐々に始まっていましたが、海はまだ豊かで魚も魚釣りの餌となる生き物も腕さえ良ければ沢山捉えることが出来ました。アサリやシジミなど子供でも簡単に取れ重くて持ち帰れないような時代でしたから、海の生物の種類や絶対数は今を遥かに上回っていたでしょう。

年に何度も悪性の潮が来る海岸 ( 左 河芸突堤 ) では牡蠣も満足に育たず海藻も付かない。

それでも鋼管突堤 ( 右 ) は潮通しが良いのかテトラに海藻がよく付く

しかし近年伊勢湾の様な内湾では、赤潮や青潮の発生が頻繁で石に付着した貝が成長を待たずに死んでしまったり、河川から流れ込む土砂のために海藻が上手く育たなかったり、海水の汚染によって透明度が低下して海藻の光合成がさまたげられたり等様々な原因によって昔のような磯の生き物たちを満足に見ることができなくなっています。

強い西風によって青潮が生じると、その被害は伊勢湾西岸の一円に及び夥しい数の魚貝類が一気に死滅する

この現象は一般に磯焼けと呼ばれて全国的に発生しており、伊勢湾のような内湾だけでなく外洋に面した地域でも見られます。津や鈴鹿辺りの海岸ではもはや問題にもなりませんが、下の娘が小さい頃、夏場には毎年シュノーケリングに訪れていた海山町小山浦でも、年とともに磯焼けが広がる傾向にあり、沖に面した磯まで出ないと海藻に覆われた豊かな磯の姿が見れなくなっています。

海藻が茂る小山浦の磯(2005.8.15)ここでは年を追うごとに磯焼けが進んで、海藻の姿が減ってゆく

突堤の石組みの隙間から水中を覗き、箱庭風の海中水族館を飽きず楽しんだ私の性は下の娘に受け継がれたようで、夏に海へ出かけるとシュノーケリングで磯をめぐるのが習いとなりました。中・高校生の頃は海山町小山浦をフィールドにしていましたが、海岸沿いの磯は徐々に磯焼けが進んできたため、近年では熊野の井ノ浦まで出かけて行きます。

今も様々な海藻類の茂る岩場は可愛い小魚を育む揺りカゴだ。熊野市井ノ浦

熊野の磯では最早このあたりではお目にかかれない様々な種類の魚や豊かな磯の生物を目にすることができるので、私は十分満足するのですが、お金をためては伊豆、沖縄、石垣、ハワイ、パラオ、ミクロネシア、オーストラリア等々遠方までダイビングに出かける娘には南海の珊瑚の海が当たり前で今ひとつもの足りないようです。どうも今では私よりも彼女のほうが海中水族館のベテランになってしまいました。

青潮

伊勢湾に冬の季節風が入りだすと風の向きだけでなく伊勢湾の水の流れも大きく変わります。夏場には沖から岸に向って吹く海風によって海面近くの水は岸に向かって流れ、その逆に海底付近の水は沖に向かう対流が生じます。勿論この他に潮汐による大量の海水の移動が発生するので、実際の流れはもっと複雑になりますが、風によって生じる潮の流れはこのとおりです。

反面冬の季節風が入りだすと、オフショアになる伊勢湾西岸では強い西風によって表層の海水は沖に押しやられ、この反動で海底付近の海水が海底伝いに対流して海岸近くへと上昇してきます。すなわち夏とは逆向きの対流となる訳です

ところが伊勢湾中心付近の海底は、富栄養でヘドロに近く、海水も大量の有機物に酸素を奪われ溶存酸素の少ない状態になっています。この様な水塊は潮流や波浪による水の撹拌によってある程度表層の酸素の豊富な海水と混ざり合いますが、ときには冬の季節風によって無酸素に近い水塊が対流によって直接海岸近くに巡ってきます。

溶存酸素の少ない海底の海水には殆んど生物が住めず、生物の死骸は海底に沈殿しますから海水の透明度がとても良くなります。冬の季節風が吹く時期には、この様な透明度の高い海水が伊勢湾西岸を巡り、オフショアで風波が小さいこともあって渚の水は見た目にはとても綺麗です。この時期、風の穏やかな頃を見計らって海に出ると、波のない平らな海面から澄んだ海水を通して、夏場では透明度が低くて見づらい数m下の海底が鮮やかに見えます。

また時に海底を泳ぐ大きなアカエイやボラ・無数の小魚の群れやワタリガニ等をみかけます。しかしこの澄んだ海水は、見た目には美しいのですが海中の生物にとっては溶存酸素の少ない居心地の悪い水で、極端に溶存酸素濃度が下がると海岸の海底やテトラ周りに住む魚やカニは生きられなくなるので、少しでも酸素濃度の高い場所へ逃げ出し、それが間に合わないと大量に浮かんできます。

沿岸の海水を一気に酸欠状態へと落とし込む青潮は遊泳力の弱い魚貝類にとっては逃げる間がなく致命的だ。海中で逃げ場のない貝類は見るも哀れな話で、かれらの死骸は大量の貝殻の帯となって浜に横たわる

生きていれば高値で取引される良型のマゴチやワタリの死骸が累々と横たわる光景は私達の未来を暗示しているのかもしれない

夏場には大量に繁殖したプランクトンによって赤潮が発生し、時に大量の魚を死に追いやりますが、冬場に起きるこの現象は青潮とよばれます。赤潮も青潮も防波堤釣りに親しんでいるとよく出会いますが、魚が釣れなくなるので釣り人には腹立たしい現象です。青潮の被害をもろに受けるのは海底を生活圏にする貝類、コチやカレイ、アイナメやカサゴのようなテトラに居付きの魚で、30cmクラスのアイナメが何匹も浮かんでくることもあります。

9月初頭季節外れの北西風が一週間近く吹いたため、伊勢湾西岸では猛烈な青潮に見舞われおびただしい魚介類が死滅して浜に打ち上げられた。河芸海岸では30cmを優に超えるマゴチやカレイ、アナゴ、ワタリガニの死骸がたくさん上がった

青潮がくるとテトラに住み着いているイシガニ(ワタリガニの仲間)が酸素の少ない海中からテトラに上がってくるので、これを目当てにカニ取りをする人も見かけます。青潮にあった魚は低酸素で弱っているだけですから、捕まえて持ち帰っても問題ないのでしょうが、私は釣り人のつまらぬプライドから自分で釣り上げた魚でないと持ち帰ってたべる気がせずに未だこの手の魚に手を出したことはありません。

赤潮にせよ青潮にせよ、その原因は人間社会から排出された生活排水や産業排水中に含まれる富栄養成分です。また戦後に行われた伊勢湾岸の大規模な産業開発や安易な護岸・堰堤工事によって海水中の富栄養成分を浄化しうる河口周辺部の干潟の多くが消滅してしまったことも海水の富栄養化を助長しているのでしょう。

ダム建設に象徴されるように、われわれ人間は、一時の経済的な利便性のために、自然が数万年から数千万年の歳月を掛けて築き上げてきた環境を数年のうちに破壊尽くしてしまうようなことを平然と行い、時には、もはやその経済的利便性すら無意味になっている状況ですら、ごく少数の人間の利益の為に自然を破壊して省みない。今日まで、自然に対して人間の取ってきた所業を思うとき、この星の将来に、もはや光はないなあと感じる毎日です。

台風

話を60年以上前にもどしますと、当時は御殿場から中河原にかけての海岸線には松林が発達していて、阿漕や中河原の一帯ではその幅が100m程もありました。私が住んでいた安濃川沿いの借家の窓からも1km以上離れた中河原の海岸林がよく見え、その中の何本かの巨松は水墨画にあるような腰のくねった独特の形をしていたので特に記憶に残っています。

しかし1953年9月25日志摩半島に上陸した13号台風により津市では贄崎の堤防が決壊して大きな被害を出します。幸い安濃川北岸にあった借家は僅かに床下に浸水した程度でじきに水も引き被害は免れました。しかし我家から見えていた中河原の松林は、この台風でなぎ倒され殆ど見れなくなりました。この結果、津市沿岸の護岸堤防は全て新たにコンクリート製の強固なものに造り替えられました。

多くの松林が失われ、海岸は殺風景な光景に変わりましたが、この13号台風の落とし子とも云うべき護岸堤防が1959年9月26日紀伊半島南部に上陸した20世紀最強の恐るべき15号台風(後に伊勢湾台風と命名)において、津市の中心部を堤防決壊から救うこととなります。

40m超の平均風速をもったこの巨大台風は、発生の早期より米軍気象観測機による詳細な台風情報が刻々つたえられ、9月23日の観測では900mbを切る気圧と70mを超える風速が伝えられて、忽ち学校でも話題となりました。更に毎日の新聞に載る進路予想が、常に紀伊半島を向いていたことから私たちは不安な思いでその動きを注目していました。

恐るべき範囲の暴風圏を持っており、上陸する2日以上も前の9月23日から猛烈な風が吹き荒れ、紀伊半島を横断した26日土曜日は朝から嵐で学校も休校です。時が経つに連れて過去に一度も経験したことのない暴風雨が周囲を覆い、停電で電灯も消えロウソクの明かりが頼り、もはやラジオも聞けません。このときは私が持っていた玩具のゲルマニュームラジオが唯一の情報源でした。また学校近くにあった100m近いラジオ三重の送信アンテナはこの台風で倒壊しました。

家の屋根瓦は軒並みに飛び、屋内は激しい雨漏り襲われて雨を受ける容器を探し回る有様で、吹き荒れる風の息に合わせては家が軋むので当時私は生きた心地もありませんでした。幸い津市では堤防の決壊を免れましたが、この烈風下に堤防決壊して浸水していたら市内の多くの住民が命を奪われたことでしょう。

1959.11.26 木曽岬-弥富-飛島にかけての輪中地帯。台風後2ヶ月が経っても右半分弥富-飛島にかけては未だ冠水したままだ(国土地理院航空写真)

1959.11.26 川越町朝明川から桑名市揖斐川河口までの伊勢湾岸部。堤防決壊箇所がこの写真内だけで5ヶ所以上も確認できる(国土地理院航空写真)

明けて9月27日は、台風一過の晴天になりましたが、津市以北の伊勢湾西岸の堤防は凄まじい風雨と高潮によっていたるところで決壊し、伊勢平野から濃尾平野にかけての低地の多くが濁流で埋まりました。ことに四日市から名古屋周辺の高潮による被害は想像を絶するもので、決壊箇所が多いうえ海水面より低い土地が多くて侵入した水が簡単には引きません。名古屋と津間の道路と鉄道も寸断されて復旧の目処も立たず、災害の救援復興に大きな障害となりました。

伊勢湾台風は濁流と烈風の渦の中に5000人以上の命を奪い、すべての被災地の堤防が仮復旧するまでには半年以上もかかったはずです。三重県庁が直ぐ近くにあった私達の小学校には何度も臨時のヘリポートに自衛隊や米軍のヘリコプターが離着陸して災害視察や救援物資の中継基地となり、バードルやシコルスキー等のヘリコプターを間近で見ることになります。

連日の新聞ラジオの報道で、この台風では多くの人命が失われ、倒壊流出した家屋も数知れず伊勢湾岸北西部の被災地は不幸のどん底に叩き込まれたことは私達小学生も十分心得てはいたのですが、それまで上空を飛んでいるのさえ見たこともない巨大なヘリコプターが何機もやってきては着陸しだすと、私達悪ガキどもはお祭りにも似た大騒ぎとなり、着陸地点まで自転車で駆け出しては予期せぬ来訪者を見に出かけたものです。

今でも私は台風がやってくると、伊勢湾台風台風当時の恐ろしかった記憶を呼び起こします。しかし同時に台風が過ぎ去った後の眩しいほどの秋晴れと、しばらくして不意にやってきたヘリコプターのこともまた不思議な感慨を持って思い返されるのです。

楯干し漁

私は、津の安濃川河口近くで幼児より中学迄を過ごしたので、子供自分から川や海での釣りにも親しみプロの漁師の川漁や海での漁も近く見聞きしてきました。しかしそんな私の感じでは、津、河芸、白子といった伊勢湾の西岸で取れる魚は私の子供の頃と比べれば数千分の一から数万分の1辺りに激減しているのではないかと思うのです。

私の中学のころまでは夏場の大潮の時期になると、津の安濃川と志登茂川の河口で近在の漁師たちが満潮を待って船を操り、二つの川に鋏まれた広大な砂浜一帯に立干網を張って、干潮を待っては立干漁が行われていました。網の中には漁師たちが相手にしない小魚やアカエイのような危険な魚も混じっていて、漁の邪魔さえしなければ私達野次馬の子供らにも楽しいものでした。

マダカ、黒鯛、ボラ、イサキ、アイナメや渡り蟹などが掛ったように覚えていますが、漁師達が期待した獲物の一つがキスでした。最近では、この辺りでキスの投げ釣りをやっても20cmないピンギスが精一杯ですが、当時は立干網に30cmを悠に越える良形のキスがかかったもので、型の良いキスはすぐさま木のタライに海水を張った生簀に取り込みそのまま料亭などに運んでいたのではなかったかと思います。

当時の楯干しは、今でも津の御殿場などで近海の漁で捕まえた魚をはなして行う観光客目当ての観光楯干しとはことなり、自然の魚を捕らえるのを目当にした本物の漁です。観光楯干しを除けば、人手と手間のかかる楯干し漁はもはや過去のものとなり忘れ去られようとしていますが、当時は多少の人手をかけても捉まえる価値のある魚が沢山いたことが伺えます。

藻場

多くの魚の稚魚は隠れ場の多い藻場を生活圏としますが、当時津や白塚の海岸には、私の小中学校の頃まで至る所にこのアマモの藻場がありました。海岸線から少し沖にでた辺りの砂地に発達した藻場は、沖に向かって泳いでると海の底の色が青黒く変わるので良くわかりました。また沖合に藻場があると、海の荒れた後に海岸を歩けば千切れた藻が海岸線にうちあげられるのでそれと分かります。

子供の頃には、台風で海が荒れた後などに海岸に行くと、海底から引きちぎられ岸辺に打ち上げられた無数のアマモのロール状になったものが、波打ち際からかなり高い砂浜の辺りまで、幾重にも層をなして見渡す限りの海岸線に延々と打ち上げられていたものです。

海中のアマモは、様々な魚に隠れ家や餌を提供して稚魚を育む揺りかごになりますが、岸に打ち上げられた藻の塊の中にも、ヤドカリや小さなタカラガイやコブシガニなどが紛れ込んでいたりするので、私は子供の頃、面白がってよく探したものです。

その当時は贄崎や阿漕の浜ではアマモの中で生活する浜辺ゾウムシなる希少昆虫さえ住んで居たのです。この浜辺ゾウムシは、確か津の阿漕浦が元認地で、基準標本はこの地のものだったと記憶しますが、日本の高度成長に反比例するように、そんなアマモの藻場は消えてしまい、1980年後半には、もはや津の近辺で台風後にアマモの大量に打ち上げられる海岸を私は知りません。

昨今では大きな台風が過ぎた後にウインドサーフィンで海に出ると、海面には様々なゴミが浮遊していて艇にぶつかり、正にゴミをかき分けて走っている様な塩梅で当然波打ち際に上がるのは海草ではなく、廃材、ワラ、プラスチック等々からなる夥しいゴミばかりです。もちろん浜辺ゾウムシも殆ど絶滅してしまい、彼らの生息が確認できるのは、不勉強な役所の環境報告の中くらいのもになりました。

海が荒れた後の海岸はゴミで埋まる。嘗てのアマモの代わりに波打ち際に押し寄せるゴミの山には限りがない

私の子供時代にあれだけ豊かに繁茂していたアマモの森は何処へいったのでしょう。アマモの減少には水質汚染や無思慮な港湾工事、護岸工事、河川改修等々様様な原因が挙げられているようですが、戦後の漁具による海底の直接的な破壊もやはり大きな原因の一つであろうと思います。

マンガン漁など、私の子供時代には禁止漁具であったと思うのですが、鈎爪で海底を引き回すのみならず、釣り餌を取るために海底に圧搾空気を吹き付けて砂地の生物層を無差別に掬い取るような漁法を海岸線で続ければ、藻場はおろか、砂地の生態系を破滅に追い込むのも当然ではないかと思われます。

昭和30年代には、贄崎の海水浴場に泳ぎに行くと、大潮の干潮時など、水深が子供の胸丈の辺りから足元にアマモがからみ始めました。潜って見ると海底には1m程の細いリボンのような海草が密生して潮流になびき、薄気味の悪いことおびただししい。ことにお盆の頃水遊びに行こうとすると、大人から、過去に水死した人の霊が藻に宿っているから、泳いでいると海中に引き込まれるぞと脅され、心底不安になったものです。

海の水難(橋北中学水難事件)

実際1955年7月28日この贄崎の北1km程の中川原海岸で、私たちの小学校に隣接していた橋北中学の生徒多数が水難し、夏季水練授業中の女生徒36名が水死すると云う、まことに悲しく恐ろしい水難事故(橋北中学水難事件)が起きています。なにより私の学区の出来事で、兄姉も橋北中に通いましたからいまでもこの事件は強く印象に残っています。

当時私は小学校1年の頃で、私の自宅からもたびたび中学生たちが堤防沿いに歩いて水練に通う姿が認められとてもうらやましく思ったものですし、近所には溺れた女子生徒を何人も助けたと言う男子中学生も住んでいました。今ではこの事件も当時恐怖に駆られた子供らが尾ひれをつけて語った話がまかりとうって、事故の本質を見失ったろくでもない話題のソースとなっているのが腹立たしく思えます。

1952.11.26 水難3年前の安濃川河口部。中央下右手にある橋北中学より右上安濃川左岸沿いに右下隅の桜橋を渡り安濃川右岸から中央右上の中河原まで2km以上の道のりを歩いて水練にでかけた。海岸線に沿って松の林が見える。河口付近の海中には多数の海苔網がかけられている。

当時はプールなど何処にもない時代で、海水浴は御殿場のような遠浅の海岸に出かけるのが普通でした。しかしこの中川原もそうですが、安濃川、志登茂川を鋏んで反対側にあたる栗真海岸なども、その海底は御殿場海岸に見られるなだらかな遠浅の海底とは異なり、海岸線からすぐ手前で急に深みが出来る危険な個所が幾つもあって海水浴場には適しません。

特に沖からのうねりが入り、こういった場所の海底に、引き波が集まる急な流れが生じていたりすると、足をさらわれて非常に危険なことになります。実際、この事件以降は地元の者も阿漕より北の海岸では、危ないから子供連れでは泳がないようにしていたものです。

橋北中学の水難事件は、マリンレジャーなどとは無縁の時代に起こった事故のため、その裁判でもあまり海についての経験的な知識のある議論がなされたとは思われずその原因は曖昧にされたままです。結局裁判長の温情判決で学校関係者は全員無罪となりましたが、もしこの裁判が今行なわれたとしたら、多数の生徒を死に追いやった無思慮な教育関係者の責任が厳しく追及されたのではないかと考えられます。

当時は敗戦後10年が経ちようやく国民の生活にもすこしは余裕がでてきた頃ですが、つい十数年前までは、劣悪な軍国主義政策のため連日戦地で多数の兵士が殺戮を繰り返した挙句、次々と殺されていましたし、国内でも米軍の爆撃や機銃掃射を受けて身近な人々が大勢殺されました。これは学徒動員された学生たちも例外ではなく動員先の軍需工場が爆撃を受けて多数の若者が命を落としました。

既に戦後民主主義が多くの国民の権利意識を覚醒させていましたが、地方都市の住民の意識はなかなか切り替わらず、多くの国民の心には、日常的に周りの人が次々と亡くなっていっても、軍部が怖くて文句一つ言えない時代の記憶が未だ強く残っていた時期です。被害者の親たちからも、教育実習の過程で起きた不慮の事故に対して引率教師の責任を問うのは辞めるべきだとの声が出たこともあってか、この事件の裁判は海岸の潮流に起きた予想できない異変を原因として引率教師の責任は一切追求されていません。

しかしこの判決が、亡くなった子供達の親御さんらの本当の気持に沿ったものであったのかどうかも疑わしく、子を亡くした親たちの無念さは計り知れないものであっただろうと推察します。私が長じて橋北中の学生時代に、この時若手教師の一人として生徒を引率していた方の教えを受けたことがありますが、この事故に対する発言は何処か歯切れの悪いもので、裁判判決に基づく原因を簡単に説明し、引率教師は罪に問われなかったことを述べただけでした。

この事故が今の時代に起きたら、国民の意識は当然に引率教師の責任を追求せずにはおかなかったでしょうし、なによりも海についての知識を多く持った多数のマリンレジャー愛好者たちの証言によってこの判決は異なったものとなり、引率教師の責任も免れ得ないものとなった気がします。

彼らの遊びの経験は、殆ど泳げぬ女生徒を波打ち際でも複雑に砂地の地形が変化して水深が安定しない海岸で、足が立たない程の深さに多数入れることがいかに恐ろしいことか、すぐに判断できたはずです。たとえ足がたったにせよ台風等の影響で沖から海岸に強風が吹き大きなうねりが入っているときはことに危険です。

波が小さいときには、波に伴う水の動きは上下方向の成分が中心で海岸に寄せる海水の量も少なく寄せ波と曳き波に伴う海水の移動量はほぼバランスしていて海水が大量に沖に向かって流れ返す離岸流は殆ど発生しません。しかし風が上がって大きなうねりが入り始め、強風によって海面表層の海水が大量に波の進行方向に移動しだすと、波打ち際に押し寄せた海水は、押し寄せた量に釣り合う海底流(離岸流)となって沖へ戻ろうとします。

海岸の地形によるのだと思いますが海底にできるこの流れの速度は場所によっては非常に強く、気を抜くと腰ほどの深さで立って歩いても沖に向かって足をさらわれることがあります。遊泳力のある者ならこんなときは歩かずに波に任せて泳いでゆけば表層流に乗って簡単に岸辺についてしまいますが、満足に泳げない者がこの状況に直面すると極めて危険です。

私も30年以上前、津の栗真町家海岸で十数年間ウインドサーフィン(ボードセイリング)をしていましたから、この種の海岸の怖さはよくわかります。私自身海岸に来ていた仲間と共に、台風のうねりが入る町家海岸へ遊びに来て引き波に呑まれてしまった高校生の救難捜査に加わったこともありますが、彼は結局その日には見つけられずその後に悲しい姿で家に帰ることになりました。

ウインドサーフィン

もちろん海の危険は遊泳者だけのものではありません。ウインドサーファーもセイリングを安全に楽しむためには、沖合に流されないために風向きが極めて重要で、海から陸に向かって風が吹くオンショアを原則とします。これは町家海岸では東寄りの海風で5月から10月頃までがこの風にあたります。秋が来て冬の季節風が吹き始めると風は陸から沖に向かって吹くようになり津や鈴鹿等伊勢湾西岸の海岸ではウインドサーフィンを楽しむのは危険と隣り合わせになります。

太陽高度の高い5~8月、正午も過ぎ、海岸沿いの陸地が灼熱の太陽に焼かれて強い上昇気流を発生しだすと、海面上の重たい空気が力強い風となり海から陸に向かって吹き込み始めます。日によって差はありますが大体午後の2時半~4時頃この風は最も強くなり風速5~10m/s迄上がります。ウインドサーファーの多くはジリジリする思いでこの風を待ち、風が上がると我先に沖にでてセイリングを楽しみます。

セイルボートは風がないと走らない。沖に出て風が落ちると浮力のないボードでは浜に戻るのも苦労する

海風は日が傾き地上の温度が下がり始めると徐々に弱まり、夕刻には風が止まって夕凪となります。夜間は逆に比熱の大きい海面の温度が陸より高くなって陸から海に陸風が吹きますが、昼間ほど海陸の温度差がないため陸風はそれほど強くならず夜釣りの肌に心地よい程度です。朝を迎えると朝凪が訪れ再び海風へと変わります。

太平洋上に台風が発達して、台風に伴ううねりとともに台風からの強い東風がオンショアで入り始めると、海風が上がるのを待たずとも十分な風を得て海に出られますから、天気さえ良ければ台風間近の海はウインドサーファーにとっては誠に魅力的なウキウキする世界です。

一般の遊泳者にとって危険な引き波も、浮力の大きなセイルボードと共に行動していますから危険は少なく、沖に出て万一マストをおられてもボードにつかまって海面に浮いてさえおれば風と表層流に押されて波打ち際に吹き寄せられ自然と岸に帰れます。ボードに半身を預けてパドリングしていれば、ある程度なら出廷ポイント近くに戻ることも可能です。

ただし風が上がり10m/s以上になってくると、私の力と技量では4㎡以下のセイルをセットしても風の力に負けてセイルを扱いかね、ボードのボリュームを持て余してもはやセイリングもできなくなりましたが、それでも気分は最高で、風や波に我が身の危険を感じたことは殆どありませんでした。

強風下での操艇に長けた者であれば、ボードとセイルの選択次第で10m/s以上の強風下でも自在に乗りこなすことができますし、波やうねりをつかったトリッキーなプレイも可能になります。強風下であればスラローム艇で40km以上の艇速をだすことも簡単です。ことにスピードトライアル専用に造られたセイルボードでは10m/s以上の風がなければまともに滑走することもできず、走らせるにも強風で風波が立たないオフショアの特別なゲレンデが求められます。

なにせウインドサーファー(セイルボード)はあらゆる帆走体の中でも恐ろしく早いスピードを誇っているのです。フランスのパスカルマカ(PascalMaka)は1986年に38.86kts(71.97km/s) 1990年42.91kts(79.47km)の記録を出して、それまでクロスボウⅡ(帆走双胴艇)がもっていた36.04kts(66.74km)の世界記録を破ってあらゆる帆走体のうちでセイルボードは最も早い乗り物となりました。

その後この記録は、同じくセイルボードを用いてフランスのティエリー・ビエラク(ThierryBielak)によって3度に渡って塗り替えられ、その最高記録は1993年に彼が出した45.34kts(83.97km)でした。同年三脚の帆走艇Yellow Pageによってこの記録が破られますが、2004年に至って再び英領バージン諸島のウインドサーファーFinian Maynardによって46.82kts(86.71km/s)の記録が樹立されます。

更に2008年にはフランスのウインドサーファーAntoine Albeauにより49.09kts(90.91km/s)が打ち立てられこの記録が帆走艇世界最速記録となりました。この記録は同年にKite-boardによって破られ、その後オーストラリアの三脚帆走艇Vestas Sailrocket2によって65.45kts(121.2km/s)の速度記録が打ち立てられています。2015年現在ウインドサーフィンの最速記録はAntoine AlbeauがNamibiaのLuderitz Speed Challengeで記録した53.27kts(98.66km/s)とのことです。

私がウインドサーフィン(ボードセイリング)を始めた1980年代初頭は、国内ではまだ当時サーファー艇と呼ばれた大型で重たく取り回しの良くない初期デザインの艇が幅を利かせていた時代でしたが、国内でウインドサーフィンが最高の盛り上がりを見せる前夜で、全国津々浦々に次々にウインドサーフィンのショップが生まれていました。

80年代はウインドサーフィン全盛期でHi-Windの創刊が始まった他、何時も数種の雑誌が店頭に並んでいた

1986年ウインドフラッシュ編集部がまとめたショップ一覧には、東海地区だけでウインドサーフィンを扱う専門ショップが50店舗記載されています。ウインドサーフィンが最も盛り上がりを見せた1980年代中期には、大手の総合スポーツ店もボードやリグを扱っていましたから、ショップの数は更に増えていたはずです。

現在ではwebWindSurferに載っている東海地区のショップ数は18店舗にまで減っています。ただし過去30年間のショップ間競争で淘汰合併がなされたわけではなく、現存ショップの規模もむしろ以前のほうが大きいくらいですから、市場の縮小に伴う必然的な減少で、国内におけるこのスポーツの衰退の様を現しているとも言えます。

しかし当時でも、1980年初頭には近くの町家海岸でも地元と京都・大阪方面から乗りに来るウインドサーファーがちらほら見られる程度であまり人はおらず、海岸はのどかなものでした。ボードセイリングの人口が急増し、ボードとセイルを積んだ車が多数海岸に殺到しだすのは1984年頃以降のことであったと思います。

ファンボード

今ではこの言葉も死語になっている感じですが、当時国内では未だサーファー艇のようなロングボードが幅を利かせていましたが、すでにハワイではファンボードと呼ぶ短艇が主流となりマウイやオアフのサーフポイントではサーファーと共に多数のファンボードがビッグウェーブの中を自在にセイリングする状況が出現していました。

Mike Waltz・Robby Naish・Fred Haywoodらの華やかな写真は、Hi-Wind・WindFlash・FreeRideなどの雑誌の紙面を飾り、これに習って国内にも急速にファンボードが広がりを見せ始めていました。

艇が風を受けて走り出すとノーズが水面から離れ、後傾した姿勢で水面を滑走することをプレーニングするといいますが、ファンボードがプレーニングに入ったときのスピード感は格別で、プレーニングに移れない状態でノロノロ艇を扱っていても、夏の日差しに体を焼かれ暑くて不快感ばかりがつのりあまり楽しめません。

当時のファンボードがプレーニングする最低の風速が4.5~5m/sでしたから、夏場は午前中にはまず風が其処まで上がらず、ファンボードを楽しむには風がもう少し上がるのを待たねばなりません。そこで海岸に集まったウインドサーファーの多くは、甲羅干しをしたり仲間内で雑談したりしながら風が上がるのを待ちます。

沖から風が入りだすと沖合の海面の波頭が崩れ始め、波頭が太陽光を乱反射して白く輝きだします。このように沖の海面に白ウサギがはね始めると岸の風が上がる前触れで直に風が強くなってきますから、風を待つていた私たちは心がウキウキしだし、セイルを張ったりウェットスーツ着込んだりと落ち着かなくなり、めいめいが出艇する機会を伺います。

ファンボードがプレーニングに移れる風速は、艇がもつ個性や張るセイルの種類とサイズ・乗る者の体重と操艇の技術によってかなりの違いが有り、ボリュームが大きくて浮力がある艇に大きめのホイルを張った方がより低い風速でもプレーニングに移ることが可能です。

当時国内で手に入ったファンボードの多くは先進の地マウイやオアフのショップ製ボードかそれらの模倣品でしたから、当地の強風に合わせて艇長が短く240~270cm程でボリュームの少ないものが多かったようです。しかし私が乗っていたスラローム艇は艇長280cmと少し長めでその分浮力がありましたし、私自身の体重も50kgを少し超える程度で軽かったため4m/sを超える風が吹けばプレーニングに移れました。

このため風が少しでも上がってくると6㎡のセイルを張って真っ先に出艇して楽しむのが私のスタイルでした。ただしこのやり方だと風が一気に上がって海面の波頭がどんどん白くなってくると、非力な私では艇とセイルのコントロールが思うに任せなくなります。

乗り続けるには一旦岸に戻って5㎡以下のセイルに変えねばならず、岸に戻ってもたもたしているうちに風のピークが過ぎ、風が落ちてしまうと情けない思いをします。また弱風下ではなんとかプレーニングできても、ターンでもたついて沈してしまうと、今度は水中からセイルを上げてセイルに入る風の力で体をボード上に引き上げるウォータースタートが簡単には行なえません。

ウオータースタートは、ボードに捕まりながら腕をいっぱいに伸ばしてマストを持ち上げて支え、マストのトップから風が入ってマストを引き起こしてくれるタイミングに合わせ、マストを起こす風の力を借りてブームに捉まりながら一気に体をボード上に引き上げるのですが、風が弱いとなかなかボード上に体を引き上げられません。そんなわけでショートボードでは風が十分に上る見込みのない時に出艇するのも考えものでした。

冬の季節風と海

町家海岸では10月に入ると夏の海風に変わって、昼間でも北西からの季節風が吹くようになりゲレンデはオフショアになります。このコンデイションでは出艇する渚で最低セイリングに必要な4~5m/sの風を得ようとしても、浜では陸地の構造物の影になって上手く風が当たりません。このため出艇できる程の風が入コンスタントに入り始めると、数百m先の沖合では10m/s以上の風が吹き荒れている状況となります。

これは初心者のみならず、ある程度操艇に長けたものでも非常に危険な状態で、大きなセイルで安易に沖に出ると強風のためターンも困難ですし、セイルが引き込めないので帰路の上りが取れず、風に押されて沖へと向かう表層流に乗ってどんどん沖に流されて遭難する可能性があります。

御殿場のような遠浅のゲレンデで沖でも足が立つ場合は未だ危険性が少なくなりますけれど、それでも強風下では潮の満ち引きや潮流(表層流)に十分気を配っていないと戻れなくなる危険性が高いものです。近場で冬場にセイリングを堪能しようと思うなら、やはりオンショアの琵琶湖東岸や知多の新舞子、あるいはサイドオンの二見海岸などのゲレンデに出かけるのが一番でしょうか。

しかしオフショアのゲレンデにも良いところがあります。よほどの強風でない限り岸からある程度の範囲では風波が立たず、水面がフラットに近い状態になります。遠浅の海岸で常に背の立つ範囲で乗れるのであればこれは初心者にとってはとても練習しやすい条件です。夏のオンショアの海岸だと、波やうねりが絶えず入りますから、セイリングの初心者にとってはボードの上に立つのも難しい状態になるからです。

海の特性を知り海と楽しく自然に安全に付き合うことこそ周囲を海に囲まれた私達のいきるすべだと言えましょう。