ぎんやんま

トンボ幻想

昭和32年の夏、私は津市の市内の中心部の外縁にあたる栄町1丁目に住んでいた。その頃三重県庁に勤めていた父が県庁のすぐ近くに借りた一軒の借家で、家に私たち一家と市内の丸の内で八百屋を開いていた丸山さんの一家が仲良く暮らしていた。

クーラーも、扇風機も普及していなかった当時、八月の盛りになると、風の凪ぐ夕暮れ時の狭い借家の中は、まことに蒸し暑く過ごしづらいものであった。もっともこれは私の家だけのことではなく、多くの家では日の傾くのを待って人々が屋外で夕涼みに興じたものである。

自動車なんぞの厄介なしろものが庶民とは縁のなかった時代、家の周りの道路は人々の社交の場であり、日が落ちて暗闇が訪れるまで人影が絶えない地域も多かったのだ。

そんな夏も終わりに近づくと、自宅前を流れていた安濃川の堤防の周囲には夕暮れを待って多数のトンボが小昆虫を求めて飛び回った。

ギンヤンマのオス。昼間見かけるのはオスばかりだ。

たいていはヤマ(ギンヤンマで、風がなく蒸し暑い日はことに群れの数が多かった。成熟したメスは翅が濃い飴色をおびる。中には翅の透明度が無くなるまでに赤味を帯びたやつまで飛んでくる。こんなメスはドロメンと呼ばれてガキの唾涎ものだ。

近所には私の他にも虫捕り好きなガキが何人もいて、多数のヤマが舞い始めると、それぞれトンボ取りの道具を持ちだしてきて彼らを狙った。

我が家の長女もトンボ取りが好きだ。このときはオニヤンマを捕った。

私は何時もタモだったが、上級生の一人はよく鳥モチの竿を担いで遣ってきた。モチ竿の方が長さが稼げるので腕が良ければ2m程度のタモでは到底届かない上空の獲物をとらえることができる。

実際彼は、いつも私の数倍の収穫を上げていたと思う。私にはうらやましい技術だったが、モチ竿は獲物が掛った後の処理を誤ると、たちまちトンボの羽が破けて価値がなくなってしまうので私の手に負えなかった。

ヤマが捕れると翅を指の間に挟んで次の獲物を狙う。獲物が増えると挟む指が無くなりタモも満足に振れなくなるので私には4匹程度が限界だったが、巧みな子は両手いっぱいに7~8匹を挟んでもなおタモを振る猛者がいた。

トンボは指の間に挟んで持つ。

そんな8月の夕、私は家族や近所の人たちと、自宅前の安濃川の土手に涼みに出た。私等は子供同士で大人達のそぞろ歩きを先導するように堤を海に向かって歩いていた。

自宅から海までは、子供の脚でも1時間とかからない距離だったから、その気になれば海岸までも歩いて行けた。

桜橋のふもとを過ぎると人家もなくなり、土手の左手は田畑ばかりが海まで広がっている。その向こうは薄暮の訪れた薄暗い東の空だか、そこで私は異様な光景を目にした。

遠くの景色が土手の周りだけ薄紫色に煙り遠景がぼやけてよく見えないのだ。最初は夕靄かと思っていたのだが、よくみるとそうではない。

土手に沿った直線方向を眺めたとき、その煙のごときものは最も濃く、次々に輪郭を変えながら放送終了後のTV画面のように細かく明滅していた。その靄がなんなのか、目を凝らしてよくよく眺めた私は、その正体が土手の周辺で虫を求めて飛び回っているおびただしいトンボだと気づいたときは、ほとんど信じられない思いであった。

晩夏の夕、自宅前の土手にヤンマの群れが無数に飛び交う光景なら何度も目にしていたが、この数の多さはなんなのだろう。トンボの群れは幾層にも分かれて空を煙らせ、その重なりが背景を隠してしまうまでのトンボの群飛を目にしたのは、これから先にも後にも、これが最初にして最後の光景であった。

現在の安濃川。桜橋より河口を見る。当時はコンクリー提防ではなく夏には草の生い茂る土積み堤防だった。当時は、この辺りから海岸まで建物は何もなかった。

この日から数年を経ずして、周辺の田畑には大量の農薬散布がなされるようになり、私の周りで目にすることのできるトンボの姿は、年を負うごとに激減していったからである。