鈴鹿山脈の成立

鈴鹿山脈の成立

鈴鹿山脈は北から滋賀の霊仙山に端を発し、御池岳、藤原岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、御在所山、鎌ヶ岳、仙ヶ岳、高畑山、油日岳へと連なり県境となる主稜線の山々とその北西部に広がった朝日山、日本コバ、銚子ヶ口、イブネ、クラシ、雨乞岳、綿向山などの近江側の山群、および主稜線の南東部・三重県側に位置する雲母峰、入道ヶ岳、野登山などの山々の総称です。鈴鹿山脈が今日の姿をとるに至ったのは、新生代・第四紀以降で現在山脈東縁を形成する花崗岩が急速に隆起した結果であると考えられています。

白亜紀花崗岩帯

鈴鹿山脈の中でも竜ヶ岳の南面から、三池岳、釈迦ヶ岳、国見岳、御在所山、鎌ヶ岳、仙ヶ岳、高畑山、油日岳へと続く主稜線の山々には地表に花崗岩が露出して表層を覆い、これらは鈴鹿花崗岩と呼ばれも隆起を続けています。 

現在、鈴鹿花崗岩は鈴鹿山脈南部から竜ヶ岳南面に至る山脈主稜線部分を中心に地表露出していますが地下にはより広範に分布しているとみられます。これらは中生代の白亜紀後期から古第三紀・始新世にかけて南中国大陸の大陸縁にそって活動した長大な火山帯により地下深部で造られた花崗岩帯の一部です。

白亜紀花崗岩帯は鈴鹿だけでなく、全国的に広く分布し、この花崗岩帯によって高温度の変成を受けた領家変成帯と合わせて領家帯と呼ばれています。領家帯の花崗岩は県内でも鈴鹿山脈から南部の布引山地、高見山地へと広がりを見せ、県外では長野、愛知、滋賀など中央構造線以北の地域に広く分布しています。

また花崗岩を形成したマグマの一部は白亜紀後期から古第三紀の巨大火山として現在の琵琶湖東岸に噴出し湖東流紋岩類と呼ばれる火山岩を大量に地表に堆積させました。岐阜に分布する濃飛流紋岩類同時期の火山岩で湖東流紋岩類よりも遥かに広範囲の分布を見せます。

日本の地殻に残る中生代 後期白亜紀 から古第三紀・暁新世  の火成岩類 ( 産業総研・シームレス地質図より )

大陸縁に大量の花崗岩帯が形成される原因は、沈み込み帯に海洋側から定期的に中央海嶺が沈み込むためだと考えられています。これにより火山フロントに大量の花崗岩地殻を形成し、沈み込み帯の深部より高圧低温型変成帯の地表露出を招きます。

白亜紀花崗岩に対応するのは、白亜紀中期1.2-1.1億年前のイザナギ・クラ海嶺および白亜紀末から古第三紀初頭8000-6000万年前のクラ・太平洋海嶺の沈み込みだとのことで、鈴鹿花崗岩と初期湖東流紋岩類がイザナギ・クラ海嶺沈み込みに対応し、雨乞岳・イブネ、クラシ・永源寺ダム周辺の後期湖東流紋岩類がクラ・太平洋海嶺の沈み込みに対応して形成されたようです ( 出典8~10各論文、出典15.16 )

太平洋と大西洋に広がる巨大な中央海嶺  Manuscript painting of Heezen-Tharp World ocean floor map by Berann (https://picryl.com/media/manuscript-painting-of-heezen-tharp-world-ocean-floor-map-by-berannより)

この後に書く伊豆諸島の衝突と沈み込みでさえ日本列島の中央部の地殻に著しい変形と削除を加えましたから、長大な中央海嶺の沈み込みによる陸側地殻の変形は想像を絶するものがあったと思われます。

海溝の全面に渡って沈み込む海底火山群は海溝縁辺の陸側地殻に凄まじい圧縮応力を加え、地下深部から低温高圧型変成岩を地表へと押し出すとともに、膨大な花崗岩マグマを生みます。密度の低い花崗岩マグマも浮力と内圧によってその一部は地表に押し出されて火山となって、今日の日本全土に白亜紀後期から古第三紀初頭の広範な火成岩帯を形成しました。

同時に陸側地殻は著しい圧縮変形と削除を受け、このイベントによって海溝縁辺の地表へと押し出された三波川変成岩には、今日黒瀬川帯と呼ぶ空間的に100km以上も遠く離れた場所に存在した陸側地殻が三波川変成帯に塁重する形で乗り上げる変形の原因であったようです (その後中新世に起きた日本海拡大のイベントに於いても地殻の移動に伴い大量の西南日本の南部地殻が中央構造線に突き上げて削除を受け地殻の変形・再配列をうみます) 日本の地帯構造が南北方向に著しい短縮を受けているのは、過去に何度も発生した中央海嶺の沈み込みが主な原因と考えられてます。

しかし白亜紀後期から古第三紀・始新世、鈴鹿山脈から近江盆地に大量の花崗岩帯や湖東流紋岩類の火山岩を生んだ巨大火山が活動した時代、今の日本の大地はアジア大陸東縁、韓半島からサハリン周辺の大陸地殻の一部であり、まだ日本列島は存在しませんでした。

特に白亜紀末には隕石衝突によって地球環境は激変し恐竜をはじめとする中生代の生物が大量絶滅した悪夢のような時代であったわけですが、隕石衝突によって低下した気温も始新世の頃には回復して地球全体が温暖で安定した時代となったようです。中生代の生物群にかわり哺乳類、鳥類など新たな環境に適合した生物種が繁栄を遂げ、現在の日本にもこの時期の植物化石が大量の石炭となって各地に残っていますが、鈴鹿山脈の近辺では、三波川変成岩や四万十帯の付加体を除けば神戸層群の堆積層がこの時期の地質として残されているのみです。

白亜紀以降の地史・巨大火山活動の停止と準平原化

白亜紀後期から古第三紀初頭に活動した巨大火山帯はクラ・太平洋海嶺の沈み込みが終わるとともにその後活動を停止し、その後数千万年は穏やかな時が流れたと想像されます。大陸東縁の表層を覆っていた火山性地殻は風化浸食によって削り取られて大地は準平原化して行きます。浸食された大量の砕屑物は大陸前縁の海溝に沈み、その一部は大陸縁に付加して、西南日本の外帯にある四万十帯となりました。

この当時、今日の日本列島を構成する地殻は、幾つもの部分に分かれて中国と地続きのユーラシア大陸の一部であり、現在の太平洋岸から朝鮮半島、中国東北部、シベリア東部は連続した陸地であったと考えられています。日本海のある辺りも全て陸地が広がっていたようです。

上・始新世当時の東アジア東縁部の復元図  ( 出典10 中・「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」図版12Aより  ) 火山フロントの周囲には火山が造る巨大な山脈が連なっていたはずだが、3000万年ほどの歳月はこれらの多くを削り台地は平原化していっただろう

地質的にも始新世から日本海の拡大が始まる中新世の初頭まで、四万十帯と神戸層群を除けば当時の地質を記録するものは三重の近辺ではあまり見られません。白亜紀後期からの火山活動以降3000万年ほどの歳月は地表露出していた火山とその噴出物をあらかた削り取りってしまったはずです

新生代・古第三紀には西南日本の外帯側に四万十帯と呼ぶ付加体を大量に形成しますが、この付加体の源岩の多くが、風化・浸食によって海溝に運ばれた陸地の砕屑物であり、海溝堆積物のうち付加体として大陸地殻として再生産される割合は平均で17%程度(出典9 構造浸食作用・山本伸次 )とのことですから日本海が拡大する中新世の頃には、表層地殻の大半は風化によって海に運ばれ地表は準平原に近い状態であっただろうと想像します。

日本海の拡大と地殻の再編・日本島弧の成立

古第三紀・漸新世末から中新世初頭にかけて、日本の地殻を含んだ東アジアの東縁部の直下で小規模なプルームの湧昇が起き始め、日本海や渤海湾の拡大が始まりました。

地表に湧きだした玄武岩質マグマは方々でアジア東縁の地殻を分断して引き延ばし、多数の正断層が形成されて、地殻は薄化して沈降しました。地殻の亀裂部には火山が活動し、噴き出した玄武岩質マグマは海洋底となって日本海を太平洋側へと広げて海底や大地にはおびただしい量の火山噴出物が堆積しました。

日本列島に残された日本海拡大期の火成岩類 ( 産業総研・シームレス地質図より )

噴出するマグマに押される形で分断された大陸地塊は太平洋側へと数百kmも移動し、中新世半ば1600万年ほど前にようやく現在の日本の位置に落ち着き日本島弧を誕生させる大激変の時代であったわけです。

地殻の移動に伴って、その南東部では、移動してきた地殻と太平洋側のフィリピン海プレートおよび太平洋プレートとの衝突が生じ、衝突境界において移動量に見合った大規模な地殻の浸食・削除が行われ地殻の再構成が始まります。

日本海拡大期のアジア東縁地殻の分断と移動 ( 出典9中・「日本海の拡大と構造線」図版 8 より ) 拡大と移動の詳細は出典を参照願います

東北日本における収束境界は、日本海溝であったようですが、西南日本においては中央構造線が収束境界として作用し、中央構造線を境に移動してきた大陸側地殻が大量に削除されたと考えられています。

この様な大規模の移動と削除を裏付ける地質が、中央構造線の周辺に分布し現在黒瀬川帯や異地性の特異な地質帯の中に残されています。これらは中新世から日本海拡大期にかけて、今日の日本海側の地域に分布していた地殻が移動してきたものであることが近年の研究によって明らかにされつつあります。(出典1720他)

岩塊群のあるものは、黒瀬川帯がそうであるようにその周りを蛇紋岩に囲まれており、その誕生、地表露出後以降のある時期に一端は浸食作用を受けて海溝より地中へと沈み込み地殻深部で周囲を蛇紋岩に取り囲まれて上昇、再度地表に露出したものでその現岩は九州北部・中国地方日本海側から飛騨山地へと断片的に分布する長門・蓮華帯と呼ばれる地質帯と考えられており、今日の分布域からは100km以上も北側に位置します。

これらの岩石が中新世から日本海拡大期にかけて地殻の分断と中央構造線を滑り境界とする大規模な地殻の南への移動によって現在の場所に定置したと考えられています。西南日本の中央部の地殻を飛び越えたこのような大規模な移動の実体はまだ詳しく分かっていませんが、フォッサマグナの形成などとも深く関連した地殻の壮大な再編成であったのでしょう。

中央構造線以南の西南日本外帯は移動しませんでした。実際紀伊半島先端部には、白亜紀後期から漸新世・日本海拡大の直前までに海溝の陸側地殻に付加した四万十付加体がそのまま残っています。海溝が収束境界となれば、海溝の面にあるこれらの付加体は真っ先に削除されて海溝へと沈んでしまったはずで、西南日本では海溝が収束境界として機能しなかったことは明らかです。

多数の火山が活動して大量の火山噴出物を堆積させ、地殻は大陸から分断されて海洋上に何百kmも移動したなどと聞くと、まことにすさまじい天地異変の様な印象を持ちますけれど、これらはあくまでも何十万年、何百万年の時をかけて徐々に進行した出来事であり、陸地が移動したと言っても年間の移動量は最大で50-60cm程度ですから、当時この地に生活していた生物にとっては何ほどのこともなく、今日火山の近辺に暮らす私たち同様に平穏な生活を営んでいたと思います。

日本海の拡大と中新世堆積物

日本海の拡大は、今日の日本海の海底に多数の海底火山を生み海洋底を拡大させるとともに、分断された日本海周辺の陸域にも強い引っ張り応力を生み、薄化した地殻は沈降して日本全土に海進を引き起こします。またこの時期は地球全体が温暖化した時期でもあり海水面が50m程も上昇した(出典13 参照) ことも海進につながりました。

その結果中新世・日本海拡大期の終盤1600万年前頃には鈴鹿山脈の一帯は完全に海中に没し、地殻が沈降して盆地となっていた伊賀、甲賀、加太や津西部に大量の海成堆積岩層を形成するのですが、鈴鹿山脈においてはこの時期の堆積層が面白い分布を示すのです。

まず鈴鹿山脈南部には鈴鹿山脈を東西から挟み込むように鈴鹿層群が、また鈴鹿山脈西南部には標高400m以下の鈴鹿山麓に鮎河層群が堆積します。とちらも堆積の後期においては500m以上の海成堆積層です。

事に鮎河層群は鈴鹿山脈西縁と黒滝断層で接し、堆積初期の土山累層・唐土川層は礫層が主体で90%は付加体由来の礫ですが花崗岩礫も散在するとあり当時すでに西部には鈴鹿花崗岩の表層露出が見られたことが伺えますが、鈴鹿山脈の主稜線を形成する鈴鹿花崗岩ではなかったようです ( 出典2a 滋賀県鈴鹿山脈西麓の鮎河層群 )

出典中には吉田史郎氏により当時の礫の供給方向が詳細に論じられており、それを見ますと当時の山脈主部は付加体と花崗岩から形成された山地が西方の日野町から甲賀町にかけて存在し砕屑物を東方へと供給していたとのことです。

また東側より堆積物供給を受けたとみられる上位の黒川累層・鮎河礫岩層・丸田谷累層・上林礫岩層に在っては付加体由来の礫が殆どで花崗岩礫は含まれないことから鈴鹿花崗岩の表層露出がごく一部で鈴鹿山脈側の隆起はわずかであったと思われます。

鮎河層群に対する礫の供給方向は西側からの供給が主流で現在鈴鹿花崗岩による山脈主稜線が走る東からは少なくまだ少なかった

また鮎河層郡の上位に、千草層と呼ばれる中新世の海成堆積層が鈴鹿山脈東縁の断層線の東側に帯状に分布します。鈴鹿花崗岩が東縁断層沿いに隆起を始めたのは千草層堆積後1,500万年も経過してからだとすれば堆積当時は千草層に相当する中新世堆積物は断層の西側。今日の鈴鹿山脈エリアにも広範に堆積したと思われます。

面白いのは現在でも鈴鹿山脈の高所となっている山脈の主稜線で中新世堆積物が見られる場所が何箇所か存在し、五万分の一地質図幅・御在所山において鈴鹿山脈稜線の礫層として記載されていることです

これらは地質図幅・御在所山に拠りますと、北方より宮坂峠礫層(my)  大萩礫層(oh)  政所礫層(md)  相谷礫層(ad)  金山礫層(ky)  綿向礫層(wm)  仏峠層(H)と呼ばれており、どれも標高700mを越える山脈の稜線部分に分布していて、中でも金山礫層と仏峠層は、鈴鹿山脈主稜線上鈴鹿花崗岩を不整合に覆っていることです( 類似した礫層は仙ヶ岳南部の御所平の辺りにも見受けられます )

県境尾根・仏峠の礫層 鈴鹿花崗岩の稜線部分にチャート・砂泥質変成岩・湖東流紋岩類からなる礫層が分布する

仏峠層は地質図幅・亀山に拠りますと海成の鮎河層群相当とのことですから、金山礫層と仏峠層が堆積した中新世の日本海拡大期には鈴鹿花崗岩の主稜線部分は一部にせよ既に地表露出しており、海進とともに水没してこれらの堆積層で表面を覆われたことになります。

県境尾根南部の御所平。この辺りは中生代・ジュラ紀付加体と鈴鹿花崗岩の境界で名前のように平坦な地形が広がる

稜線上には付加体由来の砂泥質岩やチャートの角礫が散在するが湖東流紋岩由来の礫も存在し、湖東流紋岩類の堆積がこの稜線近辺にも及んでいたことが分かる

日本海の拡大と鈴鹿花崗岩の地表露出

中新世の日本海拡大期に、鈴鹿花崗岩が地表露出した原因は次のように考えられます。鈴鹿山脈を含む西南日本の地殻は、日本海の拡大に伴い地下から噴出したプルーム流によって大陸から分断され太平洋側へと数百キロ以上の移動を遂げますが、この結果、日本の太平洋側において既存の海洋地殻フィリピン海プレートと西南日本の地殻の追突が起こり、移動量に見合った分、西南日本の内帯側地殻が衝突域で砕屑されて消滅します ( 出典9・日本海の拡大と構造線 参照 )

このプロセスは中央構造線に沿って移動してきた大陸地殻が花崗岩帯底部の不連続面をすべり面として中央構造線に沿って地表に突き上げ中央構造線の南部に膨大な砕屑物を排出することで完結しますが、日本海拡大の最終期、西南日本の地殻がほぼ現在の位置へと移動したころには、鈴鹿花崗岩中央構造線の断層面に沿ってほぼ地表付近まで上昇したと見られます。

日本海拡大期の終盤、西南日本の地殻は引き延ばされて薄化しており、鈴鹿山脈一帯も海面下になり海成堆積物がその上に積もります。その南方に排出された移動に伴う砕屑物は風化と海蝕を受けて短期間に海溝側へと運ばれていったと考えられますが、西南日本の移動は鈴鹿山脈が中央構造線から100km程の距離を残して終わり鈴鹿山脈側までは激しい風化・海蝕が及ばずに中新世堆積物がそのまま残されたようです。

また地下深部で花崗岩マグマを大量に生み出した中央海嶺の沈み込みは、海溝縁辺の大陸地殻内部に強大な圧縮応力を生み出したわけですから火山フロント直下にあった花崗岩も、この圧縮応力により上昇していたと見られます。

仏峠層について地質図幅・亀山では、これらの堆積層が基盤岩(地表露出した花崗岩)の凹部を埋める形で堆積したこと、またそのためその後の陸化に伴う風化浸食を免れ、上手く現在の山脈稜線上に止まることが出来たと推察します。

このことは、多分他の稜線上の礫層についても言えることで、海進当時の平均的な地表面が現在平坦地形を残しているイブネ、クラシ、日本コバなどの1000m前後の標高ラインを当時の準平原であるとするなら、これらの礫層が残った稜線との標高差数百mが凹地形の窪みでしょうか

海進によってこれらの窪みは浸食された砕屑物で満たされ、その後の陸化に伴う風化浸食にも堆積層の厚さが幸いして開析を免れて稜線上に今日の姿で残されたと考えられます

出典6「瀬戸内区の発達史による瀬戸内区堆積物の年代・対比」付図2より 1992年発表の論文ですが、最近の論文と比べて年代対比に差が生じているが、現在もこの内容には大きな変化はない

出典14 「近畿地方の瀬戸内区に分布する下-中部中新統の生層序と対比」付図6より瀬戸内区中新統堆積層年代の相関図 2020年最新の論文では鮎河層群(Ayugawa G. )堆積年代が18Ma~17.3Maとある。中新世の最大海進が生じる16Ma以前にすでに鮎河層群堆積場が海面下にあったことがわかる

伊豆半島の衝突と貫入

日本海の拡大がようやく落ち着いた1500万年前頃、今度は太平洋側からフィリピン海プレートに乗って移動してきた海底火山群が本州弧の中央部に追突を始め、伊豆半島を形成し始めるとともに本州弧に食い込み陸地を押し曲げ削り取り始めます。

この部分は西南日本と東北日本の境界に当たり今日フォッサマグナと呼ばれていますが、日本海拡大期にはまだそれぞれの陸地が切り離されていて誕生したばかりの日本海同様に海洋地殻が広がっていた部分で、伊豆諸島は力学的にも地殻の脆弱な境界部分に追突した訳です

伊豆半島の追突と沈み込みは、本州中央部に著しい圧力を加え、本州の地殻は逆V字型に押し曲げられて地質帯の連続性も断たれてしまう。この力によって地殻深部にあった花崗岩には強い浮力が働き100万年ほど前から急速に上昇を始めたという ( 上: 産業総研 シームレス地質図より  )

伊豆半島が追突を始めた100万年前ころから衝突が本州弧に加えた圧縮応力はすさまじく、今日では中央構造線周辺の地質帯は逆V字型に押し曲げられ、追突前縁部の地質帯は削り取られて消滅し、追突によって発生した火山群の堆積物によって海洋底であった地溝部分は完全に埋設されています

また日本弧が海溝へと近づき日本海拡大の終焉とともに、日本弧の太平洋側地殻はそれまでの日本海拡大に伴う展張場からフィリピン海プレート沈み込みに伴う圧縮応力場におかれ地殻の隆起が始まります。この結果それまで海中に沈んでいた鈴鹿山脈の一帯も徐々に陸地に変わって風化浸食にさらされます。

瀬戸内火山岩類の活動

西南日本弧に対する、誕生間もないフィリピン海プレートの沈み込みは、海溝近くに高温のマグマを生み日本海の拡大終了とほぼ同時に、西南日本の太平洋側には瀬戸内火山岩類と呼ばれる大規模火山の活動が始まります。三重県では紀伊山地中央部を中心にして紀伊半島先端部から奈良、名張の辺りにまでも影響を及ぼした巨大火山の活動が始まります。

驚くべきことは、この巨大火山の火山堆積物は火口が在ったとみられる大峯・大台山地には殆ど存在しませんが、30~40km隔てた名張や曽爾、室生の一帯に室生火砕流堆積物として東西28km南北約15kmの範囲にわたって分布しその最大層厚は400m以上もあります。

室生火砕流堆積物が生んだ西連寺川沿いの景勝地・香落渓 ( かおちだに ) 四十八滝で名高い赤目峡谷もすべて同時期の火山堆積物に刻まれた渓谷

この火山の堆積物は、玉手山凝灰岩、石仏凝灰岩、古寺凝灰岩として大阪、奈良、京都にまで分布することが知られており火山爆発に伴う火砕流の噴出がいかににすさまじかったかを物語っています (出典11~12)

この火山の影響は当然伊勢湾西岸や鈴鹿山脈の一帯にも及び、おびただしい降灰をもたらしたものと想像しますが、既に隆起に転じて地表露出が進む環境にあったためその痕跡は風化浸食されて今日では残されていません。

中央肌色部分が室生火砕流堆積物分布域。その下方に環状の地層配列を見せる部分が給源の一つと見られている大台コールドロン ( 上図: 産業総研 シームレス地質図より  )

私の学生時代などは、室生火砕流堆積物は室生火山と呼ばれていて、室生や曽爾の辺りにその火源があった中新世の火山だと信じられており、大台・大峯山地に火山があるなどと考えていた人はいなかったでしょう。紀伊半島南部には熊野酸性岩類、潮岬火成複合岩類という同時期の火成岩類が分布しているのですが室生火砕流堆積物をこれらの活動を直接結び付けることはありませんでした。

現在、給源と見られる山地部分は古生代・中生代の付加体に覆われており表層に堆積したとみられる火山堆積物はほとんど見られません。この火山が活動した1500万年前ころには、多分まだ中央構造線以南の外帯地殻は移動してきた内帯から削除された大量の砕屑物が表層を覆い、高い山地となって激しい風化浸食にさらされていたはずです。

その上部を覆った火山堆積物もまたさらに激しい風化浸食を受けて短期間のうちにあらかた削除されてしまい、熊野や那智周辺の地殻深部で固結した花崗岩類と熊野から新宮に向け熊野灘に面して点在する獅子岩や鬼牙城などの岩塊から大台山地に向けて細い帯状の火砕流岩が残されているきりです。

地形的に火砕流の大半が中央構造線以北に位置し低地となっていた室生や曽爾の一帯へと流れたとも考えられますが、熊野側の火砕流分布の広がりは過去にはその上層を広範に火砕流岩が埋め尽くしていたとも考えられ、中央構造線を挟む南北での堆積状況の著しい相違は高地における風化浸食がいかに激しいかをよく物語っています。

給源に近い尾鷲、熊野の一帯でさえこのような状況ですから給源から遠い三重県中部では影響があったとしてもその後の隆起環境にあっては全て失われていたとしても不思議ではありません。

松坂から久居にかけて布引山地の東縁に沿って鮮新世に小山累層と呼ぶ扇状地堆積物と見られる礫層が堆積しますが、この礫中には火山岩礫が多数含まれており、その給源は室生火砕流堆積物由来( 出典 : 瀬戸内区の発達史 )と見られていますから、鮮新世の頃にはまだ布引山地にも大量の室生火砕流堆積物が削除されずに存在したようです。

東海湖の誕生と消滅

その後鈴鹿山脈の周辺では中新世から鮮新世にかけて地史的変化を記録するような地層は存在しません。このためこの時期は地史的変化の乏しい安定期と考えられ陸化した地表は風化浸食にさらされて平坦化していったと考えられています。ただし瀬戸内火山岩類が活動した中新世中期から更新世にかけては600万年程の開きがあるためこの間に鈴鹿山脈一帯がどのような地史的変遷を遂げたものかは不明です。

出典 6  瀬戸内区の発達史  吉田史郎より

鮮新世に入ると鈴鹿山脈東縁を境として伊勢平野側に東海湖と呼ぶ非常に大きな湖が形成されます。鈴鹿山脈北部に鈴鹿山脈に平行して東落ちの養老断層が生まれ鈴鹿山脈の東側に養老山地が発達するのもこの時期後期です (出典5~7)

養老山地の下部にもあるいは鈴鹿山脈同様に花崗岩があるのかもしれませんが、養老山地表層を覆っているのは鈴鹿山脈北部や伊吹山周辺と同じ古生代から中生代にかけての源岩をもつ付加体です。

また東海湖に続いて鈴鹿山脈の西部でもまず伊賀盆地から古琵琶湖が広がって行き、鈴鹿山脈の東西両側に東海湖と古琵琶湖と云う巨大な湖・が誕生します。その結果これらの湖成堆積物とその周辺部の陸生堆積物によって周辺地史を推理する手がかりが得られるわけです。

上の瀬戸内区の古地理変遷の第4図を見ると古琵琶湖が発達した300万年から100万年前には大阪湾から瑞浪や中津川の辺りにまで淡水域が広がります。これは瀬戸内海から連続する沈降帯であり、南海トラフの沈み込みに伴う圧縮応力が生んだ褶曲構造の沈降部分だと解釈できます。

これに対して鈴鹿山脈と東海湖、琵琶湖の場合、南海トラフの南北方向の圧縮場とはむしろ直行する東西方向の圧縮場による断層形成によって生み出されておりその源は、太平洋プレートの沈み込み及び伊豆諸島の本州弧中央部への追突に求められるようです。

東海湖は西上がりの鈴鹿山脈東縁断層群によって鈴鹿山脈が隆起したのと反対に東側は断層に沿って地殻が沈降して巨大な淡水湖となり、亀山や御在所周辺では沈降量が1500m~~1800mにも達しました。最初は松阪の辺りから始まり、徐々に北へと範囲を広げて沈降した部分には隆起した鈴鹿山脈および木曽三川の河口方面より砕屑物が供給され東海層群と呼ぶ鮮新世堆積層が形成されました。

出典 地質調査所 地質ニュース546号 中部地方南部の古地理 吉田史郎他 より

その後東海湖は東濃地方にまで拡大し、300万年頃から鈴鹿山脈、布引山地、養老山地が隆起を早め(この原因は伊豆半島の衝突による地殻の圧縮応力増加と見られます)それにつれて湖も縮小して消滅します。

一方300万年前ころから現在の伊賀盆地の辺りに湖が生まれ古琵琶湖層群の堆積が起こります。この辺りは日本海拡大期に早くから海進の起きた場所で現在も伊賀から加太に至る一帯は盆地となっていますが、その辺りに今日の琵琶湖の前身となる湖が生まれたわけです。

出典 7b 古琵琶湖層群 川辺孝幸 より

現在伊勢湾の西岸地方には2000m以上の層厚をもつ東海層群が地表露出しており、亀山や御在所地区では亀山累層の堆積層厚は1500m以上です。これらは今日地表にありますから地層が斜行して隆起したことを差し引いても平地部分で数百mの隆起があったものと思えます。このことは鈴鹿山脈や養老山地を隆起させた一志断層系や養老断層の東落ちの断層運動と矛盾するようにも見えますが、地史上の事実ですから、東落ちの断層運動を上回る地殻全体の隆起があったわけです。

その反面、1600万年前の日本海拡大最終期の堆積層・仏峠層( 地質図幅 亀山によると海成層の鮎河層群相当 )の存在は鈴鹿花崗岩の上昇が中新世以降高々1000m前後であったことを示唆します。現在鈴鹿山脈稜線上850m程の標高にある仏峠層は基盤岩の鈴鹿花崗岩上に不整合で堆積しておりすでに鈴鹿花崗岩が表層露出していたこと、また堆積当時の海底面が今日の海水面下500mで有ったとしても今日までの隆起量は1500mを下回るわけです。

もし鈴鹿山脈の急速な隆起が100万年前後から始まったのであれば、それ以前の1500万年以上の間ほとんど地殻の上昇がなかったことになります。とすれば鈴鹿山脈一帯の地殻は地表露出して以降1000万年以上大して隆起もせず風化侵食にさらされていたわけで急激な隆起が始まったと考えられている100万年前前後にはほぼ準平原化していたとみなせるでしょう。山脈西部に見られる平原状地形はこの頃の地殻の記憶とも言える訳ですが、100万年前後から隆起したとの説も近年の三角測量データーを元にしてその隆起量を推測したものですから、今日GPS測量のデーターをみるとその根拠もかなり怪しいものになります。

東海湖に堆積された東海層群の堆積状況をみると500万年ほど前には湖の西方に大量の花崗岩質砂礫の供給源があったことが分かりますから、鈴鹿山脈の隆起が始まったのは日本海拡大が始まってから継続的に行われたと考えるのが妥当だと思われます。

出典

1:五万分の一地質図幅 御在所山地域の地質

2:五万分の一地質図幅 亀山地の地質

2a:地質調査所月報 ( 第29巻 第7号 ) 滋賀県鈴鹿山脈西麓の鮎河層群 吉田史郎

3:五万分の一地質図幅 津西部地域の地質

4 :石油技術協会誌 第64巻 第1号 最近の古地磁気層序の改定と日本の標準化石層序 斎藤常正

5:地質調査所月報 第41巻 第6東海層群の層序と東海湖盆の古地理変遷 吉田史郎

6:地質調査所月報 第43巻 第1/2号 瀬戸内区の発達史 吉田史郎

7:URBAN KUBOTA No.29 東海層群 3 伊勢湾西岸地域地域 吉田史郎

7b : URBAN KUBOTA No.29 古琵琶湖層群 川辺孝幸

8:地学雑誌2010.119(2) 日本列島形成史と次世代パラダイム Part Ⅰ 各論文

9:地学雑誌2010.119(6) 日本列島形成史と次世代パラダイム Part Ⅱ 各論文

10:地学雑誌2010.120(1) 日本列島形成史と次世代パラダイム Part 各論文

11:地質学雑誌 第113巻 第7号 紀伊半島北部の室生火砕流堆積物と周辺に分布する凝灰岩の対比およびそれらの給源  山下  透 他   及び地質学雑誌 113巻7号 掲載の中新世火成岩類関係 諸論文

12:地球科学 60巻 2006 紀伊山地中央部に見られる弧状および半円形の断層・岩脈と陥没構造  佐藤春夫・大和大峯研究グループ

13:地質技術 第10号 日本列島に記録されるMMCO  乙藤洋一郎

14:地質学雑誌 第127巻 第7号 近畿地方の瀬戸内区に分布する下-中部中新統の生層序と対比  入月 俊明

15:地学雑誌1991.100(5) 日本におけるプレート造山論の歴史と日本列島の新しい地体構造区分 磯崎 行雄, 丸山 茂徳

16:地学雑誌2004.113(5) 広域変成作用論の革新的変貌 丸山茂徳 他

17:地学雑誌2015.124(4) 飛騨帯と中央構造線何円との弧横断方向の関連 中畑浩基 他

18:地学雑誌2016.125(3) 関東南部の浅海成白亜系の砕屑性ジルコンU-Pb年代スペクトル  中畑浩基 他

19:地学雑誌2022.131(4)西南日本弧白亜紀前弧盆地の西端とその後背地 吉田 聡 他

20:地学雑誌2018.127(1) 白亜紀日本の善狐盆地砕屑岩とその後背地 堤 之恭 他

 その他 地学関係論文各種

花崗岩の隆起と浮力

他の岩石に比べて重さが軽い花崗岩に浮力が働いて隆起するとの記述が地学の記述でよく見られますし私もサイトで時折使います。私の様な素人だけでなく地球科学を専門とするプロの研究者の文章においてもみられる記載です。

しかし浮力はあくまでも水や油の様な流体中における物質の挙動にかかわる概念であって地殻のように固体であるものの中にある物質に対しては意味を持ちません。

流体内の物質が自由に移動できるのは、移動方向の前面と後面で流体の入れ替えがスムーズに行われるからで、固体中の物質にあっては、たとえ砂や粉体のような割と流動性のある固体中にあっても、周囲の固体は押し分けようにも運動方向の前後で固体の入れ替えを行って固体を流体のように挙動させることはできません。

砂の中に埋めたボールは押しつぶされはしますけどそのままでは砂の表面に浮かび上がることはできず、起震機で固体全体を激しくゆすぶらない限り表面には浮かび上がりません。

地殻物資は地殻深部の高温高圧化では長いタイムスケールでみると流体的に挙動すると言われますが、地表近くの地殻上部でそのようなことはありえず、地殻下部から花崗岩が上昇するには上にある個体地殻を重力と個体間結合を断ち切ってを断層形成しながら上部へと押し上げる以外にありません。断層形成をするには花崗岩帯上部地殻の縁面において上部地殻の岩石をすべて剪断破壊して押し上げるわけですから、上部地殻の重量と剪断破壊に必要な力に打ち勝たねばならず、その応力は大変なものだと思われます。

この場合には花崗岩の下部に働く地殻の圧縮応力は花崗岩の上部に働く力に打ち勝って僅かに地殻を押し上げることが出来るわけで、それで生み出されるはずの下部のスペースは高温高圧化で圧縮されている下部地殻の圧力が減じてその分地殻が膨張することで移動方向の後方での固体の充填が行われるようです。

これはアイソスタシーで地殻全体が浮き上がるといった問題とはまた質が異なるもので、鈴鹿山脈が東縁の一志断層系と西縁の近江側断層を境界にして隆起した場合に当てはまるものですが、単純化しない限りモデル化して隆起量を計算することも困難です。

以前には、定点測量のデーターをもとに日本アルプスや鈴鹿山脈の隆起が論じられ第四紀更新世以降に地角が大幅に隆起したとの論調が見られましたが、近年GPSによる定点観測の精度が向上した結果国内各地の地殻変動量が高精度で求められるようになり、それらのデーターによると土地の隆起を安易に論ずることが非常に難しくなってきました。

上の2枚の地図は国土地理院の地殻変動情報サイトによる鈴鹿山脈周辺名部の1年間と10年間の垂直方向の地殻変動量を楠町の観測データーを基準にしてベクトル図として表したものですが、1年間と10年間とでは変動傾向が全く正反対になっている地域が多く存在します。

このことは短期的な地殻の変動量で長期的な変化を予測することの難しさを端的に示しています。基準点の楠と比較して10年間の変動が少ない大安Aでも2cm/10years程度の変位がありますから、この数値が以降も続くとすれば100万年で2km標高差がつく計算になります。周辺地域には更に何倍もの変動量を示すところが多数ありますから隆起量が5km以上に達する場所も方々に見られますし、その逆に琵琶湖周辺では5km以上も地盤が沈降する場所が幾つも見つかります。地図を拡大するとその傾向がさらに顕著になります。

上は地図を拡大し、表示ベクトルの倍率を20%に短縮したものですが、この傾向がそのまま100万年間継続するなら、西南日本の南半分は大山脈となり北半分は深海へと沈んでしまうことになります。果たしてこのような変動が起こり得るものでしょうか。

短期的にこのような大きな変異が生じる原因は、沈み込むプレートの固着・摩擦による変位が滑りによって解放され周期的に大きな変動を生じるためで、長期的な動きはこのような短期変動の要素を除外しないと評価できないことに拠ります。

過去の地形変化を見てもこのことは明白で、東海湖が存在した100~500万年前の頃には伊勢平野の大半は湖底に沈み私の暮らす芸濃町や亀山のあたりでは水成堆積層の暑さは1km以上にも達しそれだけ地殻が沈降していたことを示していますが今日のGPS測量ではこの一帯は隆起が顕著です。

これらの事実は花崗岩の浮力云々よりも遥かに複雑で巨大な変動であり、山脈隆起の要因としてこれまで言われてきた浮力によるセオリーはあるいは全く意味を持たないのかもしれません。

国土地理院によって公開されている日本の重力値との相関ではおおむね高重力の場所が隆起量が多くなっていますから、浮力による隆起とは正反対の傾向がみられるわけです。

以上は地殻変動の垂直偏移ですが水平方向の移動量は、下のベクトル図でも分かるように垂直偏移を更に上回る結果となります。

楠を基準点として1年間の水平方向の変位を表示したもので、プレートの沈み込みに合わせて日本を東西に圧縮する力が加わっていることが分かる。基準点からの距離が離れると変位量は年間で5cm以上にもなるが、100万年で50km程ですから或いは大した移動量ではないのかもしれない。

しかし日本海の拡大後、日本列島は沈み込み帯近傍の島弧として今日まで存在し、ユーラシア、北アメリカ、フイリピン海、太平洋の4つのプレート境界に置かれて絶えずプレート間のせめぎ合う応力を受けて来ました。その力は時として今日上のベクトル図に現れたよりも遥かに大きく複雑であった可能性も高いわけで、垂直成分だけ見てもこのような大きな変動に中新世以降1000万年間もさらされ続ければ日本の地殻は極めて動的な変化に富み今日その地史を再現することも困難な気がしてきます。

上にの図にある通り水平方向の変位においては楠から200km程離れた金沢辺りでも1000万年では200~300kmの変位となりもはや日本列島の輪郭さえ分からないくらいになってしまいます。これは今日の日本島弧の原型が作られたのは日本海拡大後1500万年ほど前との一般的な論調とは矛盾する話です。

これらのベクトル図から分かることは、地殻の変形がプレートテクトニクスが仮定する一様な動きの剛体ではなく、場所によって複雑に変形するむしろ流体にさえ近いのではないかと思えることです。これらを考え合わすと地殻の変化をモデル化してその挙動を予想することの困難さを思わずにはいられません。