トンボ幻想
昭和32年の夏、私は津市の市内の中心部の外縁にあたる栄町1丁目に住んでいた。その頃三重県庁に勤めていた父が県庁のすぐ近くに借りた一軒の借家で、家に私たち一家と市内の丸の内で八百屋を開いていた丸山さんの一家が仲良く暮らしていた。
周囲はまだ田圃ばかりで、6月の田植えも済み苗が育ち始める7月の時分になると、水田の上には大型のトンボが飛び回り始める。
腰の淡いブルーが良く目立つトンボで近所の子供らがヤマと呼んでいたギンヤンマの雄だ。ヤマは水田の区画に沿って1mほど上空を何度かゆったりと旋回し、餌を見つけるとそれに飛びついて捕食する飛行を繰り返しながら、そのうちに何処かへ移って行く。
なぜか昼間に水田の上で見かけるのは腰の青いギンヤンマの雄ばかり。雌は何処に居たのだろう
子供らは水田にヤマが入ると、捕虫網を手に田の周りで待ち構えて、獲物がタモのリーチまで近寄るのを辛抱強く待ちながら、機会到来すればタモを一閃して獲物を捕獲すべく努力した。
時には稀に水を湛えた水田に、雄雌ペアで二艘掛けになったヤマが産卵のために飛来することがある。こちらは雌が卵を生むため水田の稲や草に止まるので単独飛行する雄よりは捕獲しやすく、更に昼間はほとんど見かけることのないヤマの雌まで手に入れられるから大変に貴重な機会だった。
産卵のため水場を訪れたギンヤンマの雄雌。後ろの雌が産卵のために尾の先を水中に差し込んでいる
子供たちが昼間に見つけられる雌は殆ど雌雄ペアとなった時のみで、雌が単独で水田の上を旋回飛行することなどまず見たことがなかったから、一体雄はどのようにしてペアとなる雌を探すのか何時も不思議だった。
雄の尾の先で雌の首を挟み、2匹一直線になって飛行するが、受精する際は雌の尾の先を雄の腰に繋いで帆掛け船のような姿になる
朝夕には、時折ギンヤンマの雌が木の梢や草に捉まって休んでいるのを見かけることがあるが、昼間に雌が飛び回っているのを観た記憶はまずない。これは雄雌がほぼ同数で昼間姿を見せるシオカラトンボやシオヤトンボ、カワトンボ等と大きく異なる点で、私は今もギンヤンマの雌の昼間の居所がわからない。
2008.5.6の朝10時20分に撮影したギシギシで羽を休めるギンヤンマの雌。時期が早いので羽化したての個体と思う
しかしそんな雌も、薄暮の訪れる夏の夕になると、雄雌ほぼ同数、或いは雌のほうが多いのではないかと思われるほどに現れて、餌となる蚊や蜻蛉などの小昆虫を求めて飛び回るようになるから、昼間の雌はもっぱら木陰などで休み英気を養っているのかもしれない。
クーラーも、扇風機も普及していなかった当時、八月の盛りになると、風の凪ぐ夕暮れ時の狭い借家の中は、まことに蒸し暑く過ごしづらいものであった。もっともこれは私の家だけのことではなく、多くの家では日の傾くのを待って人々が屋外で夕涼みに興じたものである。
自動車なんぞの厄介なしろものが庶民とは縁のなかった時代、家の周りの道路は人々の社交の場であり、日が落ちて暗闇が訪れるまで人影が絶えない地域も多かったのだ。
そんな夏も終わりに近づくと、自宅前を流れていた安濃川の堤防の周囲には夕暮れを待って多数のトンボが小昆虫を求めて飛び回った。
我が家の長女もトンボ取りが好きだ。このときはオニヤンマを捕った。
私は何時もタモだったが、上級生の一人はよく鳥モチの竿を担いで遣ってきた。モチ竿の方が長さが稼げるので腕が良ければ2m程度のタモでは到底届かない上空の獲物をとらえることができる。
実際彼は、いつも私の数倍の収穫を上げていたと思う。私にはうらやましい技術だったが、モチ竿は獲物が掛った後の処理を誤ると、たちまちトンボの羽が破けて価値がなくなってしまうので私の手に負えなかった。
ヤマが捕れると翅を指の間に挟んで次の獲物を狙う。獲物が増えると挟む指が無くなりタモも満足に振れなくなるので私には4匹程度が限界だったが、巧みな子は両手いっぱいに7~8匹を挟んでもなおタモを振る猛者がいた。
トンボは指の間に挟んで持つ。
そんな8月の夕、私は家族や近所の人たちと、自宅前の安濃川の土手に涼みに出た。私等は子供同士で大人達のそぞろ歩きを先導するように堤を海に向かって歩いていた。
夕凪がきて川沿いの土手にも風がなく、大変に蒸し暑い夕であった。海の近くまで歩けば少しは涼が取れるのではないか。自宅から海までは、子供の脚でも1時間とかからない距離だったから、その気になれば海岸までも歩いて行けた。
桜橋のふもとを過ぎると人家もなくなり、土手の左手は田畑ばかりが海まで広がっている。その向こうは薄暮の訪れた薄暗い東の空だか、そこで私は異様な光景を目にした。
遠くの景色が土手の周りだけ薄紫色に煙り遠景がぼやけてよく見えないのだ。最初は夕靄かと思っていたのだが、よくみるとそうではない。
土手に沿った直線方向を眺めたとき、その煙のごときものは最も濃く、次々に輪郭を変えながら放送終了後の白黒TVの画面のように細かく明滅していた。その靄がなんなのか、目を凝らしてよくよく眺めた私は、その正体が土手の周辺で虫を求めて飛び回っているおびただしいトンボだと気づいたときは、ほとんど信じられない思いであった。
晩夏の夕、自宅前の土手にヤンマの群れが無数に飛び交う光景なら何度も目にしていたが、この数の多さはなんなのだろう。トンボの群れは幾層にも分かれて空を煙らせ、その重なりが背景を隠してしまうまでのトンボの群飛を目にしたのは、これから先にも後にも、これが最初にして最後の光景であった。
現在の安濃川。桜橋より河口を見る。当時はコンクリー提防ではなく、市内上流から塔世橋迄が石垣積み、塔世橋から桜橋辺り迄は下部は石垣積み、上部1/3程が夏には草の生い茂る土積み、桜橋より河口側は逆に下部堤防1/3程が石積み、残りの上部は土積み堤防だったと記憶する。当時は、桜橋辺りから海岸まで建物は殆どなく田んぼが海岸近くまで広がっていた。
1952.11.26 米軍撮影の安濃川(左下より中央右)と志登茂川(左上より中央上)河口周辺部。左下の安濃川に架かる橋は桜橋、安濃川河口の手前に架かるのは楽天橋
この日から数年を経ずして、周辺の田畑には大量の農薬散布がなされるようになり、私の周りで目にすることのできるトンボの姿は、年を負うごとに激減していったからである。