修理屋家業

大量消費社会

大量生産大量消費を旨とする現代資本主義社会がこの国にもたらされたのは今より60年程前、朝鮮戦争の特需を得て高度経済成長に突入した頃からでありましょう。それ以前の時代、ことに戦前にあっては、都市労働者が多く暮らしてしていた東京・大阪のような大都市を除けば、地方は農業主体の農民社会であり、しかも農民の多くは少数の地主に雇われた貧しい小作農が多数を占めその生活はおよそ豊かとは言い難いものでした。

当時の国民生活は、明治後半から昭和にかけての多くの芸術家や社会活動家の筆によって活写されていますが、少数の裕福層を除けば一般庶民の暮らしは現代の物質的豊かさとはおよそかけ離れた質素で貧しいものでした。この様な貧しさは、江戸時代の幕藩体制が石高によって武士の社会的地位までも定めたほどに米を軸とした農業経済に依存しており、薩摩藩や長州藩のように交易や殖産で富を生むすべを持たなかった幕府や多くの藩にとって、経済を富ませるためには農村から可能な限りの年貢を吸い上げ、農民の生活を可能な限り窮乏に絶えさせる以外に方法がなかったからです。

農地を拡大して昨付け面積を増やす以外には生産性の飛躍的な拡大が望めない農業の状況では、江戸300年の間に昨付可能な土地はあらかた開拓しつくしてしまい江戸末期には農業生産量が頭打ちしてしまうのに対し、土地の制約を受けない商業や工業は嫌でも発達を遂げ、消費対象となる産品も除々に増加して生活に伴う支出が拡大してゆきます。

この結果、農業以外大した収入の道がなかった藩の多くは支出の増加に対応できずに実質的に財政破綻し、出費の拡大を穴埋めするべく大商人からの借金は膨らむばかりで、幕藩体制の経済的基礎を担う農村の年貢が軽減される可能性もなく、当然のことながら小作農が多数を占める下層の農民にとっては、貧しさから抜け出せる余地は殆どなかったのです。

藩財政の逼迫は支配階層に属する武士にとっても生活に直結する問題であり、その階級的優位を保ちながら生活の貧しさと妥協するためには、儒教や仏教の説く倫理道徳感とともに贅沢を慎み質素倹約を旨とする生活感を武士階級の精神文化として形成してゆく必要がありました。また支配階級として豊かな知識や教養、品性を備えつつも、慎ましく質素な生活に甘んじる人物像は支配される農工商人にとっても範とするに足りる姿でありました。

この様な環境は明治維新以降もさして変わらず、開国に伴う経済的繁栄は、国民の中でもごく一部の富と力と知恵を備えた支配階層のひとびとを潤わせはするものの、小作農が多数を占める農村部の生活は、幕藩体制下での年貢が新政府に対する租税に置き換わっただけでその重圧が軽減されることはありませんでした。

1900年代初頭、既にアメリカやヨーロッパ先進国では自由競争を建前とする資本主義は巨大化した企業群よる独占資本主義へと変貌しつつあり、T型フォードに代表される一般大衆車の販売も始まって現代と大差のない大量消費社会が到来しつつありました。しかし日本でこの様な海外の影響を強く受けたのは、産業資本が還流しえた都市部だけで、日本の国土の大半を占める農村部は相変わらず江戸の昔とあまり変わりなく暮らしていました

ことに富国強兵のスローガンのもとにとめどなく軍備を拡張して日清・日露の戦役を戦い、欧米から多額の借金をして軍艦や兵器を買い付けては、その国産化をはかる図式は、対外貿易や基幹産業・軍事産業を握る一部の資本家を極端に富ませるものの、一般庶民の負担は増すばかりで、こと農村部においては、不作のたびごとに娘を身売りに出す光景が見られたようです

このような状況が一気に好転するのは、日本を悲惨極まる状況へと追いやった出鱈目な軍国主義政権が敗戦によって崩壊し、アメリカ進駐軍の民主化政策・農地開放や言論の自由、労働運動の自由等によって国民が民主主義なるものを少しずつ実感できるようになってからです。殊に農地開放によって小規模ながらも自作農の地位に引き上げられた多くの農民は、戦前の小作として地代を収める生活から開放されて生活が豊かになり、たちまち保守化して戦後保守政権の政治的基盤となりました。

都市部においても戦争の永久放棄・陸海空軍その他戦力の放棄・基本的人権の尊重・生存権の保障・労働三権の保証・職業選択の自由等を定めた新憲法のもとに平和運動、労働運動が戦前では考えられないほどの広がりと力を持つにいたり、国民の過半を占める労働者の権利獲得と生活向上に大きく貢献しました。

敗戦によって、それまで何かにつけては天皇の名を持ち出して威張り散らしていた軍属が没落し、彼らが持ち回った神国日本の陰気で古色蒼然とした価値観も泡沫のごとく消え去ります。そして質素倹約を旨とし窮乏に耐え忍ぶことを余儀なくされた戦前の生活に対する反発もあって、戦後この国の主人となったアメリカより映画・テレビ・雑誌等を通じてもたらされたアメリカ的生活様式が新たな価値観として国民の間に浸透を始めます。

アメリカ流の物に溢れた贅沢で豊かな生活と精神的自由の雰囲気は、戦前の愚劣極まる軍国主義教育とその精神的支柱となった狭隘専制の國體論の押し付けに辟易していた敗戦国の貧しい国民の間に、彼の国に対する強い羨望と憧憬を生み、狭く質素な木造家屋をウサギ小屋と揶揄されながらも、いつしかその小屋の中に、およそ実の伴わない中流意識をもつたアメリカ亜流の消費社会を築くに至ります。

大量消費社会の特徴の一つは「ものの使い捨て」です。殆ど人手をかけず自動生産ラインで大量生産された「商品」は高品質高性能の割には低価格であり、万一故障したり壊れた場合、故障修理に手間をかけるよりも新しいものを買ったほうが手っ取り早いし、修理の人件費を考えると商品によっては新品を買うほうが安く付いてしまうことも十分におこりえます。

特にメーカーにとっては、古いものをいつまでも使い続けられたのでは新製品が売れません。また修理を行うためには、製品に対応する多数の修理用部品を長期間大量にストックセねばならず税制上不利ですし、人件費の割に利益を見込むのが難しい修理部門を抱えることはその維持費だけでもメーカーには負担となります。

この様な理由から、今日では多くの商品は必然的に使い捨てを前提として生産され宣伝販売されています。しかし日本が大量消費社会へと変貌し始める1950~1960年代初頭には、私達にとって「ものの使い捨て」といった考え方自体が馴染めないものでした。

物を大切にする気持ちは、ものの満ち溢れた昨今よりはるかに強く人々の心にあり、私のように跳ねっ返りの子供ですらも、当時テレビのアメリカ漫画でパイやケーキのぶつけ合いを面白おかしくやっているのを目にして、アメリカと言う国の人種はなんと横着で道徳心にかける連中だろうと思ったものです。

庶民の生活は未だ貧しく、この国の底辺を支えていた多くの人々が理想とした人間像は、嘗ての下層武士階級に根付いていた「贅沢を慎み質素な暮らしに甘んじるとも高い教養と品性をたもち真摯に生きる」といったもので、ものを大切にし無駄にしない気持ちが強く、未だ十分に使うことができる物を簡単に捨ててしまって新しいものに取り替えるなど、なかなかできることではなかったのです。

このため、万一製品に故障が発生してもすぐに修理が出来るかどうかは、製品購入の上で極めて重要な判断の基準となり車・機械・家電製品など国内の主だったメーカーは、自社製品の修理対応に対しては非常に気を使い万全の体制を持って望んでいたものです。

修理の体制は、その業種や製品によって異なり、車やバイクなどのように末端の販売店や修理専門店が修理に必要な部品をメーカーから取り寄せて修理対応するケースや、販売店のレベルでは修理が困難なものについては、各メーカーは主要な地方都市にそれぞれサービス拠点を設け、地区の販売店や代理店を通じてサービス拠点に修理品をもちより、そこのサービスマンが修理を担当する仕組みでした。

現在ではこのようなサービス拠点の数も減り、修理サービスの経費も非常に高く付いて時には新品を買うのと大差ない額になることすらありますけれど、当時の修理サービスは、まさにメーカーの「サービス」と言った感じで思いの外安く、また手厚いものでした。例えばソニーなど、トランジスタの破損修理などは無料で交換していた時期がありましたし、私は修理用の補修部品をソニーのサービスマンがわざわざ自宅まで届けてくれたことも覚えています。

家電製品についても、1950年代はまだテレビなども真空管で動いていましたから、数年でカソードエミッションが低下する真空管の交換や、発熱による部品損傷などの修理はもっぱら修理サービスの訓練を受けた販売店の修理担当者の手によって行われることが多く、多くの製品は販売店のレベルで修理対応が可能でありました。

真空管はフィラメントで熱せられ、高温になったカソードから飛び出した熱電子の流れを真空中で制御する増幅素子ですが、その高温ゆえにカソードのエミッション(熱電子輻射の能力)が短期間で低下し定期的に交換を必要とする消耗部品です。私は1960年代の一時期、電力会社の通信機械室で発変電所や支社に設置された電子機器の保守に当たっておりましたが、その仕事の一つは当時未だ一部の通信設備に多数使用されていた真空管の定期的な交換でした。

同様に真空管式のラジオやテレビを数年間使っていると、真空管が劣化してどんどん視聴感度が落ちてきます。劣化した球を見つけて取り替えれば直るのですが、流石にこの様な簡単な交換までメーカーのサービスの手数を煩わしていたのではメーカーとしても人手が大変なので、販売店でサービスマンを教育して修理に対応したものです。

電子機器に未曾有の大革命を引き起こす個体増幅器素子・トランジスタは既に大戦末期にアメリカのベル研究所で産み出されており、戦後いち早くその小型高性能に目をつけた幾多の国内メーカーも米企業から特許を買って製造を始めていましたが、初期のトランジスタは製品化の過程でとても歩留まりが悪く品質に大きなばらつきが生じました。

このためトランジスタの特許を買って作ってみたものの国産メーカーはその使用に戸惑い、使用できても精々子供向けのポケットラジオ止まり。1950年代はテレビなどみな信頼性の高い真空管で動作させていた時代で、敢えてトランジスタでラジオ・テレビを作り始めたのは唯一独創的な技術者を創業者に頂くSONYのみでした。SONYは独力で1950年代後半超高周波で使用に耐えるトランジスタの製品化(量産化)に成功し、世界で初めてトランジスタテレビを販売して日本の家電メーカーが世界に進出するきっかけをつくりました。

1960年代は、このトランジスタの技術が開花した時代であらゆる製品にトランジスタが組み込まれ、製品の小型化と高性能化を加速しますが、これにともなって製品の故障修理も複雑精緻となり、一般の販売店レベルでは修理対応が難しくなります。更に70年代に入って一気に普及したICやLSIは電気製品の小型化・高性能化を加速度的に推し進め、嘗ては大企業の電算室ワンフロアを占拠して稼働していた電子計算機より遥かに高性能のコンピューターが携帯電話のサイズで実現出来るまでになりました。

1970年代初頭にインテルによって日本製関数電卓用の制御素子として開発されたマイクロプロセッサーは、超小型であるにも関わらずメモリーチップに書き込まれたプログラムを書き換えれば大型コンピューターと同様に様々な計算をこなすことが可能でした。このためインテルとモトローラの2社を中心に、次々とより高性能のチップが開発され、1990年代には複雑な制御を必要とする機械・電気の殆どあらゆる分野の商品には何らかの形でマイクロプロセッサーが搭載されるまでになります。

マイクロプロセッサーが登場するまでの電子回路では、物理的な回路(ハードウエア)が分かれば、その回路の動作すなわち、与えられた入力に対して発生する出力との関係・入出力特性を決定することが可能でした。しかしマイクロプロセッサーの出現によって回路動作はそのプロセッサーに与えられたプログラムによって如何様にも変化するものとなり、物理的な回路(ハードウエア)が分かっていても、そこに組み込まれたプログラムが不明であれはその回路動作の詳細は解析できない状況となりました。

電子回路の故障探査は、その回路にある特定の入力を与えた場合、果たして予想される出力が発生するかどうかを様々な条件で検証し、その出力の発生状況から不良箇所を見つけてゆくのですが、この出力がチップに書き込まれた膨大なプログラムによって決められてしまうと、もはやプログラムが分からなければその出力も分からず、たとえプログラムが判明しても大容量のプログラムなど素人には解析も困難ですから結局回路動作も分からず故障探査も行えないことになります。

このため昨今の製品では、故障が発生した場合にはメーカーのサービスマニュアルに記載された手順で各部ユニットの良不を判定し、それに基づいてユニットごと新しいものと取り替えるのが、一般的な修理の方法となっているようです。

勿論マイクロプロセッサーが登場する以前から、ICの集積度は日を追って高まり、電子デバイスに詳しいものでないともはやこれら高度に集積化された素子の動作を解析することも困難となっていました。このため製品の内部に多数のICからなる電子回路が組み込まれていると、その製品が故障した場合、まず販売店レベルでの修理は難しくメーカーサービスに頼らざるを得ない状況となっていたたのですが、マイクロプロセッサーの登場によってこの状況に拍車が掛かることとなりました。

メーカーサービスにあっても、電子回路に多数のICが搭載された製品の故障修理では、修理箇所の特定は多くの場合その搭載基板のレベル迄で、故障の状況から問題と思われる基板を故障していないものと次々に入れ替えてみて、症状が改善すればその基板が不良と判断して修理を終えるのが一般的で、基板内に実装された部品をいちいちチェックして不良部品を交換するようなことはあまりやりません。

ことに昨今のように実装密度が高く、使用部品が極めて小さい場合には、いちいち分解して故障箇所を探すこと自体煩雑ですし、例え不良部品の特定が正しく行えたとしても、その部品を基板から取り外し新しいものを付け替える過程で、基板の配線パターンを傷めてしまう可能性が高いからです。発熱が大きく、部品自体もある程度の大きさを持つ電源回路に於いては、メーカーがサービスマニュアルで交換を指示するケースもありますが、大抵は基板やユニット毎交換するのが普通です。

こうなってくると、製品によってはいちいち分解して故障を直すよりも、新しい製品と取り替えたほうが人でも手間も費用もかからず安くあがる状況が出現します。基板に実装された個々の部品はCPU等を除けば安価なものですが、基板ごと交換するとなると予備部品としての値段は結構高いものに付きます。なぜなら予備部品は一定期間メーカー在庫としてストックする必要があり、その値段は保存期間の部品管理にかかる費用や資産にかかる税金、ときには修理サービスに要するる費用の一部をも勘案して決められているからです。

どのような業種でもそうですが、市販されているパーツを寄せ集めて製品を作ろうと思えば、その製品の販売価格の何倍もの値段となってしまうでしょう。このため修理にある程度高額の補修部品が必要となる場合、交換に必要な人件費や諸経費を加えると修理代が新品の販売価格に近い金額になってしまうため、修理すれば十分に使えるものであってもそれを捨ててしまって新しい製品に買い換えるほうが賢明になります。

結局現代では、個人にとってもメーカーにとっても、物を大事にして壊れたら修理して使い廻すやり方はあまりプラスにならず、もったいないのを承知で新品に買い換えるほうが有利となり、嫌でも資源のムダが助長される結果を招きます。ただし私の場合、過去に色んな設備や装置の修理・改造・設計等を職業にしてきたこともあって、壊れたからとすぐ買い換えることに強い抵抗を覚えるため、まずは自分で修理できないか調べることが普通です。

故障したらメーカーの修理サービスに頼る以外殆ど修理は不可能になっています。

もっともそんな日本も、直ぐにテレビ業界でアメリカ流のコメディ・ギャグ、バラエティー番組の模倣が始まり、勤勉で真面目な働き蜂を良しとした世の常識に弓引く番組やタレントが輩出して世の流れを企業・組織・主人に忠誠を誓う忠君愛国主義より、自分の考えや意志をよしとする個人主義へと変貌させてゆきます。