電線日和

私は現在十年以上鈴鹿市内の自動車部品製造工場で働いている。私の勤める工場では、自動車用に使われる様々な種類の電線を生産し、その電線を国内国外関連会社の加工部門に送っている。加工部門はハーネスと呼ばれ、自動車内部に実装される配線用のケーブルシステム「自動車用ハーネス」を幾つもの自動車メーカーの工場に供給している。

メーカーの工場は全世界に散らばっているから、部品メーカーも海外生産を強いられ、現在では国内大手自動車メーカーの生産拠点がある国もしくはその近くに関連会社を立ち上げてハーネスを供給する。

もちろんその材料となる電線部門もハーネス拠点に附いて海外生産を求められるから、海外にも沢山の関連会社が存在する。その経営形態は、100%資本の子会社であったり現地企業との合弁であったりと様々で、経営陣は全世界における車の販売予想から短期長期の生産動向の予想に基づいて国内国外各社の生産計画を決定する。大変なことだと思う。

私が勤める部署は、電線工場内全ての製造設備の集中的なメンテナンスを行なう保全部門だ。工場設備は電線の被覆となる樹脂原料を製造する混合プラントから小指ほどの太さの銅線コイルを製品に必要な1mm以下の様々な径の電線を引き出す伸線機、伸線機で細線化された銅線を撚り合わせる燃線機、撚られた線に樹脂被覆を被せる押出機、絶縁線を編組する編組機、絶縁線に電子照射して耐熱化する照射設備等々大型設備から小型設備まで数百台の設備がある。

これらを常時最良のコンディションに維持して行くのが私たちの部門の仕事だ。日常的な点検修理作業から設備を改良したり、整備の長期計画を立てたり時には海外関連会社からの支援要請を受けて海外に出かける。まさに日本の製造業の一典型ともいえる会社だけに、今日まで勤めてきて面白い事を様々に経験する。これ等の幾つかについて少し書いてみたいと思う。

電線稼業

自動車用の電線と言ってもその種類はさまざまだ。電気自動車のバッテリー用の太いケーブルから、高圧プラグに使う高耐圧ケーブル、車載用電装品を繋ぐ様々な太さの絶縁線、テレビやオーディオ用の小信号伝送用の高周波ケーブル等様々な種類が有る。

大電力用は数百Aの電流通電にも耐えるし、高圧用は一万ボルト以上の電圧にも耐える。伝わる信号も1GHz以上の高周波伝送が可能なケーブルもある。今や車中には民生機器の殆どあらゆる分野の電線が使われる。

一昔前、私が運転免許を取った1960年代の末ころは、車に使う電気配線と言っても、セルモーターを動かすバッテリー周りの配線、ライトとウインカーの配線、スパークプラグの高圧配線と後はラジオの配線くらいのものだった。車の内部もがらんどうで車の素人が見ても、大体何に使われている線なのか想像できたものだ。

でも今の車の内部ときたら、車体の各部にセンサーやら小型モーターが仕組まれて、車体中夥しい配線が引き回され、車に詳しい人間でもその配線がなんに使われるものか、正確に言い当てるのは困難だろう。

当然使われる電線の種類も膨大な量になる。これは車メーカーにとって車重を増やす結果になるから、電線メーカーは重量削減のために様々な要求を突きつけられる。

軽量化のため電線はどんどん細線化するし、素材も銅からアルミに変えたものまで作っている。私の働く会社は、十数年前まで、自動車用電線以外に、通信線工場と電力線工場を持ち、通信線工場では、もっぱらNTTに供給する市内電話用ケーブル(CCPケーブル)や光ファイバーケーブルを作り、電力工場では電力会社が使用する、様々な高耐圧用ケーブル(CVケーブル等)や低圧用ケーブル(IV、VVR等)を生産していた。

これらの高品質ケーブル類に比べると、当時の自動車線などは、殆ど技術など必要としないとまで言われたほどに安易な技術によって製造されていた。

ところが韓国を始めとするアジア諸国が技術立国を掲げて台頭しだすと、それほどの技術的独創性を必要としない電線市場は低価格の韓国産電線(品質は国産品と変わらない)との競争にさらされて通信線や電力線の生産を継続できず 、経営者は自動車用電線のみに特化して競争力と生産力の強化を図る方向で会社の存続を図った。

幸いこの時期、自動車は電子制御が当たり前となり、ステレオ以外にTVやカーナビの搭載も一般化しだし車載用ハーネス電線はその種類も増えて、通信線に似た高い特性を持つものが求められだした。またハイブリッド車の生産に伴なって電力線で生産していた大電流用電線の使用量が激増する。

この結果電力工場、通信工場とも設備と人員の転用が可能となり、今では完全に自動車線のみに特化する生産形態に移行した。過去に多彩な電線を製造していた経験から、自動車用電線については高い技術と開発力を誇りハーネス用の電線メーカーとしても世界の上位にランクされる。

現在も中国や東南アジア諸国の景気に支えられて自動車用生産は好調だが、早晩彼らの技術力と生産力が日本を追い越してしまうことは目に見えているので将来に対して今ひとつ明るい展望が見出せない現状だ。

製造業気質

日本の製造業は物づくりにおいて大変に几帳面だといわれる。もしかしたらユーザーの側は殆ど気にもしていない様な細かな点にまで気を使い物を作る。このことこそMade in Japan の製品の品質を支えているのだと皆が云い、この愚直なまでの正直さこそ日本のものづくりの基本だと人は言うのだけれど果たして本当だろうかと思う。

日本技術の歴史を見ればよく分かることだが、日本の製造業が高品質の製品を作り出せるようになったのは高々ここ50年以内のことだ。

戦前の日本の工業生産の水準は、一部の人が喧伝するように他の欧米諸国に誇れるような部分は極めて少なく、ごく一部の製品、それも軍事用の艦船と航空機の一部に於いてカタログデーターでは欧米諸国の製品を越えるものがあったと云うに過ぎない(軍事マニアであれば常識だが大戦中に生み出された兵器の数々を同じ枢軸国のドイツと日本に於いて比較してみると良い。革新技術とはどんなものを云うのかよく分かるだろう)

民需の製品においては比較するのも馬鹿げたことで、中学校時代の先生の言葉を借りると `昔の日本の作るものは安かろう悪かろうで、とにかく安いことを武器にして物を売っていた。欧米の製品より遙かに安いかわりにすぐ壊れるが、値段が値段だから買ったものも文句を言えなかった`と云うのが本当のところだ。

実際、戦後の日本の技術者の回想で、敗戦後に大量に流入したアメリカ製品の質の高さとそれを支えた技術レベルに圧倒されて、到底追いつくことは不可能だと愕然としたとの話を何度も読んだことがある。

彼等は戦後その絶望的とも思えた差を埋めるため、焼け跡の中から必死に努力して工場を再建した。まともな規格品を生産できなかった戦前の生産形態に対する反省から、産業界全体が品質管理の導入に取り組み必死の努力をした結果戦後二十数年で漸く欧米の技術と肩を並べることが可能なレベルまできた。

それでもまだその当時の日本は、技術の大半は海外からの導入技術に依存しており、自社技術で海外と肩を並べられたのはソニーや本田技研等極めて少数の企業があったに過ぎない。

他の業界のことは良くわからないけれど、電線の場合にはその品質として最も重要視すべき項目は、その電気的特性と耐環境性能だ。もっと分りやすく云えば、電気的特性とはユーザーからその電線に対して求められた電気信号や電気エネルギーを確実に伝達できること、余計な雑音が進入しない事、また逆に雑音を外部に出さないことだし、耐環境性能とは、与えられた温度や湿度、屈曲等の使用環境においても長期間劣化せず安定した性能を維持すること。

そのほかに重要な要素としてその製品の使用性の良さと価格が上げられる。通常この三つの要素、品質と使用性と価格は相反する関係にあり、製品の品質をどんどん上げてゆくと、製品が大きくて使いづらく取扱が不便で値が高くなる。逆に使いやすさだけを考えて物を作ると、小型軽量で見栄えがよく扱いやすいものが出来るが、電気特性が低下したり少し環境が悪化すると壊れてしまうと言ったことが起こる。

競争市場にある商品としては、価格競争力は絶対だから、価格の上限はいやでも決まってしまう。今日高くても性能がいいからと言って製品を購入するようなメーカーはいない。個人が物を買う場合にはこの道理が通用するが、対メーカーとなると、この当たり前の論理がまず通用しない。

メーカーにしても、対外的には自社の製品の品質を大いに宣伝するけれども、メーカー側開発者も資材購入担当者も自ら使用する部品では、品質よりもコストがものを云う。より品質の良い製品、耐久性もよく信頼性の高い商品が現行品の20%増しの価格で生産できるとしても、こういった製品が採用されることは先ず無いだろう。

販売部門からの突き上げで、部品価格が商品価格の吊り上げに影響することを極端に嫌うからだ。このため部品メーカーは現状の品質と使用性を維持しながら価格をさらに下げるように求められる。

しかも競争によって商品の開発サイクルがどんどん短くなるから長期にわたる磨耗劣化や耐環境試験が十分に行なえず、短期の高荷重テストの結果によってその長期品質を想定して低コストの商品を生産販売する。

しかし短期高荷重のテスト結果が長期低負荷環境の性能劣化を完全にシュミレーション出来る厳密な保証は無い。パラメーターを限定すれば物理的シュミレーションで同等の結果が得られるとしても、現実の物理化学的環境はシュミレーション下のものに比べて遥かに複雑だ。耐久試験では押えていなかった要素が働いて品質が短期で劣化する可能性もある。

こんな生産環境にあっては、愚直なものづくりに徹してばかりもいられない。開発設計の段階においてすでに製品の品質がコストによってゆさぶられてしまうからだ。

昨今車メーカーの大量リコール問題が頻繁に報道されるけれど、その原因のひとつがこの辺りにあると私には思える。

海外生産と国内生産

海外販売の増加に伴い、生産拠点はどんどん海外に移ってゆく。電線部門だけでも全世界に15の拠点が在り他部門まで含めると、何処に何社あるのやら私のような下っ端にはよくわからない。中でも最も多いのは中国で恵州に最大規模の工場がある。

現在国内生産と海外生産の比率は2010年の時点でほぼ半々だが、順次海外比率を増加させて行く予定だと言う。生産コストを考えれば、経営者としてこれは自然な選択と考えられそうだが、実際にはそう簡単ではない。

海外比率を増やせば国内生産は当然縮小し、国内に主要な生産設備が無くなってしまう。ところが生産において最も大切な部分、技術と技能に絡むノウハウは生産現場において蓄積され保存されているのだ。決して研究室や開発ラインではない。

これは、わが国のように独創的な製品開発能力よりも、製造ラインの部分的改良ときめ細かな生産工程の調整によって低コストで高品質の量産品生産を得意とする国にとって致命的なことである。

なぜなら、生産競争の鍵は既存の工場が握っており、先端的な開発技術者よりも生産現場に密着して絶えずラインの改良を心がける質の高い生産技術者の存在が不可欠になのだが、彼らが育つフィールドこそ生産現場だからだ。

科学技術と言うものは、基本的に普遍的でグローバルなものだ。同程度の科学技術教育を受けた有能な人材であれば、科学技術の言葉は国によらず平等で、日本の技術者であろうとベトナムの技術者であろうとドイツの技術者であろうと同じように考え、同じように行動することが出来る。

ことにモデルとなる技術が目の前にある場合、それを吸収消化する能力は個人の資質による差があるだけで、国による差は生じない。

工場を海外に出し、海外で生産技術者が育てば、工場の持っていたノウハウ(これは生産にかかる技術と技能をその現場において最も効率よく統合した有形無形の情報の集まりであり、個々の技術や知識を単に寄せ集めただけではない)を海外に渡してしまうことを意味する。

同時に、国内では優れた生産技術者を育てる場を失い、たとえ研究室で将来有望な研究開発がなされたとしても、それを製品化し競争力のある商品として鍛え上げてゆける技術者の養成を困難にする。

それでも競争相手になる国が、過っての中国のように個人の精神的自由度を極端に抑圧した社会体制をとっているうちは競争に勝てる。国や社会の発展の原動力はその国の人々がどれほど精神的自由度を有しているかにかかっているからだ。

しかし現在では中国にせよアセアン諸国にせよ戦後日本の経済発展を手本にして国づくりを進めたりしているから、科学者や技術者の環境は日本と変わらず極めて自由な精神活動を許容されている。

とすれば、より新しいもの、より優れたもの、今と全く違うものを生み出しうる素地は、日本のようにテレビを始めとするメディアによって、国民がどの地域に行っても殆ど同じ様な考え方や感じ方しか出来なくなってしまった国よりは、より多彩で変化に富んだ民族文化を国内に有し、多様な人材により、より広い幅の精神活動が可能な、中国やアセアン諸国に利があるように思われる。

こういったことを考えるにつけ、私には現在の日本がもはやどうしようもない衰退の道を進んでいるのではないかと思われてならない。

PCのお仕事 「 光 」

此処数十年で私たちの仕事の中身を大きく変えたものはPCの登場だろう。現在私の会社では自分の机を持つ人間は自分のPCを持ちそれによって様々な仕事をこなす。社内で求められる書類はその殆どがPCによって作られ保存されるし社内や海外各社との事務連絡や報告書の伝達もみなPCによっている。

これが無ければ日々の活動データーの整理収集も出来なければ、レポートも書けず、海外との連絡もまともに行なえず大変な事態に陥るだろう。その能力たるや圧倒的で、どれほどのデーター量であっても、必要な結果は瞬時に表示するし、データーさえ入れてやれば後は好きなフォーマットで処理されたデーターを表やらグラフ化して吐き出してくる。

しかし、これがどれほど便利なものか、過去を経験したものでないと分らないかもしれない。

私は高校卒業当時、しばらく電力会社で勤務していたことがある。その時は通信機械所と云う所で変電所や発電所に設置された様々な電子装置をメンテナンスしていたのだけれど、このとき中央の指示で各事業所の電子機器の故障統計を作成することになり、先輩に指示されて故障日誌から保守エリアの全設備の故障件数と故障時間を抜き出し幾つかの統計資料の作成を手伝ったことがある。

もちろん当時はPCなど無かったから、まず一件一件の故障のデーターをパンチカードに記録する。カードにはデーターの内容に応じてさん孔する位置が様々に違えてあり、必要な穴の位置にピンを差し込んで抜き出すと設備や事業所や故障時間等の特定の要素で共通するものを抽出することが出来るように作ってある。

必要な期間のデーターをカード化し終えると、それを統計資料の内容に応じて抽出して、件数や故障時間を抜き出して平均件数や平均故障時間等様々な統計計算をおこなった。

当時のタイガー手回し計算機 電卓博物館より

http://www.dentaku-museum.com/hc/computer/mechanical/mechanical.html#tiger

当時私たちが利用できた計算機は、計算尺かソロバンか手回し計算機くらいで、電子計算機は漸く社内で稼動し始めたが専門の電算室要員でもなければ触ることも出来ず、現場のつまらぬ統計資料の作成なんぞにはとても使用できるような機械ではなかった。私たちは手回し計算機を使って本業の合間に手分けしてこれらの計算をやり多くの日数をかけて統計資料をまとめた。

もし今故障の基礎データーが全て予めPCでデーターベース化されていることを前提に、これらの作業をPCで行うとすれば、私1人でも僅かな数式やマクロの記述で必要な資料を作成しホーマット化して出力することが出来るだろう。日々の活動データーの蓄積さえあれば、PCは一瞬でデーターを収集抽出計算して見栄えのいい形に出力してくれる。

私が就職した当時のIBMの名機 IBM SYSTEM 360(IBMはこの機種で業界のてっぺんに立ったのではなかったか)

費やされる人的時間的な資源は現代の高性能PCの使用で信じられないほどに短縮されるはずだ。これはPCの性能を考えれば当然のことだろう。私の初任給が一万八千円の時代に数千万はしたIBM製コンピューターでさえ、今のPCと比べれば玩具のような性能だったのだから。

PCのお仕事 「 影 」

これほど高性能なPCを各自一台ずつ所有して仕事をこなしている以上、当時と比べて著しく生産性が向上しても当然だと言えるわけだが、つらつら考えるにこれははなはだ怪しいと思うようになった。

私たち生産部門におけるPCの主たる用途は、所属生産部署におけるさまざまな生産データーの整理と蓄積、管理用帳簿の作成、それらのデーターを用いた所属部門の日々活動計画や結果報告の作成、社内や社外との連絡メールの発送等々だが、中でもっとも活躍するのがの活動結果報告の作成だろう。

これは最下位の部門から経営トップまで、その段階に応じた統括部門にとって必須のものであり、自分たちの仕事の内容と実績をより上位ランクの管理者に分りやすく短時間で伝えて自己部門の能力をアピールするために無くてはならないものになっている。

各部署の活動実績は、絶えずその部署の掲示板に張り出されて、仕事の実績推移や新たな取り組み等その部署の仕事の全体像が量的にも質的にも一目で分るようにしてある。

これは上部の管理者にとっては、配下の部署の現在の仕事内容を手っ取り早く確認しチェツクする非常に有効な手段となる。当然各部署の責任者の仕事は、その組織の管理と同時にこれらの書類や掲示資料の作成と言うことになる。見やすく分りやすい掲示資料の作成は、すなわちその部署の活動の的確なアピールであるし作成者当人の能力も評価される。

この様な資料は生産現場と直結した下位の部門では、生産実績を素直に反映し極めて正確な資料となる。ところが同じ数値を表現していても、それを表す形式や処理の手法に長けてくると、見る者に、より高い実績を上げているように印象付けることが出来るようになる。

職制が進むに従って彼らが扱う対象の広がりも増え、より容易く見栄えのするデーターを巧みに抽出できるようになる。それが高じると、内容を適当に装飾して上司により好感もたれるように作り変え、最後にはデーターそのものまで上司が喜ぶように作り変えてしまう。

こうなってくるとPCが作り出す資料はもはや現実の活動を見やすく分りやすく表現する手段から、如何に巧みに現実の矛盾や問題点を上司から覆い隠して自己を売り込むかといった処世の道具に成り下がってしまう。

PCを使えば極めて安易に資料を作れる。かく云う私も、社内ではPCを用いて教育用の怪しげな文やら表やら図版を作るのが仕事だ。しかし安易なPCばかりに頼り、現実の活動に目を向けず、生産の現場から遊離した見栄えだけの仕事を続けてゆけば、その会社の行く末は目に見えている。

PCを使う仕事にはこんな落とし穴がある。工場の技術者がこの手の仕事に手を染め出すと、嘘の資料が更に嘘を生み最後にはどうにも収拾が付かなくなる。PCの背後にあるデーターが、全て嘘なしに正確に現実の活動を反映して抽出され処理されて計画や実績報告がなされるならば、それらの作成に費やした時間はそれなりに意味をもつだろう。

しかし、データーを巧みに加工し装飾してテキトーに処世するすべを見につけた人間とつては、彼らがPCを用いて行なう仕事の多くは無意味であり、それに費やした時間はムダになる。PCは、その処理能力や情報収集能力が絶大であるだけに、それを使った仕事のなかには、逆にこの様に怪しげな要素が忍び込む余地も多くなるのだ。

社内教育の中にさえ時としてそれを助長させる要素がある。プレゼンテーション技法の講習やQC活動の指導といった現場で見聞きすることだけれど、自分たちの考えや計画を正確に相手を伝え相手を納得させる手段として、本来ならその場に存在せず、必要としなかったデーターや資料をわざわざ作成して其処に挟むといったことを行なう。

もう少し具体的に云うと、例えばあるグループが生産ラインに何らかの改善を行い、その改善成果を発表することになった。彼らは日常の生産活動の中から、直感的にその工程を幾つか変更すれば生産性が少し向上することを掴んでおり、簡単にそれを実施して効果を上げたとしょう。

彼らは日々の仕事から直感で問題点を把握し何の苦労もなくその改善を達成した。仕事の効率を考えれば、全く無駄な動きのない最高の仕事である。

ところが、QCの発表などでは、これをそのまま発表したのでは頭から評価されない。現状分析が甘いとか、QCの分析手法が活用されていないとか、本来の仕事の成果(まさにこの事実だけが意味をもちそれ以外の要素はすべて単なる装飾品でしかないのに)よりもそれを人々に発表する手法で仕事が評価されてしまう傾向が強いのだ。

このため発表者は本来全く必要でもない資料を色々集め、それを用いてもっともらしい分析を行なって改善の結果を導き出す。といったプレゼンテーションを行なう。

しかし彼らの仕事はそんな手間のかかるデーター収集や分析など何一つやらず、すべては彼らの経験と知識から、人間の持つ最も素晴らしい能力の一つ直感によって結果を導き出しているのだ。

もつとも質の良いエレガントな仕事とは、それを達成するのに最小の労力と時間を費やしてなされたものである。無駄な動きはなく、無駄な時間も金も使わず直感で一気に結果を導き出しそれを実行する。有能な者にしか出来ない最高の仕事だ。

しかし時としてこの様なすばらしい仕事の発表より、PCをふんだんに使い、時間をかけてたくさんのデーターを収集し、それを手間隙かけて分析してやっと結果を導き出すと言う、はなはだ能力の低いあほらしい仕事スタイルが賞賛される。

これはもう、本来の仕事と、その仕事に至る手段を混同し、その仕事を見ずに、その手段が如何に見栄えがする豪華なものかと讃えているようなものであり、極論を言えば手段がよければ結果が多少悪くても合格だと言っているのと変わらない。

私には、PCの登場が、まさにこういった傾向に輪をかける結果となったのではないかと思えてならない。

生産技術者

先に生産技術者のことを少し書いたから、ここで彼らの活動についてもう少し詳しく書いてみたい。技術者と言うのは仕事の範疇によって大きく開発技術者、生産技術者、設備技術者の三種類にわかれる。私たち生産設備の保守部門のトップは生産設備の構築や改造を手がける設備技術者のグループである。

生産技術者の仕事は、一般に導入された生産設備を稼動させ、その設備に求められる生産能力を100%引き出すことである。時と場合によっては150%の能力を求められたりする。

新製品を生み出す場合、その生産ラインは開発技術者によって目的の製品が生産出来るまでには作られている。しかしそれは、開発ラインの小規模で限定された生産条件の中での話であり、新たな生産ラインとして生産量を大幅に増強して構築された製品化ベースのものではない。

工場に新たに作られるラインは、様々な点で小規模の開発ラインと異なり、それを運転しても当初から求める性能で運転できるものではない。

目標の生産量で運転を行なっても、様々な問題点が噴出して運転中止を余儀なくされるか、普通は最初から運転すら出来ない。これでは競争に勝てず会社は存続できない。

これらの矛盾や問題を一つ一つ潰し、ラインを目標とする速度で安定した生産を可能にするのが生産技術者の仕事となる。彼らは、製造設備と作業者双方の動きを把握し、その設備において最高の性能が発揮できるように様々な調査や試験を繰り返し地道な改造を積み重ねて設備の能力をひきだす。

非常に根気の要る地道な仕事で、個人の適性によってその能力が極端に異なる。この仕事に向かない人間は大卒であろうと院卒であろうと全くだめである。もちろん技術者としての高度の技術や知識を持つにこしたことはないが、それだけでは何も出来ない。細かいことにも妥協せず、周囲が少々うるさくても筋を通して物事を推し進めて行く、大体周囲や上役に嫌われるくらいの人物でないといい仕事ができない。技術者というのは誤魔化しの利かない技術の言葉で誰に対してもきっぱりとものの言える人間が求められる。

なかでも多年現場で生産設備を運転し、その経験を買われて技術に上がった人物が生産技術者としての適正を備えていると最強になる。彼らは多年の現場づとめで設備に対する経験と勘が鋭く、こういった知識や経験のない俄か作りの若手技術者では到底太刀打ちできない。

経験の浅い若手がいつまでたっても気づかない視点で問題を眺めて、じきににことの本質に気づき、たちまち設備を良くしてしまうことがある。時には開発技術者がいくら時間をかけてもものにならなかった設備を引き受けて、いつの間にか十分に量産が可能な機械に変えてしまう。

こういった人材はみな押しなべて戦闘力が高く、他人を当てにせずに単独行動で事を処理する能力に長けているから、会社もそれを分っていて、海外での量産サポートとかきつい役回りを割り振られる。

会社にとってはまことに頼もしい手合いだか、この種の人材はそう簡単に育たず、会社も彼らを育てるすべが良くわかっていないのが悲しいところである。

生産設備

工場で製品を生み出す設備を生産設備と呼ぶ。私の勤める会社には大小さまざまな設備があるが、設備の製造時期もまた大きな広がりをもつ。古いものは昭和五十年代の設備から最新鋭の設備まで様々だ。三十年も前の設備で現代に通用する製品が出来るというのは、IT分野の製品では考えにくいことかも知れないが、電線業界ではそれほど不思議なことでもない。

電線の製法自体が殆ど変わっていないから、機械設備が古くとも、メンテナンスを続けておれば問題なく稼動できるし、精度の必要な部分は電気制御を全て新しくしてしまえば、制御に関しては最新のものとなんら遜色がなくなる。

むしろ古い設備の方が機械設計に余裕があって、全てにわたって強固に作られているから壊れにくく、信頼性が高い場合すらある。これは生産方式に余り変化のないこの業界ならではのことかもしれないが、会社としても古い設備が流用できるのはありがたいことだと思う。

かって私の仕事のかなりの部分がこの様な設備の電気制御の改造であった時期がある。老朽化が進んだ生産設備の制御回路を逐次新たなものに置き換えてゆくのだが、社内でも余り利益の上がらぬ通信部門を受け持っていたから、金を喰う社外業者に発注することをほとんどせず、部品だけ取り寄せて空いた時間に少しずつ制御盤を組み上げて、連休時を見計らって一気に老朽盤やモーターを入れ替えてしまうと云った事をやっていた。

無論新たな制御盤は最新のPLC(制御用コンピューター)とベクトルインバーターで固めるから、電気制御の精度と信頼性は最新設備と殆ど変らなくなる。回りの者は、さぞ大変だろうとか言っていたけれど、これがやりだすとなかなか面白い。

私は暇つぶしに工場の何台かの押出機や集合機の電気制御をあらかた新品に変えてしまったけれど、そうこうするうちに通信工場の経営自体が立ち行かなくなって工場を閉鎖してしまい、設備もみな廃却してしまった。

そんなことがあらかじめ分かっていれば、何も手をつける必要はなかった訳だが、経営方針が明確に打ち出せない時代で先を読むのも難しく止むおえないことだったのだろうと思う。

工場の生産設備の多くは国産だが、中には海外製がある。その設備がヨーロッパ製の場合は、国内メーカーではその性能を満たすものが無いためであり、アセアン諸国の製品の場合は国内製よりも低価格なのが導入理由である。

そんな海外メーカーの中にニーホフ(Maschinenfabrik Niehoff GmbH & Co. KG)と云うドイツのメーカーがある。私が勤める工場には、60台以上の国産バンチャー(撚り線機)に混じって、このメーカーの撚り線機が2台だけ入っているのだけれど、これがまた実に良くできている。撚り線機と云うのは細い電線の把を高速で捻り合わせて一本の束線にしてしまう機械で、弓と呼ばれる薄い板に電線の束を通して高速で回転させて巻き取ることで素線を撚ってゆく。

ニーホフ製片弓パンチャー D 631

弓の回転数が早いほど撚るスピードが出て能率が上がる。しかし速度を上げると弓に大きな遠心力が働き弓を変形させて装置のバランスを崩す。また弓が空気を切り裂く抵抗も急増するから高速で安定して回すのは思いのほか難しい。弓の変形による影響を避けるため、国産の撚り線機では、電線を沿わせる弓と対称の位置にもう一個ダミーの弓を設けてお互いのバランスを取っている。これだと回転速度が変わっても双方の弓に働く遠心力が釣り合うのでバランスが保てる。しかし当然空気抵抗は2倍になる。

ところがニーホフの機械はこの弓が一本しかない。本来なら回転が上がり定速に到達する過程で弓のバランスが崩れるはずだが、そうならない。低速から高速まで実に安定して回転する。バランスが良いから機械が振動せず騒音が極端に少ない。国産の機械ではどのメーカーの製品でも騒音が大きく、振動が出る。当然機械はしっかりした基礎のベースにボルト止めされ振動でズレないようにしてある。ところがニーホフ機はこれがない。コンクリートのベースの上に置かれているだけだ。振動が少ないからぶれず、回転部分の軸受けにも無理な力がかからずに長持ちする。

国産のバンチャーは何年か使用していると、弓を始めとする回転部分の軸受けがだめになるから計画停止してベアリングを交換する。ところがニーホフ機は、もう十数年以上稼動しているがあまり壊れない。保全の人間にも設備を分解する機会が殆どなく、その細部の構造は十分分っていない。すばらしい技術だと思う。

もう1つ海外の子会社にはニーホフ製の伸線機が多数入っている。伸線機は撚り線機で撚るための細い電線を太い電線から引き伸ばして生産する機械だ。同時に10本、20本の線を引き伸ばすマルチ伸線機が一般的で、高い生産性を誇り、海外に入れるマルチ伸線機は殆どニーホフ製だ。もちろん国産メーカーも数社あり、私が勤める工場では大小20台以上の国内各社の機械が稼動している。

ニーホフ製マルチ伸線機 MMH

ではなぜニーホフ機を入れるのかと言えば、機械の信頼性、製品の品質が国産品に比べ圧倒的に高いからだ。海外の導入設備では、トラブルを極端に嫌う。国内のようにしっかりした設備の保全部門が構築できず、故障が生じてもすぐ復旧できない可能性が在る。このため海外部門の責任者は機械の値段よりも何より設備の信頼性を優先する。これがドイツ機を入れる理由だ。

私が働く工場の設備に関しては技術立国日本の影は薄い。確かに電気制御において個々の制御装置は大変に高性能だけれど、設計段階から制御の全体を1つの思想で統一して構築してゆく手法など、到底彼らの足元にも及ばない。これはドイツ機の設備図面を見ると実に良くわかる。機械設備については先に述べたような状態だ。

私は戦後生まれの人間だけれども太平洋戦争を経験した人たちに様々な教育を受けた。だから枢軸国であったドイツの優秀さについて散々聞かされた。過去に天才と呼ばれた物理学者や数学者の多さは圧倒的で、金の力で海外の学者を呼び集めて科学技術大国となったアメリカをも遥かにしのぐ。

ことに大戦中の軍事技術の優秀性にいたってはまことに驚異的、軍事マニアの多くはドイツ兵器の賛美者が多い。私も多少のマニアだから、かの国の第二次大戦当時の空陸の兵器は良く知っている。日本では想像も及ばない超兵器の多くが実戦配備されていたか、配備の一歩手前であったことを思うと航空機エンジンのターボーも満足に作れなかったこの国の悲哀を感じる。

私が関わる電線業界の設備の様相は、今でも当時の彼我の優劣をしのばせるだけの実感を持っているのだ。